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カテゴリ:歴史( 163 )

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その④

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その④

3.内藤氏系図

山口大内氏家臣団で陶氏・内藤氏・杉氏が奉行三家老家に列せられた。
内藤氏は系図によると、平安中期に左大臣として政権を掌握した公卿・藤原道長の五代目の
後裔盛遠を始祖とする。旧内藤家庭園の概要説明に、天正10年(1582)に帰農して瀬戸後山に居住したとありますので、毛利元就の防長経略の時、追っ手から逃走中に立ち寄り帰農したのではないでしょうか?時代背景から想像すれば22代当主・内藤元珍か23代当主・内藤元宣の世代ではないでしょうかと推察いたします。

※ 防長経略: 天文24年10月12日(1555年)から弘治3年4月3日(1557年)まで行われた、
安芸の戦国大名毛利元就の大内氏領周防・長門侵攻作戦のことである。


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【内藤氏の歴史】


公卿・藤原道長から数えて五代目の後裔を始祖とした内藤盛遠から、23代当主・内藤元宣までの系譜を簡単に順次紹介致します。

初代当主・内藤盛遠(ないとう もりとお)は内供奉(注1)祐寛と末武の豪族福井検校大中臣光忠の女の間に生まれた第二子で、鳥羽天皇のとき内藤氏を賜わったとされるが、一説には盛遠の兄内舎人(注2)盛重が内藤氏を賜わったとも伝える。盛遠は筑前守に補せられ(注3)、従五位下を叙せられた。

内藤盛遠の子2代当主・内藤盛定(ないとう もりさだ)、孫の3代当主・内藤盛家(ないとう もりいえ)の時代は源平争乱期に当たる。内藤盛定の子内藤盛家は保延4年(1138)生まれで、寿永4年(1185)源氏に味方し、御家人となる。建久元年ごろから地頭をつとめる周防遠石)荘内の東大寺領,石清水八幡宮領を押領したため、停止命令をうけた。
盛家のあとは第七子4代当主・内藤盛時(ないとう もりとき)がついだ。母は摂津守師茂の女で、源実朝の乳母因幡局と伝えられる。建久元年(1190)生まれで内藤盛家の次男で幕府御家人。若年より幕府につかえ,京都への使者をつとめた。肥後守に補せられ、後五位上に叙された。1254年(建長6)1月19日、65歳で死没した。

つぎの5代当主内藤有盛は盛時の第二子で、童名を徳正丸、のち岩国小次郎ともいい、法名を覚阿と称した。有盛は父盛時から尾張国の牧野・浅井両郷と相模国の北畑之庄を伝領したが、このうち浅井郷を長男時信に、牧野庄と北畑之庄を二男時澄に譲渡した。有盛の妻は法名を仏心といい、前夫は弘中権正兼綱(法名白蓮)である。

有盛と仏心との間にできた第一子が6代当主・内藤時信で、法名を生西といい、肥後に補せられた。妻は母仏心の先夫弘中兼綱の女である。母仏心は小周防(周防本郡)の地頭職を前夫兼綱から相伝していたが、のちこの遺領をめぐって、仏心の子宗像孫次郎宗氏(法名宗通)と内藤時信の子7代当主・内藤盛兼との間で紛争が生じた。

盛兼の子8代当主・内藤盛秀は夭死(ようし)して嗣子がなかったので、時信の二男で盛兼の弟9代当主・内藤盛信が宗家を継いだ。盛信は初め勝間田備前守忠保の婿養子に入り、忠盛と称していた。この盛信の第一子が10代当主・内藤盛世で、童名を徳益丸、のち肥後太郎、法名を智陽と称した。1391年(明徳2)2月8日に死没しているから、盛世の活動時期はまさに南北朝の動乱期にあたる。
同年12月直冬は南朝方に帰順したが、大内弘世もまた翌年南朝方に帰順して周防守護職(注4)に任ぜられたから、周防には南北両朝に分かれて二人の守護が対立し、都濃郡を舞台に激戦が展開されることになった。内藤氏は宗家の盛世・盛貞親子は大内宗家に、庶家の藤時・盛清兄弟は鷲頭氏に属して相争った。藤時は有盛の第二子時澄の孫にあたる。父は時清で、肥後次郎と称し、尾張国の牧野庄、相模国の北畑庄および美濃国船木庄の地頭職を領していた。

