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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

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一昨日好天に誘われて、光市・浅江神社のシャクナゲ苑と冠山総合公園のぼたん園を
花めぐりして来ました。


浅江神社の北側に駐車場があるため、丘の斜面に広がるシャクナゲ苑から登りました。
約45種、850本余りのシャクナゲがあると言われていますが、そんなに数があるかなぁ~
満開の時期は終わってしまったらしく大輪の美しい花は、残念ながら落下しています。

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冠山総合公園は梅園で有名ですが、他にも薔薇、牡丹、菖蒲と四季折々に楽しませてくれる
花々が咲きます。4月15日~4月30日までの期間、百花の王と言われるぼたん祭が開催されます。


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冠山総合公園のぼたん園はオオデマリが迎えてくれます。
「オオデマリ」と「スノーボール・テマリカンボク」はよく似た花で、私には区別がつきかねますが、
見分けるコツは、葉の形だそうです。オオデマリは丸い葉ですが、テマリカンボクは葉に深い切れ込みが
あります。画像をよく見ますと丸い葉なので、オオデマリではないかと思います。


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ぼたんの黄色とバラの青色を創り出すことが難しかったようですが、
島根県の大根島で長年の研究で、交配に交配を重ね「ぼたんの黄色」を創り出したと聞いています。
又、バラの青色は何年前だったか、完全な青ではないがソニーが創ったと聞きました。


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by kfujiken2 | 2017-04-30 16:57 | | Comments(0)
三田尻は江戸、京都、大阪、長崎に並ぶ西洋医学の先進地と言われている。三田尻には能美洞庵、佐伯玄厚、南部伯民、 荒瀬桑陽など多くの蘭学の大家がいました。

梅田幽斎は文化六年(1809)江戸で生まれ、坪井信道のもとで蘭方医学を学び、
宍戸丹後の臣下の医家として、三十四歳の時に三田尻新道に開業、同時に塾を開きました。
塾の名前は盥流亭(かんりゅうてい)、沈流亭と称していました。梅田幽斎は学識も相当あり、又、才気煥発の人であったので大いに流行し、教えを請う者も多かった。
梅田幽斎は江戸、三田尻を往来し知識を広め、 長崎にも行き、当時多くの人々が死亡、恐れられていた伝染病の天然痘を予防できる種痘の方法を学び、 蘭書モヨールを翻訳し「牛痘徴候論」として広め、長州藩が実施する前に三田尻でいち早く種痘を実施しましたが、藩により差し止められた。
文久元年四月、三田尻の医師・秋本岱寿の息子の秋本里美とともに医学館好生堂御用達を命じられ、藩の蘭学教授にあたった。
文久三年には銅山試験用掛・今津太郎を手伝うなど長州の医学者、科学者として活躍しましたが、 明治初年に阿東町での鉱山事業に失敗、明治三年七月八日、失意のうちに教え子の医師の山根秀策宅(宮市)で亡くなりました。享年六十二歳、光妙寺に墓があります。
もう少し長生きをしていたら、大村益次郎の師として尊敬されたでしょう。


光妙寺 山口県防府市東三田尻1-8-18
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梅田幽斎の墓

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村田蔵六、のちの大村益次郎は、天保十三年、 十八歳の時に鋳銭司から二里を歩いて1年間通塾し、蘭学の初歩ぐらいはひと通りできるようになった。
しかし、梅田幽斎は、医学、蘭学の大成には、さらに漢学の深い素養が必要であるとして、益次郎を、豊後国日田(現・大分県日田市)の広瀬淡窓(ひろせ たんそう)の塾・咸宜園(かんぎえん)に入門させたが、天保十四年一年後に梅田幽斎の塾に復学をし、更に大阪の適塾に入門しています。梅田幽斎は、弟子がある程度になると、更に上級の塾に入らしめ、更なる研鑽を積むよう勧めるのを常としていたようです。

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by kfujiken2 | 2017-04-26 10:43 | 歴史 | Comments(0)
薩摩藩のそうそうたる顔ぶれの藩士が写っています。
佐世保の鎮守府に勤めていた人が持っていたそうですが、人を介してお借りしました。
この写真が本物なのか、偽装されたものなのかは分かりません!!!
著作・発行者は名越佳次郎と記名があり、シールも貼ってあります。
下記でご紹介致します「フルベッキ群像写真」と撮影した人は別ですが、
幕末の志士で著名人を一堂に会して、撮影している点がよく類似しています。
「十六先生之肖像」とは、西南戦争の幹部を意味しているのでしょうか・・・
それならば敵の政府軍に所属したいた大久保利光が、写っているのが不自然だし、
単に薩摩藩の藩士を撮影したのか、理解し難い???


