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「満州の政商」とよばれた男 鮎川義介 

鮎川義介(あゆかわ よしすけ)の日立製作所笠戸工場と東洋鋼鈑への関与

先ず、日立製作所笠戸工場の創立に関与した鮎川義介について説明しましょう。

久原房之助が都濃郡下松町と太華村(現在の周南市櫛浜)の両町村にわたる沿岸を買収して世界的大工業都市の建設「下松計画」を立て、造船業と製鉄業に乗り出し、とりあえず造船業の日本汽船株式会社を立ち上げる。創業当初は好調を極めていたものの、第一次世界大戦の終結をきっかけにアメリカの対外鉄鋼輸出禁止措置により、鉄の輸入が困難となり久原房之助は小平浪平(おだいら なみへい)率いる日立製作所に日本汽船株式会社を託した。つまり、久原鉱業所日立鉱山に工作課長として入社していた小平浪平が、日本汽船株式会社の社名を株式会社日立製作所笠戸事業所と変更し操業を続けたということです。株式会社日立製作所笠戸事業所の足掛かりは久原房之助だが、初代の創業者は小平浪平である。又、鮎川義介は久原房之助と義兄弟の関係にあり、久原房之助がいっさいの関係事業との絶縁を声明、実業界から引退し政界に出ることを決意して、久原鉱業の経営を、義兄鮎川義介にゆだねことから話が始まります。久原鉱業は日本産業と改称され鉱山部門が日本鉱業株式会社(後に新日鉱ホールディングス、現在のJXホールディングス)となり、後の日産コンツェルンへと発展していくことになります。

鮎川義介
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小平浪平
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東洋製罐株式会社を設立し後に、東洋鋼鈑下松工場を設立した高碕達之助の説明をし、鮎川義介との関係を説明致します。 

東洋鋼鈑下松工場は東洋製罐の子会社として、設立されたのは周知の通りですが何故下松の様な田舎の地を選んだか、又、誰が誘致したのか釈然としなかったが、山口県の先人として今旬なひと・日産コンツェルンを作った男として有名な鮎川義介が関わっていたのです。

高碕達之助(たかさき たつのすけ)は1917(大正6)年6 月25 日に東洋製罐株式会社を設立。
高碕達之助は日産コンツェルンの鮎川義介より満州進出の誘いを受けた。鮎川義介は当時満州重工業開発株式会社(満業)の総裁であった。高碕達之助は満州の鉄資源に引かれ、1939 年に視察目的で満州を訪れたが、満州でも鉄は軍部に牛耳られており、期待外れに終わった。
その後鮎川は高碕に満業の副総裁を依頼した。鮎川はかねて、親戚関係にあった日本水産の国司浩助より高碕の人望を聞いており、自分の仕事をぜひとも手伝ってほしいと熱望していたのである。高碕は決心がつかなかったが、周囲からの後押しもあり、1941 年に副総裁を引き受けた。しかし満州では軍部の横行と戦局の悪化のために思うような事業展開はほとんどできなかった。鮎川の総裁任期満了に伴い、1942 年、高碕は満業総裁に就任することになった。鮎川の退任と同時に高碕も副総裁を辞任し満業から手を引く意向であったが、軍部から許可が下りなかったのである。

事業拡張の一方、高碕はブリキの自給について本格的に検討し始めた。国産ブリキの第一号は1923 年に日本製鉄が生産したものであったが、缶詰に使えるような高品質なものではなく、大正から昭和初期のころは大半を輸入に頼っていた。
大阪で創業した東洋製罐株式会社の原材料のブリキ製造のため、下松に1934(昭和9)年資本金500万円で東洋鋼鈑株式会社を設立ときも鮎川義介の斡旋によるものでした。つまり鮎川義介は、久原房之助が下松計画を実行する為に買収した莫大な土地を保有していた久原鉱業の経営を、ゆだねられ管理していたのです。

高碕達之助

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# by kfujiken2 | 2017-02-26 10:19 | 未分類 | Comments(0)

