山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


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下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その①

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~

旧内藤家屋敷跡にある池泉観賞式庭園とは、どんなお庭をなのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。


池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、川があり、
           池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。
観賞式とは   :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。



1.旧内藤家屋敷跡と庭園の概要

内藤家は古くから大内氏に仕えていた武家の一族と伝え、毛利氏の中国地方統一の際し、
帰農して(天正10年・1582)現在の米川瀬戸を深く入り込んだ僻地(現在の下松市大字瀬戸
1088番地)に居住している。山村の多くがそうであるように、狭隘(きょうあい)な山裾の一部を
利用して屋敷としたものである。口伝では、この屋敷が瀬戸村に移住後、昭和初期に至るまで
一貫して居住した地であるという。404坪(明治20年土地台帳)の屋敷は、前方を石垣とし
山寄りにはモミの巨樹がそびえ、あたかも寺跡のような景観を呈している。石段を登ると門跡を
示す6基の簡素な礎石があり、池泉はこれを経て左側山裾まで約100坪の間に構成されている。
茅葺の母屋は、昭和初期解体し戦中に耕して畑地としていた。門は昭和37年に子供の火遊びの為、
焼失して建物は存在しないが、庭園は樹草の中に健在である。


【 ① 入 口 の 石 垣 】
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【 ② 旧 内 藤 家 屋 敷 跡 の 入門前の石段 】
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【③ 旧内藤家屋敷跡の全体風景】

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【④ 屋敷跡に設置されている案内板】
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※ ③は②の石段を登った所から見た旧内藤家屋敷の全体風景ですが、③で下方に写っている石切が入門の痕跡ではないでしょうか。


池泉観賞式庭園の説明・場所・内藤氏の歴史は、後日に致します。

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# by kfujiken2 | 2017-11-22 10:24 | 歴史 | Comments(0)

幻の下松藩邸

先ずお断りしておきますが、この場所に下松藩邸が存在していたのは間違いない
のですが、何分資料が無くあくまでも想像の域を出ません!!!
虎口(入口)がここだったのでないか?下に記載しました画像がそうなんです。
他の部分は民家が立ち並び、写真を撮ることをはばかられます。


徳山藩と聞けば、大体の方が”周南市(旧徳山市)動物園周辺”に存在したことはご存知でしょう。
この徳山藩が立藩当初は、徳山に藩庁をおかず、下松に藩庁をおいていた。
このことをご存知の方は多いかと存じますが、この初期徳山藩庁であった下松城に関しては、
詳細な事柄は不明な点が多く、所在地もあまり知られていない。下松藩の創設の経緯を知る人は
多いが、下松城の所在地を明確に知る人は多くなく、史学的・考古学研究も検証も、調査も行われ
ておらず知名度は低い。下松に毛利就隆の居館が法蓮寺に建設されたのは、分地から14年後の
寛永8年(1631)のことである。現在、館邸の跡形もないのは、石垣を再度に亘って崩し去り、
慶安元年(1648)で徳山野上に居館建設中であったことから、これらの石垣はことごとく野上へ
移転せしめたのであろう。
下松に居館建設後17年たらずのことであるから石垣のみならず居館も同様移築したものと推測される。


【正保国絵図による下松付近概念】 (図1)

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【所 在 地】

広 域 地 図  (図2)
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拡 大 地 図  (図3)
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【下 松 藩 邸 付 近 の 想 定 図】  (図4)

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下松藩邸の想定の詳細


【縄張り】(注1)
下松藩邸(下松陣屋)については、「防長地下上申」・「旧記抜書」・「主圖合結記(主図合結記)」の三つの資料があるようです。
下松藩邸について『旧記抜書』に下記の様に記されている。
寛永八年就隆公下松御屋敷作事有之、小松山高サ十間余(注2)、切岸(注3)東西二壇(注4)へ竹を植、御門三ツ有之、御厩(注5)惣構(注6)之外ニ有之、或茅葺板葺被二仰付一候、初ハ外構石壁ニ被二仰付一候処、少し高く候而公儀御遠慮ニ思召候、其上へ土を持かけ竹を御植させ被成候、作事奉行佐久間清左衛門相勤候事


