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悲運の三代目奇兵隊総督 赤禰武人(あかね たけと)

幕末の志士の中には、高杉晋作のように有名な人物がいる一方で、
赤禰武人のように光の当たらない人物もおります。


※ 赤禰武人(あかね たけと)の容貌と経歴

すっきりとした顔立ちが印象的な肖像画があります。しかしそれは、容貌が似ていたという実弟の写真を元に、近年描かれたもの。武人の晩年に会った人物は、「白皙(はくせき)長身、眉目清秀(びもくせいしゅう)ノ偉丈夫(いじょうふ)ナリ」と書き残しており、実際に色白で背が高い、美青年だったようです。

周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。
妙円寺の海防僧月性、吉田松陰、梅田雲浜に学んだ。月性の紹介で浦靱負(うら ゆきえ)の郷校である克己堂(こっきどう)で学ぶ。
文久二年江戸に出て英国公使館焼打事件に加わり、同三年奇兵隊に参加。十月奇兵隊総督となって元治元年四国連合艦隊と下関で戦った。長州藩の政務役も兼任したが、眼病にかかり辞職して帰郷。
ついで高杉の下関挙兵には調和論を唱えて意見が合わず、慶応元年筑前に脱走した。その後上京して再び幕吏に捕えられたが、幕長間の和平交渉のため釈放され帰郷した。同時主戦論に固まった長州藩から幕府内通の嫌疑を受けて逮捕され、山口に護送されて鰐石河原で斬首された。
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※ 高杉晋作に振り回されての対立、その悲劇の真相とは?

高杉晋作と第三代奇兵隊総督赤禰武人の歯車が狂いだしたのが、高杉晋作が功山寺挙兵した大田・絵堂の戦いからである。動と静の性格の違いから始まったと言えます。

高杉晋作の功山寺挙兵は、凡人からすれば一か八かの賭けだったわけで、周囲から暴挙と言われてもしかたがありません。成功したから良かったのですが、失敗すれは諸隊は解散、主だったものは死罪となります。
組織のトップというものは、組織の存続させることが最重要であり、 一か八かの賭けで組織を潰すことはできません。対外交渉にしてもしかりで、交渉、交渉の末、落としどころを探し、それでもダメな場合は武力に訴えるというのが常。赤禰武人は組織のトップとして、諸隊を存続させようと奔走したわけです。
これはトップとして至極真っ当な行動でした。


赤禰武人の不在の時、俗論派に命を狙われ九州へ逃亡していた高杉晋作が駐屯地にふらりと顔を出し、長州藩の正義派が俗論派を倒すしかないと、高杉晋作は武力突破を主張する。
「ここで兵を挙げて俗論党を討たねば我が藩は滅びる」
この言葉に軍監の山縣有朋が赤禰武人が戻るまで待つようにといさめた。
また赤禰武人も「萩政府を攻めるのは、藩主に弓を引くも同じだ」と、
奇兵隊の決起に反対するが、高杉晋作は更に奇兵隊の同志を前に言ったと云う。


「君らは赤禰武人に欺瞞(ぎまん)せられたる者か
そもそも武人は大島郡の一土民の身
何ぞ国家の大事、両君公(藩主父子)の危急を知る者ならんや
君らは予を何と思うや
予は毛利家三百年来の世臣なり
あに武人がごとき一土民の比ならんや」


身分や階級にとらわれない奇兵隊を創設した高杉晋作の言葉とは思えない暴言です!
高杉晋作におごりがあり、身分や階級にとらわれないとは人数を集めるための口実で、本音が出たのではないでしょうか?感情的にも激しく演説したが、諸隊の幹部の殆どが平民だった為ひんしゅくを買った部分が多く、諸隊は直ぐには動かなかったと云われている 。
高杉晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士が暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。晋作の言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。
しかし高杉は伊藤俊輔(博文)の元へ行くと、伊藤は迷うことなく高杉に賛同し力士隊20名を差し出し、そこへ遊撃隊60名を加えた総勢約80名が高杉に同調し、俗論政府を相手に藩内革命を起こした功山寺挙兵であり、これが大田・絵堂の戦いを引き起こす原因になったのである。

攘夷の無謀さを痛感してからの赤禰武人は、ただ声高に外国を打ち払ったり、むやみに戦争をするという事をしないように、争いの調停役に回る事が多くなります。
長州藩内の幕府恭順派(俗論派)を攻め滅ぼそうとする高杉晋作と、藩内で争っている場合ではないと考える赤禰武人。戦を回避しするために長州藩内を動き回る赤禰武人ですが、いつしかその行動がスパイと勘違いされるようになっていきます。
高杉晋作らの正義派が実権を握った事で、藩政はここから討幕へと舵を切っていくことになる。
高杉晋作がクーデターを起こした事で、赤禰武人の居場所は無くなっていた。
和平実現のために動いていた事で二重スパイ疑惑をかけられたのだった。
仲間たちとの信頼関係が上手く構築できなかったためか、やがては長州藩を去り哀れな最期を迎えることになります。赤禰武人は戦を避けようとしただけで、正義派を裏切ったつもりではなく、しかし高杉晋作たちからは、自分たちを裏切り幕府に寝返った人間として誤解され、追われる身になってしまう。
潜伏中のところを長州藩士槇村半九郎に捕縛される。

