山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


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下松市出身のスターがいる

その人の名は・・・及川いぞうさんです。

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NHK連続テレビ小説「マッサン」に出演している、
食堂「こひのぼり」店主の春さんが及川いぞうさんです。


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彼は下松高校のOBで 29期生(昭和53年卒)で、
本名を須郷 哲司(すごう てつじ)さんと言います。


http://www.showageino.com/cast/oikawaizo.html
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by kfujiken2 | 2014-11-27 15:12 | 未分類 | Comments(0)

晋三さん 「議員定数削減」って今どうなっているの?

今日衆議院が解散されますかが・・・
晋三さん 「議員定数削減」って今どうなっているの?

ちょうど2年前の11月14日、党首討論があった。
野田総理が、当時の自民党総裁の安倍さんと、長い間の懸案だった
議員定数削減を実現しようと討論した。社会保障と税の一体改革で、
国民に(消費増税の)負担をお願いするなら、まずは自らが身を切る
覚悟を示すべきだからだ。(安倍さんは)「やりましょう」
と定数削減の約束をした。それを受け、野田さんは衆院を解散する約束をした。

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それから2年が経つ。定数削減は実現していない。見事な約束違反だ。
公党の党首同士がテレビの前で、国民の前で約束をした。覚書も交わしている。
にもかかわらず、今日に至る。極めて残念で、強い憤りを覚える。
安倍さんは道徳教育を推進することに熱心だ。政治的に同意を果たせない人が
道徳を語る資格はない。


★ 国会議員の定数削減ができない理由-安倍総理のコメントに目がテン!

「議員定数削減」を求める質問を安倍総理にしたら、
安倍さんの答弁に耳を疑いました。
「きちんと議論をして野党の皆様と合意ができるのであれば・・・」
えっ~~~~~  何てことを言う!!!
議員定数削減をご自分が良いと思ったら、野党との合意なんて取らずに
これまでどおりに閣議決定すればよいではありませんか。
野党がごちゃごちゃ言ったら強行採決すれば済むことです。

現職の議員にとって、次の選挙での当選を危うくしかねない
定数削減や選挙制度改革は避けたいのが本音です。
与党は野党、野党は与党の責任にして検討を先送りしてきました。

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by kfujiken2 | 2014-11-21 10:38 | コラム | Comments(0)

石城山・神籠石の壮大な歴史ロマン ・・・ その③

石城山の代表的な史跡についてお話をしましょう!!!

① 随身門

石城山キャンプ場の駐車場入口横に随神門があります。
現在は石城神社の門となっているが、もとはこの地にあった神護寺の仁王門であった。
神護寺の仁王門として、立派な仁王像が一対存在していた。
現在の随神門には、随神像が祀られております。

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※ 第二奇兵隊が、石城山の神護寺を本陣にしていた時に、
南表門番所として仁王を撤去し、昼夜を通し交代で隊員が立ち番をしていて、
石城山の在住者が農作業の為、毎日数回通過するのでその度に住所・氏名を言わされて
不便だったそうです。
昭和25年頃まで仁王門に向かって左側に「皇族下乗」の高札が立ててありました。
皇族の方々でも馬や籠に乗ったままでは、石城神社に参詣で出来ず仁王門内は徒歩で
参詣されていました。


② 石城神社

石城神社は延喜式内社で、由緒ある神社である。
祭神は大山砥神(おおやまつみのかみ)(本地釈迦如来)・雷神(いかづちのかみ)(本地普賢菩)・
高おみの神(たかおみのかみ)(本地文殊菩薩)で、武事・鉱山・農林の神をお祀りしている。 

旧号を三社権現といっていたが、明治元年石城神社と改称した。
石城神社の創建は明らかでないが、社伝によると、敏達天皇三年(574) 
の鎮座と言われ、天皇の勅額と伝えられる「石城宮」(いわきぐう) 
も保存されている。

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本殿は、文明元年(1469)大内政弘が再建したものと伝えられている。 
桁行5.54m、梁間(はりま)2.85m、正面入母屋造り、背面切妻造 
り妻入り、こけら葺、四囲に緑をめぐらせた春日造りである。
柱面のとり方、勾欄(こうらん)のそり方、斗棋(とくみ)、 
蟇股(かえるまた)等に室町時代の特色を残している。 

大正十年(1921)解体修理、昭和58・59年(1983・84)屋根葺替を行う。
明治40年(1907)5月27日に特別保護建造物に指定され、 
昭和4年(1929)7月1日国宝に、同25年(1950)8月29日に重要文化財の 
指定を受けた。


③ 神籠石(こうごいし)

