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井上馨は山口・湯田の生まれで、萩出身で多くの幕末志士を輩出した松下村塾の
門下生でなく、藩校・明倫館で学んだのです。 毛利藩が伊藤博文・山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助と共にイギリスに密航・ 留学させた「長州ファイブ」の1人ですが、馬関海峡での西洋船砲撃のニュースを知り、 伊藤博文と一緒に急遽帰国し、高杉晋作を全権とする講和交渉の通訳を勤めています。 第1次伊藤内閣の外相に就任。鹿鳴館に象徴される欧化政策を展開し、 不平等条約の改正に奔走。黒田内閣農商務大臣、第2次伊藤内閣内務大臣、 第3次伊藤内閣大蔵大臣等を歴任し、引退後も元老として重きをなした。 ◆ ここで袖解橋(そでときばし)の変・井上聞多(のちの馨)襲撃事件の 話をしましょう!!! イギリスで日本とは比較にならない科学技術の進歩や、工業生産力の発展を実地に 見聞してきた井上馨は、藩内を吹き荒れていた尊皇攘夷の嵐を収めようと開国を 前提とした武備恭順を説きますが、第一次長州征伐では武備恭順を主張したために 元治元年(1864年)9月に俗論党(椋梨藤太らの保守派)に襲われ(袖解橋の変)、 瀕死の重傷を負った。ただ、芸妓の中西君尾から貰った鏡を懐にしまっていた為、 急所を守ることが出来、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受けて一命を取り留めた。 この時あまりの重傷に馨は兄・光遠に介錯を頼んだが、母親が血だらけの馨を抱きしめ、 「斬るなら、この母もろともお斬り」と泣き叫び兄に介錯を思いとどまらせた。 この時のエピソードは後に第五期国定国語教科書に「母の力」と題して紹介されている。 井上馨の袖解橋の遭難に馳せつけ、数か所の刀傷を五十数針縫い合わせる大手術をなし、 瀕死の井上馨を奇跡的に救った。 後年の井上の業績を思うとき、この所郁太郎の治療を忘れてはならない。 武備恭順とは・・・武備とは読んで字のごとく「武に備える」で、 恭順とは、「命令につつしんで従う態度をとること」です。 他国と仲良く振る舞い、表向きは従う態度を取りつつ、 内心では戦うことも想定し、備えるのです。 それにしても理解できないのは井上馨が、恭順を主張する俗論党に何故襲われたかです。 確かに俗論党の主張は全面謝罪、つまり絶対恭順ですから武備を整えるのは幕府に 反抗の意を示す背信行為で藩を危険に晒す暴論と映るかも知れませんが、 徹底抗戦を叫んでいる訳でなく方向性は同じなのですから、藩の存亡危機に際して 大同団結することはできないものでしょうか? 似て非なる者をことさらに排除するのが山口県人であり、「白でなければならない」と 言えば薄い灰色や水玉模様も「汚れている」と指弾され、気がつけば「真っ黒」にされているのが山口県の論法らしいです。 ◆ どこまで本当か分かりませんが、ダーティーなイメージの井上馨 井上馨が三井財閥や長州系の政商(山城屋和助・藤田伝三郎・久原房之助・鮎川義介)と 密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やしたダーティーなイメージの強い人物で あることは間違いない。 一時は実業界にあっただけに、三井財閥においては最高顧問になるなど密接に 関係しているだけに、否定のしようがないわけだ。こうしたあり方を快く思わなかった 西郷隆盛からは、井上は政府高官ながら“三井の大番頭”ともいわれたほどだ。 明治の元勲たちにもあった“互助”意識とでも表現すべきものが存在したわけだ。 井上は一時は三井組を背景に、先収会社を設立するなどして実業界に身を置いたが、 伊藤博文の強い要請のもと復帰。 様々な要職を歴任、鹿鳴館を建設、不平等条約の改正交渉にもあたっているが、 汚職・不正疑惑の噂が常につきまとう、“貪官汚吏”の権化とされる人物だったようです。
by kfujiken2
| 2015-06-19 14:14
| 歴史
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Comments(1)
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