長州より発信

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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

今年は紅葉狩りに、島根県の匹見峡・岩国紅葉谷&宇野千代さんの庭園など彼方此方と
行きました。先週の土曜日に紅葉巡りの見納めに両足寺へ行って来ました。



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山口市鋳銭司にある両足寺は通称「もみじ寺」とも呼ばれ、シーズンには約150本の紅葉が観光客を楽しませてくれます。しかし、理由は分かりませんが、石段両脇及び駐車場傍のモミジは伐採され、なんとも殺風景になっていました。昔からここの紅葉を楽しんでいた人は物足りなく感じることでしょう!!!
両足寺は紅葉だけでなく、同じ時期には黄色い花を咲かせるツワブキも楽しめる。
また3月には鮮やかな五色八重散椿も咲き、訪れる人の目を和ませてくれます。
しかし、拝観時間が9時から16時30分までと短く、また境内は飲食・ペット・三脚が禁止と
やや厳しいのも特徴。カメラマンの方は撮影する際は気を付けてください。


境内にあるモミジと、左が五色八重散椿です

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山門は見どころの1つ。どことなく京都をイメージさせられる景観。下から見上げても上から見下ろしても素晴らしい紅葉が楽しめます。寺院と紅葉はよくある組み合わせだが、両足寺はもみじの数も多く、一歩境内に足を踏み入れると周りのみならず空まで真っ赤に染まり、綺麗なのにため息が出る程でしたが、残念です・・・

上から撮影したこの画像で、ぽっかり穴が空いている感じが分かりますかねぇ~
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山門のこのポイントは、まだOKです
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黄色い花を咲かせるツワブキの花が、癒してくれます。

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# by kfujiken2 | 2016-12-04 08:59 | 風景 | Comments(0)
「遺体埋葬禁止令」の事実

会津藩士の子孫の間でも「遺体埋葬禁止」の命令があったと伝承され、深い怨念がいまだに残っています。
実は実際に「遺体埋葬禁止」ではなく「遺体埋葬の遅延」は生じていました。しかしそれは次の大きな理由から
です。

1.会津戦争当時の会津領内の治安の悪化、農民一揆や略奪の頻発による作業の遅延。
2.冬になり降雪が多く遺体の埋葬作業が遅れたこと。


遺体処理人(下賎)は金のある上級武士から埋葬していく。下級武士たちは貧しくて家族から金が貰えないので、なかなか手を付けようとしなかった。やがて1、2ヶ月も遺体が未処理のまま、会津に雪が降りはじめた。


会津藩の恨みの原因・・・偏見・欺瞞に満ちた『小説』


今の会津人に戊辰戦争のことが詳しく知らされていないのは、現在の会津史(会津観光史学)が歴史小説という虚偽の上に成立し歴史として正式な学会などに、全く認められていないことにある。
史実を捏造・隠蔽してまで“会津=善と、薩長=悪の対立”という構図を強調し「怨念史観」により“市場活性化”をはかり金儲けしようという行為は許されない。客観的にみて、会津VS薩長を本気で思いこんでいる人々は真実を知らず、歴史小説に感化された人々だといえる。

会津と長州の対立が騒がれるようになったのは昭和60年代の新人物往来社の「歴史読本」のキャンペーンと、
司馬遼太郎が会津でシンポを行ったのが起因。
更に当時会津若松市の観光部長であった故宮崎十三八氏と白虎隊記念館長 故早川喜代治氏が「観光の目玉にと」と会津が今でも山口・鹿児島に恨みを持つような観光キャンペーンをはるようになったのが発端。
更に、会津びいきの作家(早乙女・星・宮崎各氏)による史実歪曲が、史実を知らない一般の人々を洗脳し、薩長は悪とレッテルを貼ってしまった。
しかし会津にも会津の史実を正確に伝え、会津の観光史学を批判し指摘している研究者・作家も存在する(野口・畑・牧野各氏)。だが、残念なことに現在地元では会津びいきの作家が支持され、現在の観光にも生かされてるのが実情である。

会津士魂とか「什の掟・ならぬことはならぬ」とか言いながら、その掟を破り 三、虚言をいう  四、卑怯な振舞をする  五、弱い者をいぢめる 今の会津人は鹿児島・山口に対して以上のことを行っている。
また、毎年9月日本史を改ざんしてる福島県会津地方で毎年行われている日本唯一の怨念祭です。
会津新撰組祭りで「馬鹿め薩長!」と言いながら薩長武士役を切り殺すことをやっている。
薩長差別は古い人たちから現世代へと確実に引き継がれている。


