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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

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前川の乱は、前文科省事務次官・前川喜平氏が「総理のご意向」などと書かれた文書は、私自らが、担当課から説明を受けた際に示されたと証言したことに端を発しますが・・・
この勇気ある告発は、官邸の謀略への反発だと推察します。


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天下り問題で、官邸のパフォーマンスに利用されたという思いがある。
つまり、前川前次官は悪の権化のように扱われ、自主退職を強要されたわけだ。
この程度のことで懲戒免職なんてことは絶対にないのが霞が関。自主退職させる
としても通常の人事異動の時期まで待つのが普通だそうです。
安倍政権の厳しい対応には、加計学園問題で官邸の意向に逆らった文科省への
見せしめ懲罰という側面があったことも確実だ。
文科省は、正論を貫こうとしたら、力ずくで抑え込まれたという被害者意識を持っている。
前川氏が、行政が歪められたという趣旨の発言をしたのはその証拠です。
文科省側に、強烈な反感が芽生えたとしてもおかしくない。
今回の前川氏の行動は、完全な個人の単独行動なのだろうか。
前川氏には省内に多くのシンパがいると言われる。当然退職後も部下たちから、
官邸に対する恨み節を聞いていたはずだ。
文科省という役所の行政が官邸の横やりで歪められ、強大な官庁と違い、
ひとり天下りで悪者扱いされた。このままでは、文科官僚の誇りも自信もズタズタにされたままだ。
加計学園問題が本当に政権を揺さぶる事態になるのかどうか。
その行方を占うカギは、文科省の現職官僚の中から「四十七士」が
登場するかどうかに掛かっている。


理解し難い問題が2つ・・・

◆ 菅官房長官は前川氏が文科省の天下り問題で引責辞任したことに触れ、「当初は地位に恋々としがみついていた」と述べた。

しかし、前川氏は文科省の違法な天下り問題を受けて「引責辞任は自分の考えで申し出た」、「官邸からも大臣からも『辞めろ』とは言われていない」と述べている。

前川氏に対する「個人攻撃」を繰り返し、同氏の証言の信ぴょう性を低下させる狙いがあるとみられる。


◆ 前川氏は「極めて薄弱な根拠で規制緩和が行われた。公平、公正であるべき行政の在り方がゆがめられた」と主張。自身については「非常に疑問を感じていたが、まっとうな行政に戻せず、結局押し切られた責任は大きい」と陳謝した。

それに対し、自民党の竹下亘国対委員長は記者団に、非常に疑問を感じていたならば「(前川氏は)現職の時に対応すればいいものを今になって何を言うのか」と不快感を示した。


時事通信社 特別解説委員・田崎史郎氏曰く、「3年前に、内閣に人事局が設置されて、総理と官房長官が、霞が関の局長以上の600人の人事権を握るという形になっている。
官僚たちは、人事権を握っている人になびくから、官邸の方を向いて仕事をせざるを得なくなっている。それが現実」と話している。
つまり、現職の時告発していたら、免職処分は必至だ!!!

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by kfujiken2 | 2017-05-31 12:44 | コラム | Comments(4)
今朝  YAHOO!ニュースの “さよなら「流木ゴジラ」自主撤去へ” の記事を読み、早速行って来ました。

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海岸近くの社会福祉法人に勤める重山さんが1カ月ほどかけて漂着した流木を拾い集め、組み立てた。
現在は未完成で、全身に木ぎれをはり付け、夏までに完成させる予定だった。漂着ゴミや流木が押し
寄せる海岸で、「若い人たちに海岸美化に関心を持ってもらおう」と制作を続けたそうです。
だが、5メートルもの高さがあるゴジラの存在に気づいた県周南港湾管理事務所が、
倒壊の危険性を指摘。
今月いっぱいで、撤去されることになったそうですが、正に流木アート、芸術ですよ!!!
県周南港湾管理事務所も何か工夫を施し、保存を考えたらどうかなぁ~


足元には木片で作られている文字は、「祈 東日本九州熊本復興」です。

側面です
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正面側からです
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正面のアップ画像です

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重山さんが流木アートを始めたのは2015年から。
昔から「白砂青松」で知られる虹ケ浜海岸だが、漂着ゴミや流木が押し寄せ、夏場はほぼ毎日、市の委託業者が機械で清掃している。若い人たちに海岸の美化について関心を持ってもらうにはと、思いついたのが流木アートだったそうです。