一切の申し開きすら許されなかった武人は、悔しさをにじませ、処刑前夜に着ていた衣服の背中に『真は誠に偽に似,偽は以て真に似たり』という辞世を残しています。
『真実は偽りに似ていて、偽りは真実に似ている』自分の真意は、長州に対しての裏切りではなく、長州のためを思っての事。それを偽りと判断されてしまった武人の無念がうかがえます。

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by kfujiken2 | 2018-02-08 11:21 | 歴史 | Comments(0)

光市に素晴らしい南画家がいた

84年にわたり所在が不明だった雪舟の水墨画「倣夏珪(ほうかけい)山水図」が、
発見され山口県立美術館にて特別展が開催され盛り上がりましたが・・・
光市に立野出身の難波覃庵(なんばたんあん)という異色の南画家がいた。


萩藩の寄組清水家に譜代の家臣として40数年仕え、幕末、明治維新には国事にも奔走する。
61才で隠居し、青年のような気宇をもって本格的に南画に取り組み、実に多くの秀作を残す。
京都その他の文人墨客との交友も多く、余技とはいえその画は格調高く、2度の天覧の栄に浴した。
七溪、楽如、更狂などと号す。光市三大日本画家と言われる画家の一人。
難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする
名家です。難波覃庵は地元に私塾養義場や慕義会などを設立し、郷土子弟の教育に努めた事で
知られている。


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光市文化センター・難波覃庵の作品
クリックすると光市文化センター・難波覃庵の作品ページに飛びます

【向山文庫跡は明治の私立図書館跡】
光市立野宮河内にある難波家屋敷の土蔵は、かつて向山文庫と呼ばれていました。
難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする名家です。
向山文庫は難波覃庵が1883年に開設した文庫で、その後1906年からは一般に開放して私立図書館と
なりました。山口県初の図書館として1976年に光市の史跡に指定されています。現在も残る土蔵の姿に、
当時の様子を見ることができます。文庫跡の近くには、難波覃庵の顕彰碑も建てられています。

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by kfujiken2 | 2018-01-10 13:27 | 歴史 | Comments(0)

話題の雪舟と山頭火を探訪 ②

大正・昭和の俳人。季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を
重んじる「自由律俳句」を詠んだ種田山頭火。


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◆ 種田山頭火の生涯

本名は正一。山口県防府の大地主の家に生まれる。父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、
これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げた。
現・防府高校を首席で卒業した後、早稲田に入学。しかし22歳で神経症の為に中退して帰郷する。
この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、
彼は父と酒造業を開始する(24歳)。27歳で結婚子を持つ。
1906年(明治39年、24歳)12月 父竹治郎が吉敷郡大道村(現・防府市大道)にあった古くからの酒造場を買収。
一家で移り住む。そして、その翌年頃から種田酒造場を開業したとみられる。
1908年(明治41年、26歳) 酒造に失敗し、防府に残っていた家屋敷を全て売却している。
山頭火は熊本市で額縁店を開くが、家業に身が入らず妻子と別れ上京。しかし、定職を得ず、熊本に帰る。
酒におぼれ生活が乱れた。1924年(大正13)市内の報恩寺で出家。法名耕畝(こうほ)。
熊本市北部の植木町味取(うえきまちみとり)の味取観音の堂守となった。1926年、行乞(ぎょうこつ)の旅を始め、
山口県小郡(現山口市)の其中庵(ごちゅうあん)に住したが、行乞漂泊すること多く、諸国を巡り、
1940年(昭和15)松山市の一草庵(いっそうあん)で没した。


◆ 其中庵(ごちゅうあん)


其中庵の場所

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其中庵は、山頭火が昭和7年9月から昭和13年10月まで暮らした庵である。
作句と行乞(ぎょうこつ)の旅に生きながらも安住の地を探していた山頭火は、小郡に住む俳友、国森樹明、
伊東敬治らのすすめによってこの地に庵を結んで、多くの俳友と交流を深めた。
山頭火は、近郊を行乞しながら、この其中庵で、『三八九』(さんぱく)第四、五、六集、句集『草木塔』、『山行水行』、
『雑草風景』、『柿の葉』などを発行し、最も充実した文学生活を過ごしたが、庵の老朽化に耐えず、
山口市に居を移した。現在の其中庵は、平成四年三月に当時の建物を復元したものである。


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◆ 防府市 山頭火ふるさと館

山頭火ふるさと館の場所
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防府天満宮の石段下にある、観光交流・観光回遊を目的とした拠点施設まちの駅「うめてらす」から
歩いて西側へ約100mの所にあります。

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防府市出身の種田山頭火を顕彰する「山頭火ふるさと館」が、平成29年10月7日(土曜日)に開館しました。

★ 館内の撮影は禁止なので、残念ですが紹介することが出来ません!!!

