長州・明治維新 夜明けの轍(わだち) Part2

③ 大田・絵堂の戦い

長州藩は公武合体から尊王攘夷・尊王開国へと変わり、更に武備恭順となり倒幕の道を
歩むこととなった。長州藩も最初から「尊皇攘夷! 倒幕!」と叫んだいたわけではなくて、
あくまでも幕府に恭順しようという勢力もあって、その勢力のことを俗論党という。
一時期、尊王攘夷派が主流になった日本だが、薩摩藩と会津藩主導による八月十八日の政変
(会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放
したクーデター事件)以後、長州藩は京を追われる立場となり、長州藩士達は八方塞がりの中、
京市街に攻め入り、禁門の変を起こす。そのため、幕府から目の敵にされるようになり、
第一次長州征伐が行われるに至った。


幕府の「第一次長州征伐(1864、7,23)」が発せられると、それまで藩の政治を握っていた
革新派の周布政之助が自害し、蛤御門の責任をとって、益田越中、国司信濃、福原越後の三家老が
切腹するなどしたため、藩の要職は保守派が力を得て、革新派への弾圧が強化されてきました。
この事態を憂い、慶応元年(1865)1月6日、その高杉晋作が率いる、下級武士や農民主体の
第一奇兵隊が下関の功山寺で決起し、既成勢力の長州萩政府軍(俗論党)と、藩の主導権を争う
戦争(大田・絵堂の戦い)が始りました。


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大田・絵堂戦役は、長州藩内における正義派(改革派)と俗論派(保守派)との骨肉戦争、
つまり権力闘争に過ぎません。萩でも「今や正義は諸隊にあり」という風潮が強くなり、
藩の政権は「武備恭順」を是とする革新派の手に渡りました。藩主毛利敬親も「これからは
それでゆく」と明言し、以後長州の藩論は統一されて、ぶれることはありませんでした。
一般には知られざる歴史ですが、しかしその意義は大きなものがあります。
もし長州正義派(改革派)が「大田・絵堂の戦い」に負けていたならば、明治維新は数年遅れていたのは確実とみられている。10日間の戦いであったが逆転しかけた歴史の歯車を危機一髪で回天させ、明治維新先駆けの戦いであったことには間違いない!!!



④ 四境戦争 大村益次郎の出現


松下村塾の四天王のうち(久坂玄瑞・入江九一・吉田稔麿)が高杉晋作の一人だけを残して亡くなり、
優秀な多くの塾生や若い毛利藩士を亡くし、これからの毛利藩を中枢で軍事を取り仕切る人物が
居なくなった時、 1860年に長州藩に召抱えられ長州藩士となった、大村益次郎がもっと早く表舞台に
登用されていたら、池田屋事件で吉田稔麿を死なすこともく、 禁門の変で積極策を退け、慎重な姿勢を取り
久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎らを戦死されることは無かったのではないでしょうか?


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【大村益次郎の生涯】を少し紹介しましょう・・・


大村益次郎は、文政7年(1824年)に長州藩周防国鋳銭司村で村医者の長男として生まれる。
家業を継ぐ為天保13年(1842年)にシーボルトの弟子だった梅田幽斎の門下生となり、
蘭学・医学を学ぶ。 次いで天保14年(1843年)には儒学者の広瀬淡窓に学ぶ。弘化3年(1846年)には
大阪で緒方洪庵の適塾に入門、成績はきわめて優秀で塾頭となる。
二七歳になって郷里に帰り医者を開業したところ、一向に流行らない。 長州藩もこの英才に気付かず、
一村医者としての不遇な生活を送ること三年、その才能を活用しようという人が現れた。
宇和島藩主伊達宗城である。 伊達宗城は高野長英が去ってから、これに代わる洋学者を求めていた
ところ、 緒方洪庵の推薦により彼を招聘することにした。
大村益次郎は伊予宇和島藩に召抱えられ、月に米六俵扶持(知行百石に相当する)を賜わり、
村田蔵六と改名、郷里から妻を呼び寄せて日々を送るようになった。兵書の翻訳・研究や、
軍艦設計等にその才能を遺憾なく発揮した。宇和島に在住すること二年余。更に研究を伸ばすために、
江戸に上ることを請い、 許されて伊達宗城の参勤交代の一行に加わって宇和島の地を去ったので
あるが、 宇和島に来た時は振分け荷物の貧書生、去るときは供廻りの若党と両掛狭箱を担いだ仲間を
引き連れてであった。その栄達が話題になったという。
江戸に出ると、その深い造詣はたちまち世に知られ、「宇和島藩に村田蔵六あり」の評判高く、
徳川幕府の蕃書調所(洋学研究所)の助教授、ついで講武所の砲術教授を、 宇和島藩士の身分の
ままで兼ねることになった。


