山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


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北浦(長門・萩・津和野)をピンポイントで散策 Part2

おっとと~ 寄り道したのを忘れていた!!

国道316号線を北上し湯本温泉街に入り大谷山荘が見えて来た。
昨年プーチン大統領が宿泊され、安倍総理と日露首脳会談が行われた大谷山荘を
見学する訳にも行かず、ならば大内義隆父子が自刃された大寧寺にお参りして行こう
と立ち寄りました。


大寧寺は皆さんよくご承知とは思いますが、1551年(天文20)、陶晴賢の反逆により山口を追われた
大内義隆は、仙崎から海路九州へと逃れようしたが叶わず大寧寺に籠もったが、陶軍の攻撃を受けて
9月1日寺内において自刃した。


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※ 【ちょっと一言】 大寧寺開基は長門守護代・鷲頭弘忠(わしず ひろただ)とありますが、
鷲頭家の始祖は、周防国鷲頭庄(現在の下松市近辺)を所領とした大内氏の一族で、
鷲頭弘忠は6代目にあたる、つまり下松市に居を構え下松市にゆかりのある一族ということです。



「姿見の池」と「かぶと掛けの岩」
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盤石橋 (ばんじゃくきょう)

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本堂に通じる第一の橋を盤石橋と言います。 全長14.2メートル、幅2.4メートル。橋下に大寧寺川の渓流が
美しい。 自然石を巧みに組み合わせた橋の工法が見事です。
かってこの橋は、岩国の錦帯橋、山口にあった虹橋と並ぶ「防長三奇橋」のひとつに数えられました。
橋の巨石に漢詩と建設の記録が刻まれています。


仏法を守る石彫 釈迦三尊と十六羅漢

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# by kfujiken2 | 2017-08-24 09:10 | 未分類 | Comments(2)

北浦(長門・萩・津和野)をピンポイントで散策 Part1

とりあえず西から東へと山陽自動車道の美祢ICで降り、国道316号線を北上し長門市へ!!!目的地童謡詩人・金子みすゞ記念館へひとっ飛び・・・

みすゞが幼少期を過ごした書店・金子文英堂の店の前と店内
当時の復刻版が並んでいる

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一階部分 すぐ左側に二階に上がる階段がある。
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二階にあるみすゞの部屋 窓から通りを眺めていたとか。

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※ 【金子みすゞ記念館】 は撮影禁止 クリックすると金子みすゞ記念館のホームページに
ジャンプします。



みすゞモザイクアートM2012

木片ピース20,000個を使って作られた立体モザイクアートです。女学校時代と20歳のみすゞの
肖像画と王子山から見た仙崎の風景、青海島の変装行列をモチーフに作られたもので、左右、正面からと
3方向で違ったモザイクアートを見ることできます。

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プロジェクトM20000


長門市仙崎のみすゞ通り中ほどにある、旧JA倉庫に展示されている「プロジェクトM20000」は、
蒲鉾板20,000枚を組み合わせて、金子みすゞの詩「大漁」の世界を表現しています。
この「プロジェクトM20000」には仕掛けがあり、部屋の中にあるスイッチを押すとブラックライトに
照らされた大羽鰮の大群が浮かび上がります。


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入口正面の壁面には、イラストレーター尾崎眞吾氏が描いた金子みすゞの肖像画が、
プリントされています。

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駐車場側の壁面には、12万枚の写真による巨大モザイクアートの縮小版が、
プリントされています。

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# by kfujiken2 | 2017-08-21 16:01 | 未分類 | Comments(0)

「弾除け神社(三坂神社)」

戦時中、山口県徳地に「弾除け神社(三坂神社)」と呼ばれた神社があります。
戦地での無事を願って家族が、本人に内緒で写真を奉納し送り出したそうです。


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明治8年(1875年)、郷社に列し日清・日露戦争の際、三坂神社に武運長久を祈願した人が
全員無事に帰還したことが報道され、「弾除けの神」として有名になった。
大正8年(1919年)、県社に昇格。昭和になり、日中戦争以降、武運長久祈願のための参拝者が激増、
最高で1日に880人が祈願したそうです。
終戦後、参拝者名簿は事前に焼却し、祈願写真は隣家の床下に隠して無事なものもあり、
その数一万数千枚に達したらしい・・・

