山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


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東大寺別院阿弥陀寺 あじさいまつり

東大寺別院阿弥陀寺は、東大寺再建のため周防国へ西下した俊乗房重源上人が、
後白河法皇の現世安穏を祈って、文治3年(1187)に建てた古刹。
阿弥陀寺境内には80種類4,000株の紫陽花が植樹されているそうです。


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林寛孝住職曰く、アジサイの花の色は七変化することから、花ことばは「移り気」と言われていますが、
仏の世界観からアジサイを眺めると、アジサイは私たちに「人生は無常である」ことを教えてくれて
いるのではないでしょうか。人生は楽しいことばかりではなく、また、つらいことばかりでもありません。
一日、一日を大切に生きてほしいと願いながら、色彩豊な姿で、アジサイは私たちを見守ってくれて
いるのです。


総門である仁王門の周囲には、山アジサイや本アジサイが多いように思われるが、
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本堂の周囲はガクアジサイや西洋アジサイが多いです。

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仁王門をくぐり右手に水車があり、
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更に右手に巨木の関水の説明碑があります。

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※ 巨木の関水の説明碑をかいつまんで説明しましょう・・・
杣出し(そまだし・材木を山から切り出すこと)の人夫を国中の在家五軒あるいは十軒毎に一人割り当てたが、なかなか集まらなかったこと、柱を曳くのに用いる長大な縄の原料たる麻苧(あさお・麻糸)が大量に必要なので諸国に良質のものを課して集めてもらったことなどがある。
得地(徳地)の杣山(そまやま・木材を切り出す山)は深山幽谷のため、人夫の人力のみで用材を運搬する
のは困難であり、重源が工夫して二台の轆轤(ろくろ)を使い、直径六寸(十八センチメートル)の縄を
用いて普通なら用材一本の運搬に人夫千人以上も必要なところを僅か六、七十人で曳くことができたと
言われる。・・・
こうした多数の巨木は苦心の末、佐波川まで運び出され、川の流れを利用して瀬戸内海まで運び出した
のである。この際、佐波川東岸に川を堰き止め水路を築いて水深をあげ、巨木を下流に流す方法が
とられた。この水路を「関水」と読んでいる。


「かんのんばし」までの石段は、さほどでもないが「かんのんばし」を渡り山門までの石段は、年寄りには一寸きついですね~
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# by kfujiken2 | 2017-06-21 15:00 | 風景 | Comments(0)

山口・サビエル記念聖堂と防府・英雲荘のウオッチング パート2

英雲荘の概略は、前回の投稿【萩毛利藩の防府に存在する休憩・宿泊所だった英雲荘 (三田尻御茶屋)】で、説明していますのでご覧下さい。 (アンダーラインに前回の投稿ページがリンクされています。)
今回は珍しい廊下の襖戸や、大観楼棟の2階にある2部屋を説明します。

英雲荘について少し触れましょう!!!
英雲荘(三田尻御茶屋)とは、1654年に、毛利萩藩の2代藩主・毛利綱廣によって藩の公館
「三田尻御茶屋」が建てられたことが、この建物のはじまりです。おもに参勤交代のときの藩主の
宿泊所、また三田尻の町には毛利水軍の拠点が移され、萩藩の瀬戸内海側の表玄関だったこともあって、
港からやって来た他藩の方々の接客の場……迎賓館としてもこの場所が使われました。
その後、7代藩主・重就が、自分の隠居所として、その住まい……御殿を造営します。その期間は、
安永6年(1777)頃から天明3年(1783)にかけてとされていますが、はっきりとはわかっていません。
ここは長い歴史のなかで、建物の役割が大きく変わったり、増改築が行われていますので、解明されて
いないことがたくさんある建物なんです。


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大観楼棟1階御書院一ノ間から三ノ間の南側に続いている廊下には、廊下を隔てる二ヶ所に
裏表4枚づつ篆書(てんしょ)でかかれた杉板の戸襖が計8枚あります。信濃(長野県)出身の
書家・三井 親和(みつい しんな)の書だそうですが、大変迫力があります。

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裏表4枚の杉板の戸襖(とぶすま)の画像です。
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杉板の戸襖(とぶすま)の文字の説明画像です。

