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1918年(大正7年)7月12日、徳山湾に浮かぶ仙島の近くで、戦艦「河内(かわち)」の乗組員621人の尊い命が奪われた悲しい出来事がありました。
慰霊祭のある仙島には、福川の高州漁港から船で行くため、一般市民は容易に参加することが難しく、毎年30~40人の参加者で行われます。慰霊祭に参加した人だけで語り継ぐことが難しいと共に、顕彰会や保存会もなく、あまり知られていない出来事です。 大津島の回天記念館、周防大島町の陸奥記念館などは知られていますが、語り継ぎたい歴史がここにもありますのでご紹介します。 戦艦「河内(かわち)」 戦艦「河内」の沈没場所 仙島(山口県周南市大字富田) 北緯34°0分・東経131°46分 戦艦「河内」の概要 「河内」は、第1次世界大戦前の1912年に日本海軍が竣工させた弩級(どきゅう)戦艦です。 それまではヨーヅロッパなどから輸入していましたが、日本の技術力の向上により設計・建造された 世界でも群を抜く性能の国産初の大型戦艦でした。 「弩級」とは、大型で巨砲を持つことが戦艦の戦力として競い合われる中、当時の世界最大砲12インチ砲を装備した1906年のイギリス最新鋭大型戦艦「ドレッドノート号」の性能を持つ戦艦のことであり、 「ド級」と呼ばれ、漢字をあてて「弩級」と表されました。 「河内」は、排水量20,800トン、全長152.4m、全幅25.7mという大きな艦体に、新設計の50口径(30.5cm)の主砲や副砲などドレヅドノート号の性能を上回る多くの装備を搭載していました。 しかし、この最新鋭の軍艦が、わずか6年で沈没してしまったのです。それ以前にも、日露戦争後の 1905年(明治38年)から1917年(大正6年)までの12年間に、7隻も軍艦の爆発事故が発生しており、 それに続く「河内」の爆沈事故は、日本海軍にとって大きなショックとなりました。 戦艦「河内」の惨劇 第1次世界大戦終わりの頃です。国内は、平時でした。戦艦「河内」は、訓練の途中で、 前日からの荒天を避けるために、他の艦艇(山城、扶桑、伊勢、摂津、河内、利根、他駆逐艦)と共に 徳山湾に停泊中でした。 各艦艇では、夕食の準備に追われていた時刻の午後3時57分、突然右舷前部主砲塔付近で2回の 爆発が起こり、大音響と同時に砲塔周辺部や煙突から大火災が発生し、周辺には無数の鉄片が飛散し、 火柱と黒煙の渦が天空を覆いました。 巨艦は急速に右舷側に傾斜し、大爆発後4分という速さで転覆し、艦底の一部を海面に現しました。 瞬時の出来事で、多数の人が中に閉じ込められ、辺り一面が血の海と化していきました。 乗員1,020名の将兵のうち、621名が殉死となる大惨事となったのです。 最新鋭軍艦の爆沈原因を探るため、徹底的な調査が行われ、家族や親族、交友関係まで 巻き込むものでしたが、幹部将校をはじめとする乗員の殉職者があまりにも多く、 また残骸の回収調査も思うように進まなかったため、確証が得られず原因不明のまま 謎の事故として終わりました。 この大きな犠牲を契機に、海軍では危機管理を徹底する方針を打ち出しました。 その結果、1943年(昭和18年)の戦艦陸奥爆沈までの25年間、事故はありませんでした。 戦艦「河内」の慰霊祭 地域住民の犠牲者を偲ぶ気持ちは、事故後も変わりませんでした。翌年の1周忌に富田町長が 発起人となり官民上げて仙島干渡に慰霊碑が建立されました。慰霊碑のある黒髪島と仙島の間の 砂州(干渡)は、遺体の処理が行われた場所でした。lOm近い高さの慰霊碑の奥に茶毘に付した納骨堂が あります。 この場所は、船着場がなく海が荒れると降りることがでません。 軍艦河内殉難者英霊之碑 YMD特設ブログ所様より画像をお借りしました。 参考資料 徳山地方郷土史研究会 田中賢一 YMD特設ブログ所
by kfujiken2
| 2017-07-15 14:41
| 歴史
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