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長州より発信


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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長州・明治維新 夜明けの轍(わだち) Part2

③ 大田・絵堂の戦い

長州藩は公武合体から尊王攘夷・尊王開国へと変わり、更に武備恭順となり倒幕の道を
歩むこととなった。長州藩も最初から「尊皇攘夷! 倒幕!」と叫んだいたわけではなくて、
あくまでも幕府に恭順しようという勢力もあって、その勢力のことを俗論党という。
一時期、尊王攘夷派が主流になった日本だが、薩摩藩と会津藩主導による八月十八日の政変
(会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放
したクーデター事件)以後、長州藩は京を追われる立場となり、長州藩士達は八方塞がりの中、
京市街に攻め入り、禁門の変を起こす。そのため、幕府から目の敵にされるようになり、
第一次長州征伐が行われるに至った。


幕府の「第一次長州征伐(1864、7,23)」が発せられると、それまで藩の政治を握っていた
革新派の周布政之助が自害し、蛤御門の責任をとって、益田越中、国司信濃、福原越後の三家老が
切腹するなどしたため、藩の要職は保守派が力を得て、革新派への弾圧が強化されてきました。
この事態を憂い、慶応元年(1865)1月6日、その高杉晋作が率いる、下級武士や農民主体の
第一奇兵隊が下関の功山寺で決起し、既成勢力の長州萩政府軍(俗論党)と、藩の主導権を争う
戦争(大田・絵堂の戦い)が始りました。


長州・明治維新 夜明けの轍(わだち) Part2_d0061579_16485461.jpg
長州・明治維新 夜明けの轍(わだち) Part2_d0061579_16544132.jpg

























大田・絵堂戦役は、長州藩内における正義派(改革派)と俗論派(保守派)との骨肉戦争、
つまり権力闘争に過ぎません。萩でも「今や正義は諸隊にあり」という風潮が強くなり、
藩の政権は「武備恭順」を是とする革新派の手に渡りました。藩主毛利敬親も「これからは
それでゆく」と明言し、以後長州の藩論は統一されて、ぶれることはありませんでした。
一般には知られざる歴史ですが、しかしその意義は大きなものがあります。
もし長州正義派(改革派)が「大田・絵堂の戦い」に負けていたならば、明治維新は数年遅れていたのは確実とみられている。10日間の戦いであったが逆転しかけた歴史の歯車を危機一髪で回天させ、明治維新先駆けの戦いであったことには間違いない!!!



④ 四境戦争 大村益次郎の出現


松下村塾の四天王のうち(久坂玄瑞・入江九一・吉田稔麿)が高杉晋作の一人だけを残して亡くなり、
優秀な多くの塾生や若い毛利藩士を亡くし、これからの毛利藩を中枢で軍事を取り仕切る人物が
居なくなった時、 1860年に長州藩に召抱えられ長州藩士となった、大村益次郎がもっと早く表舞台に
登用されていたら、池田屋事件で吉田稔麿を死なすこともく、 禁門の変で積極策を退け、慎重な姿勢を取り
久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎らを戦死されることは無かったのではないでしょうか?


