長州より発信

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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

元旦に地元の降松神社(くだまつ)に行き初詣は済ませましたが、山口市に行くたび気にはなっていた
県庁の西にある“西のお伊勢さま”と呼ばれている山口大神宮には行った事がない!!!


3日に早速「山口大神宮」に参拝しようと出掛けました。
大神宮前の道は車両通行止め・・・専用駐車場が小さいんでしょう!
臨時駐車場も兼ねる県庁の駐車場も混んでいました。
如何しようかと思案しましたが、初詣は止めて空いている時季に参拝しようと変更。
直ぐ近くにある木戸神社(木戸孝允(桂小五郎)を祭った社)に直行。

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とても低い額束を3つ持つ非常に珍しい形態の鳥居があります。
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本殿ですが、明治維新の立役者で維新三傑の一人だった人物にしては、
神社が小さく・お粗末な気がします。

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余談ですが、桂小五郎の秘話スポット


神道無念流の免許皆伝を得て、練兵館(神道無念流)の塾頭となっています。
それほどの実力者でありながら、「逃げの小五郎」ともあだ名された、桂小五郎は生涯で
一度も剣を抜くことがなかったと言われています。
では何故「逃げの小五郎」と呼ばれたのでしょう???
桂小五郎は大変思慮深い性格であったということです。
最近のドラマではないですが、『逃げるは恥だが役に立つ』を地で行ったのではないかなぁ~
桂小五郎にとって、真剣勝負はあまりにリスクが高すぎたのではないでしょうか。
真剣での勝負は竹刀での勝負とは全く違う。剣をよく知っている桂だからこそ、あえて剣を抜かず、
戦いを避け続けたのだと思います。
松下村塾の四天王もいなくなり、指導者のいない長州藩にとって唯一頼りの木戸孝允がいたから、
明治維新を迎えることが出来たのではないでしょうか・・・

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# by kfujiken2 | 2017-01-07 09:57 | 歴史 | Comments(0)
あけましておめでとうございます

昨年は我が拙いブログにお越し頂きありがとうございました。
今年も宜しくお願い致します。


昨年は趣味の歴史・郷土史を追っ掛け走破しましたが、
今年は更に深く追求して行ければと考えています。


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# by kfujiken2 | 2017-01-01 10:55 | 未分類 | Comments(0)
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◆ 伊藤井上両公上陸の碑


「長州ファイブ」の伊藤博文と井上馨二人が、英国滞在半年ほど経ったころに ふと見た新聞にて、
外国艦隊が集結し「馬関攻撃計画」があることを知ります。
そして井上聞多、伊藤俊輔は急遽帰国の判断をし、英国船で大分・姫島に送られ そこから富海に上陸しています。
これが元治元年6月24日でした。


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◆ 富海の本陣跡

富海は徳山藩に属し、山口県内を通る山陽道で海に面するただひとつの宿場でした。
ここの本陣は、東隣の福川宿や西隣の宮市宿が混雑する時に利用されました。


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◆ 飛船問屋 大和屋政助の船蔵


大和屋政助の船蔵に行くまでの路地です。

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大和屋政助の大和屋は屋号で、本名は清水与兵衛。幕末、勤皇の志士の活動を援助し、
また、飛船による長州隊員の輸送などに尽力した。文久3年(1863年)9月には、長州を頼って
京都から落ち延びた中山忠光卿(明治天皇の叔父)を、改造した二階の土蔵にしばらく匿いました。
元治元年(1864年)11月には、俗論派に追われた高杉晋作が、萩から山越えで徳地を通って
富海まで脱出し、大和屋政助を頼りました。政助はすぐに、飛船に晋作を乗せ、暴風雨の中を
夜の間に下関まで送りました。


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残念ながら現時点では、「大和屋政助の船蔵」の「内部」の見学はできません!
2階が客室、1階が台所や物置、地下室が倉庫になっていて、船を地下倉庫に直接横付けして
乗客や荷物を乗せました。


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※ 飛船(とびぶね)とは:江戸時代から明治前半にかけて小型ながらも帆を一杯に上げて、
小気味よい速力で走る旅客船が発達しており、富海はその拠点でありました。

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# by kfujiken2 | 2016-12-26 16:54 | 歴史 | Comments(0)
◆ 神花山古墳の概要

