山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


by fujiken

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

リンク

カテゴリ

風景
歴史

コラム
未分類

フォロー中のブログ

四季の風景
6ワン’s mom
つれづれなるままに
四季折々
より美しく!より健康に!
季節の花々に癒されて
時の流れのままに
風に吹かれて~♪
月の沙漠を
hiroshijiji1...
おいしいマイニチ
一期一会 ~あけぼのフェ...
農園のドタバタ奮闘記
俺の心旅

最新のコメント

>また、毎年9月日本史を..
by 白虎 at 23:42
貴方が言われていることも..
by 会津生まれ at 20:27
おいでませ、長州より発信..
by kfujiken2 at 15:57
早速 探しました。 すぐ..
by りこ at 11:05
私はブログをやっていませ..
by なすび at 21:01
なすびさんのサイトを紹介..
by kfujiken2 at 09:05
戦争ができないとヤバいで..
by なすび at 11:48
ご指摘痛み入ります。 ..
by kfujiken2 at 10:28
会津の人間です。 記事..
by あかべこ at 05:24
貴殿は気づかれていないよ..
by なすび at 13:09

以前の記事

2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
more...

最新の記事

ドローン女子
at 2017-10-18 11:53
下松高等学校の歴史
at 2017-10-10 12:26
下松市に徳山初代藩主・毛利就..
at 2017-10-01 12:37
秋日和に誘われて・・・彼岸花..
at 2017-09-24 16:48
徳山藩の諸隊・山崎隊に下松在..
at 2017-09-21 08:10

ブログジャンル

歴史
中国

画像一覧

下松高等学校の歴史

【はしがき】

1617年(元和3)下松藩(後の徳山藩)が創設され、1631年(寛永8)藩邸(下松陣屋)が
建設されました。下松藩(後の徳山藩)の初代藩主・毛利就隆の居館はどんな構図だったか、
建物の配置はどんなになっていたか? 等を色々調べていたが資料がない!!! 遺跡がない! 
でお手上げ状態の時、そうだ・・・1650年(慶安3年)下松藩が徳山に移転して
その跡地に約300年後の昭和4年に下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が建設され、
昭和28年3月に、下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の
経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。
そこに昼間の下松高等学校定時制寺町分校が開設されたことを思い出しました。
つまり下松高等学校の前身が女学校だったとは聞かされていましたが、その経緯を詳しく知っている
OBは少ないのではないか? 又、自分の母校の歴史って意外と知らないのではないか? 
そんな些細なことで下松高等学校の歴史をたどってみようと思いました。


d0061579_11181567.jpg
d0061579_11183292.jpg



































端的に沿革を説明しますと、下図の校章でもお分かり頂けると思いますが、
山口県立下松女子商業学校 → 山口県立下松高等女子校 → 山口県立下松高校へと変革していったのです。


d0061579_11395138.jpg


それでは古い校舎の画像を見ながら沿革を説明致します。
下松高等学校(元 山口県立下松高等女子校)が創設されるまでの足跡を説明しましょう。


昭和18年10月に発せられた政府の戦時非常措置によって、軍需産業に対処するため工業学校に
転換された男子商業学校が、戦後、再びもとに復帰することになった。したがって商業学校の
不足を補う立場で昭和19年に設立された下松女子商業学校も、その存立意義が薄らいだのを機会に、
市の強い要請もあって、昭和21年4月に、県立下松高等女学校として再出発した。
取りあえず下松尋常高等小学校舎の隣りにある下松青年学校(現在の下松市立中学校)の三教室を
借用して、二学級編成で発足した。場所は現在の下松市立小学校の西側である。


山口県立下松高等女子校仮校舎 (昭和21年)
d0061579_11452391.jpg


さらに、下松高等女学校は昭和23年4月から、新制高等学校(山口県立下松高校)に移行されることに
備えて、新校舎の建設を急ぐことになり、新校地の選定・買収・造成などが、市の負担で積極的に進められた。当時は、農地解放・食糧不足の時期であって、耕作者の農地に対する執着心が強く、平野部での
用地取得が困難なため、新たに、大河内台地が候補地として取りあげられた。ここは、市のほぼ中央に
あたり、眺望絶佳にして閑静、山林・畑地で所有者の反対もとくにないことから、整地・用水などに困難な
問題点もあったが、昭和22年11月に適地として決定をみた。市民から山の高等学校と愛称された
ゆえんである。昭和24年2月に待望の新校舎が竣工し全校生徒が移転した。


新制高等学校・山口県立下松高校の旧校舎(昭和23年)
d0061579_124879.jpg


昭和29年4月に全日制家庭科が増設されたが、その後志望者の逓減によって、昭和39年4月
廃止された。 他方、昭和23年7月に昼間の下松高等学校定時制久保分校が開設された。
農業科・家庭科編成で、久保小学校校舎の一部と岡市にあった県設指導農場の一部を借用した仮校舎で授業を開始した。昭和4年に開校し昭和28年3月に、櫨蔭(ろいん)学園が下松市内の櫨蔭高等学校を閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。これによって定時制久保分校はここに移り、定時制寺町分校と改称した。
その後、家庭経済や交通事情などの好転に伴い、定時制の生徒も激減する傾向を示したので、
県教育委員会はその見直しを行い、統廃合・整理の方針を定めた。これに基づいて、農業科は
昭和32年3月に、家庭科は昭和36年3月にそれぞれ募集を停止し、昭和38年3月寺町分校は
廃止された。

下松高等学校定時制寺町分校(元 櫨蔭高等学校)(昭和29年)

d0061579_12152313.jpg


現校舎(昭和55年)
d0061579_12245679.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2017-10-10 12:26 | 歴史 | Comments(0)