長州より発信

kfujiken2.exblog.jp

山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

<   2015年 09月 ( 5 )   > この月の画像一覧

最初に腰部脊柱管狭窄症 (ようぶせきちゅうかんきょうさくしょう)について説明しましょう!!!

① 脊柱管とは何ですか?

背骨に囲まれた管状の空間のこと。背骨は椎骨という骨が積み重なってできています。
椎骨は椎体と椎弓からなり、その間にある空間(椎孔)が積み重なってできるのが
脊柱管です。脊柱管の中には神経が入っている硬膜というふくろがあります。
頚椎部と胸椎部の神経は脳から続く実質性の脊髄であり、腰椎部の神経は
馬尾(ばび)と呼ぶ繊維性の神経束や血管が通っています。脊柱管はそれらの
神経を守る役割があります。神経は脊柱管の中で枝分かれして体の各部へと
伸びていきます。

d0061579_100106.jpg


② 腰部脊柱管狭窄症は,なぜ起こるのですか?

脊柱管を取り囲む椎体や椎弓の変性や靭帯(じんたい)の肥厚、椎間板の変性に
よる膨隆、突出、つまり、脊柱管を構成する組織の変形により脊柱管が狭くなった
ために、脊柱管の中を通っている神経や枝分かれする神経と、神経に伴走する
血管が圧迫されることで、神経が障害され、症状として腰痛や下肢のしびれなど、
さまざまな不具合が起こります。

d0061579_1012579.jpg


③ どんな症状があるのですか?

特徴的な症状は「間欠性跛行(かんけつせいはこう)」です。間欠性跛行とは、
歩き始めはとくに症状が強いわけではないのですが、しばらく歩くと脚が痛くなったり、
しびれたり、こわばったりして歩くことができなくなる状態を指します。
しゃがんだり座ったりすると症状はすぐになくなり、また歩いたり立ったり
できるのが特徴です。これは立つことで構造上、脊柱管がいっそう狭くなり
神経を圧迫するためで、体が前かがみになる


「圧痛点」や「特効ツボ」に貼ったら押圧・温熱・電気刺激の三大作用で関節・神経の痛みが改善できる、身体の「特効ツボ」の名称・場所について説明しましょう


◆ 腎兪(じんゆ)


腎兪は特に腰痛の時に大切なツボと言えます。
解剖学的には、腰の筋肉や関節などに関係があるので、腰痛の時は使用したい
ツボですが、そればかりでなく、元気の源にも関係すると言われています。
おへその真裏の命門から左右へ指2本分離れたところにあります。

d0061579_1075127.jpg


◆ 志室(ししつ)

場所:第2腰椎と第3腰椎の間から左右へ4横指の所にあるツボになります。
ウエストの一番細いラインの上で、 脊柱の左右両側、約6cm外にあります。
背骨から左右に指4本分離れたウェストライン上にあります。
腎兪からさらに外側に行ったところにあるツボです。

d0061579_10142419.jpg


◆ 大腸兪(だいちょうゆ)

大腸兪は、大腸に関係する時に使われるツボでもありますが、腰からは、
足の方に行く神経が出ているため、下肢に痛みがある方、座骨神経痛を
抱えている方にも効果的なツボです。
場所:腰の4番目の骨(第4腰椎)と、5番目の骨(第5腰椎)の間から指2本外側

d0061579_10172179.jpg


◆ 委中(いちゅう)

場所は膝の裏で、横すじの真ん中にあります。腰が痛い人はここがパンパンに
張って固くなっていることが多いので、押すとかなり強い痛みがあるようです。
委中は簡単に言ってしまえば腰痛にはこのツボを使えというように、
特効穴として知られています。

d0061579_1019308.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2015-09-28 10:42 | 未分類 | Comments(0)
明治維新とは、江戸幕藩体制を崩壊させ,中央集権統一国家の建設と日本資本主義
形成の起点となった政治的・社会的変革の過程。始期あるいは終期をめぐって諸説が
あるが,開始時期は狭義では,1866年の薩長連合に始まり,(明治1年、1867年)の
大政奉還・王政復古宣言を指し、
終了時期についても、(明治2年、1868年)の戊辰戦争を経て廃藩置県の
断行(明治4年、1872年)などを経て西南戦争までをいうことが多く、
明治政府の成立に至る政権交代とそれに起因する諸政治改革をいう。