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さて、本題に戻り長州出身の有為な人材の存在を知り、大村益次郎の発掘の経過を説明します。
安政6年(1859年)の10月29日、場所は小塚原の刑場。
偶然この2日前、 伝馬町の獄舎に投獄されていた吉田松陰が斬首されておりました。
その遺骸をもらい受けるため、長州藩の桂小五郎と伊藤博文はこの小塚原の刑場に来ていました。
その帰りに桂小五郎はこの場所で死囚の解剖をしている村田蔵六を見かけます。あの人はどなたです、
と人に聞くと、「蕃書調所の村田蔵六先生です」といわれて、同郷の蘭学医を思い出すのでした。
桂小五郎が、のちの倒幕軍の総司令官、わが国近代兵制の創始者となった大村益次郎こと村田蔵六を
見出したのは、じつにこの時期、この小塚原の刑場だったのです。西洋との戦力の差を知った桂小五郎が、軍備を近代化するために、オランダ語のできる人物を探していた時、彼の名前だけは聞いたものの、あまりの身分の低さに「たいした事ないだろう」とそのまま探さずにいた人物が彼だったのです。
「長州藩にこんな逸材が埋もれていたなんて!」と、大興奮し即座に大村益次郎を、翻訳者として長州に招きます。宇和島藩へ移籍を頼み込み、たまたま時の藩主伊達宗徳の先夫人が毛利家の出という親類関係も
あるので、宇和島藩も無下にも断り切れず、これからも宇和島藩の仕事を手伝うという条件で、
長州藩へ移籍させた。彼の宇和島藩在籍は約七年間であった。
長州藩の要請により長州藩士となった大村益次郎は兵学の講義だけでなく、高杉晋作の依頼を受けての
軍事改革や兵の指導をし、やがては実際の戦場にも出陣していく事になります。
奇兵隊の生みの親が高杉晋作なら、大村益次郎は育ての親と呼べるかも しれません!!!
第二次長州征伐の際、長州藩参謀として幕軍に恐れをいだかせ、 明治元(一八六八)年~明治二年の
戊辰戦争には東征軍参謀として その優れた軍略を発揮した。明治政府においては兵部大輔となり、
軍費調達や新政府軍総司令官として指揮を取り作戦指導した、事実上の日本陸軍の創始者である。
軍事を士族の独占から国民全体の手に移して、近代軍制を確立する ために努力したが、道半ばにして
保守反動派士族の凶刃に倒れた。

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# by kfujiken2 | 2017-01-22 17:28 | 歴史 | Comments(0)

長州・明治維新 夜明けの轍(わだち)

長州藩の思想の変化として、公武合体論や尊皇攘夷から開国に激化し、さらに倒幕に発展して行った。長州藩が明治維新に至るまでに、様々な過程をたどって来たことはご存知と思います。八月十八日の政変、下関戦争(下関事件や馬関戦争)、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐・第二次長州征伐(四境戦争)を戦い、大政奉還が行われ王政復古が成立するまで様々な事件を経験した長州藩は、後に明治政府の中核となっていきますが、知られていない陽の目を見なかった重要なポイントがあります。

