長州より発信

kfujiken2.exblog.jp

山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

<   2015年 07月 ( 7 )   > この月の画像一覧

馬関戦争の下関講和

下関戦争は、幕末に長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国
との間に起きた、文久3年(1863年)と同4年(1864年)の前後二回にわたる
攘夷思想に基づく武力衝突事件。
歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争と呼び、1863年の戦闘はその
「原因となった事件」として扱われることが多い。
今日では1863年のことを下関事件、1864年のことを四国艦隊下関砲撃事件と
呼んで区別している。


d0061579_14232495.jpg


長州藩の正使には、脱藩の罪で野山獄に投獄されていた高杉晋作が選ばれました。
筆頭家老・宍戸家の養子という名目で宍戸刑馬と名乗ります。
副使には、渡辺内蔵太・杉孫七郎という2人の家老。
通訳には井上馨・伊藤俊輔が指名されました。


d0061579_1424143.jpg

(写真左=高杉晋作、右=伊藤俊輔)

◆ 連合軍が要求した条件は・・・
1)海峡通航の安全確保
2)300万ドルの賠償金支払い
3)彦島の租借

◆ 長州藩の返事は・・・
1)承認 
2)幕府の攘夷令によって打ち払いをしたものだから、
  賠償金は幕府から支払ってもらえ、とつっぱねる。
3)断固拒否!


高杉晋作はその二年まえに、上海に行って西洋の租借地を見ていた。
「犬と中国人入るべからず」と書かれた立て札を見て、烈火のごとく怒り、
このままでは日本もいずれこうなる、絶対に日本の土地を租借させては
いけないと考えていた。「高杉しかいない」という判断はまったく
正しかったと思う。高杉以外のものであれば、彦島をイギリスに貸して
いただろう。彦島がそのとき香港みたいになっていたら、
今日にいたる日本の近代化はなかった。
高杉は日本人として、腹を切る心づもりで国を断固として守りぬいた。

この時の事を振り返って、後に伊藤博文は、
「あの時、もし高杉が、これをうやむやにしていなければ、
彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。」
と言い、晋作の機転に感謝したといいます。


※ 租借地と植民地の違い

期限付きで借りて、その期間主権者になるのが租借地。
侵略により完全に自国の領土に取り込んだのが植民地。

[PR]
by kfujiken2 | 2015-07-30 14:32 | 歴史 | Comments(0)
d0061579_1212876.jpg


◆ 松蔭決別の地

d0061579_11521189.jpg


安政の大獄で吉田松陰が江戸に護送される事となり、
他の塾生が萩往還の涙松で別れを告げた後も、
1人密かに生家のある高水まで追従し、故郷の熊毛郡呼坂まで見送り、
別れの歌を交換しています。

「よそに見て別れゆくだに悲しさを 言にも出でば思いみだれん」・寺島忠三郎
【解釈】かげながらお別れするのでさえ悲しいものを、ものを言って別れるように
なれば、心が乱れて耐えられないであろう。

「かりそめの今日の別れは幸なりき ものをば言はば思ひをぞまさん」・吉田松陰
【解釈】あっけない今日の別れはむしろ幸いである。ものを言って別れれば、
一層思いがつのって悲しくなるばかりだろう。


d0061579_11533911.jpg

d0061579_1154611.jpg
d0061579_11542648.jpg



◆ 呼坂本陣(河内家)

d0061579_11595520.jpg

d0061579_1203316.jpg















呼坂本陣はどっしりとした門構えの河内家である。広大な敷地に土蔵づくりの
建物が残る。河内家は代々大庄屋を勤め、家業は酒造業であった。
防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け、万葉集に歌われ、
また、南北朝時代(約600年前)の旅日記「道ゆきぶり」に現在の
呼坂の地名が「海老坂」と記されています。
江戸時代、河内家は代々庄屋や大庄屋を勤め、天明年間(1781年)より
七左衛門が本陣を引き受け、参勤交代の大名や幕府の上使が宿泊や休憩をしました。
河内家には現在も大名等宿泊、休憩の際の「お休み札」、「宿泊の部屋」、
安政3年(1856年)より約30年間の「萬日記」、当時の「屋敷見取り図」
その他貴重な資料が保存されています。


