山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


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関ヶ原の戦いの真実

評判の映画・岡田准一主演『関ヶ原』を観にいきました。

この映画は観客に関ヶ原の戦いの予備知識があることを、前提にしているというのも感じました。
戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」。
しかし日本最大の合戦であったにも関わらず、その詳細はあまり知られていません。
関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、過去の有名な戦である「川中島の戦い」「桶狭間の戦い」「賤ヶ岳の戦い」等は一対一の個人戦でしたが、「関ヶ原の戦い」は東西に分かれた戦国大名の寄せ集めの団体戦だった違いがあり、戦国大名に関する基礎知識が豊富でなければ理解できないものが多いです。
おまけに、戦闘自体が6時間で終わってしまったため、あまり映画やドラマでも取り上げられていません。


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◆ 戦国時代とは何ぞやを少し説明しましょう・・・
日本の歴史ににおいて、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分です。乱世により
室町幕府の権力は完全に失墜、守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現した。
戦国時代の期間は、室町時代に起きた応仁の乱に始まり、安土桃山時代に起きた関ヶ原の戦いが
最後と言われています。
この戦国時代の戦いは、権力闘争には違いありませんが、いずれも背景や経緯が非常に複雑である。
つまり、群雄割拠の時代ですからゴチャゴチャしすぎてて、当時の上下関係・人間関係・時代背景
が難しいですよね!


◆ 関ヶ原の戦いの経緯について説明します。
五大老の長の徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を名目上の総大将とし五奉行の長である
石田三成を中心とする西軍が起した戦いである。
引き起こした直接の導引は、朝鮮出兵をめぐる現地武将(武断派と呼ばれるグループ)と内政・経済・
宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた(文治派)の対立であり、現地武将たちの戦線縮小や
撤兵路線をめぐる軋轢と政権の内部分裂であった。


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◆ 名目上の総大将としての毛利輝元はどうであったか???
毛利輝元は名目上の西軍総大将として大坂城に入城しますが、毛利家中では、東西いずれの陣営に
付くべきかで意見が分かれ、混沌とした状況となった。これを裁断すべき立場にあったのが輝元
だったのだが、長年彼をサポートしていた有力な血族の多くは既に亡く、輝元に的確な助言を
できる者は家中にいなかった。
関ヶ原の戦いでは一門を率いたのは長府藩主毛利秀元で、毛利軍本隊は西軍の一部として関ヶ原
南宮山に布陣した。だが、吉川広家の背信行為によりそれ以上の進軍を押し留められて本戦には
参加できず、合戦を傍観する羽目になった。


◆ 関ヶ原の戦いおける両軍の戦法は・・・
西軍は石田三成が戦を指揮した経験が少なく各将を統率出来なかった。
宇喜多秀家、小西行長、大谷刑部等とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に
戦っているだけで部隊間の連携が取れていなかった。
一方東軍の戦上手の徳川家康は西軍一部隊に対し、複数の軍勢が連携して、同時多方面から
包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てた。
つまり、西軍の単独プレーに対し、東軍はチームプレーだったということです。


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◆ 最後に関ヶ原の戦いの武器についてウソらしいホントの話を!!!
西軍8万2千、東軍7万4千だそうですが、関ヶ原の合戦当時の主力武器は何と言っても槍と鉄砲です。
と言っても兵の約1割が鉄砲を装備していた言われていますので、飛び道具では戦争になりません!
鉄砲で銃撃した後、大将による「進め」の号令と共に、槍部隊がズンズン歩いていき、近くまでくると
「ワー」と入り乱れての戦闘になるのです。
槍は、手放すことのできない武器でした。鉄砲は弾込して射撃するまでにおよそ15秒もかかるため、
一撃で相手を倒さないと逆に相手にやられてしまうかもしれません。接近戦には不向きで、
ひとたび乱戦になってしまえば、ほとんど使えなかったそうです。
接近戦は、ほとんど槍の突き合いです。リーチの短い刀で戦うのは不利ですからね。
というか、刀を持っている兵士はほとんどいなかったそうです。鉄砲は遠距離攻撃に使っていましたが、
接近戦でも飛び道具はあります。古来よりおなじみの弓矢です。関ヶ原でも、もちろん弓矢は
使われています。鉄砲の普及により、飛距離の短い弓矢は、飛び道具としての価値が薄まったような
イメージを持ちますが、距離はともかく、速射も可能という点で、戦闘には欠かせない武器だったようです。
関ヶ原の合戦には、九州で「国崩し」と呼ばれた大筒も用いられています。発砲するのは攻城砲といい
ただのでかい鉄玉なので、別に着弾と共に爆発するわけでもありません。
それ故に、野戦では威嚇程度にしかなりませんでした。

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by kfujiken2 | 2017-09-02 12:18 | 未分類 | Comments(0)