長州より発信

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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

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長門市を後にし萩市に向かう・・・
昔、通った本州西端を周回している国道191号は、JR山陰本線と並行し部分的に峠越えの区間もあったかも知れないが、海岸沿いのルートだった様に記憶している・・・
萩・三隅道路が2008年 - 2011年に開通し、山口県長門市三隅中から山口県萩市椿に至る延長15.2kmの高規格幹線道路で、山陰自動車道に並行する国道191号線の自動車専用道路だがトンネルばかりです。
国道262号線を北に進み、国道191号線(北浦街道)の弘法寺前の交差点を左折し萩博物館前の駐車場に
到着しました。萩博物館と北の総門は時間が無いのと、昨年萩を訪れた時見学したので今回パス!


萩城跡の外堀(南側より)
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萩城跡外堀は、萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける堀で、堀幅は、江戸時代の初めには20間
(約40m)でしたが、堀端に町屋が造られて、14間(約28m)、8間(約16m)と狭まりました。今回の整備は、堀幅が8間の時代を基本に行ったそうです。


次の観光ポイントは、萩城跡の外堀から5分足らずで行ける全長250m、幅員3mの道 の 「菊屋横町」
旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残されている。藩の豪商・菊屋家をはじめ、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、第26代総理大臣・田中義一の誕生地がある。晴れた日には、太陽の光が反射してまぶしいほどの白いなまこ壁の美しいこの横町は「日本の道百選」の一つに選ばれている。

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※ 御成道(おなりみち)とは:藩主が参勤の際に通ったことから「御成道」とも呼ばれる
萩往還 をいう。



「萩・明倫学舎」を見学したかったのだが、津和野のお稲荷さんに寄ってお札を貰って帰ろうと思っていたので時間的に無理でした。次回の楽しみに残しておきました・・・


「郡司鋳造所遺構広場」~大砲を製造した鋳造所跡~


郡司家は萩藩の鋳造師(ちゅうぞう=金属を加熱・溶解し、これに形を持たせた鋳造に流し込み凝固させ、
所定の形状の製品を作る金属の加工技術です)で、江戸時代を通じて鍋・犂先(すきさき)などの生活用具
だけでなく、大きな様式大砲など兵器に至るまで、多様な銅・鉄製品を鋳造しました。

郡司家が鋳造した大砲は、下関戦争が原因でほぼ行方不明になっています。文久3年(1863年)に
長州藩は下関海峡を通過する外国船を3度にわたり攻撃したのですが、イギリス・フランス・オランダ・
アメリカ、そして四国の連合艦隊は、翌年の元治元年(1864年)に下関沿岸砲台に報復攻撃。これに
より各砲台は壊滅状態に。それぞれの砲台は破壊もしくは戦利品として持ち帰ったため、国内はもちろん
欧米にもわずかな数しか残っていません。ちなみに下関戦争では24ポンド砲や32ポンド砲が使用されて
います。


大砲のレプリカが展示してあります。

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郡司鋳造所跡の説明板
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左からブロックごとに拡大します。
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下の写真(上の説明版の真中)のように3つの窯で銅や鉄を溶かし、真ん中の鋳型に流して固めていたとされています。実は今までどのような方法で大砲を作っていたのか分かっていなかったのですが、平成12年(2000年)に山口県埋蔵文化財センターが行った発掘調査により、石組や大砲鋳造遺構をはじめ、実際に使用された鋳型も多数発見。これらの情報を合わせると、写真のように鋳造していたと考えられるそうです。実際に発掘された郡司鋳造所関連のものは、萩博物館に展示されており、山口県の有形文化財に指定されています。

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郡司鋳造所については世間的に知られていないのか、萩においては他の観光地の方が魅力なのか、休日にあったにもかかわらず人はほとんどいませんでした。やはり実際に使用された現物でないと観光客の方は魅力を感じないのだろうか。松陰神社のすぐ側にあるので(徒歩2~3分)足を運ぶのもいいのではないかと思います。
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by kfujiken2 | 2017-08-30 10:09 | 未分類 | Comments(0)

