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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

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初代藩主・毛利就隆(もうり なりたか)

周防国下松藩・徳山藩の初代藩主(1602年~ 1679年)
輝元の実子でかつ末子のために甘やかされて育ち、
自由奔放で贅沢好きな人物であった。
最初の正室と離婚したことで、秀元の長府藩と険悪な関係となっていた。
後に負担を領民に押し付けることを恥じて、
以後殖産興業や新田開発による税収増加に努めた。
特に米・塩・紙の生産に力を注いだことから「三白政策」とも呼ばれている。
一方で手伝普請に悩む、兄の秀就が藩主を務める長州藩からの協力要請を
財政難を理由に拒否し、これが後の元次時代の徳山藩改易にまで発展する。
これが萩藩との軋轢の初めとなる。

初代藩主・毛利就隆から九代藩主・毛利元蕃(もとみつ)まで続いたとされている。
明治4年(1,871年)に山口藩(旧萩藩)と合併するまでの、220年間に及んだと
言われています。

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徳山城(徳山陣屋)

徳山城は江戸時代、長州藩毛利家の支藩としておかれた徳山藩毛利家の居城。
城といっても規模的には陣屋ですが、それでも比較的大規模で、
天保7年に徳山藩毛利家は「城主格」となり、「城」扱いを受けることになりました。
萩毛利家の支藩で諸侯に列した3家(長府・徳山・清末)の一つ徳山毛利家の陣屋だ。

空堀や水堀は設けられず、土塁で間に合わされており、簡素な構えであったが、
陣屋としては「日本三大陣屋」に数えられるほど壮大な規模であった。
(他の二つは敦賀酒井氏の敦賀陣屋と保科氏の飯野陣屋)


            【旧毛利藩邸の門構えです】
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1948年に旧毛利藩邸の跡地に建設された徳山市営毛利球場の正面にあり、
毛利邸の門構えがそのまま残された印象的な造りだった。
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現在の文化会館から動物園にかけて建てられた館の広さは、16,074坪もありました
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この石垣は当時のものか定かではありませんが・・・
お館が道路に面していたことには違いありませんので、
道路から側の庭に直ぐ入れたとも考えられません!

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文化会館の前庭が、かつての徳山城の庭園である。
また、文化会館敷地内には、江戸幕府による大坂城修築の際に使用されなかった
石垣の残石が残されている。

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by kfujiken2 | 2011-02-25 12:44 | 歴史 | Comments(0)
下松藩は萩藩の支藩で、毛利輝元の次男で毛利秀就の弟に当たる毛利就隆が元和3年(1617年)に3万石を分与されたことから立藩した。
しかし就隆は江戸に滞在することがほとんどで、実際に下松に入ったのは寛永15年(1638年)であった。
なお、実際に幕府より藩として正式に認められたのは、寛永11年(1634年)3月のことであった。

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藩政においては萩藩とほとんど変わるところはないが、家臣団の多くは関ヶ原の戦い後に浪人した者や、
本家の藩士における三男などの取立てにより編成されていた。

慶安3年(1650年)6月、下松は交通に適してないという理由から、
就隆は藩庁を徳山に移し、徳山藩となったとあるが・・・
山間の領地に不満のあった就隆は、海岸部との領地替を要求したそうです。
なお、徳山ははじめ野上と言われていたが、就隆が徳山と改称したのである。

下松藩の藩邸とは、徳山(野上)の地に拠点を移すまでの
1631年~1648年までの短期間に置かれていたものです。
その位置は、御屋敷山を背にした法蓮寺付近を「古御屋敷台」
と呼ばれていたことからもやはり下松市法蓮寺説が妥当である。

この地は、昭和4年 下松市で山口県下松高等女子学校として開校。
後に昭和 23年 光市に移転し、聖光高等学校に改称した櫨蔭学園(ろういん学園)が設置されていた所です。
現在は、団地となり昔を偲ばれる跡形もありません!

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左のカラー写真は現在の上空写真です(Google マップより)、これだと少し地形が分かり辛いので、
右のモノクロ写真は、1948年アメリカが撮影した上空写真(国土地理院HPより)も添えてみます。
赤丸をつけたあたりが下松藩邸付近(御屋敷山を背にした法蓮寺付近を「古御屋敷台」)と思われる場所。
この藩邸は『下松地方史研究 第三十四輯』によると三方を山に囲まれた小高い位置を比定地としています。

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by kfujiken2 | 2011-02-23 11:07 | Comments(4)
今年3月12日(土)に九州新幹線が全線開業。
昨年12月に東北新幹線の新青森駅が開業しました。

1964年(昭和39年)10月1日に、
東海道新幹線の「東京ー新大阪」間が開業してから46年半。
本州の最北県・
青森と九州の最南県・
鹿児島が新幹線でつながる日本列島。
鹿児島から青森までの約2000キロが新幹線で結ばれることになる。
最も早い電車の所要時間を足すと9時間20分とのこと。