謎の宮原古墳

宮原古墳の概要

末武川右岸の和田丘陵台地にある円形墳で、昭和四十七年に調査された宮原遺跡の南にある。
巨石で築造された羨道(せんどう)、玄室(げんしつ)などをもつ古墳時代後期の片袖(かたそで)横穴式石室墳で、
大正年間調査され石棺、馬具類、須恵器(すえき)が出しました。


◆ 羨道(せんどう)・・・古墳の横穴式石室(墳丘側面から出入りする構造の石室)や横穴墓など横穴系埋葬施設において、
棺を納めて遺体を安置する主室ともいうべき玄室(げんしつ)と外部とを結ぶトンネル状の墓道的部分をさし、
入口は一般に羨門と呼ばれる。
◆ 玄室(げんしつ)・・・、横穴式石室や横穴の死者を埋葬する墓室をいう。
◆ 宮原遺跡は弥生時代前期後半・後期後半、古墳時代後期の複合遺跡です。2つの環濠集落からなり、
木葉文のない弥生土器が数多く出土しました。 

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(宮原古墳内部略図)
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丘陵台地を20m位登るとフラットな平地になります。
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田布施の後井(ごい)古墳・国森古墳や柳井市の茶臼山古墳・平生の神花山古墳は女帝の墓と言われていますが、下松市洲鼻にあった宮の洲古墳や宮原古墳は、豪族の首長墓とあるが被葬者は誰?皇帝だったか女帝だったか分からない・・・ 
つまり埋葬者が男だったか女だったか分からないということです。



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# by kfujiken2 | 2017-02-19 16:10 | 歴史 | Comments(0)

カタカナ小池百合子語録

小池都知事に注文 よく分からないカタカナ語はやめて!!!
都民ファーストならば分かりやすい日本語を使ってもらいたい。

「いつやるか? 今でしょ!」で有名な林 修さんが、テレビ番組「ネプリーグSP」で20人の女子アナ相手に【ニュースでよく聞くカタカナ現代用語】について、発言の文脈に適した意味を解答というのをやっていましたが、女子アナといえば名門大学卒業で殆どの女子アナが英会話できる。そんな彼女達が良く知らない言葉を一般人に分かる訳ないよね~
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12問の問題を提示しますが、さてあなたは何問正解出来ますか?挑戦してみて下さい。  下方に答えと説明を書いておきます。

Q1 ワイズスペンディング

Q2 サスティナブル

Q3 ダイバーシティ

Q4 イクボス宣言

Q5 ソーシャルファーム

Q6 イノベーション

Q7 メルクマール

Q8 フィンテック

Q9 IoT

Q10 スプリングボード

Q11 ブランディング

Q12 レガシー

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A1: 「賢い支出」という意味の英語。経済学者のケインズの言葉。不況対策として財政支出を行う際は、将来的に利益・利便性を生み出すことが見込まれる事業・分野に対して選択的に行うことが望ましい、という意味で用いられる。

A2: 持続可能であるさま。特に、地球環境を保全しつつ持続が可能な産業や開発などについていう。

A3: 多様な人材を積極的に活用しようという考え方のこと。性別や人種の違いに限らず、年齢、性格、学歴、価値観などの多様性を受け入れ、広く人材を活用することで生産性を高めようとするマネジメントについていう。

A4: 職場で共に働く部下・スタッフのワークライフバランス(仕事と生活の両立)を考え、その人のキャリアと人生を応援しながら、組織の業績も結果を出しつつ、自らも仕事と私生活を楽しむことができる上司(経営者・管理職)のことを指します。

A5: 障がいのある人や労働市場で不利な立場にある人々の就労の問題に取り組むユニークなビジネスモデルを指します。

A6: 生産を拡大するために労働,土地などの生産要素の組合せを変化させたり,新たな生産要素を導入したりする企業家の行為をいい,革新または新機軸と訳されている。それまでのモノ・仕組みなどに対して全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出して社会的に大きな変化を起こすことを指す。

