<   2017年 12月 ( 6 )   > この月の画像一覧

あけましておめでとうございます

謹んで新春のお慶びを申し上げます
ブロッガーの皆さん 昨年はお世話になりありがとうございました
拙いブログでありますが、今後とも変わらぬお付き合いをお願い申し上げます


d0061579_18551141.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2017-12-31 18:56 | 未分類 | Comments(0)

ザ・モール周南がイズミに売却

住み良い街に陰りが出る・・・遂に時期が来たかという気がします。

昔元首長さんと席を共にする機会があり、下松を住み良い街という根拠は何ですか? 
と訪ねると彼曰く大型店が多く出来ると、市民の皆さんは買い物がし易いのではないかと自慢されていました。
つまり、「利便度」が高いというカテゴリーのみ指摘されるが、私の見解は違っています!
大型店が増えるということは、既存の小売店は淘汰され、明日の生活を如何しようかと泣いています。
これが「住み良い街」といえるのでしょうか?
因みに、東洋経済が発表する「住みよさランキング」では、総合評価とともに、「安心度」「利便度」「快適度」
「富裕度」「住居水準充実度」の5つのカテゴリーにおいてランキングを行っている。


仲間内では、下松で中核店舗の西友ザ・モール周南店が傾くと下松の景気は悪く
なるだろうと話していましたが、イズミ・ゆめタウンが後を引き継ぐとのことなので
一安心していいのか???


d0061579_11161584.jpg


話が逸れましたが、本題に戻しましょう・・・

下松市のザ・モール周南がイズミ・ゆめタウン(山西泰明社長、本社・広島市東区)に売却され、
来年8月1日から“ゆめタウン”の店舗に衣替えすることが決まった。2月1日に西友とイズミが
売買契約に調印し、5月15日から改装のため全館休業する予定で、ザ・モール周南は1993年の
開店以来、25年で姿を消すことになる。

鉄筋コンクリート5階建てで、1~3階の売り場面積は28,620平方メートル。中核店舗の西友
ザ・モール周南店、ザ・モール周南専門店街、食遊館、市出資の第3セクターの下松商業開発が
運営する地元の商業者ゾーンの星プラザで構成。隣接の周南市に流出していた買い物客を
回帰させてきた。

市文化施設のスターピアくだまつや市保健センターとは建物が一体化しており、99年に映画館の
MOVIX周南、2000年にヤマダ電機テックランドザ・モール周南店も開店した。
店舗前の中央広場はくだまつ総踊りや花と緑の祭典など市や民間の多くのイベントが開かれ、
周南地域全域から集客してきた。

ザ・モール周南の商業施設部分はもともと下松タウンセンター開発の所有だったが、現在は西友が
所有。売却の方針は25日にスターピア会議室で開かれた下松商業開発の取締役会で説明された。
売却額は不明。専門店街や星プラザのテナントには今後、説明していくという。
星プラザゾーンは廃止されて全店舗一体の形になる可能性が大きく、下松商業開発の存続も注目
される。同社を基盤に活動してきたくだまつ観光・産業交流センターや下松フィルムコミッションの
今後も未知数だ。一方、同じ建物のスターピアくだまつも3月1日から8月31日まで大規模改修工事の
ため休館する。


d0061579_113521100.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2017-12-29 11:31 | 未分類 | Comments(0)

話題の雪舟と山頭火を探訪 ②

大正・昭和の俳人。季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を
重んじる「自由律俳句」を詠んだ種田山頭火。


d0061579_9301637.jpg


◆ 種田山頭火の生涯

本名は正一。山口県防府の大地主の家に生まれる。父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、
これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げた。
現・防府高校を首席で卒業した後、早稲田に入学。しかし22歳で神経症の為に中退して帰郷する。
この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、
彼は父と酒造業を開始する(24歳)。27歳で結婚子を持つ。
1906年(明治39年、24歳)12月 父竹治郎が吉敷郡大道村(現・防府市大道)にあった古くからの酒造場を買収。
一家で移り住む。そして、その翌年頃から種田酒造場を開業したとみられる。
1908年(明治41年、26歳) 酒造に失敗し、防府に残っていた家屋敷を全て売却している。
山頭火は熊本市で額縁店を開くが、家業に身が入らず妻子と別れ上京。しかし、定職を得ず、熊本に帰る。
酒におぼれ生活が乱れた。1924年(大正13)市内の報恩寺で出家。法名耕畝(こうほ)。
熊本市北部の植木町味取(うえきまちみとり)の味取観音の堂守となった。1926年、行乞(ぎょうこつ)の旅を始め、
山口県小郡(現山口市)の其中庵(ごちゅうあん)に住したが、行乞漂泊すること多く、諸国を巡り、
1940年(昭和15)松山市の一草庵(いっそうあん)で没した。


