長州より発信

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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

カテゴリ:歴史( 154 )

戦時中、山口県徳地に「弾除け神社(三坂神社)」と呼ばれた神社があります。
戦地での無事を願って家族が、本人に内緒で写真を奉納し送り出したそうです。


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明治8年(1875年)、郷社に列し日清・日露戦争の際、三坂神社に武運長久を祈願した人が
全員無事に帰還したことが報道され、「弾除けの神」として有名になった。
大正8年(1919年)、県社に昇格。昭和になり、日中戦争以降、武運長久祈願のための参拝者が激増、
最高で1日に880人が祈願したそうです。
終戦後、参拝者名簿は事前に焼却し、祈願写真は隣家の床下に隠して無事なものもあり、
その数一万数千枚に達したらしい・・・

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三坂神社は大きな神社ではないが、『周防徳地誌』に万葉集に「千早振る神の三坂に
幣奉り祝ふいのちはおも父がため」と詠まれており、、正一位を授かり、豊臣秀吉公が
三坂神社に参り五色の吹貫等を献納し、参道の石畳は足利尊氏が敷いたと記述が
あるそうです。
由緒ある神社ですよ~~~
現在は石が風化して刻まれた文字は読むことが出来ませんが、
二ノ鳥居の銘に「延書式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(1698年)戊陽月」とあり、長州藩4代藩主毛利吉広の寄進であったことが分る。


足利尊氏が敷いたという参道の石畳
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長州藩4代藩主毛利吉広の寄進したという二ノ鳥居
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幕末の文久元年(1861年)に現在の拝殿が建てられたが、本殿・幣殿は昔のまま様です。
それに左上に本殿が見えますが、拝殿からの続きになっているようで中を見ることは出来ません!


社殿の全景と拝殿
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神徳顕彰碑
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by kfujiken2 | 2017-08-14 15:53 | 歴史 | Comments(0)
柳井市は度々お邪魔しているのですが、金魚ちょうちんの撮影に行った時、
何か歴史的に珍しいものはないかとネットで調べていると、江戸時代塩田の
歴史遺構の橋があることを知りました。


慶応元年に改修された「天津橋」は、ビジコム柳井スタジアム(柳井市民球場)の敷地内に移設、一般公開されている。天津橋は花こう岩を組んだ石橋で全長約15メートル、幅1・8メートル。川の両岸から桁石(けたいし)を斜めに張り出し、桁石の先端に橋桁の石を乗せ架橋する刎橋(はねばし)構造で、橋脚がないのが特徴だ。


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構造のイラスト図面です

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◆ 柳井市ホームページよりお借りしました ◆

両岸から桁石(けたいし)を斜めに張り出し、桁石の先端に橋桁の石を乗せ架橋する
刎橋(はねばし)構造

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橋が架けられた柳井浜は、江戸時代の1810年に柳井川河口を開発した塩田で
総面積は約24ヘクタールあった。東浜と西浜に分かれ、両浜の間には海水を取り
入れると共に釜をたく木材を運び入れ、塩を搬出する堀川(中川)が設けられた。
両浜を結ぶ天津橋は当初は木製の橋だったが、文政13年(1830)に石橋に架け
替えられ、現存する橋は慶応元年(1865)年に改修されたものである。
上荷船の通行のために、橋脚を設置しない、弓を張った形をなす張出し式の石橋である。
橋脚がないことから地元では「幽霊橋」と呼ばれ親しまれてきた。
柳井浜は、昭和34年の塩業整備臨時措置法の成立を機に製塩業を廃止することと
なった。そして昭和39年に日立製作所が柳井へ進出するに伴って、塩田及び中川は
埋め立てられた。
天津橋は、その後に進出した(株)ルネサス柳井セミコンダクタの工場敷地内に存続し
続けた。