鷲頭庄をめぐる攻防戦が大内弘世の勝利で終わると、内藤氏は宗家11代当主内藤盛貞のとき初めて大内盛見に仕え、長門国守護代(注5)に任ぜられ、盛貞の弟勝間田盛実はこれを補佐する小守護代を勤めた。以来、内藤氏は宗家が長門守護代、庶家の勝間田氏が小守護代に任ぜられることが多かった。内藤氏の所領は盛貞のとき周防国の本郷・小周防・勝間村および伊予国成吉別府村であったが、のちには長門・筑前・豊前の各地にも散在した。盛貞が長門守護に補せられて以後、拠点は長門部に移り、都濃郡との関係は希薄になった。長門守護代は盛貞のあと、12代当主・内藤有貞、13代当主・内藤盛世、14代当主・内藤武盛らに伝えられた。大内義興没後、興盛は義隆に仕えて軍評定衆となり、大内氏の被官の中でも陶・杉両氏と並んでその重責をになった。

※ (注1) 内供奉(ないくぶ): 宮中の内道場で供奉し読師の役などをつとめる僧
※ (注2) 内舎人(うどねり): 宮内庁職員のうち、天皇のそばに控え、身支度を整え  
                  るなど私的な世話や雑用を担当し、日常生活を支える
※ (注3) 補せられ     : 役人として役職に任じられる
※ (注4) 守護職      : 国単位で設置された軍事指揮官・行政官である
※ (注5) 守護代      : 鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職



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5代当主・内藤弘矩(ないとう ひろのり)は大内氏重臣として権勢をふるったが、讒言に
より謀反の疑いがかけられ、その子弘和と共に大内氏の第30代当主・大内義興に誅殺された。冤罪と分かり、義興の意向で内藤弘矩の弟で内藤興盛の父16代当主・内藤弘春(ないとう ひろはる)が家督を継承することになり、その後17代当主・内藤興盛(ないとう おきもり)は弘矩の娘を娶り(めとり)、内藤氏の当主となる。
19代当主・内藤隆世(ないとう たかよ)は父18代当主・内藤隆時(ないとう たかとき)が早世していたため、天文20年(1551年)陶晴賢が大内義隆に謀反(大寧寺の変)した直後に隠居した祖父興盛の跡を継ぎ家督を相続した。変の後に大友氏から迎えられた大内義長の元で、実権を握る義兄の陶晴賢と共に大内家重臣となった。

20代当主・内藤隆春(ないとう たかはる)は大内家臣・陶晴賢の主君・大内義隆に対する謀叛(大寧寺の変)が起こると、父・内藤興盛と共に静観の態度を取るが、甥の内藤隆世の積極姿勢に反発して家内が紛争となる。天文23年(1554年)に父が死去し、弘治元年(1555年)の厳島の戦い後に毛利氏に内通し、弘治3年(1557年)の元就の防長経略の時には、内藤氏当主となっていた隆世と袂を分かち毛利氏に降り、元就らに従って転戦する。

21代当主・内藤元盛(ないとう もともり)は永禄9年(1566年)、毛利氏の家臣・宍戸元秀(毛利元就外孫)の次男として誕生。母は内藤興盛の娘。母方の伯父・内藤隆春の婿養子となり家督を継ぐ。毛利輝元の密命を受け、大坂の陣で豊臣方として参戦し豊臣方は敗北し滅亡。内藤元盛も毛利氏一門であることが露見してしまう。江戸幕府の厳命を受けた毛利氏の厳しい捜索により逃亡中に京都で捕縛され切腹させられた。

22代当主・内藤元珍(ないとう もとよし)は毛利氏の家臣である内藤元盛(佐野道可)の長男として生まれた。大坂夏の陣後、内藤元珍は帰国して早々、吉川広家や福原広俊らの進言を受けた毛利輝元に切腹を命じられ、元和元年(1615年)富海の龍谷寺で自害した。

23代当主・内藤元宣(ないとう もともり)は元珍の長男で母方の志道姓を称し、毛利家に帰参するものの隠忍の日々を過ごすが、孫の内藤隆昌の代に内藤姓に復し、船木村・末益村8370石を与えられた。以後、子孫は 厚狭毛利家に仕えて明治維新に至った。

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by kfujiken2 | 2017-12-11 12:01 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その③

