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長州より発信


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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不倫はダメ!純愛を貫いた毛利元就と妻の妙玖とは!?


教科書では学べない!? 長州藩の礎を作った毛利元就の新しい側面を垣間見た

昨今、芸能人やスポーツ選手の不倫報道が増えてきましたが、不倫は犯罪ではなく不法行為です。許されることではありませんし、不倫の代償も実に大きい。
昔の日本もこの考えは共通で、厳しい処罰が下されていました。
現在、不倫や浮気と呼ばれている行為は江戸時代、「不義密通」と呼ばれていました。不倫に対する処罰ですが、江戸幕府の定めた「御定書百箇条」には「密通いたし候妻、死罪」とあり、密通の男も死刑とされていました。


【御定書】

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余談が長すぎました・・・
一夫多妻制度(天皇や公家・武士に限らず、富裕商人)が認められていた時代に、安芸国(あきのくに:広島県西部)の弱小領主の次男として生まれながら、暗殺や養子縁組といった権謀術数を駆使して勢力を拡大し、一代で中国地方を制覇する。
傑出した戦略家・謀略家で戦国時代最高の智将、『謀神』とも呼ばれた毛利元就は、正室妙玖(みょうきゅう)存命中は側室を一人も持つことが無かったそうです。

正室、妙玖が亡くなった後はショックのあまり部屋に3日も引き籠もったという逸話が残されています。形こそ政略結婚であったが、元就と妙玖は非常に仲睦ましい夫婦として伝わっており、妙玖はいわゆる良妻賢母で、戦いに明け暮れる元就の留守を預かり、毛利家家臣団の信頼も厚く、当主不在の城内をしっかりとまとめ上げました。
また、子育てにおいても、この毛利三傑といわれる三人息子・隆元、元春、隆景を、元就の教育方針に基づき、家族を非常に大切にすることは勿論のこと、他の人を思いやり、信仰心を厚い武将に育て上げました。
そんな両親を見て育ったためか、息子の隆元や元春、隆景も側室を一人も置かない当時としては非常に珍しい一途な一族となった。


毛利元就

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しかし、妙玖が他界したのが47歳、その時元就は49歳でした。
乃美大方、中の丸(小幡元重の姉)、三吉氏(三吉隆亮妹)という三人の継室の存在が知られている。
生涯に9男6女の15人を為した元就だったが、妙玖が3男2女の5人をもうけているのだから、その後6男4女の10人為している。
英雄色を好むではないが、精力絶倫男と言われていた毛利元就は、正室妙玖に対しては愛妻家で、家庭を大切にする実直な父親としてのイメージがあるようである。
たしかに正室との間には、男女合わせて5人をもうけていて、小早川隆景の次の弟元清が誕生するまでほぼ18年間ものブランクがあるが、その後は次々に子供を量産しているのだ。もっとも正室が存命中にも、すでに他の女に手をつけていて、正室に遠慮したのか、妊娠七ヶ月の身重の身ながら家臣に払い下げているのである。その子が二宮就辰である。
隆景誕生後の18年間ものブランクが、正室妙玖に対する遠慮だったとしても、正室亡き後の元就の行動から邪推すれば、18年間という男盛りの最中に何もしていないということは考えにくい。たたけばもっとほこりが出てくるかもしれない。





# by kfujiken2 | 2020-11-06 09:02 | 歴史 | Comments(3)

篤志家(とくしか)「名望家と呼ばれます」って聞いたことありますか



「篤志家」
は、社会奉仕・慈善事業などを熱心に実行・支援する人。
「篤志」は、「慈善事業などを熱心にする気持ち」や「思いやりが篤い(あつい)こと」といった意味があります。


武士の業績は教科書等に色々記載されているが、慈善事業は地味な行動ゆえ意外と知られていない人が多いです。過ぎし日の日本には篤志家と呼ばれ現代にまで名を残している人々がいるけれど、現代日本に、後世に名を残す篤志家は、はたしているのでしょうか?
ソフトバンクの孫正義・社長やファーストリテイリングの柳井正・会長兼社長が、現代日本では篤志家と言えるのではないでしょうか・・・


明治時代に養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の院長を務めたほか、東京慈恵会、博愛社(日本赤十字社)、癩予防協会の設立などに携わった渋沢栄一は代表的な人物ではないでしょうか!