平生町の田布施川河口東側にある標高 約39mの丘陵にある前方後円墳で、全長30m、後円部径15m、
高さ約2.5m、5世紀前半の築造と推定されている。
古墳は葺石や埴輪が復元整備されている。古代女王像が東を向いて建てられ、神花山古墳のシンボルとなっている。


古墳を下から見た全体画像です。
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整備平面図です。

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改めて入口からご案内致します。

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頂上まで舗装されていますが、結構きつい坂道です。

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◆ 発見の経緯


この古墳の発見は、第2次世界大戦のさなかの昭和19年、当時この付近一帯は海軍の軍用地であった。
この神花山の頂上に高射砲の陣地を構築するため敷地をつくっていたところ、石棺が発見された。
古墳内部にあった石棺の中には人骨1体が埋葬されており、後の頭蓋骨鑑定で20歳台の女性と判明した。
女性首長が前方後円墳に埋葬された例は全国的にも少ないが、「女王の世紀」ともよべる時代をもっている。


女性首長の紹介です。
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アップでご覧頂きましょう。
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頂上にある石棺と人骨の画像です。

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神花山古墳のシンボルとなっている、美貌でスタイルバツグンな古代女王像です。>
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最後に【熊毛王国】について少し説明をしましょう・・・


3世紀末から7世紀にかけて山口県熊毛郡の古柳井水道(古熊毛水道)付近に熊毛王と呼ばれる複数の豪族の治める熊毛王国と呼ばれる連合国家があった。当時の山口県の熊毛半島(室津半島)と本州は分離しており、
間に古柳井水道(古熊毛水道)と呼ばれた海峡があった。
熊毛王国が存在した当時、古柳井水道は都と九州、朝鮮、中国を結ぶ重要経路であり、熊毛王国は古柳井水道での海運業で栄えたとされている。当時の熊毛王国は大和王権も脅威に感じる程繁栄していたとされていた。
その国力から熊毛王国は約300年間大和王権の影響を受けつつも、侵略されることもなく存続した。
熊毛王達が無駄な争いをしなかったのも長期繁栄の要因ともされている。各王は王位に就くと自らの墓を造り、
死後その古墳に収まった。
熊毛王墓の被葬者系列として、神花山古墳は第3代、白鳥古墳(平生町佐賀)は第4代、阿多田古墳(平生町佐賀阿多田島)は第5代、納蔵原古墳(田布施町波野納蔵 なぐらばらこふん)は第6代、後井古墳(田布施町宿井 ごいこふん)は第7代と考えられている。


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# by kfujiken2 | 2016-12-20 17:27 | 歴史 | Comments(0)
吉川経幹(きっかわ つねまさ)は、江戸時代末期の周防国岩国領の第12代領主のち岩国藩初代藩主。
岩国藩といえば毛利元就の次男・毛利元春(吉川元春)が吉川家の養子に入ってから陽の目を見、
吉川元春の3男・吉川広家が岩国領初代領主となって世に出た。


吉川史料館で開催されている【吉川経幹展】に行って来ました。

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長州を救った男という所以を説明しましょう・・・
吉川経幹は文政12年(1829)9月3日、第11代岩国藩主・吉川経章の子として生まれた。
16歳で家督を相続しその3年後の弘化4年(1847)には将来を見据え、文教の重要性から藩校養老館を
建てている。

第一次長州征伐では幕府との間で仲介役として奔走する。征長軍の規模はおよそ15万これに対して、
長州藩は外国との戦いなどで疲弊し、武備もまだ旧式で勝ち目はなかった。
そこで、長州藩主・毛利敬親は、朝廷、幕府との交渉を岩国の経幹(当時35歳)に依頼した。
経幹は極秘に岩国を訪れた西郷隆盛らと対面。長州藩三家老の切腹と敬親の謝罪状の提出などを
条件に、長州への攻撃を延期することを請うた。
そのころ長州藩は、二つの派閥の間で揺れ動いていた。幕府に一意に恭順しようとする保守派と、幕府恭順の
姿勢を見せながらも来る戦いに備えて武備を急ごうとする革新派である。
この二派のせめぎ合いのなかで、経幹は征長延期の条件履行を何よりも急がせたのだった。
こうして、条件が履行されると経幹は、自ら征長総督府が置かれた敵地・広島へ赴き嘆願。
ついに、征長軍は撤兵し、交戦の無いままに第一次長州出兵は終結に至った。