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その③

2.旧内藤家屋敷跡と庭園の場所

 米泉湖沿いに県道41号下松鹿野線を北に進み、下松市下谷より県道139号三瀬川下松線を直進。
米川部落を過ぎ「滝の口親水公園」バス停を過ぎると、次に「大将軍山登山口」バス停がある。右手に
末武川の上流に架かっている後山橋を渡たると、旧内藤家屋敷跡と大将軍山登山口案内板がある。
車で900mの案内が書いてある。瀬戸後山に登る途中に三叉路に分かれた所に看板があります。
そこを右折すると右側に大将軍山登山口と左側に旧内藤家屋敷跡があります。


【下松市米川周辺の地図】
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【末武川の上流に架かっている後山橋】
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【後山橋を渡った三叉路】
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【後山の林道に行く道案内】

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【瀬戸後山に登る途中の三叉路を右折】
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【旧内藤家屋敷跡と大将軍登山口】
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の看板を南に20m坂道を登ると、旧内藤家屋敷跡に着きます。
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次回は内藤氏の歴史と題して、内藤家系図をご覧頂きながら調べることが
出来た範囲でございますが、始祖内藤盛遠から23代当主・内藤元宣まで
簡単に系譜を紹介致します。

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by kfujiken2 | 2017-12-05 16:49 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その②

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その②

下松市に雪舟の弟子によって造られた、名庭・池泉観賞式庭園があるということを、その①で
ご紹介しましたが、その名庭が存在する旧内藤家屋敷跡が下松市にあるということです!!!
この旧内藤家とは、後にご紹介しますが山口大内氏家臣団で陶氏・内藤氏・杉氏が
奉行三家老家に列せられており、始祖が平安中期に左大臣として政権を掌握した公卿・藤原道長の
五代目にあたる名家なのです。
何故下松市がもっと深く、調査・研究しないのか私には分かりません・・・


【旧内藤家屋敷跡の全体風景】 
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下方に写っている石切が入門の痕跡ではないかと推測しますが、池泉観賞式庭園は写真の
左側、方向的に言えば西側になりきす。

【屋敷跡に設置されている案内板】

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案内板の絵図に示されている【旧内藤家庭園説明図】の拡大です

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それでは旧内藤家屋敷跡にある、名庭・池泉観賞式庭園をご紹介しましょう。

「雪舟の弟子による作庭」と伝えられる本庭は、中央に奥行のある池泉(現在は涸れ)を大きく
穿ち(うがち)奥部に枯滝を構え、向かって右側奥に鶴・亀両島を配置した、池泉観賞式庭園である。
北に位置する座敷からの座視を旨とするものであるが、母屋から池辺拝石までは定石通りに飛石が
打たれ、泉池中央及び東部泉池に舟石を配し、池の周囲にわずかな盛土と石組をする等、随所に
優れた造庭技術を認めることができる。
現在庭にはやや雑草が茂り、中嶋や護岸一部に損傷の憾みもあるが、地方に於ける庄屋庭としては
県内最古に属し、地方に於ける造園史の上で重要な様相を有するものである。


※ 池泉観賞式庭園とは、どんなお庭なのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。

池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、   
川があり、池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。

観賞式とは  :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。


【北側から見た池泉観賞式庭園】

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【西側から見た池泉観賞式庭園】

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勿体ぶる訳ではありませんが、長くなるのと詳しく載せ見てもらいたくて、旧内藤家屋敷跡と庭園の場所や内藤氏の歴史は、後日に致します。
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by kfujiken2 | 2017-11-27 17:01 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その①

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~

旧内藤家屋敷跡にある池泉観賞式庭園とは、どんなお庭をなのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。


池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、川があり、
           池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。
観賞式とは   :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。



1.旧内藤家屋敷跡と庭園の概要

内藤家は古くから大内氏に仕えていた武家の一族と伝え、毛利氏の中国地方統一の際し、
帰農して(天正10年・1582)現在の米川瀬戸を深く入り込んだ僻地(現在の下松市大字瀬戸
1088番地)に居住している。山村の多くがそうであるように、狭隘(きょうあい)な山裾の一部を
利用して屋敷としたものである。口伝では、この屋敷が瀬戸村に移住後、昭和初期に至るまで
一貫して居住した地であるという。404坪(明治20年土地台帳)の屋敷は、前方を石垣とし
山寄りにはモミの巨樹がそびえ、あたかも寺跡のような景観を呈している。石段を登ると門跡を
示す6基の簡素な礎石があり、池泉はこれを経て左側山裾まで約100坪の間に構成されている。
茅葺の母屋は、昭和初期解体し戦中に耕して畑地としていた。門は昭和37年に子供の火遊びの為、
焼失して建物は存在しないが、庭園は樹草の中に健在である。


