長州より発信

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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

防府市を車で散策していると、聞き慣れない神社の小さな看板が目に留まりました。
車を止め読んでみると興味をそそられる内容ではないですか?
車道から神社は見えるのだが、入口が分からない!!!
暫く周囲をうろうろしていたら、住宅地の狭い路地道を見つけました。
そこを入っていくと参道がありました。土地の人でないと知らない道ですね~


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江戸時代の三田尻(防府)は、長州藩の要衝として重視されたことがうかがわれます。
当時の三田尻は、萩城から続く萩往還の終点として、又、瀬戸内海側における長州藩の
玄関口であった。江戸時代初期には、海路で参勤交代へ向かう出発地でもあった。
1654年(承応3年)に長州藩の第2代藩主・毛利綱広が萩往還を造った際に、
三田尻御茶屋を築造するなど、大いに栄えた。
しかし、後に参勤交代が海路から陸路に変更されるに及び、その役割は限定的なものと
なった。


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● 萩往還: 萩城下唐樋から三田尻御茶屋までの約53kmの街道で、 大名の参勤交代の道として整備され 、
また日本海側と瀬戸内海側とを結ぶ道として、多くの人々に利用されました。
● 英雲荘 (三田尻御茶屋) : 藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩や宿泊等、また迎賓に使用されまし た。
● 三田尻御舟倉: 藩主の御座船や軍船が常置され、水軍の根拠地でした。

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大政奉還が行われたのと同じ日、朝廷から長州・薩摩藩に対して幕府を武力で倒すようにと
いう討幕の密勅が出されていました。将軍が政権をみずから朝廷に返したことで政治の主導
権を旧幕府側に奪われることをおそれた長州・薩摩両藩は王政復古を宣言し、反発にそなえ
て両藩の兵を京都に送ることにしました。
長州藩の諸隊は鞠生松原(まりふのまつばら)に集まり、八咫烏(やたがらす)を祀った
小烏神社(こからすじんじゃ)に毛利内匠藤内を総大将、楫取素彦を参謀、山田顕義を総指揮官とする長州軍1,200人が討幕の必勝を祈願した後、6隻の軍艦で小田港を出発して京都に向かいました。
この時に出発した諸隊は、翌年の1868年(明治元年)の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍と戦う時の主力となりました。


● 毛利内匠藤内(もうり たくみとうない): 長州藩一門家老である右田毛利家の12代当主・毛利親信

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このあたりは幕末には松林が続く海岸が広がっていましたが、今は埋め立てられ、
現在は○○松原と言うように松原の面影はありませんが、小烏神社の周辺に見られる
松の木が当時の名残りではないかと推測します。


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# by kfujiken2 | 2017-05-20 11:10 | 歴史 | Comments(0)
文教の地・三田尻(現 防府)に、貞享3年(1686年)萩の明倫館ができる約30年前に河野養哲が三田尻に
越氏塾(えっしじゅく)を創設した。己の名利を捨て、人材教育にその生涯をかけた、まさに山口県教育の
原点とでも言うべきものである。養哲の死後、越氏塾は三田尻宰判の公費でまかなわれる学校となり、
その後数度の統廃合ののち、元治元年(1864年)には三田尻講習堂という塾名となった。
明治5年(1872年)建物はそのまま華浦小学校となった。楫取素彦(当時:小田村伊之助)は、
吉田松陰が処刑された翌年、万延元年(1860年)に越氏塾の塾長相当として派遣され、教鞭を執りました。
校内に残された碑には「越氏塾後に学習堂と曰い、講習堂と曰い、遂に華浦小学と曰う」と、
明治41年10月に男爵楫取素彦により設置された越氏塾沿革の碑に刻まれている 。


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大きい方の石碑は河野養哲碑
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小さい方の石碑は越氏塾沿革の碑
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河野養哲の説明を少ししましょう・・・