経幹の働きによって、長州は焦土の危機から救われたのである。もし、第一次長州出兵において征長軍による
総攻撃が決行されていたならば、その後の薩長同盟の締結もされず、大政奉還や王政復古も成しえず、
明治という時代を迎えることは無かったであろう。
また、慶応3年(1867)の経幹の死(享年37歳)が明治2年(1869)まで公表されることが無かったのは、
幕末の激動の中、毛利宗家存続のために奔走した経幹の働きから、吉川家かねてよりの悲願であった
城主格となる名誉を経幹へ与えたかったという敬親の思いがあったからかもしれない。


ここで周防国岩国領から、岩国藩になった経緯を説明しましょう!!!


吉川家の所領が「岩国藩」と呼ばれることがあるが、その位置付けはちょっと説明が難しい。
岩国藩を長く悩ませた「家格」問題である。吉川家の当主は諸侯たる官位を与えられず、
当時の大名の紳士録である「武鑑」にもその名が載せられなかった。
しかし、幕府との関係では、将軍への拝謁や献上・拝領の扱いも、諸普請などの課役も、
一般の大名並みであったし、江戸には藩邸を、大阪には蔵屋敷を構えるなど、江戸時代を
通じて大名としての実力を持っていた。
江戸時代の呼称としては、岩国藩ではなく岩国領と呼ぶほうが正確だともいわれる。
岩国藩(吉川家)は長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領を支藩とする届けを
出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず
(大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われるという、
極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の
慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。


吉川史料館は、隠居所として建築された【昌明館】に付属する建物の一部です。

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昌明館に付属する長屋

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# by kfujiken2 | 2016-12-15 10:45 | 歴史 | Comments(0)
新たな宇部の面白さを見つけに国道2号を西に車を走らせ小俣交差点(防府西高の少し西です)を左折し、
余談ですが小俣交差点を右折しますと、防府市の無形民俗文化財に指定されており、天下の奇祭ともいわれている大道小俣お笑い講の里があります。
県道25号宇部防府線を南に走り途中を右折し県道338号に入り、みちの駅「あいお」を左手に見ながら惣在所の交差点を西に行き、周防大橋を渡り阿知須に入りみちの駅「きららあじす」で休憩し山口きらら博記念公園へ行きました。


みちの駅「きららあじす」
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山口きらら博記念公園
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山口きらら博記念公園では、多目的ドームの収容台数:9000台と言われる駐車場がほぼ満杯・・・
何があるのかと近くに行って見ると、レノファフェスつまり、レノファ山口の感謝祭だそうです。
多目的ドームへ入る為の長い行列に唖然とし、きららドームを後にし側にあるレンガ造りの趣深い
「井関川紡潮水門」に行って見ました。


多目的ドーム(きららドーム)

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「井関川紡潮水門」は高潮被害防止のため、海から川を上ってくる潮をせき止めるためのものらしいのです。
右岸からです
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川上からの「井関川紡潮水門」全景です
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山口県長門市で15日に開かれる日露首脳会談を前に、ロシア側の随員の一行約100人が11日午後1時ごろ山口宇部空港にロシア政府専用機とみられる航空機で到着。

ロシア政府専用機

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ロシア側の随員の一行
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# by kfujiken2 | 2016-12-12 14:50 | 未分類 | Comments(0)
今年は紅葉狩りに、島根県の匹見峡・岩国紅葉谷&宇野千代さんの庭園など彼方此方と
行きました。先週の土曜日に紅葉巡りの見納めに両足寺へ行って来ました。



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山口市鋳銭司にある両足寺は通称「もみじ寺」とも呼ばれ、シーズンには約150本の紅葉が観光客を楽しませてくれます。しかし、理由は分かりませんが、石段両脇及び駐車場傍のモミジは伐採され、なんとも殺風景になっていました。昔からここの紅葉を楽しんでいた人は物足りなく感じることでしょう!!!
両足寺は紅葉だけでなく、同じ時期には黄色い花を咲かせるツワブキも楽しめる。
また3月には鮮やかな五色八重散椿も咲き、訪れる人の目を和ませてくれます。
しかし、拝観時間が9時から16時30分までと短く、また境内は飲食・ペット・三脚が禁止と
やや厳しいのも特徴。カメラマンの方は撮影する際は気を付けてください。