【 ① 入 口 の 石 垣 】
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【 ② 旧 内 藤 家 屋 敷 跡 の 入門前の石段 】
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【③ 旧内藤家屋敷跡の全体風景】

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【④ 屋敷跡に設置されている案内板】
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※ ③は②の石段を登った所から見た旧内藤家屋敷の全体風景ですが、③で下方に写っている石切が入門の痕跡ではないでしょうか。


池泉観賞式庭園の説明・場所・内藤氏の歴史は、後日に致します。

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by kfujiken2 | 2017-11-22 10:24 | 歴史 | Comments(0)

幻の下松藩邸

先ずお断りしておきますが、この場所に下松藩邸が存在していたのは間違いない
のですが、何分資料が無くあくまでも想像の域を出ません!!!
虎口(入口)がここだったのでないか?下に記載しました画像がそうなんです。
他の部分は民家が立ち並び、写真を撮ることをはばかられます。


徳山藩と聞けば、大体の方が”周南市(旧徳山市)動物園周辺”に存在したことはご存知でしょう。
この徳山藩が立藩当初は、徳山に藩庁をおかず、下松に藩庁をおいていた。
このことをご存知の方は多いかと存じますが、この初期徳山藩庁であった下松城に関しては、
詳細な事柄は不明な点が多く、所在地もあまり知られていない。下松藩の創設の経緯を知る人は
多いが、下松城の所在地を明確に知る人は多くなく、史学的・考古学研究も検証も、調査も行われ
ておらず知名度は低い。下松に毛利就隆の居館が法蓮寺に建設されたのは、分地から14年後の
寛永8年(1631)のことである。現在、館邸の跡形もないのは、石垣を再度に亘って崩し去り、
慶安元年(1648)で徳山野上に居館建設中であったことから、これらの石垣はことごとく野上へ
移転せしめたのであろう。
下松に居館建設後17年たらずのことであるから石垣のみならず居館も同様移築したものと推測される。


【正保国絵図による下松付近概念】 (図1)

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【所 在 地】

広 域 地 図  (図2)
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拡 大 地 図  (図3)
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【下 松 藩 邸 付 近 の 想 定 図】  (図4)

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下松藩邸の想定の詳細


【縄張り】(注1)
下松藩邸(下松陣屋)については、「防長地下上申」・「旧記抜書」・「主圖合結記(主図合結記)」の三つの資料があるようです。
下松藩邸について『旧記抜書』に下記の様に記されている。
寛永八年就隆公下松御屋敷作事有之、小松山高サ十間余(注2)、切岸(注3)東西二壇(注4)へ竹を植、御門三ツ有之、御厩(注5)惣構(注6)之外ニ有之、或茅葺板葺被二仰付一候、初ハ外構石壁ニ被二仰付一候処、少し高く候而公儀御遠慮ニ思召候、其上へ土を持かけ竹を御植させ被成候、作事奉行佐久間清左衛門相勤候事


この古文書読み解きますと・・・
寛永八年に就隆公は下松御屋敷をここに建設した、小松山の高さが十間余(約20m)あり、お屋敷台の南側(正面)は切岸で東・西二壇に石垣を組むも抗議へのご遠慮のため、土を持ちかけ竹を植えている。二壇の石垣は必ずしも直線ではなく、かぎ型であって、門を入ると石段や踊場を登りながら右の三筆の地(約800坪)、即ち陣屋に向かったものと思われる。この間切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたことが明らかである。つまり、門が三ヶ所あったということから外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。就隆公の乗られる馬の馬屋は陣屋の外にある。
又、『防長地下上申』によると、豊井村地下図に「古御屋敷台」と記されて所が、旧居館所在地である。
東・西・北の三方を山で囲まれているので、屋敷台の地形は現在も余り変わっていないであろう。その屋敷台中央部には、明治20年の分間図・土地台帳によると、一枚(注7)で畑地一反七畝九歩(法蓮寺1725番地)の平坦地があり、その南側に接する二筆(法蓮寺1728番・1729番)も右と同じ高さの平坦地であったことが明らかである。右の登記簿は、明治20年にこの地に女学校創建(櫨蔭高等学校)にかかる造成以前のものであるから、右の三筆約800坪に主要建造物が在ったと考えられる。さて御長屋と廐(うまや)は、屋敷台地が狭隘(きょうあい)な為か惣構(そうがまえ)の外にあり、この馬屋は『地下上申』によると、豊井村地下図に「むまやのたん」と記されてその位置が法蓮寺1673番地・同1677番地付近とあり、現在の末光幼稚園の西側周辺である。

