長州より発信

kfujiken2.exblog.jp

山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

四熊家は、徳山藩領周防富田(現在 周南市土井)に16世紀から続く旧家で、宝暦の頃から「見学堂」という私塾を開設し、広く医学生を集め、嘉永の頃まで続きました。

主屋は、江戸時代初期から医業を受け継いだ旧家の主屋で、桁行8間半、梁間5間半、2階建てで、
屋根は寄棟造、茅葺で、周囲に桟瓦葺の庇を巡らせています。県下でも数少ない大規模な茅葺屋根を
残す民家で、裏山を背負って建つ姿は、地域を代表する歴史的景観を形成しています。
診療棟は、主屋の玄関脇に前方に突出して設けられた付属棟で、約5メートル四方の診療室と
その東脇の出入り口・受付からなります。外壁は鼠漆喰塗りとし、縦長の上下げ窓の窓枠や
隅の柱形は繰形を付けて白漆喰で仕上げ、控えめながら洋風の意匠を造っています。


d0061579_10541472.jpg

d0061579_10552079.jpg

d0061579_1058316.jpg


山口大学医学部の源流 ― 防長二州における医学教育 ―

四熊家は徳山藩内富田土井(現周南市土井)に16世紀中頃から続く旧家であるが、
6代久左衛門為方から医業が始まった。9代久左衛門俊方は宝暦11(1761)年に
長崎で阿蘭陀医術を習得し、地元に蘭方も教授する私塾「見学堂」を開校した。
その後12代直方宗庵(1833~1908)は大阪に遊学して儒学と医学を学び
地元に帰り開業し、さらに戊辰戦争では徳山藩医として奥州、函館に従軍した。
防長二州においては、長崎との距離や交通の要衡下関の存在が西洋医学の受け入れを促進したと
考えられる。また「長崎聞役(ながさきききやく)」の配置や漂着外国人長崎送りに際しての
医家同行などは、長崎からの海外最新情報収集を助けた。
毛利藩には、萩本藩と長府藩、清末藩、徳山藩、岩国藩(幕末までは岩国領)の4支藩が存在したが、
医学教育についてはそれぞれ独自の展開をみせた。
四熊見学堂に加えて、天保年間に萩本藩に開設された漢方と蘭学の優秀な教授陣による独自の
医学教育機関・好生館(堂)、明治初期の赤間関(下関)と三田尻(防府)における医学校開設
並びに独自の医術試験(壬申考試 じんしんこうし)実施など、防長二州の医学教育には
ユニークなものがあるが、四熊家と浅山家はその一翼を担っていたわけです。


d0061579_10594557.jpg

d0061579_110277.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-03-27 11:12 | 歴史 | Comments(0)
山口市大内出身で日産コンツェルン創始者・鮎川義介(1880~1967年)を紹介する企画展が、没後50年の節目を記念し、菜香亭で開催されています。

d0061579_11105361.jpg
鮎川義介を簡単に紹介すると、1928年久原鉱業(久原房之助創立)を譲り受け日本産業と改称し、これを持株会社として形成した最大の新興コンェルンの創始者で、1937年には傘下に日本鉱業・日立製作所・日産自動車など有力重工業企業以下直系・傍系150社を擁した企業を創った人です。「重工業王」鮎川義介は、恵まれた環境に甘んじることなく、確固たる信念と行動力で自らの道を突き進んだ“重工業王”。「低処高思」な生き方を貫いた“ギスケイズム”とは、鮎川義介の生き方をいいます。
d0061579_16085823.jpg

d0061579_16132040.jpg
鮎川義介は元長州藩士で官吏などを務めた父、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県山口市で生まれた。裕福な家庭ではなかったものの、大叔父の井上に将来はエンジニアになれと勧められ、旧制山口高校から東京帝国大学工科大学機械科へ進学。井上邸から通学していたとき、出入りする多くの政財界人と接して進んで使われてみようという人物はいなかったと述べている。

