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文教の地・三田尻(現 防府)に、貞享3年(1686年)萩の明倫館ができる約30年前に河野養哲が三田尻に
越氏塾(えっしじゅく)を創設した。己の名利を捨て、人材教育にその生涯をかけた、まさに山口県教育の 原点とでも言うべきものである。養哲の死後、越氏塾は三田尻宰判の公費でまかなわれる学校となり、 その後数度の統廃合ののち、元治元年(1864年)には三田尻講習堂という塾名となった。 明治5年(1872年)建物はそのまま華浦小学校となった。楫取素彦(当時:小田村伊之助)は、 吉田松陰が処刑された翌年、万延元年(1860年)に越氏塾の塾長相当として派遣され、教鞭を執りました。 校内に残された碑には「越氏塾後に学習堂と曰い、講習堂と曰い、遂に華浦小学と曰う」と、 明治41年10月に男爵楫取素彦により設置された越氏塾沿革の碑に刻まれている 。 大きい方の石碑は河野養哲碑 小さい方の石碑は越氏塾沿革の碑 河野養哲の説明を少ししましょう・・・ 寛文元年(1661)三田尻の御舟手組の中船頭河野彦兵衛の二男として生まれ,、幼少の頃,父の同僚の家に 養子に入り、その家を継いだ。しかし成長するにつれて水軍の船頭という仕事に馴染むことができず 夜ひそかに書を読んで学問にはげんだ。彼の人生の最大の望みは子弟の教育にあたることにあった。 彼はついに自分の意にそわない船頭役をしりぞき,ついで養家からも去った。 浪人になった養哲は,暮らしをたてるために医業をいとなんだ。医者としての彼は,貧しい家に往診しても 一文の謝礼も受け取ろうとせず,一方,おごり富む家からいくら金を積まれても往診しようとはしなかった。 しかし,医業も彼を満足させるものではなかった。 25才頃,三田尻にかねてから念願の私塾を開いた。養哲の祖先は伊予水軍の越智氏の出であったので, 塾名を越氏塾と名付けた。塾には藩士の御舟手組の子弟や百姓の子弟が身分にかかわりなく同席して 学んだ。養哲はその収入の塾をひらくかたわら医者としても働き、その収入のすべてを塾の経営に つぎ込んだ。
by kfujiken2
| 2017-05-16 16:48
| 歴史
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Comments(1)
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