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三坂神社は大きな神社ではないが、『周防徳地誌』に万葉集に「千早振る神の三坂に
幣奉り祝ふいのちはおも父がため」と詠まれており、、正一位を授かり、豊臣秀吉公が
三坂神社に参り五色の吹貫等を献納し、参道の石畳は足利尊氏が敷いたと記述が
あるそうです。
由緒ある神社ですよ~~~
現在は石が風化して刻まれた文字は読むことが出来ませんが、
二ノ鳥居の銘に「延書式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(1698年)戊陽月」とあり、長州藩4代藩主毛利吉広の寄進であったことが分る。


足利尊氏が敷いたという参道の石畳
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長州藩4代藩主毛利吉広の寄進したという二ノ鳥居
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幕末の文久元年(1861年)に現在の拝殿が建てられたが、本殿・幣殿は昔のまま様です。
それに左上に本殿が見えますが、拝殿からの続きになっているようで中を見ることは出来ません!


社殿の全景と拝殿
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神徳顕彰碑
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# by kfujiken2 | 2017-08-14 15:53 | 歴史 | Comments(0)

憲法改正

憲法改正が兎や角いわれている昨今、我々国民にはピンとこない問題ですが、
あなたは真剣に考えられたことがありますか?
なぜ憲法を改正する必要があるのでしょうか? 憲法が改正されると、私たちの生活に
どんな影響があるのでしょうか?


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ちなみに立憲国家での憲法改正がドイツでは59回、アメリカが6回、フランスが27回、
イタリア、カナダなども10回以上なされています。他の先進国との比較という点で見ると、日本の0回というのは異例と言えるでしょう。
日本国憲法は改正するのが難しい「硬性憲法」で、1947年の施行以来、一度も改正されたことがありません。改正議論自体はこの約70年の間に何度も行われております。
先ずその真意は、作られた時代と現在では諸事情が違い、そぐわないと言うか対応出来ない為である。
「戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のつくった憲法ではなく、日本国として独自の憲法を持つ」という点にあります。


※ 硬性憲法とは・・・憲法に関する論考において改正の困難さで各国の(広義の)憲法を二つに
分類した場合に、改正が困難な側に分類される憲法のこと。


憲法改正の条項は多数あると思いますが、特に問題点は第9条と第96条ではないかと
判断します。


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第9条・条文


1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


つまり、第1項で「戦争の放棄」、第2項で「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を定めている。


【憲法第9条の改正草案】
この改正案で条文が下記のように変わる。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たるとしての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段として用いない。
2.前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

第9条の二が補足される
わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。


では第9条を改正するメリット・デメリットは・・・
◆ 憲法9条を改正するメリット
* 現状と憲法との相違をなくせる
* 自衛官の負担を減らし命を守れる
* 海外での邦人救出

◆ 憲法9条改正のデメリット
* 戦争ができる国になる
* 他国(米国)の戦争に参加させられる
* 徴兵制が復活する


※ 「戦争の放棄」という言葉が削られ、「安全保障」になる。「戦力は保持しない」「交戦権は認めない」という言葉も削られるけれど、一方で、「国防軍」を持つことが明記されている。

憲法第96条・・・日本国憲法の改正手続きについて定めた条文です。

各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。



【憲法第96条改正草案】 この改正案で条文が下記のように変わる。

衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民の投票において有効投票の過半数の賛成を必要とする。

※ グローバル化もめまぐるしく進んでおり、変化する時代にこれだけ憲法改正のハードルが高いと迅速かつ柔軟に対応できないので、緩和しょうというのが憲法改正の狙いである。
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# by kfujiken2 | 2017-08-09 11:42 | 未分類 | Comments(3)

江戸時代塩田の歴史遺構・柳井市「天津橋」

柳井市は度々お邪魔しているのですが、金魚ちょうちんの撮影に行った時、
何か歴史的に珍しいものはないかとネットで調べていると、江戸時代塩田の
歴史遺構の橋があることを知りました。


慶応元年に改修された「天津橋」は、ビジコム柳井スタジアム(柳井市民球場)の敷地内に移設、一般公開されている。天津橋は花こう岩を組んだ石橋で全長約15メートル、幅1・8メートル。川の両岸から桁石(けたいし)を斜めに張り出し、桁石の先端に橋桁の石を乗せ架橋する刎橋(はねばし)構造で、橋脚がないのが特徴だ。