「元来、生物だけが意識をもっているとおもうのは人間の錯覚で、神は万物にそれを与えている。それを善用できるのは、“愛のつながり”以外にはない」。これはかつて“重工業王”といわれた男がいった言葉である。これは会社というものを“生きもの”としてとらえた、いかにも日本人らしい企業観だ。その人物は、あくまでも現場主義にこだわり、日本の “伝統的人情” というものを忘れなかったベンチャーのさきがけであった。

日産コンツェルンを一代で築いた鮎川義介(1880-1967)は一介の見習い工として出発した。文字どおり現場で汗を流し、機械製造の基礎となる鋳物づくりを学んだ。国内のレベルに限界を感じると渡米して工場労働者となり、最新の技術を習得する。鮎川が名門の家系や優秀な学歴を隠して重労働に身を投じたのは「いずれは自分で経営をしたい。そのためには現場を知りたいので一から出発したほうがよい」と判断したからだ。 あえて困難な道を選んだ鮎川は紆余曲折を経ながらも志を果たし、自動車、家電、水産などの分野で三井・三菱の両財閥を凌ぐ独自の企業集団を形成していく。誰よりも現場で格闘したという原体験が苦境のときでも鮎川を奮い立たせる強靭な底力となっていた。

 
d0061579_11332663.jpg
「低処高思」とは、イギリスの詩人・ワーズワース(1770-1850)の「生活は簡素に、思想は高貴に」からきている。高い志をもってあえて低い所に身をおくといった意味だ。「先験的」な一大事業を成し遂げた事業構想家には、
こうした行動形態をとる人物が意外と多い。かれらに共通するのは、それまでに積み上げたキャリアをかなぐり
捨て、新しい世界で自分の道をきりひらいているということである。
「キャリアアップ」などという概念はかれらにはなく、スタートラインに立つことで見えてくるものがあることを知って
いるのだろう。「人間には反発心が大切である」「経験は蓄積資本である」と義介自身は語る。

鮎川義介が晩年に趣味として始めた墨絵です。
d0061579_11412404.jpg







[PR]
# by kfujiken2 | 2017-03-14 11:48 | 歴史 | Comments(0)
昨日英国向け高速鉄道車両の昼間陸送イベントが開催された。
(株)日立製作所笠戸事業所が製造している英国向け高速鉄道車両は、下松第2埠頭から
船で英国に出荷されており、同社から埠頭までは車道を使って陸上輸送(陸送)されています。
通常交通量の少ない夜間に行われている「陸送」を日中に行うのが今回のイベントでした。

d0061579_11364566.jpg
どの位の観客が居たのだろう??? 1万人は居たのかなぁ~と思っていましたが、
今朝のテレビニュースを観て驚きました なんと3万人の観客だって!!!


14時から日立製作所笠戸事業所を陸送スタートとポスターに記載してあるので
少し早いが12時位に家を出、観覧エリアの下松市民運動場(臨時駐車場)に行きました。
驚いたことに600台収容とあるが、約8割の車が既に駐車しており次々入っていました。


d0061579_11441898.jpg
12時頃の様子です。まだ観客はまばらです。
d0061579_11452868.jpg
d0061579_11463024.jpg
沿道には既に折りたたみイスを広げ三脚を立て、又、ビニールシートに座り込み昼食を食べて
いる人も結構いましたが、まだ車輌が来る時間まで2時間半あると思い、とりあえず周りの様子とか
テントや大型映像装置搭載車(LED車)の画像を撮り、車で本を読みながら待機と決め込みました。
d0061579_11561332.jpg
d0061579_11560175.jpg
d0061579_11564053.jpg
そろそろ時間かなと気が付き時計を見ると1時30分・・・
沿道に出てみると驚きです!!!  居場所が無いほど人で溢れすし詰め状態です。
直ぐ様、第2公共埠頭の方へ移動しました。
しかし初めは前列に立っていたのですが子供や強引な人に押され、後に追いやられました。
下松清掃工場跡地のコンクリートスロープに立ち待ってました。

d0061579_12011562.jpg
d0061579_12013088.jpg
d0061579_12013802.jpg
結局 寒い思いをし長時間待ってちゃんとした写真も撮れず、何しに行ったか分からない一日でした。
過去下松市で狭い一ヶ所に、3万人も集まるイベントがあったでしょうか?