d0061579_115875.jpg

d0061579_11584871.jpg
















◆ 高水村塾

高水学園の前身で、旧藩時代、三丘宍戸藩校徳修館の侍講であった宮川視明が、
山口県熊毛郡高水村(現周南市)の烏帽子岳の山ろくに、磨鍼塾と称する私塾を
開いて郷党子弟に孔孟の道を講じていた。
当時その徳望を慕って遠隔の地から来り学ぶ者も多かったが、
宮川視明の没後はその後継者がなく一時中絶した。
明治31年、同村の江田 保は、同郷の人である正覚寺住職伊東法住、
篤学者河谷茂作と計って、視明の嗣子である宮川泰を設立会長に推し、
河村道篤を塾長に迎え、修業年限2ヵ年の私立高水村塾を同村字新町に設立した。

d0061579_1210835.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2015-07-23 12:14 | 歴史 | Comments(0)
天保14年(1843年)~元治元年7月19日(1864年8月20日)
周防国熊毛郡高水村生まれ。藩士寺島太次郎直一の次男。
作間家の養子となるがのち復縁。


寺島 忠三郎が地味だったというよりも、久坂玄瑞や高杉晋作達の四天王や、
維新の元勲として栄達を極めた伊藤利助(博文)・山縣狂介(有朋)に
比べますと、もうひとつ知名度が落ちることは否めませんね!
彼が歴史上名を知られる所以となった出来事は、禁門の変で久坂と最期を
共にしたという劇的な事実に尽きると思われます。

d0061579_1122596.jpg


松陰の門弟になったのは、十六歳を迎えた安政5年(1858)頃であり、
同世代クループの中では、少し前に弟子入りしていた野村靖は別として、
品川弥次郎が同年に松下村塾を叩いています。
松陰はまだまだ年少の寺島の未熟を知りながらも、『朴訥で沈毅の性格である』
『自分の考えを固く信じて、なかなか改めようとしない頑質なタイプだ』と
批評したうえで、『すこぶる愛すべき人物である』とその成長に大きな期待を
寄せていました。彼の足跡を眺めますと、先輩の久坂玄瑞と行動を共に
してるケースが多々見受けられます。


d0061579_11473788.jpg


松陰死去まもない、安政6年(1859)末から翌万延元年(1860)にかけて、
村塾メンバーは講孟?記(こうもうさっき)の講読等、頻繁に会合を持って
同士の絆を強めることに努めていたのですが、取り分け久坂は『松陰先生の教えを
不朽にすべく、幼い子弟に教え広めたい』と考えており、
村塾の教室に年少者を対象にした勉強会を主宰していました。
その後一貫して、寺島は久坂と行動を同じくして、尊王攘夷運動に身を投じるのですが、既にこの段階より両者の関係の素地は十二分に出来上がっていたのでしょう。
久坂玄瑞を兄のように慕う様子であった寺島の姿を見ても分かるように、
久坂という人物は周囲の者が一緒に付いていきたいと思うくらい、
容姿挙措(きょそ)が優れており、まさに男が男に惚れるという言葉がありますが、
その最右翼的な存在が寺島忠三郎であったといえます。


※ 挙措とは、立ち居振る舞いのこと。

◆ 寺島忠三郎誕生の地
周防国熊毛郡原村生まれ・・・現在は周南市大字原(西原)
d0061579_11144135.jpg


顕彰碑と辞世の碑

d0061579_11173280.jpg

漢詩が読めない人のために、親切に説明版があります。
d0061579_11205815.jpg















★ 次回は旧山陽道沿いの名所旧跡をご紹介致します。
[PR]
by kfujiken2 | 2015-07-20 11:30 | 歴史 | Comments(0)
観光で行っても広いので、ゆっくり隅々まて観て歩かない、又京都に住んでおられる人でも、興味が無かったら詳しくご存知ではないかと思います。