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構造のイラスト図面です

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◆ 柳井市ホームページよりお借りしました ◆

両岸から桁石(けたいし)を斜めに張り出し、桁石の先端に橋桁の石を乗せ架橋する
刎橋(はねばし)構造

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橋が架けられた柳井浜は、江戸時代の1810年に柳井川河口を開発した塩田で
総面積は約24ヘクタールあった。東浜と西浜に分かれ、両浜の間には海水を取り
入れると共に釜をたく木材を運び入れ、塩を搬出する堀川(中川)が設けられた。
両浜を結ぶ天津橋は当初は木製の橋だったが、文政13年(1830)に石橋に架け
替えられ、現存する橋は慶応元年(1865)年に改修されたものである。
上荷船の通行のために、橋脚を設置しない、弓を張った形をなす張出し式の石橋である。
橋脚がないことから地元では「幽霊橋」と呼ばれ親しまれてきた。
柳井浜は、昭和34年の塩業整備臨時措置法の成立を機に製塩業を廃止することと
なった。そして昭和39年に日立製作所が柳井へ進出するに伴って、塩田及び中川は
埋め立てられた。
天津橋は、その後に進出した(株)ルネサス柳井セミコンダクタの工場敷地内に存続し
続けた。


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昭和30年ころの堀川に架かる天津橋
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# by kfujiken2 | 2017-08-01 10:48 | 歴史 | Comments(0)

金魚ちょうちん祭り

8月13日の「金魚ちょうちん祭り」に向けて、あちこちで金魚ちょうちんの飾りつけの準備が進んでるようです。

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赤と白のすっきりとした胴体に、パッチリと黒い目を開いたおどけた顔の「金魚ちょうちん」。
割り竹で組んだ骨組みに和紙を貼り、赤と黒の染料で色付けして作られ、今では夏の風物詩として、
白壁の町並みにも彩りを添えています。
柳井いろはかるたにも「軒にゆらゆら 金魚ちょうちん」と詠まれ、大きなしっぽの赤い金魚は、
どこかユーモラスで人々に愛されています。
愛嬌のあるその姿は、全国民芸品番付でも上位にランクされるなど、山口県の代表的な民芸品
として成長しました。

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JR柳井駅中央ホールに全長4メートル、胴回り3メートルで、通常サイズの10倍にあるそうです。
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明治・大正時代のオシャレな雰囲気が漂う麗都路(れとろ)通り。
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●金魚ちょうちんの由来●


江戸時代から明治にかけて、柳井津金屋でロウソク屋を営んでいた熊谷林三郎(さかい屋)という人が、
青森のねぶたにヒントを得て、伝統織物「柳井縞」の染料を用いて「金魚ちょうちん」を創始したと一説には
いわれています。林三郎の死後は、息子の定治が宮本の姓となり、看板屋を営みながら「金魚ちょうちん」を
作り、二代目となりました。
そして定治の息子も看板屋を営みながら「金魚ちょうちん」を作り、三代目となりましたが、その息子は福田の
姓となって小間物屋を営み、「金魚ちょうちん」は作りませんでした。
そこで本町通りで、洗い張り業をしていた長和定二という人が、三代目から作り方を習い、四代目となりました。四代目は第二次世界大戦頃まで「金魚ちょうちん」を作っていましたが、その後は作らなくなり途絶えて
いました。しかし、四代目が昭和37年に他界される直前に、文献により柳井に昔「金魚ちょうちん」というものがあったことを知った周防大島町小松に住む上領芳宏さんが、四代目が光市大和町岩田に生存している
ことを知り、「金魚ちょうちん」を復活させ五代目となりました。昭和37年7月のことです。
独自の技法を加えて今日の美しい金魚ちょうちんを完成させたのは、この上領芳宏さんです。
「金魚ちょうちん」は、古くは多くの家々でおとなが作って子供に与えていました。
また、氏神様の祭礼などの「お迎えちょうちん」の中に交じって、彩をそえていたそうです。
昭和期に発行された日本郷土玩具番付(日本郷土玩具の会)等でも上位にランクされるなど、
山口県の代表的な民芸品にまで成長しました。


柳井商工会議所の【やないの魅力伝え隊】のホームページを引用させて頂きました。
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# by kfujiken2 | 2017-07-30 07:58 | 未分類 | Comments(0)

光市の夏の風物詩!長く愛される伝統のイベント!

