山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


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【愛を積むひと】

映画「愛を積むひと」を観てきました。
日本で最も美しい村と言われる北海道・美瑛での四季折々の
彩り豊かな風景を見せてくれる美しい大自然のなかのドラマです。
手紙という媒体で丁寧に作られた、 優美なラブストーリーです。
妻の突然の死の悲しみに暮れる夫に、妻の書いた手紙が夫を勇気づけ、
妻の愛に溢れた手紙を読むたびに、生きる希望を見出していく夫。

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それは夫婦の愛だけではなく、家族愛になり、そして人間愛にまでも発展していく。
夫婦愛というよりも、奥さんの圧倒的な器量で夫が救われている物語だといえます。
夫婦は様々なことがあるけれど、歳をへ感じるのは、相手が喜ぶ顔が単純に見たいと
いう気持ちです。主人の顔を想像する妻の「手紙」という選択肢は、本当に素敵だな
と思いました。高齢社会の様々な課題を抱える日本ですが、最後まで生き生きと
生き抜くためのたくさんのヒントがあるような気がしました。


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映画よりは話は少しそれますが、「クローズアップ現代」で
(2010年10月4日放送「男 ひとり残されて」)でも採り上げていた、
妻に先立たれ、一人で生きていくことになった男性たちに
スポットを当ててみましょう!!!



妻に先立たれた夫が、生きていてもしょうがないと酒びたりという話はよく聞くが、
男とはそんなにももろいのか?伴侶の死後の悩みで、「話相手がいない」は女40%に
対して男は100%。「一緒に行動する人がいない」は、女20%に対して男は80%
という数字がある。男の方が立ち直りに時間がかかり、死亡率も高まるという。

社会に出ているときには精いっぱいの虚勢を張って威張っているが、所詮は張り子の虎。
男は基本的に精神的に弱さもあるし、生活するとなった場合家事全般妻に頼っている
場合はいきなり右も左もわからない状態になり、それも重なって妻が亡くなって
初めて妻の存在の大きさに気がついて、とてつもなく喪失感を感じるようです。


ここで愛する人(夫や妻を、子供、親など)を亡くしたとき、
誰もが味わう深い悲しみ( 悲慕=グリーフ )について少しお話をしましょう。


多くの人はまずショックを受け、その時やその後に故人への強い思慕にかられ、
気分の落ち込みと罪責感などを感じます。体調もすぐれず、落ち着かず、
必死に頑張ってもなかなか故人のいない環境になじめず、
生活の充足感を味わえない状態が続きます。
乗り越えなければいけないこの悲嘆のプロセスを、「グリーフワーク」と言います。
この「グリーフワーク」のプロセスを支えて見守ることが「グリーフケア」です。
「グリーフケア」は、人が正常な「グリーフワーク」を歩むようにサポートすることです。
この状態から抜け出す為には、死別を十分に悲しんで受け止める作業が必要です。
この作業のことを「 悲嘆の作業 」、「 喪の作業 」(グリーフワーク)と呼びます。


◆ グリーフワークのプロセス

1.ショック期
最初、愛する人の死に接した時、人は茫然として、無感覚の状態になります。
一見冷静に受け止めているように見えますが、これは現実感を喪失した状態なのです。
死があまりに大きなショックであるため、はっきりした反応が現れないのです。
また、正常な判断ができずに、パニック状態になることもあります。


2.喪失期
死を現実に受けと止め始めますが、まだ充分に受けとめられない段階です。
号泣や怒り・敵意、自責感などの強い感情が、次々と繰り返し表れます。
故人がまだ 生きているように思ったり、そう振舞うこともあります。


3.閉じこもり期
死を受け止めることができた段階ですが、そのために、従来の自分の価値観や
生活が意味を失って、うつ状態に陥り、自分が存在していないような無気力な
状態 になります。生前にしてやれなかったことに対して、あるいは自分が
死の原因を作ったのではないかなどの、自責感に襲われることも特徴です。


4.再生期
故人の死を乗り越えて、新たな自分、新たな社会関係を築いていく時期です。
積極的に他人と関われるようになります。

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by kfujiken2 | 2015-06-30 11:18 | コラム | Comments(0)

知らなかった理・美容の規制緩和 ガッテン \(^O^)/

【安倍晋三総理も該当 !】 美容師が男性の髪をカットするのは
「違法」!?
安倍晋三総理はこの違法を知ってか? それとも知らずに美容院に
行っていたのでしょうか!!!