(注1) ※縄張り(なわばり)とは: 曲輪や堀、門、虎口等の配置をいう。つまり、城を造るためには設計が必要であり、この設計のことをいいます。
(注2) ※小松山高サ十間余とは: 河内村に接するお屋敷台の東側の小山で、現在は約半分が住宅と国道188号線に変貌している。現在の地図上の表示は、「光陽台」を指している。
(注3) ※切岸とは: 斜面を削って人工的に断崖とした構造。
(注4) ※壇とは: 他より一段高くこしらえた場所。
(注5) ※御厩(みやま)とは: 貴人が乗る馬の馬屋。
(注6) ※惣構とは:城や砦の外郭、またはその囲まれた内部のことで総曲輪(そうぐるわ)とも言う。
(注7) ※畑一枚とは: 畑一区画の意味です。
 

【図3の拡大地図で緑色で塗った切岸二壇の下部】 (図5) 

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【図5の道路に面した切岸】 

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【図5のコーナーから上部】

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◆ ここで枡形虎口(ますがたこぐち)について少し説明をしましょう。
戦国末期には西日本を中心に枡形(ますがた)と呼ばれる虎口が現れた。これは虎口の前面に桝形(方形)の空間を設け、そこに門や口を2重に構えることで、攻撃側は桝形内部に侵入しても2番目の門に城内への侵入を阻まれ、桝形内部で守備側からの攻撃を全面に浴びることとなる。
枡形には内枡形(うちますがた)と外枡形(そとますがた)がある。内枡形は、曲輪の虎口の内側に小さな方形空間を造り第二の門を築く。
ここに入り込むと寄せ手は3方向から囲まれる。外枡形は、主な曲輪の虎口の外に地続きの小さな方形空間を張り出させ、最前にもう1つの門を開いたものである。枡形の門は、最前の門とその後方の門の2つが開かれる。最前の門を高麗門、その後方の門を櫓門としたものが基本的な形状であると見られているが、後方の門のみで最前の門がないものや、最前の門のみのものもある。 近世城郭はその多くが枡形、あるいはそれに類する虎口を備え、侵入した攻撃側が容易に直進できないようにするため右折または左折構造を採る場合が多い。
下松藩邸の場合、切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたそうだから、外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。


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【外・内枡形を組合せた虎口】

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by kfujiken2 | 2017-11-08 13:07 | 歴史 | Comments(0)

下松高等学校の歴史

【はしがき】

1617年(元和3)下松藩(後の徳山藩)が創設され、1631年(寛永8)藩邸(下松陣屋)が
建設されました。下松藩(後の徳山藩)の初代藩主・毛利就隆の居館はどんな構図だったか、
建物の配置はどんなになっていたか? 等を色々調べていたが資料がない!!! 遺跡がない! 
でお手上げ状態の時、そうだ・・・1650年(慶安3年)下松藩が徳山に移転して
その跡地に約300年後の昭和4年に下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が建設され、
昭和28年3月に、下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の
経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。
そこに昼間の下松高等学校定時制寺町分校が開設されたことを思い出しました。
つまり下松高等学校の前身が女学校だったとは聞かされていましたが、その経緯を詳しく知っている
OBは少ないのではないか? 又、自分の母校の歴史って意外と知らないのではないか? 
そんな些細なことで下松高等学校の歴史をたどってみようと思いました。


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端的に沿革を説明しますと、下図の校章でもお分かり頂けると思いますが、
山口県立下松女子商業学校 → 山口県立下松高等女子校 → 山口県立下松高校へと変革していったのです。


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それでは古い校舎の画像を見ながら沿革を説明致します。
下松高等学校(元 山口県立下松高等女子校)が創設されるまでの足跡を説明しましょう。