会津新撰組祭り
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什の掟(じゅうのおきて)とは・・・


会津藩では藩士の子弟を教育する「什(じゅう)」という組織があり、6歳から9歳まで10人前後の集まりで、年長者が一人什長と呼ばれるリーダーとなった。什では毎日順番に、仲間の家に集まり、什長が7カ条の「什の掟(おきて)」を訓示する。什長が一条ずつ「お話」を申し聞かせ、「ならぬことはならぬものです」と結んだ後には、反省会へと移る。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

六歳から九歳の子どもたちが、大人には頼らずに、自分たちだけで規範意識をもって、このような一連の仕組みを編み出すとは、妥協のないペナルティが責任感を育たのではないか?




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# by kfujiken2 | 2016-12-01 10:10 | 歴史 | Comments(0)
【長州藩と会津藩の軋轢】

八月十八日の政変で会津藩と薩摩藩、孝明天皇や公武合体派の公家は連帯して尊王攘夷派の計画を潰し、
長州藩を朝廷における尊攘派一掃を画策した。長州藩兵は、堺町御門の警備を免ぜられ京都を追われ、
朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた(七卿落ち)。
この時点で会津が長州を恨むような状態どころか、逆に長州が会津を恨むようになっていった。
後の池田屋事件や禁門の変で、京都守護職配下の治安維持組織である新撰組の所為で、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・杉山松助といった実力者を失い、長州の会津に対する恨みが増す。
更に禁門の変に於いて久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、来島又兵衛らが戦死した。こうして、会津に対する
長州の恨みは最高潮に達する。徳川慶喜に大政奉還を迫り、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を破ると、
戊辰戦争へと突入するが長州の主力は河井継之助が率いる長岡藩との戦闘にてこずり、白河方面から
会津に攻め込んだ薩摩や土佐に後れを取った。会津藩が降伏した際には、会津の西にある会津坂下までしか
進軍できていなかった。1カ月間の籠城中に会津の市街地で略奪や殺戮(さつりく)、強姦などの残虐行為を行ったのは薩摩軍や土佐軍だったという。
結論を言えば、長州藩は会津戦争には余り係わっていないと言う事です。
故に会津が長州に怨念を抱く理由はわからない。強いて挙げれば、会津には会津戦争の残虐行為が長州軍によってなされたという誤解があり、新政府軍の総司令官が長州出身の大村益次郎だったことも一因かもしれない。


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【会津藩の圧政と会津藩士の実態】


長年の京都守護職と鳥羽伏見の敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した会津藩は慢性的な戦費不足から、大局を見通せずに進駐した各地で民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
組織だった徴発だけではなく、個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。半ば強制的に行われた徴募では貴重な労働力を強引に奪われただけでは済まず、農兵の食料までもが村々から取り立てられ、村々は二重の負担に苦しむ事になる。
かくして会津藩兵による搾取・略奪によって、越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ越後の民衆は、自分達を救ってくれる存在を求めるようになる。越後の民衆が助けを求めたのが、会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり、かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。

会津藩が明治政府に降伏すると、たちまち藩政崩壊による権力の空白状態に乗じた民衆の謀反が勃発した。
これを旧会津藩領内で発生した世直し一揆。ヤーヤー一揆とも言う。


【英国公使館の医師・ウィリアム=ウィリスの証言】


医師ウィリアム・ウィリス

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◆ 民衆の貧困
会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。今後十年二十年に返済するという契約で、
会津の藩当局が人民に強制した借款についての話がたくさんあった。
会津の国の貧しさは極端なものである。家並は私が日本 のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。この国で生産される米はみな年貢として収められねばならなかった。

◆ 戦禍
私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。長岡で、彼らは新政府の病院にいる負傷兵や
医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者をみな殺害したのである。

◆ 民衆の動向

人々は冷淡な無関心さをよそおい、すぐそばの畠で働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津侯が
国を出てゆくところを振り返って見ようともしないのである。
武士階級の者のほかには、私は会津侯にたいしても行動を共にした家老たちに対しても、憐憫(れんびん)の情をすこしも見出すことができなかった。 一般的な世評としては、会津侯らが起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗北の際に切腹もしなかったために、尊敬を受けるべき資格はすべて喪失したというのである。