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大観楼棟の二階にある2部屋ある内部です。
この2階は風景を楽しむ“物見の部屋”として作られています。江戸時代のはじめは、このすぐ目の前が海だったそうです。「大観楼棟」の部分は、現存する建物のうち最も古く、重要な役割を持ちます。かつては2階の南側から海が見え、眺望の美しさから「大観楼」と呼ばれました。文久3(1863)年、京都の改変で長州へ逃れた三条実美ら7人の公卿が三田尻御茶屋に約2カ月間滞在し、高杉晋作などが公卿と会談したと言われています。
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檜(ひのき)の樹皮を用いて施工する檜皮葺(ひわだぶき)で造られている大観楼棟です。
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大観楼棟の2階から見下ろした庭園です。
絵図や資料から、江戸・明治時代には佐波川からひいた疎水が邸内にとり込まれ、
しなやかな曲線を描く流路を水がめぐる回遊式庭園であったことがわかります。

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# by kfujiken2 | 2017-06-16 11:08 | 歴史 | Comments(0)

山口・サビエル記念聖堂と防府・英雲荘のウオッチング

フランシスコ・ザビエルの来日400年記念として1952年(昭和27年)に建てられた。
初代の聖堂は、ザビエルの生家で、スペインのナバーラ州パンプローナ近郊にあるザビエル城を模して
建てられたもの、市民にも広く親しまれていた。しかし、1991年(平成3年)9月5日に失火により全焼。
サビエル記念聖堂の所有者であるイエズス会より多くの資金援助を受け、更に、種々の教会関係機関、
山口信徒、ならびに山口市民、全国から寄せられた善意の募金により1998年(平成10年)4月29日に
再建された。


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井戸端で説教するフランシスコザビエル
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大聖年の鐘
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クリスチャン記念館(博物館)の展示物
① 旧サビエル記念聖堂の鐘
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② ステンドガラス
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③ イグナチオ・ロヨラとリバデネイラの像

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④ 祭服
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隠れキリシタンの里 紫福(しぶき)
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聖堂(祈りの場)
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パイプオルガン
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長くなりましたので防府・英雲荘(三田尻御茶屋)は、明日にでもアップ致します。

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# by kfujiken2 | 2017-06-13 15:46 | 未分類 | Comments(0)

【森友学園問題】・【加計学園問題】の疑惑の数々~終焉を迎えたか安倍政権?

森友学園問題は疑惑の発覚から3ヶ月でようやく全容が見えて来たとところですが、
新たな疑惑である加計学園問題の追及も連日国会で行われています。
加計学園問題は、国家戦略特区が安倍総理の友人に便宜を図るために悪用された
のではないかという疑惑です。


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第2次安倍内閣が「安倍の言論弾圧」などといわれているのも、長期政権の「暗黙の圧力」が強いからだ。
菅官房長官が内閣人事局を通じて各省の幹部600人の人事を決めるようになったことだという。
問題ごとに特命チームが組織され、官邸が党をバイパスして官僚機構を直接コントロールする
「政治主導」が実現したのだ。
政策的には、内閣支持率を高める要因はない。安倍氏は金融政策で「デフレ脱却」して景気を
劇的に回復させるつもりだったらしいが、物価はデフレに戻り、まもなく発表される
GDPの1Q速報値は4四半期連続でマイナスと予想され、経済は最悪だ。
安保法制でも失敗した。本来は内閣法制局の見解を変更して集団的自衛権を合憲とした上で、
国会で技術的な問題を審議する予定だったが、法案審議とは別の憲法審査会で自民党の参考人が
「集団的自衛権の行使は違憲」と述べたため、憲法論争が蒸し返されて国会が大混乱になってしまった。

しどろもどろの安部総理が今国会で16回も連呼した「印象操作」という言葉で逃避している。
つまり経済政策も政局運営もうまく行っていないのだが、内閣支持率は高い。政権を救っているのは、
【森友問題】・【加計問題】の疑惑の数々が徹底追及できないし、つまらない憲法論争しか争点の
出せない無能な野党である。


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国会答弁でよく分からない言葉

「国家戦略特区」
第二次安倍政権が進める新しい経済特別区域構想のことで、地域を限定した大胆な規制緩和や税制面の
優遇で民間投資を引き出し、“世界で一番ビジネスがしやすい環境”を創出するのが狙いです。
2013年6月に特区創設が閣議決定され、12月に成立した国家戦略特別区域法では医療や雇用、農業など
計六分野で規制の特例が認められました。いわゆるアベノミクスの“第三の矢”と呼ばれる成長戦略の
中核として期待されていますが、一方で、焦点の一つである雇用や働き方に関する規制緩和については
批判や抵抗が根強く、具体的な施策づくりに向けた議論の行方はいまだ不透明な情勢です。


