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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

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「余田臥龍梅」
山口県柳井市余田にある、 標高230mの赤子山の北麓斜面にあり、
昭和8年に国の天然記念物に指定されています。
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幹の部分が臥龍状をなし、中央の根株から四方へ地をはうような低い枝を伸ばし、
この梅の枝振りの様子があたかも龍が伏した姿に似ていることから、
この名前が付けられました。
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樹齢約500年の野生で、高さ約4m。元木の臥龍梅は枯れ死したが、
そこから四方に伸びた枝が飛び梅となっています。
地をはう枝もあれば、地中に潜ってはい出たりする枝もあり、
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天然記念物指定範囲(352㎡)内には11本あります。
伏龍を思わせるとして珍しがられていますが、
この臥龍梅の種から育ったという梅約30本も植えられており、
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現在ではその老梅の子・孫も育ち、毎年みごとな白い花を咲かせています。
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by kfujiken2 | 2007-02-24 17:44 | | Comments(10)
菅原道真公ゆかりの冠天満宮に隣接する光市冠梅園。
園内には、30種類、約2,000本の紅梅・白梅が咲き誇り、
ふくいくたる春の香りを漂わせ、多くの観光客で賑います
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梅小町
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表千家野点
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今回の目的 モデル撮影会
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by kfujiken2 | 2007-02-18 08:34 | 未分類 | Comments(9)
我が町の沖に、橋で繋がった笠戸島という島があります。
その笠戸湾を見渡せる大城岬近くに
国民宿舎大城リゾートがある。
名物のひらめ料理は有名で、近くにある長岡外史公園、笠戸家族旅行村へは
歩いて行けます。
「国民宿舎大城」の駐車場横に、昨年河津桜の幼木を7~8本植えた。

驚いたことに、その
河津桜に今年花が咲いたのです・・・
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河津桜は、1955年に飯田勝美という人物が静岡県賀茂郡河津町田中で原木を偶然発見したことが由来である。
現在も原木はこの地に存在し、2006年現在で樹齢50~60年である。
その後、1968年頃からこのサクラが増殖されるようになった。
1974年にこのサクラがカワヅザクラ(河津桜)と命名され、
1975年に
河津町の木に指定された。
寒緋桜と早咲き大島桜の自然交配種と言われており、
樹形は広卵状で樹皮は紫褐色で光沢がある。
花形は平開形で一重のやや下向きであり、花弁は5枚の円形で無毛である。
色は蕾の時は濃紅色だが、満開時は淡紅色になる
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この桜は染井吉野のようにパーっと咲いてパーっと散るって
感じの桜ではありません。伊豆の温暖な気候と早咲きの特色を生かし毎年2月上旬
から開花しはじめ約1ヶ月を経て満開になるそうです。
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ひと足早い春の訪れを感じることが出来ました
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by kfujiken2 | 2007-02-13 17:48 | | Comments(18)
大きな蕾は付けているが 中々開花しないミニデンドロビューム
咲いた~~~

しかしだ 「我は殿である 皆の者後に続け」とばかり 
ミニなのに中央の茎のみ 大きく伸びている・・・
これって 如何いう現象なのだろう (・_・?)ハテ
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この名前は、ギリシャ語で、dendron(樹木)とbios(生命)の合成語で、
その多くが樹木に着生していることに由来しています。
蘭の中でもその種類が豊富で自生分布も広範囲に及んでいます。
熱帯アジアを中心に北は日本から南はオーストラリアまで
約1200種分布しているといわれています。
いまだに発見されていないものや、
名前の決まっていないものなど数多くあります。
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日本では「セッコク」がその代表です。
セッコクは寒さに強いため、熱帯の花柄の大きいデンドロビュームと交配し、
今日出回っている花柄が大きくかつ耐寒性のある園芸品種を
数多く作り出しています。

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by kfujiken2 | 2007-02-07 16:56 | | Comments(8)
女性を「産む機械」に例えた不謹慎な大臣がいるが・・・
少子化だから産めよ増やせよ 人口が増え過ぎるから産児制限
男と女の愛というものは そんなものではない!
もっと純粋 且情熱的なものである。

最近「愛の流刑地」と言う映画が評判ですね!
今の日本の政治・経済の屋台骨を支える中高年が愛読している
「日本経済新聞」に連載されていましたが・・・
確かに エロチックな映画と言えばそう受け取られます。
しかし 本当の愛とは何か 純愛とは何かを考えさせられます。
私もこの歳になり プラトニックラブが愛ではない・・・
若く夢見がちな世代ならば 反論するかも知れませんが
分別を兼ね備えた中高年の我々には 判る気がします


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「作者・渡辺 淳一の言葉」
いま、純愛ブームだという。肉体関係がない、
精神的なつながりだけの愛が純粋だと思いこむ。
だがそれは単に未熟な幼稚愛にすぎない。
精神と肉体と両方がつながり密着し、
心身ともに狂おしく燃えてこそ、愛は純化され、至上のものとなる。
今度の小説は、その純愛のきわみのエクスタシーがテーマである。
その頂点に昇りつめて感じた人と、いまだ知らぬ人との戦いである。
最高の愉悦を感じるか否かは、知性や論理の問題ではなく、感性の問題である。
はたして、この戦いはいずれが勝つのか、
そして読者はいずれに軍配をあげるのか、
ともに考えていただければ幸いである。