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昭和30年ころの堀川に架かる天津橋
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by kfujiken2 | 2017-08-01 10:48 | 歴史 | Comments(0)
1918年(大正7年)7月12日、徳山湾に浮かぶ仙島の近くで、戦艦「河内(かわち)」の乗組員621人の尊い命が奪われた悲しい出来事がありました。
慰霊祭のある仙島には、福川の高州漁港から船で行くため、一般市民は容易に参加することが難しく、毎年30~40人の参加者で行われます。慰霊祭に参加した人だけで語り継ぐことが難しいと共に、顕彰会や保存会もなく、あまり知られていない出来事です。
大津島の回天記念館、周防大島町の陸奥記念館などは知られていますが、語り継ぎたい歴史がここにもありますのでご紹介します。


戦艦「河内(かわち)」
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戦艦「河内」の沈没場所
仙島(山口県周南市大字富田) 北緯34°0分・東経131°46分

戦艦「河内」の概要

「河内」は、第1次世界大戦前の1912年に日本海軍が竣工させた弩級(どきゅう)戦艦です。
それまではヨーヅロッパなどから輸入していましたが、日本の技術力の向上により設計・建造された
世界でも群を抜く性能の国産初の大型戦艦でした。
「弩級」とは、大型で巨砲を持つことが戦艦の戦力として競い合われる中、当時の世界最大砲12インチ砲を装備した1906年のイギリス最新鋭大型戦艦「ドレッドノート号」の性能を持つ戦艦のことであり、
「ド級」と呼ばれ、漢字をあてて「弩級」と表されました。
「河内」は、排水量20,800トン、全長152.4m、全幅25.7mという大きな艦体に、新設計の50口径(30.5cm)の主砲や副砲などドレヅドノート号の性能を上回る多くの装備を搭載していました。
しかし、この最新鋭の軍艦が、わずか6年で沈没してしまったのです。それ以前にも、日露戦争後の
1905年(明治38年)から1917年(大正6年)までの12年間に、7隻も軍艦の爆発事故が発生しており、
それに続く「河内」の爆沈事故は、日本海軍にとって大きなショックとなりました。


戦艦「河内」の惨劇


第1次世界大戦終わりの頃です。国内は、平時でした。戦艦「河内」は、訓練の途中で、
前日からの荒天を避けるために、他の艦艇(山城、扶桑、伊勢、摂津、河内、利根、他駆逐艦)と共に
徳山湾に停泊中でした。
各艦艇では、夕食の準備に追われていた時刻の午後3時57分、突然右舷前部主砲塔付近で2回の
爆発が起こり、大音響と同時に砲塔周辺部や煙突から大火災が発生し、周辺には無数の鉄片が飛散し、
火柱と黒煙の渦が天空を覆いました。
巨艦は急速に右舷側に傾斜し、大爆発後4分という速さで転覆し、艦底の一部を海面に現しました。
瞬時の出来事で、多数の人が中に閉じ込められ、辺り一面が血の海と化していきました。
乗員1,020名の将兵のうち、621名が殉死となる大惨事となったのです。
最新鋭軍艦の爆沈原因を探るため、徹底的な調査が行われ、家族や親族、交友関係まで
巻き込むものでしたが、幹部将校をはじめとする乗員の殉職者があまりにも多く、
また残骸の回収調査も思うように進まなかったため、確証が得られず原因不明のまま
謎の事故として終わりました。
この大きな犠牲を契機に、海軍では危機管理を徹底する方針を打ち出しました。
その結果、1943年(昭和18年)の戦艦陸奥爆沈までの25年間、事故はありませんでした。


戦艦「河内」の慰霊祭


地域住民の犠牲者を偲ぶ気持ちは、事故後も変わりませんでした。翌年の1周忌に富田町長が
発起人となり官民上げて仙島干渡に慰霊碑が建立されました。慰霊碑のある黒髪島と仙島の間の
砂州(干渡)は、遺体の処理が行われた場所でした。lOm近い高さの慰霊碑の奥に茶毘に付した納骨堂が
あります。
この場所は、船着場がなく海が荒れると降りることがでません。


