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長州より発信


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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【昭和の吉田松陰】と言われた〔松村義一〕 Part2

5月20日に一部アップした下松市に誕生した郷里の偉人

【昭和の吉田松陰】と言われた〔松村義一〕 Part2_d0061579_1152326.jpg


《松村義一のエピソード》

◆ 地方官時代の執務ぶり

1916年(大正5年)石川県警察部長時代、石川県は温泉地帯も多く、従って風紀の乱れが問題となっていた。
松村義一は業者などの不評を眼中に置かず、徹底的に取り締まり風紀を保持して一般識者からも喜ばれ、感謝された。

1926年に当時の警保局長であった松村義一が警察本部会議に
公娼制度の改廃に関する諮問案を提出し、廃娼論がさかんになった。

石川県の公娼制度の廃止の事由書

① 公娼制度は、人身を売買し、拘束する事実上の奴隷制度である事。

② 男女の性道徳を破壊し、淫蕩的気風を誘発し、家庭を傷つけること

③ 花柳病伝播の原因

④ 私娼の発生を促す

(しかし、実施は、過度期の処置として芸者の売春を認可している)

◆ 内務大臣就任辞退

昭和21年、総選挙の結果自由党が第一党となり、総裁・鳩山一郎が内閣首班となることが決定的となった。
しかし、就任直前に天皇の統帥権の干犯問題や滝川事件を発生させたこと等を、GHQが問題視したため、
公職追放となり吉田茂が自由党相殺に選任され、組閣をすることになった。 
  
鳩山一郎は、かねてから松村義一の戦前・戦中の信念的活躍を尊敬し、内務大臣就任を予定していたので、
吉田茂に対して松村義一を内務大臣に採用するよう推薦したのである。

ところが先の幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)内閣で決定している、憲法改正草案には反対の意見を
持っていたので、吉田新内閣の草案に対する考え方を確かめた上で態度を決めるつもりであった。
入閣を熱心に薦められたが、吉田茂総裁の態度に納得することが出来ず、内務大臣を辞退したのである。

その上、GHQと政府で相談している新憲法案には、自分は反対という理由で、貴族院から排除し、
当時の下松市の市長に就任せられようとしていた就任も禁止し、且つ、一切の公職に就くことを禁止すると
いう公職追放にあった。

※ 下松市議会において岩本亀三議長ほか6名の推薦で、松村義一の下松市長就任を提案

総司令部で起草し、押し付けた憲法改正草案に反対という理由で、入閣を断ったということが総司令部を刺激し、
そのために理由にもならぬ理由をつけて公職追放にされた。
理由は、大正15年警保局長在任中に、農民労働党の解散を命じ、京大の社会学研究会を解散して学生
の検挙を行った。このことにより、言論集会の自由を抑圧し、日本の全体主義ファシスト国家への途を開
いたというのである。

◆ 改進党の結成(改進党山口県支部)と後進の推挙

昭和26年8月大量追放解除によって、戦前の政治家が殆ど全面的に政界に復帰した。
自由党では鳩山一郎、三木武夫、石橋湛山ら鳩山グループの復帰が、吉田ワンマン体制をゆさぶり始め、
また旧民政党-進歩党系の大麻唯男、松村謙三、堤康次郎らは「新政クラブ」ヲつくり、民主党に向かって
反吉田の新政治力結集を呼びかけた。

同じ時期に追放解除となった松村義一は、鳩山一郎から盛んに政界への復帰を勧められ たが、
彼は固くこれを断って自らは政界に出馬しなかった。
しかし占領下に制定された憲法の改正その他、引続き政治の刷新と日本の将来に深い 関心をもって後進を指導した。

昭和27年2月、中央において改進党が結成されるや、志を同じくする後進の高村坂彦と
共に、改進党幹事長に就任した三木武夫を招き、更に西田文治(宇部市長)、 滝口芳春(阿武郡旭村)、
宮地良三(元防府市長)、神徳達也(三田尻病院長)、友広博(前山口県議会議員)などと相図り、
県下各地で改進党時局第講演会を催し、 改進党山口県支部を結成した。

1952年 第25回・1953年 第26回衆議院議員総選挙では同志の高村坂彦を、 山口県二区から推挙して戦ったが、
折から高村坂彦が自動車事故で倒れるや、 松村義一自らその代理人として至誠の熱弁をふるい、憲法改正の必要性を力説したが、戦い我に利あらず、惜しくも次点で涙をのんだ。

昭和30年 第27回衆議院議員総選挙において高村坂彦が当選するや、 まさに我がことのように喜んで、
その活躍を激励し見守ってきた。

【昭和の吉田松陰】と言われた〔松村義一〕 Part2_d0061579_11223282.jpg


◆ 改憲論で活躍


松村義一が独立後政治に積極的に乗り出したのは、日本国憲法の改正が悲願からであった。
このことは、吉田内閣に入閣を辞退したのも、一に日本国憲法草案に反対の為であったことは、
既に記したところである。
日本が独立を回復したからには、アメリカ占領軍によって押しつけられた国家の根本法である日本国憲法は、
断じて改正すべきである。
国家、民族の政治の根本精神である憲法が、その民族の自主性の完全に失われていた 時代に、
その国家、民族の伝統をまったく無視し、日本弱体化の占領政策の方針に基づいて、占領軍によって起草され、
日本国民の自主性のなかった憲法を、そのままにして 置く根性では、日本国の真の独立は到底達成し得るものでは
ないというのが、 松村義一の信念であった。

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【統帥権干犯問題】

ロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対して、天皇をさしおいて、
政府が兵力数を決めてきたのは憲法違反である。天皇の統帥権を犯すものだ、と言い出した。
この問題により内閣は軍に干渉できないことになってしまった。

【滝川事件】

京都帝国大学の滝川幸辰の学説・思想を非とするとして、
鳩山一郎文相が小西重直京大総長に法学部の滝川幸辰教授の罷免を要求した。
京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、
文部省は文官分限令により滝川の休職処分を強行した。  
by kfujiken2 | 2012-06-05 11:37 | 歴史 | Comments(1)
Commented at 2023-05-08 20:16 x
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