A7: 指標、目印。一般的には、最終目的を達成するための一連の過程等における中間指標や目印のことを意味することが多く、進捗を確認するための中間達成基準や中間地点のゴールの意味で用いられる。

A8: ファイナンス(Finance)とテクノロジー(Technology)の2つを併せた造語です。日本語だと金融ITとか、金融テクノロジーと略されることもあります。
概ね「ICTを駆使した革新的(innovative)、あるいは破壊的(disruptive)な金融商品・サービスの潮流」といったくらいの意味で利用されている。

A9: Internet of Things(モノのインターネット)とは、従来は主にパソコンやサーバー、プリンタ等のIT関連機器が接続されていたインターネットにそれ以外の様々な"モノ"を接続することを意味します。すべての「モノ」がインターネットにつながることで、皆さんの生活やビジネスが根底から変わるというのです。

A10: ある行動を起こすきっかけとなるもの。契機。「留学をスプリングボードとして新しい人生に踏み出す」

A11: ある商品やサービスのコンセプトを特定のユーザーに価値があると認識させ、市場でのポジショニングを築くマーケティング戦略のことを言います。
我々が普段の生活を通して何気なく思っていること、そしてその潜在イメージに基づく行動が、企業にとって極めて重要な資産となっているのである。

A12: 「遺産」という意味になります。

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# by kfujiken2 | 2017-02-12 11:20 | 未分類 | Comments(0)

「世界遺産 ポンペイの壁画展」

日伊国交樹立150周年の展覧会です。
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ポンペイはイタリア・ナポリ近郊にあった古代都市で、ローマ人の余暇地として繁栄し最盛期の人口は約2万人といわれる。文化水準は非常に高く、上水道完備の大邸宅、公共浴場、劇場、円形の闘技場、運動場、宗教施設(集会所)など、社会インフラはヨーロッパの産業革命前とほぼ同レベルの高い水準を誇っていたそうです。当時の壁画は、公共系の建築物だけでなく、少し裕福な一般家庭の住宅内も、まるで宮殿のように壁一面を彩っていたそうです。ギリシャ文化の影響を強く受けた、ヘレニズム世界での古代神話の様々な場面をモチーフに描かれています。
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ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかった秘密は、この街を襲った悲劇にあった。西暦79年8月24日、町の北西 10 kmにあるヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていった。一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存した。火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収した。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのであった。

ポンペイの壁画は壁に漆喰を塗って、乾かないうちに顔料を水で溶いた絵の具で描くと漆喰に色が染み込み壁と一体となって色が落ちなくなる。だから素早く絵を描かなくてはいけないし、描き直しができない。技術を要し、親方と弟子で役割分担して描いたそうです。

紀元79年といえば、日本で言えば、まだ弥生時代に入ったばかり。狩猟採集生活から、ようやく稲作を始めたころの話ですから、こうして、壁画一つ見ていても、当時のポンペイの文明レベルの高さには驚かされます。

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# by kfujiken2 | 2017-02-07 16:44 | 歴史 | Comments(0)

「長州藩幕末維新関係資料」


山口県立博物館に行って来ました。
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萩御城下絵図
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毛利敬親像と毛利元徳像
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明日は「世界遺産 ポンペイの壁画展」をアップ致します。







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# by kfujiken2 | 2017-02-05 14:19 | 歴史 | Comments(0)

「初公開!周布政之助資料」と「長州藩幕末維新関係資料」

「初公開!周布政之助資料」

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周布政之助(すふまさのすけ 1823-64)は長州藩大組士。名は兼翼(かねすけ)、字は公輔、号は観山、
のちに麻田公輔と改名。
村田清風の薫陶を受けて藩政改革に取り組み、保守派と政争を繰り広げたのちに実権を握りました。
松陰や高杉ほか門下生のよき理解者で、伊藤博文らの密航留学(長州ファイブ)にも尽力しました。
激動の時局に対応する中、文久3年(1863)8月18日の政変、元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)、
第一次長州出兵と相次ぐ情勢悪化によって追い込まれ、寓居先の山口・吉富家で自刃しました。


