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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

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昨日、虹ケ浜海岸で第25回「サンドアートin光」が開催されました。

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サンドアートとは、干潮時に2時間程度出現する干潟を利用し、子どもから大人までが一緒になって、砂を素材とした作品を作りその出来栄えを競うものです。
大潮の日を選んで開催されるようですが、残念なことに昔と比べ虹ケ浜海岸の様相が随分変った様に思います。昔は波打ち際から砂浜の最上部までの幅(奥行き)の距離がもっとあった様に記憶しております。
砂浜の侵食があり幅が減ったのでしょうか???


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潮が完全に引き砂浜状態になり、側に近寄ってサンドアートが撮影出来ると、
広角レンズしか持って行かなかったのです。
あにはからんや 水深が深い訳ではありませんが海水に入らなければ会場の
砂浜まで行くことが出来ません!!!
慌てて望遠レンズを車まで取りに帰りました 疲れた 。・゜・(/Д`)・゜・。うわぁぁぁぁん


アトラクションで熟女と子供達のフラダンスが演じられました。

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by kfujiken2 | 2017-07-24 07:41 | 未分類 | Comments(0)
万葉の森茶室前の池には、縄文時代に咲いていたという「大賀ハス=古代ハス」が、
約2,000株育っています。

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見物できる場所からハスが咲く場所まで1~2メートルほど距離があります。
そのため手で触れたり、間近で見ることができません。また周囲は木々に囲まれて
いるので、景観は悪くありませんが開放感はあまり感じない。


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大賀ハスは、昭和26年千葉県の検見川遺跡で発見された種子を栽培し、開花に成功したもので、発見者の大賀一郎博士にちなんで命名されました。花が咲き始めるのは朝5時頃で、満開になるのは朝8時頃です。

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ここ万葉の森の大賀ハスは、1976年に岡山から4株の蓮根を譲り受け、周南緑地の一角を「万葉の森」として造成・整備するにあたり、昭和51年に西緑地公園の池に移植され、翌年に開花したのが始まりです。


最後にマクロで・・・
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by kfujiken2 | 2017-07-19 09:38 | | Comments(0)
1918年(大正7年)7月12日、徳山湾に浮かぶ仙島の近くで、戦艦「河内(かわち)」の乗組員621人の尊い命が奪われた悲しい出来事がありました。
慰霊祭のある仙島には、福川の高州漁港から船で行くため、一般市民は容易に参加することが難しく、毎年30~40人の参加者で行われます。慰霊祭に参加した人だけで語り継ぐことが難しいと共に、顕彰会や保存会もなく、あまり知られていない出来事です。
大津島の回天記念館、周防大島町の陸奥記念館などは知られていますが、語り継ぎたい歴史がここにもありますのでご紹介します。


戦艦「河内(かわち)」
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戦艦「河内」の沈没場所
仙島(山口県周南市大字富田) 北緯34°0分・東経131°46分

戦艦「河内」の概要

「河内」は、第1次世界大戦前の1912年に日本海軍が竣工させた弩級(どきゅう)戦艦です。
それまではヨーヅロッパなどから輸入していましたが、日本の技術力の向上により設計・建造された
世界でも群を抜く性能の国産初の大型戦艦でした。
「弩級」とは、大型で巨砲を持つことが戦艦の戦力として競い合われる中、当時の世界最大砲12インチ砲を装備した1906年のイギリス最新鋭大型戦艦「ドレッドノート号」の性能を持つ戦艦のことであり、
「ド級」と呼ばれ、漢字をあてて「弩級」と表されました。
「河内」は、排水量20,800トン、全長152.4m、全幅25.7mという大きな艦体に、新設計の50口径(30.5cm)の主砲や副砲などドレヅドノート号の性能を上回る多くの装備を搭載していました。
しかし、この最新鋭の軍艦が、わずか6年で沈没してしまったのです。それ以前にも、日露戦争後の
1905年(明治38年)から1917年(大正6年)までの12年間に、7隻も軍艦の爆発事故が発生しており、
それに続く「河内」の爆沈事故は、日本海軍にとって大きなショックとなりました。


戦艦「河内」の惨劇


第1次世界大戦終わりの頃です。国内は、平時でした。戦艦「河内」は、訓練の途中で、
前日からの荒天を避けるために、他の艦艇(山城、扶桑、伊勢、摂津、河内、利根、他駆逐艦)と共に
徳山湾に停泊中でした。
各艦艇では、夕食の準備に追われていた時刻の午後3時57分、突然右舷前部主砲塔付近で2回の
爆発が起こり、大音響と同時に砲塔周辺部や煙突から大火災が発生し、周辺には無数の鉄片が飛散し、
火柱と黒煙の渦が天空を覆いました。
巨艦は急速に右舷側に傾斜し、大爆発後4分という速さで転覆し、艦底の一部を海面に現しました。
瞬時の出来事で、多数の人が中に閉じ込められ、辺り一面が血の海と化していきました。
乗員1,020名の将兵のうち、621名が殉死となる大惨事となったのです。
最新鋭軍艦の爆沈原因を探るため、徹底的な調査が行われ、家族や親族、交友関係まで
巻き込むものでしたが、幹部将校をはじめとする乗員の殉職者があまりにも多く、
また残骸の回収調査も思うように進まなかったため、確証が得られず原因不明のまま
謎の事故として終わりました。
この大きな犠牲を契機に、海軍では危機管理を徹底する方針を打ち出しました。
その結果、1943年(昭和18年)の戦艦陸奥爆沈までの25年間、事故はありませんでした。


