長州より発信 |
カテゴリ
リンク
以前の記事
最新の記事
ブログジャンル
|
◆ 伊藤井上両公上陸の碑 「長州ファイブ」の伊藤博文と井上馨二人が、英国滞在半年ほど経ったころに ふと見た新聞にて、 外国艦隊が集結し「馬関攻撃計画」があることを知ります。 そして井上聞多、伊藤俊輔は急遽帰国の判断をし、英国船で大分・姫島に送られ そこから富海に上陸しています。 これが元治元年6月24日でした。 ◆ 富海の本陣跡 富海は徳山藩に属し、山口県内を通る山陽道で海に面するただひとつの宿場でした。 ここの本陣は、東隣の福川宿や西隣の宮市宿が混雑する時に利用されました。 ◆ 飛船問屋 大和屋政助の船蔵 大和屋政助の船蔵に行くまでの路地です。 大和屋政助の大和屋は屋号で、本名は清水与兵衛。幕末、勤皇の志士の活動を援助し、 また、飛船による長州隊員の輸送などに尽力した。文久3年(1863年)9月には、長州を頼って 京都から落ち延びた中山忠光卿(明治天皇の叔父)を、改造した二階の土蔵にしばらく匿いました。 元治元年(1864年)11月には、俗論派に追われた高杉晋作が、萩から山越えで徳地を通って 富海まで脱出し、大和屋政助を頼りました。政助はすぐに、飛船に晋作を乗せ、暴風雨の中を 夜の間に下関まで送りました。 残念ながら現時点では、「大和屋政助の船蔵」の「内部」の見学はできません! 2階が客室、1階が台所や物置、地下室が倉庫になっていて、船を地下倉庫に直接横付けして 乗客や荷物を乗せました。 ※ 飛船(とびぶね)とは:江戸時代から明治前半にかけて小型ながらも帆を一杯に上げて、 小気味よい速力で走る旅客船が発達しており、富海はその拠点でありました。
by kfujiken2
| 2016-12-26 16:54
| 歴史
|
Comments(1)
|
フォロー中のブログ
コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧
|
ファン申請 |
||