「岩盤規制」

役所や業界団体などが改革に強く反対し、緩和や撤廃が容易にできない規制。
国家戦略特区は、何年も手がつけられなかった規制の岩盤にドリルで風穴を開ける制度だ。
この獣医学部の新設も、平成19年(2007年)の11月に(愛媛県)今治市などによって
構造改革特区として提案されて以来、長年、実現できなかった、まさに岩盤規制ではなかったか。


「印象操作」
第三者にたいし任意の人や物事に関して自分の都合のいい印象を与えようとする事。

* 「忖度(そんたく)した事実がないのに、まるで事実があるかとのことを言うのは典型的な印象操作なんですよ」
* 「我々がまるでうそをついているかのごとく、そういう印象操作をするのはやめていただきたい」


共産党の小池晃書記局長は、あんな言葉、どこで覚えたんですかね?と話した。
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# by kfujiken2 | 2017-06-04 09:32 | 未分類 | Comments(1)

「前川の乱」は官邸と文科省のけんか

前川の乱は、前文科省事務次官・前川喜平氏が「総理のご意向」などと書かれた文書は、私自らが、担当課から説明を受けた際に示されたと証言したことに端を発しますが・・・
この勇気ある告発は、官邸の謀略への反発だと推察します。


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天下り問題で、官邸のパフォーマンスに利用されたという思いがある。
つまり、前川前次官は悪の権化のように扱われ、自主退職を強要されたわけだ。
この程度のことで懲戒免職なんてことは絶対にないのが霞が関。自主退職させる
としても通常の人事異動の時期まで待つのが普通だそうです。
安倍政権の厳しい対応には、加計学園問題で官邸の意向に逆らった文科省への
見せしめ懲罰という側面があったことも確実だ。
文科省は、正論を貫こうとしたら、力ずくで抑え込まれたという被害者意識を持っている。
前川氏が、行政が歪められたという趣旨の発言をしたのはその証拠です。
文科省側に、強烈な反感が芽生えたとしてもおかしくない。
今回の前川氏の行動は、完全な個人の単独行動なのだろうか。
前川氏には省内に多くのシンパがいると言われる。当然退職後も部下たちから、
官邸に対する恨み節を聞いていたはずだ。
文科省という役所の行政が官邸の横やりで歪められ、強大な官庁と違い、
ひとり天下りで悪者扱いされた。このままでは、文科官僚の誇りも自信もズタズタにされたままだ。
加計学園問題が本当に政権を揺さぶる事態になるのかどうか。
その行方を占うカギは、文科省の現職官僚の中から「四十七士」が
登場するかどうかに掛かっている。


理解し難い問題が2つ・・・

◆ 菅官房長官は前川氏が文科省の天下り問題で引責辞任したことに触れ、「当初は地位に恋々としがみついていた」と述べた。

しかし、前川氏は文科省の違法な天下り問題を受けて「引責辞任は自分の考えで申し出た」、「官邸からも大臣からも『辞めろ』とは言われていない」と述べている。

前川氏に対する「個人攻撃」を繰り返し、同氏の証言の信ぴょう性を低下させる狙いがあるとみられる。


◆ 前川氏は「極めて薄弱な根拠で規制緩和が行われた。公平、公正であるべき行政の在り方がゆがめられた」と主張。自身については「非常に疑問を感じていたが、まっとうな行政に戻せず、結局押し切られた責任は大きい」と陳謝した。

それに対し、自民党の竹下亘国対委員長は記者団に、非常に疑問を感じていたならば「(前川氏は)現職の時に対応すればいいものを今になって何を言うのか」と不快感を示した。


時事通信社 特別解説委員・田崎史郎氏曰く、「3年前に、内閣に人事局が設置されて、総理と官房長官が、霞が関の局長以上の600人の人事権を握るという形になっている。
官僚たちは、人事権を握っている人になびくから、官邸の方を向いて仕事をせざるを得なくなっている。それが現実」と話している。
つまり、現職の時告発していたら、免職処分は必至だ!!!