神籠石をいつ頃、誰が、何の目的で構築したかについては長く定説がなく、
神域説と山城説とで論争されてきたが、昭和38年、39年、国の文化財保護委員会
(現文化庁)、山口県教育委員会、大和村(現光市)の共同による発掘調査の結果、
従来知られていなかった人枡、柱穴、版築工法による大土塁が数百mに わたり発見され、
神籠石式古代山城の一つであるといわれるようになっている。
現在見ることが出来る神籠石は、底部に作られ土で覆われていたものが
露出して列石をなしたもので 総延長は約2,530mです。

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四角に面を揃えた石が 延々と帯状に かみそり刃も入らないほどきちっと
一列に並べられていました。
千三百年前(古墳時代末期)の構築と推定されるとの事ですが 既にこんな
土木技術があったのでしょうか。


水門のある神籠石は大きいです。

◆ 東水門
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◆ 西水門
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◆ 北水門
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④ 神護寺

神護寺は、今から1400年前の推古天皇20年(飛鳥時代:612年)に、
神籠石構内 石城山頂 に創建されました。
開山は高麗の僧 恵慈大和尚 で、開基は 琳聖太子(大内氏の祖)と伝えられています。

神護寺の名称は「第48代 称徳天皇 が天平神護元年(765年)に 石城山 に立ち寄り、
『石城山舎那院神護寺』と命名された」と神護寺の伝記に記載されています。

崇高なる山門(仁王門)が建ち、石城山内に 18の坊を擁し、
里には200余の末寺を有しており、天平年間には“西の高野山”と里の人々に称され、
仏教文化の華と賞賛され繁栄していました。

神護寺が建立された事により、8つの道が神籠石に開かれ(石城八道)、
毎月1日と15日のみ里人が神籠石内に入山する事を許し、
この日は里人で石城山内は溢れ賑わっていたと伝えられています。


⑤ 奇兵隊記念碑

石城山神護寺(跡)には、第二奇兵隊の本陣が置かれていました。
初代総督は 白井小助 が、軍監には 世良修蔵 が就任し、
室積村(現光市)の 普賢寺 を屯所とし、周防出身者の農民や神官、
僧侶、下級藩士などが多く参加し、また他の諸隊を吸収するなどして
隊員は300人を超えていました。

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慶応元年3月、長州藩政府が諸隊を藩の正規軍として公認し整理統合
するのに伴い「第二奇兵隊」と改称し、隊員数も100人に削減され(後に125人)、
訓練強化のため 石城山神護寺 に 本営 を転陣しました。
道中全員純白の上衣に紫袴をうがち、朱鞘の長刀を帯び幹部は皆馬上であったといいます。
石城山総督は奇兵隊二代目総督(兼務)の 山内梅三郎 が兼任することとなり、
白井と世良は 軍監 となりました。
石城山に入ると、神籠石を 竹垣 で囲い 高札 を立て庶民の入山を禁じ、
神護寺を本陣として、第一、第二、第三の兵舎、練兵場、厩、病院等の設備を整え、
正式の練兵を日課としました。

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by kfujiken2 | 2014-11-19 13:28 | 歴史 | Comments(0)

石城山・神籠石の壮大な歴史ロマン ・・・ その②

石城山観光案内所の三国志城に行って来ました。
女性館長の谷さんは代々石城山に住み続けてきた語り部的な存在感があり、
古代史にも深い知識と理解を持っておられます。
さらに驚くべきは 87歳の高齢にもかかわらず、チャキチャキの歴女です。


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「石城の里 三国志城」の創設者である谷千寿子女史が話されるには・・・

少女時代までをこの神籠石内で過ごされており、「われ生まれし山」として愛着が強い。
町おこしのための「三国志資料館」ではあるが、大陸文化との関わりが
ある石城山の麓に・・・と言われることにも頷ける。


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石城山は、昔から豊富な湧き水に恵まれた山でした。
里がどんな干ばつの年であっても、山が水に困るような事は一度もありませんでした。
その お山 を取り巻く「神籠石」の東西南北には「水門」があり、これらの四つの水門は、
湧き水や雨水の排水口として造られていました。
奥行きは 八間(約14m) あり、内部はどこまでも目で見える精密に計算された石で施工
してあり、石の表面は美しく加工されたもので奥まで続いています。
水の流れがよく、ゴミや汚泥が進入せず溜まらず、清潔な水のみが流れるようにしてあります。
現在は水流は殆どみられないが、汚泥やゴミなどは、一切侵入できない不思議な工法に
なっており、水流が濁らず崩壊もみられていないなど、深い謎に満ちています。
また、水門を流れる水は「飲用」としても使用できるほど清潔な水であり、
下流での利用も考えて利用可能な仕組みになっていました。