この古文書読み解きますと・・・
寛永八年に就隆公は下松御屋敷をここに建設した、小松山の高さが十間余(約20m)あり、お屋敷台の南側(正面)は切岸で東・西二壇に石垣を組むも抗議へのご遠慮のため、土を持ちかけ竹を植えている。二壇の石垣は必ずしも直線ではなく、かぎ型であって、門を入ると石段や踊場を登りながら右の三筆の地(約800坪)、即ち陣屋に向かったものと思われる。この間切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたことが明らかである。つまり、門が三ヶ所あったということから外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。就隆公の乗られる馬の馬屋は陣屋の外にある。
又、『防長地下上申』によると、豊井村地下図に「古御屋敷台」と記されて所が、旧居館所在地である。
東・西・北の三方を山で囲まれているので、屋敷台の地形は現在も余り変わっていないであろう。その屋敷台中央部には、明治20年の分間図・土地台帳によると、一枚(注7)で畑地一反七畝九歩(法蓮寺1725番地)の平坦地があり、その南側に接する二筆(法蓮寺1728番・1729番)も右と同じ高さの平坦地であったことが明らかである。右の登記簿は、明治20年にこの地に女学校創建(櫨蔭高等学校)にかかる造成以前のものであるから、右の三筆約800坪に主要建造物が在ったと考えられる。さて御長屋と廐(うまや)は、屋敷台地が狭隘(きょうあい)な為か惣構(そうがまえ)の外にあり、この馬屋は『地下上申』によると、豊井村地下図に「むまやのたん」と記されてその位置が法蓮寺1673番地・同1677番地付近とあり、現在の末光幼稚園の西側周辺である。

(注1) ※縄張り(なわばり)とは: 曲輪や堀、門、虎口等の配置をいう。つまり、城を造るためには設計が必要であり、この設計のことをいいます。
(注2) ※小松山高サ十間余とは: 河内村に接するお屋敷台の東側の小山で、現在は約半分が住宅と国道188号線に変貌している。現在の地図上の表示は、「光陽台」を指している。
(注3) ※切岸とは: 斜面を削って人工的に断崖とした構造。
(注4) ※壇とは: 他より一段高くこしらえた場所。
(注5) ※御厩(みやま)とは: 貴人が乗る馬の馬屋。
(注6) ※惣構とは:城や砦の外郭、またはその囲まれた内部のことで総曲輪(そうぐるわ)とも言う。
(注7) ※畑一枚とは: 畑一区画の意味です。
 

【図3の拡大地図で緑色で塗った切岸二壇の下部】 (図5) 

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【図5の道路に面した切岸】 

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【図5のコーナーから上部】

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◆ ここで枡形虎口(ますがたこぐち)について少し説明をしましょう。
戦国末期には西日本を中心に枡形(ますがた)と呼ばれる虎口が現れた。これは虎口の前面に桝形(方形)の空間を設け、そこに門や口を2重に構えることで、攻撃側は桝形内部に侵入しても2番目の門に城内への侵入を阻まれ、桝形内部で守備側からの攻撃を全面に浴びることとなる。
枡形には内枡形(うちますがた)と外枡形(そとますがた)がある。内枡形は、曲輪の虎口の内側に小さな方形空間を造り第二の門を築く。
ここに入り込むと寄せ手は3方向から囲まれる。外枡形は、主な曲輪の虎口の外に地続きの小さな方形空間を張り出させ、最前にもう1つの門を開いたものである。枡形の門は、最前の門とその後方の門の2つが開かれる。最前の門を高麗門、その後方の門を櫓門としたものが基本的な形状であると見られているが、後方の門のみで最前の門がないものや、最前の門のみのものもある。 近世城郭はその多くが枡形、あるいはそれに類する虎口を備え、侵入した攻撃側が容易に直進できないようにするため右折または左折構造を採る場合が多い。
下松藩邸の場合、切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたそうだから、外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。


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【外・内枡形を組合せた虎口】

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# by kfujiken2 | 2017-11-08 13:07 | 歴史 | Comments(0)