昨日スターピアくだまつの2F展示ホールで開催されている「第27回 墨泉会書展」を
見学に訪れ、小柄で和装がよくお似合いな素敵な女性の春葉さんに迎えて頂きました。

記録や伝達の手段として生活に欠くことのできない文字、古代中国で生まれた漢字も
その一つです。中国と日本で発展を遂げた「書」は、墨と筆によって紙に書かれた文字を
意味だけでなく色や造形、構成といった要素を含めて鑑賞する芸術です。


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さて、春葉さんの作品をご紹介しましょう。
昨年の出品は「豊穣(ほうじょう)」と「藝(げい)」、今年が「情熱」と「譽(ほまれ)」です。
古式豊かな異体字「藝」、「譽」は日本文化を感じらす漢字ですよね・・・
私が春葉さんに、何故2字とか1字の大きな文字を選ぶのですかと訪ねると、
彼女曰く、多い作品の中で目立たすにはゴチァゴチァ書かず端的な方がいいと!!!
なるほど そりゃそうだと納得しました。


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春葉さんが説明して下さるには、この「情熱」という文字は3本の筆を同時に持ち、
先に金粉を散らして置き、書かれたそうです。
勢いのある文字ですが、女性らしい優しさを表現する曲線がいいですよね~
正に墨アートです・・・ 素人が勝手な批評してごめんなさい m(__)m



マットに着物の布を使用するのは、
春葉さんの得意なパターンで一目見たら、春葉さんの作品と分かります。

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※ 【ちょっと一言】 書道と習字の違いは・・・
習字はその名の通り、「字を習う」という意味であり、教わった通りお手本を真似字をきれいに
書くことに主眼を置いてます。
書道では、「美しく書く」ことに加えて、どれだけ自分の個性を「字」を通して表現できるかに
着目した芸術の1つだという決定的な違いがあります。

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by kfujiken2 | 2017-08-27 15:24 | 未分類 | Comments(0)
おっとと~ 寄り道したのを忘れていた!!

国道316号線を北上し湯本温泉街に入り大谷山荘が見えて来た。
昨年プーチン大統領が宿泊され、安倍総理と日露首脳会談が行われた大谷山荘を
見学する訳にも行かず、ならば大内義隆父子が自刃された大寧寺にお参りして行こう
と立ち寄りました。


大寧寺は皆さんよくご承知とは思いますが、1551年(天文20)、陶晴賢の反逆により山口を追われた
大内義隆は、仙崎から海路九州へと逃れようしたが叶わず大寧寺に籠もったが、陶軍の攻撃を受けて
9月1日寺内において自刃した。


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※ 【ちょっと一言】 大寧寺開基は長門守護代・鷲頭弘忠(わしず ひろただ)とありますが、
鷲頭家の始祖は、周防国鷲頭庄(現在の下松市近辺)を所領とした大内氏の一族で、
鷲頭弘忠は6代目にあたる、つまり下松市に居を構え下松市にゆかりのある一族ということです。



「姿見の池」と「かぶと掛けの岩」
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盤石橋 (ばんじゃくきょう)

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本堂に通じる第一の橋を盤石橋と言います。 全長14.2メートル、幅2.4メートル。橋下に大寧寺川の渓流が
美しい。 自然石を巧みに組み合わせた橋の工法が見事です。
かってこの橋は、岩国の錦帯橋、山口にあった虹橋と並ぶ「防長三奇橋」のひとつに数えられました。
橋の巨石に漢詩と建設の記録が刻まれています。


仏法を守る石彫 釈迦三尊と十六羅漢

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by kfujiken2 | 2017-08-24 09:10 | 未分類 | Comments(2)
とりあえず西から東へと山陽自動車道の美祢ICで降り、国道316号線を北上し長門市へ!!!目的地童謡詩人・金子みすゞ記念館へひとっ飛び・・・