寛文元年(1661)三田尻の御舟手組の中船頭河野彦兵衛の二男として生まれ,、幼少の頃,父の同僚の家に
養子に入り、その家を継いだ。しかし成長するにつれて水軍の船頭という仕事に馴染むことができず
夜ひそかに書を読んで学問にはげんだ。彼の人生の最大の望みは子弟の教育にあたることにあった。
彼はついに自分の意にそわない船頭役をしりぞき,ついで養家からも去った。

浪人になった養哲は,暮らしをたてるために医業をいとなんだ。医者としての彼は,貧しい家に往診しても
一文の謝礼も受け取ろうとせず,一方,おごり富む家からいくら金を積まれても往診しようとはしなかった。
しかし,医業も彼を満足させるものではなかった。

25才頃,三田尻にかねてから念願の私塾を開いた。養哲の祖先は伊予水軍の越智氏の出であったので,
塾名を越氏塾と名付けた。塾には藩士の御舟手組の子弟や百姓の子弟が身分にかかわりなく同席して
学んだ。養哲はその収入の塾をひらくかたわら医者としても働き、その収入のすべてを塾の経営に
つぎ込んだ。

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# by kfujiken2 | 2017-05-16 16:48 | 歴史 | Comments(0)
一昨日山口市仁保の「一貫野の藤」に行きました。
シーズン中は県内からだけでなく、県外からも多くの人が訪れ、
特にカメラマンの方にとっては絶好の撮影スポット。
おそらく人気の秘密は、藤の下を流れる水の流れを一緒に見れるからでしょう。
滝とまでは言えませんが渓流と藤・・・
このコラボは他に例えようのない美しさがあります。


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苦言を一言言わせて頂きますと・・・
藤は花後に実ができます。実を付けたままにしておくと栄養がそちらにとられて
木の生長が弱くなるので、枯れた花房や実をこまめに取らなければ駄目だそうです。

また、藤は剪定が必要らしいそうです。以前から毎年観に来ているので感じるのですが、
つるが伸びすぎて覆った感じになっています。地区民の人が管理・整備をされているんでしょうが、
川の上につるが伸び、建物2階くらいの高さがありので剪定は大変でしょうね!!! 

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天気が良すぎてハレーションを起こします、PL サーキュラーがあればいいのですが!!!
構図を下げ更にアンダー気味に撮影してみました。

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# by kfujiken2 | 2017-05-13 09:04 | | Comments(0)
現在、趣味の地方史研究の一環で、「防長二州における医学教育」というテーマで色々調査・
撮影・ 編集を進めている最中なんですが、山口県の医学教育の中核的存在であった華浦病院・医学校跡を見つけ撮影して来ました。


山口県立華浦病院・医学校跡(松原児童公園)
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説明碑 の拡大です。
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華浦医学校の様子
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山口大学医学部の防長医学史からお借りして来ました「華浦医学校校舎・生徒写真」です。
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1874年(明治7年)、現在の防府市松原町・松原児童公園内に華浦医学校(かほいがっこう)と
華浦病院が設立されました。華浦医学校は医者を育てる場であり、県内でも最高の医学知識を身に付ける
ことができる研究の場でもありました。外国から人体模型や器械を輸入し、最新の書物が翻訳
されて提供されました。 一方、華浦病院では収入の低い人については治療費が無料になり、
看護してくれる人もつけてもらうことができました。また、病院長は山口県内の衛生面に関して
指導をする立場にありました。いかに、華浦医学校や華浦病院が、山口県の中で高い地位に
あったかがわかります。まさに病院として、そして学校として理想の姿だったのです。
しかし、運営するための資金が不足したことや学校に関する法律が改正されたことにより、
華浦病院は1877(明治10年)に、華浦医学校は1883年(明治16年)に廃止されました。
病院と医学校が置かれたのは短い期間でしたが、医学校で学んだ人々の中には、その後医者に
なった人や、県内の衛生状態が良くなるよう指導にあたった人もいます。卒業生のなかには、
日本で初めて体温計を作った柏木幸助[かしわぎこうすけ]もいます。