① 「撫育方(ぶいくがた)」制度の確立

長州藩においては、中興の祖といわれる第7代藩主毛利重就による宝暦の改革が行われ、
藩の経済的自立及び貨幣経済の発展をもたらした。
宝暦11年(1761年)、長州藩は検地を執り行い、4万石の増収を得た。
しかし、この増収分は負債返済には充てず、特別会計に回して撫育方と呼ばれる裏金作りの
機関を発足させた。撫育方は米、紙、塩、?(ろう)の増産に励み、港湾整備も行って増収と蓄財に務めた。
撫育方が必死に溜めた資金は負債には回されず、非常時のために取り置かれた。
長州藩のこの隠し財産の積み重ねは、幕末までには莫大なものとなり、それが倒幕用の武器購入資金と
なるのである。しかし、それは一般会計の負債や、藩士や領民の窮乏を無視してのものであった。


第7代藩主毛利重就
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瀬戸内海側の室積・中関(防府)・伊崎(下関)の三つの商業港を整備して、 会所(役所)を置き、
北前船などと商取引を行わせた。 室積の会所の設置は明和六年(一七六九)といわれる。
安永二年(一七七三)からこの地を藩が買い上げて役所とし、 藩内各地の米蔵を移築して、
主に藩の年貢米をここに集めて売り捌く仕事を行っていたので、「御蔵会所」とか「お米売捌き会所」とも呼ばれ、この附属小中学校の敷地一帯に、役所と多くの米蔵や銀子蔵が次第に増改築され、
荷揚げ用の波止(現在の海に張り出した施設部分)も築かれた。
さらに、藩の資金やこの蔵を使って越荷方(こしにかた)を設置し、ここを通る藩外の船を対象に
倉庫業や金融業を地元商人に行わせたので、 港や町は多くの廻船や商人が出入りし、近隣から多くの
商人が住み着いて賑わった。


長州藩撫育方室積会所跡の石碑
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◆ 事業内容
① 新田開発
② 産業開発
③ 新港の建設
④ 倉庫業や貸し付け業
⑤ 通商貿易業



寛政前後(十八世紀末)より大体毎年4~5、000両を貯えたといわれている。
幕末の長州藩は、表高は36万石でしたが、実質は100万石以上にも及んだといいます。
度重なる敗戦にもかかわらず、長州藩には撫育方が蓄積した莫大な資金が健在であり、
資金力を武器に挽回の策を講じることは容易であった。


② 吉田松陰の誕生

吉田松陰は日本が伝統社会から近代社会へ転換する際に、重要な役割を演じた人物である。
吉田松陰は生前、優れた功績を残した訳でも成功を収めたわけでもありません。脱藩に密航、
暗殺計画、度重なる投獄など失敗続きの人生でしたが、松陰の志を受け継いだ松下村塾の門下生と
塾生たちが後の日本の歴史に名を残し、おびただしいほどの人材を育てたからに他なりません。
教育者、思想家のイメージとはかけ離れた、あまりに真っ直ぐな生き様ではなかったでしょうか。
門下生は松蔭の学識だけではなく、その純粋さ、生き様にも魅かれていたに違いありません。
松陰は孟子の学説を自分の論理的な出発点としていた。吉田松陰は性善説と陽明学に囚われていて、
その思想と行動を大きく制限されますが、他方で真理と新しい社会を希求するという「純粋さ」
「ひたむきさ」においては、日本思想史上特筆すべき人物です。


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「松陰の教育論」

「教えのなかに共鳴させるもの」があり、学んだ者の以後の思想形成・人格形成に多大な影響を及ぼしたからだ。

①松陰の教え子には幼い者も混じっていたが、「子どもだから」という扱いはせず、青年たちと一緒に議論させた。
②吉田松陰は、教え子を「諸友」と呼び、教師との間に身分的な上下関係や垣根を設けなかった。
③「自分以外は皆、師」であり、学ぶことに貪欲であれと教えた。
④勉強は継続することに意義がある。
⑤「ほめ上手」で、子どもの「やる気」を引き出した。
⑥教え子が旅立つときは、心のこもった送辞を贈って鼓舞した。 