境内にあるモミジと、左が五色八重散椿です

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山門は見どころの1つ。どことなく京都をイメージさせられる景観。下から見上げても上から見下ろしても素晴らしい紅葉が楽しめます。寺院と紅葉はよくある組み合わせだが、両足寺はもみじの数も多く、一歩境内に足を踏み入れると周りのみならず空まで真っ赤に染まり、綺麗なのにため息が出る程でしたが、残念です・・・

上から撮影したこの画像で、ぽっかり穴が空いている感じが分かりますかねぇ~
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山門のこのポイントは、まだOKです
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黄色い花を咲かせるツワブキの花が、癒してくれます。

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# by kfujiken2 | 2016-12-04 08:59 | 風景 | Comments(0)
「遺体埋葬禁止令」の事実

会津藩士の子孫の間でも「遺体埋葬禁止」の命令があったと伝承され、深い怨念がいまだに残っています。
実は実際に「遺体埋葬禁止」ではなく「遺体埋葬の遅延」は生じていました。しかしそれは次の大きな理由から
です。

1.会津戦争当時の会津領内の治安の悪化、農民一揆や略奪の頻発による作業の遅延。
2.冬になり降雪が多く遺体の埋葬作業が遅れたこと。


遺体処理人(下賎)は金のある上級武士から埋葬していく。下級武士たちは貧しくて家族から金が貰えないので、なかなか手を付けようとしなかった。やがて1、2ヶ月も遺体が未処理のまま、会津に雪が降りはじめた。


会津藩の恨みの原因・・・偏見・欺瞞に満ちた『小説』


今の会津人に戊辰戦争のことが詳しく知らされていないのは、現在の会津史(会津観光史学)が歴史小説という虚偽の上に成立し歴史として正式な学会などに、全く認められていないことにある。
史実を捏造・隠蔽してまで“会津=善と、薩長=悪の対立”という構図を強調し「怨念史観」により“市場活性化”をはかり金儲けしようという行為は許されない。客観的にみて、会津VS薩長を本気で思いこんでいる人々は真実を知らず、歴史小説に感化された人々だといえる。

会津と長州の対立が騒がれるようになったのは昭和60年代の新人物往来社の「歴史読本」のキャンペーンと、
司馬遼太郎が会津でシンポを行ったのが起因。
更に当時会津若松市の観光部長であった故宮崎十三八氏と白虎隊記念館長 故早川喜代治氏が「観光の目玉にと」と会津が今でも山口・鹿児島に恨みを持つような観光キャンペーンをはるようになったのが発端。
更に、会津びいきの作家(早乙女・星・宮崎各氏)による史実歪曲が、史実を知らない一般の人々を洗脳し、薩長は悪とレッテルを貼ってしまった。
しかし会津にも会津の史実を正確に伝え、会津の観光史学を批判し指摘している研究者・作家も存在する(野口・畑・牧野各氏)。だが、残念なことに現在地元では会津びいきの作家が支持され、現在の観光にも生かされてるのが実情である。

会津士魂とか「什の掟・ならぬことはならぬ」とか言いながら、その掟を破り 三、虚言をいう  四、卑怯な振舞をする  五、弱い者をいぢめる 今の会津人は鹿児島・山口に対して以上のことを行っている。
また、毎年9月日本史を改ざんしてる福島県会津地方で毎年行われている日本唯一の怨念祭です。
会津新撰組祭りで「馬鹿め薩長!」と言いながら薩長武士役を切り殺すことをやっている。
薩長差別は古い人たちから現世代へと確実に引き継がれている。


会津新撰組祭り
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什の掟(じゅうのおきて)とは・・・


会津藩では藩士の子弟を教育する「什(じゅう)」という組織があり、6歳から9歳まで10人前後の集まりで、年長者が一人什長と呼ばれるリーダーとなった。什では毎日順番に、仲間の家に集まり、什長が7カ条の「什の掟(おきて)」を訓示する。什長が一条ずつ「お話」を申し聞かせ、「ならぬことはならぬものです」と結んだ後には、反省会へと移る。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

六歳から九歳の子どもたちが、大人には頼らずに、自分たちだけで規範意識をもって、このような一連の仕組みを編み出すとは、妥協のないペナルティが責任感を育たのではないか?




