山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


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秋日和に誘われて・・・彼岸花を撮影に

"彼岸花”をテーマに調べてみました。

◆ 彼岸時に咲き乱れる”彼岸花”とは
ヒガンバナ科の多年草。土手や田の畦に生える。秋の彼岸のころ、高さ約30センチの花茎を伸ばし、
長い雄しべ・雌しべをもつ赤い6弁花を数個輪状につける。花の後、線形の葉が出て越冬する。
有毒植物であるが、鱗茎を外用薬とする。別名、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)・死人花(しびとばな)・
捨て子花・石蒜(せきさん)・天蓋花(てんがいばな)・天涯花・幽霊花・かみそりばななどがある。
彼岸花ほど異称の多い花も少ないのではないでしょうか。




◆ 彼岸花の花言葉は!?
悲しい思い出・想うはあなた一人・また会う日を楽しみに・「再会」「情熱」「独立」「あきらめ」
・・・と諸説あるようです。情熱とは真逆の印象を与える「悲しい思い出(お彼岸)」を連想させる
イメージも同居していて、なんだかミステリアスで意味深いですね。


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◆ 彼岸花が”不吉な花”というイメージを持つ理由は・・・
開花期にふつう備わっているべき葉がひとつもなく、茎の頂上にいきなり花が咲いて、
しかもその花が毒々しいほどに真っ赤であるからです。日本人の感覚では彼岸花の
赤はけばけばしく、そうしたけばけばしさを好ましからざるものと見なすのです。



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◆ 突然現れる”彼岸花”は幽霊に例えられる事も!
1日目に芽が出て、2日目でなんと20cmも伸び、5日目にはつぼみが赤く色づき、
なんと7日目で開花したのです。確かに、ヒガンバナはちゃんと1週間で発芽から開花まで
してしまうのです。



◆ 不吉なイメージが先行する彼岸花だが、不吉な事ばかりではない!?

>「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味。
おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ています。


※ サンスクリット語とは: 古代インド・アーリア語に属する言語。ヒンドゥー教、仏教、
シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語でもあり、現在もその権威は大きく、母語話者は少ない。




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◆ 韓国では”相思華”と呼ばれる

韓国では彼岸花のことを「相思華」ともいう。これは彼岸花が花と葉が同時に出ることはないから
「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味である。
お互いを見ることの出来ない花と葉がお互いを想い合うだけ。
なんだか悲恋を連想させます。そう考えるとあの強烈な花の色も、毒々しいものではなく、
思いの強さを伝えるものに思えてきます。


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by kfujiken2 | 2017-09-24 16:48 | | Comments(0)

徳山藩の諸隊・山崎隊に下松在住の人がいた

今回の投稿は、徳山藩の諸隊・山崎隊の説明がメインではなく、山崎隊の中に下松在住の人が55名いたという説明です。発足した当時ではなく150人前後に増員された時期ではないかと想像します。


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周南市新南陽にある富田護国神社は、明治2年(1869)、徳山藩山崎隊の戦没者23名を祀る招魂場を富田永源山頂に創建したことに始まります。
富田護国神社の社殿の後ろに説明版には23柱と記してありますが、実際は32柱の招魂墓碑が並んでいます。これらは山崎隊士だけでなく献功隊士のものだと想像します。
がしかし、この中に下松在住の人が祀られているかは分かりかねます。


山崎隊は下記で説明致しますが、簡単に献功隊について説明しましょう・・・
献功隊は、明治元年に朝気隊、斥候銃隊、武揚隊、順祥隊を合併し、
結成された部隊で、17~40歳迄の士族で構成されています。
後の満州軍総参謀長児玉源太郎もこの隊に在籍していました。



さて、下松在住の人の説明に入る前に、山崎隊について簡単に説明しましょう・・・

山崎隊は、1866年(慶応元年)4月、富田村の庄屋・政所である岩崎庄左衛門を賄方として、
「富田隊」という仮称で創設された部隊で、創設地の地名の山崎八幡宮にちなんで「山崎隊」と
改称されました。陣営は、富田新町の浄真寺があてられた。
第二奇兵隊の結成より3カ月後のことであり、諸隊の中では遅く組織された隊である。このように、
徳山藩での諸隊の組織化が遅れた原因は、徳山藩府内に保守派の力が強かったためといわれている。
山崎隊は、隊長・宮本小十郎他およそ50人で発足したが、やがて150人前後となり、慶応四年三月には
80人増員され、230人となった。山崎隊の特徴は、士庶を問わない有志の者で結成された点にあります。
1866年(慶応2)6月の四境戦争開始までは、徳山周辺の防衛に従事する。四境戦争が勃発すると、
一中隊が芸州口の戦いに参加した。翌67年には、一隊が占領地である小倉城の防衛に従事する。
同年、本隊は京都に進駐し、翌68年(明治元)正月、鳥羽伏見の戦いが始まると、本隊はこの戦いに
参加して戦功をあげた。さらに、同年9月戊辰戦争が始まると秋田攻撃に参加、別の一隊は青森へ転戦し、翌69年の函館戦争で大変な苦戦をなめている。