[PR]
# by kfujiken2 | 2017-03-06 12:20 | 未分類 | Comments(0)
場所や樹により開花の差がありますが、見頃ではないですかね~
梅の里(冠梅園)には100種、約2000本の梅の木があります。

d0061579_10401478.jpg

d0061579_10405337.jpg



丘陵を上りきると、冠山総合公園内が見渡せ、光市街地、瀬戸内海も展望できる。
眺めはとても良い場所なんだけど、高い場所なだけに日が陰るとかなりの寒い!!

d0061579_10471892.jpg
d0061579_10474480.jpg
d0061579_11042174.jpg
d0061579_11132037.jpg
d0061579_11135488.jpg
冠梅園と冠天満宮は赤い橋で繋がっています
d0061579_11162168.jpg
冠天満宮は旧国道188号に面して大きな鳥居・広場があり、そこから石段を登っていきます。元々は、光井の地にあることから「光井天満宮」と称されていました。
菅原道真公(845~903年)が学問の神様として祀られており、多くの人々に崇拝されています。
道真公は学者の家系で幼少より学問に秀で長じて学徳高く文章(もんじょう)博士となられ、 宇多天皇の御信任篤く右大臣に任じられましたが藤原氏のざん言により太宰権帥に左遷されました。
筑紫へ下向の際、風波をさけて今の光市の戸仲の浦に立ち寄られた時に、百姓の神太夫(じんだゆう)が手厚くもてなしたお礼として冠を脱いで神太夫に与えられました。
d0061579_10514534.jpg
d0061579_10521052.jpg
冠石神殿境内神社
d0061579_10545303.jpg
d0061579_10554353.jpg
延喜元年(901)菅原道真公が筑紫の配所へ海路下向の折、風波をさけて戸仲の浦へ上陸された。
この時、村の神太夫親子が我家へ伴い奉り一両日のお泊りの間、心からお慰めした。 菅公のお悦びはひとしおで、出船にあたり別れを惜しまれ、形見にと召されたる御冠を脱ぎ与えられた。
その後、夢のお告げによって承平5年(935)祠を建てて、菅公をお祀りした。
この冠石は、その時の冠を収め奉ったところと伝えられる。


幸せを願って・・・
d0061579_11033619.jpg







[PR]
# by kfujiken2 | 2017-03-01 11:10 | | Comments(0)
鮎川義介(あゆかわ よしすけ)の日立製作所笠戸工場と東洋鋼鈑への関与

先ず、日立製作所笠戸工場の創立に関与した鮎川義介について説明しましょう。

久原房之助が都濃郡下松町と太華村(現在の周南市櫛浜)の両町村にわたる沿岸を買収して世界的大工業都市の建設「下松計画」を立て、造船業と製鉄業に乗り出し、とりあえず造船業の日本汽船株式会社を立ち上げる。創業当初は好調を極めていたものの、第一次世界大戦の終結をきっかけにアメリカの対外鉄鋼輸出禁止措置により、鉄の輸入が困難となり久原房之助は小平浪平(おだいら なみへい)率いる日立製作所に日本汽船株式会社を託した。つまり、久原鉱業所日立鉱山に工作課長として入社していた小平浪平が、日本汽船株式会社の社名を株式会社日立製作所笠戸事業所と変更し操業を続けたということです。株式会社日立製作所笠戸事業所の足掛かりは久原房之助だが、初代の創業者は小平浪平である。又、鮎川義介は久原房之助と義兄弟の関係にあり、久原房之助がいっさいの関係事業との絶縁を声明、実業界から引退し政界に出ることを決意して、久原鉱業の経営を、義兄鮎川義介にゆだねことから話が始まります。久原鉱業は日本産業と改称され鉱山部門が日本鉱業株式会社(後に新日鉱ホールディングス、現在のJXホールディングス)となり、後の日産コンツェルンへと発展していくことになります。