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# by kfujiken2 | 2017-05-09 11:36 | 歴史 | Comments(0)
光市の山口県スポーツ交流村・スポーツジムで運動の帰りに、虹ヶ浜が大変賑やかそうなので
寄ってみました。GWということで人も多いが、なんと!鯉のぼりの団体さんです。
「虹の鯉のぼりプロジェクト」が開催されていたんです。


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東日本大震災を忘れない為、そして津波の犠牲となった子どもたちへの鎮魂の思いを込めたプロジェクト。
2013年、地元の浅江中学校の生徒が「シンサイミライ交流会」に参加したことのご縁で賛同した「青い鯉のぼりプロジェクト」(宮城県東松島市で行われる、東日本大震災で犠牲になった子どもたちが天国で寂しくないよう青い鯉のぼりを掲げるプロジェクト。)
中学生たちの想いを大切に、私たちも鯉のぼりを集め、青い鯉のぼりは青い鯉のぼりプロジェクトに送り、残った真鯉、緋鯉を、お父さん、お母さんも見守ってるよという思いで、東松島市と空と海で繋がっている光市虹ケ浜に掲げます。


子供が鯉のぼりを捕まえ、砂浜に鯉のぼりの影が泳いでいます。
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一体何匹いるんでしょう???
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風が強く鯉のぼりがなびくと、まさに泳いでいるかのようです。
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# by kfujiken2 | 2017-05-04 16:31 | 未分類 | Comments(0)
一昨日好天に誘われて、光市・浅江神社のシャクナゲ苑と冠山総合公園のぼたん園を
花めぐりして来ました。


浅江神社の北側に駐車場があるため、丘の斜面に広がるシャクナゲ苑から登りました。
約45種、850本余りのシャクナゲがあると言われていますが、そんなに数があるかなぁ~
満開の時期は終わってしまったらしく大輪の美しい花は、残念ながら落下しています。

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冠山総合公園は梅園で有名ですが、他にも薔薇、牡丹、菖蒲と四季折々に楽しませてくれる
花々が咲きます。4月15日~4月30日までの期間、百花の王と言われるぼたん祭が開催されます。


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冠山総合公園のぼたん園はオオデマリが迎えてくれます。
「オオデマリ」と「スノーボール・テマリカンボク」はよく似た花で、私には区別がつきかねますが、
見分けるコツは、葉の形だそうです。オオデマリは丸い葉ですが、テマリカンボクは葉に深い切れ込みが
あります。画像をよく見ますと丸い葉なので、オオデマリではないかと思います。


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ぼたんの黄色とバラの青色を創り出すことが難しかったようですが、
島根県の大根島で長年の研究で、交配に交配を重ね「ぼたんの黄色」を創り出したと聞いています。
又、バラの青色は何年前だったか、完全な青ではないがソニーが創ったと聞きました。


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# by kfujiken2 | 2017-04-30 16:57 | | Comments(0)
三田尻は江戸、京都、大阪、長崎に並ぶ西洋医学の先進地と言われている。三田尻には能美洞庵、佐伯玄厚、南部伯民、 荒瀬桑陽など多くの蘭学の大家がいました。