陽気につられて紅葉狩り

今朝は放射冷却の為10度を下る気温だったが、昼前から温度がグングン上がり、
陽気につられてふらりドライブとシャレ込みました。
米泉湖に立ち寄り下松市末武川ダム(米泉湖)の上流に位置します、
せせらぎと紅葉の景観が素晴らしい滝ノ口河川公園に行って見ました。


市内より北に車を走らせ、トンネルを抜けるとそこはイチョウ並木のトンネルです
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モミジとイチョウが鮮やかな赤と黄色のコントラストをつけています
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滝ノ口河川公園のせせらぎです

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逆行をまともに受けて・・・
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# by kfujiken2 | 2017-11-01 16:18 | 風景 | Comments(0)

深睡眠(しんすいみん)とは

楽しみにしていた加来耕三先生の維新150周年によせて「乃木希典と児玉源太郎」の講演会を慢性化したギックリ腰が起こり、残念ですが拝聴することが出来ません
 ((“o(>ω<)o”))クヤシイー!!


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睡眠には、レム睡眠・ノンレム睡眠があります。
レム睡眠・ノンレム睡眠は睡眠中に交互に現れます。
レム睡眠・ノンレム睡眠を合計で4回ずつくらい繰り返すのが、通常の睡眠です。

深睡眠は、これとは別の分類方法です。
深睡眠は睡眠の最初の3~4時間くらいに多く見られる深い睡眠で、ノンレム睡眠中に見られます。特に1回目のノンレム睡眠中に現れます。つまり、深睡眠とノンレム睡眠は別物という訳ではなく、ノンレム睡眠の一部が深睡眠という位置づけです。
このため、レム睡眠が深い睡眠という訳ではなく、最初の方に現れるノンレム睡眠で深い睡眠が訪れるという方が適切です。


深睡眠は、具体的にはいくつか特徴があります。

・成長ホルモンの分泌が最大になる
・脳が最も休んでいる睡眠


成長ホルモンとは、タンパク質の合成を促すホルモンです。
筋肉を付けたい、お肌を元気にしたいなどの場合はとても重要なホルモンです。
そのため、この深睡眠の時間を「お肌のゴールデンタイム」と呼ぶこともあります。
また、深睡眠は脳が最も休んでいる状態です。
睡眠の役割として、脳の疲労回復があります。
脳内の疲労物質やストレス物質の除去が最も効率的に行われるのが、
この深睡眠です。
だからと言って、深睡眠だけとれば脳の回復が十分ではありません。
最適な睡眠時間は、深睡眠後にもしっかり眠る必要性を示しています。


若年者と高齢者における睡眠の一般的な状態

横軸が睡眠時間、縦軸がノンレム睡眠の深さを示している。濃い青がレム睡眠、薄い青がノンレム睡眠。高齢者のグレーは目が覚めている時間だ。なお、ノンレム睡眠のステージ1と2が浅い睡眠で、ステージ3と4が「深睡眠」と呼ばれる。深睡眠を2時間以上取るのは10歳頃までで、それ以降はどんどん減る。一方レム睡眠の量は一生を通じてそれほど変わらない。

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高齢者や老人は若者と違い、睡眠リズムが乱れやすくなります。その理由は、高齢になると中途覚醒が増えるため、睡眠中に何度も目覚めてしまうようになるからです。中途覚醒が増える理由は、年をとると過活動膀胱になることが多く、寝ている時でもトイレに行きたくなるためです。
人間には体内時計が備わっていますが、年をとると体内時計の周期がズレてしまい、24時間周期ではなくなってしまいます。そのため、早朝覚醒をすることが増えてしまい、朝までぐっすりと眠れなくなります。

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# by kfujiken2 | 2017-10-29 10:02 | 未分類 | Comments(0)

乃木希典と児玉源太郎

10月29日(日)ホテルサンルート徳山にて、加来耕三先生の維新150周年によせて
「乃木希典と児玉源太郎」をテーマの文化講演会があります。

応募したら招待券が送って来ました。どんな話をされるのか楽しみです。


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因みに乃木希典と児玉源太郎の紹介を簡単に・・・
乃木希典は、嘉永2(1849)年11月11日に、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)の三男として、江戸の長府藩上屋敷に生まれた。

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児玉源太郎は、嘉永5(1852)年2月25日に、周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、
長州藩の支藩徳山藩の中級武士(百石)児玉半九郎の長男として生まれる。


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二人は長州藩の支藩である長府藩と徳山藩士の子供で、3歳違いの長州人の先輩・
後輩の関係です。



二人の逸話を簡単に!!!

