長州より発信

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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

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受賞おめでとうございます。
元下松市歯科医師会会長・原田正剛氏(はらだただたか)が、平成26年11月18日県庁にて、
県民福祉の向上と県勢の発展のために、住民福祉の増進に顕著な功労があったとし、
山口県選奨・平成26年山口県保健衛生・環境功労賞を受賞されました。


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【プロフィール】
原田歯科医院院長  〒744-0027  0833-43-1010  下松市南花岡6丁目9番12号
元下松市歯科医師会会長・社会福祉法人松星苑理事長・下松ジュニアテニスクラブ会長


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3ヶ月に一度の下松高校のプチ同窓会と言うよりも定例の飲み会で、原田正剛氏の
ささやかながらお祝いをしました。豪華なパーティでもなく、食事も質素でしたが・・・
どんな派手な祝賀パーティよりも、気心の知れた同級生と酒を酌み交わしながら、
又雑談しながらのお祝いで、原田氏は喜んでくれたかなぁ~


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by kfujiken2 | 2015-01-24 09:43 | 未分類 | Comments(0)
長州藩内における正義派と俗論派との骨肉戦争、つまり権力闘争である。
もし・・・長州正義派(改革派)が「大田・絵堂の戦い」に負けていたならば、
明治維新は数年遅れていたのは確実とみられている。
「大田・絵堂の戦い」で長州保守派と対決 し、長州改革派がこれを破ったことで、
長州藩論は倒幕に統一(長州保守派が一掃されテロ長州改革派が長州藩を掌握)されました。
極論を言えば、「大田・絵堂の戦い」が起こらなかったら、明治維新の夜明けは無かったでしょう!


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長州藩も最初から「尊皇攘夷! 倒幕!」と叫んだいたわけではなくて、あくまでも
幕府に恭順しようという勢力もあって、その勢力のことを俗論党という。
一時期、尊王攘夷派が主流になった日本だが、薩摩藩と会津藩主導による八月十八日の政変
(会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放
したクーデター事件)以後、長州藩は京を追われる立場となり、長州藩士達は八方塞がりの中、
京市街に攻め入り、禁門の変を起こす。そのため、幕府から目の敵にされるようになり、
第一次長州征伐が行われるに至った。


幕府の「第一次長州征伐(1864、7,23)」が発せられると、それまで藩の政治を
握っていた革新派の周布政之助が自害し、蛤御門の責任をとって、益田越中、国司信濃、
福原越後の三家老が切腹するなどしたため、藩の要職は保守派が力を得て、革新派への
弾圧が強化されてきました。

元治元年12月16日、高杉晋作が、この事態を憂い、下関の功山寺で保守派(俗論党)
打倒の決起をしました。
明けて、慶応元年(1865)1月6日、その高杉晋作が率いる、下級武士や農民主体の
倒幕決起集団(以下「諸隊」という)と、既成勢力の長州萩政府軍(以下「俗論党」という)が、
藩の主導権を争う戦争が始りました。


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この戦いは、決起組の諸隊が大田村の金麗社に、萩政府軍が絵堂に、陣を敷いて戦いましたので、
土地名から「大田絵堂の戦い」といわれています。
戦闘は、長登、川上、呑水、赤、の各村で繰り広げられ、正月16日に、藩政府軍が完全に
敗退するまでの約10日間続きました。
結果、一連の戦争で、両軍合わせて41名の死者を出し、長登、川上の村落は戦火を受け
ましたが、諸隊が勝利しましたので、藩政主流は保守から倒幕となりました。




山口県美祢市美東町大田の奇兵隊の本陣跡の金麗社

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◆ 長州藩諸隊
幕末期に長州藩で編成された、藩士以外の様々な身分の者からなる部隊を総称したもの。
長州藩の軍事体制を強化するため、高杉晋作により、身分を問わない奇兵隊が結成されると、
それに触発されて農民、町人、漁師、猟師、穢多、神官、力士、僧侶など藩士以外の様々な
身分の者からなる義勇軍的な部隊が数多く結成され、その数は百を超えた。