戦艦「河内」の慰霊祭


地域住民の犠牲者を偲ぶ気持ちは、事故後も変わりませんでした。翌年の1周忌に富田町長が
発起人となり官民上げて仙島干渡に慰霊碑が建立されました。慰霊碑のある黒髪島と仙島の間の
砂州(干渡)は、遺体の処理が行われた場所でした。lOm近い高さの慰霊碑の奥に茶毘に付した納骨堂が
あります。
この場所は、船着場がなく海が荒れると降りることがでません。


軍艦河内殉難者英霊之碑
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YMD特設ブログ所様より画像をお借りしました。

参考資料  徳山地方郷土史研究会 田中賢一
        YMD特設ブログ所

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by kfujiken2 | 2017-07-15 14:41 | 歴史 | Comments(0)
【花岡勘場跡】

萩藩創建期の頃に設置された都濃宰判(代官所)の跡地。
代官は年3回春秋冬に萩から出張して重要な決裁を行っていた。日頃は大庄屋が出勤して
代官の代わりを務めていたという。付近には、御茶屋(本陣)・御番所・高札場などがあり、
花岡がこの地方の政治文化の中心であり、交通の要所であったことがうかがえる。


花岡八幡宮に奉納された絵馬に描かれていたものだそうです。
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絵図の左側が御茶屋、右上が勘場、右下が御番所。

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【春雨桜碑】 

幕末の長州藩主、毛利敬親公にまつわる春雨桜の碑です。
文久元年、毛利敬親公が上京しているとき、病になられたそうです。花岡の本陣に至って病気は重く、
約2週間を間、静養されました。その折に、庭の桜を眺められ、樹下の砂鉄が花の眺めを妨げることを
心配されたそうです。
明治37年、敬親公遺愛の桜として、公の雅号から春雨(しゅんう)をとって「春雨桜」と称し、
記念碑を建立しました。撰文は楫取素彦によります。


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桜の古木はどこにあるのだろうか?
枯れたのだろうか? 説明版がないので分からない (´∩`。)ハテ
側にある若木のこの桜は、2代目なんでしょうか!!!

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【天然記念物 花岡の槙柏】

この高木は「槙柏(しんぱく)」といい、ヒノキ科の常緑針葉高木でイブキの変種だそうです。
絵図の左側見えるのが槙柏で、勘場の屋敷内に植えられていたようですね・・・

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大砲が二門置かれているが、防御のために備えていたのかな~
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【場所】
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by kfujiken2 | 2017-07-12 11:51 | 歴史 | Comments(0)
久々歴史時代劇と思い「忍びの国」を観て来ました。

史実に基づいた天正伊賀の乱(伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との二度に渡る戦いの総称)を
題材とした小説を映画化したのには違いありません!
3Dを駆使したアクションや格闘のシーンは迫力ありましたが、「映画 怪物くん」の主演・嵐の大野智さんが
演じているからと言うの訳ではありませんが、まんがチックな、アニメチックな映像が多かったです。
天正伊賀の乱が時代を動かしたというメジャーな事件&出来事ではないので、知る人ぞ知るということで、
背景がよく分からないため歴史映画というより、正に戦国エンターテインメントです。


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伊賀忍者の詳細は、後世には今ひとつ伝わっていません。
いま風に言うと 「忍者の人材派遣会社」 のようなものだったようです。
各地で戦乱が起こっている戦国時代、各勢力が他の勢力に援軍を求める事はよくありました。
伊賀には 「忍術」 が発達していましたから、伊賀に依頼される援軍には、
当然 「忍者」 としての活動が求められます。
「潜入」、「諜報」、「かく乱」、などなど・・・
伊賀忍軍は依頼に応じてそれらの仕事をこなし、そして報酬を貰うと言う勢力になったようです。
ある意味 「傭兵」 的なのですが、忍者の仕事は戦うだけではなく、むしろ戦いを避けつつ行う
裏工作を行うのがメインでしたから、やはり 「傭兵」 と言うよりは、「人材派遣」 というか
「仕事人」 というか、そんな感じだったようです。
伊賀忍者たちは、「上忍三家」と呼ばれる服部・百地・藤林の三氏によって統率されていたと
言われています。
徳川家 に仕えた伊賀忍者たちは、徳川幕府 が開かれた後は 「伊賀同心」 と呼ばれ、
忍びの技術を持つ侍として、その後も警護や護衛などの職務を務めました。
第8代将軍・徳川吉宗のころには、御庭番という幕府の役職で将軍から直接の命令を受けて
秘密裡に諜報活動を行った隠密をさした。

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by kfujiken2 | 2017-07-04 10:49 | コラム | Comments(0)
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