昭和18年10月に発せられた政府の戦時非常措置によって、軍需産業に対処するため工業学校に
転換された男子商業学校が、戦後、再びもとに復帰することになった。したがって商業学校の
不足を補う立場で昭和19年に設立された下松女子商業学校も、その存立意義が薄らいだのを機会に、
市の強い要請もあって、昭和21年4月に、県立下松高等女学校として再出発した。
取りあえず下松尋常高等小学校舎の隣りにある下松青年学校(現在の下松市立中学校)の三教室を
借用して、二学級編成で発足した。場所は現在の下松市立小学校の西側である。


山口県立下松高等女子校仮校舎 (昭和21年)
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さらに、下松高等女学校は昭和23年4月から、新制高等学校(山口県立下松高校)に移行されることに
備えて、新校舎の建設を急ぐことになり、新校地の選定・買収・造成などが、市の負担で積極的に進められた。当時は、農地解放・食糧不足の時期であって、耕作者の農地に対する執着心が強く、平野部での
用地取得が困難なため、新たに、大河内台地が候補地として取りあげられた。ここは、市のほぼ中央に
あたり、眺望絶佳にして閑静、山林・畑地で所有者の反対もとくにないことから、整地・用水などに困難な
問題点もあったが、昭和22年11月に適地として決定をみた。市民から山の高等学校と愛称された
ゆえんである。昭和24年2月に待望の新校舎が竣工し全校生徒が移転した。


新制高等学校・山口県立下松高校の旧校舎(昭和23年)
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昭和29年4月に全日制家庭科が増設されたが、その後志望者の逓減によって、昭和39年4月
廃止された。 他方、昭和23年7月に昼間の下松高等学校定時制久保分校が開設された。
農業科・家庭科編成で、久保小学校校舎の一部と岡市にあった県設指導農場の一部を借用した仮校舎で授業を開始した。昭和4年に開校し昭和28年3月に、櫨蔭(ろいん)学園が下松市内の櫨蔭高等学校を閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。これによって定時制久保分校はここに移り、定時制寺町分校と改称した。
その後、家庭経済や交通事情などの好転に伴い、定時制の生徒も激減する傾向を示したので、
県教育委員会はその見直しを行い、統廃合・整理の方針を定めた。これに基づいて、農業科は
昭和32年3月に、家庭科は昭和36年3月にそれぞれ募集を停止し、昭和38年3月寺町分校は
廃止された。

下松高等学校定時制寺町分校(元 櫨蔭高等学校)(昭和29年)

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現校舎(昭和55年)
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by kfujiken2 | 2017-10-10 12:26 | 歴史 | Comments(0)

下松市に徳山初代藩主・毛利就隆ゆかりのお寺が三ヶ寺ある

来週の日曜日(10月8日) 毛利博物館長・山口大学名誉教授の田中誠二先生の講演「下松藩の成立と展開 ~そして幕末・明治維新へ~ 」を拝聴するにあたり、中々資料が無い中度々調べに行きましたが、再度私なりに何か探してみようと下松藩の居城跡に出掛けました!!!
しかし、目新しいものに出くわさずどうしょうかと思案していたが、すぐ近くに徳山藩初代藩主・毛利就隆が側室のために創建した松心寺というお寺があることに気が付き飛んで行きました。


松心寺(元 永心寺)は、1640年側室永心院のために就隆が創建しました。
徳山に毛利家菩提寺の大成寺が建立されると、位牌等はそちらに移動されたそうです。


山門と本堂です
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本堂の屋根に 「舟形一文字三つ星」 の徳山毛利藩の家紋が分かります 
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本堂西側の墓地に並んで永心院と伊勢姫の墓立っている。石造りの柵が時代を感じらせ、毛利就隆の大事に思う気持が推察できます。
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左側に高さ220cmの下松市内で二番目に大きい五輪塔があります。
これは徳山藩初代藩主・毛利就隆の最初の姫で、特に毛利就隆が竈愛していた
伊勢姫のために立てられたのである。法名は 「祥光院殿瑞中以松大姉」
姫は病弱のため一生結婚せず、46歳で寛文10年(1670)正月11日になくなられた。

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右側が就隆の側室で伊勢姫の母、永心院の墓。高さ145cm
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他の二つのお寺を簡単に紹介しましょう・・・