梅田幽斎は文化六年(1809)江戸で生まれ、坪井信道のもとで蘭方医学を学び、
宍戸丹後の臣下の医家として、三十四歳の時に三田尻新道に開業、同時に塾を開きました。
塾の名前は盥流亭(かんりゅうてい)、沈流亭と称していました。梅田幽斎は学識も相当あり、又、才気煥発の人であったので大いに流行し、教えを請う者も多かった。
梅田幽斎は江戸、三田尻を往来し知識を広め、 長崎にも行き、当時多くの人々が死亡、恐れられていた伝染病の天然痘を予防できる種痘の方法を学び、 蘭書モヨールを翻訳し「牛痘徴候論」として広め、長州藩が実施する前に三田尻でいち早く種痘を実施しましたが、藩により差し止められた。
文久元年四月、三田尻の医師・秋本岱寿の息子の秋本里美とともに医学館好生堂御用達を命じられ、藩の蘭学教授にあたった。
文久三年には銅山試験用掛・今津太郎を手伝うなど長州の医学者、科学者として活躍しましたが、 明治初年に阿東町での鉱山事業に失敗、明治三年七月八日、失意のうちに教え子の医師の山根秀策宅(宮市)で亡くなりました。享年六十二歳、光妙寺に墓があります。
もう少し長生きをしていたら、大村益次郎の師として尊敬されたでしょう。


光妙寺 山口県防府市東三田尻1-8-18
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梅田幽斎の墓

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村田蔵六、のちの大村益次郎は、天保十三年、 十八歳の時に鋳銭司から二里を歩いて1年間通塾し、蘭学の初歩ぐらいはひと通りできるようになった。
しかし、梅田幽斎は、医学、蘭学の大成には、さらに漢学の深い素養が必要であるとして、益次郎を、豊後国日田(現・大分県日田市)の広瀬淡窓(ひろせ たんそう)の塾・咸宜園(かんぎえん)に入門させたが、天保十四年一年後に梅田幽斎の塾に復学をし、更に大阪の適塾に入門しています。梅田幽斎は、弟子がある程度になると、更に上級の塾に入らしめ、更なる研鑽を積むよう勧めるのを常としていたようです。

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# by kfujiken2 | 2017-04-26 10:43 | 歴史 | Comments(0)
薩摩藩のそうそうたる顔ぶれの藩士が写っています。
佐世保の鎮守府に勤めていた人が持っていたそうですが、人を介してお借りしました。
この写真が本物なのか、偽装されたものなのかは分かりません!!!
著作・発行者は名越佳次郎と記名があり、シールも貼ってあります。
下記でご紹介致します「フルベッキ群像写真」と撮影した人は別ですが、
幕末の志士で著名人を一堂に会して、撮影している点がよく類似しています。
「十六先生之肖像」とは、西南戦争の幹部を意味しているのでしょうか・・・
それならば敵の政府軍に所属したいた大久保利光が、写っているのが不自然だし、
単に薩摩藩の藩士を撮影したのか、理解し難い???


画像をクリックすると大きな画像になります。


写真に番号が記してあります。
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「十六先生之肖像」の番号が写真に記してあります。西郷隆盛はよくご存知と思いますので説明は省きますが、他の人を簡単に説明致します。