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# by kfujiken2 | 2016-12-01 10:10 | 歴史 | Comments(2)
【長州藩と会津藩の軋轢】

八月十八日の政変で会津藩と薩摩藩、孝明天皇や公武合体派の公家は連帯して尊王攘夷派の計画を潰し、
長州藩を朝廷における尊攘派一掃を画策した。長州藩兵は、堺町御門の警備を免ぜられ京都を追われ、
朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた(七卿落ち)。
この時点で会津が長州を恨むような状態どころか、逆に長州が会津を恨むようになっていった。
後の池田屋事件や禁門の変で、京都守護職配下の治安維持組織である新撰組の所為で、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・杉山松助といった実力者を失い、長州の会津に対する恨みが増す。
更に禁門の変に於いて久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、来島又兵衛らが戦死した。こうして、会津に対する
長州の恨みは最高潮に達する。徳川慶喜に大政奉還を迫り、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を破ると、
戊辰戦争へと突入するが長州の主力は河井継之助が率いる長岡藩との戦闘にてこずり、白河方面から
会津に攻め込んだ薩摩や土佐に後れを取った。会津藩が降伏した際には、会津の西にある会津坂下までしか
進軍できていなかった。1カ月間の籠城中に会津の市街地で略奪や殺戮(さつりく)、強姦などの残虐行為を行ったのは薩摩軍や土佐軍だったという。
結論を言えば、長州藩は会津戦争には余り係わっていないと言う事です。
故に会津が長州に怨念を抱く理由はわからない。強いて挙げれば、会津には会津戦争の残虐行為が長州軍によってなされたという誤解があり、新政府軍の総司令官が長州出身の大村益次郎だったことも一因かもしれない。


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【会津藩の圧政と会津藩士の実態】


長年の京都守護職と鳥羽伏見の敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した会津藩は慢性的な戦費不足から、大局を見通せずに進駐した各地で民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
組織だった徴発だけではなく、個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。半ば強制的に行われた徴募では貴重な労働力を強引に奪われただけでは済まず、農兵の食料までもが村々から取り立てられ、村々は二重の負担に苦しむ事になる。
かくして会津藩兵による搾取・略奪によって、越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ越後の民衆は、自分達を救ってくれる存在を求めるようになる。越後の民衆が助けを求めたのが、会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり、かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。

会津藩が明治政府に降伏すると、たちまち藩政崩壊による権力の空白状態に乗じた民衆の謀反が勃発した。
これを旧会津藩領内で発生した世直し一揆。ヤーヤー一揆とも言う。


【英国公使館の医師・ウィリアム=ウィリスの証言】


医師ウィリアム・ウィリス

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◆ 民衆の貧困
会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。今後十年二十年に返済するという契約で、
会津の藩当局が人民に強制した借款についての話がたくさんあった。
会津の国の貧しさは極端なものである。家並は私が日本 のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。この国で生産される米はみな年貢として収められねばならなかった。

◆ 戦禍
私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。長岡で、彼らは新政府の病院にいる負傷兵や
医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者をみな殺害したのである。

◆ 民衆の動向

人々は冷淡な無関心さをよそおい、すぐそばの畠で働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津侯が
国を出てゆくところを振り返って見ようともしないのである。
武士階級の者のほかには、私は会津侯にたいしても行動を共にした家老たちに対しても、憐憫(れんびん)の情をすこしも見出すことができなかった。 一般的な世評としては、会津侯らが起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗北の際に切腹もしなかったために、尊敬を受けるべき資格はすべて喪失したというのである。


長くなりますので今日はここまでと致します。
明日は締めくくりとしまして、「遺体埋葬禁止令」の事実   会津藩の恨みの原因・・・偏見・欺瞞に満ちた『小説』  什の掟(じゅうのおきて)とは・・・ をアップします。

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# by kfujiken2 | 2016-11-29 15:53 | 歴史 | Comments(0)
【下松地方史研究会:秋季特別歴史講演会】 “長州藩と会津藩 ~長州藩に正義あり~”
山口県文書館副館長や毛利博物館館長を歴任された小山良昌先生の講演を拝聴して、
私なりに調べてみました。