残念なのは、東京で新幹線が分断されていることだ。

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新幹線の足跡を振り返ってみますと・・・

「東海道新幹線」

1964年(昭和39年)10月1日に開業した。   
東海道新幹線開業当初 「ひかり」4時間00分  「こだま」5時間で運転していた。  

1965年(昭和40年)    3時間10分

1985年(昭和60年)    3時間08分
「0系」の後継車として「100系」が登場。
20年間で2分短縮することになりました。

1992年(平成4年)     2時間30分 
300系「のぞみ」が登場し「ひかり」より19分早い2時間30分で運転を開始しました。

2007年(平成19年)    2時間25分
N700系「のぞみ」が運転開始。それまでの「のぞみ」 より5分短縮されました。

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「山陽新幹線」

1972年(昭和47年)3月15日に新大阪駅 - 岡山駅間が開業、
1975年(昭和50年)3月10日に岡山駅 - 博多駅間が開業した。
「ひかり」0系 最高速度は210km/hで3時間44分要していた。

1993年(平成5年)      2時間32分
「のぞみ」300系 最高速度は270km/h

1997年(平成9年)      2時間17分
「のぞみ」500系 最高速度は当時世界最速の300km/h

2006年(平成18年)      2時間23分
「のぞみ」N700系が運転を開始し、500系と同じ最高速度300km/h
JR福知山線脱線事故の影響を受け山陽新幹線でも「ゆとりダイヤ」を実施

2011年(平成23年)3月12日(予定)   2時間22分「のぞみ」N700系

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「九州新幹線」

新八代 - 鹿児島中央は2004年に開業。
800系を使用した「つばめ」が運行されている。

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by kfujiken2 | 2011-02-18 12:30 | 未分類 | Comments(0)
長岡外史のウィキペディアでは、父は大庄屋・堀三右衛門とありますが・・・

醜聞を追う芸能リポーターではないが、調べれば調べる程不思議になってくる。
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様々なしがらみから話すことができない話題だったのだろう。


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小方謙九郎が兼(謙)吉時代のとき、隣村末武村「堀家」の娘との間に一子をもうけた。
一子長じて長岡外史。
さもありなん、堀トキは外史を妊娠中柳井に嫁ぐ。月足らず外史誕生。
やがて離縁され生家に戻る。
確かに、柳井商工会議所の観光ガイドブック「白壁のまち柳井をたずねて」に、d0061579_1493392.gif
「長岡外史生誕碑」とあります。
恐らく、野村家が嫡男と認めてくれないので、
堀家の父親が自分の子供として認知したのではないでしょうか?
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長じて名をなしたが不遇ともいえる父母の愛を知らない幼少期であったそうだ。

救国の英雄として偶像化しなければならないのか?

偉人のイメージを壊したら拙いのか・・・

誰だって 自分の生い立ち 過去を知られたくない部分ってあるはずだ!

歴史って 史実に忠実でなければ後世に生まれた者には判らない・・・

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by kfujiken2 | 2011-02-09 14:15 | コラム | Comments(0)
「小方謙九郎と長岡外史の関係」
山口県上関町室津で庄屋を務める小方市右衛門の長女ツヤさんと徳山市栗屋、
温品良左衛門次男である兼吉(後の小方謙九郎)が結婚。
幕末に第二騎兵隊の参謀を勤めた小方謙九郎は
新しいもの好きで有名な、明治大正に活躍した人気の陸軍中将、
日本のスキ-の元祖、日本の航空機のパイオニア、長岡外史の父です。
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愛うすき男の栄達と言うかタブーとされてきた外史誕生の悲話に少し触れよう。

小方謙九郎が兼(謙)吉時代のとき、隣村末武村「堀家」の娘との間に一子をもうけた。
一子長じて長岡外史。
さもありなん、堀トキは外史を妊娠中柳井に嫁ぐ。月足らず外史誕生。
やがて離縁され生家に戻る。
外史10才のとき、萩藩士長岡家の養嗣子となる。
時代が外史に活動の場を与えた。


長じて名をなしたが不遇ともいえる父母の愛を知らない幼少期であった。
明治新政府の揺籃期に彼が萩藩士の末席に名を連ねていたことで、
彼の一生の進むべき方向が見出せたといえる。
生誕、養育の地を自ら選ぶことは誰れにもできないが、
その育まれたところで運命が大きく変わることもある
証左の好例が長岡外史といってよい。
謙九郎晩年外史との面談は空々しいものだったと史書は伝える。


『四階楼』(しかいろう)

山口県熊毛郡上関町室津字築出町にある木造西洋建築物である。
以前は旅館「四海楼」として営業していたこともある。
現在は国の重要文化財に指定されている。
建物の施工主は幕末に第二騎兵隊の参謀を勤めた小方謙九郎で、
明治維新後に故郷に戻り回漕業や汽船宿を営んでいた人物である。

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四階楼は、その名の通り4階建てで、
西洋建築に見られるコーナーストーン(隅石)が使われているが、
伝統的な木造の上に漆喰を施し西洋風の縦長の窓ガラスを付け、
屋根は寄棟造りで桟瓦葺きである。
そのため擬洋風建築とも呼ばれている。

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4階建てであるが述べ床面積約160m²と広くなく、比較的小規模な建築物である。
内装は和洋折衷で3階には唐獅子、4階には鳳凰の装飾がある。
また四階は18畳1室で四方にはステンドグラスがはめこまれている。
そのため奇抜な建築であるが、設計者は誰であったかは不明である。
1925年から旅館「四階屋」、1957年から1991年まで旅館「四海荘」として営業していた。
1999年に保存修理工事が行われ2005年に国の重要文化財に指定された。

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by kfujiken2 | 2011-02-05 16:21 | Comments(0)
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