昨日、虹ケ浜海岸で第25回「サンドアートin光」が開催されました。

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サンドアートとは、干潮時に2時間程度出現する干潟を利用し、子どもから大人までが一緒になって、砂を素材とした作品を作りその出来栄えを競うものです。
大潮の日を選んで開催されるようですが、残念なことに昔と比べ虹ケ浜海岸の様相が随分変った様に思います。昔は波打ち際から砂浜の最上部までの幅(奥行き)の距離がもっとあった様に記憶しております。
砂浜の侵食があり幅が減ったのでしょうか???


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潮が完全に引き砂浜状態になり、側に近寄ってサンドアートが撮影出来ると、
広角レンズしか持って行かなかったのです。
あにはからんや 水深が深い訳ではありませんが海水に入らなければ会場の
砂浜まで行くことが出来ません!!!
慌てて望遠レンズを車まで取りに帰りました 疲れた 。・゜・(/Д`)・゜・。うわぁぁぁぁん


アトラクションで熟女と子供達のフラダンスが演じられました。

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# by kfujiken2 | 2017-07-24 07:41 | 未分類 | Comments(0)

万葉の森の大賀ハス

万葉の森茶室前の池には、縄文時代に咲いていたという「大賀ハス=古代ハス」が、
約2,000株育っています。

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見物できる場所からハスが咲く場所まで1~2メートルほど距離があります。
そのため手で触れたり、間近で見ることができません。また周囲は木々に囲まれて
いるので、景観は悪くありませんが開放感はあまり感じない。


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大賀ハスは、昭和26年千葉県の検見川遺跡で発見された種子を栽培し、開花に成功したもので、発見者の大賀一郎博士にちなんで命名されました。花が咲き始めるのは朝5時頃で、満開になるのは朝8時頃です。

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ここ万葉の森の大賀ハスは、1976年に岡山から4株の蓮根を譲り受け、周南緑地の一角を「万葉の森」として造成・整備するにあたり、昭和51年に西緑地公園の池に移植され、翌年に開花したのが始まりです。


最後にマクロで・・・

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# by kfujiken2 | 2017-07-19 09:38 | | Comments(0)

今から99年前に徳山湾でおこった悲劇をご存知でしょうか?

1918年(大正7年)7月12日、徳山湾に浮かぶ仙島の近くで、戦艦「河内(かわち)」の乗組員621人の尊い命が奪われた悲しい出来事がありました。
慰霊祭のある仙島には、福川の高州漁港から船で行くため、一般市民は容易に参加することが難しく、毎年30~40人の参加者で行われます。慰霊祭に参加した人だけで語り継ぐことが難しいと共に、顕彰会や保存会もなく、あまり知られていない出来事です。
大津島の回天記念館、周防大島町の陸奥記念館などは知られていますが、語り継ぎたい歴史がここにもありますのでご紹介します。


戦艦「河内(かわち)」
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戦艦「河内」の沈没場所
仙島(山口県周南市大字富田) 北緯34°0分・東経131°46分

戦艦「河内」の概要

「河内」は、第1次世界大戦前の1912年に日本海軍が竣工させた弩級(どきゅう)戦艦です。
それまではヨーヅロッパなどから輸入していましたが、日本の技術力の向上により設計・建造された
世界でも群を抜く性能の国産初の大型戦艦でした。
「弩級」とは、大型で巨砲を持つことが戦艦の戦力として競い合われる中、当時の世界最大砲12インチ砲を装備した1906年のイギリス最新鋭大型戦艦「ドレッドノート号」の性能を持つ戦艦のことであり、
「ド級」と呼ばれ、漢字をあてて「弩級」と表されました。
「河内」は、排水量20,800トン、全長152.4m、全幅25.7mという大きな艦体に、新設計の50口径(30.5cm)の主砲や副砲などドレヅドノート号の性能を上回る多くの装備を搭載していました。
しかし、この最新鋭の軍艦が、わずか6年で沈没してしまったのです。それ以前にも、日露戦争後の
1905年(明治38年)から1917年(大正6年)までの12年間に、7隻も軍艦の爆発事故が発生しており、
それに続く「河内」の爆沈事故は、日本海軍にとって大きなショックとなりました。