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長州・明治維新 夜明けの轍(わだち)2 は明日に続く・・・

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# by kfujiken2 | 2017-01-20 10:48 | 歴史 | Comments(0)

第2回 茶臼山と大谷渓谷へのいざない展

1月6日より31日の26日間、スターピアハート・フロアーで「第2回 茶臼山と大谷渓谷への
いざない展」が開催されている。


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この催しは、大谷渓谷懇談会(永田久則会長)と、とよい今昔探訪クラブ(清木健一会長)が協賛で、豊井地区の茶臼山や
大谷渓谷を整備し、茶臼山と大谷渓谷の魅力を知って頂く為、歴史・農工遺産・自然・歩くをキーワードに、
300年前、100年前、75年前と節目の茶臼山と大谷渓谷の歴史や農業・産業遺産及び自然や景観などをパネルや立体地図、写真などで紹介しています。


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「この素晴らしい茶臼山や大谷渓谷をぜひ皆さんに知っていただきたい。」と
オーガナイザーの戸取征二郎氏が語っていた。


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# by kfujiken2 | 2017-01-16 10:06 | 未分類 | Comments(0)

初詣めぐりのパートⅡ・津和野のお稲荷さん

小雨降る9日、津和野太皷谷稲成神社に10年振りに行って来ました。
家を出る頃はパラパラ、米川辺りに来ると大分降り出したものの、
津和野に着く頃は止むだろうと、たかをくくって進んだのはいいが、
須々万から鹿野に入った頃はザーザー降りどうしょう?
と思案しましたが、そこはB型 考えるより実行・・・
津和野に着いてもまだ降っていれば帰ればいいと!!! いい加減なものです。
しかし国道315号を走って阿東町の交差点(9号線)との手前のトンネルを抜けると晴れていた。
正しく川端康成の小説のようでした。勇んで9号線いざ津和野へ一目散!


右手に道の駅 願成就温泉の看板が見え、時計を見ると11時半、
小腹が空いたので昼食を食べに寄りました。
窓際の席から外を見るとブロンズ像があります。
なんと! 静御前のブロンズ像です。
静御前の扇が指す方角は、夫義経の墓のある奥州平泉を示しているそうです。

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静御前と言えばあの有名な源義経の愛妾であり、絶世の美女として有名ですが、
吾妻鏡(あずまかがみ)に関係記述がありはするも義経と離ればなれになった後は全く記録がなく、
殆ど伝説の域を出ないようです。 
全国に終焉の地や墓が何カ所も存在するそうですが、そのうちの一つとして
何故こんな所に?と思ったのですが、「山口市阿東徳佐」にも静御前墓所があるそうで、
云い伝えが残っているようです。
信じるか信じないかは別として、謎に満ちた伝説の美女の墓が山口県にあると聞けば、
やはりこの目で確かめたいですよね・・・ロマンですね~ 
是非津和野からの帰りに寄らねばなりませんな!!!



そう言えば9号線を走ってくる途中に「静御前墓所」の看板を見ました。
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1月も9日というのに津和野太皷谷稲成神社は大混雑・・・


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手早くお参りを済ませ、他の見所に脇目も振らず「静御前墓所」へ行きました。


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竹林の中にひっそり佇む「静御前のお墓」です。夏場ならばヤバイ所ですね!

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# by kfujiken2 | 2017-01-12 09:46 | 歴史 | Comments(0)

初詣めぐり

元旦に地元の降松神社(くだまつ)に行き初詣は済ませましたが、山口市に行くたび気にはなっていた
県庁の西にある“西のお伊勢さま”と呼ばれている山口大神宮には行った事がない!!!


