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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

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地方自治体の財政力を表す指数3兄弟

経常収支比率
財政構造の弾力性を判断する指標。
比率が小さい方が優秀。
「人件/扶助/公債費等の経常経費」÷
「地方税・普通交付税等の経常的一般財源」の比率。
端的に言えば人件費等の経常経費比率は
75~80%が妥当値のため、
80%以上は人件費等が高すぎるということになる。
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財政力指数
当該団体の財政力(体力)を示す指数。指数値が大きい方が優秀。
1.0を上回れば地方交付税交付金の不交付団体となり、
下回れば地方交付税交付金が交付団体となる。
基準財政収入額を基準財政需要額で除して得た数値の
過去 3ヵ年の平均値で示す指数。
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実質公債費比率
公債費による財政負担の程度を示すもの。
比率が小さい方が優秀。
18%以上だと地方債の発行に国の許可が必要となり、
25%以上となると一般事業等の起債が制限される。
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その他に、起債制限比率・将来負担比率・実質赤字比率・資金不足比率
ラスパイレス指数等あります。

上記の表は、2年前の2009年度の資料ですが、今年も大差ないと思われます。
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by kfujiken2 | 2011-05-27 14:05 | 未分類 | Comments(0)
【昭和の吉田松陰】と言われた〔松村義一〕

◆ 義一の生い立ち&学歴
d0061579_13453992.jpg明治16年9月7日 山口県都濃郡豊井村第822番屋敷
(現在の下松市大字西豊井1131番地 中市)で生まれる。
下松尋常高等小学校を卒業後、
明治35年4月・旧制山口中学校を卒業、
同年7月・旧制山口高等学校に入学、
明治38年7月同校を卒業し、
直ちに、東京帝国大学法科大学英吉利法科(法学部政治学科)
に入学し、明治42年7月同法科を卒業。時に25歳であった。

◆ 義一の家庭環境
父は松村冷蔵、母はタキといい、8つ違いの姉・ツ子(ネ)と二人姉弟でした。
父は極めて思慮深い人物で、また抜群の商才があり、義一の生まれた頃は
石油や度量衡の商売に成功し、その後は多くの山林・田地を持つようになり、
下松地区で塩田も経営し、この地方では一、二を競う資産家となっていた。
その後塩田は、久原用地部の所有となるまで続けられた。

父は優れた才覚の一面、真面目な倹約家で、自分に対しても極めて厳しい
一面があったらしい。
また母は、奇麗好きで家人の躾には誠に厳しく、部屋の掃除や洗濯はよく行き届き、
座敷はいつも整然としてしていたそうです。
しかし一面、おおらかでこだわらないところもあり、自家の使用人や小作人、
その他出入りの者に対しても優しく応対し、面倒見もすこぶるよかといわれている。
そしてこれら両親の性行上の特長が、義一少年の性格形成に影響を及ぼし、
そのまま受け継がれたと思われるふしも多い。
大正2年1月12日、勘解由小路(かでのこうじ)好子(いつこ)と結婚。
義一28歳、好子22歳でした。
二人には、康史・資淳(勘解由小路に養子に入る)・庄三・昭子の
三男一女の子供が生まれる。

◆ 義一の華麗なる一族
勘解由小路資生(かでのこうじすけより)の次男・勘解由小路資承(かでのこうじすけよし)と、妻・豊子(副島種臣の二女)の長女・好子(いつこ)と結婚。

【勘解由小路家 儒学をもって朝廷に仕えた公家の出で、 好子の父資承は子爵である。
母は明治の功臣副島種臣(伯爵・佐賀藩出身)の二女。 

【副島種臣】    日本の武士・佐賀藩士、官僚、政治家である。
勲等は勲一等。爵位は伯爵。書家としても優れた作品を残している。
明治20年に宮中顧問官、明治21年に枢密顧問官、
明治24年に枢密院副議長になり明治25年には第1次松方内閣に
おいて3ヶ月間内務大臣を務める。