軍艦河内殉難者英霊之碑
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YMD特設ブログ所様より画像をお借りしました。

参考資料  徳山地方郷土史研究会 田中賢一
        YMD特設ブログ所

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by kfujiken2 | 2017-07-15 14:41 | 歴史 | Comments(0)
【花岡勘場跡】

萩藩創建期の頃に設置された都濃宰判(代官所)の跡地。
代官は年3回春秋冬に萩から出張して重要な決裁を行っていた。日頃は大庄屋が出勤して
代官の代わりを務めていたという。付近には、御茶屋(本陣)・御番所・高札場などがあり、
花岡がこの地方の政治文化の中心であり、交通の要所であったことがうかがえる。


花岡八幡宮に奉納された絵馬に描かれていたものだそうです。
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絵図の左側が御茶屋、右上が勘場、右下が御番所。

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【春雨桜碑】 

幕末の長州藩主、毛利敬親公にまつわる春雨桜の碑です。
文久元年、毛利敬親公が上京しているとき、病になられたそうです。花岡の本陣に至って病気は重く、
約2週間を間、静養されました。その折に、庭の桜を眺められ、樹下の砂鉄が花の眺めを妨げることを
心配されたそうです。
明治37年、敬親公遺愛の桜として、公の雅号から春雨(しゅんう)をとって「春雨桜」と称し、
記念碑を建立しました。撰文は楫取素彦によります。


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桜の古木はどこにあるのだろうか?
枯れたのだろうか? 説明版がないので分からない (´∩`。)ハテ
側にある若木のこの桜は、2代目なんでしょうか!!!

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【天然記念物 花岡の槙柏】

この高木は「槙柏(しんぱく)」といい、ヒノキ科の常緑針葉高木でイブキの変種だそうです。
絵図の左側見えるのが槙柏で、勘場の屋敷内に植えられていたようですね・・・

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大砲が二門置かれているが、防御のために備えていたのかな~
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【場所】
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by kfujiken2 | 2017-07-12 11:51 | 歴史 | Comments(0)
英雲荘の概略は、前回の投稿【萩毛利藩の防府に存在する休憩・宿泊所だった英雲荘 (三田尻御茶屋)】で、説明していますのでご覧下さい。 (アンダーラインに前回の投稿ページがリンクされています。)
今回は珍しい廊下の襖戸や、大観楼棟の2階にある2部屋を説明します。

英雲荘について少し触れましょう!!!
英雲荘(三田尻御茶屋)とは、1654年に、毛利萩藩の2代藩主・毛利綱廣によって藩の公館
「三田尻御茶屋」が建てられたことが、この建物のはじまりです。おもに参勤交代のときの藩主の
宿泊所、また三田尻の町には毛利水軍の拠点が移され、萩藩の瀬戸内海側の表玄関だったこともあって、
港からやって来た他藩の方々の接客の場……迎賓館としてもこの場所が使われました。
その後、7代藩主・重就が、自分の隠居所として、その住まい……御殿を造営します。その期間は、
安永6年(1777)頃から天明3年(1783)にかけてとされていますが、はっきりとはわかっていません。
ここは長い歴史のなかで、建物の役割が大きく変わったり、増改築が行われていますので、解明されて
いないことがたくさんある建物なんです。


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大観楼棟1階御書院一ノ間から三ノ間の南側に続いている廊下には、廊下を隔てる二ヶ所に
裏表4枚づつ篆書(てんしょ)でかかれた杉板の戸襖が計8枚あります。信濃(長野県)出身の
書家・三井 親和(みつい しんな)の書だそうですが、大変迫力があります。

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裏表4枚の杉板の戸襖(とぶすま)の画像です。
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杉板の戸襖(とぶすま)の文字の説明画像です。