石城山神護寺(跡)には、第二奇兵隊の本陣が置かれていました。
初代総督は 白井小助 が、軍監には 世良修蔵 が就任し、
室積村(現光市)の 普賢寺 を屯所とし、周防出身者の農民や神官、
僧侶、下級藩士などが多く参加し、また他の諸隊を吸収するなどして
隊員は300人を超えていました。

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慶応元年3月、長州藩政府が諸隊を藩の正規軍として公認し整理統合
するのに伴い「第二奇兵隊」と改称し、隊員数も100人に削減され(後に125人)、
訓練強化のため 石城山神護寺 に 本営 を転陣しました。
道中全員純白の上衣に紫袴をうがち、朱鞘の長刀を帯び幹部は皆馬上であったといいます。
石城山総督は奇兵隊二代目総督(兼務)の 山内梅三郎 が兼任することとなり、
白井と世良は 軍監 となりました。
石城山に入ると、神籠石を 竹垣 で囲い 高札 を立て庶民の入山を禁じ、
神護寺を本陣として、第一、第二、第三の兵舎、練兵場、厩、病院等の設備を整え、
正式の練兵を日課としました。

しかし当時300人を越える隊員数から、再編成の際に軍資金の問題から
125人へのリストラが断行されたことにより、隊員達の間で解雇反対の
反乱事件などが起きていました。
慶応2年4月、幹部の 立石孫一郎 が、隊員の大部分(約100名)を率いて脱走し、
幕府の倉敷代官所及び、京都見廻役 蒔田広孝 の浅尾藩陣屋を襲撃(倉敷浅尾騒動)するも、
高梁川河口において幕府軍の銃撃を受けて敗走し、長州藩領へ逃げ帰り、
立石以下脱走隊士の多くが藩政府により処刑されています。

神護寺跡は、栄華を極めた面影なく寂しさだけが残る平野となっています。
石城山キャンプ場の駐車場入口横に随身門があります。
随身門 は、現在は石城神社の門となっているが、
もとはこの地にあった神護寺の仁王門であった。


私が石城山に登り駐車場に降りた時、なんだか背筋に寒気がしたと話したら・・・
それは(たまゆら)が側にいたんだね? と言われました。
(たまゆら)とは何ですか?と訪ねると、人間の目には見えない精霊ですと答えられました。
その精霊は人間に危害を加えないのですか?と訪ねると、精霊だから危害は加えない、
むしろ 人間を助けてくれますよ! 


たまゆらと呼ばれる神様の霊である不思議な光が
写っている写真をたくさん見せてもらいました。
それらの写真には、丸い光や棒状の光がはっきりと写っていて、
谷さんによれば、たまゆらはガイドをしている谷さんの後をついてきて、
訪問者にその存在を知らせようとしているそうです。

玉響(たまゆら)は玉響現象(たまゆらげんしょう)のことで、オーブ現象とも呼ばれる。
神様の歓迎?喜びの現象?とでも言いますか 、肉眼ではまず見えることはないようです。
カメラには映る事があるようです。
霊とも言うのでしょうが 、死んだ人が成仏出来なくてさまよう霊とは違うようです。

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by kfujiken2 | 2014-11-14 09:47 | 歴史 | Comments(0)

石城山・神籠石の壮大な歴史ロマン ・・・ その①

石城山の概要を簡単に説明しましょう。

石城山は、標高362メートルでそんなに高い山ではないが、
山頂付近にはキャンプ場、石城神社、第二奇兵隊士首置松跡、日本神社などがあります。
八合目あたりには大きな石組みの列石が取り巻いており、
その延長は約2600メートルあると言われてします。いつ・だれが・なんのために
築造したのか未だに謎に包まれたままである。
その列石を「神籠石」(こうごいし)と呼んでいるが、どうやら「百済の山城の工法」であるらしい。

謎の多い神秘的な古代遺跡に囲まれた石城山、歴史ファンにはもちろん山口県でも
最も価値を見出せる山と言えるのではないでしょうか。


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太古神道の霊山石城山を説明する前に、石城山に登る登山道・車道から
説明しましょう!!!