3日に早速「山口大神宮」に参拝しようと出掛けました。
大神宮前の道は車両通行止め・・・専用駐車場が小さいんでしょう!
臨時駐車場も兼ねる県庁の駐車場も混んでいました。
如何しようかと思案しましたが、初詣は止めて空いている時季に参拝しようと変更。
直ぐ近くにある木戸神社(木戸孝允(桂小五郎)を祭った社)に直行。

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とても低い額束を3つ持つ非常に珍しい形態の鳥居があります。
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本殿ですが、明治維新の立役者で維新三傑の一人だった人物にしては、
神社が小さく・お粗末な気がします。

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余談ですが、桂小五郎の秘話スポット


神道無念流の免許皆伝を得て、練兵館(神道無念流)の塾頭となっています。
それほどの実力者でありながら、「逃げの小五郎」ともあだ名された、桂小五郎は生涯で
一度も剣を抜くことがなかったと言われています。
では何故「逃げの小五郎」と呼ばれたのでしょう???
桂小五郎は大変思慮深い性格であったということです。
最近のドラマではないですが、『逃げるは恥だが役に立つ』を地で行ったのではないかなぁ~
桂小五郎にとって、真剣勝負はあまりにリスクが高すぎたのではないでしょうか。
真剣での勝負は竹刀での勝負とは全く違う。剣をよく知っている桂だからこそ、あえて剣を抜かず、
戦いを避け続けたのだと思います。
松下村塾の四天王もいなくなり、指導者のいない長州藩にとって唯一頼りの木戸孝允がいたから、
明治維新を迎えることが出来たのではないでしょうか・・・

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# by kfujiken2 | 2017-01-07 09:57 | 歴史 | Comments(0)

新年の挨拶

あけましておめでとうございます

昨年は我が拙いブログにお越し頂きありがとうございました。
今年も宜しくお願い致します。


昨年は趣味の歴史・郷土史を追っ掛け走破しましたが、
今年は更に深く追求して行ければと考えています。


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# by kfujiken2 | 2017-01-01 10:55 | 未分類 | Comments(0)

富海史跡めぐり

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◆ 伊藤井上両公上陸の碑


「長州ファイブ」の伊藤博文と井上馨二人が、英国滞在半年ほど経ったころに ふと見た新聞にて、
外国艦隊が集結し「馬関攻撃計画」があることを知ります。
そして井上聞多、伊藤俊輔は急遽帰国の判断をし、英国船で大分・姫島に送られ そこから富海に上陸しています。
これが元治元年6月24日でした。


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◆ 富海の本陣跡

富海は徳山藩に属し、山口県内を通る山陽道で海に面するただひとつの宿場でした。
ここの本陣は、東隣の福川宿や西隣の宮市宿が混雑する時に利用されました。


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◆ 飛船問屋 大和屋政助の船蔵


大和屋政助の船蔵に行くまでの路地です。

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大和屋政助の大和屋は屋号で、本名は清水与兵衛。幕末、勤皇の志士の活動を援助し、
また、飛船による長州隊員の輸送などに尽力した。文久3年(1863年)9月には、長州を頼って
京都から落ち延びた中山忠光卿(明治天皇の叔父)を、改造した二階の土蔵にしばらく匿いました。
元治元年(1864年)11月には、俗論派に追われた高杉晋作が、萩から山越えで徳地を通って
富海まで脱出し、大和屋政助を頼りました。政助はすぐに、飛船に晋作を乗せ、暴風雨の中を
夜の間に下関まで送りました。


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残念ながら現時点では、「大和屋政助の船蔵」の「内部」の見学はできません!
2階が客室、1階が台所や物置、地下室が倉庫になっていて、船を地下倉庫に直接横付けして
乗客や荷物を乗せました。


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※ 飛船(とびぶね)とは:江戸時代から明治前半にかけて小型ながらも帆を一杯に上げて、
小気味よい速力で走る旅客船が発達しており、富海はその拠点でありました。

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# by kfujiken2 | 2016-12-26 16:54 | 歴史 | Comments(0)

神花山古墳(じんがやまこふん)

