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吉川経幹(きっかわ つねまさ)は、江戸時代末期の周防国岩国領の第12代領主のち岩国藩初代藩主。
岩国藩といえば毛利元就の次男・毛利元春(吉川元春)が吉川家の養子に入ってから陽の目を見、 吉川元春の3男・吉川広家が岩国領初代領主となって世に出た。 吉川史料館で開催されている【吉川経幹展】に行って来ました。 長州を救った男という所以を説明しましょう・・・ 吉川経幹は文政12年(1829)9月3日、第11代岩国藩主・吉川経章の子として生まれた。 16歳で家督を相続しその3年後の弘化4年(1847)には将来を見据え、文教の重要性から藩校養老館を 建てている。 第一次長州征伐では幕府との間で仲介役として奔走する。征長軍の規模はおよそ15万これに対して、 長州藩は外国との戦いなどで疲弊し、武備もまだ旧式で勝ち目はなかった。 そこで、長州藩主・毛利敬親は、朝廷、幕府との交渉を岩国の経幹(当時35歳)に依頼した。 経幹は極秘に岩国を訪れた西郷隆盛らと対面。長州藩三家老の切腹と敬親の謝罪状の提出などを 条件に、長州への攻撃を延期することを請うた。 そのころ長州藩は、二つの派閥の間で揺れ動いていた。幕府に一意に恭順しようとする保守派と、幕府恭順の 姿勢を見せながらも来る戦いに備えて武備を急ごうとする革新派である。 この二派のせめぎ合いのなかで、経幹は征長延期の条件履行を何よりも急がせたのだった。 こうして、条件が履行されると経幹は、自ら征長総督府が置かれた敵地・広島へ赴き嘆願。 ついに、征長軍は撤兵し、交戦の無いままに第一次長州出兵は終結に至った。 経幹の働きによって、長州は焦土の危機から救われたのである。もし、第一次長州出兵において征長軍による 総攻撃が決行されていたならば、その後の薩長同盟の締結もされず、大政奉還や王政復古も成しえず、 明治という時代を迎えることは無かったであろう。 また、慶応3年(1867)の経幹の死(享年37歳)が明治2年(1869)まで公表されることが無かったのは、 幕末の激動の中、毛利宗家存続のために奔走した経幹の働きから、吉川家かねてよりの悲願であった 城主格となる名誉を経幹へ与えたかったという敬親の思いがあったからかもしれない。 ここで周防国岩国領から、岩国藩になった経緯を説明しましょう!!! 吉川家の所領が「岩国藩」と呼ばれることがあるが、その位置付けはちょっと説明が難しい。 岩国藩を長く悩ませた「家格」問題である。吉川家の当主は諸侯たる官位を与えられず、 当時の大名の紳士録である「武鑑」にもその名が載せられなかった。 しかし、幕府との関係では、将軍への拝謁や献上・拝領の扱いも、諸普請などの課役も、 一般の大名並みであったし、江戸には藩邸を、大阪には蔵屋敷を構えるなど、江戸時代を 通じて大名としての実力を持っていた。 江戸時代の呼称としては、岩国藩ではなく岩国領と呼ぶほうが正確だともいわれる。 岩国藩(吉川家)は長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領を支藩とする届けを 出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず (大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われるという、 極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の 慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。 吉川史料館は、隠居所として建築された【昌明館】に付属する建物の一部です。 昌明館に付属する長屋
by kfujiken2
| 2016-12-15 10:45
| 歴史
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Comments(1)
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