周布政之助夫人・千代肖像、政之助愛用の調度品など、いずれも初公開です。
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周布政之助(すふまさのすけ)の碑です。
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周布政之助の墓です。
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明日「長州藩幕末維新関係資料」をアップします。
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# by kfujiken2 | 2017-02-03 16:08 | 歴史 | Comments(0)

長州・明治維新 夜明けの轍(わだち) Part2

③ 大田・絵堂の戦い

長州藩は公武合体から尊王攘夷・尊王開国へと変わり、更に武備恭順となり倒幕の道を
歩むこととなった。長州藩も最初から「尊皇攘夷! 倒幕!」と叫んだいたわけではなくて、
あくまでも幕府に恭順しようという勢力もあって、その勢力のことを俗論党という。
一時期、尊王攘夷派が主流になった日本だが、薩摩藩と会津藩主導による八月十八日の政変
(会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放
したクーデター事件)以後、長州藩は京を追われる立場となり、長州藩士達は八方塞がりの中、
京市街に攻め入り、禁門の変を起こす。そのため、幕府から目の敵にされるようになり、
第一次長州征伐が行われるに至った。


幕府の「第一次長州征伐(1864、7,23)」が発せられると、それまで藩の政治を握っていた
革新派の周布政之助が自害し、蛤御門の責任をとって、益田越中、国司信濃、福原越後の三家老が
切腹するなどしたため、藩の要職は保守派が力を得て、革新派への弾圧が強化されてきました。
この事態を憂い、慶応元年(1865)1月6日、その高杉晋作が率いる、下級武士や農民主体の
第一奇兵隊が下関の功山寺で決起し、既成勢力の長州萩政府軍(俗論党)と、藩の主導権を争う
戦争(大田・絵堂の戦い)が始りました。


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大田・絵堂戦役は、長州藩内における正義派(改革派)と俗論派(保守派)との骨肉戦争、
つまり権力闘争に過ぎません。萩でも「今や正義は諸隊にあり」という風潮が強くなり、
藩の政権は「武備恭順」を是とする革新派の手に渡りました。藩主毛利敬親も「これからは
それでゆく」と明言し、以後長州の藩論は統一されて、ぶれることはありませんでした。
一般には知られざる歴史ですが、しかしその意義は大きなものがあります。
もし長州正義派(改革派)が「大田・絵堂の戦い」に負けていたならば、明治維新は数年遅れていたのは確実とみられている。10日間の戦いであったが逆転しかけた歴史の歯車を危機一髪で回天させ、明治維新先駆けの戦いであったことには間違いない!!!



④ 四境戦争 大村益次郎の出現


松下村塾の四天王のうち(久坂玄瑞・入江九一・吉田稔麿)が高杉晋作の一人だけを残して亡くなり、
優秀な多くの塾生や若い毛利藩士を亡くし、これからの毛利藩を中枢で軍事を取り仕切る人物が
居なくなった時、 1860年に長州藩に召抱えられ長州藩士となった、大村益次郎がもっと早く表舞台に
登用されていたら、池田屋事件で吉田稔麿を死なすこともく、 禁門の変で積極策を退け、慎重な姿勢を取り
久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎らを戦死されることは無かったのではないでしょうか?