みすゞが幼少期を過ごした書店・金子文英堂の店の前と店内
当時の復刻版が並んでいる

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一階部分 すぐ左側に二階に上がる階段がある。
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二階にあるみすゞの部屋 窓から通りを眺めていたとか。

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※ 【金子みすゞ記念館】 は撮影禁止 クリックすると金子みすゞ記念館のホームページに
ジャンプします。



みすゞモザイクアートM2012

木片ピース20,000個を使って作られた立体モザイクアートです。女学校時代と20歳のみすゞの
肖像画と王子山から見た仙崎の風景、青海島の変装行列をモチーフに作られたもので、左右、正面からと
3方向で違ったモザイクアートを見ることできます。

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プロジェクトM20000


長門市仙崎のみすゞ通り中ほどにある、旧JA倉庫に展示されている「プロジェクトM20000」は、
蒲鉾板20,000枚を組み合わせて、金子みすゞの詩「大漁」の世界を表現しています。
この「プロジェクトM20000」には仕掛けがあり、部屋の中にあるスイッチを押すとブラックライトに
照らされた大羽鰮の大群が浮かび上がります。


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入口正面の壁面には、イラストレーター尾崎眞吾氏が描いた金子みすゞの肖像画が、
プリントされています。

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駐車場側の壁面には、12万枚の写真による巨大モザイクアートの縮小版が、
プリントされています。

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by kfujiken2 | 2017-08-21 16:01 | 未分類 | Comments(0)
戦時中、山口県徳地に「弾除け神社(三坂神社)」と呼ばれた神社があります。
戦地での無事を願って家族が、本人に内緒で写真を奉納し送り出したそうです。


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明治8年(1875年)、郷社に列し日清・日露戦争の際、三坂神社に武運長久を祈願した人が
全員無事に帰還したことが報道され、「弾除けの神」として有名になった。
大正8年(1919年)、県社に昇格。昭和になり、日中戦争以降、武運長久祈願のための参拝者が激増、
最高で1日に880人が祈願したそうです。
終戦後、参拝者名簿は事前に焼却し、祈願写真は隣家の床下に隠して無事なものもあり、
その数一万数千枚に達したらしい・・・

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三坂神社は大きな神社ではないが、『周防徳地誌』に万葉集に「千早振る神の三坂に
幣奉り祝ふいのちはおも父がため」と詠まれており、、正一位を授かり、豊臣秀吉公が
三坂神社に参り五色の吹貫等を献納し、参道の石畳は足利尊氏が敷いたと記述が
あるそうです。
由緒ある神社ですよ~~~
現在は石が風化して刻まれた文字は読むことが出来ませんが、
二ノ鳥居の銘に「延書式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(1698年)戊陽月」とあり、長州藩4代藩主毛利吉広の寄進であったことが分る。


足利尊氏が敷いたという参道の石畳
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長州藩4代藩主毛利吉広の寄進したという二ノ鳥居
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幕末の文久元年(1861年)に現在の拝殿が建てられたが、本殿・幣殿は昔のまま様です。
それに左上に本殿が見えますが、拝殿からの続きになっているようで中を見ることは出来ません!


社殿の全景と拝殿
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神徳顕彰碑
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by kfujiken2 | 2017-08-14 15:53 | 歴史 | Comments(0)
憲法改正が兎や角いわれている昨今、我々国民にはピンとこない問題ですが、
あなたは真剣に考えられたことがありますか?
なぜ憲法を改正する必要があるのでしょうか? 憲法が改正されると、私たちの生活に
どんな影響があるのでしょうか?


