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女性を「産む機械」に例えた不謹慎な大臣がいるが・・・
少子化だから産めよ増やせよ 人口が増え過ぎるから産児制限 男と女の愛というものは そんなものではない! もっと純粋 且情熱的なものである。 最近「愛の流刑地」と言う映画が評判ですね! 今の日本の政治・経済の屋台骨を支える中高年が愛読している 「日本経済新聞」に連載されていましたが・・・ 確かに エロチックな映画と言えばそう受け取られます。 しかし 本当の愛とは何か 純愛とは何かを考えさせられます。 私もこの歳になり プラトニックラブが愛ではない・・・ 若く夢見がちな世代ならば 反論するかも知れませんが 分別を兼ね備えた中高年の我々には 判る気がします。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「作者・渡辺 淳一の言葉」 いま、純愛ブームだという。肉体関係がない、 精神的なつながりだけの愛が純粋だと思いこむ。 だがそれは単に未熟な幼稚愛にすぎない。 精神と肉体と両方がつながり密着し、 心身ともに狂おしく燃えてこそ、愛は純化され、至上のものとなる。 今度の小説は、その純愛のきわみのエクスタシーがテーマである。 その頂点に昇りつめて感じた人と、いまだ知らぬ人との戦いである。 最高の愉悦を感じるか否かは、知性や論理の問題ではなく、感性の問題である。 はたして、この戦いはいずれが勝つのか、 そして読者はいずれに軍配をあげるのか、 ともに考えていただければ幸いである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 純愛とは、打算や妥協のからまない恋愛または恋慕の感情のこと。 つまり 一身を犠牲にすることをいとわない、 ひたむきな愛情(世慣れしていない男女について言う)であると・・・ では純愛とはどこで生まれたのか。 そして、なぜ現在の恋愛と袂を分つに至ったのか。 それを知るには、恋愛の歴史を辿ってみなければならない。 だが恋愛の起源を辿って古代ギリシャにさかのぼると、 恋愛とは男女の愛ではなく、同性愛のことであった。 それは、長い戦争で寝食を共にしかばい合い助け合う間に芽生えていった、 男同士の固い絆から始まっていた。 相手のためなら自分の身をも投げ出す、情熱的でヒロイックで純粋な感情が、 「愛」であった。 キリスト教が浸透した中世になると、また特殊な愛の形式が登場する。 ヨーロッパ十二世紀の騎士道精神である。 騎士はだれか一人の<貴婦人(ダム)>を選び、 その婦人に、神に対するような愛と熱誠をげる。 その婦人から愛されるためにあらゆる困難に生命をして立ち向かう。 その婦人にふさわしいものとなるために、 さまざまの手柄を立てて自己の完成にはげむ。 上流階級限定のそうした一風変わった女性崇拝を経て、 男女の愛は「情熱恋愛」へと変化していく。 「情熱恋愛」とは盲目的な恋、障害があるがゆえに燃え上がる恋である。 だが、障害を乗り越えようと行動すると大抵は、 トリスタンとイゾルデ(婚約者のいる女)や ロミオとジュリエット(家同士の対立)のように、 追いつめられて死ぬことになっている。 性規範の厳しい社会でこそ、恋愛という逸脱が至上のものとされ、 恋愛の中でも「道ならぬ恋」としての「情熱恋愛」が王道となった。 夫と子供を捨てて愛人に走ったのちに、鉄道自殺までしてしまう人もいた(『アンナ・カレーニナ』)。 不倫の恋患いの果てに死んでしまう人もいた(『危険な関係』のツールヴェル夫人)。 ゲームのつもりがハマって自滅する人も(『危険な関係』のバルモン、メルトイユ夫人)。 さらには恋心が嵩じて相手を殺してしまう人まで(『カルメン』のホセ)。 ヴェルディのオペラ『椿姫』のヴィオレッタは、階級を超えた恋の末に病死する悲劇のヒロインだが、 原題は『La traviara(道を踏み外した女)』である。 そこで恋愛とは、「道を踏み外」すような行動に出て死や破滅に至る、 反社会的で超リスキーな取り扱い厳重注意の危険物だった。 その心は、純愛である。「情熱恋愛」は純愛の母であった。 だが恋愛をそんな手段にできない「情熱恋愛」の本道では、 恋に落ちた相手の女が「永遠の女」となる。 あるいは偶然出会った男が「運命の人」。 この先まだ"いい出会い"があるかもしれないのに、 そんな未熟で向こう見ずな判断を下してしまうのは、 往々にして「世慣れしていない若い男女」。 「情熱恋愛」小説の中で、分別を兼ね備えた中高年が主人公になることは滅多にない。 のちの純愛小説やドラマに登場していたのも、圧倒的に若者である。 そういう若く夢見がちな心を分析してスタンダールは、恋愛は「結晶作用」だと看破した。 つまり、枯れ枝を覆った塩の結晶が、ダイヤのように輝いて見えるだけ。 愛とは美しい誤解でありエゴであると。しかしその知見が恋に落ちることを防いでくれるかと言うと、 ほとんど役に立たないのはご存知の通り。 「塩の結晶」は恋に振り回される者を諌めるか、恋から醒めた者を慰める言葉である。 逆に言えば、ただの枯れ枝にダイヤの輝きを見出し、 それを疑うことを知らない一途さだけが、「情熱恋愛」の精神性である。 そこには、一銭の得にもならないことに運命を賭けてしまう底知れないパワーが宿っていた。 だからこそ若さゆえの未熟で向こう見ずな判断は、 大いなる共感を持って描かれたのだった。 日本の純愛物語でも、主人公は社会規範、身分や立場の違い、不治の病、第三者の妨害、不倫など、 さまざまな障害にぶつかって悩んだり苦しんだりしている。 しかし思いの強さは行動によって示されなければならないのが、 純愛と任侠の基本である。いかに熱烈でも感動的でも、 愛の言葉、仁義の挨拶だけではダメなのだ。 言葉を行動でどう示したか、たとえ言葉がなくてもその人にとっての崖っぷちの行動を敢行したか否かが、 純愛のバロメーターとなる。
by kfujiken2
| 2007-02-01 15:07
| コラム
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