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【大村益次郎の生涯】を少し紹介しましょう・・・


大村益次郎は、文政7年(1824年)に長州藩周防国鋳銭司村で村医者の長男として生まれる。
家業を継ぐ為天保13年(1842年)にシーボルトの弟子だった梅田幽斎の門下生となり、
蘭学・医学を学ぶ。 次いで天保14年(1843年)には儒学者の広瀬淡窓に学ぶ。弘化3年(1846年)には
大阪で緒方洪庵の適塾に入門、成績はきわめて優秀で塾頭となる。
二七歳になって郷里に帰り医者を開業したところ、一向に流行らない。 長州藩もこの英才に気付かず、
一村医者としての不遇な生活を送ること三年、その才能を活用しようという人が現れた。
宇和島藩主伊達宗城である。 伊達宗城は高野長英が去ってから、これに代わる洋学者を求めていた
ところ、 緒方洪庵の推薦により彼を招聘することにした。
大村益次郎は伊予宇和島藩に召抱えられ、月に米六俵扶持(知行百石に相当する)を賜わり、
村田蔵六と改名、郷里から妻を呼び寄せて日々を送るようになった。兵書の翻訳・研究や、
軍艦設計等にその才能を遺憾なく発揮した。宇和島に在住すること二年余。更に研究を伸ばすために、
江戸に上ることを請い、 許されて伊達宗城の参勤交代の一行に加わって宇和島の地を去ったので
あるが、 宇和島に来た時は振分け荷物の貧書生、去るときは供廻りの若党と両掛狭箱を担いだ仲間を
引き連れてであった。その栄達が話題になったという。
江戸に出ると、その深い造詣はたちまち世に知られ、「宇和島藩に村田蔵六あり」の評判高く、
徳川幕府の蕃書調所(洋学研究所)の助教授、ついで講武所の砲術教授を、 宇和島藩士の身分の
ままで兼ねることになった。


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さて、本題に戻り長州出身の有為な人材の存在を知り、大村益次郎の発掘の経過を説明します。
安政6年(1859年)の10月29日、場所は小塚原の刑場。
偶然この2日前、 伝馬町の獄舎に投獄されていた吉田松陰が斬首されておりました。
その遺骸をもらい受けるため、長州藩の桂小五郎と伊藤博文はこの小塚原の刑場に来ていました。
その帰りに桂小五郎はこの場所で死囚の解剖をしている村田蔵六を見かけます。あの人はどなたです、
と人に聞くと、「蕃書調所の村田蔵六先生です」といわれて、同郷の蘭学医を思い出すのでした。
桂小五郎が、のちの倒幕軍の総司令官、わが国近代兵制の創始者となった大村益次郎こと村田蔵六を
見出したのは、じつにこの時期、この小塚原の刑場だったのです。西洋との戦力の差を知った桂小五郎が、軍備を近代化するために、オランダ語のできる人物を探していた時、彼の名前だけは聞いたものの、あまりの身分の低さに「たいした事ないだろう」とそのまま探さずにいた人物が彼だったのです。
「長州藩にこんな逸材が埋もれていたなんて!」と、大興奮し即座に大村益次郎を、翻訳者として長州に招きます。宇和島藩へ移籍を頼み込み、たまたま時の藩主伊達宗徳の先夫人が毛利家の出という親類関係も
あるので、宇和島藩も無下にも断り切れず、これからも宇和島藩の仕事を手伝うという条件で、
長州藩へ移籍させた。彼の宇和島藩在籍は約七年間であった。
長州藩の要請により長州藩士となった大村益次郎は兵学の講義だけでなく、高杉晋作の依頼を受けての
軍事改革や兵の指導をし、やがては実際の戦場にも出陣していく事になります。
奇兵隊の生みの親が高杉晋作なら、大村益次郎は育ての親と呼べるかも しれません!!!
第二次長州征伐の際、長州藩参謀として幕軍に恐れをいだかせ、 明治元(一八六八)年~明治二年の
戊辰戦争には東征軍参謀として その優れた軍略を発揮した。明治政府においては兵部大輔となり、
軍費調達や新政府軍総司令官として指揮を取り作戦指導した、事実上の日本陸軍の創始者である。
軍事を士族の独占から国民全体の手に移して、近代軍制を確立する ために努力したが、道半ばにして
保守反動派士族の凶刃に倒れた。

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# by kfujiken2 | 2017-01-22 17:28 | 歴史 | Comments(0)

長州・明治維新 夜明けの轍(わだち)