戦艦「河内」の惨劇


第1次世界大戦終わりの頃です。国内は、平時でした。戦艦「河内」は、訓練の途中で、
前日からの荒天を避けるために、他の艦艇(山城、扶桑、伊勢、摂津、河内、利根、他駆逐艦)と共に
徳山湾に停泊中でした。
各艦艇では、夕食の準備に追われていた時刻の午後3時57分、突然右舷前部主砲塔付近で2回の
爆発が起こり、大音響と同時に砲塔周辺部や煙突から大火災が発生し、周辺には無数の鉄片が飛散し、
火柱と黒煙の渦が天空を覆いました。
巨艦は急速に右舷側に傾斜し、大爆発後4分という速さで転覆し、艦底の一部を海面に現しました。
瞬時の出来事で、多数の人が中に閉じ込められ、辺り一面が血の海と化していきました。
乗員1,020名の将兵のうち、621名が殉死となる大惨事となったのです。
最新鋭軍艦の爆沈原因を探るため、徹底的な調査が行われ、家族や親族、交友関係まで
巻き込むものでしたが、幹部将校をはじめとする乗員の殉職者があまりにも多く、
また残骸の回収調査も思うように進まなかったため、確証が得られず原因不明のまま
謎の事故として終わりました。
この大きな犠牲を契機に、海軍では危機管理を徹底する方針を打ち出しました。
その結果、1943年(昭和18年)の戦艦陸奥爆沈までの25年間、事故はありませんでした。


戦艦「河内」の慰霊祭


地域住民の犠牲者を偲ぶ気持ちは、事故後も変わりませんでした。翌年の1周忌に富田町長が
発起人となり官民上げて仙島干渡に慰霊碑が建立されました。慰霊碑のある黒髪島と仙島の間の
砂州(干渡)は、遺体の処理が行われた場所でした。lOm近い高さの慰霊碑の奥に茶毘に付した納骨堂が
あります。
この場所は、船着場がなく海が荒れると降りることがでません。


軍艦河内殉難者英霊之碑
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YMD特設ブログ所様より画像をお借りしました。

参考資料  徳山地方郷土史研究会 田中賢一
        YMD特設ブログ所

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# by kfujiken2 | 2017-07-15 14:41 | 歴史 | Comments(0)

旧山陽道の門前宿場町・下松市花岡の史跡

【花岡勘場跡】

萩藩創建期の頃に設置された都濃宰判(代官所)の跡地。
代官は年3回春秋冬に萩から出張して重要な決裁を行っていた。日頃は大庄屋が出勤して
代官の代わりを務めていたという。付近には、御茶屋(本陣)・御番所・高札場などがあり、
花岡がこの地方の政治文化の中心であり、交通の要所であったことがうかがえる。


花岡八幡宮に奉納された絵馬に描かれていたものだそうです。
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絵図の左側が御茶屋、右上が勘場、右下が御番所。

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【春雨桜碑】 

幕末の長州藩主、毛利敬親公にまつわる春雨桜の碑です。
文久元年、毛利敬親公が上京しているとき、病になられたそうです。花岡の本陣に至って病気は重く、
約2週間を間、静養されました。その折に、庭の桜を眺められ、樹下の砂鉄が花の眺めを妨げることを
心配されたそうです。
明治37年、敬親公遺愛の桜として、公の雅号から春雨(しゅんう)をとって「春雨桜」と称し、
記念碑を建立しました。撰文は楫取素彦によります。


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桜の古木はどこにあるのだろうか?
枯れたのだろうか? 説明版がないので分からない (´∩`。)ハテ
側にある若木のこの桜は、2代目なんでしょうか!!!

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【天然記念物 花岡の槙柏】

この高木は「槙柏(しんぱく)」といい、ヒノキ科の常緑針葉高木でイブキの変種だそうです。
絵図の左側見えるのが槙柏で、勘場の屋敷内に植えられていたようですね・・・

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大砲が二門置かれているが、防御のために備えていたのかな~
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【場所】
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# by kfujiken2 | 2017-07-12 11:51 | 歴史 | Comments(0)