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長州(山口県)にも、明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田財閥の創立者である自慢出来る篤志家がいます。児島湾干拓は江戸時代は岡山藩が、明治に入ってからは岡山県による、いわば公共事業として進められていました。しかし県の財政は厳しく、また干拓事業のスケールの大きさを前に継続を断念します。夢のような話とまで言われた事業で、国に事業の継続を要請しても、必要資金があまりにも多額なため断られます。当時の県令(現在の県知事の役職)であった高崎五六は、関西や関東の財閥に事業継続のお願いに走ります。
しかしあまりにもスケールが大きく、成功の保証もない、採算がとれるあてがない干拓事業を引き受けてくれる者はいませんでした。そんな中、立ち上がったのが当時、大阪でゆるぎない地位を確立していた藤田伝三郎だったのです。
松丸太杭を打ち込み、竹シガラを編み、堤心は土を盛り築きますが、数時間の内に泥の中に呑みこまれるというありさま。工法を変え、丈夫な基礎工事をし、その上に石垣を築き、石灰眞砂土のコンクリートで隙間を埋める工法にたどり着きましたが、地盤の悪さに苦難は続きました。干拓は5500町歩(1650万坪)を第1工区~第7工区にわけ、莫大なる費用と時間が過ぎる中、明治45年3月30日傳三郎は完成を見ることなく他界いたしました。


【岡山県児島湾干拓地略図】

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◆ 藤田伝三郎の業績を簡単に説明しましょう。

1878(明治11)年に五代友厚が主導して設立された大阪商法会議所(現:大阪商工会議所)の発起人に住友の広瀬宰平らと共に名を連ね、五代急死後の二代会頭に就任するほどの信用も得るようになります。
当時の日本の建設業界をともにけん引していた大倉喜八郎率いる大倉組と建設事業を合併させます。この会社が現在のスーパーゼネコン・大成建設です。日本初の紡績会社・大阪紡績(現:東洋紡)を渋沢栄一らと共に立ち上げ、更に日本初の純粋民間資本の私鉄・阪堺鉄道(現:南海電鉄)を開業し、小坂鉱山の事業は藤田財閥の中核事業となって数多くの人材を輩出するとともに、現在も非鉄金属大手・DOWAホールディングスとして存続しています。


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◆ 日本で篤志家と言われた人を少しご紹介しましょう。

● 金原明善(きんぱら めいぜん)   
1832年浜松市東区生まれ、天竜川の治水事業・北海道の開拓・天竜川流域の植林事業を行う。

● 留岡幸助(とめおか こうすけ)
1864年岡山県高梁市生まれ、日本の社会福祉の先駆者で、感化院(非行少年や保護者のいない少年を保護,教育してその更生をはかる施設)設立。

● 石井十次(いしい じゅうじ)
1865年宮崎県児湯郡生まれ、岡山孤児院を創設した人物で「児童福祉の父」と言われる。

● 濱口梧陵 (はまぐち ごりょう)
1820年和歌山県有田郡広川町生まれ、幕末最大級の堤防・広村堤防(和歌山県有田郡広川町)を約4年かけて修造した。


なかなか寄付が根付かないと言われる日本に比べ、海外では多くのフィランソロピストが活動を行っています。
フィランソロピストとは、フィランソロピー=社会貢献活動を行っている人を指す言葉で、日本語では篤志家(とくしか)と表現されます。


◆ 海外に数多くおられる中、3組のフィランソロピストをご紹介します。

● ビル・ゲイツ夫妻  マイクロソフト創業者
● ダスティン・モスコービッツ夫妻  フェイスブック共同創業者である
● ゴードン・ムーア夫妻   インテル創業者

# by kfujiken2 | 2020-11-02 09:33 | 未分類 | Comments(0)

菅総理は国民には受けるが官僚には恐ろしい男だ



霞が関騒然 … 首相秘書官室の異例の人事

菅首相は好き嫌いが激しい。政治的求心力も弱い。自分に盾突く官僚は避けたいのだろう!
経産省出身の前首相側近は一掃、官邸の業務に通じ、さまざまな政策を仕切る官邸官僚・今井尚哉首相補佐官兼首相秘書官、佐伯耕三首相秘書官、長谷川栄一首相補佐官といった経済産業省出身者を退任。
お気に入りの観光政策から先端医療関連まで幅広い分野を扱い、官房長官だった菅首相の右腕とされる国土交通省出身の和泉洋人首相補佐官、内閣人事局長として霞が関ににらみをきかせた官僚トップの杉田和博官房副長官、北村滋国家安全保障局長といった危機管理と公安を担う警察庁出身者は再任。
首相秘書官には官房長官秘書官を務める外務省出身の高羽陽、財務省出身の大沢元一、経済産業省出身の門松貴、警察庁出身の遠藤剛各氏を横滑りさせる。