長州藩の思想の変化として、公武合体論や尊皇攘夷から開国に激化し、さらに倒幕に発展して行った。長州藩が明治維新に至るまでに、様々な過程をたどって来たことはご存知と思います。八月十八日の政変、下関戦争(下関事件や馬関戦争)、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐・第二次長州征伐(四境戦争)を戦い、大政奉還が行われ王政復古が成立するまで様々な事件を経験した長州藩は、後に明治政府の中核となっていきますが、知られていない陽の目を見なかった重要なポイントがあります。

① 「撫育方(ぶいくがた)」制度の確立

長州藩においては、中興の祖といわれる第7代藩主毛利重就による宝暦の改革が行われ、
藩の経済的自立及び貨幣経済の発展をもたらした。
宝暦11年(1761年)、長州藩は検地を執り行い、4万石の増収を得た。
しかし、この増収分は負債返済には充てず、特別会計に回して撫育方と呼ばれる裏金作りの
機関を発足させた。撫育方は米、紙、塩、?(ろう)の増産に励み、港湾整備も行って増収と蓄財に務めた。
撫育方が必死に溜めた資金は負債には回されず、非常時のために取り置かれた。
長州藩のこの隠し財産の積み重ねは、幕末までには莫大なものとなり、それが倒幕用の武器購入資金と
なるのである。しかし、それは一般会計の負債や、藩士や領民の窮乏を無視してのものであった。


第7代藩主毛利重就
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瀬戸内海側の室積・中関(防府)・伊崎(下関)の三つの商業港を整備して、 会所(役所)を置き、
北前船などと商取引を行わせた。 室積の会所の設置は明和六年(一七六九)といわれる。
安永二年(一七七三)からこの地を藩が買い上げて役所とし、 藩内各地の米蔵を移築して、
主に藩の年貢米をここに集めて売り捌く仕事を行っていたので、「御蔵会所」とか「お米売捌き会所」とも呼ばれ、この附属小中学校の敷地一帯に、役所と多くの米蔵や銀子蔵が次第に増改築され、
荷揚げ用の波止(現在の海に張り出した施設部分)も築かれた。
さらに、藩の資金やこの蔵を使って越荷方(こしにかた)を設置し、ここを通る藩外の船を対象に
倉庫業や金融業を地元商人に行わせたので、 港や町は多くの廻船や商人が出入りし、近隣から多くの
商人が住み着いて賑わった。


長州藩撫育方室積会所跡の石碑
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◆ 事業内容
① 新田開発
② 産業開発
③ 新港の建設
④ 倉庫業や貸し付け業
⑤ 通商貿易業



寛政前後(十八世紀末)より大体毎年4~5、000両を貯えたといわれている。
幕末の長州藩は、表高は36万石でしたが、実質は100万石以上にも及んだといいます。
度重なる敗戦にもかかわらず、長州藩には撫育方が蓄積した莫大な資金が健在であり、
資金力を武器に挽回の策を講じることは容易であった。


② 吉田松陰の誕生

吉田松陰は日本が伝統社会から近代社会へ転換する際に、重要な役割を演じた人物である。
吉田松陰は生前、優れた功績を残した訳でも成功を収めたわけでもありません。脱藩に密航、
暗殺計画、度重なる投獄など失敗続きの人生でしたが、松陰の志を受け継いだ松下村塾の門下生と
塾生たちが後の日本の歴史に名を残し、おびただしいほどの人材を育てたからに他なりません。
教育者、思想家のイメージとはかけ離れた、あまりに真っ直ぐな生き様ではなかったでしょうか。
門下生は松蔭の学識だけではなく、その純粋さ、生き様にも魅かれていたに違いありません。
松陰は孟子の学説を自分の論理的な出発点としていた。吉田松陰は性善説と陽明学に囚われていて、
その思想と行動を大きく制限されますが、他方で真理と新しい社会を希求するという「純粋さ」
「ひたむきさ」においては、日本思想史上特筆すべき人物です。