児玉源太郎は満州軍総司令官大山巌の承認を得て、第3軍司令官・乃木希典大将の指揮権に介入し、作戦を成功に導いたとされる。源太郎は、歩兵のみでは二〇三高地を落とせないことを理解しており、
砲兵兵の柔軟で集中した運用を図ります。
一般に知られている説によれば、明治37年(1904年)12月5日、源太郎は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し、火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け
砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという、
奇抜な作戦を取ったとされる。
そして重砲の援護射撃の下、歩兵による突撃を同時に行い半日で陥落させた。
さらに203高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言を無視して203高地越えに、
旅順湾内のロシア旅順艦隊に28センチ砲で砲撃を加え、敵艦隊は壊滅した。

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# by kfujiken2 | 2017-10-24 12:12 | 未分類 | Comments(0)

ドローン女子

昨日NHKの “シブ5時” で 「増えるドローン女子」という面白い番組を放映して
いました。


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『ドローン女子』とは何でしょうか?

『ドローンに興味がある女子』を総称して、そう呼んでいます。

女性の方だけでなく、男性の方にもかなりドローンの魅力、興味がそそられたのではないでしょうか?

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■見たこともない景色を見たい!

私達よりも何メートルも何十メートルも高い空を飛ぶ鳥たち。
鳥はどんな景色を楽しみ、そして何を思って空を飛ぶのでしょうか。
「ドローンを思い通りに動かし、飛ばしてみたい」
「自分がまだ体験したことのない世界を見たい」
と思う方は多いと思います。
ドローンの魅力を考えると、まず頭の中に浮かぶのはそういった
非日常的な体験です。

■何事も慣れが必要
もちろん自由自在に飛ばせるようになるにはある程度の慣れが必要となります。
はじめはうまく操縦できずにもどかしい気持ちにもなるかもしれません。
それを乗り越えて、うまく操縦できた時や空撮した映像を見た時の感動は特別なものであることは
言うまでもありません。
実際に空を飛んだような、鳥にTなったかのような素晴らしさがあるのです。
機体によっては、初心者向けで飛ばしやすいものもあります。
あなたもドローンにチャレンジしてみませんか?

◎資格や免許は不要です。誰でも扱えます!
航空法という名称や、複雑そうなルールなどから誤解を与えやすいのですが
ドローンを飛ばすこと、それ自体に資格や免許が必要というわけではありません。

ただし、以下の点は注意しましょう。
・日中の飛行(夜間はNG)
・目視できる範囲で飛ばす
・人や物から30m以上の距離を保つ
・人が集まる上を飛ばさない
・物を輸送、あるいは落下させない

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# by kfujiken2 | 2017-10-18 11:53 | 未分類 | Comments(0)

下松高等学校の歴史

【はしがき】

1617年(元和3)下松藩(後の徳山藩)が創設され、1631年(寛永8)藩邸(下松陣屋)が
建設されました。下松藩(後の徳山藩)の初代藩主・毛利就隆の居館はどんな構図だったか、
建物の配置はどんなになっていたか? 等を色々調べていたが資料がない!!! 遺跡がない! 
でお手上げ状態の時、そうだ・・・1650年(慶安3年)下松藩が徳山に移転して
その跡地に約300年後の昭和4年に下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が建設され、
昭和28年3月に、下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の
経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。
そこに昼間の下松高等学校定時制寺町分校が開設されたことを思い出しました。
つまり下松高等学校の前身が女学校だったとは聞かされていましたが、その経緯を詳しく知っている
OBは少ないのではないか? 又、自分の母校の歴史って意外と知らないのではないか? 
そんな些細なことで下松高等学校の歴史をたどってみようと思いました。


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端的に沿革を説明しますと、下図の校章でもお分かり頂けると思いますが、
山口県立下松女子商業学校 → 山口県立下松高等女子校 → 山口県立下松高校へと変革していったのです。