なお勘解由小路資承の二女・康子は、志賀直哉と結婚。
勘解由小路資生の三姉妹で、秋子は武者小路実世に嫁ぎ
第8子として武者小路実篤を産む。
立子は甘露寺義長に嫁ぎ、操子は鳥丸光享に嫁ぐ。

【甘露寺義長】 義長が華族に列し伯爵を授けられた。
義長の子息受長は、幼い大正天皇の学友に選ばれたのをはじめ、
侍従次長・掌典長などとして大正・昭和の両天皇に仕えた。

【鳥丸光享】 烏丸光徳(みつえ)の子。明治6年(1873)家督をつぎ,のち伯爵となる。
奇行がおおく華族中の奇人といわれたが,詩文や書にすぐれた。

◆ 義一の足跡
明治43年7月、義一は東京帝国大学を卒業し、翌43年文官高等試験に合格し、
神奈川県属を振り出しに26歳で官界入りをした。

【県属】 県の事務を取り扱う役人

大正元年、佐賀県事務官に転任し、
大正4年 、鳥取県理事官
大正5年 、石川県警察部長
大正8年 、広島県警察部長を歴任し、内務官僚として成長して行った。
36歳 大正9年、警察講習所教授兼内務省参事官として、本省に戻って来て、
41歳 大正14年、内務次官、警保局長、警視総監の「内務省三役」と称された重職、
内務省警保局長に任命された。

【内務省】 第二次世界大戦前の日本では「官庁の中の官庁」とも呼ばれる有力官庁で
あったが、敗戦後、GHQの指令によって廃止された。
     
内政・民政の中心となる行政機関であり、長である内務大臣は      
内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持ったポストとみなされていた。

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【警保局】 日本に1947年(昭和22年)まで存在した内務省の内部部局。
警察全般を主管し、特に保安課は特別高等警察を設置して
秘密警察の役割を果たした。
内務省の局には統廃合の歴史があるが、
警保局は戦後のGHQによる内務省解体まで強大な権力を握った。

◆ 地方官時代の執務ぶり
① 剛直な警察部長
② 選挙取締りに正しい姿勢
③ 正義感で知事と対立 

◆ 警保局長時代
1925年(大正14)9月16日 - 1927年(昭和2)4月22日まで
警保局長を務める。
警保局長は勅任官であり、特別任用の政務官であった。
警視総監や内務次官と並んで内務省三役の一役であるというばかりでなく、
内閣の内閣書記官長や法制局長官にも比すべきものであった。
退官後は約半数が貴族院の勅選議員に選任された。
大蔵省、外務省などではこのようなことは滅多になかった。

① 社会情勢への決裁
無産政党の動きが暫く活発化してき、こうした社会運動に対する、
警保局長として心労も多かった。

【無産政党】 戦前の日本における、合法的社会主義政党の総称。

② 大正天皇の大喪に際し、大喪使事務官を務める。
③ 社会運動等の取り締まり
「分割還付制度」なるものを実施。
雑誌や出版物等で発売頒布の禁止処分となって差し押さえられたものを、
不穏部分のみを削除して、これを返還するという取扱いをする制度である。

◆ 貴族院議員時代
1927年(昭和2年)4月18日 43歳 
27代田中義一内閣の時貴族院議員に任命され、
1946年(昭和21年)6月18日 62歳 
46代吉田茂内閣の時貴族院議員を辞任。

◆ 趣味と人がらと晩年
義一は、趣味の多い人でした。
囲碁は4段を允許されており、郷里では相手が中々見つからなかった。
彼は大変美男子で、若い頃はいわゆる女難も多かったらしく、長唄や義太夫もよくした。
また、釣りは大公望で、次田大二郎氏(元法制局長官・内務次官)の思い出にも書かれているように、台湾に旅行した時の釣り自慢なども、微笑ましい語りぐさである。

義一は、激しく厳しい潔癖な性格の持ち主で、強い責任観を持って自らを律し、
正義を貫く信念の人であった。
他面、趣味情操も豊かで人情に厚く、剛直の中に時として流涕し、あるいは感窮まるの
あまり嗚咽絶句することさえあった。
また一面、後進を導くについては至れり付くせりの情愛の人であった。