唯一撮影許可をされました、和紙人形作家・長沼隆代さんの作品展示があります。
2~3展紹介させて頂きます。

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※ 「山頭火ふるさと館」ホームページ


※ 種田山頭火を紹介している私のホームページ 【けんじの館】をご覧下さい。

アンダーラインが引いてある所をクリックして頂ければ、そのページに飛べます・・・

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by kfujiken2 | 2017-12-25 11:17 | 歴史 | Comments(0)

話題の雪舟と山頭火を探訪  ①

室町時代の水墨画家・雪舟が描き、所在不明になっていた水墨画が84年ぶりに見つかったと、
山口県立美術館が東京都内で発表した。同館は10月31日から開かれた「雪舟発見!展」で公開した。
専門家は雪舟の代表作への道筋を示す、重要な作品と位置付けている。


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見つかったのは、軸装された約30センチ四方の団扇(だんせん)形の作品で、藍や緑などで
彩色を施した「倣夏珪山水図」。水辺に岩や木々が、奥には、なだらかな山脈が描かれている。
同美術館によると、雪舟が中国の名画家に倣って描いた「倣古図(ほうこず)シリーズ」の
うちの1点で、南宋(12~13世紀)の著名な画家夏珪の様式を模した。


◆ 雪舟の生涯

応永27年(1420年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。
幼い頃近くの宝福寺に入り当時文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・
文芸の分野を担っていた。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、天章周文に
絵を学んだ。

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享徳3年(1454年)頃、周防国に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市天花【てんげ】)を構える。寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。

応仁元年(1467)遣明船で中国に渡り、四明天童山(しめいてんどうざん)で前堂首座(ぜんどうしゅそ)に列せられ、また彩色や破墨(はぼく)の画法を学び帰国しました。

※ 楚石梵琦  : 中国,元末・明初の禅者
   四明天童山: 雪舟の称号
   前堂首座  : 江戸期の大僧堂では前堂首座と後堂首座の二人制を取るところもあった。
          首座(しゅそ)は禅宗の修行僧のリーダーをさす役職名

帰国後も、雪舟は雲谷庵に定住し作画活動と弟子の養成に努めましたが、永正3年(1506)87歳のとき山口で没したといわれています。  明治の廃藩後、雲谷庵は無くなりその跡も忘れられるようになったので有志等が図り、明治17年(1884)に古い社寺等の古材により庵を復興しました。


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◆ 雪舟庭


雪舟は作庭家しても有名です。
日本水墨画の頂点を極めたは雪舟、彼の美の原点は中国だった。修行のために、当時の明へと渡った雪舟は、
そこで墨の黒を描くことで広がる白の世界と出会う。空白とのバランスで引き立つ美しさ、それは黒味を帯び石と
白砂だけで表現された石庭の美と相通じるものだった。実は、当時雪舟は、庭師としても名を知られていた。
枯山水の庭の心は、水墨画とも共通しており、それと同時に庭造りにも心を傾けていたのだという。
築いたものと伝えられる庭園は各地にあり、医光寺(島根県益田市)、萬福寺(島根県益田市)、
常栄寺(山口県山口市宮野下)、旧亀石坊庭園(福岡県田川郡添田町)の雪舟庭は雪舟四大庭園と呼ばれる。


常栄寺雪舟庭
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◆ 雲谷庵跡(うんこくあん)

雲谷庵の場所


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雪舟が明(中国)から帰国した後、永正3年(1506)に没するまで創作活動を行ったと言われる山口県山口市天花(てんげ)にあるアトリエです。

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雪舟は大内氏の招きにより、40歳頃に山口に来て、48歳の応仁元年(1467)に遣明船に乗り中国に渡りました。帰国後も雲谷庵に住み作画活動を行い、87歳のときにここ雲谷庵で没したといわれています。代表作「山水長巻」もここで描かれたと言われています。 現在の建物は明治17年に建てられたものですが、建物の部材は、一部室町時代のものだそうです。

雲谷庵の勝手口として造られたのか? 大内時代の古材を集めたから一宇を再建したのか?

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雲谷庵の内部に囲炉裏のある部屋と和室の二部屋がありますが、荒廃してスリッパを履かなければ
上がることが出来ません!!!


