山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


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意外と知られていないであろう小烏神社(こからすじんじゃ)

防府市を車で散策していると、聞き慣れない神社の小さな看板が目に留まりました。
車を止め読んでみると興味をそそられる内容ではないですか?
車道から神社は見えるのだが、入口が分からない!!!
暫く周囲をうろうろしていたら、住宅地の狭い路地道を見つけました。
そこを入っていくと参道がありました。土地の人でないと知らない道ですね~


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江戸時代の三田尻(防府)は、長州藩の要衝として重視されたことがうかがわれます。
当時の三田尻は、萩城から続く萩往還の終点として、又、瀬戸内海側における長州藩の
玄関口であった。江戸時代初期には、海路で参勤交代へ向かう出発地でもあった。
1654年(承応3年)に長州藩の第2代藩主・毛利綱広が萩往還を造った際に、
三田尻御茶屋を築造するなど、大いに栄えた。
しかし、後に参勤交代が海路から陸路に変更されるに及び、その役割は限定的なものと
なった。


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● 萩往還: 萩城下唐樋から三田尻御茶屋までの約53kmの街道で、 大名の参勤交代の道として整備され 、また日本海側と瀬戸内海側とを結ぶ道として、多くの人々に利用されました。
● 英雲荘 (三田尻御茶屋) : 藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩や宿泊等、また迎賓に使用されまし た。
● 三田尻御舟倉: 藩主の御座船や軍船が常置され、水軍の根拠地でした。

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大政奉還が行われたのと同じ日、朝廷から長州・薩摩藩に対して幕府を武力で倒すようにという討幕の密勅が出されていました。将軍が政権をみずから朝廷に返したことで政治の主導権を旧幕府側に奪われることをおそれた長州・薩摩両藩は王政復古を宣言し、反発にそなえて両藩の兵を京都に送ることにしました。
長州藩の諸隊は鞠生松原(まりふのまつばら)に集まり、八咫烏(やたがらす)を祀った
小烏神社(こからすじんじゃ)に毛利内匠藤内を総大将、楫取素彦を参謀、山田顕義を総指揮官とする長州軍1,200人が討幕の必勝を祈願した後、6隻の軍艦で小田港を出発して京都に向かいました。
この時に出発した諸隊は、翌年の1868年(明治元年)の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍と戦う時の主力となりました。


● 毛利内匠藤内(もうり たくみとうない): 長州藩一門家老である右田毛利家の12代当主・毛利親信

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このあたりは幕末には松林が続く海岸が広がっていましたが、今は埋め立てられ、
現在は○○松原と言うように松原の面影はありませんが、小烏神社の周辺に見られる
松の木が当時の名残りではないかと推測します。


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by kfujiken2 | 2017-05-20 11:10 | 歴史 | Comments(0)