晩年は、仏縁によって隣りの周慶寺に参詣し、威儀を正して大薫香(1時間以上燃える長尺の線香)をたき、念仏三昧の境地にひたること実に9年の長きにわたった。
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by kfujiken2 | 2011-05-20 14:55 | 歴史 | Comments(0)
幻の世界的大工業都市・「下松計画」
その仕掛け人 【久 原 房 之 助】


【久原 房之助のプロフィール】

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・ 1869年7月12日(明治2年6月4日)、山口県萩市出身。
  久原家は、網元や廻船問屋を営む資産家で、
  房之助が生まれた頃は、醤油醸造業を営んでいた。
・ 慶応義塾卒業後まず森村組に勤務するが、藤田組に転じ、
  小坂鉱山の経営刷新に努める。
・ 赤沢鉱山を買収、これを日立鉱山と改称して独立。
  のち同鉱山を基盤に久原鉱業所を設立。
・ 第一次世界大戦のブームで巨利を得る。
・ 大戦後、不振に陥り、経営再建を義兄(久原の妻の兄)の
  鮎川義介(日産コンツェルン創始者)に委嘱、政界入り。
・ 田中(義)内閣の逓信相、政友会幹事長・総裁、内閣参議などを歴任。
・ 戦後、公職追放解除後、衆議院議員に返り咲く。
・ 日ソ・日中国交回復国民会議議長に就任、両国との関係回復に努めた。

【日立製作所の沿革】
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久原鉱業所日立鉱山に付属する掘削機械やポンプ・モーターの修理工場を事業の起源とし、主たる事業拠点を茨城県を始めとする関東地方に集中させている日立製作所にあって、関東から遠く離れた山口県下松に事業拠点を構えるのは、日立鉱山(久原鉱業所)の創業者であり、「鉱山王」の異名を取った久原房之助翁の一大構想に由来する。

久原房之助翁は自ら造船業に乗り出すことになり、
1915年(大正4年)に日本汽船株式会社を立ち上げることとなる。
創業当初の日本汽船は好調を極め「造った船はでき上がるまでに
何層倍の高値で、羽が生えたように飛んでいった」と言われる程
であった。しかしその一方で、造船業以外にも事業を急拡大させた
房之助は、第一次世界大戦の終結をきっかけに一転苦境に陥る
こととなる。
前述のプロジェクトを実現させるべく1919年(大正8年)に
下松の埋立地にて、日本汽船笠戸造船所の操業を開始するも、
早くも翌々年の1921年(大正10年)には、
房之助の元から独立を果たしていた小平浪平率いる日立製作所が、
日本汽船笠戸造船所を取得することとなり、
ここに笠戸は日立傘下の製造拠点の一つとなったのである。

久原鉱業所日立鉱山に工作課長として入社した小平浪平が、株式会社日立製作所の創業者である。

造船を手がけていなかった日立は、笠戸造船所の施設を「笠戸工場」として鉄道車両の製作に
振り向けることとなり(1920年にはタンク式蒸気機関車の製造実績があったという)、
3年後の1924年(大正13年)に国産第1号となる大型機関車である国鉄ED15形電気機関車を、完成させ(笠戸工場は機械部分を担当)、日立の鉄道車両造りの歴史が始まることになる。
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                 【創業当時の笠戸工場】
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                【現在の笠戸事業所の正門】


【下松計画】
1916年8月、久原房之助翁は、アメリカのUSスチール社長ジャッジ・ゲーリーを、
住吉にある本邸に招き、日米合弁の製鉄事業計画を進めようともちかけた。
この計画は、翌々年の房之助の渡米によって具体的になる。
         
また上記合併事業とは別に、 山口県下松において、一大工業都市を建設しようとする計画を秘めていた。
住吉本邸でのゲーリーらとの会談において、合併事業とあわせて、下松での計画を説明している。
この「下松計画」は、一口でいえば世界的大工業都市の建設である。
その内容は、都濃郡下松町と太華村(現在の周南市櫛浜)の両町村にわたる沿岸を利用して、
各地の工場の計画を統一し、一大工場を設け、職工および家族その他18万人を収容すべき土地を開くという大計画であった。その規模は、5カ町村・約160万坪に亘っていた。