◆ 其中庵(ごちゅうあん)


其中庵の場所

d0061579_10115477.jpg

其中庵は、山頭火が昭和7年9月から昭和13年10月まで暮らした庵である。
作句と行乞(ぎょうこつ)の旅に生きながらも安住の地を探していた山頭火は、小郡に住む俳友、国森樹明、
伊東敬治らのすすめによってこの地に庵を結んで、多くの俳友と交流を深めた。
山頭火は、近郊を行乞しながら、この其中庵で、『三八九』(さんぱく)第四、五、六集、句集『草木塔』、『山行水行』、
『雑草風景』、『柿の葉』などを発行し、最も充実した文学生活を過ごしたが、庵の老朽化に耐えず、
山口市に居を移した。現在の其中庵は、平成四年三月に当時の建物を復元したものである。


d0061579_10144391.jpg
d0061579_10151682.jpg
d0061579_10161610.jpg
d0061579_10163016.jpg

d0061579_1019565.jpg

d0061579_10193949.jpg


◆ 防府市 山頭火ふるさと館

山頭火ふるさと館の場所
d0061579_10352030.jpg

防府天満宮の石段下にある、観光交流・観光回遊を目的とした拠点施設まちの駅「うめてらす」から
歩いて西側へ約100mの所にあります。

d0061579_1038188.jpg
d0061579_10385570.jpg























防府市出身の種田山頭火を顕彰する「山頭火ふるさと館」が、平成29年10月7日(土曜日)に開館しました。

★ 館内の撮影は禁止なので、残念ですが紹介することが出来ません!!!

唯一撮影許可をされました、和紙人形作家・長沼隆代さんの作品展示があります。
2~3展紹介させて頂きます。

d0061579_10504963.jpg

d0061579_10513100.jpg


※ 「山頭火ふるさと館」ホームページ


※ 種田山頭火を紹介している私のホームページ 【けんじの館】をご覧下さい。

アンダーラインが引いてある所をクリックして頂ければ、そのページに飛べます・・・

[PR]
by kfujiken2 | 2017-12-25 11:17 | 歴史 | Comments(0)

話題の雪舟と山頭火を探訪  ①

室町時代の水墨画家・雪舟が描き、所在不明になっていた水墨画が84年ぶりに見つかったと、
山口県立美術館が東京都内で発表した。同館は10月31日から開かれた「雪舟発見!展」で公開した。
専門家は雪舟の代表作への道筋を示す、重要な作品と位置付けている。


d0061579_1328272.jpg


見つかったのは、軸装された約30センチ四方の団扇(だんせん)形の作品で、藍や緑などで
彩色を施した「倣夏珪山水図」。水辺に岩や木々が、奥には、なだらかな山脈が描かれている。
同美術館によると、雪舟が中国の名画家に倣って描いた「倣古図(ほうこず)シリーズ」の
うちの1点で、南宋(12~13世紀)の著名な画家夏珪の様式を模した。


◆ 雪舟の生涯

応永27年(1420年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。
幼い頃近くの宝福寺に入り当時文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・
文芸の分野を担っていた。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、天章周文に
絵を学んだ。

d0061579_14485760.jpg


享徳3年(1454年)頃、周防国に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市天花【てんげ】)を構える。寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。

応仁元年(1467)遣明船で中国に渡り、四明天童山(しめいてんどうざん)で前堂首座(ぜんどうしゅそ)に列せられ、また彩色や破墨(はぼく)の画法を学び帰国しました。

※ 楚石梵琦  : 中国,元末・明初の禅者
   四明天童山: 雪舟の称号
   前堂首座  : 江戸期の大僧堂では前堂首座と後堂首座の二人制を取るところもあった。
          首座(しゅそ)は禅宗の修行僧のリーダーをさす役職名