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大観楼棟の二階にある2部屋ある内部です。
この2階は風景を楽しむ“物見の部屋”として作られています。江戸時代のはじめは、このすぐ目の前が海だったそうです。「大観楼棟」の部分は、現存する建物のうち最も古く、重要な役割を持ちます。かつては2階の南側から海が見え、眺望の美しさから「大観楼」と呼ばれました。文久3(1863)年、京都の改変で長州へ逃れた三条実美ら7人の公卿が三田尻御茶屋に約2カ月間滞在し、高杉晋作などが公卿と会談したと言われています。
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檜(ひのき)の樹皮を用いて施工する檜皮葺(ひわだぶき)で造られている大観楼棟です。
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大観楼棟の2階から見下ろした庭園です。
絵図や資料から、江戸・明治時代には佐波川からひいた疎水が邸内にとり込まれ、
しなやかな曲線を描く流路を水がめぐる回遊式庭園であったことがわかります。

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by kfujiken2 | 2017-06-16 11:08 | 歴史 | Comments(0)
防府市を車で散策していると、聞き慣れない神社の小さな看板が目に留まりました。
車を止め読んでみると興味をそそられる内容ではないですか?
車道から神社は見えるのだが、入口が分からない!!!
暫く周囲をうろうろしていたら、住宅地の狭い路地道を見つけました。
そこを入っていくと参道がありました。土地の人でないと知らない道ですね~


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江戸時代の三田尻(防府)は、長州藩の要衝として重視されたことがうかがわれます。
当時の三田尻は、萩城から続く萩往還の終点として、又、瀬戸内海側における長州藩の
玄関口であった。江戸時代初期には、海路で参勤交代へ向かう出発地でもあった。
1654年(承応3年)に長州藩の第2代藩主・毛利綱広が萩往還を造った際に、
三田尻御茶屋を築造するなど、大いに栄えた。
しかし、後に参勤交代が海路から陸路に変更されるに及び、その役割は限定的なものと
なった。


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● 萩往還: 萩城下唐樋から三田尻御茶屋までの約53kmの街道で、 大名の参勤交代の道として整備され 、また日本海側と瀬戸内海側とを結ぶ道として、多くの人々に利用されました。
● 英雲荘 (三田尻御茶屋) : 藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩や宿泊等、また迎賓に使用されまし た。
● 三田尻御舟倉: 藩主の御座船や軍船が常置され、水軍の根拠地でした。

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大政奉還が行われたのと同じ日、朝廷から長州・薩摩藩に対して幕府を武力で倒すようにという討幕の密勅が出されていました。将軍が政権をみずから朝廷に返したことで政治の主導権を旧幕府側に奪われることをおそれた長州・薩摩両藩は王政復古を宣言し、反発にそなえて両藩の兵を京都に送ることにしました。
長州藩の諸隊は鞠生松原(まりふのまつばら)に集まり、八咫烏(やたがらす)を祀った
小烏神社(こからすじんじゃ)に毛利内匠藤内を総大将、楫取素彦を参謀、山田顕義を総指揮官とする長州軍1,200人が討幕の必勝を祈願した後、6隻の軍艦で小田港を出発して京都に向かいました。
この時に出発した諸隊は、翌年の1868年(明治元年)の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍と戦う時の主力となりました。


● 毛利内匠藤内(もうり たくみとうない): 長州藩一門家老である右田毛利家の12代当主・毛利親信

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このあたりは幕末には松林が続く海岸が広がっていましたが、今は埋め立てられ、
現在は○○松原と言うように松原の面影はありませんが、小烏神社の周辺に見られる
松の木が当時の名残りではないかと推測します。


