「日本のシンドラー」杉原千畝(すぎはら ちうね)を知っていますか?

今の時代にこそ、危険を顧みず職を賭して(として)、人を助ける・・・
政治家・官僚にこんな人がいてくれたら!!!
「命のビザ」とよばれる日本通過ビザを大量発行し、ナチス・ドイツに迫害される
6000人ものユダヤ人を救った気骨の外交官「杉原千畝」 波乱に満ちたその生涯とは?

第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝は、
ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。
1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。
その避難民の多くが、ユダヤ系であった。


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彼が「日本のシンドラー」と呼ばれるようになるまでの道のりを
ご紹介しましょう・・・


※ ユダヤ人を助けた人は「◯◯のシンドラー」と呼ばれている。
「◯◯のシンドラー」のモデルになったのはオスカー・シンドラーという
ドイツ人の実業家です。
オスカー・シンドラーは第二次世界大戦中、自身が経営する工場で
必要な人員確保という名目のもと、約1200人ものユダヤ人の命を
ナチスによるガス室での虐殺から救った人物である。


税務署の職員だった父が日本統治下の朝鮮の京城に赴任していたこともあり、
京城学医専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいたが、
杉原自身は医学に興味はなく、早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。
しかし、杉原千畝は早稲田大学を中退し、日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。
外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、そこでロシア語を学ぶ。

1924年(大正13年)に外務省書記生として正式に採用され、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)3月に満州国政府外交部事務官となる。
日本が経営権を持つ南満州鉄道が爆破されたことを契機に、満州事変が勃発しハルビンの
日本総領事館にいた杉原千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向。満洲国政府外交部で杉原千畝が任された大仕事、それは中国とソ連 が共同所有していた北満州鉄道の譲渡交渉であった。
ソ連との交渉で外交的大勝利といえる成果をあげ名声を得た。


1936年(昭和11年)本国の外務省に復職し、モスクワ大使館赴任を任命されたが、
ソ連が杉原千畝の入国を拒否。国の外交官の入国を拒否するという通達は
まさに異例中の異例のことであったが、その理由は北満州鉄道譲渡交渉の時に
杉原千畝が見せつけた外交官としての手腕をソ連が恐れたためだと考えられている。

1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、
次いで1939年(昭和14年)いよいよ運命の地、リトアニアの在カウナス
日本領事館領事代理となる。
当時のヨーロッパは急速に拡大するドイツの勢いに対し、イギリス・フランスは
話合いでドイツの望むものを探り、妥協をもって現状の修正を図り、
戦争を回避しようとするいわゆる宥和(ゆうわ)政策をとっていた。
しかしながら、小国を犠牲にして一時的な平和を得ようとしたこの政策は
急速に強大化するドイツの前に破綻。
日本の友好国・ドイツが、共通の敵国であったはずのソ連と「独ソ不可侵条約」を
締結したことで、日本外交はまさに大混乱に陥っていた。
バルト海に面したリトアニアは東欧の小国であったが、開戦を間近に控え、
ドイツとソ連に挟まれた地理的状況から、両国の情勢を探り、
緊迫したヨーロッパ情勢を巡る機密情報を収集することが杉原の最大の任務であった。
1940年(昭和15年)ソ連軍がリトアニアに侵攻。杉原の元にもソ連から通達が届く。
「リトアニアは独立国ではなくなったため、各国は領事館を閉鎖し、領事館員及び
その家族は、国外退去すべし」残された時間はあとひと月。
出来る限りの情報を本国へ送ることで、杉原の任務は終わるはずだった。
本来、国を代表する外交官という特権的地位が認められているにも関わらず、
彼らの生活にもドイツの黒い影が密かに忍び寄ってきていた。
いわゆるスパイの存在である。


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ナチスドイツの脅威が迫る中、隣国ポーランドからやって来たユダヤ人たちが
生き残るためには、もはや日本通過ビザを取得し第三国に逃げるしか道は残されておらず、
彼らの運命は杉原の双肩にかかっていた。
ユダヤ人の根絶政策を掲げるナチスの手から逃れるためには、
今や、ポーランドのユダヤ人に残された避難ルートは、ソ連をシベリア鉄道で横断し、
日本へ渡り、そこからアメリカなど第三国へ渡るほかに道は残されていなかった。
ナチス・ドイツは進撃は西のヨーロッパをほぼその勢力下においていたため、
ユダヤ人たちは一刻も早くリトアニアから脱出する必要があるものの、
西へ逃げる道は完全に閉ざされていた。
であれば東、つまりソ連へ向かうしかないが、ソ連での安住は期待できない。
ナチスはもともと反共産主義であり、いずれ関係が悪化してソ連と戦争になると
予想されており、そうなれば、ユダヤ人の身に危険が迫ることは明白だった。
リトアニアのユダヤ人たちは、東へ向かうしかなく、かつソ連を早く
出なければならないという状況に置かれていたのだった。
そこで注目されたのがソ連の隣国である日本だった。

日本がユダヤ人弾圧政策を行っていなかったことに加え、ソ連の退去命令により、
リトアニアにある各国の在外公館が閉鎖されていく中、この時点で開いていたのは
日本領事館だけだったというのも理由の一つであった。
しかし、日本とドイツは同盟関係にあったため、日本も安住の地とはいえなかった。
そこでユダヤ人たちは名目だけでもよいから行先国を設定し、
そこへ向かうため日本を通過することを認めるビザを日本領事館が発給して
くれるよう求めたのだ。
「日本の通過ビザ」を求め必死になって懇願するユダヤ人たちを目の前にして、
杉原千畝は苦悩していた。
ナチス・ドイツの脅威が迫っており一刻を争う状況の中、杉原千畝は緊急のビザ
発給許可を外務省に求めるが、外務省は許可を出さない。
杉原千畝は日本から遠く離れた異国の地で無断で大量のビザを発給したら、
自分はもちろんのこと家族の身も危険が及ぶ可能性もあった。
杉原千畝の職を賭して日本通過ビザの発給を決断させたのは、妻・幸子との会話からである。
「外務省に背いて、領事の権限でビザを出そうと思う」
「わたし達はどうなるか分かりませんけど、そうしてあげてください」
と言った妻の言葉で決断した。


「杉原千畝 スギハラチウネ」

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by kfujiken2 | 2015-12-24 10:34 | 歴史 | Comments(1)

Commented by hiroshijiji1840 at 2015-12-28 12:32
!!(^^)!!ブロ友・Fujikenさん、お早うございま~す!
ご無沙汰しております。
今年も残す所あと数日になりましたネ。
今年もひろし爺のブログにお越し頂き、有り難うございました。
@(*^_^*)@来年も本年同様に御付き合いの程、宜しくお願い致します!

!('_')!来年も色んな情報を見聞させて頂くのを楽しみにしております!

●↓●今年最後のMyBlog投稿は・・
師走のお忙しいひと時を一服がてらDBと動画でリラックスして頂ければ嬉しいで~す!
!(^^)!来年も素晴らしい年に成りますように祈願しております<合掌!>