新政府が行った急進的な近代化政策は、財源確保のため地租の改正が行われ、
富国強兵をめざす殖産工業政策のために官営工場を設け、郵便制度・官営鉄道・
新貨幣制度など西洋の諸制度が導入された。
西洋の近代思想や生活様式も伝えられて、封建的な身分制度を撤廃する
四民平等が唱えられ、暦法や学制にも欧化の政策が進められた。
農民一揆が多発し士族や農民は不満を招いた。
中でも特にドラスティックな改革となったのが、廃藩置県だった。
華族と士族には政府から家禄が与えられ、明治9年の秩禄処分まで支給された。
同年、廃刀令が出され、これにより士族の特権はなくなり、のちの不平士族の反乱
(佐賀の乱、萩の乱、秋月の乱、神風連の乱)につながる。
しかしこれらの反乱はいずれもほどなくして鎮圧され、1877年に維新の元勲の一人で
ある西郷隆盛が率いた最大の士族反乱であった西南戦争が鎮圧されると、
士族による反乱は後を絶った。


新政府が行った3つのポイントとなる近代化政策を説明しましょう!!!

◆ 大政奉還
徳川一五代将軍慶喜が征夷大将軍の職を辞し,政権を朝廷に返上することを申し出,
翌日朝廷がそれを許可したこと。
徳川将軍は日本の統治者として君臨していたが、形式的には朝廷より将軍宣下があり、
幕府が政治の大権を天皇から預かっているという大政委任論も広く受け入れられていた。


d0061579_16505666.jpg


◆ 版籍奉還

明治維新後も存続した諸藩主が土地 (版) と人民 (籍) に対する支配権を朝廷に
返還したこと。
薩摩・長州・土佐・佐賀の四藩主が連著して版籍奉還する建白書を新政府に提出した。

 ★ 藩主 → 知藩事(横滑り)
独立の大名家から、政府の役人に変更


d0061579_1655472.jpg


◆ 廃藩置県

封建割拠の基となる藩を廃し,府県に改めることにより,封建制度が廃止され,
日本が近代的集権国家体制となったこと。
各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たった。
最初は3府302県ありましたが、1871年の末までに統廃合を行い、
3府72県に減っています。
面白いことは新政府に抵抗した藩は県名として残らなかったために
県名と県庁所在地名が一致していないのです。

★ 知藩事 → 知事(中央政府からの任命)


d0061579_16572813.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2015-09-21 16:58 | 歴史 | Comments(0)
昨日放映されたNHK広島製作の「届かなかった声~資料が語る“海の特攻”の真実」は、最近希に出会った秀逸な番組だった。

終戦70年の今年、瀬戸内海で開発や訓練が行われた“海の特攻”の実態に迫る
貴重な資料が見つかった。改造した魚雷に人が乗り込み敵艦に体当たりする
人間魚雷「回天」、人間機雷と呼ばれた潜水具を身にまとった兵士が竹竿の先に
括りつけた爆弾で敵艦に自爆攻撃を行う「伏龍」。
どちらも大きな欠陥がありました。「回天」は、行き先をコントロールする
ハンドルが効かないのです。そして「伏龍」は海底で岩などに当たった時、
海水が化学反応をして、毒ガスを吸い込んだようになって死んでしまうという
ものです。致命的な欠陥があることが分かりながら、作戦が続けられていた
事実が明らかになった。