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by kfujiken2 | 2017-05-20 11:10 | 歴史 | Comments(0)
文教の地・三田尻(現 防府)に、貞享3年(1686年)萩の明倫館ができる約30年前に河野養哲が三田尻に
越氏塾(えっしじゅく)を創設した。己の名利を捨て、人材教育にその生涯をかけた、まさに山口県教育の
原点とでも言うべきものである。養哲の死後、越氏塾は三田尻宰判の公費でまかなわれる学校となり、
その後数度の統廃合ののち、元治元年(1864年)には三田尻講習堂という塾名となった。
明治5年(1872年)建物はそのまま華浦小学校となった。楫取素彦(当時:小田村伊之助)は、
吉田松陰が処刑された翌年、万延元年(1860年)に越氏塾の塾長相当として派遣され、教鞭を執りました。
校内に残された碑には「越氏塾後に学習堂と曰い、講習堂と曰い、遂に華浦小学と曰う」と、
明治41年10月に男爵楫取素彦により設置された越氏塾沿革の碑に刻まれている 。


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大きい方の石碑は河野養哲碑
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小さい方の石碑は越氏塾沿革の碑
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河野養哲の説明を少ししましょう・・・

寛文元年(1661)三田尻の御舟手組の中船頭河野彦兵衛の二男として生まれ,、幼少の頃,父の同僚の家に
養子に入り、その家を継いだ。しかし成長するにつれて水軍の船頭という仕事に馴染むことができず
夜ひそかに書を読んで学問にはげんだ。彼の人生の最大の望みは子弟の教育にあたることにあった。
彼はついに自分の意にそわない船頭役をしりぞき,ついで養家からも去った。

浪人になった養哲は,暮らしをたてるために医業をいとなんだ。医者としての彼は,貧しい家に往診しても
一文の謝礼も受け取ろうとせず,一方,おごり富む家からいくら金を積まれても往診しようとはしなかった。
しかし,医業も彼を満足させるものではなかった。

25才頃,三田尻にかねてから念願の私塾を開いた。養哲の祖先は伊予水軍の越智氏の出であったので,
塾名を越氏塾と名付けた。塾には藩士の御舟手組の子弟や百姓の子弟が身分にかかわりなく同席して
学んだ。養哲はその収入の塾をひらくかたわら医者としても働き、その収入のすべてを塾の経営に
つぎ込んだ。

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by kfujiken2 | 2017-05-16 16:48 | 歴史 | Comments(0)
現在、趣味の地方史研究の一環で、「防長二州における医学教育」というテーマで色々調査・
撮影・ 編集を進めている最中なんですが、山口県の医学教育の中核的存在であった華浦病院・医学校跡を見つけ撮影して来ました。


山口県立華浦病院・医学校跡(松原児童公園)
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説明碑 の拡大です。
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華浦医学校の様子
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山口大学医学部の防長医学史からお借りして来ました「華浦医学校校舎・生徒写真」です。
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1874年(明治7年)、現在の防府市松原町・松原児童公園内に華浦医学校(かほいがっこう)と
華浦病院が設立されました。華浦医学校は医者を育てる場であり、県内でも最高の医学知識を身に付ける
ことができる研究の場でもありました。外国から人体模型や器械を輸入し、最新の書物が翻訳
されて提供されました。 一方、華浦病院では収入の低い人については治療費が無料になり、
看護してくれる人もつけてもらうことができました。また、病院長は山口県内の衛生面に関して
指導をする立場にありました。いかに、華浦医学校や華浦病院が、山口県の中で高い地位に
あったかがわかります。まさに病院として、そして学校として理想の姿だったのです。
しかし、運営するための資金が不足したことや学校に関する法律が改正されたことにより、
華浦病院は1877(明治10年)に、華浦医学校は1883年(明治16年)に廃止されました。
病院と医学校が置かれたのは短い期間でしたが、医学校で学んだ人々の中には、その後医者に
なった人や、県内の衛生状態が良くなるよう指導にあたった人もいます。卒業生のなかには、
日本で初めて体温計を作った柏木幸助[かしわぎこうすけ]もいます。