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by kfujiken2 | 2017-12-20 15:45 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その④

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その④

3.内藤氏系図

山口大内氏家臣団で陶氏・内藤氏・杉氏が奉行三家老家に列せられた。
内藤氏は系図によると、平安中期に左大臣として政権を掌握した公卿・藤原道長の五代目の
後裔盛遠を始祖とする。旧内藤家庭園の概要説明に、天正10年(1582)に帰農して瀬戸後山に居住したとありますので、毛利元就の防長経略の時、追っ手から逃走中に立ち寄り帰農したのではないでしょうか?時代背景から想像すれば22代当主・内藤元珍か23代当主・内藤元宣の世代ではないでしょうかと推察いたします。

※ 防長経略: 天文24年10月12日(1555年)から弘治3年4月3日(1557年)まで行われた、
安芸の戦国大名毛利元就の大内氏領周防・長門侵攻作戦のことである。


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【内藤氏の歴史】


公卿・藤原道長から数えて五代目の後裔を始祖とした内藤盛遠から、23代当主・内藤元宣までの系譜を簡単に順次紹介致します。

初代当主・内藤盛遠(ないとう もりとお)は内供奉(注1)祐寛と末武の豪族福井検校大中臣光忠の女の間に生まれた第二子で、鳥羽天皇のとき内藤氏を賜わったとされるが、一説には盛遠の兄内舎人(注2)盛重が内藤氏を賜わったとも伝える。盛遠は筑前守に補せられ(注3)、従五位下を叙せられた。

内藤盛遠の子2代当主・内藤盛定(ないとう もりさだ)、孫の3代当主・内藤盛家(ないとう もりいえ)の時代は源平争乱期に当たる。内藤盛定の子内藤盛家は保延4年(1138)生まれで、寿永4年(1185)源氏に味方し、御家人となる。建久元年ごろから地頭をつとめる周防遠石)荘内の東大寺領,石清水八幡宮領を押領したため、停止命令をうけた。
盛家のあとは第七子4代当主・内藤盛時(ないとう もりとき)がついだ。母は摂津守師茂の女で、源実朝の乳母因幡局と伝えられる。建久元年(1190)生まれで内藤盛家の次男で幕府御家人。若年より幕府につかえ,京都への使者をつとめた。肥後守に補せられ、後五位上に叙された。1254年(建長6)1月19日、65歳で死没した。

つぎの5代当主内藤有盛は盛時の第二子で、童名を徳正丸、のち岩国小次郎ともいい、法名を覚阿と称した。有盛は父盛時から尾張国の牧野・浅井両郷と相模国の北畑之庄を伝領したが、このうち浅井郷を長男時信に、牧野庄と北畑之庄を二男時澄に譲渡した。有盛の妻は法名を仏心といい、前夫は弘中権正兼綱(法名白蓮)である。

有盛と仏心との間にできた第一子が6代当主・内藤時信で、法名を生西といい、肥後に補せられた。妻は母仏心の先夫弘中兼綱の女である。母仏心は小周防(周防本郡)の地頭職を前夫兼綱から相伝していたが、のちこの遺領をめぐって、仏心の子宗像孫次郎宗氏(法名宗通)と内藤時信の子7代当主・内藤盛兼との間で紛争が生じた。

盛兼の子8代当主・内藤盛秀は夭死(ようし)して嗣子がなかったので、時信の二男で盛兼の弟9代当主・内藤盛信が宗家を継いだ。盛信は初め勝間田備前守忠保の婿養子に入り、忠盛と称していた。この盛信の第一子が10代当主・内藤盛世で、童名を徳益丸、のち肥後太郎、法名を智陽と称した。1391年(明徳2)2月8日に死没しているから、盛世の活動時期はまさに南北朝の動乱期にあたる。
同年12月直冬は南朝方に帰順したが、大内弘世もまた翌年南朝方に帰順して周防守護職(注4)に任ぜられたから、周防には南北両朝に分かれて二人の守護が対立し、都濃郡を舞台に激戦が展開されることになった。内藤氏は宗家の盛世・盛貞親子は大内宗家に、庶家の藤時・盛清兄弟は鷲頭氏に属して相争った。藤時は有盛の第二子時澄の孫にあたる。父は時清で、肥後次郎と称し、尾張国の牧野庄、相模国の北畑庄および美濃国船木庄の地頭職を領していた。

鷲頭庄をめぐる攻防戦が大内弘世の勝利で終わると、内藤氏は宗家11代当主内藤盛貞のとき初めて大内盛見に仕え、長門国守護代(注5)に任ぜられ、盛貞の弟勝間田盛実はこれを補佐する小守護代を勤めた。以来、内藤氏は宗家が長門守護代、庶家の勝間田氏が小守護代に任ぜられることが多かった。内藤氏の所領は盛貞のとき周防国の本郷・小周防・勝間村および伊予国成吉別府村であったが、のちには長門・筑前・豊前の各地にも散在した。盛貞が長門守護に補せられて以後、拠点は長門部に移り、都濃郡との関係は希薄になった。長門守護代は盛貞のあと、12代当主・内藤有貞、13代当主・内藤盛世、14代当主・内藤武盛らに伝えられた。大内義興没後、興盛は義隆に仕えて軍評定衆となり、大内氏の被官の中でも陶・杉両氏と並んでその重責をになった。