主な諸隊:奇兵隊・御楯隊・遊撃隊・鴻城隊・南園隊・亀山隊・膺懲隊・集義隊・八幡隊・
酬恩隊・力士隊・忠憤隊・衛撃隊・干城隊 等・・・

◆ 長州正義派(改革派)とは尊王尊攘派・急進派・倒幕派・勤王派のことで、
つまり、天皇を敬い外国を排除する考えの派閥です。
吉田松陰・桂小五郎・高杉晋作・久坂玄瑞・来原良蔵・井上馨・寺島忠三郎・大村益次郎・
山田顕義・伊藤博文・前原一誠

◆ 長州保守派 とは俗論派・幕府恭順派、佐幕派、重商派のことで、
幕府に恭順し補佐する派閥です。
長井雅楽・椋梨藤太・中川宇右衛門・小倉源五右衛門・ 岡本吉之進

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by kfujiken2 | 2015-01-16 14:11 | 歴史 | Comments(0)
吉田 松陰の雅号が「二十一回猛士」

※ 雅号とは、、文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名のことである。

(例) 高杉晋作: 東行狂生  久坂玄瑞: 江月斎 小田村伊之助(楫取 素彦): 耕堂彜堂

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吉田松陰の「吉」の字を分解すると「十一」と「口」になり、「田」の字を分解すると
「口」と「十」になる。
これらを強引に組み立て直すと、「十一」と「十」、あわせて「二十一」、
「口」と「口」をあわせて「回」になる。また、松陰の実家の姓である「杉」の字を分解し
「十」「八」「彡(三)」の三つの数字に見立て、 合算すると、これもまた「二十一」になる。

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「猛士」というのは、松陰の通称が寅次郎であり、「寅=虎」であり、「虎の徳性は猛である」ことに
ちなんで、「猛士」とした。自分の二つの姓「吉田」と「杉」とを引っかけた回数「21回」は必ず、
猛を奮い、誠を尽くして全力で物事を実行するんだという、松陰の並々ならぬ決意を感じさせる
号だと言える。

松陰はこれまでに・・・
①東北旅行のための脱藩したこと
②藩士としての身分をはく奪されたにもかかわらず、藩主に意見具申したこと
③ペリー来航時の密航「下田渡海」
3回「猛」を発したとの考えを示している。


次回は「吉田松陰の教育方針」です・・・乞うご期待を
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by kfujiken2 | 2015-01-13 12:35 | 歴史 | Comments(0)
NHK制作統括の土屋勝裕チーフ・プロデューサーが、
「元々、長州藩を舞台に吉田松陰を取り上げたかったが、
早くに亡くなっているのでどうしようかと思っていたところ、
陰の人物でもある楫取素彦を知り、興味を持った」と 解説している。


過去15年で最も低い数字ということは、吉田松陰の妹?知名度の問題だろうか?
主人公のまわりの登場人物も、キャストたちも凄い豪華なのに。


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吉田松陰の妹である文が、歴史的に何をしたかということは何もない。
同時代の篤姫と較べても全く地味で、内助の功として松蔭、久坂玄瑞、
小田村伊之助を支えた人なので、実に地味というか、
歴史的には具体的に何もしていない女性なので、その点が大河ドラマヒロインとしては、
実に地味であることがこのドラマの最大の弱点なんだと思います。

「花燃ゆ」が初回の視聴率が低かったからと言って、決して悲観する事は無いだろう。
ドラマが進んで行くと幕末から明治維新の歴史上著名な人物がぞくぞく出てくる!!!
第2回以降を、大いに期待したい。


しかし 松蔭が九州遊学をし、後に熊本藩士宮部鼎蔵と津軽海峡を通行するという
外国船を見学しようと東北遊学をしたことは知っていましたが・・・
吉田松陰に関して並みの知識は持っているつもりですが、
小田村伊之助(楫取 素彦)という人物は知らなかった!!!

生涯の友人となる吉田松陰と小田村伊之助(楫取 素彦)は、
禁書「海防臆測(かいぼうおくそく)」の存在を介し、
文の仲介によって出会うことになるとは 知らなかった。。。


吉田松陰は九州遊学中に長州藩では手に入らない『海防憶測』を、
熊本藩士宮部鼎蔵から譲り受けます。


※ 禁書「海防臆測」とは

古賀侗庵という学者が書いた江戸後期の書物で、海外への進出、
貿易を行なうべきだとする海外進出論を主張したもので、
鎖国を維持する幕府の対外政策を批判していたため、「禁書」とされていました。

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by kfujiken2 | 2015-01-07 15:46 | コラム | Comments(0)
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