長くなりますので今日はここまでと致します。
明日は締めくくりとしまして、「遺体埋葬禁止令」の事実   会津藩の恨みの原因・・・偏見・欺瞞に満ちた『小説』  什の掟(じゅうのおきて)とは・・・ をアップします。

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# by kfujiken2 | 2016-11-29 15:53 | 歴史 | Comments(0)
【下松地方史研究会:秋季特別歴史講演会】 “長州藩と会津藩 ~長州藩に正義あり~”
山口県文書館副館長や毛利博物館館長を歴任された小山良昌先生の講演を拝聴して、
私なりに調べてみました。


【長州藩と会津藩の関わり】


会津藩は八月十八日の政変や禁門の変(蛤御門の変)、更に第1次・第2次長州征伐(四境戦争)と幕府方の
中核として尊皇攘夷派の排除を行った。明治維新を勝ち取る戦いとなった戊辰戦争は、1868年(明治元年)の鳥羽・伏見の戦いから、翌年の1869年(明治2年)の五稜郭(現在の函館市に)の戦いまで、旧幕府側と新政府側との一連の戦いである。最後は東北や北海道にまで向かう戦いだった。
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した松平容保は、新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、受け入れられなかった。
会津藩が一時期幕末の政局のリーダーシップを握りながらも、最終的に戊辰戦争に突入せざるを得なくなったのには、「悲劇」という二文字だけでは片付けられない、必ずやその理由や藩の命運を左右した分岐点、すなわち歴史上のターニングポイントがあったはずなのです。


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① 会津藩がなぜあのような運命を辿ってしまったのか?


将軍慶喜の命で会津藩主松平容保は鳥羽伏見で薩長と対戦しますが、戦い半ばにして容保は慶喜に連れられ
江戸に逃げ帰りました。薩長にとって会津藩は分かりやすいスケープゴート(身代わり)になってしまったのです。その後の戊辰戦争では、恭順して難を逃れた慶喜の身代わりに血祭りにあげられたという感じでしょうか。
会津では藩校などで子供の頃から儒学を徹底して教え込むなど、じつに生真面目な忠君愛国的精神風土がありました。そのまじめさがゆえに柔軟さを欠き、世の中の動きに柔軟に対応できなかったのではないかと思います。かつては攘夷を唱えながら、英国に敗れたとたん手のひらを返すように英国と手を結んだ薩長のような変わり身の早さなどありませんでした。
愚直なまでに謹厳実直な会津藩に同情したり賞賛する人は多いに違いありません。
幕府に裏切られたというより、勤王の意味のちがいでしょう。
慶喜は、とにかく天皇に逆らうのは逆賊だから、という形式的大義名分で、抵抗をやめた。
それにたいして、会津は、薩長こそ国賊だという認識があったから、最後まで抵抗したのでしょう。
会津は単に幕府に忠誠を誓っていただけでなく、第一の勤王家だったんです。

薩長は、幕末には既に、経済市場の確立や財政改革や西洋式軍制、市民平等・国民皆兵の思想が出来上がっていた。しかし、会津などの佐幕藩は、幕末ぎりぎりの時点でもまだ旧態依然とした時代の中に眠っており、先見の明がある優秀な人材もおらず、藩主以下が固陋な思想と行動に縛られていたのです。


★ 会津藩は愚直なまでに謹厳実直で、机上の武士道や道場での武芸盛んだったが、戦争経験が皆無だった。

② 会津藩の歴史上のターニングポイントがどこにあるのか?


尊皇攘夷派の急先鋒であり、朝廷を陰から操ることによって政局をリードしていた長州藩は、「八月十八日の政変」により、一気に朝廷内での勢力や実権を失い、京の都を追われることになります。この「八月十八日の政変」という大きなクーデターで、当時隆盛を極めていた長州藩が京都から追い落とされることになったのは、当時京都守護職を務めていた会津藩と薩摩藩という二大雄藩が提携(同盟)したことが大きな原因となっています。会津と薩摩、この両藩が提携しなければ、「八月十八日の政変」という一大クーデターは成功しなかったどころか、発生することも無かったであろうと考えられます。

