山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


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珍しい写真が手に入りました。

薩摩藩のそうそうたる顔ぶれの藩士が写っています。
佐世保の鎮守府に勤めていた人が持っていたそうですが、人を介してお借りしました。
この写真が本物なのか、偽装されたものなのかは分かりません!!!
著作・発行者は名越佳次郎と記名があり、シールも貼ってあります。
下記でご紹介致します「フルベッキ群像写真」と撮影した人は別ですが、
幕末の志士で著名人を一堂に会して、撮影している点がよく類似しています。
「十六先生之肖像」とは、西南戦争の幹部を意味しているのでしょうか・・・
それならば敵の政府軍に所属したいた大久保利光が、写っているのが不自然だし、
単に薩摩藩の藩士を撮影したのか、理解し難い???


画像をクリックすると大きな画像になります。


写真に番号が記してあります。
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「十六先生之肖像」の番号が写真に記してあります。西郷隆盛はよくご存知と思いますので説明は省きますが、他の人を簡単に説明致します。

1・西郷隆盛
2・村田新八:1866年、長州藩の伊藤博文らとともに上海訪問。明治維新後も、岩倉使節団の一員として欧米視察。生来の器量とともに、豊富な海外視察経験により、西郷の腹心であった桐野利秋や篠原国幹をしのぐ評価を得ていた。
3・大久保利通:小松帯刀とともに、島津久光の側近として藩政改革を推進。明治維新後は、盟友だった西郷隆盛とは、征韓論で対立(明治6年)。西郷らを失脚させることで、初代内務卿に就任。結果的に政権内での実権を掌握することとなる。
4・篠原国幹:明治維新後の新政府では陸軍少将。征韓論で敗れた西郷が下野すると、篠原も職を捨て、後を追って鹿児島に帰った。
5・大山綱良:廃藩置県後、鹿児島県の大参事、権令(県令)となる。
6・永山盛弘:人柄温和にして義に富む。明治4年陸軍中佐、北海道屯田兵の長。
7・村田三介:西南戦争では小隊長として薩摩軍にくわわり、熊本県の植木での戦いで政府軍の乃木希典少佐の軍旗を奪ったという薩摩軍からしたら素晴らしい功績を残した。
8・辺見十郎太:維新後は鹿児島常備隊小隊長、近衛陸軍大尉となる。勇敢な薩軍の中でも特に抜群の武勇を誇り、仲間からの信頼も厚く、弾雨の中を先頭きって突撃する辺見を見てみな勇気づけられたという。
9・桐野利秋:維新前は中村半次郎を名乗っていた。西郷隆盛の右腕であり、護衛役でもあり人斬り半次郎と恐れられていた。
10・貴島清:若きより鎗術の名手として有名であったが、学問にも秀で、文武両道を兼ねていた。
11・山野田一輔:明治期の鹿児島県士族。近衛大隊副官に任命されたが西郷隆盛に従い辞任。西南戦争で戦死。示現流の遣い手だったそうです。
12・小松帯刀:薩摩藩の家老。島津久光の側近として藩政に進出。大久保利通らと藩政改革を推進。薩長同盟の土台づくり、イギリスとの友好に尽力など、その才能をいかんなく発揮。
13・高城十次:不詳
14・別府晋介:桐野利秋は従兄。征韓論の政争で敗れた西郷隆盛が下野すると、桐野利秋らとともに追随。陸軍少佐という職をなげうって鹿児島に帰る。その後、青年教育を目的とした「私学校」創立に、西郷や桐野らとともに尽力。 負傷した西郷を介錯すると、自らも命を絶った。
15・永山盛武:永山盛弘の弟 西南戦争田原坂で政府軍を迎え撃ち、円台寺山で討ち死に。
16・児玉八之進:明治4年近衛砲兵少佐となるが6年辞任して帰郷。10年西南戦争に薩摩軍小隊長として従軍。熊本県八代に上陸した政府軍との戦闘で同年3月26日戦死した。


写真の裏に貼ってある名前のシールです。
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「フルベッキ群像写真」を知っていますか? 見たことありますか?

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「フルベッキ群像写真」というのは、オランダ出身でアメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師グイド・フルベッキとその子を囲み、佐賀藩が長崎にもうけた藩校・致遠館の生徒を写真家・上野彦馬のスタジオで撮影された西郷隆盛、 大久保利通、坂本龍馬、伊藤博文といった明治維新の功労者 46人が写っているという集合写真です。
いったい何時どこで撮られたものか、このメンバーが極秘裏に一堂に会することがあったのか。
写っている人物は、本当に「西郷隆盛」なのか、 「坂本龍馬」なのか、まったく謎だらけで歴史考証的には幾つかの疑問や謎がある写真である。


この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』(博文館)で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、
高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文を発表した(2年後の1976年にはこの論文の続編を同誌に発表)。島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。佐賀の学生達として紹介された理由は、「敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした。
この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていた。また、1985年(昭和60年)には自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという。また、2004年(平成16年)には、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。


2006年2月5日付の東京新聞に載ったフルベッキ写真の関連の記事
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by kfujiken2 | 2017-04-21 11:56 | 歴史 | Comments(0)