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ちなみに立憲国家での憲法改正がドイツでは59回、アメリカが6回、フランスが27回、
イタリア、カナダなども10回以上なされています。他の先進国との比較という点で見ると、日本の0回というのは異例と言えるでしょう。
日本国憲法は改正するのが難しい「硬性憲法」で、1947年の施行以来、一度も改正されたことがありません。改正議論自体はこの約70年の間に何度も行われております。
先ずその真意は、作られた時代と現在では諸事情が違い、そぐわないと言うか対応出来ない為である。
「戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のつくった憲法ではなく、日本国として独自の憲法を持つ」という点にあります。


※ 硬性憲法とは・・・憲法に関する論考において改正の困難さで各国の(広義の)憲法を二つに
分類した場合に、改正が困難な側に分類される憲法のこと。


憲法改正の条項は多数あると思いますが、特に問題点は第9条と第96条ではないかと
判断します。


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第9条・条文


1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


つまり、第1項で「戦争の放棄」、第2項で「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を定めている。


【憲法第9条の改正草案】
この改正案で条文が下記のように変わる。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たるとしての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段として用いない。
2.前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

第9条の二が補足される
わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。


では第9条を改正するメリット・デメリットは・・・
◆ 憲法9条を改正するメリット
* 現状と憲法との相違をなくせる
* 自衛官の負担を減らし命を守れる
* 海外での邦人救出

◆ 憲法9条改正のデメリット
* 戦争ができる国になる
* 他国(米国)の戦争に参加させられる
* 徴兵制が復活する


※ 「戦争の放棄」という言葉が削られ、「安全保障」になる。「戦力は保持しない」「交戦権は認めない」という言葉も削られるけれど、一方で、「国防軍」を持つことが明記されている。

憲法第96条・・・日本国憲法の改正手続きについて定めた条文です。

各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。



【憲法第96条改正草案】 この改正案で条文が下記のように変わる。

衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民の投票において有効投票の過半数の賛成を必要とする。

※ グローバル化もめまぐるしく進んでおり、変化する時代にこれだけ憲法改正のハードルが高いと迅速かつ柔軟に対応できないので、緩和しょうというのが憲法改正の狙いである。
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by kfujiken2 | 2017-08-09 11:42 | 未分類 | Comments(3)
柳井市は度々お邪魔しているのですが、金魚ちょうちんの撮影に行った時、
何か歴史的に珍しいものはないかとネットで調べていると、江戸時代塩田の
歴史遺構の橋があることを知りました。


慶応元年に改修された「天津橋」は、ビジコム柳井スタジアム(柳井市民球場)の敷地内に移設、一般公開されている。天津橋は花こう岩を組んだ石橋で全長約15メートル、幅1・8メートル。川の両岸から桁石(けたいし)を斜めに張り出し、桁石の先端に橋桁の石を乗せ架橋する刎橋(はねばし)構造で、橋脚がないのが特徴だ。


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構造のイラスト図面です

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◆ 柳井市ホームページよりお借りしました ◆

両岸から桁石(けたいし)を斜めに張り出し、桁石の先端に橋桁の石を乗せ架橋する
刎橋(はねばし)構造

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橋が架けられた柳井浜は、江戸時代の1810年に柳井川河口を開発した塩田で
総面積は約24ヘクタールあった。東浜と西浜に分かれ、両浜の間には海水を取り
入れると共に釜をたく木材を運び入れ、塩を搬出する堀川(中川)が設けられた。
両浜を結ぶ天津橋は当初は木製の橋だったが、文政13年(1830)に石橋に架け
替えられ、現存する橋は慶応元年(1865)年に改修されたものである。
上荷船の通行のために、橋脚を設置しない、弓を張った形をなす張出し式の石橋である。
橋脚がないことから地元では「幽霊橋」と呼ばれ親しまれてきた。
柳井浜は、昭和34年の塩業整備臨時措置法の成立を機に製塩業を廃止することと
なった。そして昭和39年に日立製作所が柳井へ進出するに伴って、塩田及び中川は
埋め立てられた。
天津橋は、その後に進出した(株)ルネサス柳井セミコンダクタの工場敷地内に存続し
続けた。


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昭和30年ころの堀川に架かる天津橋
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by kfujiken2 | 2017-08-01 10:48 | 歴史 | Comments(0)
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