◆ 神花山古墳の概要

平生町の田布施川河口東側にある標高 約39mの丘陵にある前方後円墳で、全長30m、後円部径15m、
高さ約2.5m、5世紀前半の築造と推定されている。
古墳は葺石や埴輪が復元整備されている。古代女王像が東を向いて建てられ、神花山古墳のシンボルとなっている。


古墳を下から見た全体画像です。
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整備平面図です。

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改めて入口からご案内致します。

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頂上まで舗装されていますが、結構きつい坂道です。

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◆ 発見の経緯


この古墳の発見は、第2次世界大戦のさなかの昭和19年、当時この付近一帯は海軍の軍用地であった。
この神花山の頂上に高射砲の陣地を構築するため敷地をつくっていたところ、石棺が発見された。
古墳内部にあった石棺の中には人骨1体が埋葬されており、後の頭蓋骨鑑定で20歳台の女性と判明した。
女性首長が前方後円墳に埋葬された例は全国的にも少ないが、「女王の世紀」ともよべる時代をもっている。


女性首長の紹介です。
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アップでご覧頂きましょう。
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頂上にある石棺と人骨の画像です。

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神花山古墳のシンボルとなっている、美貌でスタイルバツグンな古代女王像です。>
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最後に【熊毛王国】について少し説明をしましょう・・・


3世紀末から7世紀にかけて山口県熊毛郡の古柳井水道(古熊毛水道)付近に熊毛王と呼ばれる複数の豪族の治める熊毛王国と呼ばれる連合国家があった。当時の山口県の熊毛半島(室津半島)と本州は分離しており、
間に古柳井水道(古熊毛水道)と呼ばれた海峡があった。
熊毛王国が存在した当時、古柳井水道は都と九州、朝鮮、中国を結ぶ重要経路であり、熊毛王国は古柳井水道での海運業で栄えたとされている。当時の熊毛王国は大和王権も脅威に感じる程繁栄していたとされていた。
その国力から熊毛王国は約300年間大和王権の影響を受けつつも、侵略されることもなく存続した。
熊毛王達が無駄な争いをしなかったのも長期繁栄の要因ともされている。各王は王位に就くと自らの墓を造り、
死後その古墳に収まった。
熊毛王墓の被葬者系列として、神花山古墳は第3代、白鳥古墳(平生町佐賀)は第4代、阿多田古墳(平生町佐賀阿多田島)は第5代、納蔵原古墳(田布施町波野納蔵 なぐらばらこふん)は第6代、後井古墳(田布施町宿井 ごいこふん)は第7代と考えられている。


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# by kfujiken2 | 2016-12-20 17:27 | 歴史 | Comments(0)

長州を救った 男・吉川経幹(きっかわ つねまさ)

吉川経幹(きっかわ つねまさ)は、江戸時代末期の周防国岩国領の第12代領主のち岩国藩初代藩主。
岩国藩といえば毛利元就の次男・毛利元春(吉川元春)が吉川家の養子に入ってから陽の目を見、
吉川元春の3男・吉川広家が岩国領初代領主となって世に出た。


吉川史料館で開催されている【吉川経幹展】に行って来ました。

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長州を救った男という所以を説明しましょう・・・
吉川経幹は文政12年(1829)9月3日、第11代岩国藩主・吉川経章の子として生まれた。
16歳で家督を相続しその3年後の弘化4年(1847)には将来を見据え、文教の重要性から藩校養老館を
建てている。