帰国後も、雪舟は雲谷庵に定住し作画活動と弟子の養成に努めましたが、永正3年(1506)87歳のとき山口で没したといわれています。  明治の廃藩後、雲谷庵は無くなりその跡も忘れられるようになったので有志等が図り、明治17年(1884)に古い社寺等の古材により庵を復興しました。


d0061579_14514289.jpg

d0061579_14521613.jpg


◆ 雪舟庭


雪舟は作庭家しても有名です。
日本水墨画の頂点を極めたは雪舟、彼の美の原点は中国だった。修行のために、当時の明へと渡った雪舟は、
そこで墨の黒を描くことで広がる白の世界と出会う。空白とのバランスで引き立つ美しさ、それは黒味を帯び石と
白砂だけで表現された石庭の美と相通じるものだった。実は、当時雪舟は、庭師としても名を知られていた。
枯山水の庭の心は、水墨画とも共通しており、それと同時に庭造りにも心を傾けていたのだという。
築いたものと伝えられる庭園は各地にあり、医光寺(島根県益田市)、萬福寺(島根県益田市)、
常栄寺(山口県山口市宮野下)、旧亀石坊庭園(福岡県田川郡添田町)の雪舟庭は雪舟四大庭園と呼ばれる。


常栄寺雪舟庭
d0061579_152548.jpg

d0061579_154111.jpg


◆ 雲谷庵跡(うんこくあん)

雲谷庵の場所


d0061579_1551540.jpg


雪舟が明(中国)から帰国した後、永正3年(1506)に没するまで創作活動を行ったと言われる山口県山口市天花(てんげ)にあるアトリエです。

d0061579_1585660.jpg

d0061579_1591576.jpg


雪舟は大内氏の招きにより、40歳頃に山口に来て、48歳の応仁元年(1467)に遣明船に乗り中国に渡りました。帰国後も雲谷庵に住み作画活動を行い、87歳のときにここ雲谷庵で没したといわれています。代表作「山水長巻」もここで描かれたと言われています。 現在の建物は明治17年に建てられたものですが、建物の部材は、一部室町時代のものだそうです。

雲谷庵の勝手口として造られたのか? 大内時代の古材を集めたから一宇を再建したのか?

d0061579_15223397.jpg

d0061579_1532510.jpg


雲谷庵の内部に囲炉裏のある部屋と和室の二部屋がありますが、荒廃してスリッパを履かなければ
上がることが出来ません!!!


d0061579_15403978.jpg

d0061579_1540527.jpg

[PR]
by kfujiken2 | 2017-12-20 15:45 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その④

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その④

3.内藤氏系図

山口大内氏家臣団で陶氏・内藤氏・杉氏が奉行三家老家に列せられた。
内藤氏は系図によると、平安中期に左大臣として政権を掌握した公卿・藤原道長の五代目の
後裔盛遠を始祖とする。旧内藤家庭園の概要説明に、天正10年(1582)に帰農して瀬戸後山に居住したとありますので、毛利元就の防長経略の時、追っ手から逃走中に立ち寄り帰農したのではないでしょうか?時代背景から想像すれば22代当主・内藤元珍か23代当主・内藤元宣の世代ではないでしょうかと推察いたします。

※ 防長経略: 天文24年10月12日(1555年)から弘治3年4月3日(1557年)まで行われた、
安芸の戦国大名毛利元就の大内氏領周防・長門侵攻作戦のことである。


d0061579_1131953.jpg




【内藤氏の歴史】


公卿・藤原道長から数えて五代目の後裔を始祖とした内藤盛遠から、23代当主・内藤元宣までの系譜を簡単に順次紹介致します。

初代当主・内藤盛遠(ないとう もりとお)は内供奉(注1)祐寛と末武の豪族福井検校大中臣光忠の女の間に生まれた第二子で、鳥羽天皇のとき内藤氏を賜わったとされるが、一説には盛遠の兄内舎人(注2)盛重が内藤氏を賜わったとも伝える。盛遠は筑前守に補せられ(注3)、従五位下を叙せられた。

内藤盛遠の子2代当主・内藤盛定(ないとう もりさだ)、孫の3代当主・内藤盛家(ないとう もりいえ)の時代は源平争乱期に当たる。内藤盛定の子内藤盛家は保延4年(1138)生まれで、寿永4年(1185)源氏に味方し、御家人となる。建久元年ごろから地頭をつとめる周防遠石)荘内の東大寺領,石清水八幡宮領を押領したため、停止命令をうけた。
盛家のあとは第七子4代当主・内藤盛時(ないとう もりとき)がついだ。母は摂津守師茂の女で、源実朝の乳母因幡局と伝えられる。建久元年(1190)生まれで内藤盛家の次男で幕府御家人。若年より幕府につかえ,京都への使者をつとめた。肥後守に補せられ、後五位上に叙された。1254年(建長6)1月19日、65歳で死没した。

つぎの5代当主内藤有盛は盛時の第二子で、童名を徳正丸、のち岩国小次郎ともいい、法名を覚阿と称した。有盛は父盛時から尾張国の牧野・浅井両郷と相模国の北畑之庄を伝領したが、このうち浅井郷を長男時信に、牧野庄と北畑之庄を二男時澄に譲渡した。有盛の妻は法名を仏心といい、前夫は弘中権正兼綱(法名白蓮)である。