【長州藩と会津藩の関わり】


会津藩は八月十八日の政変や禁門の変(蛤御門の変)、更に第1次・第2次長州征伐(四境戦争)と幕府方の
中核として尊皇攘夷派の排除を行った。明治維新を勝ち取る戦いとなった戊辰戦争は、1868年(明治元年)の鳥羽・伏見の戦いから、翌年の1869年(明治2年)の五稜郭(現在の函館市に)の戦いまで、旧幕府側と新政府側との一連の戦いである。最後は東北や北海道にまで向かう戦いだった。
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した松平容保は、新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、受け入れられなかった。
会津藩が一時期幕末の政局のリーダーシップを握りながらも、最終的に戊辰戦争に突入せざるを得なくなったのには、「悲劇」という二文字だけでは片付けられない、必ずやその理由や藩の命運を左右した分岐点、すなわち歴史上のターニングポイントがあったはずなのです。


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① 会津藩がなぜあのような運命を辿ってしまったのか?


将軍慶喜の命で会津藩主松平容保は鳥羽伏見で薩長と対戦しますが、戦い半ばにして容保は慶喜に連れられ
江戸に逃げ帰りました。薩長にとって会津藩は分かりやすいスケープゴート(身代わり)になってしまったのです。その後の戊辰戦争では、恭順して難を逃れた慶喜の身代わりに血祭りにあげられたという感じでしょうか。
会津では藩校などで子供の頃から儒学を徹底して教え込むなど、じつに生真面目な忠君愛国的精神風土がありました。そのまじめさがゆえに柔軟さを欠き、世の中の動きに柔軟に対応できなかったのではないかと思います。かつては攘夷を唱えながら、英国に敗れたとたん手のひらを返すように英国と手を結んだ薩長のような変わり身の早さなどありませんでした。
愚直なまでに謹厳実直な会津藩に同情したり賞賛する人は多いに違いありません。
幕府に裏切られたというより、勤王の意味のちがいでしょう。
慶喜は、とにかく天皇に逆らうのは逆賊だから、という形式的大義名分で、抵抗をやめた。
それにたいして、会津は、薩長こそ国賊だという認識があったから、最後まで抵抗したのでしょう。
会津は単に幕府に忠誠を誓っていただけでなく、第一の勤王家だったんです。

薩長は、幕末には既に、経済市場の確立や財政改革や西洋式軍制、市民平等・国民皆兵の思想が出来上がっていた。しかし、会津などの佐幕藩は、幕末ぎりぎりの時点でもまだ旧態依然とした時代の中に眠っており、先見の明がある優秀な人材もおらず、藩主以下が固陋な思想と行動に縛られていたのです。


★ 会津藩は愚直なまでに謹厳実直で、机上の武士道や道場での武芸盛んだったが、戦争経験が皆無だった。

② 会津藩の歴史上のターニングポイントがどこにあるのか?


尊皇攘夷派の急先鋒であり、朝廷を陰から操ることによって政局をリードしていた長州藩は、「八月十八日の政変」により、一気に朝廷内での勢力や実権を失い、京の都を追われることになります。この「八月十八日の政変」という大きなクーデターで、当時隆盛を極めていた長州藩が京都から追い落とされることになったのは、当時京都守護職を務めていた会津藩と薩摩藩という二大雄藩が提携(同盟)したことが大きな原因となっています。会津と薩摩、この両藩が提携しなければ、「八月十八日の政変」という一大クーデターは成功しなかったどころか、発生することも無かったであろうと考えられます。

明治維新において、薩摩藩があれだけの活躍と存在感を示すことが出来たのは、島津久光の統制主義の元に、西郷や大久保といった有能なリーダー達がよく実務をこなしたからであると思います。島津久光の統制主義と西郷や大久保の突出したリーダーシップや政治力との間の歯車が上手く合わさった結果、薩摩藩が明治維新における大きな原動力を生み出したと考えられます。
当時の会津藩主・松平容保は京都守護職を務め、孝明天皇の覚えも目出度く、京都では非常に大きな勢力を持っていましたから、まず「手を組むなら会津藩」という前提の元で、島津久光自身から「情勢を見届けた上で、会津藩と提携せよ」という具体的な指示が出ていたのではないかと推察しています。 


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長くなりますので今日はここまでと致します。
【長州藩と会津藩の軋轢】 【会津藩の圧政と会津藩士の実態】 【英国公使館の医師・ウィリアム=ウィリスの証言】 ★「遺体埋葬禁止令」の事実 等は明日にでもアップします。

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# by kfujiken2 | 2016-11-28 10:23 | 歴史 | Comments(0)
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