鮎川義介
d0061579_09365050.jpg
小平浪平
d0061579_09404789.jpg
東洋製罐株式会社を設立し後に、東洋鋼鈑下松工場を設立した高碕達之助の説明をし、鮎川義介との関係を説明致します。 

東洋鋼鈑下松工場は東洋製罐の子会社として、設立されたのは周知の通りですが何故下松の様な田舎の地を選んだか、又、誰が誘致したのか釈然としなかったが、山口県の先人として今旬なひと・日産コンツェルンを作った男として有名な鮎川義介が関わっていたのです。

高碕達之助(たかさき たつのすけ)は1917(大正6)年6 月25 日に東洋製罐株式会社を設立。
高碕達之助は日産コンツェルンの鮎川義介より満州進出の誘いを受けた。鮎川義介は当時満州重工業開発株式会社(満業)の総裁であった。高碕達之助は満州の鉄資源に引かれ、1939 年に視察目的で満州を訪れたが、満州でも鉄は軍部に牛耳られており、期待外れに終わった。
その後鮎川は高碕に満業の副総裁を依頼した。鮎川はかねて、親戚関係にあった日本水産の国司浩助より高碕の人望を聞いており、自分の仕事をぜひとも手伝ってほしいと熱望していたのである。高碕は決心がつかなかったが、周囲からの後押しもあり、1941 年に副総裁を引き受けた。しかし満州では軍部の横行と戦局の悪化のために思うような事業展開はほとんどできなかった。鮎川の総裁任期満了に伴い、1942 年、高碕は満業総裁に就任することになった。鮎川の退任と同時に高碕も副総裁を辞任し満業から手を引く意向であったが、軍部から許可が下りなかったのである。

事業拡張の一方、高碕はブリキの自給について本格的に検討し始めた。国産ブリキの第一号は1923 年に日本製鉄が生産したものであったが、缶詰に使えるような高品質なものではなく、大正から昭和初期のころは大半を輸入に頼っていた。
大阪で創業した東洋製罐株式会社の原材料のブリキ製造のため、下松に1934(昭和9)年資本金500万円で東洋鋼鈑株式会社を設立ときも鮎川義介の斡旋によるものでした。つまり鮎川義介は、久原房之助が下松計画を実行する為に買収した莫大な土地を保有していた久原鉱業の経営を、ゆだねられ管理していたのです。

高碕達之助

d0061579_09503585.jpg






[PR]
# by kfujiken2 | 2017-02-26 10:19 | 未分類 | Comments(0)

宮原古墳の概要

末武川右岸の和田丘陵台地にある円形墳で、昭和四十七年に調査された宮原遺跡の南にある。
巨石で築造された羨道(せんどう)、玄室(げんしつ)などをもつ古墳時代後期の片袖(かたそで)横穴式石室墳で、
大正年間調査され石棺、馬具類、須恵器(すえき)が出しました。


◆ 羨道(せんどう)・・・古墳の横穴式石室(墳丘側面から出入りする構造の石室)や横穴墓など横穴系埋葬施設において、
棺を納めて遺体を安置する主室ともいうべき玄室(げんしつ)と外部とを結ぶトンネル状の墓道的部分をさし、
入口は一般に羨門と呼ばれる。
◆ 玄室(げんしつ)・・・、横穴式石室や横穴の死者を埋葬する墓室をいう。
◆ 宮原遺跡は弥生時代前期後半・後期後半、古墳時代後期の複合遺跡です。2つの環濠集落からなり、
木葉文のない弥生土器が数多く出土しました。 