「京都御苑」は、京都市の中心部に位置し、東西南北を寺町通・烏丸通・丸太町通・
今出川通に区切られた区域で、京都御所、仙洞御所を囲む面積約65haの公園で、
東西700m南北1300mにおよぶ広大な敷地を「京都御所」と一般には言われて
いますが、正しくは京都御苑と言います。江戸時代には二百もの宮家や公家の邸宅が
立ち並ぶ町でした。明治になって都が東京に移り、これら邸宅は取り除かれ、
公園として整備され市民へ開放されました。戦後は国民公園として位置づけられ、
御所と一体となった景観を維持しつつ、散策や休養等の場として親しまれています。
現在苑内には百年を越える樹林が育ち、旧公家屋敷跡や庭園等歴史的遺構が点在し、
古都の中心で特別な空間となっています。


昔の「京都御苑」のイラストです。
d0061579_9274177.jpg


現在の「京都御苑」の略図です。
d0061579_9294684.jpg


「京都御所」は京都御苑の北西寄り、築地塀と清流の溝にで囲まれた
面積約11万平方メートルの区域が京都御所である。御所の敷地は東西約250メートル、
南北約450メートルの南北に長い長方形で、そこにはかつての内裏に属していた
多くの建物と庭園が残っている。
京都御所は京都御苑内にある以前の天皇の住まいであった皇居(禁裏)があった場所です。


幕末の「京都御所」の周辺図です。
d0061579_9371174.jpg


現在の「京都御所」の略図です。
d0061579_939335.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2015-07-15 09:43 | 風景 | Comments(0)
中国経済が崩壊したら、ギリシャどころの騒ぎじゃなくなるだろ。

この中国株バブルの崩壊の端を発したのは、中国の不動産バブルの崩壊なんです。
日本でもたびたび報道されているが、高級マンションをはじめとする
ゴーストタウンが中国のあちこちに出現している。
また、マンション等の空き室が今では1億戸に上るとも言われる。
これで不動産の値崩れが起こらないほうが不思議です。


d0061579_8384213.jpg

d0061579_8473114.jpg


投資家が値崩れの止まらない不動産に見切りをつけて、株への投資を始めたのだろう。
マンション建設や石炭発掘に回っているはずの年利のよい「理財商品」
(ハイリスク・ハイリターンの投機品)がしばしば償還されないため、投資家は
もっと安全な投資としての株へ走ったと思われる。その結果、景気が減速しているのに、
上海総合指数は株高になるという現象が起きた。

その中国株が暴落しています。突然の大暴落となっています。
その落ち込みですが、過去最大級と言えるくらいの大幅な落ち込みとなっています。
半数ほどの銘柄が売買停止となる異常事態が派生しました。
7月8日の取引所では約1300社の企業が売買停止。
全上場企業2808社のうち約45%が売買できない状況となっています。
7月に入ってからの急降下っぷりは異常の一言です。
ギリシャに目を奪われていましたが、いろいろな国が経済危機に陥っています。
その中でも中国はとても危険な状態にあります。


暴落の原因が何なのか考えてみましょう・・・

真っ先に挙げられるのが「中国経済の低迷」です。
中国といえばバブル状態で、GDPはグングン伸びているイメージがあったと思います。
しかしここ数年の中国はGDPの上昇率も鈍化しています。2010年以降は
成長率に陰りが見え、そろそろ危ないのではと囁かれるようになりました。
そこで中国政府はせめて株価だけでも上げよう」と動き出しました。

d0061579_8494067.jpg


2014年11月以降、中国では市中銀行に求める預金準備率の引き下げや
基準金利下げなど、景気刺激策を立て続けに実施しました。
これによって株価は上昇してきました。
ですが、実体経済と離れた株価上昇は長続きしないのです。
中国の株式市場は、個人投資家の投資割合が圧倒的に多いです。
実はこの理由が最大の暴落の原因といえます。
この個人投資家たちが中国の株式市場を支えています。
個人投資家は個人なので、自分のお金を使って株を購入しています。
自分のお金といっても市中銀行の基準金利下げの融資を受け、
借金して株を購入しています。そういった状況の中で、
あるきっかけで株価が下がります。ギリシャの問題がこれに拍車をかけました。
そうなってしまうと個人投資家たちは「自分のお金だから絶対に損したくない」と
一斉に売りに出します。借金して投資している人も多いので、
急落時には売りたくなくても強制決済になってしまいます。
売りが売りを呼ぶ展開というわけですね。こういった人たちが
一斉に売りに出したために中国株は大暴落しています。

[PR]
by kfujiken2 | 2015-07-11 08:52 | コラム | Comments(0)
EUがギリシャに「8日までに改革案を提出」を求めたがが・・・

