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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

2017年 02月 26日 ( 1 )

鮎川義介(あゆかわ よしすけ)の日立製作所笠戸工場と東洋鋼鈑への関与

先ず、日立製作所笠戸工場の創立に関与した鮎川義介について説明しましょう。

久原房之助が都濃郡下松町と太華村(現在の周南市櫛浜)の両町村にわたる沿岸を買収して世界的大工業都市の建設「下松計画」を立て、造船業と製鉄業に乗り出し、とりあえず造船業の日本汽船株式会社を立ち上げる。創業当初は好調を極めていたものの、第一次世界大戦の終結をきっかけにアメリカの対外鉄鋼輸出禁止措置により、鉄の輸入が困難となり久原房之助は小平浪平(おだいら なみへい)率いる日立製作所に日本汽船株式会社を託した。つまり、久原鉱業所日立鉱山に工作課長として入社していた小平浪平が、日本汽船株式会社の社名を株式会社日立製作所笠戸事業所と変更し操業を続けたということです。株式会社日立製作所笠戸事業所の足掛かりは久原房之助だが、初代の創業者は小平浪平である。又、鮎川義介は久原房之助と義兄弟の関係にあり、久原房之助がいっさいの関係事業との絶縁を声明、実業界から引退し政界に出ることを決意して、久原鉱業の経営を、義兄鮎川義介にゆだねことから話が始まります。久原鉱業は日本産業と改称され鉱山部門が日本鉱業株式会社(後に新日鉱ホールディングス、現在のJXホールディングス)となり、後の日産コンツェルンへと発展していくことになります。

鮎川義介
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小平浪平
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東洋製罐株式会社を設立し後に、東洋鋼鈑下松工場を設立した高碕達之助の説明をし、鮎川義介との関係を説明致します。 

東洋鋼鈑下松工場は東洋製罐の子会社として、設立されたのは周知の通りですが何故下松の様な田舎の地を選んだか、又、誰が誘致したのか釈然としなかったが、山口県の先人として今旬なひと・日産コンツェルンを作った男として有名な鮎川義介が関わっていたのです。

高碕達之助(たかさき たつのすけ)は1917(大正6)年6 月25 日に東洋製罐株式会社を設立。
高碕達之助は日産コンツェルンの鮎川義介より満州進出の誘いを受けた。鮎川義介は当時満州重工業開発株式会社(満業)の総裁であった。高碕達之助は満州の鉄資源に引かれ、1939 年に視察目的で満州を訪れたが、満州でも鉄は軍部に牛耳られており、期待外れに終わった。
その後鮎川は高碕に満業の副総裁を依頼した。鮎川はかねて、親戚関係にあった日本水産の国司浩助より高碕の人望を聞いており、自分の仕事をぜひとも手伝ってほしいと熱望していたのである。高碕は決心がつかなかったが、周囲からの後押しもあり、1941 年に副総裁を引き受けた。しかし満州では軍部の横行と戦局の悪化のために思うような事業展開はほとんどできなかった。鮎川の総裁任期満了に伴い、1942 年、高碕は満業総裁に就任することになった。鮎川の退任と同時に高碕も副総裁を辞任し満業から手を引く意向であったが、軍部から許可が下りなかったのである。

事業拡張の一方、高碕はブリキの自給について本格的に検討し始めた。国産ブリキの第一号は1923 年に日本製鉄が生産したものであったが、缶詰に使えるような高品質なものではなく、大正から昭和初期のころは大半を輸入に頼っていた。
大阪で創業した東洋製罐株式会社の原材料のブリキ製造のため、下松に1934(昭和9)年資本金500万円で東洋鋼鈑株式会社を設立ときも鮎川義介の斡旋によるものでした。つまり鮎川義介は、久原房之助が下松計画を実行する為に買収した莫大な土地を保有していた久原鉱業の経営を、ゆだねられ管理していたのです。

高碕達之助

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by kfujiken2 | 2017-02-26 10:19 | 未分類 | Comments(0)
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