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by kfujiken2 | 2017-05-09 11:36 | 歴史 | Comments(0)
三田尻は江戸、京都、大阪、長崎に並ぶ西洋医学の先進地と言われている。三田尻には能美洞庵、佐伯玄厚、南部伯民、 荒瀬桑陽など多くの蘭学の大家がいました。

梅田幽斎は文化六年(1809)江戸で生まれ、坪井信道のもとで蘭方医学を学び、
宍戸丹後の臣下の医家として、三十四歳の時に三田尻新道に開業、同時に塾を開きました。
塾の名前は盥流亭(かんりゅうてい)、沈流亭と称していました。梅田幽斎は学識も相当あり、又、才気煥発の人であったので大いに流行し、教えを請う者も多かった。
梅田幽斎は江戸、三田尻を往来し知識を広め、 長崎にも行き、当時多くの人々が死亡、恐れられていた伝染病の天然痘を予防できる種痘の方法を学び、 蘭書モヨールを翻訳し「牛痘徴候論」として広め、長州藩が実施する前に三田尻でいち早く種痘を実施しましたが、藩により差し止められた。
文久元年四月、三田尻の医師・秋本岱寿の息子の秋本里美とともに医学館好生堂御用達を命じられ、藩の蘭学教授にあたった。
文久三年には銅山試験用掛・今津太郎を手伝うなど長州の医学者、科学者として活躍しましたが、 明治初年に阿東町での鉱山事業に失敗、明治三年七月八日、失意のうちに教え子の医師の山根秀策宅(宮市)で亡くなりました。享年六十二歳、光妙寺に墓があります。
もう少し長生きをしていたら、大村益次郎の師として尊敬されたでしょう。


光妙寺 山口県防府市東三田尻1-8-18
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梅田幽斎の墓

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村田蔵六、のちの大村益次郎は、天保十三年、 十八歳の時に鋳銭司から二里を歩いて1年間通塾し、蘭学の初歩ぐらいはひと通りできるようになった。
しかし、梅田幽斎は、医学、蘭学の大成には、さらに漢学の深い素養が必要であるとして、益次郎を、豊後国日田(現・大分県日田市)の広瀬淡窓(ひろせ たんそう)の塾・咸宜園(かんぎえん)に入門させたが、天保十四年一年後に梅田幽斎の塾に復学をし、更に大阪の適塾に入門しています。梅田幽斎は、弟子がある程度になると、更に上級の塾に入らしめ、更なる研鑽を積むよう勧めるのを常としていたようです。

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by kfujiken2 | 2017-04-26 10:43 | 歴史 | Comments(0)
薩摩藩のそうそうたる顔ぶれの藩士が写っています。
佐世保の鎮守府に勤めていた人が持っていたそうですが、人を介してお借りしました。
この写真が本物なのか、偽装されたものなのかは分かりません!!!
著作・発行者は名越佳次郎と記名があり、シールも貼ってあります。
下記でご紹介致します「フルベッキ群像写真」と撮影した人は別ですが、
幕末の志士で著名人を一堂に会して、撮影している点がよく類似しています。
「十六先生之肖像」とは、西南戦争の幹部を意味しているのでしょうか・・・
それならば敵の政府軍に所属したいた大久保利光が、写っているのが不自然だし、
単に薩摩藩の藩士を撮影したのか、理解し難い???