EUには残るが、公的債務の返済負担の3割軽減を要求するほか、
2年間の新たな金融支援を求めるでは、答えにならない。 (´∩`。)グスン
 
ギリシャの公的債務の合計は、3130億ユーロ(約43兆8000億円)。
その内訳の一部は最大の債権者の欧州金融安定ファシリティー(EFSF)は
1309億ユーロ、国際通貨基金(IMF)は約200億ユーロ、
欧州中央銀行(ECB)約\35億ユーロ、ユーロ圏諸国は529億ユーロ等です。


d0061579_16182087.jpg

d0061579_16184532.jpg

EU(欧州連合加盟国)です

ギリシャの「ユーロ脱退」が信憑性を持って語られ始めているが、
果たして、ギリシャはユーロから脱退するのだろうか。
「ユーロ」はEU(欧州連合)の経済通貨同盟で用いられている単一通貨だ。
適用除外となっている英国とデンマークを除き、EU加盟国では、
すべての国にこの通貨の導入が義務付けられている。EUに加盟しなくとも、
ユーロだけを導入することもできる。現在、23カ国に導入されており、
このうち17カ国がEU加盟国だ。

では、ギリシャはこれから離脱できるのかと言えば、実はユーロには離脱規定がない。
しかし、離脱できないわけではない。ギリシャがEUを脱退することで、
ユーロからの離脱は可能になる。だが、結論から言えば、ギリシャがユーロ=EUから
離脱する可能性はほぼゼロに近いだろう。その理由をいくつか挙げてみよう。


まず、ユーロから離脱するということは、ギリシャは新通貨に切り替えることになる。
そもそもギリシャ経済に対して信頼性が低いため、新通貨の価値は非常に低いものとなる。現在、ギリシャ国民はユーロで預金を行っているわけで、そのユーロが紙くず同然と
なるかもしれない新通貨に切り替わることを望まない。当然、預金を引き出し、
ドルや円、あるいは金などに避難させようとするだろう。


これに対して、ギリシャ政府は預金凍結措置を取るだろうが、それ以前に、
例えばユーロ離脱の話が真実味を帯びた時点で、パニック的な預金解約が発生する。
ギリシャ全土の銀行で"取り付け騒ぎ"が起き、銀行が破綻し、ギリシャ経済も完全に
破綻する可能性がある。これは、決して悪夢ではない。


d0061579_16235594.jpg


日本が戦後に実施した預金封鎖と新円切替の二の舞になる!!!

詳しい事は 【赤字国債が1000兆円以上・・・あなたならどうする???】  をご覧下さい。


仮に、離脱がうまくいったとしても、新たな通貨(例えば、新ドラクマ)の価値は
大きく毀損するだろう。それまで、1ユーロで買えた卵が、5億新ドラクマでも
購入できないようなハイパーインフレが発生する可能性がある。

[PR]
by kfujiken2 | 2015-07-08 16:32 | 未分類 | Comments(0)
「ロコモティブシンドローム(運動器症候群)=ロコモ」の原因とその対策
d0061579_8552877.jpg


d0061579_8562331.jpg

① 「ロコモティブシンドローム」とは、脚を中心とした運動器の障害のことです。
私たちのからだは、骨や関節・筋肉などが連携することではじめて動かすことができます。
このからだの動きに関わる部分を総称して運動器(ロコモティブ)といいます。
運動器が衰え、暮らしの中の自立度が低下してしまう状態が「ロコモティブシンドローム
(運動器症候群)=ロコモ」です。この状態が進行すると、近い将来、要介護や寝たきりになる
可能性が高くなってしまいます。


◆ ロコモのサインは、まず「脚」に表れます。
運動器の衰えは、つまずく・ひざが痛いなど、脚の筋力低下や関節の痛みから始まります。
そうなった時には、下のグラフのように、年齢とともに歩行速度もどんどん遅くなってしまいます。
この状態になると、ロコモの進行に拍車がかかる心配が…。


d0061579_9104016.jpg


d0061579_8584224.jpg

② ロコモが進むと全身の臓器にも影響が!?
ロコモティブシンドロームは脚の筋肉が鍵を握っていた。

脚を中心とした運動器の衰えにより、要介護のリスクが高い状態となる「ロコモティブシンド
ローム(運動器症候群)」。日頃からよく歩いて筋力維持を心がけるなど、ロコモ対策に
取り組んでいらっしゃる方も多いと思います。一方、年齢による脚の筋肉の衰えは、
歩行機能を低下させるだけでなく、実は全身の健康にも大きく影響を及ぼすことが
わかってきました。


◆ 下半身の筋肉は “第2の心臓”
衰えると全身の健康にも悪影響が!?