昨日夏目三久さんがMCを務める『あさチャン!』の番組で、
中央大学法科大学院教授・野村修也さんが「理・美容の不思議な規則」
でというテーマで、今回の規制緩和の説明されていました。

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私なりに理・美容の不思議な規則を調べてみました。
理美容業界の現状をみると問題が多い。
美容業界は恒常的にオーバーショップ、人手不足、低生産性、低賃金、長時間労働、
社会保険への未加入、などなど。
理容業界は後継者不足が致命的な状況だ。

*「理容師法」昭和22年交付、「美容師法」昭和32年交付、
「生活衛生関係営業の運営の適正化及び振興に関する法律」(生営法)昭和32年交付。


この古い法律が生きており、問題に上がっているのは、次の5つらしいですが・・・
① 理美容師の混在店の認可
② 出張理美容における無店舗者の営業認可
③ 洗髪設備の義務化の緩和
④ 戦略特区での外国人美容師の就業認可
⑤ 業務限定の美容師資格の創設


特に美容師が男性の髪をカットするのが「違法」というのは、
①「理美容師の混在店の認可」に関係しています。

いまや男性も、美容室に通う時代。リクルートビューティー総研の2013年の調査に
よると、20~34歳の男性の65.7%が美容室を利用している。
しかし1978年の厚生省通知により、美容師は男性の「カットだけ」をしてはいけない
ことになっており、厳密にいうと法令違反になるおそれがあるのだ。
改めて現行の規制を整理してみよう。現在、理容師には男女のカットおよび顔そり、
ならびに「男性のパーマを伴うカット」が認められている。
しかし、「男性のパーマのみ」は認められておらず、「女性のパーマ」もかけられない。

一方、美容師には、女性のカットと男女のパーマおよびパーマを伴うカットが
認められているが、「男性のカットのみ」は認められておらず、顔そりもできない。
このほか、理容と美容の施設は「それぞれ別個に設けなければならない」とも
定められている。


顔そりやパーマの方法の差異を除けば、理容師と美容師には実質的に大きな違いは
ないという。理容師・美容師の混在勤務を認められたり、資格制度が統一されたり
することで、人材の確保や配置がずっと容易になるのは確かだ。

規制緩和によって、性別を問わず1つの店で、散髪からパーマ、顔そりが可能になり、
理容師と美容師が共に働けるようになる日は来るのだろうか。

なるほど~~~ ガッテン!!! 
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by kfujiken2 | 2015-06-24 12:09 | 未分類 | Comments(0)

“運の強い男” で “三井の大番頭”といわれた・井上馨

井上馨は山口・湯田の生まれで、萩出身で多くの幕末志士を輩出した松下村塾の
門下生でなく、藩校・明倫館で学んだのです。
毛利藩が伊藤博文・山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助と共にイギリスに密航・
留学させた「長州ファイブ」の1人ですが、馬関海峡での西洋船砲撃のニュースを知り、
伊藤博文と一緒に急遽帰国し、高杉晋作を全権とする講和交渉の通訳を勤めています。
第1次伊藤内閣の外相に就任。鹿鳴館に象徴される欧化政策を展開し、
不平等条約の改正に奔走。黒田内閣農商務大臣、第2次伊藤内閣内務大臣、
第3次伊藤内閣大蔵大臣等を歴任し、引退後も元老として重きをなした。


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◆ ここで袖解橋(そでときばし)の変・井上聞多(のちの馨)襲撃事件の
話をしましょう!!!


イギリスで日本とは比較にならない科学技術の進歩や、工業生産力の発展を実地に
見聞してきた井上馨は、藩内を吹き荒れていた尊皇攘夷の嵐を収めようと開国を
前提とした武備恭順を説きますが、第一次長州征伐では武備恭順を主張したために
元治元年(1864年)9月に俗論党(椋梨藤太らの保守派)に襲われ(袖解橋の変)、
瀕死の重傷を負った。ただ、芸妓の中西君尾から貰った鏡を懐にしまっていた為、
急所を守ることが出来、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受けて一命を取り留めた。
この時あまりの重傷に馨は兄・光遠に介錯を頼んだが、母親が血だらけの馨を抱きしめ、
「斬るなら、この母もろともお斬り」と泣き叫び兄に介錯を思いとどまらせた。
この時のエピソードは後に第五期国定国語教科書に「母の力」と題して紹介されている。
井上馨の袖解橋の遭難に馳せつけ、数か所の刀傷を五十数針縫い合わせる大手術をなし、
瀕死の井上馨を奇跡的に救った。
後年の井上の業績を思うとき、この所郁太郎の治療を忘れてはならない。