「回天」

一人では乗りこなせない欠陥兵器。また後進・停止が出来ない最悪な兵器。
回天のハッチは、「閉められると内からは絶対に開かない」よく聞く言葉である。
事実は正反対なのである。
回天には、外から締める「ボルト」も「盲蓋」なるものも、全く存在しないのである。
回天の上下二カ所にある出入口「ハッチ」の蓋は開閉ハンドルが、
いずれも艇の内側だけについている。
ただ、ハッチ口の後ろに立ててあるハッチ蓋は、鋼製なので重い。
開けるときは、乗員1人がハッチを開けてなければならない。
海底に潜っている場合は、強い水圧がハッチ蓋にかかるので、
そのままでは開けにくい。
また 突発の事故があり脱出しようとしても、回天が水没してしまう!!!
つまり、ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、
一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。
よって回天は「外から閉じ込められる」「中からは開けられない」と言われているが、
誤認、歪曲である。


d0061579_13181181.jpg


「伏龍(ふくりゅう)」

いくら追い詰められていたと言っても、子供騙しのおもちゃの様な、
余りにも無茶苦茶な「兵器」で、海軍ともあろうものがよくあんなデタラメなものを
正式に採用したものだと思います。

「人間機雷」と称される特別攻撃隊(特攻隊)の人間兵器。
空気ボンベを装着した潜水服を着用し、水中から棒の先につけた機雷で敵船を突く
特攻部隊。

B-29が投下した磁気機雷を掃海するために開発されていた簡易潜水具を、
攻撃兵器に転用したもので、実験は横須賀防備戦隊で行われた。


d0061579_13234889.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2015-09-13 13:25 | 歴史 | Comments(0)
松下村塾の四天王のうち(久坂玄瑞・入江九一・吉田稔麿)が高杉晋作の一人だけを
残して亡くなり、優秀な多くの塾生や若い毛利藩士を亡くし、これからの毛利藩を
中枢で軍事を取り仕切る人物が居なくなった時、長州出身の有為な人材の存在を知り、
1860年に長州藩に召抱えられ長州藩士となった、大村益次郎がもっと早く
表舞台に登用されていたら
、池田屋事件で吉田稔麿を死なすこともく、
禁門の変で積極策を退け、慎重な姿勢を取り久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎らを
戦死されることは無かったのではないでしょうか?


d0061579_13102138.jpg

d0061579_13112823.jpg




























◆ 大村益次郎の生涯について簡単に説明しましょう・・・

大村益次郎は、文政7年(1824年)に長州藩周防国鋳銭司村で村医者の
長男として生まれる。家業を継ぐ為天保13年(1842年)にシーボルトの
弟子だった梅田幽斎の門下生となり、蘭学・医学を学ぶ。
次いで天保14年(1843年)には儒学者の広瀬淡窓に学ぶ。
弘化3年(1846年)には大阪で緒方洪庵の適塾に入門、成績はきわめて優秀で塾頭となる。


d0061579_1318324.jpg

d0061579_13192427.jpg
d0061579_1322060.jpg





























二七歳になって郷里に帰り医者を開業したところ、一向に流行らない。
長州藩もこの英才に気付かず、一村医者としての不遇な生活を送ること三年、
その才能を活用しようという人が現れた。宇和島藩主伊達宗城である。
伊達宗城は高野長英が去ってから、これに代わる洋学者を求めていたところ、
緒方洪庵の推薦により彼を招聘することにした。
大村益次郎は伊予宇和島藩に召抱えられ、月に米六俵扶持(知行百石に相当する)を
賜わり、村田蔵六と改名、郷里から妻を呼び寄せて日々を送るようになった。

d0061579_1326534.jpg
鋳銭司郷土館
d0061579_13274828.jpg














当時のオランダ語の本だそうです












兵書の翻訳・研究や、軍艦設計等にその才能を遺憾なく発揮した。
宇和島に在住すること二年余。更に研究を伸ばすために、江戸に上ることを請い、
許されて伊達宗城の参勤交代の一行に加わって宇和島の地を去ったのであるが、
宇和島に来た時は振分け荷物の貧書生、去るときは供廻りの若党と両掛狭箱を
担いだ仲間を引き連れてであった。その栄達が話題になったという。
江戸に出ると、その深い造詣はたちまち世に知られ、「宇和島藩に村田蔵六あり」の
評判高く、徳川幕府の蕃書調所(洋学研究所)の助教授、ついで講武所の砲術教授を、
宇和島藩士の身分のままで兼ねることになった。