※ (注1) 内供奉(ないくぶ): 宮中の内道場で供奉し読師の役などをつとめる僧
※ (注2) 内舎人(うどねり): 宮内庁職員のうち、天皇のそばに控え、身支度を整え  
                  るなど私的な世話や雑用を担当し、日常生活を支える
※ (注3) 補せられ     : 役人として役職に任じられる
※ (注4) 守護職      : 国単位で設置された軍事指揮官・行政官である
※ (注5) 守護代      : 鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職



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5代当主・内藤弘矩(ないとう ひろのり)は大内氏重臣として権勢をふるったが、讒言に
より謀反の疑いがかけられ、その子弘和と共に大内氏の第30代当主・大内義興に誅殺された。冤罪と分かり、義興の意向で内藤弘矩の弟で内藤興盛の父16代当主・内藤弘春(ないとう ひろはる)が家督を継承することになり、その後17代当主・内藤興盛(ないとう おきもり)は弘矩の娘を娶り(めとり)、内藤氏の当主となる。
19代当主・内藤隆世(ないとう たかよ)は父18代当主・内藤隆時(ないとう たかとき)が早世していたため、天文20年(1551年)陶晴賢が大内義隆に謀反(大寧寺の変)した直後に隠居した祖父興盛の跡を継ぎ家督を相続した。変の後に大友氏から迎えられた大内義長の元で、実権を握る義兄の陶晴賢と共に大内家重臣となった。

20代当主・内藤隆春(ないとう たかはる)は大内家臣・陶晴賢の主君・大内義隆に対する謀叛(大寧寺の変)が起こると、父・内藤興盛と共に静観の態度を取るが、甥の内藤隆世の積極姿勢に反発して家内が紛争となる。天文23年(1554年)に父が死去し、弘治元年(1555年)の厳島の戦い後に毛利氏に内通し、弘治3年(1557年)の元就の防長経略の時には、内藤氏当主となっていた隆世と袂を分かち毛利氏に降り、元就らに従って転戦する。

21代当主・内藤元盛(ないとう もともり)は永禄9年(1566年)、毛利氏の家臣・宍戸元秀(毛利元就外孫)の次男として誕生。母は内藤興盛の娘。母方の伯父・内藤隆春の婿養子となり家督を継ぐ。毛利輝元の密命を受け、大坂の陣で豊臣方として参戦し豊臣方は敗北し滅亡。内藤元盛も毛利氏一門であることが露見してしまう。江戸幕府の厳命を受けた毛利氏の厳しい捜索により逃亡中に京都で捕縛され切腹させられた。

22代当主・内藤元珍(ないとう もとよし)は毛利氏の家臣である内藤元盛(佐野道可)の長男として生まれた。大坂夏の陣後、内藤元珍は帰国して早々、吉川広家や福原広俊らの進言を受けた毛利輝元に切腹を命じられ、元和元年(1615年)富海の龍谷寺で自害した。

23代当主・内藤元宣(ないとう もともり)は元珍の長男で母方の志道姓を称し、毛利家に帰参するものの隠忍の日々を過ごすが、孫の内藤隆昌の代に内藤姓に復し、船木村・末益村8370石を与えられた。以後、子孫は 厚狭毛利家に仕えて明治維新に至った。

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by kfujiken2 | 2017-12-11 12:01 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その③

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その③

2.旧内藤家屋敷跡と庭園の場所

 米泉湖沿いに県道41号下松鹿野線を北に進み、下松市下谷より県道139号三瀬川下松線を直進。
米川部落を過ぎ「滝の口親水公園」バス停を過ぎると、次に「大将軍山登山口」バス停がある。右手に
末武川の上流に架かっている後山橋を渡たると、旧内藤家屋敷跡と大将軍山登山口案内板がある。
車で900mの案内が書いてある。瀬戸後山に登る途中に三叉路に分かれた所に看板があります。
そこを右折すると右側に大将軍山登山口と左側に旧内藤家屋敷跡があります。


【下松市米川周辺の地図】
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【末武川の上流に架かっている後山橋】
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【後山橋を渡った三叉路】
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【後山の林道に行く道案内】

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【瀬戸後山に登る途中の三叉路を右折】
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【旧内藤家屋敷跡と大将軍登山口】
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の看板を南に20m坂道を登ると、旧内藤家屋敷跡に着きます。
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次回は内藤氏の歴史と題して、内藤家系図をご覧頂きながら調べることが
出来た範囲でございますが、始祖内藤盛遠から23代当主・内藤元宣まで
簡単に系譜を紹介致します。

