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以前から気になっていた徳山毛利藩祖の乳母開基のお寺・妙法寺と
下松市大谷墓地にある乳母の墓にお参りに行って来ました。 徳山毛利藩祖の乳母開基のお寺・妙法寺の入門 徳山毛利藩祖の乳母・清安院様のお墓 妙法寺を開基したのは、徳山毛利藩祖の乳母・法名を(清安院殿光誉栄信大姉)と いい、乳母・清安院は徳山毛利家の家老の御息女でたったそうです。 開山したのは一華宗順大和尚だそうです。 (現存する妙法寺の200m東にあった清安寺は、乳母の父親が開基したお寺だそうですが、妙法寺と合併し、2度の大火で山門のみ残し全焼して詳細な寺史がないと記述されています。) 開基とは:寺院の創始にあたって必要な経済的支持を与えた者、 ないし世俗在家の実力者を指す語である。 開山とは:寺院を創始することを指す仏教用語である。 ところで疑問に思う事が2つあります。 ① 乳母は誰だったのか? ② 徳山毛利家の家老とは誰だったのか? ◆ 毛利就隆の誕生から、下松藩に入るまでの経緯を簡単に 説明しましょう。 慶長7年9月3日(1602年)京都・伏見生まれで、翌8年秋、父母に連れられ 山口の仮住まいに帰る。慶長16年(1611年)関ヶ原の戦の責任をとり 徳川家康の要求により、人質だった兄である本藩主毛利秀就に代わり、 9歳だった毛利就隆が身代わりの人質として江戸に移り住んでいます。 (毛利輝元が隠居になり代わって秀就が当主となった為) 1617年(元和3年)16歳の時に3万石を分与されたことから下松藩を立藩したが、 元和8年(1622年)(20歳)就隆は江戸に於いて従五位下に叙し日向守に任じられた。以後、寛永15年(36歳)までの十数年間、江戸に滞留していた。 下松に入ったのは1638年(寛永15年)(36歳) 妙法寺の本堂の軒にある毛利家家紋が、関係があったことを証明しております。 まず①の疑問ですが・・・ 徳山毛利藩祖といえば、毛利輝元の次男・毛利就隆(慶長7年9月3日・1602年)だが、 乳母が必要な幼児期といえば、満1歳から満12歳ぐらいまでだろうと推察します。 毛利就隆は京都で生まれで、翌8年秋には山口に帰っています。 9歳頃から身代わりの(人質)として江戸に移り住んでいます。 つまり毛利就隆に乳母が必要だった時期といえば、山口にいた9年間ではないだろうか?では乳母・清安院とは誰でしょう? 何と言う家老の御息女だったのでしょう? 乳母・清安院と豊井の小さなお寺・妙法寺との関連、又、乳母・清安院が 何故下松市にと!!!疑問が出て来ます。 疑問②と関連しますが、下松生まれで下松育ちなのか? ②は下松藩(徳山藩)が立藩されたのが1617年(元和3年)で、 毛利就隆が下松に入ったのは1638年(寛永15年)(36歳)です。 下松藩の筆頭家老が奈古屋元忠(なごや もとただ )だったことは分かっていますが、 毛利就隆の幼少期とは、時代の誤差があります・・・ 輝元は特に就隆の保育に心を砕き、粟屋肥前らを守役につけ、常に輝元の膝下におき、 就隆は苦労のない日々を送った。と期してあります。
by kfujiken2
| 2015-11-09 08:40
| 歴史
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Comments(1)
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