明治維新において、薩摩藩があれだけの活躍と存在感を示すことが出来たのは、島津久光の統制主義の元に、西郷や大久保といった有能なリーダー達がよく実務をこなしたからであると思います。島津久光の統制主義と西郷や大久保の突出したリーダーシップや政治力との間の歯車が上手く合わさった結果、薩摩藩が明治維新における大きな原動力を生み出したと考えられます。
当時の会津藩主・松平容保は京都守護職を務め、孝明天皇の覚えも目出度く、京都では非常に大きな勢力を持っていましたから、まず「手を組むなら会津藩」という前提の元で、島津久光自身から「情勢を見届けた上で、会津藩と提携せよ」という具体的な指示が出ていたのではないかと推察しています。 


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長くなりますので今日はここまでと致します。
【長州藩と会津藩の軋轢】 【会津藩の圧政と会津藩士の実態】 【英国公使館の医師・ウィリアム=ウィリスの証言】 ★「遺体埋葬禁止令」の事実 等は明日にでもアップします。

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# by kfujiken2 | 2016-11-28 10:23 | 歴史 | Comments(0)
3度目の宇野千代さんの生家訪問です。

前回は淡墨桜を観に行きました。淡墨桜は吉野桜より開花が早く3月の
終わり頃が見頃と聞いていたので、その時季に行ったのですが!!!
少し早く残念でした。
花の見頃は気候に左右されるので難しいですね~ 


今回は紅葉が素晴らしいとのことなので早速行きました。

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ベストタイミングで楓が最高で、苔とのコントラストが見事です。


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苔のジュータンの上で楓の落ち葉が戯れています。

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苔のマクロ画像も面白いですね~~~

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# by kfujiken2 | 2016-11-23 08:30 | 風景 | Comments(0)
桂家は右田毛利家の家老職の家のため、いつ切腹命令が来てもいい様に
「切腹の間」が作られていた。幸いに、切腹は一度も無かったと聞きました。


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畳の敷き方が、解かりますか?
畳は不祝儀敷である卍(まんじ)敷きで、切腹の時は真ん中の畳だけ残して
他の畳はのけて白砂を敷いて浄土の方向いわゆる西に向かって腹を切るのだそうです。
不吉なことを帳消しにする意味で、床の間の造りが枡造りになっています。
マス床は本当に珍しいそうです。


卍(まんじ)敷き
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床の間の造りが枡造り

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通常はこちらの敷き方

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切腹の間と呼ばれる敷き方はこちら
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違いがお判りでしょうか?
ともえ形に敷かれた畳が反対の左回りになっているのです。

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# by kfujiken2 | 2016-11-16 09:37 | 歴史 | Comments(0)
【月の桂の庭】が期間限定で公開されました。 

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月の桂の庭と言われている桂家の庭は、東庭と南庭からなる一庭二景の平庭式枯山水庭園で、
四代桂運平忠晴(1664年~1747年)が正徳2年(1712年)に造ったものと伝えられている。
山を背にし、南に面した日あたりのよい小高い静かな昔の武家屋敷で、前面には防府平野が開け、
左には天神山、中央に桑山、そして前面は佐波川が南流する眺めのよさで、
借景としては格好の場所である。


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玄関です、右手に見えるのが庭に入る扉です。
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玄関を入るとさすが武士の御屋敷、いざという時の用意周到に槍が吊るしてある。

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書院の右手に【月の桂の庭】の南庭と東庭の一部が見えます。/
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逆L字型の敷地にいたるところに遠近法が使われており、庭は奥に行くにつれて幅が狭くなり
土塀も奥に行くにしたがってわずかに低くなり遠近感を出しています。

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庭の言われとなっている「月の桂」とは、古代中国の伝説で月に生える桂の木。
桂は仙人の食べ物とされ、「月の中にある桂」は不老不死の象徴とされています。
17個の石組みからなる石庭は大変凝った綿密な造りとなっており、立石と臥石の調和、
位置の平均率、石の象徴性などその構成は京都竜安寺の石庭より複雑なものです。
桂忠晴は当時佐波川河口で干拓の大事業をすすめていたが、その事業の成就のため兎肉をたち、
書院の縁先、あるいは庭の石により月に祈願したという。
月の桂の庭の名は、その月待(つきまち)の行事に由来する。(月待行事旧暦11月23日)

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※ 御屋敷の中に「切腹の間」という座敷があるのですが、長くなりましたので
明日アップしますね・・・ご期待の程


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# by kfujiken2 | 2016-11-14 16:25 | 風景 | Comments(0)
10年以上前から一度素晴らしい匹見峡の紅葉を見に行きたいと思っていました。
しかし道路が狭いので大きい車では、中々通行が難しいらしいので諦めていました。
だけど車を軽自動車にした現在ならば、OKと思い行って見ることにしました。