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by kfujiken2 | 2017-12-05 16:49 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その②

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その②

下松市に雪舟の弟子によって造られた、名庭・池泉観賞式庭園があるということを、その①で
ご紹介しましたが、その名庭が存在する旧内藤家屋敷跡が下松市にあるということです!!!
この旧内藤家とは、後にご紹介しますが山口大内氏家臣団で陶氏・内藤氏・杉氏が
奉行三家老家に列せられており、始祖が平安中期に左大臣として政権を掌握した公卿・藤原道長の
五代目にあたる名家なのです。
何故下松市がもっと深く、調査・研究しないのか私には分かりません・・・


【旧内藤家屋敷跡の全体風景】 
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下方に写っている石切が入門の痕跡ではないかと推測しますが、池泉観賞式庭園は写真の
左側、方向的に言えば西側になりきす。

【屋敷跡に設置されている案内板】

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案内板の絵図に示されている【旧内藤家庭園説明図】の拡大です

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それでは旧内藤家屋敷跡にある、名庭・池泉観賞式庭園をご紹介しましょう。

「雪舟の弟子による作庭」と伝えられる本庭は、中央に奥行のある池泉(現在は涸れ)を大きく
穿ち(うがち)奥部に枯滝を構え、向かって右側奥に鶴・亀両島を配置した、池泉観賞式庭園である。
北に位置する座敷からの座視を旨とするものであるが、母屋から池辺拝石までは定石通りに飛石が
打たれ、泉池中央及び東部泉池に舟石を配し、池の周囲にわずかな盛土と石組をする等、随所に
優れた造庭技術を認めることができる。
現在庭にはやや雑草が茂り、中嶋や護岸一部に損傷の憾みもあるが、地方に於ける庄屋庭としては
県内最古に属し、地方に於ける造園史の上で重要な様相を有するものである。


※ 池泉観賞式庭園とは、どんなお庭なのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。

池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、   
川があり、池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。

観賞式とは  :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。


【北側から見た池泉観賞式庭園】

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【西側から見た池泉観賞式庭園】

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勿体ぶる訳ではありませんが、長くなるのと詳しく載せ見てもらいたくて、旧内藤家屋敷跡と庭園の場所や内藤氏の歴史は、後日に致します。
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by kfujiken2 | 2017-11-27 17:01 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その①

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~

旧内藤家屋敷跡にある池泉観賞式庭園とは、どんなお庭をなのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。


池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、川があり、
           池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。
観賞式とは   :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。



1.旧内藤家屋敷跡と庭園の概要

内藤家は古くから大内氏に仕えていた武家の一族と伝え、毛利氏の中国地方統一の際し、
帰農して(天正10年・1582)現在の米川瀬戸を深く入り込んだ僻地(現在の下松市大字瀬戸
1088番地)に居住している。山村の多くがそうであるように、狭隘(きょうあい)な山裾の一部を
利用して屋敷としたものである。口伝では、この屋敷が瀬戸村に移住後、昭和初期に至るまで
一貫して居住した地であるという。404坪(明治20年土地台帳)の屋敷は、前方を石垣とし
山寄りにはモミの巨樹がそびえ、あたかも寺跡のような景観を呈している。石段を登ると門跡を
示す6基の簡素な礎石があり、池泉はこれを経て左側山裾まで約100坪の間に構成されている。
茅葺の母屋は、昭和初期解体し戦中に耕して畑地としていた。門は昭和37年に子供の火遊びの為、
焼失して建物は存在しないが、庭園は樹草の中に健在である。


【 ① 入 口 の 石 垣 】
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【 ② 旧 内 藤 家 屋 敷 跡 の 入門前の石段 】
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【③ 旧内藤家屋敷跡の全体風景】

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【④ 屋敷跡に設置されている案内板】
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※ ③は②の石段を登った所から見た旧内藤家屋敷の全体風景ですが、③で下方に写っている石切が入門の痕跡ではないでしょうか。


池泉観賞式庭園の説明・場所・内藤氏の歴史は、後日に致します。

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by kfujiken2 | 2017-11-22 10:24 | 歴史 | Comments(0)

幻の下松藩邸

先ずお断りしておきますが、この場所に下松藩邸が存在していたのは間違いない
のですが、何分資料が無くあくまでも想像の域を出ません!!!
虎口(入口)がここだったのでないか?下に記載しました画像がそうなんです。
他の部分は民家が立ち並び、写真を撮ることをはばかられます。