有盛と仏心との間にできた第一子が6代当主・内藤時信で、法名を生西といい、肥後に補せられた。妻は母仏心の先夫弘中兼綱の女である。母仏心は小周防(周防本郡)の地頭職を前夫兼綱から相伝していたが、のちこの遺領をめぐって、仏心の子宗像孫次郎宗氏(法名宗通)と内藤時信の子7代当主・内藤盛兼との間で紛争が生じた。

盛兼の子8代当主・内藤盛秀は夭死(ようし)して嗣子がなかったので、時信の二男で盛兼の弟9代当主・内藤盛信が宗家を継いだ。盛信は初め勝間田備前守忠保の婿養子に入り、忠盛と称していた。この盛信の第一子が10代当主・内藤盛世で、童名を徳益丸、のち肥後太郎、法名を智陽と称した。1391年(明徳2)2月8日に死没しているから、盛世の活動時期はまさに南北朝の動乱期にあたる。
同年12月直冬は南朝方に帰順したが、大内弘世もまた翌年南朝方に帰順して周防守護職(注4)に任ぜられたから、周防には南北両朝に分かれて二人の守護が対立し、都濃郡を舞台に激戦が展開されることになった。内藤氏は宗家の盛世・盛貞親子は大内宗家に、庶家の藤時・盛清兄弟は鷲頭氏に属して相争った。藤時は有盛の第二子時澄の孫にあたる。父は時清で、肥後次郎と称し、尾張国の牧野庄、相模国の北畑庄および美濃国船木庄の地頭職を領していた。

鷲頭庄をめぐる攻防戦が大内弘世の勝利で終わると、内藤氏は宗家11代当主内藤盛貞のとき初めて大内盛見に仕え、長門国守護代(注5)に任ぜられ、盛貞の弟勝間田盛実はこれを補佐する小守護代を勤めた。以来、内藤氏は宗家が長門守護代、庶家の勝間田氏が小守護代に任ぜられることが多かった。内藤氏の所領は盛貞のとき周防国の本郷・小周防・勝間村および伊予国成吉別府村であったが、のちには長門・筑前・豊前の各地にも散在した。盛貞が長門守護に補せられて以後、拠点は長門部に移り、都濃郡との関係は希薄になった。長門守護代は盛貞のあと、12代当主・内藤有貞、13代当主・内藤盛世、14代当主・内藤武盛らに伝えられた。大内義興没後、興盛は義隆に仕えて軍評定衆となり、大内氏の被官の中でも陶・杉両氏と並んでその重責をになった。

※ (注1) 内供奉(ないくぶ): 宮中の内道場で供奉し読師の役などをつとめる僧
※ (注2) 内舎人(うどねり): 宮内庁職員のうち、天皇のそばに控え、身支度を整え  
                  るなど私的な世話や雑用を担当し、日常生活を支える
※ (注3) 補せられ     : 役人として役職に任じられる
※ (注4) 守護職      : 国単位で設置された軍事指揮官・行政官である
※ (注5) 守護代      : 鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職



d0061579_11563461.jpg


5代当主・内藤弘矩(ないとう ひろのり)は大内氏重臣として権勢をふるったが、讒言に
より謀反の疑いがかけられ、その子弘和と共に大内氏の第30代当主・大内義興に誅殺された。冤罪と分かり、義興の意向で内藤弘矩の弟で内藤興盛の父16代当主・内藤弘春(ないとう ひろはる)が家督を継承することになり、その後17代当主・内藤興盛(ないとう おきもり)は弘矩の娘を娶り(めとり)、内藤氏の当主となる。
19代当主・内藤隆世(ないとう たかよ)は父18代当主・内藤隆時(ないとう たかとき)が早世していたため、天文20年(1551年)陶晴賢が大内義隆に謀反(大寧寺の変)した直後に隠居した祖父興盛の跡を継ぎ家督を相続した。変の後に大友氏から迎えられた大内義長の元で、実権を握る義兄の陶晴賢と共に大内家重臣となった。

20代当主・内藤隆春(ないとう たかはる)は大内家臣・陶晴賢の主君・大内義隆に対する謀叛(大寧寺の変)が起こると、父・内藤興盛と共に静観の態度を取るが、甥の内藤隆世の積極姿勢に反発して家内が紛争となる。天文23年(1554年)に父が死去し、弘治元年(1555年)の厳島の戦い後に毛利氏に内通し、弘治3年(1557年)の元就の防長経略の時には、内藤氏当主となっていた隆世と袂を分かち毛利氏に降り、元就らに従って転戦する。