第一次長州征伐では幕府との間で仲介役として奔走する。征長軍の規模はおよそ15万これに対して、
長州藩は外国との戦いなどで疲弊し、武備もまだ旧式で勝ち目はなかった。
そこで、長州藩主・毛利敬親は、朝廷、幕府との交渉を岩国の経幹(当時35歳)に依頼した。
経幹は極秘に岩国を訪れた西郷隆盛らと対面。長州藩三家老の切腹と敬親の謝罪状の提出などを
条件に、長州への攻撃を延期することを請うた。
そのころ長州藩は、二つの派閥の間で揺れ動いていた。幕府に一意に恭順しようとする保守派と、幕府恭順の
姿勢を見せながらも来る戦いに備えて武備を急ごうとする革新派である。
この二派のせめぎ合いのなかで、経幹は征長延期の条件履行を何よりも急がせたのだった。
こうして、条件が履行されると経幹は、自ら征長総督府が置かれた敵地・広島へ赴き嘆願。
ついに、征長軍は撤兵し、交戦の無いままに第一次長州出兵は終結に至った。

経幹の働きによって、長州は焦土の危機から救われたのである。もし、第一次長州出兵において征長軍による
総攻撃が決行されていたならば、その後の薩長同盟の締結もされず、大政奉還や王政復古も成しえず、
明治という時代を迎えることは無かったであろう。
また、慶応3年(1867)の経幹の死(享年37歳)が明治2年(1869)まで公表されることが無かったのは、
幕末の激動の中、毛利宗家存続のために奔走した経幹の働きから、吉川家かねてよりの悲願であった
城主格となる名誉を経幹へ与えたかったという敬親の思いがあったからかもしれない。


ここで周防国岩国領から、岩国藩になった経緯を説明しましょう!!!


吉川家の所領が「岩国藩」と呼ばれることがあるが、その位置付けはちょっと説明が難しい。
岩国藩を長く悩ませた「家格」問題である。吉川家の当主は諸侯たる官位を与えられず、
当時の大名の紳士録である「武鑑」にもその名が載せられなかった。
しかし、幕府との関係では、将軍への拝謁や献上・拝領の扱いも、諸普請などの課役も、
一般の大名並みであったし、江戸には藩邸を、大阪には蔵屋敷を構えるなど、江戸時代を
通じて大名としての実力を持っていた。
江戸時代の呼称としては、岩国藩ではなく岩国領と呼ぶほうが正確だともいわれる。
岩国藩(吉川家)は長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領を支藩とする届けを
出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず
(大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われるという、
極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の
慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。


吉川史料館は、隠居所として建築された【昌明館】に付属する建物の一部です。

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昌明館に付属する長屋

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# by kfujiken2 | 2016-12-15 10:45 | 歴史 | Comments(0)

偶然が重なる(レノファフェス&ロシア政府専用機)宇部へのぶらり旅

新たな宇部の面白さを見つけに国道2号を西に車を走らせ小俣交差点(防府西高の少し西です)を左折し、
余談ですが小俣交差点を右折しますと、防府市の無形民俗文化財に指定されており、天下の奇祭ともいわれている大道小俣お笑い講の里があります。
県道25号宇部防府線を南に走り途中を右折し県道338号に入り、みちの駅「あいお」を左手に見ながら惣在所の交差点を西に行き、周防大橋を渡り阿知須に入りみちの駅「きららあじす」で休憩し山口きらら博記念公園へ行きました。


みちの駅「きららあじす」
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山口きらら博記念公園
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山口きらら博記念公園では、多目的ドームの収容台数:9000台と言われる駐車場がほぼ満杯・・・
何があるのかと近くに行って見ると、レノファフェスつまり、レノファ山口の感謝祭だそうです。
多目的ドームへ入る為の長い行列に唖然とし、きららドームを後にし側にあるレンガ造りの趣深い
「井関川紡潮水門」に行って見ました。


多目的ドーム(きららドーム)

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「井関川紡潮水門」は高潮被害防止のため、海から川を上ってくる潮をせき止めるためのものらしいのです。
右岸からです
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川上からの「井関川紡潮水門」全景です
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山口県長門市で15日に開かれる日露首脳会談を前に、ロシア側の随員の一行約100人が11日午後1時ごろ山口宇部空港にロシア政府専用機とみられる航空機で到着。

ロシア政府専用機

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ロシア側の随員の一行
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# by kfujiken2 | 2016-12-12 14:50 | 未分類 | Comments(0)