徳山藩と聞けば、大体の方が”周南市(旧徳山市)動物園周辺”に存在したことはご存知でしょう。
この徳山藩が立藩当初は、徳山に藩庁をおかず、下松に藩庁をおいていた。
このことをご存知の方は多いかと存じますが、この初期徳山藩庁であった下松城に関しては、
詳細な事柄は不明な点が多く、所在地もあまり知られていない。下松藩の創設の経緯を知る人は
多いが、下松城の所在地を明確に知る人は多くなく、史学的・考古学研究も検証も、調査も行われ
ておらず知名度は低い。下松に毛利就隆の居館が法蓮寺に建設されたのは、分地から14年後の
寛永8年(1631)のことである。現在、館邸の跡形もないのは、石垣を再度に亘って崩し去り、
慶安元年(1648)で徳山野上に居館建設中であったことから、これらの石垣はことごとく野上へ
移転せしめたのであろう。
下松に居館建設後17年たらずのことであるから石垣のみならず居館も同様移築したものと推測される。


【正保国絵図による下松付近概念】 (図1)

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【所 在 地】

広 域 地 図  (図2)
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拡 大 地 図  (図3)
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【下 松 藩 邸 付 近 の 想 定 図】  (図4)

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下松藩邸の想定の詳細


【縄張り】(注1)
下松藩邸(下松陣屋)については、「防長地下上申」・「旧記抜書」・「主圖合結記(主図合結記)」の三つの資料があるようです。
下松藩邸について『旧記抜書』に下記の様に記されている。
寛永八年就隆公下松御屋敷作事有之、小松山高サ十間余(注2)、切岸(注3)東西二壇(注4)へ竹を植、御門三ツ有之、御厩(注5)惣構(注6)之外ニ有之、或茅葺板葺被二仰付一候、初ハ外構石壁ニ被二仰付一候処、少し高く候而公儀御遠慮ニ思召候、其上へ土を持かけ竹を御植させ被成候、作事奉行佐久間清左衛門相勤候事


この古文書読み解きますと・・・
寛永八年に就隆公は下松御屋敷をここに建設した、小松山の高さが十間余(約20m)あり、お屋敷台の南側(正面)は切岸で東・西二壇に石垣を組むも抗議へのご遠慮のため、土を持ちかけ竹を植えている。二壇の石垣は必ずしも直線ではなく、かぎ型であって、門を入ると石段や踊場を登りながら右の三筆の地(約800坪)、即ち陣屋に向かったものと思われる。この間切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたことが明らかである。つまり、門が三ヶ所あったということから外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。就隆公の乗られる馬の馬屋は陣屋の外にある。
又、『防長地下上申』によると、豊井村地下図に「古御屋敷台」と記されて所が、旧居館所在地である。
東・西・北の三方を山で囲まれているので、屋敷台の地形は現在も余り変わっていないであろう。その屋敷台中央部には、明治20年の分間図・土地台帳によると、一枚(注7)で畑地一反七畝九歩(法蓮寺1725番地)の平坦地があり、その南側に接する二筆(法蓮寺1728番・1729番)も右と同じ高さの平坦地であったことが明らかである。右の登記簿は、明治20年にこの地に女学校創建(櫨蔭高等学校)にかかる造成以前のものであるから、右の三筆約800坪に主要建造物が在ったと考えられる。さて御長屋と廐(うまや)は、屋敷台地が狭隘(きょうあい)な為か惣構(そうがまえ)の外にあり、この馬屋は『地下上申』によると、豊井村地下図に「むまやのたん」と記されてその位置が法蓮寺1673番地・同1677番地付近とあり、現在の末光幼稚園の西側周辺である。

(注1) ※縄張り(なわばり)とは: 曲輪や堀、門、虎口等の配置をいう。つまり、城を造るためには設計が必要であり、この設計のことをいいます。
(注2) ※小松山高サ十間余とは: 河内村に接するお屋敷台の東側の小山で、現在は約半分が住宅と国道188号線に変貌している。現在の地図上の表示は、「光陽台」を指している。
(注3) ※切岸とは: 斜面を削って人工的に断崖とした構造。
(注4) ※壇とは: 他より一段高くこしらえた場所。
(注5) ※御厩(みやま)とは: 貴人が乗る馬の馬屋。
(注6) ※惣構とは:城や砦の外郭、またはその囲まれた内部のことで総曲輪(そうぐるわ)とも言う。
(注7) ※畑一枚とは: 畑一区画の意味です。
 

【図3の拡大地図で緑色で塗った切岸二壇の下部】 (図5) 