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「松陰の教育論」

「教えのなかに共鳴させるもの」があり、学んだ者の以後の思想形成・人格形成に多大な影響を及ぼしたからだ。

①松陰の教え子には幼い者も混じっていたが、「子どもだから」という扱いはせず、青年たちと一緒に議論させた。
②吉田松陰は、教え子を「諸友」と呼び、教師との間に身分的な上下関係や垣根を設けなかった。
③「自分以外は皆、師」であり、学ぶことに貪欲であれと教えた。
④勉強は継続することに意義がある。
⑤「ほめ上手」で、子どもの「やる気」を引き出した。
⑥教え子が旅立つときは、心のこもった送辞を贈って鼓舞した。 


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長州・明治維新 夜明けの轍(わだち)2 は明日に続く・・・

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# by kfujiken2 | 2017-01-20 10:48 | 歴史 | Comments(0)

第2回 茶臼山と大谷渓谷へのいざない展

1月6日より31日の26日間、スターピアハート・フロアーで「第2回 茶臼山と大谷渓谷への
いざない展」が開催されている。


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この催しは、大谷渓谷懇談会(永田久則会長)と、とよい今昔探訪クラブ(清木健一会長)が協賛で、豊井地区の茶臼山や
大谷渓谷を整備し、茶臼山と大谷渓谷の魅力を知って頂く為、歴史・農工遺産・自然・歩くをキーワードに、
300年前、100年前、75年前と節目の茶臼山と大谷渓谷の歴史や農業・産業遺産及び自然や景観などをパネルや立体地図、写真などで紹介しています。


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「この素晴らしい茶臼山や大谷渓谷をぜひ皆さんに知っていただきたい。」と
オーガナイザーの戸取征二郎氏が語っていた。


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# by kfujiken2 | 2017-01-16 10:06 | 未分類 | Comments(0)

初詣めぐりのパートⅡ・津和野のお稲荷さん

小雨降る9日、津和野太皷谷稲成神社に10年振りに行って来ました。
家を出る頃はパラパラ、米川辺りに来ると大分降り出したものの、
津和野に着く頃は止むだろうと、たかをくくって進んだのはいいが、
須々万から鹿野に入った頃はザーザー降りどうしょう?
と思案しましたが、そこはB型 考えるより実行・・・
津和野に着いてもまだ降っていれば帰ればいいと!!! いい加減なものです。
しかし国道315号を走って阿東町の交差点(9号線)との手前のトンネルを抜けると晴れていた。
正しく川端康成の小説のようでした。勇んで9号線いざ津和野へ一目散!


右手に道の駅 願成就温泉の看板が見え、時計を見ると11時半、
小腹が空いたので昼食を食べに寄りました。
窓際の席から外を見るとブロンズ像があります。
なんと! 静御前のブロンズ像です。
静御前の扇が指す方角は、夫義経の墓のある奥州平泉を示しているそうです。

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静御前と言えばあの有名な源義経の愛妾であり、絶世の美女として有名ですが、
吾妻鏡(あずまかがみ)に関係記述がありはするも義経と離ればなれになった後は全く記録がなく、
殆ど伝説の域を出ないようです。 
全国に終焉の地や墓が何カ所も存在するそうですが、そのうちの一つとして
何故こんな所に?と思ったのですが、「山口市阿東徳佐」にも静御前墓所があるそうで、
云い伝えが残っているようです。
信じるか信じないかは別として、謎に満ちた伝説の美女の墓が山口県にあると聞けば、
やはりこの目で確かめたいですよね・・・ロマンですね~ 
是非津和野からの帰りに寄らねばなりませんな!!!



そう言えば9号線を走ってくる途中に「静御前墓所」の看板を見ました。
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1月も9日というのに津和野太皷谷稲成神社は大混雑・・・


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手早くお参りを済ませ、他の見所に脇目も振らず「静御前墓所」へ行きました。


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竹林の中にひっそり佇む「静御前のお墓」です。夏場ならばヤバイ所ですね!

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# by kfujiken2 | 2017-01-12 09:46 | 歴史 | Comments(0)