長州・明治維新 夜明けの轍(わだち) Part2_d0061579_17202262.jpg

長州・明治維新 夜明けの轍(わだち) Part2_d0061579_1721813.jpg



【大村益次郎の生涯】を少し紹介しましょう・・・


大村益次郎は、文政7年(1824年)に長州藩周防国鋳銭司村で村医者の長男として生まれる。
家業を継ぐ為天保13年(1842年)にシーボルトの弟子だった梅田幽斎の門下生となり、
蘭学・医学を学ぶ。 次いで天保14年(1843年)には儒学者の広瀬淡窓に学ぶ。弘化3年(1846年)には
大阪で緒方洪庵の適塾に入門、成績はきわめて優秀で塾頭となる。
二七歳になって郷里に帰り医者を開業したところ、一向に流行らない。 長州藩もこの英才に気付かず、
一村医者としての不遇な生活を送ること三年、その才能を活用しようという人が現れた。
宇和島藩主伊達宗城である。 伊達宗城は高野長英が去ってから、これに代わる洋学者を求めていた
ところ、 緒方洪庵の推薦により彼を招聘することにした。
大村益次郎は伊予宇和島藩に召抱えられ、月に米六俵扶持(知行百石に相当する)を賜わり、
村田蔵六と改名、郷里から妻を呼び寄せて日々を送るようになった。兵書の翻訳・研究や、
軍艦設計等にその才能を遺憾なく発揮した。宇和島に在住すること二年余。更に研究を伸ばすために、
江戸に上ることを請い、 許されて伊達宗城の参勤交代の一行に加わって宇和島の地を去ったので
あるが、 宇和島に来た時は振分け荷物の貧書生、去るときは供廻りの若党と両掛狭箱を担いだ仲間を
引き連れてであった。その栄達が話題になったという。
江戸に出ると、その深い造詣はたちまち世に知られ、「宇和島藩に村田蔵六あり」の評判高く、
徳川幕府の蕃書調所(洋学研究所)の助教授、ついで講武所の砲術教授を、 宇和島藩士の身分の
ままで兼ねることになった。


長州・明治維新 夜明けの轍(わだち) Part2_d0061579_17221581.jpg
長州・明治維新 夜明けの轍(わだち) Part2_d0061579_17225482.jpg





























さて、本題に戻り長州出身の有為な人材の存在を知り、大村益次郎の発掘の経過を説明します。
安政6年(1859年)の10月29日、場所は小塚原の刑場。
偶然この2日前、 伝馬町の獄舎に投獄されていた吉田松陰が斬首されておりました。
その遺骸をもらい受けるため、長州藩の桂小五郎と伊藤博文はこの小塚原の刑場に来ていました。
その帰りに桂小五郎はこの場所で死囚の解剖をしている村田蔵六を見かけます。あの人はどなたです、
と人に聞くと、「蕃書調所の村田蔵六先生です」といわれて、同郷の蘭学医を思い出すのでした。
桂小五郎が、のちの倒幕軍の総司令官、わが国近代兵制の創始者となった大村益次郎こと村田蔵六を
見出したのは、じつにこの時期、この小塚原の刑場だったのです。西洋との戦力の差を知った桂小五郎が、軍備を近代化するために、オランダ語のできる人物を探していた時、彼の名前だけは聞いたものの、あまりの身分の低さに「たいした事ないだろう」とそのまま探さずにいた人物が彼だったのです。
「長州藩にこんな逸材が埋もれていたなんて!」と、大興奮し即座に大村益次郎を、翻訳者として長州に招きます。宇和島藩へ移籍を頼み込み、たまたま時の藩主伊達宗徳の先夫人が毛利家の出という親類関係も
あるので、宇和島藩も無下にも断り切れず、これからも宇和島藩の仕事を手伝うという条件で、
長州藩へ移籍させた。彼の宇和島藩在籍は約七年間であった。
長州藩の要請により長州藩士となった大村益次郎は兵学の講義だけでなく、高杉晋作の依頼を受けての
軍事改革や兵の指導をし、やがては実際の戦場にも出陣していく事になります。
奇兵隊の生みの親が高杉晋作なら、大村益次郎は育ての親と呼べるかも しれません!!!
第二次長州征伐の際、長州藩参謀として幕軍に恐れをいだかせ、 明治元(一八六八)年~明治二年の
戊辰戦争には東征軍参謀として その優れた軍略を発揮した。明治政府においては兵部大輔となり、
軍費調達や新政府軍総司令官として指揮を取り作戦指導した、事実上の日本陸軍の創始者である。
軍事を士族の独占から国民全体の手に移して、近代軍制を確立する ために努力したが、道半ばにして
保守反動派士族の凶刃に倒れた。

by kfujiken2 | 2017-01-22 17:28 | 歴史 | Comments(1)
Commented at 2023-05-10 20:02 x
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