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◆ 石城山には、伊賀口登山口と三鍛冶屋口登山口の二つの登山道が
あります。


① 伊賀コースの登山口は、三国志資料館「石城の里・三国志城」の100m先にあります。
県道63号線を源城地域を田布施方面に右折します。(上記の地図に記しています)

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② 三鍛冶屋コース登山口は、県道63号線を東に進み石城工業の少し手前の左手にあります。
※ 三鍛冶屋コースに『境界石柱』があります。

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『邦家之経緯』(右柱』 『王化之鴻基』(左柱)
「 国家行政の根本で、王家(天皇家)が存続するための基本 」
と刻まれています。

「王化」・・・ 王者の仁徳で世の中をよくすること(君主の徳化)
「鴻基」・・・ 帝王の大きな事業の基礎(皇基、洪基)
「邦家」・・・ 国家
「経緯」・・・ 秩序を立てて治め整えること(物事の筋道)
「邦家の経緯」・・・ 国家組織の根本
「王化の鴻基」・・・ 王族の指導の基本


◆ 大和地区塩田方面からと田布施町城南・宿井方面から車道が
整備されております。


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① 大和地区塩田方面は、三国志資料館「石城の里・三国志城」の100m先の
  伊賀コースの登山口の左側にあります。

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② 田布施町城南・宿井方面は、田布施町城南・宿井の石城山の麓にある、
  宗教団体・神道天行居の本部の左側を上ります。 

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by kfujiken2 | 2014-11-11 09:54 | 歴史 | Comments(0)

吉田松陰からも信頼された「海防僧」・僧月性

文化14年(1817)、周防国遠崎(今の柳井市遠崎)にある妙円寺に生まれた月性は、
詩人として、また海防僧として業績を残した人物です。

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天保2年、15歳を迎えた月性は4年余り、九州の豊前の恒遠醒窓(つねとおせいそう)
のもとで詩文を学び、優れた詩人としての基礎をつくりました。


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天保14年、京阪遊学に出郷するに際して作った「男児立志の詩」は有名で、
他にも多くの傑作を残し生涯に作った漢詩は千篇をこえるといわれています。
遊学から帰郷した嘉永元年、月性32歳の時、妙円寺境内に
私塾「清狂草堂(別名:時習館)」をひらいて、「尊王攘夷」・
外国の侵略から護国を説く「海防」の急を説きました。
その考えは後に高杉晋作が創設した奇兵隊となって実を結びます。


開塾とともに、遠近各地からその学徳を慕って入塾するものが多く、
後の明治維新で活躍する赤祢武人(あかねたけと)、世良修蔵(せらしゅうぞう)、
大洲鉄然(おおずてつねん)、大楽源太郎(だいらくげんたろう)、
入江石泉(いりえせきせん)、和真道(やまとしんどう)、天地哲雄(あまぢてつお)など
多くの人物を排出しました。
月性は海防僧ともいわれ、海防護国の主張に共鳴した人物も多く、
その講説は防長二州の全域にわたり、吉田松陰とも交流がありました。
松蔭は自分の塾生に月性の講演を聴講させたこともあったとのことです。
安政5年、君国の将来を案じながら辞世の詩一篇をのこして、
維新の黎明をみることなく、病のため42歳でその生涯をとじました。


● 清狂草堂(せいきょうそうどう)

僧月性が嘉永元年から安政元年までの約7年間開いていた塾名で、
一般に時習館といわれた当時の塾は50m余東方によった地点に建てられていた。
上の間は明治23年6月下旬有栖川宮熾仁親王墓参のとき御成りの間であり、
翌24年9月伊藤博文が墓参の折にここに少憩した。


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幕末の詩僧としても名高い月性は多くの傑作を遺しているが、
その中でも天保14年(1843)夏、月性が京坂遊学のため出郷するに
際して作ったのが「将に東遊せんとして壁に題す」である。
この詩は、幕末から今日まで世の人々に愛誦され、広く青年の血を湧き立たせ、
幾多の偉人傑士の心の糧となったものである。


『男児立志出郷関 学若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到処有青山』

訳文
男児志を立てて郷関を出づ 学若し成る無くんば復還らず 
骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地 人間到る處青山有り

詩意
男子たるもの、ひとたび志を立てて故郷を出たからには、
学業の成就をみなければ、いかなることがあっても、わが故郷に帰るものではない。
自分の骨を埋めるのは、必ずしも先祖代々の故郷を望むものではない。
この世はどこに行っても、自分の墓地となる青く美しい山はあるのだから。

[語釈]
人間:「じんかん」と読み、世の中、世間のこと。
日本語でいう「にんげん」は人(ひと)という。
青山:墓の別名。

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by kfujiken2 | 2014-11-05 12:56 | 歴史 | Comments(0)

プチ同窓会

3ヶ月に一度 15~16人で同級生のプチ同窓会をやっています。
プチ同窓会と言うよりも定例の飲み会なんです。
ある仲間は定例会と表現しています。


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昨晩は 今年最期ということで忘年会も兼ねていました。
三々五々に輪をつくり 地方政治・地方史・家族の話題で
賑わっていました。


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幾つになっても 同級生とはいいものですね~ 
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by kfujiken2 | 2014-11-03 09:15 | 未分類 | Comments(0)