 武備恭順とは・・・武備とは読んで字のごとく「武に備える」で、
恭順とは、「命令につつしんで従う態度をとること」です。
他国と仲良く振る舞い、表向きは従う態度を取りつつ、
内心では戦うことも想定し、備えるのです。


それにしても理解できないのは井上馨が、恭順を主張する俗論党に何故襲われたかです。
確かに俗論党の主張は全面謝罪、つまり絶対恭順ですから武備を整えるのは幕府に
反抗の意を示す背信行為で藩を危険に晒す暴論と映るかも知れませんが、
徹底抗戦を叫んでいる訳でなく方向性は同じなのですから、藩の存亡危機に際して
大同団結することはできないものでしょうか?
似て非なる者をことさらに排除するのが山口県人であり、「白でなければならない」と
言えば薄い灰色や水玉模様も「汚れている」と指弾され、気がつけば「真っ黒」にされているのが山口県の論法らしいです。


◆ どこまで本当か分かりませんが、ダーティーなイメージの井上馨

井上馨が三井財閥や長州系の政商(山城屋和助・藤田伝三郎・久原房之助・鮎川義介)と
密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やしたダーティーなイメージの強い人物で
あることは間違いない。
一時は実業界にあっただけに、三井財閥においては最高顧問になるなど密接に
関係しているだけに、否定のしようがないわけだ。こうしたあり方を快く思わなかった
西郷隆盛からは、井上は政府高官ながら“三井の大番頭”ともいわれたほどだ。
 
明治の元勲たちにもあった“互助”意識とでも表現すべきものが存在したわけだ。
井上は一時は三井組を背景に、先収会社を設立するなどして実業界に身を置いたが、
伊藤博文の強い要請のもと復帰。
様々な要職を歴任、鹿鳴館を建設、不平等条約の改正交渉にもあたっているが、
汚職・不正疑惑の噂が常につきまとう、“貪官汚吏”の権化とされる人物だったようです。

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by kfujiken2 | 2015-06-19 14:14 | 歴史 | Comments(0)

日本国憲法ってわかりますか?

衆議院憲法審査会で安全保障関連法案について、
合憲だ違憲だと激論しているが・・・


日本国憲法は日本語でふだん使われていない単語が、むやみに使用されているから
難しい!!!憲法ってむずかしい、法律ってむずかしい そういう声をよく聞きます。
日本人の99%は、「日本国憲法をよく知っているか?」と、尋ねられたら、
「日本国憲法というものが存在することは知っているが、それ以上のことは知らない」
という回答になるのではないでしょうか。
残念ながら日本国憲法は、普通の日本人にとって縁遠いもののひとつです。


大日本帝国憲法と日本国憲法のできるまでの経緯を、
少し勉強しましょう。
 


▼ 大日本帝国憲法は、当時の藩閥政府が、当時の欧米列強の国力に日本が追いつくようにと、当時君権が強い帝政であったドイツ憲法を模範として制定されたものです。 ▼


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1882年(明治15年)3月、参議・伊藤博文らは政府の命をうけてヨーロッパに渡り、
ドイツ系立憲主義の理論と実際について調査を始めた。
伊藤博文は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学の
ロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に
立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようという
からには、まず、その国の歴史を勉強せよ」というアドバイスをうけた。
翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、
井上毅は、政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレルやアルバート・モッセなどの
助言を得て起草作業を行い、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。
この草案を元に、伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎らが検討を重ね、草案をまとめた。

1889年(明治22年)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の
詔勅(しょうちょく)」が出されるとともに大日本帝国憲法が発布され、
大日本帝国憲法は第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)
11月29日に施行された。


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▼ 日本国憲法は、連合国軍総司令部(GHQ)の指示のもと、日本政府が若干の修正を
加えて制定されたものです。 ▼