★ 桂小五郎に見出された大村益次郎

安政6年(1859年)の10月29日、場所は小塚原の刑場。偶然この2日前、
伝馬町の獄舎に投獄されていた吉田松陰が斬首されておりました。
その遺骸をもらい受けるため、長州藩の桂小五郎と伊藤博文はこの小塚原の
刑場に来ていました。その帰りに桂小五郎はこの場所で死囚の解剖をしている村田蔵六を見かけます。あの人はどなたです、と人に聞くと、「蕃書調所の村田蔵六先生です」
といわれて、同郷の蘭学医を思い出すのでした。桂小五郎が、のちの倒幕軍の総司令官、わが国近代兵制の創始者となった大村益次郎こと村田蔵六を見出したのは、
じつにこの時期、この小塚原の刑場だったのです。
宇和島藩へ移籍方の頼み込みがきた。たまたま時の藩主伊達宗徳の先夫人が毛利家の
出という親類関係もあるので、無下にも断り切れず、これからも宇和島藩の仕事を
手伝うという条件で、長州藩へ移籍させた。彼の宇和島藩在籍は約七年間であった。

※ 蕃書調所( ばんしょしらべしょ)・・・1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。開成所の前身で東京大学の源流諸機関の一つ。

兵学に携わり、頭の良かった大村益次郎は兵学の講義だけでなく、
高杉晋作の依頼を受けての軍事改革や兵の指導をし、やがては実際の
戦場にも出陣していく事になります。
奇兵隊の生みの親が高杉晋作なら、大村益次郎は育ての親と呼べるかも
しれません!!!


第二次長州征伐の際、長州藩参謀として幕軍に恐れをいだかせ、
明治元(一八六八)年~明治二年の戊辰戦争には東征軍参謀として
その優れた軍略を発揮した。明治政府においては兵部大輔となり、
軍事を士族の独占から国民全体の手に移して、近代軍制を確立する
ために努力したが、道半ばにして保守反動派士族の凶刃に倒れた。


d0061579_13483366.jpg
d0061579_1349784.jpg
d0061579_13492827.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2015-09-09 13:51 | 歴史 | Comments(0)
薩摩藩と長州藩は、京都を中心とする幕末の政治世界において雄藩として
大きな影響力を持ったが、薩摩藩が、公武合体の立場から幕府の開国路線を
支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な破約攘夷論を奉じて
反幕的姿勢を強めるなど、両者は容易に相いれない立場にあった。
薩摩藩は、会津藩と協力し長州藩勢力を京都政界から追放し(八月十八日の政変)、
翌元治元年(1864年)7月19日には上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え
敗走させる(禁門の変)に至り、両者の敵対関係は決定的となった。
禁門の変の結果朝敵となった長州藩は幕府から第一次長州征討を受けるなど、
非常な窮地に陥ることとなった。一方で薩摩藩も自藩の主張する幕政改革の
展望を開くことができず、大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が
高まっていくこととなった。


◆ 薩摩藩の背景


当時薩摩藩は、琉球藩との密貿易や薩英戦争後に仲良くなったイギリスとの
つながりによって財政が潤っており、力が弱まっていた幕府からすると
その影響力は脅威そのものでした。
薩摩は、勤皇に偏る必要もなければ、公武合体でなければならない理由もなかった。
幕府から長州討伐という名目で薩摩藩に長州藩を攻めるよう仕向けたのですが、
長州藩と戦争を行えば、たくさんの犠牲やお金がかかって国力が衰えるのは目に
見えています。いくら国力があったとはいえ、薩摩藩だけで倒幕を進めるような
感じでもない。薩摩藩はそのような状況下にありました。