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社殿の前の広場です。創建が明治2年という事ですが、鳥居は何時造られたかは確認しませんでしたが、至ってまだ新しいものです。台風一過のため落ち葉が散乱していますが、よく整備されています。


それでは本日の本文に入ります。
山崎隊へ下松市域内徳山領諸村から多くの農町民が参加していた。「同隊人名録」(徳山市立図書館叢書16)によると、市域内出身隊員は55名である。

「出身村別表」

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出身村別表」をみると、各村ともまんべんなく数名が入隊している。しかし、大藤谷村~河内村は山村であり、戸数・人口ともに少ない村である。これに比して、東西豊井村や下松町上松浦は戸数・人口ともに多い。この両者を比較すると、山村の30人に対して、海岸市街地は20人である。山村の農民が、尊王攘夷の思想に共鳴し、郷土防衛の意識が高かったため、このように多くの者が応募したのであろうか。どうも、そのようには考えられない。

「長男と次三男別表」

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山村と市街地出身兵の「長男と次三男別表」をみると、山村出身兵35名中、長男は11名で、次三男は19名と倍近く多い。それに比して、下松町を中心とする市街地では、次三男より長男の方が5名も多い。このことは、山村の農家の次三男は、山村で暮していても将来への展望がないため、新しい軍隊に応募することにより、自分の将来を切り開こうとしたのではないだろうか。

「出身階層表」

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ここにみるように、農民と商人が計五二人で九五パーセントに達し、圧倒的に多いことが分かる。神職の二人は山田村と生野屋村で、下士は河内村出身である。

「年齢別表」

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最年少は一三歳の少年から、最高年齢は三〇歳であり、平均年齢は一九歳であった。


以上が市域内出身兵の分析であるが、このことは山崎隊全員の傾向と合致するものと考えられる。又、この表を見ると発足半ばの隊員150人前後の内、下松市在住の人が三分の一を占めていたことが分かる。

※ 下松市史 通史編 明治維新時の下松1 諸隊の動向 山崎隊の結成を参考にさせて頂きました。

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by kfujiken2 | 2017-09-21 08:10 | 歴史 | Comments(0)

取引価格が路線価より大幅に高く!? 新バブル到来?

金融緩和であふれたお金が不動産市場に流入しています。投資家からお金を集めて不動産を買い、
賃料収益などを分配する上場不動産投資信託(J―REIT〈リート〉)で、最近取得された物件の
価格水準が、相続税などの基準となる路線価の平均2・6倍となっていることがわかった。
目安とされる1・5倍程度より高く、一部では10倍超の物件もあった。日本銀行の金融緩和で
あふれたお金が不動産市場に流入し、東京の2017年分の最高路線価はバブル期を超えている。
取引価格も高めになっており、「新バブル」の懸念も出ている。


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今度のバブルでも、もちろん東京、大阪、名古屋の地価上昇が、全国の地価上昇を引っ張っていることには違いがないのですが、地方都市では、九州の福岡市や中国地方の広島市など、ごくわずかの地方中核都市しか上がっていないことが平成バブルのときとの大きな違いなのです。


80 年代のバブルを振り返って見ると、日本全国至る所で地価の上昇が見られた。
一方、現在の地価の上昇は地域による差が大きく、バブルと言うには物足りない。
外国人観光客の増加に伴うインバウンド需要や東京オリンピックに向けたホテル需要が
見込まれる地域、ファンド等による投資が見込まれる地域に限定される局地的な上昇で
ある。政府は地方創生を掲げ、地域活性化に向けた様々な取り組みが行われている。
そうした取り組みは、地方都市の地価にどのような影響を与えるか、東京との地価水準の
格差は縮まるのか。現在の地価の上昇はいつまで続くか、今後1、2 年の動きに注目したい。


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※ 景気の動向

「いざなぎ景気」は、1965年(昭和40年)11月から1970年(昭和45年)7月までの57か月間
「バブル景気」は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間
「いざなみ景気」(戦後最長の景気回復)は、2002年2月~2008月2月までの73か月間
「アベノミクス景気」は、2012年12月(平成24年)から2017年(平成29年)3月までの52か月間