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by kfujiken2 | 2017-05-26 19:33 | 未分類 | Comments(2)
防府市を車で散策していると、聞き慣れない神社の小さな看板が目に留まりました。
車を止め読んでみると興味をそそられる内容ではないですか?
車道から神社は見えるのだが、入口が分からない!!!
暫く周囲をうろうろしていたら、住宅地の狭い路地道を見つけました。
そこを入っていくと参道がありました。土地の人でないと知らない道ですね~


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江戸時代の三田尻(防府)は、長州藩の要衝として重視されたことがうかがわれます。
当時の三田尻は、萩城から続く萩往還の終点として、又、瀬戸内海側における長州藩の
玄関口であった。江戸時代初期には、海路で参勤交代へ向かう出発地でもあった。
1654年(承応3年)に長州藩の第2代藩主・毛利綱広が萩往還を造った際に、
三田尻御茶屋を築造するなど、大いに栄えた。
しかし、後に参勤交代が海路から陸路に変更されるに及び、その役割は限定的なものと
なった。


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● 萩往還: 萩城下唐樋から三田尻御茶屋までの約53kmの街道で、 大名の参勤交代の道として整備され 、また日本海側と瀬戸内海側とを結ぶ道として、多くの人々に利用されました。
● 英雲荘 (三田尻御茶屋) : 藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩や宿泊等、また迎賓に使用されまし た。
● 三田尻御舟倉: 藩主の御座船や軍船が常置され、水軍の根拠地でした。

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大政奉還が行われたのと同じ日、朝廷から長州・薩摩藩に対して幕府を武力で倒すようにという討幕の密勅が出されていました。将軍が政権をみずから朝廷に返したことで政治の主導権を旧幕府側に奪われることをおそれた長州・薩摩両藩は王政復古を宣言し、反発にそなえて両藩の兵を京都に送ることにしました。
長州藩の諸隊は鞠生松原(まりふのまつばら)に集まり、八咫烏(やたがらす)を祀った
小烏神社(こからすじんじゃ)に毛利内匠藤内を総大将、楫取素彦を参謀、山田顕義を総指揮官とする長州軍1,200人が討幕の必勝を祈願した後、6隻の軍艦で小田港を出発して京都に向かいました。
この時に出発した諸隊は、翌年の1868年(明治元年)の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍と戦う時の主力となりました。


● 毛利内匠藤内(もうり たくみとうない): 長州藩一門家老である右田毛利家の12代当主・毛利親信

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このあたりは幕末には松林が続く海岸が広がっていましたが、今は埋め立てられ、
現在は○○松原と言うように松原の面影はありませんが、小烏神社の周辺に見られる
松の木が当時の名残りではないかと推測します。


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by kfujiken2 | 2017-05-20 11:10 | 歴史 | Comments(0)
文教の地・三田尻(現 防府)に、貞享3年(1686年)萩の明倫館ができる約30年前に河野養哲が三田尻に
越氏塾(えっしじゅく)を創設した。己の名利を捨て、人材教育にその生涯をかけた、まさに山口県教育の
原点とでも言うべきものである。養哲の死後、越氏塾は三田尻宰判の公費でまかなわれる学校となり、
その後数度の統廃合ののち、元治元年(1864年)には三田尻講習堂という塾名となった。
明治5年(1872年)建物はそのまま華浦小学校となった。楫取素彦(当時:小田村伊之助)は、
吉田松陰が処刑された翌年、万延元年(1860年)に越氏塾の塾長相当として派遣され、教鞭を執りました。
校内に残された碑には「越氏塾後に学習堂と曰い、講習堂と曰い、遂に華浦小学と曰う」と、
明治41年10月に男爵楫取素彦により設置された越氏塾沿革の碑に刻まれている 。


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大きい方の石碑は河野養哲碑
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小さい方の石碑は越氏塾沿革の碑
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河野養哲の説明を少ししましょう・・・

寛文元年(1661)三田尻の御舟手組の中船頭河野彦兵衛の二男として生まれ,、幼少の頃,父の同僚の家に
養子に入り、その家を継いだ。しかし成長するにつれて水軍の船頭という仕事に馴染むことができず
夜ひそかに書を読んで学問にはげんだ。彼の人生の最大の望みは子弟の教育にあたることにあった。
彼はついに自分の意にそわない船頭役をしりぞき,ついで養家からも去った。

浪人になった養哲は,暮らしをたてるために医業をいとなんだ。医者としての彼は,貧しい家に往診しても
一文の謝礼も受け取ろうとせず,一方,おごり富む家からいくら金を積まれても往診しようとはしなかった。
しかし,医業も彼を満足させるものではなかった。