◆ 長州藩の背景

一方で長州藩は、藩の存続に関わる状況にありました。
長州藩は追い詰められていた。桂小五郎一派も藩内からの突き上げがあった。
薩摩からの援助がなければ、もう死を覚悟するしかない。そんな状況であった。
一藩のみで禁門の変・四国連合艦隊砲撃事件(馬関戦争)・第一次長州征伐・
大田・絵堂村の戦いをやり武器がなかった。
その上、朝敵とされたために武器の購入を禁止されていました。
そのために戦う武器すら手にいれることができませんでした。
当時武器を買うためには幕府の許しを得る必要がありました。
長州藩には、撫育方(ぶいくがた)と呼ばれる裏金作りの機関があり、
表高36万石に対して、実高は120万石以上の撫育資銀を持っていたといわれています。
つまり、お金は充分持っていたのです。

※ 120万石を現代の貨幣価値に換算すると・・・
お米1石=金1両 120万石=120万両となり、金1両の江戸時代の評価として
色々いわれていますが、単純に初期値を10万円にして計算しますと、
1,200,000 × 100,000 = 120,000,000,000
1、200億円ということになります。


d0061579_9243858.jpg


慶応2年(1866)年1月20日、薩摩藩と長州藩との間で「薩長同盟」が締結される。
場所は、京都新町にある近衛邸。この近衛邸のなかに小松帯刀の屋敷があった。
密約は、この小松邸で話され、薩摩と長州の双方が合意するにいたる。
出席者は総勢11名。立会人として土佐から3名、長州と薩摩からは各4名だった。


土佐からは、坂本龍馬、寺内信左衛門(新宮馬之助)、池内蔵太。
薩摩から、小松帯刀、西郷隆盛、吉井友実、中村半次郎(桐野利秋)の4名。
長州から、桂小五郎、三好軍太郎、早川渡、そして品川弥次郎の4名。


薩摩はどうして長州と手を結んだのだろうか?有力な二人からの働きかけがあったことだ。
一人は、勝海舟。勝は、西郷に以前「幕府では政治の舵取りはできない」と明言しているし、
その立場を持ち続けていた。龍馬も一心同体である。それと、もう一人が英国公使パークス。
生麦事件がきっかけで薩英戦争がおき、薩摩は敗北した。
しかし、この戦いで、英国は薩摩の力に驚いたという。英国と薩摩は、
この戦いで急接近する。そして、英国としては幕府よりも薩摩が政治をおさまめる
ことを提案したと考えられるのだ。
英国説は、根拠がある。薩長同盟が締結された後、英国公使パークスは薩摩に出向いた。
薩摩は、パークス一行を歓迎したことが伝えれれている。つい3年前、錦江湾で戦争を
した相手国。薩摩も、単純な攘夷がいかに意味がないかを思い知ったということだろう。
そして、英国の最新技術や科学の必要性に気づいたのだ。


d0061579_930464.jpg

『薩長同盟盟約覚書』 表面:桂小五郎筆  裏面(朱墨):坂本龍馬筆

正式に文書を取り交わした盟約ではなかったため、
長州藩側の代表であった桂小五郎は、同盟締結後、その内容を六箇条にしてまとめ、
薩長同盟締結の場に立ち会ったとされる土佐脱藩浪士の坂本龍馬に、
その内容の最終確認を求めました。
つまり、桂は坂本に対し、今回の同盟の内容の確認とその保証を求めたのです。
坂本龍馬はその内容を確認し、書簡の裏側に朱書きで、
「毛も相違これ無く候(この内容で間違いありません)」と書いて、桂に送り返しました。
坂本龍馬は薩長同盟の保証人とも呼べる存在であったと言えるでしょう。

[PR]
by kfujiken2 | 2015-09-04 09:33 | 歴史 | Comments(0)
ブログトップ