1・西郷隆盛
2・村田新八:1866年、長州藩の伊藤博文らとともに上海訪問。明治維新後も、岩倉使節団の一員として欧米視察。生来の器量とともに、豊富な海外視察経験により、西郷の腹心であった桐野利秋や篠原国幹をしのぐ評価を得ていた。
3・大久保利通:小松帯刀とともに、島津久光の側近として藩政改革を推進。明治維新後は、盟友だった西郷隆盛とは、征韓論で対立(明治6年)。西郷らを失脚させることで、初代内務卿に就任。結果的に政権内での実権を掌握することとなる。
4・篠原国幹:明治維新後の新政府では陸軍少将。征韓論で敗れた西郷が下野すると、篠原も職を捨て、後を追って鹿児島に帰った。
5・大山綱良:廃藩置県後、鹿児島県の大参事、権令(県令)となる。
6・永山盛弘:人柄温和にして義に富む。明治4年陸軍中佐、北海道屯田兵の長。
7・村田三介:西南戦争では小隊長として薩摩軍にくわわり、熊本県の植木での戦いで政府軍の乃木希典少佐の軍旗を奪ったという薩摩軍からしたら素晴らしい功績を残した。
8・辺見十郎太:維新後は鹿児島常備隊小隊長、近衛陸軍大尉となる。勇敢な薩軍の中でも特に抜群の武勇を誇り、仲間からの信頼も厚く、弾雨の中を先頭きって突撃する辺見を見てみな勇気づけられたという。
9・桐野利秋:維新前は中村半次郎を名乗っていた。西郷隆盛の右腕であり、護衛役でもあり人斬り半次郎と恐れられていた。
10・貴島清:若きより鎗術の名手として有名であったが、学問にも秀で、文武両道を兼ねていた。
11・山野田一輔:明治期の鹿児島県士族。近衛大隊副官に任命されたが西郷隆盛に従い辞任。西南戦争で戦死。示現流の遣い手だったそうです。
12・小松帯刀:薩摩藩の家老。島津久光の側近として藩政に進出。大久保利通らと藩政改革を推進。薩長同盟の土台づくり、イギリスとの友好に尽力など、その才能をいかんなく発揮。
13・高城十次:不詳
14・別府晋介:桐野利秋は従兄。征韓論の政争で敗れた西郷隆盛が下野すると、桐野利秋らとともに追随。陸軍少佐という職をなげうって鹿児島に帰る。その後、青年教育を目的とした「私学校」創立に、西郷や桐野らとともに尽力。 負傷した西郷を介錯すると、自らも命を絶った。
15・永山盛武:永山盛弘の弟 西南戦争田原坂で政府軍を迎え撃ち、円台寺山で討ち死に。
16・児玉八之進:明治4年近衛砲兵少佐となるが6年辞任して帰郷。10年西南戦争に薩摩軍小隊長として従軍。熊本県八代に上陸した政府軍との戦闘で同年3月26日戦死した。


写真の裏に貼ってある名前のシールです。
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「フルベッキ群像写真」を知っていますか? 見たことありますか?

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「フルベッキ群像写真」というのは、オランダ出身でアメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師グイド・フルベッキとその子を囲み、佐賀藩が長崎にもうけた藩校・致遠館の生徒を写真家・上野彦馬のスタジオで撮影された西郷隆盛、 大久保利通、坂本龍馬、伊藤博文といった明治維新の功労者 46人が写っているという集合写真です。
いったい何時どこで撮られたものか、このメンバーが極秘裏に一堂に会することがあったのか。
写っている人物は、本当に「西郷隆盛」なのか、 「坂本龍馬」なのか、まったく謎だらけで歴史考証的には幾つかの疑問や謎がある写真である。


この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』(博文館)で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、
高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文を発表した(2年後の1976年にはこの論文の続編を同誌に発表)。島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。佐賀の学生達として紹介された理由は、「敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした。
この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていた。また、1985年(昭和60年)には自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという。また、2004年(平成16年)には、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。


2006年2月5日付の東京新聞に載ったフルベッキ写真の関連の記事
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# by kfujiken2 | 2017-04-21 11:56 | 歴史 | Comments(0)
4月8日の早朝から霧雨が降る中を、昼近くになったら晴れることを期待して、
車で国道2号線を東に向かって走り、高森を過ぎ岩国に入ると前方に春霞(はるがすみ)がかかり、山あいは見えにくい状態でした。
桜見物が目的だが、見物客が多く駐車場の確保に苦労することを覚悟し、
毎年見ている花見より視点を変え、錦帯橋の展望に重点を置き歩きました。


画像をクリックすると大きな画像になります。

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吉香公園の堀に面して立つ錦雲閣は大変風情があり、まるで一幅の日本画を見るようです。

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岩国徴古館の前にあり、吉香公園の堀の土手に咲く古木の吉野桜です。

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対岸に遊覧船が浮かび、川面に桜が写る画像は絵になります。
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さて橋の裏面はどうなっているのでしょう!!! ここまで春霞が入り込んでいます。
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吉香 鵜の里(きっこう うのさと)は、3月30日に完成した錦帯橋のう飼で活躍する
『鵜』の新しい飼育施設です。
金網越しに鵜の様子やトレーニングなどを見学できる飼育スペースです。

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お食事タイムです。飼育者が口に魚を放り込んでいます。
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岩国を後にし、しだれ桜で有名な平生町の般若寺に行ってみました。
巨木ではありませんが見事なしだれ桜です。春霞に包まれている桜はどう表現したらいいのでしょう?