d0061579_15350814.jpg

(宮原古墳内部略図)
d0061579_15365962.jpg
d0061579_15475663.jpg
d0061579_15483432.jpg
丘陵台地を20m位登るとフラットな平地になります。
d0061579_15540388.jpg
d0061579_15562761.jpg
d0061579_15583699.jpg
d0061579_15592847.jpg
田布施の後井(ごい)古墳・国森古墳や柳井市の茶臼山古墳・平生の神花山古墳は女帝の墓と言われていますが、下松市洲鼻にあった宮の洲古墳や宮原古墳は、豪族の首長墓とあるが被葬者は誰?皇帝だったか女帝だったか分からない・・・ 
つまり埋葬者が男だったか女だったか分からないということです。



[PR]
# by kfujiken2 | 2017-02-19 16:10 | 歴史 | Comments(0)
小池都知事に注文 よく分からないカタカナ語はやめて!!!
都民ファーストならば分かりやすい日本語を使ってもらいたい。

「いつやるか? 今でしょ!」で有名な林 修さんが、テレビ番組「ネプリーグSP」で20人の女子アナ相手に【ニュースでよく聞くカタカナ現代用語】について、発言の文脈に適した意味を解答というのをやっていましたが、女子アナといえば名門大学卒業で殆どの女子アナが英会話できる。そんな彼女達が良く知らない言葉を一般人に分かる訳ないよね~
d0061579_10350420.jpg
12問の問題を提示しますが、さてあなたは何問正解出来ますか?挑戦してみて下さい。  下方に答えと説明を書いておきます。

Q1 ワイズスペンディング

Q2 サスティナブル

Q3 ダイバーシティ

Q4 イクボス宣言

Q5 ソーシャルファーム

Q6 イノベーション

Q7 メルクマール

Q8 フィンテック

Q9 IoT

Q10 スプリングボード

Q11 ブランディング

Q12 レガシー

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
















A1: 「賢い支出」という意味の英語。経済学者のケインズの言葉。不況対策として財政支出を行う際は、将来的に利益・利便性を生み出すことが見込まれる事業・分野に対して選択的に行うことが望ましい、という意味で用いられる。

A2: 持続可能であるさま。特に、地球環境を保全しつつ持続が可能な産業や開発などについていう。

A3: 多様な人材を積極的に活用しようという考え方のこと。性別や人種の違いに限らず、年齢、性格、学歴、価値観などの多様性を受け入れ、広く人材を活用することで生産性を高めようとするマネジメントについていう。

A4: 職場で共に働く部下・スタッフのワークライフバランス(仕事と生活の両立)を考え、その人のキャリアと人生を応援しながら、組織の業績も結果を出しつつ、自らも仕事と私生活を楽しむことができる上司(経営者・管理職)のことを指します。

A5: 障がいのある人や労働市場で不利な立場にある人々の就労の問題に取り組むユニークなビジネスモデルを指します。

A6: 生産を拡大するために労働,土地などの生産要素の組合せを変化させたり,新たな生産要素を導入したりする企業家の行為をいい,革新または新機軸と訳されている。それまでのモノ・仕組みなどに対して全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出して社会的に大きな変化を起こすことを指す。

A7: 指標、目印。一般的には、最終目的を達成するための一連の過程等における中間指標や目印のことを意味することが多く、進捗を確認するための中間達成基準や中間地点のゴールの意味で用いられる。

A8: ファイナンス(Finance)とテクノロジー(Technology)の2つを併せた造語です。日本語だと金融ITとか、金融テクノロジーと略されることもあります。
概ね「ICTを駆使した革新的(innovative)、あるいは破壊的(disruptive)な金融商品・サービスの潮流」といったくらいの意味で利用されている。

A9: Internet of Things(モノのインターネット)とは、従来は主にパソコンやサーバー、プリンタ等のIT関連機器が接続されていたインターネットにそれ以外の様々な"モノ"を接続することを意味します。すべての「モノ」がインターネットにつながることで、皆さんの生活やビジネスが根底から変わるというのです。

