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天保14年(1843年)~元治元年7月19日(1864年8月20日)
周防国熊毛郡高水村生まれ。藩士寺島太次郎直一の次男。 作間家の養子となるがのち復縁。 寺島 忠三郎が地味だったというよりも、久坂玄瑞や高杉晋作達の四天王や、 維新の元勲として栄達を極めた伊藤利助(博文)・山縣狂介(有朋)に 比べますと、もうひとつ知名度が落ちることは否めませんね! 彼が歴史上名を知られる所以となった出来事は、禁門の変で久坂と最期を 共にしたという劇的な事実に尽きると思われます。 松陰の門弟になったのは、十六歳を迎えた安政5年(1858)頃であり、 同世代クループの中では、少し前に弟子入りしていた野村靖は別として、 品川弥次郎が同年に松下村塾を叩いています。 松陰はまだまだ年少の寺島の未熟を知りながらも、『朴訥で沈毅の性格である』 『自分の考えを固く信じて、なかなか改めようとしない頑質なタイプだ』と 批評したうえで、『すこぶる愛すべき人物である』とその成長に大きな期待を 寄せていました。彼の足跡を眺めますと、先輩の久坂玄瑞と行動を共に してるケースが多々見受けられます。 松陰死去まもない、安政6年(1859)末から翌万延元年(1860)にかけて、 村塾メンバーは講孟?記(こうもうさっき)の講読等、頻繁に会合を持って 同士の絆を強めることに努めていたのですが、取り分け久坂は『松陰先生の教えを 不朽にすべく、幼い子弟に教え広めたい』と考えており、 村塾の教室に年少者を対象にした勉強会を主宰していました。 その後一貫して、寺島は久坂と行動を同じくして、尊王攘夷運動に身を投じるのですが、既にこの段階より両者の関係の素地は十二分に出来上がっていたのでしょう。 久坂玄瑞を兄のように慕う様子であった寺島の姿を見ても分かるように、 久坂という人物は周囲の者が一緒に付いていきたいと思うくらい、 容姿挙措(きょそ)が優れており、まさに男が男に惚れるという言葉がありますが、 その最右翼的な存在が寺島忠三郎であったといえます。 ※ 挙措とは、立ち居振る舞いのこと。 ◆ 寺島忠三郎誕生の地 周防国熊毛郡原村生まれ・・・現在は周南市大字原(西原) 顕彰碑と辞世の碑 漢詩が読めない人のために、親切に説明版があります。 ★ 次回は旧山陽道沿いの名所旧跡をご紹介致します。
by kfujiken2
| 2015-07-20 11:30
| 歴史
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Comments(1)
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