画像をクリックすると大きな画像になります。


写真に番号が記してあります。
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「十六先生之肖像」の番号が写真に記してあります。西郷隆盛はよくご存知と思いますので説明は省きますが、他の人を簡単に説明致します。

1・西郷隆盛
2・村田新八:1866年、長州藩の伊藤博文らとともに上海訪問。明治維新後も、岩倉使節団の一員として欧米視察。生来の器量とともに、豊富な海外視察経験により、西郷の腹心であった桐野利秋や篠原国幹をしのぐ評価を得ていた。
3・大久保利通:小松帯刀とともに、島津久光の側近として藩政改革を推進。明治維新後は、盟友だった西郷隆盛とは、征韓論で対立(明治6年)。西郷らを失脚させることで、初代内務卿に就任。結果的に政権内での実権を掌握することとなる。
4・篠原国幹:明治維新後の新政府では陸軍少将。征韓論で敗れた西郷が下野すると、篠原も職を捨て、後を追って鹿児島に帰った。
5・大山綱良:廃藩置県後、鹿児島県の大参事、権令(県令)となる。
6・永山盛弘:人柄温和にして義に富む。明治4年陸軍中佐、北海道屯田兵の長。
7・村田三介:西南戦争では小隊長として薩摩軍にくわわり、熊本県の植木での戦いで政府軍の乃木希典少佐の軍旗を奪ったという薩摩軍からしたら素晴らしい功績を残した。
8・辺見十郎太:維新後は鹿児島常備隊小隊長、近衛陸軍大尉となる。勇敢な薩軍の中でも特に抜群の武勇を誇り、仲間からの信頼も厚く、弾雨の中を先頭きって突撃する辺見を見てみな勇気づけられたという。
9・桐野利秋:維新前は中村半次郎を名乗っていた。西郷隆盛の右腕であり、護衛役でもあり人斬り半次郎と恐れられていた。
10・貴島清:若きより鎗術の名手として有名であったが、学問にも秀で、文武両道を兼ねていた。
11・山野田一輔:明治期の鹿児島県士族。近衛大隊副官に任命されたが西郷隆盛に従い辞任。西南戦争で戦死。示現流の遣い手だったそうです。
12・小松帯刀:薩摩藩の家老。島津久光の側近として藩政に進出。大久保利通らと藩政改革を推進。薩長同盟の土台づくり、イギリスとの友好に尽力など、その才能をいかんなく発揮。
13・高城十次:不詳
14・別府晋介:桐野利秋は従兄。征韓論の政争で敗れた西郷隆盛が下野すると、桐野利秋らとともに追随。陸軍少佐という職をなげうって鹿児島に帰る。その後、青年教育を目的とした「私学校」創立に、西郷や桐野らとともに尽力。 負傷した西郷を介錯すると、自らも命を絶った。
15・永山盛武:永山盛弘の弟 西南戦争田原坂で政府軍を迎え撃ち、円台寺山で討ち死に。
16・児玉八之進:明治4年近衛砲兵少佐となるが6年辞任して帰郷。10年西南戦争に薩摩軍小隊長として従軍。熊本県八代に上陸した政府軍との戦闘で同年3月26日戦死した。


写真の裏に貼ってある名前のシールです。
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「フルベッキ群像写真」を知っていますか? 見たことありますか?

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「フルベッキ群像写真」というのは、オランダ出身でアメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師グイド・フルベッキとその子を囲み、佐賀藩が長崎にもうけた藩校・致遠館の生徒を写真家・上野彦馬のスタジオで撮影された西郷隆盛、 大久保利通、坂本龍馬、伊藤博文といった明治維新の功労者 46人が写っているという集合写真です。
いったい何時どこで撮られたものか、このメンバーが極秘裏に一堂に会することがあったのか。
写っている人物は、本当に「西郷隆盛」なのか、 「坂本龍馬」なのか、まったく謎だらけで歴史考証的には幾つかの疑問や謎がある写真である。


この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』(博文館)で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、
高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文を発表した(2年後の1976年にはこの論文の続編を同誌に発表)。島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。佐賀の学生達として紹介された理由は、「敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした。
この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていた。また、1985年(昭和60年)には自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという。また、2004年(平成16年)には、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。


2006年2月5日付の東京新聞に載ったフルベッキ写真の関連の記事
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by kfujiken2 | 2017-04-21 11:56 | 歴史 | Comments(0)
4月8日の早朝から霧雨が降る中を、昼近くになったら晴れることを期待して、
車で国道2号線を東に向かって走り、高森を過ぎ岩国に入ると前方に春霞(はるがすみ)がかかり、山あいは見えにくい状態でした。
桜見物が目的だが、見物客が多く駐車場の確保に苦労することを覚悟し、
毎年見ている花見より視点を変え、錦帯橋の展望に重点を置き歩きました。


画像をクリックすると大きな画像になります。

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吉香公園の堀に面して立つ錦雲閣は大変風情があり、まるで一幅の日本画を見るようです。

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岩国徴古館の前にあり、吉香公園の堀の土手に咲く古木の吉野桜です。

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対岸に遊覧船が浮かび、川面に桜が写る画像は絵になります。
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さて橋の裏面はどうなっているのでしょう!!! ここまで春霞が入り込んでいます。
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吉香 鵜の里(きっこう うのさと)は、3月30日に完成した錦帯橋のう飼で活躍する
『鵜』の新しい飼育施設です。
金網越しに鵜の様子やトレーニングなどを見学できる飼育スペースです。

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お食事タイムです。飼育者が口に魚を放り込んでいます。
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岩国を後にし、しだれ桜で有名な平生町の般若寺に行ってみました。
巨木ではありませんが見事なしだれ桜です。春霞に包まれている桜はどう表現したらいいのでしょう?

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仁王門の真ん中に夕陽の沈むお寺で有名らしいですが、霧にむせぶ仁王門は神秘的で崇高な感じがしました。
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終わりになりましたが、金剛力士像の阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)で閉じることに致します。
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by kfujiken2 | 2017-04-11 15:49 | 風景 | Comments(0)
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