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仁王門の真ん中に夕陽の沈むお寺で有名らしいですが、霧にむせぶ仁王門は神秘的で崇高な感じがしました。
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終わりになりましたが、金剛力士像の阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)で閉じることに致します。
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# by kfujiken2 | 2017-04-11 15:49 | 風景 | Comments(0)
大阪・適塾の5代目塾頭になった男
飯 田 柔 平 (いいだ じゅうへい)

◆ 飯田柔平の横顔

 飯田家は、下松市元町山口銀行前のおおたや衣料店の所に家があり、代々医者であった。
天保末に西豊井の蘭医・飯田元敬の長男として生まれた。17歳のころ。弟秀輔と当時蘭学・医学で一世を風靡した、大阪の緒方洪庵が創設した適塾に入門し、若くして塾頭(5代目)に抜擢され、全塾生を統括すると共に教授にも当っていた。
 その後更に、学術の奥義を極めんとして江戸遊学を志したが実現に至らず、郷里下松に帰り医学のかたわら蘭学の研鑽(けんさん)に専念した。
帰郷後間もなく病床に伏する身となり、33歳の若さで他界した。1867年(慶応三)に開業した飯田柔平塾は、初代柔平の妹サダに迎えた養子が柔平と改名して医業を継ぎ、あわせて寺子屋を開いたものである。下松市西教寺の過去帳によると、飯田杏仙に始まっているが杏仙の時に下松に来往したものと思われる。


◆ 飯田柔平のエピソード

① 適塾破門事件

 適塾生の中には、色々な人間がいる。福沢諭吉のように緒方洪庵や洪庵の妻・八重を両親のように慕い、深く愛された弟子もいれば、逆に塾則に違反し不始末をしでかして、洪庵の怒りをかい破門された弟子もいる。
 塾生名簿である『姓名録』にも「故あって破門」との書き込みが見られるのは、塾頭・飯田柔平である。女色放蕩が原因で緒方洪庵から破門を命じられている、つまり酒や女に溺れて不良行為を重ね、塾生の本分である学業を放棄することであった。
 その破門の背景には、洪庵の妻・八重の強い意向が働いたケースであった。八重はいくら優秀な塾生であっても、女遊びにウツツをぬかすことだけはあってはならない行為として許さなかった。学問の世界で一人前になるには、正しい性道徳を身に付け自らを律する人間にならなければならないと、八重は信じていたようです。
 けれども柔平の才能を惜しんだ洪庵は、嘉永2年(1849)に破門を解き塾頭に復帰させた。以後不良行為はなくなったようだが、八重は洪庵の寛大な処遇に反対で、柔平を嫌ったままであった。

② 飯田柔平が福井行きを計画
 八重との軋轢(あつれき)で塾に居づらくなった柔平は、越前国福井藩に就職口を求めようと、嘉永3年に入門した橋本左内に内々に斡旋を頼んだ。橋本左内が福井藩の蘭学振興のための緒方塾塾頭であった飯田柔平を推挙しようと努力していたが、飯田柔平の弟秀輔が売婦家で性病にかかり、さらに咽頭部痛、骨痛をも併発し、全身衰弱も著しくなったため、緒方洪庵は秀輔に退塾して保養するように命じたが、そのような経済的余裕はなく柔平も兄として病気の弟を一人で帰国させることは出来なかった。こうして飯田柔平は弟を連れて帰国する羽目になった。つまり柔平は福井に赴くことを断念せざるを得なかったということです。

