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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

「くだまつ大人の学校2014」に参加して

10月19日に開催された、くだまつ観光・産業交流センター主催の
「くだまつ大人の学校2014」に参加しました。

題材が「地名から読み取る古代山陽道と江戸時代の往還道」でした。
かいつまんで説明致します・・・


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◆ 古代山陽道について

7世紀後半、中央集権的な地方支配のための、官道の築造・整備を不可欠の事業とした。
山陽道は律令国家の畿内・七道の一つとして、都城から大宰府に通じるルートのうち、
本州の最西端にいたる要路であるとともに、周防・長門両国以下の播磨・備前・備中・
安芸(和銅六年以後、さらに美作)の諸国を支持する名称として用いられることになった。
周防・長門の南端部を東西に貫走する山陽道が、七道の一つとして整備・確立するにあたって、
その先駆形態ともいうべき道路が、すでにヤマト王権の西国、さらには筑紫地方の統属の
過程において、政治的・人為的に開発されたことは、いうまでもない。

律令時代からの七道は、概ね地形的要件に基づいて区分されているが、
西海道以外では道単位での行政機関は常置されなかった。
西海道は大陸との外交・防衛上の重要性から大宰府が置かれて諸国を管轄した。
七道の中でも最も重視されたのが山陽道であり、唯一の大路である。

※ 大宰府とは・・・律令制で筑前国に置かれた地方官庁。九州諸国の行政の統轄,
外国使節の接待,海辺防備などに当たった。福岡県太宰府市にその遺跡がある。


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ヤマト王権の朝鮮出兵、朝鮮・中国との往来が、多くの場合内海を通路にしていたにしても、
六世紀末以降、筑紫大宰から大和への通報が、「駅使」「駅馬」によって行われたとの記憶は、
陸路利用の歴史上、興味深い。

※ 駅使(えきし)とは、古代に駅馬に乗用することが許された公的な使者。
※ 駅馬(えきば/はゆま)とは、駅家に配置され、駅路の通行に供用された馬。


原則として30里(現在の約16キロメートル)ごとに駅家が設置されてた。
古代の駅家は兵部省の管轄下にあり、監督業務は現地の国司が担当し、
実際の業務は駅戸と呼ばれる駅周辺の農家が行い、
そのうち富裕で経験豊富な1名が駅長に任ぜられた。

※ 駅家(えきか/うまや)とは、古代日本の五畿七道の駅路沿いに整備された施設。

現在のところ山陽道の所在、ルート、あるいは駅家の所在地さえ、全く確認される至らず、
おおよそのルートの推定に留まっている事は否定しがたい。


◆ 中世の中国筋

武家政権がはじめて鎌倉に、ついで京都に開かれたことによって、幕府所在地を中心とする
道路網の整備が行われたが、中央集権支配にもとづく官道的なルートや統一的な道路管理は
存在しなくかった。代わって周防国や長門国の国衙、あるいは地方豪族の経営する宿を中核と
する交通集落が、局地的な交通・交易の拠点となった。
幕府御家人の通行、荘園年貢の運送、商品生産物の流通などで、中国筋の道路が利用された。

荘園制が衰退し、新たに地方産業が勃興してくると、商品流通が進展し交通の要地に市(いち)が
形成され、市がまた宿場としての交通機能を兼ねるようになった。

※ 市は現在の商店街と理解すればいい。

宿場はまた社寺の門前に発達し、くだまつし花岡八幡宮の花岡市、防府市松崎天神の宮市、
下関市忌宮神社の長府市などが著名であった。


◆ 近世の中国筋

戦国期における大内・毛利氏による領域的・分権的な道路・交通政策は、天下統一を志向する
織豊政権の全国統一的な諸施策のなかで、大きく転換した。
幕府の諸大名支配強化のための参勤交代の制度化、ついで寛永12年(1635年)の
武家諸法度で外様大名の毎年4月中の参勤が決まると、在府・在国の往復にともなう中国路、
あるいは一行の通行に不可欠な宿駅・一里塚・道松などの施設の改良・整備がいっそう進んだ。

※ 宿駅とは宿場のことです
※ 一里塚とは主要な街道に1里(約3.927キロメートル)毎に旅行者の目印として設置した
塚(土盛り)である。塚の側に榎・松などを植えたり標識を立てたりしていた。

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by kfujiken2 | 2014-10-22 14:46 | 未分類 | Comments(0)
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