◆妙法寺  下松市東豊井1152
徳山藩初代藩主・毛利就隆の乳母が開基のお寺・妙法寺
妙法寺の本堂の軒にある毛利家家紋が、関係があったことを証明しております。
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◆周慶寺  下松市中市1丁目9−1
徳山藩初代藩主・毛利就隆の生母「清泰院・二の丸様」の菩提寺で、法名は清泰院殿栄誉周慶大姉。

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by kfujiken2 | 2017-10-01 12:37 | 歴史 | Comments(0)

徳山藩の諸隊・山崎隊に下松在住の人がいた

今回の投稿は、徳山藩の諸隊・山崎隊の説明がメインではなく、山崎隊の中に下松在住の人が55名いたという説明です。発足した当時ではなく150人前後に増員された時期ではないかと想像します。


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周南市新南陽にある富田護国神社は、明治2年(1869)、徳山藩山崎隊の戦没者23名を祀る招魂場を富田永源山頂に創建したことに始まります。
富田護国神社の社殿の後ろに説明版には23柱と記してありますが、実際は32柱の招魂墓碑が並んでいます。これらは山崎隊士だけでなく献功隊士のものだと想像します。
がしかし、この中に下松在住の人が祀られているかは分かりかねます。


山崎隊は下記で説明致しますが、簡単に献功隊について説明しましょう・・・
献功隊は、明治元年に朝気隊、斥候銃隊、武揚隊、順祥隊を合併し、
結成された部隊で、17~40歳迄の士族で構成されています。
後の満州軍総参謀長児玉源太郎もこの隊に在籍していました。



さて、下松在住の人の説明に入る前に、山崎隊について簡単に説明しましょう・・・

山崎隊は、1866年(慶応元年)4月、富田村の庄屋・政所である岩崎庄左衛門を賄方として、
「富田隊」という仮称で創設された部隊で、創設地の地名の山崎八幡宮にちなんで「山崎隊」と
改称されました。陣営は、富田新町の浄真寺があてられた。
第二奇兵隊の結成より3カ月後のことであり、諸隊の中では遅く組織された隊である。このように、
徳山藩での諸隊の組織化が遅れた原因は、徳山藩府内に保守派の力が強かったためといわれている。
山崎隊は、隊長・宮本小十郎他およそ50人で発足したが、やがて150人前後となり、慶応四年三月には
80人増員され、230人となった。山崎隊の特徴は、士庶を問わない有志の者で結成された点にあります。
1866年(慶応2)6月の四境戦争開始までは、徳山周辺の防衛に従事する。四境戦争が勃発すると、
一中隊が芸州口の戦いに参加した。翌67年には、一隊が占領地である小倉城の防衛に従事する。
同年、本隊は京都に進駐し、翌68年(明治元)正月、鳥羽伏見の戦いが始まると、本隊はこの戦いに
参加して戦功をあげた。さらに、同年9月戊辰戦争が始まると秋田攻撃に参加、別の一隊は青森へ転戦し、翌69年の函館戦争で大変な苦戦をなめている。


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社殿の前の広場です。創建が明治2年という事ですが、鳥居は何時造られたかは確認しませんでしたが、至ってまだ新しいものです。台風一過のため落ち葉が散乱していますが、よく整備されています。


それでは本日の本文に入ります。
山崎隊へ下松市域内徳山領諸村から多くの農町民が参加していた。「同隊人名録」(徳山市立図書館叢書16)によると、市域内出身隊員は55名である。

「出身村別表」

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出身村別表」をみると、各村ともまんべんなく数名が入隊している。しかし、大藤谷村~河内村は山村であり、戸数・人口ともに少ない村である。これに比して、東西豊井村や下松町上松浦は戸数・人口ともに多い。この両者を比較すると、山村の30人に対して、海岸市街地は20人である。山村の農民が、尊王攘夷の思想に共鳴し、郷土防衛の意識が高かったため、このように多くの者が応募したのであろうか。どうも、そのようには考えられない。

「長男と次三男別表」

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山村と市街地出身兵の「長男と次三男別表」をみると、山村出身兵35名中、長男は11名で、次三男は19名と倍近く多い。それに比して、下松町を中心とする市街地では、次三男より長男の方が5名も多い。このことは、山村の農家の次三男は、山村で暮していても将来への展望がないため、新しい軍隊に応募することにより、自分の将来を切り開こうとしたのではないだろうか。