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それでは古い校舎の画像を見ながら沿革を説明致します。
下松高等学校(元 山口県立下松高等女子校)が創設されるまでの足跡を説明しましょう。


昭和18年10月に発せられた政府の戦時非常措置によって、軍需産業に対処するため工業学校に
転換された男子商業学校が、戦後、再びもとに復帰することになった。したがって商業学校の
不足を補う立場で昭和19年に設立された下松女子商業学校も、その存立意義が薄らいだのを機会に、
市の強い要請もあって、昭和21年4月に、県立下松高等女学校として再出発した。
取りあえず下松尋常高等小学校舎の隣りにある下松青年学校(現在の下松市立中学校)の三教室を
借用して、二学級編成で発足した。場所は現在の下松市立小学校の西側である。


山口県立下松高等女子校仮校舎 (昭和21年)
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さらに、下松高等女学校は昭和23年4月から、新制高等学校(山口県立下松高校)に移行されることに
備えて、新校舎の建設を急ぐことになり、新校地の選定・買収・造成などが、市の負担で積極的に進められた。当時は、農地解放・食糧不足の時期であって、耕作者の農地に対する執着心が強く、平野部での
用地取得が困難なため、新たに、大河内台地が候補地として取りあげられた。ここは、市のほぼ中央に
あたり、眺望絶佳にして閑静、山林・畑地で所有者の反対もとくにないことから、整地・用水などに困難な
問題点もあったが、昭和22年11月に適地として決定をみた。市民から山の高等学校と愛称された
ゆえんである。昭和24年2月に待望の新校舎が竣工し全校生徒が移転した。


新制高等学校・山口県立下松高校の旧校舎(昭和23年)
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昭和29年4月に全日制家庭科が増設されたが、その後志望者の逓減によって、昭和39年4月
廃止された。 他方、昭和23年7月に昼間の下松高等学校定時制久保分校が開設された。
農業科・家庭科編成で、久保小学校校舎の一部と岡市にあった県設指導農場の一部を借用した仮校舎で授業を開始した。昭和4年に開校し昭和28年3月に、櫨蔭(ろいん)学園が下松市内の櫨蔭高等学校を閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。これによって定時制久保分校はここに移り、定時制寺町分校と改称した。
その後、家庭経済や交通事情などの好転に伴い、定時制の生徒も激減する傾向を示したので、
県教育委員会はその見直しを行い、統廃合・整理の方針を定めた。これに基づいて、農業科は
昭和32年3月に、家庭科は昭和36年3月にそれぞれ募集を停止し、昭和38年3月寺町分校は
廃止された。

下松高等学校定時制寺町分校(元 櫨蔭高等学校)(昭和29年)

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現校舎(昭和55年)
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# by kfujiken2 | 2017-10-10 12:26 | 歴史 | Comments(0)

下松市に徳山初代藩主・毛利就隆ゆかりのお寺が三ヶ寺ある

来週の日曜日(10月8日) 毛利博物館長・山口大学名誉教授の田中誠二先生の講演「下松藩の成立と展開 ~そして幕末・明治維新へ~ 」を拝聴するにあたり、中々資料が無い中度々調べに行きましたが、再度私なりに何か探してみようと下松藩の居城跡に出掛けました!!!
しかし、目新しいものに出くわさずどうしょうかと思案していたが、すぐ近くに徳山藩初代藩主・毛利就隆が側室のために創建した松心寺というお寺があることに気が付き飛んで行きました。


松心寺(元 永心寺)は、1640年側室永心院のために就隆が創建しました。
徳山に毛利家菩提寺の大成寺が建立されると、位牌等はそちらに移動されたそうです。


山門と本堂です
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本堂の屋根に 「舟形一文字三つ星」 の徳山毛利藩の家紋が分かります 
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本堂西側の墓地に並んで永心院と伊勢姫の墓立っている。石造りの柵が時代を感じらせ、毛利就隆の大事に思う気持が推察できます。
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左側に高さ220cmの下松市内で二番目に大きい五輪塔があります。
これは徳山藩初代藩主・毛利就隆の最初の姫で、特に毛利就隆が竈愛していた
伊勢姫のために立てられたのである。法名は 「祥光院殿瑞中以松大姉」
姫は病弱のため一生結婚せず、46歳で寛文10年(1670)正月11日になくなられた。