21代当主・内藤元盛(ないとう もともり)は永禄9年(1566年)、毛利氏の家臣・宍戸元秀(毛利元就外孫)の次男として誕生。母は内藤興盛の娘。母方の伯父・内藤隆春の婿養子となり家督を継ぐ。毛利輝元の密命を受け、大坂の陣で豊臣方として参戦し豊臣方は敗北し滅亡。内藤元盛も毛利氏一門であることが露見してしまう。江戸幕府の厳命を受けた毛利氏の厳しい捜索により逃亡中に京都で捕縛され切腹させられた。

22代当主・内藤元珍(ないとう もとよし)は毛利氏の家臣である内藤元盛(佐野道可)の長男として生まれた。大坂夏の陣後、内藤元珍は帰国して早々、吉川広家や福原広俊らの進言を受けた毛利輝元に切腹を命じられ、元和元年(1615年)富海の龍谷寺で自害した。

23代当主・内藤元宣(ないとう もともり)は元珍の長男で母方の志道姓を称し、毛利家に帰参するものの隠忍の日々を過ごすが、孫の内藤隆昌の代に内藤姓に復し、船木村・末益村8370石を与えられた。以後、子孫は 厚狭毛利家に仕えて明治維新に至った。

[PR]
by kfujiken2 | 2017-12-11 12:01 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その③

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その③

2.旧内藤家屋敷跡と庭園の場所

 米泉湖沿いに県道41号下松鹿野線を北に進み、下松市下谷より県道139号三瀬川下松線を直進。
米川部落を過ぎ「滝の口親水公園」バス停を過ぎると、次に「大将軍山登山口」バス停がある。右手に
末武川の上流に架かっている後山橋を渡たると、旧内藤家屋敷跡と大将軍山登山口案内板がある。
車で900mの案内が書いてある。瀬戸後山に登る途中に三叉路に分かれた所に看板があります。
そこを右折すると右側に大将軍山登山口と左側に旧内藤家屋敷跡があります。


【下松市米川周辺の地図】
d0061579_168320.jpg


【末武川の上流に架かっている後山橋】
d0061579_1610163.jpg


【後山橋を渡った三叉路】
d0061579_1612492.jpg


【後山の林道に行く道案内】

d0061579_16145735.jpg


【瀬戸後山に登る途中の三叉路を右折】
d0061579_1617599.jpg


【旧内藤家屋敷跡と大将軍登山口】
d0061579_16201850.jpg


の看板を南に20m坂道を登ると、旧内藤家屋敷跡に着きます。
d0061579_16385671.jpg


次回は内藤氏の歴史と題して、内藤家系図をご覧頂きながら調べることが
出来た範囲でございますが、始祖内藤盛遠から23代当主・内藤元宣まで
簡単に系譜を紹介致します。

[PR]
by kfujiken2 | 2017-12-05 16:49 | 歴史 | Comments(0)


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


by fujiken

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

リンク

カテゴリ

風景
歴史

コラム
未分類

フォロー中のブログ

四季の風景
6ワン’s mom
つれづれなるままに
四季折々
より美しく!より健康に!
季節の花々に癒されて
時の流れのままに
風に吹かれて~♪
月の沙漠を
hiroshijiji1...
おいしいマイニチ
一期一会 ~あけぼのフェ...
農園のドタバタ奮闘記
俺の心旅

最新のコメント

>また、毎年9月日本史を..
by 白虎 at 23:42
貴方が言われていることも..
by 会津生まれ at 20:27
おいでませ、長州より発信..
by kfujiken2 at 15:57
早速 探しました。 すぐ..
by りこ at 11:05
私はブログをやっていませ..
by なすび at 21:01
なすびさんのサイトを紹介..
by kfujiken2 at 09:05
戦争ができないとヤバいで..
by なすび at 11:48
ご指摘痛み入ります。 ..
by kfujiken2 at 10:28
会津の人間です。 記事..
by あかべこ at 05:24
貴殿は気づかれていないよ..
by なすび at 13:09

以前の記事

2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
more...

最新の記事

サラリーマン川柳
at 2018-02-16 12:52
悲運の三代目奇兵隊総督 赤禰..
at 2018-02-08 11:21
節分って何???
at 2018-02-02 11:00
ものもう‐す
at 2018-01-22 12:03
光市に素晴らしい南画家がいた
at 2018-01-10 13:27

ブログジャンル

画像一覧