匹見峡 とは渓谷の名前で、美しい渓谷美が見られます。
匹見峡には、表、裏、奥の3つがあるます。
国道191号線の近くに奥匹見、県道307号線の近くに表匹見、
そして国道488号線に裏匹見があります。


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国道187号線から一番近いのは、道路は狭いが国道488号線の裏匹見だとネットで調べ、
裏匹見を見学することにし出発しました。
広瀬から国道187号線に入り「ピュアラインにしき」で休憩、国道434号線を東上し
雙津峡温泉の側を通り、何度もお参りしている腰から下の病気を治して下さるという
江龍寺(俊道様)に立ち寄りお参りを済ませ、更に国道434号線を東に進み国道186号に入り、
途中を左折して国道488号線沿いにある裏匹見峡を目指して北上しました。


ここからが大変だったのです・・・

標識をしっかり見ず、積雪時通行不能で、車幅2m以上は通行不能と書いてあったので、
道幅は狭そうだが積雪も無く車幅2m以内だから、気を付けてゆっくり行けば大丈夫と
思い進んだのが間違いでした。
国道だからいい道なんだと思ったら大変!!! ガードレール、カーブミラーが設置されていない
峡谷の断崖絶壁の上を車が何とか通り抜けられる程の幅しかない区間が続くことから、
谷側へ転落の危険があり、車同士のすれ違いが困難である。
中国地方を代表する山越えの俗に言う「酷道」の一つに挙げられるらしい。
まさかの交通止めです・・・ かなり先へ進んだ所が通行止めになっている。
国道488号線沿いにある裏匹見峡は、現在通行止め区間の中にあるのです。


諦めて引き返し戸河内まで行き、国道191号線を西に下り表匹見峡に向かいました。
途中の「いこいの村ひろしま」辺りの紅葉が最高でしたが、あいにくの雨で撮影が出来ず
残念でした。


「いこいの村ひろしま」の入口の真紅のもみじ
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国道191号線から島根県道307号線に入り表匹見峡へゴールイン。

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# by kfujiken2 | 2016-11-10 15:31 | 風景 | Comments(0)
何も予定の無い文化の日(3日)、花の少ないこの時季に花の撮影にでも行ってみようと
「やまぐちフラワーランド」に行って来ました。
残念なことに冬の花壇へと衣替えの時季に入り、秋花の多くは終わっていました。


管理事務所前のベコニアが出迎えてくれ、入口を入ると四季折々の花をのせた24個のゴンドラが回転する
フラワーランドのシンボルが目に入ります。


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大仏ヘアーを「螺髪(らほつ)」というそうですが、葉牡丹が正しく大仏ヘアーの様に、ユニークなデザインで植えられています。
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「ロックガーデン」はコニファーと呼ばれる針葉樹ですかね? 色彩、樹形など綺麗です。
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全長約50mの階段状花壇「ボーダーガーデン」は深紅のサルビアで艶やかです。
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帰りに冠山総合公園で「秋のばら祭」を開催しているので寄ってみました。
残念なことに10月22日から開催しているので、時既に遅しとでも言いますか枯れ落ちたり、
花びらが傷んでいたり見頃を超えていました。
花の撮影は難しいですね!!!  花の見頃は8分咲きですよね~

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# by kfujiken2 | 2016-11-05 16:31 | | Comments(0)
山口県旧県庁舎及び旧県会議事堂の見学の序に、
2013年度から実施されていた山口市湯田温泉の井上馨の生家跡地にある、
井上公園の改修工事が終わり、一般公開が始まったそうですから見て来ました。


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場所は湯田温泉 ホテルニュータナカの裏手になります。

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八月十八日の政変で京都を追われた七卿が滞在した「何遠亭」(かえんてい)が
復元されている。

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井上馨といえば『長州ファイブ』の一人であったことは有名ですが、
袖解橋(そでときばし)で襲撃に遭い、美濃の浪人で医師の所郁太郎が遭難に馳せつけ、
数か所の刀傷を五十数針縫い合わせる大手術をなし、 瀕死の井上馨を奇跡的に救ったことは
知る人ぞ知るの事件です。

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井上馨に関しては↓で説明をしていますのでご覧下さい。
http://kfujiken2.exblog.jp/21888223/
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# by kfujiken2 | 2016-11-01 16:07 | 歴史 | Comments(0)
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