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右側が就隆の側室で伊勢姫の母、永心院の墓。高さ145cm
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他の二つのお寺を簡単に紹介しましょう・・・


◆妙法寺  下松市東豊井1152
徳山藩初代藩主・毛利就隆の乳母が開基のお寺・妙法寺
妙法寺の本堂の軒にある毛利家家紋が、関係があったことを証明しております。
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http://kfujiken2.exblog.jp/22477410/
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◆周慶寺  下松市中市1丁目9−1
徳山藩初代藩主・毛利就隆の生母「清泰院・二の丸様」の菩提寺で、法名は清泰院殿栄誉周慶大姉。

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http://kfujiken2.exblog.jp/13088390/
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# by kfujiken2 | 2017-10-01 12:37 | 歴史 | Comments(0)

秋日和に誘われて・・・彼岸花を撮影に

"彼岸花”をテーマに調べてみました。

◆ 彼岸時に咲き乱れる”彼岸花”とは
ヒガンバナ科の多年草。土手や田の畦に生える。秋の彼岸のころ、高さ約30センチの花茎を伸ばし、
長い雄しべ・雌しべをもつ赤い6弁花を数個輪状につける。花の後、線形の葉が出て越冬する。
有毒植物であるが、鱗茎を外用薬とする。別名、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)・死人花(しびとばな)・
捨て子花・石蒜(せきさん)・天蓋花(てんがいばな)・天涯花・幽霊花・かみそりばななどがある。
彼岸花ほど異称の多い花も少ないのではないでしょうか。




◆ 彼岸花の花言葉は!?
悲しい思い出・想うはあなた一人・また会う日を楽しみに・「再会」「情熱」「独立」「あきらめ」
・・・と諸説あるようです。情熱とは真逆の印象を与える「悲しい思い出(お彼岸)」を連想させる
イメージも同居していて、なんだかミステリアスで意味深いですね。


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◆ 彼岸花が”不吉な花”というイメージを持つ理由は・・・
開花期にふつう備わっているべき葉がひとつもなく、茎の頂上にいきなり花が咲いて、
しかもその花が毒々しいほどに真っ赤であるからです。日本人の感覚では彼岸花の
赤はけばけばしく、そうしたけばけばしさを好ましからざるものと見なすのです。



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◆ 突然現れる”彼岸花”は幽霊に例えられる事も!
1日目に芽が出て、2日目でなんと20cmも伸び、5日目にはつぼみが赤く色づき、
なんと7日目で開花したのです。確かに、ヒガンバナはちゃんと1週間で発芽から開花まで
してしまうのです。



◆ 不吉なイメージが先行する彼岸花だが、不吉な事ばかりではない!?

>「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味。
おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ています。


※ サンスクリット語とは: 古代インド・アーリア語に属する言語。ヒンドゥー教、仏教、
シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語でもあり、現在もその権威は大きく、母語話者は少ない。




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◆ 韓国では”相思華”と呼ばれる

韓国では彼岸花のことを「相思華」ともいう。これは彼岸花が花と葉が同時に出ることはないから
「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味である。
お互いを見ることの出来ない花と葉がお互いを想い合うだけ。
なんだか悲恋を連想させます。そう考えるとあの強烈な花の色も、毒々しいものではなく、
思いの強さを伝えるものに思えてきます。


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# by kfujiken2 | 2017-09-24 16:48 | | Comments(0)

徳山藩の諸隊・山崎隊に下松在住の人がいた

今回の投稿は、徳山藩の諸隊・山崎隊の説明がメインではなく、山崎隊の中に下松在住の人が55名いたという説明です。発足した当時ではなく150人前後に増員された時期ではないかと想像します。