年齢とともに脚の筋肉は衰えてしまいます。そこで見逃せないのが、下半身の筋肉は
“第2の心臓”といわれるほど、心臓と密接に関係している点です。通常は歩くことで下半身の
筋肉が絞られ、血液が心臓に戻ります。しかし、歩かなくなり下半身の筋肉が十分に
働かないと、血液が心臓に戻りにくくなり、心臓の働きが低下します。
その結果、血流が全身に行きわたらず、さまざまな臓器にも影響が出てしまうのです。


d0061579_972253.jpg

③ ロコモティブシンドロームの対策は!?
歩行に必要な脚力を取り戻すには、日頃の運動と食生活が大切です。

筋肉は中年以降衰えても、使い始めれば、ある程度取り戻すことができます。
そのためには、足腰を少しずつ強化する運動を毎日行い、筋肉・軟骨・骨をつくる栄養素を
積極的に摂ることが不可欠です。
日頃からのこまめな “運動” で、今からでも筋肉は取り戻せる!
筋肉は使わないと減少してしまう反面、使い始めれば何歳からでも筋力を取り戻せることを
ご存じですか?このことは、多くの研究結果からも実証されています。そこで重要になるのが、
筋肉を作る日々の“運動”です。普段からこまめに体を動かすことが、ロコモ対策につながります。体の使い方をちょっと工夫するだけでも筋肉は作れます。
運動することで筋肉をしっかりと作っていくことが大切です。とはいえ、おおげさな運動は
大変。そこで、ポイントはこまめに動くことです。テレビを見ながら体を動かす、
こまめに掃除をする、エスカレーターよりも階段を使う…など。
こうしたちょっとした運動は思っている以上に有効です。
歩いているときには、最大で体重の1.5倍、ジョギングだと約2倍の負担がかかることも。
姿勢や歩き方を正すと、より効果が期待できます。
毎日の生活の中で体の使い方を少し意識して、脚の筋肉を維持しましょう。


◆ 日々の ”食事” のちょっとした工夫が、これからの大切な脚の筋肉を作る!
脚の筋肉のために、積極的に摂りたい栄養素がタンパク質です。
しかし、日本人のタンパク質の摂取量は年々減少傾向に。だからこそ、普段から意識して
良質なタンパク源といわれる魚や肉を摂ることがとても大切です。普段の食事内容を少し
見つめ直すだけでも、脚の筋肉は変わっていきます。


◆ カツオや鶏胸肉など筋肉を作る食材を選びましょう。
私たちの筋肉を作っているのは、食事で摂った栄養素です。
筋肉を作る食材には、カツオやカジキ、マグロ、鶏胸肉などがあります。
そこで、たとえば白身魚をカツオへ、牛肉や豚肉を鶏胸肉に代えてみるだけでも、
筋肉を作る効果が変わってきます。これらを上手に食事に加えて積極的に摂ることが、
筋肉アップにつながるのです。
その理由は、筋肉成分「イミダゾールペプチド」が含まれているから。時速100kmもの
スピードで休みなく泳ぎ続けるカツオなどの回遊魚や、長時間飛び続ける渡り鳥の
運動パワーの源としても、このイミダゾールペプチドが深く関係しています。


◆ 筋肉を作る鍵、筋肉成分イミダゾールペプチドとは?
イミダゾールペプチドは運動すると、筋肉から血中に分泌され、
自律神経に働きかけて血流を増加。そして、酸素や栄養素の供給を高め、
エネルギーを作る働きを活発にします。しかし、この成分は加齢により減少してしまうため、
筋肉の衰え予防のためにも日頃から意識して補うことが大切です。


d0061579_9325421.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2015-07-05 09:34 | 未分類 | Comments(0)
ブログトップ