A10: ある行動を起こすきっかけとなるもの。契機。「留学をスプリングボードとして新しい人生に踏み出す」

A11: ある商品やサービスのコンセプトを特定のユーザーに価値があると認識させ、市場でのポジショニングを築くマーケティング戦略のことを言います。
我々が普段の生活を通して何気なく思っていること、そしてその潜在イメージに基づく行動が、企業にとって極めて重要な資産となっているのである。

A12: 「遺産」という意味になります。

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-02-12 11:20 | 未分類 | Comments(0)
日伊国交樹立150周年の展覧会です。
d0061579_16242310.jpg
ポンペイはイタリア・ナポリ近郊にあった古代都市で、ローマ人の余暇地として繁栄し最盛期の人口は約2万人といわれる。文化水準は非常に高く、上水道完備の大邸宅、公共浴場、劇場、円形の闘技場、運動場、宗教施設(集会所)など、社会インフラはヨーロッパの産業革命前とほぼ同レベルの高い水準を誇っていたそうです。当時の壁画は、公共系の建築物だけでなく、少し裕福な一般家庭の住宅内も、まるで宮殿のように壁一面を彩っていたそうです。ギリシャ文化の影響を強く受けた、ヘレニズム世界での古代神話の様々な場面をモチーフに描かれています。
d0061579_16302367.jpg
d0061579_16310044.jpg
d0061579_16312708.jpg
ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかった秘密は、この街を襲った悲劇にあった。西暦79年8月24日、町の北西 10 kmにあるヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていった。一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存した。火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収した。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのであった。

ポンペイの壁画は壁に漆喰を塗って、乾かないうちに顔料を水で溶いた絵の具で描くと漆喰に色が染み込み壁と一体となって色が落ちなくなる。だから素早く絵を描かなくてはいけないし、描き直しができない。技術を要し、親方と弟子で役割分担して描いたそうです。

紀元79年といえば、日本で言えば、まだ弥生時代に入ったばかり。狩猟採集生活から、ようやく稲作を始めたころの話ですから、こうして、壁画一つ見ていても、当時のポンペイの文明レベルの高さには驚かされます。

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-02-07 16:44 | 歴史 | Comments(0)

山口県立博物館に行って来ました。
d0061579_14042419.jpg
d0061579_14014590.jpg
萩御城下絵図
d0061579_14044341.jpg
毛利敬親像と毛利元徳像
d0061579_14054019.jpg




明日は「世界遺産 ポンペイの壁画展」をアップ致します。







[PR]
# by kfujiken2 | 2017-02-05 14:19 | 歴史 | Comments(0)
「初公開!周布政之助資料」

d0061579_15481094.jpg


周布政之助(すふまさのすけ 1823-64)は長州藩大組士。名は兼翼(かねすけ)、字は公輔、号は観山、
のちに麻田公輔と改名。
村田清風の薫陶を受けて藩政改革に取り組み、保守派と政争を繰り広げたのちに実権を握りました。
松陰や高杉ほか門下生のよき理解者で、伊藤博文らの密航留学(長州ファイブ)にも尽力しました。
激動の時局に対応する中、文久3年(1863)8月18日の政変、元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)、
第一次長州出兵と相次ぐ情勢悪化によって追い込まれ、寓居先の山口・吉富家で自刃しました。


周布政之助夫人・千代肖像、政之助愛用の調度品など、いずれも初公開です。
d0061579_15524693.jpg


周布政之助(すふまさのすけ)の碑です。
d0061579_1556933.jpg
d0061579_15563271.jpg
d0061579_1557261.jpg


周布政之助の墓です。
d0061579_15584843.jpg
d0061579_15591090.jpg




























明日「長州藩幕末維新関係資料」をアップします。
[PR]
# by kfujiken2 | 2017-02-03 16:08 | 歴史 | Comments(0)
ブログトップ