1945年(昭和20年)、日本は太平洋戦争(第二次世界大戦)に敗北し、
連合国軍総司令部(GHQ)からポツダム宣言を受諾しました。
ポツダム宣言とは日本に軍国主義排除、民主主義、基本的人権の尊重を確立せよ
という内容のものでした。
ポツダム宣言の内容の一つである、国民主権を政府(ときの内閣・幣原喜重郎内閣)は
とても嫌がりました。政府は天皇主権のままにしたかったのです。
そこで、松本蒸治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会を開いて
松本案を作成しGHQに提案したが、その内容が明治憲法と、ほとんど変わらない
内容だったため、GHQはマッカーサー3原則(マッカーサーノート)を提示しました。
その内容は天皇主権を否定するものでした。
マッカーサー3原則をもとに日本国憲法が制定された。


※ マッカーサー3原則(マッカーサーノート)

◆ 天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。
天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された
国民の基本的意思に応えるものとする。
◆ 国権の発動たる戦争は、廃止する。
日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を
保持するための手段としての戦争をも、放棄する。
◆ 日本の封建制度は廃止される。
貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。


日本国憲法は1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されました。
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by kfujiken2 | 2015-06-12 16:23 | 未分類 | Comments(0)

~西郷隆盛、坂本龍馬らと長州藩との密議した建物 ・ 枕流亭(ちんりゅうてい)~

枕流亭(ちんりゅうてい)と は・・・

薩長同盟締結に向けて密議を行ったのが、この地にあった枕流亭で、
元々は道場門前の一の坂川の流れにのぞむ安部家本陣の離れであった。


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1階はパネルの展示室となっているが、2階は当時のままのようで、
丸窓や欄干に昔の面影が残っています。
なお香山公園に建てられているものは、昭和35年現地に移設、復元したものである。



1階のパネルの展示室になっているフロアーです
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2階へ上がる階段です、丸窓に昔の面影が残っています
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4帖の間から床の間のある8帖の間を見た景観です
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8帖の間から外を見た景観です
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by kfujiken2 | 2015-06-10 14:55 | 歴史 | Comments(0)

長州藩が藩庁を萩から山口に移鎮(いちん)

【 山口移鎮(いちん) 】とは

萩は1604年毛利輝元入城から259年間(萩城築城から254年間)藩庁が、
置かれ人口4万人以上の西日本有数の城下町として発展していた。
1863年(文久3年)に長州藩主「毛利敬親」が、藩是を決定して以来、
萩から山口へ政治の拠点を移し、山口政事堂を築いた出来事をいいます。
城地と藩庁の両方の移転を行ったこの事業は、いわば首都の移転とも
言える大きな事業でした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
藩是(はんぜ)とは・・・その藩の大部分の政策の方向性を決定付ける、
藩民の支持を得た方針のことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山口移鎮 に伴い多くの役人の家屋敷が必要となりましたが、急に用意もできないため、
藩として山口の民家の中から役人の宿泊所を選んだのです。
「十朋亭(じっぽうてい)」はその中の一つです。
当時の藩の重役であった「周布政之助」が最初の宿泊人であったと
伝わっているそうです。

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「十朋亭」とは、徳川時代の1800年ごろ(亨和年間)に、
醤油の商いをしていた萬代家の3代目ご当主である利兵衛英備さん(1775-1838年)が、
「裏の離れ座敷」として建てた建築物です。


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入口から見た全景です
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土間から見た部屋です
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裏庭から見た部屋です
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多くの長州藩士たちが「十朋亭」に出入りしていました
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by kfujiken2 | 2015-06-07 16:02 | 歴史 | Comments(0)

下松ドレッシング完成

友達の農園「21世紀フラワーファーム」がドレッシングを商品化した。

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下松市来巻の農事組合法人「21世紀フラワーファーム」が、
アスパラガスとブルーベリーのドレッシングを商品化した。
市内のザ・モール周南や下関市の百貨店などで今月中旬から販売する。
下松市役所で2日、試食会があった。  
同ファームは藤田シゲ子さんが家族4人で経営し、
ブルーベリーやアスパラガスを栽培。
藤田さんは長女善江さんと3年前からドレッシングの開発を続けてきた。
「さっぱりしたアスパラガスは魚料理に合い、酸味があるブルーベリーは
肉料理にお薦め」とPRした。


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農園のドタバタ奮闘記のリンクページにとびます。
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by kfujiken2 | 2015-06-03 20:27 | 未分類 | Comments(0)