画像をクリックすると大きな画像になります。


写真に番号が記してあります。
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「十六先生之肖像」の番号が写真に記してあります。西郷隆盛はよくご存知と思いますので説明は省きますが、他の人を簡単に説明致します。

1・西郷隆盛
2・村田新八:1866年、長州藩の伊藤博文らとともに上海訪問。明治維新後も、岩倉使節団の一員として欧米視察。生来の器量とともに、豊富な海外視察経験により、西郷の腹心であった桐野利秋や篠原国幹をしのぐ評価を得ていた。
3・大久保利通:小松帯刀とともに、島津久光の側近として藩政改革を推進。明治維新後は、盟友だった西郷隆盛とは、征韓論で対立(明治6年)。西郷らを失脚させることで、初代内務卿に就任。結果的に政権内での実権を掌握することとなる。
4・篠原国幹:明治維新後の新政府では陸軍少将。征韓論で敗れた西郷が下野すると、篠原も職を捨て、後を追って鹿児島に帰った。
5・大山綱良:廃藩置県後、鹿児島県の大参事、権令(県令)となる。
6・永山盛弘:人柄温和にして義に富む。明治4年陸軍中佐、北海道屯田兵の長。
7・村田三介:西南戦争では小隊長として薩摩軍にくわわり、熊本県の植木での戦いで政府軍の乃木希典少佐の軍旗を奪ったという薩摩軍からしたら素晴らしい功績を残した。
8・辺見十郎太:維新後は鹿児島常備隊小隊長、近衛陸軍大尉となる。勇敢な薩軍の中でも特に抜群の武勇を誇り、仲間からの信頼も厚く、弾雨の中を先頭きって突撃する辺見を見てみな勇気づけられたという。
9・桐野利秋:維新前は中村半次郎を名乗っていた。西郷隆盛の右腕であり、護衛役でもあり人斬り半次郎と恐れられていた。
10・貴島清:若きより鎗術の名手として有名であったが、学問にも秀で、文武両道を兼ねていた。
11・山野田一輔:明治期の鹿児島県士族。近衛大隊副官に任命されたが西郷隆盛に従い辞任。西南戦争で戦死。示現流の遣い手だったそうです。
12・小松帯刀:薩摩藩の家老。島津久光の側近として藩政に進出。大久保利通らと藩政改革を推進。薩長同盟の土台づくり、イギリスとの友好に尽力など、その才能をいかんなく発揮。
13・高城十次:不詳
14・別府晋介:桐野利秋は従兄。征韓論の政争で敗れた西郷隆盛が下野すると、桐野利秋らとともに追随。陸軍少佐という職をなげうって鹿児島に帰る。その後、青年教育を目的とした「私学校」創立に、西郷や桐野らとともに尽力。 負傷した西郷を介錯すると、自らも命を絶った。
15・永山盛武:永山盛弘の弟 西南戦争田原坂で政府軍を迎え撃ち、円台寺山で討ち死に。
16・児玉八之進:明治4年近衛砲兵少佐となるが6年辞任して帰郷。10年西南戦争に薩摩軍小隊長として従軍。熊本県八代に上陸した政府軍との戦闘で同年3月26日戦死した。


写真の裏に貼ってある名前のシールです。
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「フルベッキ群像写真」を知っていますか? 見たことありますか?

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「フルベッキ群像写真」というのは、オランダ出身でアメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師グイド・フルベッキとその子を囲み、佐賀藩が長崎にもうけた藩校・致遠館の生徒を写真家・上野彦馬のスタジオで撮影された西郷隆盛、 大久保利通、坂本龍馬、伊藤博文といった明治維新の功労者 46人が写っているという集合写真です。
いったい何時どこで撮られたものか、このメンバーが極秘裏に一堂に会することがあったのか。
写っている人物は、本当に「西郷隆盛」なのか、 「坂本龍馬」なのか、まったく謎だらけで歴史考証的には幾つかの疑問や謎がある写真である。


この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』(博文館)で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、
高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文を発表した(2年後の1976年にはこの論文の続編を同誌に発表)。島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。佐賀の学生達として紹介された理由は、「敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした。
この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていた。また、1985年(昭和60年)には自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという。また、2004年(平成16年)には、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。


2006年2月5日付の東京新聞に載ったフルベッキ写真の関連の記事
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by kfujiken2 | 2017-04-21 11:56 | 歴史 | Comments(0)
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