 「いざなぎ景気」: 1965年の証券不況で、金融緩和による金融政策だけでは改善せず、
政府は補正予算で第二次世界大戦後初の建設国債の発行を閣議決定した事で建設需要が増し、
いざなぎ景気がはじまりました。
1970年の八幡製鐵と富士製鐵の合併による新日本製鐵(新日鉄)の誕生など、貿易や資本の
自由化への対応のために、国際競争力の強化をめざして規模拡大のための企業の大型合併が
多数実現した。トヨタ・カローラや日産・サニーといった低価格の大衆車の発売によって
マイカーブームが起こり、東京オリンピック(1964年)を機にカラー放送が本格化したことから
カラーテレビの普及率が急速に高まった。
所得水準の向上によって、エアコンの購入も増加し、車 、カラーテレビ が新・三種の神器と呼ばれ、
消費の大幅な伸びも見られた。いざなぎ景気の間に日本経済は大きく拡大し、世界第二の経済大国と
なった。

◆ 「バブル景気」: 1980年代後半には、テレビ等のマスメディアの必要以上の毎日繰り返された
不動産価値の宣伝により、地価は異常な伸びを見せる。日経平均株価は1989年(平成元年)12月29日の
大納会には、史上最高値38,957円44銭を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていた。
バブル景気による過剰な経済拡大期があり、その後にはその反動としてバブル崩壊による大幅な
資産価格下落や金融収縮などが起こり経済問題が多数噴出することとなる。

◆ 「いざなみ景気」: 2001年からのゼロ金利政策に代表される金融緩和政策が主因で、
2004年の大幅な為替介入で、実質実効為替レートが下がったことによる円安、北米の好調な需要により、
輸出関連産業を中心に多くの企業が過去最高売上高・利益を記録しました。
いざなみ景気は日本の戦後最長の好景気だったにも関わらず、 意外にも誰もそれを実感していませんし
知りません。新聞などでは「かげろう景気」などと呼ばれことからも想像がつくように、好況が
長く続いたとはいえ、たとえばGDP成長率、賃金上昇率などをみれば明らかなように、高度成長期の
好況とは比べものにならない低水準である。実感なきまま進んだ好景気は、2007年アメリカで
起こったサブプライムローン問題によって、アメリカ国内の投資と消費が急激に縮小したことで、
後退していきました。そこに追い討ちを掛けたのが、2008年9月のリーマンショックです。

◆ 「アベノミクス景気」: 2012年12月に始まった「アベノミクス景気」が、1990年前後の
バブル経済期を抜いて戦後3番目の長さになった。世界経済の金融危機からの回復に歩調を合わせ、
円安による企業の収益増や公共事業が景気を支えている。ただ、過去の回復局面と比べると内外需の
伸びは弱い。雇用環境は良くても賃金の伸びは限られ、「低温」の回復は実感が乏しい。


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by kfujiken2 | 2017-09-13 14:21 | コラム | Comments(0)

種田山頭火と層雲の句友・兼崎地橙孫(かねざき ぢとうそん)

兼崎地橙孫は自由律俳句の先駆者・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)の
高弟として活躍するとともに、『清明の俳人』として気品ある清明句を多く遺している。
また書家としても名高く、中村不折直伝の六朝体最後の書家でもあった。


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兼﨑地橙孫肖像(提供:吉田紗美子)


徳山藩士・兼﨑昌司(号・橙堂(とうどう))を祖父にもち、父・茂樹(号・地外(ちがい))、
母・トメ(小川官介長女)の長男(本名・理蔵)として、明治23年に生れました。
中学時代から句作を始め、明治43年全国巡遊の途にあった河東碧梧桐と下関で出会い、以来師と仰いでいます。層雲の句友、種田山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
熊本五高を経て京都帝国大学法学部を卒業し、大正13年下関にて弁護士を開業、のちに山口県弁護士会会長に就任しました。
下関空襲により被災し、徳山市舞車に疎開する。弁護士として活躍する傍ら、県俳句界の指導者として後進の指導にあたりました。人にやさしい真摯な生き方は、多くの人たちの
心を惹きつけ、その精神は気品ある「清明句」として開花しました。


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※ 六朝体(りくちょうたい): 中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の楷書体だそうです。

※ 自由律俳句: 五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。
          季題にとらわれず、感情の自由な律動を表現することに重きが置かれる。


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兼﨑地橙孫句碑
この辺りを上御弓丁(かみおゆみちょう)というそうですが、正に武家屋敷らしい地名ですね!