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【図5の道路に面した切岸】 

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【図5のコーナーから上部】

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◆ ここで枡形虎口(ますがたこぐち)について少し説明をしましょう。
戦国末期には西日本を中心に枡形(ますがた)と呼ばれる虎口が現れた。これは虎口の前面に桝形(方形)の空間を設け、そこに門や口を2重に構えることで、攻撃側は桝形内部に侵入しても2番目の門に城内への侵入を阻まれ、桝形内部で守備側からの攻撃を全面に浴びることとなる。
枡形には内枡形(うちますがた)と外枡形(そとますがた)がある。内枡形は、曲輪の虎口の内側に小さな方形空間を造り第二の門を築く。
ここに入り込むと寄せ手は3方向から囲まれる。外枡形は、主な曲輪の虎口の外に地続きの小さな方形空間を張り出させ、最前にもう1つの門を開いたものである。枡形の門は、最前の門とその後方の門の2つが開かれる。最前の門を高麗門、その後方の門を櫓門としたものが基本的な形状であると見られているが、後方の門のみで最前の門がないものや、最前の門のみのものもある。 近世城郭はその多くが枡形、あるいはそれに類する虎口を備え、侵入した攻撃側が容易に直進できないようにするため右折または左折構造を採る場合が多い。
下松藩邸の場合、切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたそうだから、外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。


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【外・内枡形を組合せた虎口】

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by kfujiken2 | 2017-11-08 13:07 | 歴史 | Comments(0)

下松高等学校の歴史

【はしがき】

1617年(元和3)下松藩(後の徳山藩)が創設され、1631年(寛永8)藩邸(下松陣屋)が
建設されました。下松藩(後の徳山藩)の初代藩主・毛利就隆の居館はどんな構図だったか、
建物の配置はどんなになっていたか? 等を色々調べていたが資料がない!!! 遺跡がない! 
でお手上げ状態の時、そうだ・・・1650年(慶安3年)下松藩が徳山に移転して
その跡地に約300年後の昭和4年に下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が建設され、
昭和28年3月に、下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の
経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。
そこに昼間の下松高等学校定時制寺町分校が開設されたことを思い出しました。
つまり下松高等学校の前身が女学校だったとは聞かされていましたが、その経緯を詳しく知っている
OBは少ないのではないか? 又、自分の母校の歴史って意外と知らないのではないか? 
そんな些細なことで下松高等学校の歴史をたどってみようと思いました。


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端的に沿革を説明しますと、下図の校章でもお分かり頂けると思いますが、
山口県立下松女子商業学校 → 山口県立下松高等女子校 → 山口県立下松高校へと変革していったのです。


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それでは古い校舎の画像を見ながら沿革を説明致します。
下松高等学校(元 山口県立下松高等女子校)が創設されるまでの足跡を説明しましょう。


昭和18年10月に発せられた政府の戦時非常措置によって、軍需産業に対処するため工業学校に
転換された男子商業学校が、戦後、再びもとに復帰することになった。したがって商業学校の
不足を補う立場で昭和19年に設立された下松女子商業学校も、その存立意義が薄らいだのを機会に、
市の強い要請もあって、昭和21年4月に、県立下松高等女学校として再出発した。
取りあえず下松尋常高等小学校舎の隣りにある下松青年学校(現在の下松市立中学校)の三教室を
借用して、二学級編成で発足した。場所は現在の下松市立小学校の西側である。


山口県立下松高等女子校仮校舎 (昭和21年)
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さらに、下松高等女学校は昭和23年4月から、新制高等学校(山口県立下松高校)に移行されることに
備えて、新校舎の建設を急ぐことになり、新校地の選定・買収・造成などが、市の負担で積極的に進められた。当時は、農地解放・食糧不足の時期であって、耕作者の農地に対する執着心が強く、平野部での
用地取得が困難なため、新たに、大河内台地が候補地として取りあげられた。ここは、市のほぼ中央に
あたり、眺望絶佳にして閑静、山林・畑地で所有者の反対もとくにないことから、整地・用水などに困難な
問題点もあったが、昭和22年11月に適地として決定をみた。市民から山の高等学校と愛称された
ゆえんである。昭和24年2月に待望の新校舎が竣工し全校生徒が移転した。


新制高等学校・山口県立下松高校の旧校舎(昭和23年)
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昭和29年4月に全日制家庭科が増設されたが、その後志望者の逓減によって、昭和39年4月
廃止された。 他方、昭和23年7月に昼間の下松高等学校定時制久保分校が開設された。
農業科・家庭科編成で、久保小学校校舎の一部と岡市にあった県設指導農場の一部を借用した仮校舎で授業を開始した。昭和4年に開校し昭和28年3月に、櫨蔭(ろいん)学園が下松市内の櫨蔭高等学校を閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。これによって定時制久保分校はここに移り、定時制寺町分校と改称した。
その後、家庭経済や交通事情などの好転に伴い、定時制の生徒も激減する傾向を示したので、
県教育委員会はその見直しを行い、統廃合・整理の方針を定めた。これに基づいて、農業科は
昭和32年3月に、家庭科は昭和36年3月にそれぞれ募集を停止し、昭和38年3月寺町分校は
廃止された。

下松高等学校定時制寺町分校(元 櫨蔭高等学校)(昭和29年)

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現校舎(昭和55年)
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by kfujiken2 | 2017-10-10 12:26 | 歴史 | Comments(0)


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