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# by kfujiken2 | 2017-05-31 12:44 | コラム | Comments(4)

虹ケ浜海岸にそびえる流木ゴジラ

今朝  YAHOO!ニュースの “さよなら「流木ゴジラ」自主撤去へ” の記事を読み、早速行って来ました。

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海岸近くの社会福祉法人に勤める重山さんが1カ月ほどかけて漂着した流木を拾い集め、組み立てた。
現在は未完成で、全身に木ぎれをはり付け、夏までに完成させる予定だった。漂着ゴミや流木が押し
寄せる海岸で、「若い人たちに海岸美化に関心を持ってもらおう」と制作を続けたそうです。
だが、5メートルもの高さがあるゴジラの存在に気づいた県周南港湾管理事務所が、
倒壊の危険性を指摘。
今月いっぱいで、撤去されることになったそうですが、正に流木アート、芸術ですよ!!!
県周南港湾管理事務所も何か工夫を施し、保存を考えたらどうかなぁ~


足元には木片で作られている文字は、「祈 東日本九州熊本復興」です。

側面です
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正面側からです
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正面のアップ画像です

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重山さんが流木アートを始めたのは2015年から。
昔から「白砂青松」で知られる虹ケ浜海岸だが、漂着ゴミや流木が押し寄せ、夏場はほぼ毎日、市の委託業者が機械で清掃している。若い人たちに海岸の美化について関心を持ってもらうにはと、思いついたのが流木アートだったそうです。

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# by kfujiken2 | 2017-05-26 19:33 | 未分類 | Comments(2)

意外と知られていないであろう小烏神社(こからすじんじゃ)

防府市を車で散策していると、聞き慣れない神社の小さな看板が目に留まりました。
車を止め読んでみると興味をそそられる内容ではないですか?
車道から神社は見えるのだが、入口が分からない!!!
暫く周囲をうろうろしていたら、住宅地の狭い路地道を見つけました。
そこを入っていくと参道がありました。土地の人でないと知らない道ですね~


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江戸時代の三田尻(防府)は、長州藩の要衝として重視されたことがうかがわれます。
当時の三田尻は、萩城から続く萩往還の終点として、又、瀬戸内海側における長州藩の
玄関口であった。江戸時代初期には、海路で参勤交代へ向かう出発地でもあった。
1654年(承応3年)に長州藩の第2代藩主・毛利綱広が萩往還を造った際に、
三田尻御茶屋を築造するなど、大いに栄えた。
しかし、後に参勤交代が海路から陸路に変更されるに及び、その役割は限定的なものと
なった。


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● 萩往還: 萩城下唐樋から三田尻御茶屋までの約53kmの街道で、 大名の参勤交代の道として整備され 、また日本海側と瀬戸内海側とを結ぶ道として、多くの人々に利用されました。
● 英雲荘 (三田尻御茶屋) : 藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩や宿泊等、また迎賓に使用されまし た。
● 三田尻御舟倉: 藩主の御座船や軍船が常置され、水軍の根拠地でした。

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大政奉還が行われたのと同じ日、朝廷から長州・薩摩藩に対して幕府を武力で倒すようにという討幕の密勅が出されていました。将軍が政権をみずから朝廷に返したことで政治の主導権を旧幕府側に奪われることをおそれた長州・薩摩両藩は王政復古を宣言し、反発にそなえて両藩の兵を京都に送ることにしました。
長州藩の諸隊は鞠生松原(まりふのまつばら)に集まり、八咫烏(やたがらす)を祀った
小烏神社(こからすじんじゃ)に毛利内匠藤内を総大将、楫取素彦を参謀、山田顕義を総指揮官とする長州軍1,200人が討幕の必勝を祈願した後、6隻の軍艦で小田港を出発して京都に向かいました。
この時に出発した諸隊は、翌年の1868年(明治元年)の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍と戦う時の主力となりました。


● 毛利内匠藤内(もうり たくみとうない): 長州藩一門家老である右田毛利家の12代当主・毛利親信

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このあたりは幕末には松林が続く海岸が広がっていましたが、今は埋め立てられ、
現在は○○松原と言うように松原の面影はありませんが、小烏神社の周辺に見られる
松の木が当時の名残りではないかと推測します。


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# by kfujiken2 | 2017-05-20 11:10 | 歴史 | Comments(0)

河野養哲と越氏塾

文教の地・三田尻(現 防府)に、貞享3年(1686年)萩の明倫館ができる約30年前に河野養哲が三田尻に
越氏塾(えっしじゅく)を創設した。己の名利を捨て、人材教育にその生涯をかけた、まさに山口県教育の
原点とでも言うべきものである。養哲の死後、越氏塾は三田尻宰判の公費でまかなわれる学校となり、
その後数度の統廃合ののち、元治元年(1864年)には三田尻講習堂という塾名となった。
明治5年(1872年)建物はそのまま華浦小学校となった。楫取素彦(当時:小田村伊之助)は、
吉田松陰が処刑された翌年、万延元年(1860年)に越氏塾の塾長相当として派遣され、教鞭を執りました。
校内に残された碑には「越氏塾後に学習堂と曰い、講習堂と曰い、遂に華浦小学と曰う」と、
明治41年10月に男爵楫取素彦により設置された越氏塾沿革の碑に刻まれている 。