25才頃,三田尻にかねてから念願の私塾を開いた。養哲の祖先は伊予水軍の越智氏の出であったので,
塾名を越氏塾と名付けた。塾には藩士の御舟手組の子弟や百姓の子弟が身分にかかわりなく同席して
学んだ。養哲はその収入の塾をひらくかたわら医者としても働き、その収入のすべてを塾の経営に
つぎ込んだ。

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by kfujiken2 | 2017-05-16 16:48 | 歴史 | Comments(0)
一昨日山口市仁保の「一貫野の藤」に行きました。
シーズン中は県内からだけでなく、県外からも多くの人が訪れ、
特にカメラマンの方にとっては絶好の撮影スポット。
おそらく人気の秘密は、藤の下を流れる水の流れを一緒に見れるからでしょう。
滝とまでは言えませんが渓流と藤・・・
このコラボは他に例えようのない美しさがあります。


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苦言を一言言わせて頂きますと・・・
藤は花後に実ができます。実を付けたままにしておくと栄養がそちらにとられて
木の生長が弱くなるので、枯れた花房や実をこまめに取らなければ駄目だそうです。

また、藤は剪定が必要らしいそうです。以前から毎年観に来ているので感じるのですが、
つるが伸びすぎて覆った感じになっています。地区民の人が管理・整備をされているんでしょうが、
川の上につるが伸び、建物2階くらいの高さがありので剪定は大変でしょうね!!! 

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天気が良すぎてハレーションを起こします、PL サーキュラーがあればいいのですが!!!
構図を下げ更にアンダー気味に撮影してみました。

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by kfujiken2 | 2017-05-13 09:04 | | Comments(0)
現在、趣味の地方史研究の一環で、「防長二州における医学教育」というテーマで色々調査・
撮影・ 編集を進めている最中なんですが、山口県の医学教育の中核的存在であった華浦病院・医学校跡を見つけ撮影して来ました。


山口県立華浦病院・医学校跡(松原児童公園)
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説明碑 の拡大です。
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華浦医学校の様子
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山口大学医学部の防長医学史からお借りして来ました「華浦医学校校舎・生徒写真」です。
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1874年(明治7年)、現在の防府市松原町・松原児童公園内に華浦医学校(かほいがっこう)と
華浦病院が設立されました。華浦医学校は医者を育てる場であり、県内でも最高の医学知識を身に付ける
ことができる研究の場でもありました。外国から人体模型や器械を輸入し、最新の書物が翻訳
されて提供されました。 一方、華浦病院では収入の低い人については治療費が無料になり、
看護してくれる人もつけてもらうことができました。また、病院長は山口県内の衛生面に関して
指導をする立場にありました。いかに、華浦医学校や華浦病院が、山口県の中で高い地位に
あったかがわかります。まさに病院として、そして学校として理想の姿だったのです。
しかし、運営するための資金が不足したことや学校に関する法律が改正されたことにより、
華浦病院は1877(明治10年)に、華浦医学校は1883年(明治16年)に廃止されました。
病院と医学校が置かれたのは短い期間でしたが、医学校で学んだ人々の中には、その後医者に
なった人や、県内の衛生状態が良くなるよう指導にあたった人もいます。卒業生のなかには、
日本で初めて体温計を作った柏木幸助[かしわぎこうすけ]もいます。


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by kfujiken2 | 2017-05-09 11:36 | 歴史 | Comments(0)
光市の山口県スポーツ交流村・スポーツジムで運動の帰りに、虹ヶ浜が大変賑やかそうなので
寄ってみました。GWということで人も多いが、なんと!鯉のぼりの団体さんです。
「虹の鯉のぼりプロジェクト」が開催されていたんです。


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東日本大震災を忘れない為、そして津波の犠牲となった子どもたちへの鎮魂の思いを込めたプロジェクト。
2013年、地元の浅江中学校の生徒が「シンサイミライ交流会」に参加したことのご縁で賛同した「青い鯉のぼりプロジェクト」(宮城県東松島市で行われる、東日本大震災で犠牲になった子どもたちが天国で寂しくないよう青い鯉のぼりを掲げるプロジェクト。)
中学生たちの想いを大切に、私たちも鯉のぼりを集め、青い鯉のぼりは青い鯉のぼりプロジェクトに送り、残った真鯉、緋鯉を、お父さん、お母さんも見守ってるよという思いで、東松島市と空と海で繋がっている光市虹ケ浜に掲げます。


子供が鯉のぼりを捕まえ、砂浜に鯉のぼりの影が泳いでいます。
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一体何匹いるんでしょう???
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風が強く鯉のぼりがなびくと、まさに泳いでいるかのようです。
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by kfujiken2 | 2017-05-04 16:31 | 未分類 | Comments(0)
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