◆ 幕末・維新期における飯田家の人々

 飯田杏仙(天保3年[1832]10月16日死去)のあと、飯田家を継いだのは玄敬(もと元敬 嘉永5年[1852]3月12日死去)である。玄敬はもと西岡姓で、杏仙の娘と結婚した。
玄敬には3人の男子と2人の女子がいた。長男は柔平(三江・節堂)で、文久元年(1861)8月19日に死去した。次男は秀輔で、安政2年(1855)10月2日に死去。三男は碩造で、慶応3年(1867)に死去。
二人の娘のうち、長女は龍といい、文久元年6月12日に死去。次女はサダで、大正2年(1913)12月21日に死去しているが、飯田家を継ぐ男子がいなくなったため、ただ一人残された次女サダに婿養子を迎える、婿養子として飯田家に入ったのは、前田精造の次男・精研である。後に柔平と改名。墓碑には、「後代柔平」と記されている。後代柔平は明治20年10月5日に死去した。精研が柔平と名乗ったことにより、後世、初代柔平(三江・節堂)と後代柔平(精研)が混同される。後代柔平には子がいなかったので、片野政熊を養子に迎えた。
政熊は医師として活躍したが、中原南天棒に弟子入りして禅宗に帰依し、欓隠(とういん)の居士号を与えられた。この飯田政熊の子が飯田無二氏(元大阪大学医学部産婦人科講師・徳島大学医学部産婦人科教授、のち同大学名誉教授)である。

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飯田柔平の名が記載されている書籍を2点ご紹介しましょう!

① 【山口県教育史】上巻(山口県教育会 1925年)が最も古いものと思われます。
   同書には、「毛利氏藩政時代」の山口県の各郡における「手習場又は私塾の経営者」一覧が 
  載せられており、周防国都濃郡の項に「飯田柔平(医)」の記載がある。
②  田中助一【防長医学史】下巻(防長医学史刊行後援会 1953年)


表紙
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第二章 「毛利氏藩政時代」
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第二十九節 手習場又は私塾の経営者
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都濃郡の項に飯田柔平(医)の名前が記載されている

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防長医学史 主なる私塾と医家

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防長医学史 飯田柔平
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※ 蛍光ペンを塗っている所に飯田柔平の名前の記載があります。

飯田柔平が入門した大阪適塾の創設者・緒方洪庵や、大阪適塾のことについて少し説明しましょう・・・


◆ 大阪適塾の創設者・緒方洪庵
 (文化7年7月14日(1810年) - 文久3年6月10日(1863年)は江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
生まれつき体が弱く、病気がちであったということも遠因であったかもしれませんが、洪庵は怒りをあらわにしたり門下生を叱ったりなどということがほとんどない、穏やかな人柄であったようです。また、何事にも礼を尽くす人であり、自分の親や妻の両親、そして何よりも師匠に対して非常に真面目にかつ謙虚に接していたようです。
福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。
日本最初の病理学書『病学通論』を著し種痘を広め、天然痘の予防に尽力した。 


緒方洪庵

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◆ 適塾とは
 適塾(てきじゅく)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。また、適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来である。幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、現在の大阪大学医学部及び慶應義塾大学の源流の1つとされている。
 1838(天保9)年、大坂・瓦町に医院とともに開いた7年後、いまも建物が残る過書町(現中央区北浜3)に移転し、計24年にわたって種痘法やコレラ治療法の研究を進めました。1846年に設立された除痘館は、1858年には江戸幕府が公認した最初の種痘所となりました。