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大きい方の石碑は河野養哲碑
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小さい方の石碑は越氏塾沿革の碑
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河野養哲の説明を少ししましょう・・・

寛文元年(1661)三田尻の御舟手組の中船頭河野彦兵衛の二男として生まれ,、幼少の頃,父の同僚の家に
養子に入り、その家を継いだ。しかし成長するにつれて水軍の船頭という仕事に馴染むことができず
夜ひそかに書を読んで学問にはげんだ。彼の人生の最大の望みは子弟の教育にあたることにあった。
彼はついに自分の意にそわない船頭役をしりぞき,ついで養家からも去った。

浪人になった養哲は,暮らしをたてるために医業をいとなんだ。医者としての彼は,貧しい家に往診しても
一文の謝礼も受け取ろうとせず,一方,おごり富む家からいくら金を積まれても往診しようとはしなかった。
しかし,医業も彼を満足させるものではなかった。

25才頃,三田尻にかねてから念願の私塾を開いた。養哲の祖先は伊予水軍の越智氏の出であったので,
塾名を越氏塾と名付けた。塾には藩士の御舟手組の子弟や百姓の子弟が身分にかかわりなく同席して
学んだ。養哲はその収入の塾をひらくかたわら医者としても働き、その収入のすべてを塾の経営に
つぎ込んだ。

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# by kfujiken2 | 2017-05-16 16:48 | 歴史 | Comments(0)

藤の大木・一貫野の藤

一昨日山口市仁保の「一貫野の藤」に行きました。
シーズン中は県内からだけでなく、県外からも多くの人が訪れ、
特にカメラマンの方にとっては絶好の撮影スポット。
おそらく人気の秘密は、藤の下を流れる水の流れを一緒に見れるからでしょう。
滝とまでは言えませんが渓流と藤・・・
このコラボは他に例えようのない美しさがあります。


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苦言を一言言わせて頂きますと・・・
藤は花後に実ができます。実を付けたままにしておくと栄養がそちらにとられて
木の生長が弱くなるので、枯れた花房や実をこまめに取らなければ駄目だそうです。

また、藤は剪定が必要らしいそうです。以前から毎年観に来ているので感じるのですが、
つるが伸びすぎて覆った感じになっています。地区民の人が管理・整備をされているんでしょうが、
川の上につるが伸び、建物2階くらいの高さがありので剪定は大変でしょうね!!! 

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天気が良すぎてハレーションを起こします、PL サーキュラーがあればいいのですが!!!
構図を下げ更にアンダー気味に撮影してみました。

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# by kfujiken2 | 2017-05-13 09:04 | | Comments(0)

華浦病院・医学校跡

現在、趣味の地方史研究の一環で、「防長二州における医学教育」というテーマで色々調査・
撮影・ 編集を進めている最中なんですが、山口県の医学教育の中核的存在であった華浦病院・医学校跡を見つけ撮影して来ました。


山口県立華浦病院・医学校跡(松原児童公園)
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説明碑 の拡大です。
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華浦医学校の様子
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山口大学医学部の防長医学史からお借りして来ました「華浦医学校校舎・生徒写真」です。
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1874年(明治7年)、現在の防府市松原町・松原児童公園内に華浦医学校(かほいがっこう)と
華浦病院が設立されました。華浦医学校は医者を育てる場であり、県内でも最高の医学知識を身に付ける
ことができる研究の場でもありました。外国から人体模型や器械を輸入し、最新の書物が翻訳
されて提供されました。 一方、華浦病院では収入の低い人については治療費が無料になり、
看護してくれる人もつけてもらうことができました。また、病院長は山口県内の衛生面に関して
指導をする立場にありました。いかに、華浦医学校や華浦病院が、山口県の中で高い地位に
あったかがわかります。まさに病院として、そして学校として理想の姿だったのです。
しかし、運営するための資金が不足したことや学校に関する法律が改正されたことにより、
華浦病院は1877(明治10年)に、華浦医学校は1883年(明治16年)に廃止されました。
病院と医学校が置かれたのは短い期間でしたが、医学校で学んだ人々の中には、その後医者に
なった人や、県内の衛生状態が良くなるよう指導にあたった人もいます。卒業生のなかには、
日本で初めて体温計を作った柏木幸助[かしわぎこうすけ]もいます。


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# by kfujiken2 | 2017-05-09 11:36 | 歴史 | Comments(0)