長州より発信 |
カテゴリ
リンク
以前の記事
最新の記事
ブログジャンル
|
山口を平定し「西の京」を造り、大きな足跡を残した大内氏。
大内氏は、日本の氏族の一つ。本姓は多々良氏。 百済の聖明王の第3王子・琳聖太子の後裔と称されている。 琳聖太子が日本に渡り、佐波郡多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、 後に大内村(現・山口市仁保下郷)に居住したことから大内を名字としたとする。 しかし琳聖太子の記録は古代にはなく、 大内氏が琳聖太子後裔を名乗るのは14世紀以降とされており、 大内氏のことが歴史の上ではっきりしてくるのは、平安時代末期になってからである。 代々、周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外、 実態は不明である。 琳聖太子は、 大内氏の伝説的始祖とされているが、 611年(推古天皇19年)百済国聖明(さいめい)王第三子、 琳聖太子が周防国多々良浜に上陸した。 琳聖太子は摂津に上り、聖徳太子に拝謁して、 「周防国大内県(おおうちあがた)を賜った」と言う。 琳聖太子は青柳浦(現・下松市)に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、 桂木山(下松市の笠戸島へ渡る橋の手前の小さな山) 現在の宮ノ洲古墳と呼ばれている洲鼻に建立し、 日本で初めての 「北辰祭(妙見祭)を行った」と伝えられている。 妙見宮鷲頭寺は、推古5年(597年)大内氏の太祖琳聖太子によって開かれ、 大内氏の氏神として栄え、妙見信仰発祥の宮寺と言われています。 現在の下松市の地名発祥とも深いつながりがあります。 当寺の妙見さまが、推古3年9月18日に、松の木に御降臨なされたことにより、 下松の地名ができたと伝えられています。 当寺の本尊は妙見大菩薩で、真言宗御室派の中本寺です。 つまり、琳聖太子は、大内村(現・山口市仁保下郷)よりも14年も前に 青柳浦(現・下松市)に住まわれていたことになります。
by kfujiken2
| 2011-08-10 07:31
| 歴史
|
Comments(1)
|
フォロー中のブログ
コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧
|
ファン申請 |
||