さらに具体的には、第一期工事において下松町東南部約30万坪に造船工場を建設し、次いで第二期工事において、
下松町東部から栗屋川に至る約60万坪に船渠及び製鉄工場、さらには社宅・娯楽場・学校などを建設し、
その用地確保等のために海岸の埋め立てを行う、という計画であった。
その後2ヶ月ほどして実際に買収された用地は約220万坪に及んだ。

房之助翁はこの構想の実現のためにアメリカにも技術者や専門家を多数派遣し、
工業用電力を確保するため電力会社を買収し、土地買収代金の支払いにあてる
地方金融の中心となるであろう銀行の買収も行った。これがのちの山口銀行である。
ところがこの計画は、アメリカの対外鉄鋼輸出禁止措置により、中止を余儀なくされる
こととなった。

【政界進出】
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房之助は、1917年(大正6年)に腸チフスにかかり、
生死をさまよったが、その大病以来、「自分の仕事は
49歳で終わった」と言い、「自己的な欲も得ない、
儲けや損に何の関心もなくなり、人生観が一変してしまった。
後の余生はもっと貴いものの究明にささげたい」と
1928年(昭和3年)2月、久原鉱業の経営を、義兄鮎川義介にゆだね、
いっさいの関係事業との絶縁を声明、実業界から引退し
政界に出ることを決意した。同年、第16回衆議院議員総選挙で
初当選した久原は、田中義一首相によって新人議員ながら
逓信大臣に抜擢されて政治家として順調なスタートを切った。

【久原鉱業の発展】
久原鉱業は日本産業と改称した。
翌1929年、その鉱山部門が日本鉱業株式会社(後に新日鉱ホールディングス、現在のJXホールディングス)となった。
これらは、後の日産コンツェルンへと発展していくことになる。
久原房之助から鮎川義介に引き継がれ、日立製作所や日産自動車を生んだ戦前の
新興財閥の雄、日産コンツェルンの源流にあたる企業になった。

【大谷ダムの建設】
山口県下松市にある石張りの大谷ダムは、堤高27.3メートル・堤長59.1メートルで昭和十三年の竣工である。時代はすでに80メートル級のダムを実現していた。
そのため大谷ダムには、あまり光はあてられていない。
石張りダムとしても、近代のあたらしい時期に属する。
しかしこれを農業用ダムとしてみると、評価は俄然ちがってくる。
大谷ダムは現在、(株)日立製作所の所有だが、当初は農業溜池としてつくられた。
宮之洲溜池と称し、(株)久原用地部が昭和十三年七月に竣工した。
発電用ダムとちがって農業用のコンクリート・ダムは、非常に数がかぎられ、
日本土木史・でもわずか八つを掲載しているにすぎない。
農業用の溜池ダムは、地域密着型で分散型なので、大きなダムをつくる必要がなく、
土堰堤でつくられることが多い。
こうした中でコンクリート造の大谷ダムは、きわめてめずらしい。
しかし大谷ダムには別の意図もうかがわれる。
(株)久原用地部の社長は、日立鉱山の創業者の久原房之助である。
彼は、下松市に大製鉄所・造船所の建設を計画していた。
大正六年には、この地に造船所を開設している。
大谷ダムは、彼の夢の構想の一貫としてつくられたにちがいない。

【下松工業高校の創立】
久原房之助翁が下松湾を利用、世界的大工場の計画「下松計画」の夢が粉粋され、
大正8年11月、下松町に工場を建設することができないことを謝り、
特に末武南村には迷惑をかけ深い謝罪の意味で、将来有為の青少年に工業技術教育を受けさせようという意図で、
下松に工業学校を建設すべくその費用として33万円(現在価格で33億円)を寄附した。
これが下松工業高校の創立と現在地にある由縁である。
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               【創立当時の工業高校】
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                【現在の工業高校】
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by kfujiken2 | 2011-05-12 08:05 | 歴史 | Comments(0)
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