【大阪 適塾】
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◆ 適塾の特徴
第一は、政治に距離を置き、地道な学問に徹したこと。
第二は、塾の運営が塾生の自治によってなされ、個性的・創造的側面を備えていたこと。
 塾を統括する者として塾頭が設けられ、その下に塾監という役がありました。学級わけは7級~8級に分けられており、入学したての者が割り当てられる初級から、最高である最上級まで設けられていました。
各級は15人前後からなり、それぞれがほぼ5日~6日に一度の割合でテキストに書かれている
オランダ語の解読を行う、会読という問答試験のようなものがありました。会読をする際には塾頭や塾監、1級生などが会頭になって会読を受け持ち、会読の結果を見て会頭が各人を採点する、というものでした。この会読での採点結果で3ヶ月間連続で首席を取った者が上級へ進級できるという具合です。 現代の進学塾のような仕組みを江戸時代末期の適塾は採用していたわけです。


◆ 適塾の主な門下生

開塾24年間で、およそ3,000人の門下生いたと伝えられている。
池田謙斎- 東京帝国大学初代医学部綜理。日本では初となる医学博士号を受ける。
石阪惟寛(いしざか いかん)- 陸軍軍医総監。
石田英吉- 海援隊隊士。貴族院男爵議員。
大鳥圭介- 蝦夷共和国の陸軍奉行。明治後学習院院長。駐清公使。男爵。
大村益次郎- 村田良庵という名で入塾。日本近代陸軍を創設。靖国神社創建を献策。
久坂玄機- 塾頭を務めた。久坂玄瑞の兄。
佐野常民(さの つねたみ)-( 日本赤十字社初代総裁。伯爵。
杉亨二- 日本の統計学者、官僚、啓蒙思想家、法学博士。日本近代統計の祖。
高松凌雲- 箱館戦争の際の蝦夷政府軍の病院長。
高峰譲吉- 科学者、発明家、世界初のアドレナリンの発見。胃腸薬タカジアスターゼで巨万の富を築く。
武田斐三郎- 五稜郭の設計・建設者。
長与専斎(ながよせんさい)- 内務省初代衛生局長。衛生思想の普及に尽力する。
橋本左内- 若くして安政の大獄で処刑。
花房義質- 明治・大正期の外交官。宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長。男爵。
福沢諭吉- 慶應義塾の創立者。
箕作秋坪(みつくり しゅうへい)- 三叉学舎の創立者。
本野盛亨(もとの もりみち)- 日本の官僚、実業家、子安峻らとともに読売新聞社を創業。
柏原学而(かしわばら がくじ)(孝章)- 最後の塾頭。緒方洪庵病没後、徳川慶喜の侍医となる。

◆ 適塾の歴代塾頭 

初代 緒方洪庵2代 奥山静寂3代 久坂玄機4代 大村益次郎
5代 飯田柔平6代 伊藤慎蔵7代 渡辺卯三郎8代 栗原唯一
9代 松下元芳10代 福澤諭吉11代 長與專齋13代 柏原学而


久坂玄機が3代目、大村益次郎が4代目、飯田柔平が5代目と長州出身者の塾頭が3人続いてます。久坂玄機は1847年に客分の処遇で入門、大村益次郎は1846年に52番目の入門、飯田柔平は天保年間(1830~1843)に11番目の入門と記載があります。
では、飯田柔平の方が大村益次郎より入門が早いのに、塾頭に抜擢されるのが遅かったのかという疑問は、上記に記したように飯田柔平が一時破門され、再度破門が解かれたその間に大村益次郎に逆転されたのではないかと解釈します。


適 塾 門 下 生 一 覧

飯田柔平の名前が記載
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大村益次郎の名前が記載
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参 考 文 献
●【山口県教育史】上巻
● 田中助一著 防長医学史 下巻
● 中田雅博著 緒方洪庵 -幕末の医と教え-
● 梅渓 昇著 緒方洪庵 (人物叢書)
● 村田路人著 周防国都濃郡下松町飯田家文書七点の紹介
適塾生飯田柔平関係文書その他
● 宝城興仁編 下松地方史研究 第八輯 下松人物誌

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# by kfujiken2 | 2017-03-31 14:44 | 歴史 | Comments(0)
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