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兼﨑地橙孫第二句碑
昭和24年に詠んだ句です。東川に架かる 舞車橋を渡った側にあります。
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by kfujiken2 | 2017-09-08 11:15 | 歴史 | Comments(0)

関ヶ原の戦いの真実

評判の映画・岡田准一主演『関ヶ原』を観にいきました。

この映画は観客に関ヶ原の戦いの予備知識があることを、前提にしているというのも感じました。
戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」。
しかし日本最大の合戦であったにも関わらず、その詳細はあまり知られていません。
関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、過去の有名な戦である「川中島の戦い」「桶狭間の戦い」「賤ヶ岳の戦い」等は一対一の個人戦でしたが、「関ヶ原の戦い」は東西に分かれた戦国大名の寄せ集めの団体戦だった違いがあり、戦国大名に関する基礎知識が豊富でなければ理解できないものが多いです。
おまけに、戦闘自体が6時間で終わってしまったため、あまり映画やドラマでも取り上げられていません。


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◆ 戦国時代とは何ぞやを少し説明しましょう・・・
日本の歴史ににおいて、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分です。乱世により
室町幕府の権力は完全に失墜、守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現した。
戦国時代の期間は、室町時代に起きた応仁の乱に始まり、安土桃山時代に起きた関ヶ原の戦いが
最後と言われています。
この戦国時代の戦いは、権力闘争には違いありませんが、いずれも背景や経緯が非常に複雑である。
つまり、群雄割拠の時代ですからゴチャゴチャしすぎてて、当時の上下関係・人間関係・時代背景
が難しいですよね!


◆ 関ヶ原の戦いの経緯について説明します。
五大老の長の徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を名目上の総大将とし五奉行の長である
石田三成を中心とする西軍が起した戦いである。
引き起こした直接の導引は、朝鮮出兵をめぐる現地武将(武断派と呼ばれるグループ)と内政・経済・
宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた(文治派)の対立であり、現地武将たちの戦線縮小や
撤兵路線をめぐる軋轢と政権の内部分裂であった。


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◆ 名目上の総大将としての毛利輝元はどうであったか???
毛利輝元は名目上の西軍総大将として大坂城に入城しますが、毛利家中では、東西いずれの陣営に
付くべきかで意見が分かれ、混沌とした状況となった。これを裁断すべき立場にあったのが輝元
だったのだが、長年彼をサポートしていた有力な血族の多くは既に亡く、輝元に的確な助言を
できる者は家中にいなかった。
関ヶ原の戦いでは一門を率いたのは長府藩主毛利秀元で、毛利軍本隊は西軍の一部として関ヶ原
南宮山に布陣した。だが、吉川広家の背信行為によりそれ以上の進軍を押し留められて本戦には
参加できず、合戦を傍観する羽目になった。


◆ 関ヶ原の戦いおける両軍の戦法は・・・
西軍は石田三成が戦を指揮した経験が少なく各将を統率出来なかった。
宇喜多秀家、小西行長、大谷刑部等とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に
戦っているだけで部隊間の連携が取れていなかった。
一方東軍の戦上手の徳川家康は西軍一部隊に対し、複数の軍勢が連携して、同時多方面から
包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てた。
つまり、西軍の単独プレーに対し、東軍はチームプレーだったということです。


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◆ 最後に関ヶ原の戦いの武器についてウソらしいホントの話を!!!
西軍8万2千、東軍7万4千だそうですが、関ヶ原の合戦当時の主力武器は何と言っても槍と鉄砲です。
と言っても兵の約1割が鉄砲を装備していた言われていますので、飛び道具では戦争になりません!
鉄砲で銃撃した後、大将による「進め」の号令と共に、槍部隊がズンズン歩いていき、近くまでくると
「ワー」と入り乱れての戦闘になるのです。
槍は、手放すことのできない武器でした。鉄砲は弾込して射撃するまでにおよそ15秒もかかるため、
一撃で相手を倒さないと逆に相手にやられてしまうかもしれません。接近戦には不向きで、
ひとたび乱戦になってしまえば、ほとんど使えなかったそうです。
接近戦は、ほとんど槍の突き合いです。リーチの短い刀で戦うのは不利ですからね。
というか、刀を持っている兵士はほとんどいなかったそうです。鉄砲は遠距離攻撃に使っていましたが、
接近戦でも飛び道具はあります。古来よりおなじみの弓矢です。関ヶ原でも、もちろん弓矢は
使われています。鉄砲の普及により、飛距離の短い弓矢は、飛び道具としての価値が薄まったような
イメージを持ちますが、距離はともかく、速射も可能という点で、戦闘には欠かせない武器だったようです。
関ヶ原の合戦には、九州で「国崩し」と呼ばれた大筒も用いられています。発砲するのは攻城砲といい
ただのでかい鉄玉なので、別に着弾と共に爆発するわけでもありません。
それ故に、野戦では威嚇程度にしかなりませんでした。

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by kfujiken2 | 2017-09-02 12:18 | 未分類 | Comments(0)