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周南市新南陽にある富田護国神社は、明治2年(1869)、徳山藩山崎隊の戦没者23名を祀る招魂場を富田永源山頂に創建したことに始まります。
富田護国神社の社殿の後ろに説明版には23柱と記してありますが、実際は32柱の招魂墓碑が並んでいます。これらは山崎隊士だけでなく献功隊士のものだと想像します。
がしかし、この中に下松在住の人が祀られているかは分かりかねます。


山崎隊は下記で説明致しますが、簡単に献功隊について説明しましょう・・・
献功隊は、明治元年に朝気隊、斥候銃隊、武揚隊、順祥隊を合併し、
結成された部隊で、17~40歳迄の士族で構成されています。
後の満州軍総参謀長児玉源太郎もこの隊に在籍していました。



さて、下松在住の人の説明に入る前に、山崎隊について簡単に説明しましょう・・・

山崎隊は、1866年(慶応元年)4月、富田村の庄屋・政所である岩崎庄左衛門を賄方として、
「富田隊」という仮称で創設された部隊で、創設地の地名の山崎八幡宮にちなんで「山崎隊」と
改称されました。陣営は、富田新町の浄真寺があてられた。
第二奇兵隊の結成より3カ月後のことであり、諸隊の中では遅く組織された隊である。このように、
徳山藩での諸隊の組織化が遅れた原因は、徳山藩府内に保守派の力が強かったためといわれている。
山崎隊は、隊長・宮本小十郎他およそ50人で発足したが、やがて150人前後となり、慶応四年三月には
80人増員され、230人となった。山崎隊の特徴は、士庶を問わない有志の者で結成された点にあります。
1866年(慶応2)6月の四境戦争開始までは、徳山周辺の防衛に従事する。四境戦争が勃発すると、
一中隊が芸州口の戦いに参加した。翌67年には、一隊が占領地である小倉城の防衛に従事する。
同年、本隊は京都に進駐し、翌68年(明治元)正月、鳥羽伏見の戦いが始まると、本隊はこの戦いに
参加して戦功をあげた。さらに、同年9月戊辰戦争が始まると秋田攻撃に参加、別の一隊は青森へ転戦し、翌69年の函館戦争で大変な苦戦をなめている。


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社殿の前の広場です。創建が明治2年という事ですが、鳥居は何時造られたかは確認しませんでしたが、至ってまだ新しいものです。台風一過のため落ち葉が散乱していますが、よく整備されています。


それでは本日の本文に入ります。
山崎隊へ下松市域内徳山領諸村から多くの農町民が参加していた。「同隊人名録」(徳山市立図書館叢書16)によると、市域内出身隊員は55名である。

「出身村別表」

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出身村別表」をみると、各村ともまんべんなく数名が入隊している。しかし、大藤谷村~河内村は山村であり、戸数・人口ともに少ない村である。これに比して、東西豊井村や下松町上松浦は戸数・人口ともに多い。この両者を比較すると、山村の30人に対して、海岸市街地は20人である。山村の農民が、尊王攘夷の思想に共鳴し、郷土防衛の意識が高かったため、このように多くの者が応募したのであろうか。どうも、そのようには考えられない。

「長男と次三男別表」

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山村と市街地出身兵の「長男と次三男別表」をみると、山村出身兵35名中、長男は11名で、次三男は19名と倍近く多い。それに比して、下松町を中心とする市街地では、次三男より長男の方が5名も多い。このことは、山村の農家の次三男は、山村で暮していても将来への展望がないため、新しい軍隊に応募することにより、自分の将来を切り開こうとしたのではないだろうか。

「出身階層表」

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ここにみるように、農民と商人が計五二人で九五パーセントに達し、圧倒的に多いことが分かる。神職の二人は山田村と生野屋村で、下士は河内村出身である。

「年齢別表」

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最年少は一三歳の少年から、最高年齢は三〇歳であり、平均年齢は一九歳であった。


以上が市域内出身兵の分析であるが、このことは山崎隊全員の傾向と合致するものと考えられる。又、この表を見ると発足半ばの隊員150人前後の内、下松市在住の人が三分の一を占めていたことが分かる。

※ 下松市史 通史編 明治維新時の下松1 諸隊の動向 山崎隊の結成を参考にさせて頂きました。

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# by kfujiken2 | 2017-09-21 08:10 | 歴史 | Comments(0)