「出身階層表」

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ここにみるように、農民と商人が計五二人で九五パーセントに達し、圧倒的に多いことが分かる。神職の二人は山田村と生野屋村で、下士は河内村出身である。

「年齢別表」

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最年少は一三歳の少年から、最高年齢は三〇歳であり、平均年齢は一九歳であった。


以上が市域内出身兵の分析であるが、このことは山崎隊全員の傾向と合致するものと考えられる。又、この表を見ると発足半ばの隊員150人前後の内、下松市在住の人が三分の一を占めていたことが分かる。

※ 下松市史 通史編 明治維新時の下松1 諸隊の動向 山崎隊の結成を参考にさせて頂きました。

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by kfujiken2 | 2017-09-21 08:10 | 歴史 | Comments(0)

種田山頭火と層雲の句友・兼崎地橙孫(かねざき ぢとうそん)

兼崎地橙孫は自由律俳句の先駆者・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)の
高弟として活躍するとともに、『清明の俳人』として気品ある清明句を多く遺している。
また書家としても名高く、中村不折直伝の六朝体最後の書家でもあった。


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兼﨑地橙孫肖像(提供:吉田紗美子)


徳山藩士・兼﨑昌司(号・橙堂(とうどう))を祖父にもち、父・茂樹(号・地外(ちがい))、
母・トメ(小川官介長女)の長男(本名・理蔵)として、明治23年に生れました。
中学時代から句作を始め、明治43年全国巡遊の途にあった河東碧梧桐と下関で出会い、以来師と仰いでいます。層雲の句友、種田山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
熊本五高を経て京都帝国大学法学部を卒業し、大正13年下関にて弁護士を開業、のちに山口県弁護士会会長に就任しました。
下関空襲により被災し、徳山市舞車に疎開する。弁護士として活躍する傍ら、県俳句界の指導者として後進の指導にあたりました。人にやさしい真摯な生き方は、多くの人たちの
心を惹きつけ、その精神は気品ある「清明句」として開花しました。


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※ 六朝体(りくちょうたい): 中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の楷書体だそうです。

※ 自由律俳句: 五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。
          季題にとらわれず、感情の自由な律動を表現することに重きが置かれる。


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兼﨑地橙孫句碑
この辺りを上御弓丁(かみおゆみちょう)というそうですが、正に武家屋敷らしい地名ですね!


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兼﨑地橙孫第二句碑
昭和24年に詠んだ句です。東川に架かる 舞車橋を渡った側にあります。
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by kfujiken2 | 2017-09-08 11:15 | 歴史 | Comments(0)

「弾除け神社(三坂神社)」

戦時中、山口県徳地に「弾除け神社(三坂神社)」と呼ばれた神社があります。
戦地での無事を願って家族が、本人に内緒で写真を奉納し送り出したそうです。


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明治8年(1875年)、郷社に列し日清・日露戦争の際、三坂神社に武運長久を祈願した人が
全員無事に帰還したことが報道され、「弾除けの神」として有名になった。
大正8年(1919年)、県社に昇格。昭和になり、日中戦争以降、武運長久祈願のための参拝者が激増、
最高で1日に880人が祈願したそうです。
終戦後、参拝者名簿は事前に焼却し、祈願写真は隣家の床下に隠して無事なものもあり、
その数一万数千枚に達したらしい・・・

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三坂神社は大きな神社ではないが、『周防徳地誌』に万葉集に「千早振る神の三坂に
幣奉り祝ふいのちはおも父がため」と詠まれており、、正一位を授かり、豊臣秀吉公が
三坂神社に参り五色の吹貫等を献納し、参道の石畳は足利尊氏が敷いたと記述が
あるそうです。
由緒ある神社ですよ~~~
現在は石が風化して刻まれた文字は読むことが出来ませんが、
二ノ鳥居の銘に「延書式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(1698年)戊陽月」とあり、長州藩4代藩主毛利吉広の寄進であったことが分る。


足利尊氏が敷いたという参道の石畳
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長州藩4代藩主毛利吉広の寄進したという二ノ鳥居
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幕末の文久元年(1861年)に現在の拝殿が建てられたが、本殿・幣殿は昔のまま様です。
それに左上に本殿が見えますが、拝殿からの続きになっているようで中を見ることは出来ません!


社殿の全景と拝殿
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神徳顕彰碑
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by kfujiken2 | 2017-08-14 15:53 | 歴史 | Comments(0)