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四熊家は、徳山藩領周防富田(現在 周南市土井)に16世紀から続く旧家で、宝暦の頃から「見学堂」という私塾を開設し、広く医学生を集め、嘉永の頃まで続きました。
主屋は、江戸時代初期から医業を受け継いだ旧家の主屋で、桁行8間半、梁間5間半、2階建てで、 屋根は寄棟造、茅葺で、周囲に桟瓦葺の庇を巡らせています。県下でも数少ない大規模な茅葺屋根を 残す民家で、裏山を背負って建つ姿は、地域を代表する歴史的景観を形成しています。 診療棟は、主屋の玄関脇に前方に突出して設けられた付属棟で、約5メートル四方の診療室と その東脇の出入り口・受付からなります。外壁は鼠漆喰塗りとし、縦長の上下げ窓の窓枠や 隅の柱形は繰形を付けて白漆喰で仕上げ、控えめながら洋風の意匠を造っています。 山口大学医学部の源流 ― 防長二州における医学教育 ― 四熊家は徳山藩内富田土井(現周南市土井)に16世紀中頃から続く旧家であるが、 6代久左衛門為方から医業が始まった。9代久左衛門俊方は宝暦11(1761)年に 長崎で阿蘭陀医術を習得し、地元に蘭方も教授する私塾「見学堂」を開校した。 その後12代直方宗庵(1833~1908)は大阪に遊学して儒学と医学を学び 地元に帰り開業し、さらに戊辰戦争では徳山藩医として奥州、函館に従軍した。 防長二州においては、長崎との距離や交通の要衡下関の存在が西洋医学の受け入れを促進したと 考えられる。また「長崎聞役(ながさきききやく)」の配置や漂着外国人長崎送りに際しての 医家同行などは、長崎からの海外最新情報収集を助けた。 毛利藩には、萩本藩と長府藩、清末藩、徳山藩、岩国藩(幕末までは岩国領)の4支藩が存在したが、 医学教育についてはそれぞれ独自の展開をみせた。 四熊見学堂に加えて、天保年間に萩本藩に開設された漢方と蘭学の優秀な教授陣による独自の 医学教育機関・好生館(堂)、明治初期の赤間関(下関)と三田尻(防府)における医学校開設 並びに独自の医術試験(壬申考試 じんしんこうし)実施など、防長二州の医学教育には ユニークなものがあるが、四熊家と浅山家はその一翼を担っていたわけです。
by kfujiken2
| 2017-03-27 11:12
| 歴史
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