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純愛とは、打算や妥協のからまない恋愛または恋慕の感情のこと。
つまり 一身を犠牲にすることをいとわない、
ひたむきな愛情(世慣れしていない男女について言う)であると・・・

では純愛とはどこで生まれたのか。
そして、なぜ現在の恋愛と袂を分つに至ったのか。
それを知るには、恋愛の歴史を辿ってみなければならない。

だが恋愛の起源を辿って古代ギリシャにさかのぼると、
恋愛とは男女の愛ではなく、同性愛のことであった。
それは、長い戦争で寝食を共にしかばい合い助け合う間に芽生えていった、
男同士の固い絆から始まっていた。
相手のためなら自分の身をも投げ出す、情熱的でヒロイックで純粋な感情が、
「愛」であった。

キリスト教が浸透した中世になると、また特殊な愛の形式が登場する。
ヨーロッパ十二世紀の騎士道精神である。
騎士はだれか一人の<貴婦人(ダム)>を選び、
その婦人に、神に対するような愛と熱誠をげる。
その婦人から愛されるためにあらゆる困難に生命をして立ち向かう。
その婦人にふさわしいものとなるために、
さまざまの手柄を立てて自己の完成にはげむ。

上流階級限定のそうした一風変わった女性崇拝を経て、
男女の愛は「情熱恋愛」へと変化していく。
「情熱恋愛」とは盲目的な恋、障害があるがゆえに燃え上がる恋である。
だが、障害を乗り越えようと行動すると大抵は、
トリスタンとイゾルデ(婚約者のいる女)や
ロミオとジュリエット(家同士の対立)のように、
追いつめられて死ぬことになっている。

性規範の厳しい社会でこそ、恋愛という逸脱が至上のものとされ、
恋愛の中でも「道ならぬ恋」としての「情熱恋愛」が王道となった。

夫と子供を捨てて愛人に走ったのちに、鉄道自殺までしてしまう人もいた(『アンナ・カレーニナ』)。
不倫の恋患いの果てに死んでしまう人もいた(『危険な関係』のツールヴェル夫人)。
ゲームのつもりがハマって自滅する人も(『危険な関係』のバルモン、メルトイユ夫人)。
さらには恋心が嵩じて相手を殺してしまう人まで(『カルメン』のホセ)。
ヴェルディのオペラ『椿姫』のヴィオレッタは、階級を超えた恋の末に病死する悲劇のヒロインだが、
原題は『La traviara(道を踏み外した女)』である。

そこで恋愛とは、「道を踏み外」すような行動に出て死や破滅に至る、
反社会的で超リスキーな取り扱い厳重注意の危険物だった。
その心は、純愛である。「情熱恋愛」は純愛の母であった。
だが恋愛をそんな手段にできない「情熱恋愛」の本道では、
恋に落ちた相手の女が「永遠の女」となる。
あるいは偶然出会った男が「運命の人」。
この先まだ"いい出会い"があるかもしれないのに、
そんな未熟で向こう見ずな判断を下してしまうのは、
往々にして「世慣れしていない若い男女」。
「情熱恋愛」小説の中で、分別を兼ね備えた中高年が主人公になることは滅多にない。
のちの純愛小説やドラマに登場していたのも、圧倒的に若者である。

そういう若く夢見がちな心を分析してスタンダールは、恋愛は「結晶作用」だと看破した。
つまり、枯れ枝を覆った塩の結晶が、ダイヤのように輝いて見えるだけ。
愛とは美しい誤解でありエゴであると。しかしその知見が恋に落ちることを防いでくれるかと言うと、
ほとんど役に立たないのはご存知の通り。
「塩の結晶」は恋に振り回される者を諌めるか、恋から醒めた者を慰める言葉である。
逆に言えば、ただの枯れ枝にダイヤの輝きを見出し、
それを疑うことを知らない一途さだけが、「情熱恋愛」の精神性である。
そこには、一銭の得にもならないことに運命を賭けてしまう底知れないパワーが宿っていた。
だからこそ若さゆえの未熟で向こう見ずな判断は、
大いなる共感を持って描かれたのだった。

日本の純愛物語でも、主人公は社会規範、身分や立場の違い、不治の病、第三者の妨害、不倫など、
さまざまな障害にぶつかって悩んだり苦しんだりしている。
しかし思いの強さは行動によって示されなければならないのが、
純愛と任侠の基本である。いかに熱烈でも感動的でも、
愛の言葉、仁義の挨拶だけではダメなのだ。
言葉を行動でどう示したか、たとえ言葉がなくてもその人にとっての崖っぷちの行動を敢行したか否かが、
純愛のバロメーターとなる。

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by kfujiken2 | 2007-02-01 15:07 | コラム | Comments(6)
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