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こんな細かい人事に介入するのは、歴代の総理でも初めて・・・
中でも驚かせたのが、首相秘書官室の事務仕事を担う女性職員を交代させたことだ。
首相秘書官室の女性職員は、電話応対、来客へのお茶出しなど雑務全般をこなすほか、番記者とのやりとりも担当する。内閣府出身の女性職員二人がこの任に当たっていた。ところが、菅総理はいきなりその二人をクビに。
入れ替わりで登用した新任者のうち一人は、官房長官室で自らに仕えてきた女性職員だった。
手にする権力が大きくなるほど、猜疑心もまた膨らんでゆく。

菅首相は2012年に出版した著書『政治家の覚悟』で、「真の政治主導とは官僚を使いこなしながら国民の声を国会に反映させ、国益を最大限、増大させること」と持論を述べている。
菅さんは7年8カ月、官房長官として官僚と対峙してきた。どこを、誰を押せば政策が動くかを熟知している。まさに官僚機構の“鍵穴”を知り尽くしているので、各大臣に任せなくても、自分で官僚を操縦できる。


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◆ 衆院本会議の代表質問で、日本学術会議会員の任命を拒否した判断の変更は「考えていない」と明言した。
「私ども、選挙で選ばれてますから、何をやるかという方向が決定したのに反対するのであれば異動してもらいます」政権の意向に歯向かう官僚は異動させる。任命拒否された6名は、安倍政権が強行採決した安保法制や特定秘密保護法や共謀罪に異論を唱えた学者ばかり。「異論を排して国策を強行する」と言っているのだから、頑固で強情な総理は、周りからとやかく言われても判定を翻すことはないと思います。
「任命拒否」の是非以前に、「自分達の存在の尊さ」を一貫してアピールする、その姿勢の「傲慢さ」ではないでしょうか。彼らの反対意見は非論理的で、自らの既得権益を露骨に擁護しようとするものだ。
今回の6人の任命拒否は、「学問の自由を脅かす」などの反対意見があるが、意味不明である。
学術会議の会員でなくても、それぞれの職場で自由に学問をすればよいだけの話だ。






# by kfujiken2 | 2020-10-30 08:27 | 未分類 | Comments(0)

大正ロマンが見直されている



大正ロマンとは、レンガ造建築に和洋折衷のインテリア、街では宝塚歌劇団の設立やキネマの流行など、建築・デザイン・娯楽など多くの分野で独特の文化が生まれた時代です。
そんな独特な時代の文化や服装、そしてその時代の情景に対して当てた言葉で、新しい文化・新しい時代へと移り変わりゆくこの時代に、未来の理想を思い浮かべながら生きた人々の個性や文化に対してそう呼ばれるようになりました。


◆ 時代の背景

大正時代は明治と昭和に挟まれ、15年と短いながらも国内外が激動の時代であった。
日本では2度の戦勝(日清・日露)を経て帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ「五大国」の1国ともなり、これらの国から誘われ第一次世界大戦にも参戦、勝利の側につき国中が国威の発揚に沸いた時代である。
中流層には「大正デモクラシー(民本主義)」が台頭し、一般民衆と女性の地位向上に目が向けられ、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする輸入物愛好、大衆文化や消費文化が花開いた。
「大正ロマン」は、新しい時代の萌芽を示す意味合いから、モダニズム(近代化)から派生した「大正モダン」という言葉と同列に扱われることもある。「大正モダン」と「大正ロマン」は同時代の表と裏を表象する対立の概念であろう。在位の短かった天皇の崩御により、震災復興などによる経済の閉塞感とともにこの時代は終わり、世界的大恐慌で始まる昭和の時代に移るが、大正モダンの流れは断絶することなく昭和モダンの時代へと引き継がれる。


◆ 「大正ロマン」の特徴

● 建造物はレトロ建築と呼ばれ、歴史が感じられる古い建物のことである。
日本では本来木造建築が主体でしたが、明治時代から大正時代にかけて多く海外の建築手法が増え、近代建築が盛んに行われてきました。そこには懐かしさと新しさが融合された独特の良さがあり、当時の建造物は今でもそのままの状態を維持しているものや復元されたものが各地に多数存在しています。

【東京駅
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旧岩崎邸
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● クラシカルで重厚な雰囲気の大正ロマンインテリアは、和洋折衷が基本スタイルです。ステンドグラス・赤いカーペットや格子の窓、銘仙柄などと相まって、この時代のインテリアは美しい色合いと繊細な模様が特徴です

ステンドグラス
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● 大正・昭和初期に作られた着物がアンティーク着物と呼ばれ、それまで着物といえば落ち着いた色が主流でしたが、この時代の着物は欧米の文化が入ってきたことにより、花柄や幾何学模様は、当時にしか見られない珍しい鮮やかな色合いを持つ個性的な柄が多くあります。


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◆ 「大正ロマン」を象徴する文化人

竹久夢二・高畠華宵・西條八十・野口雨情・北原白秋・中山晋平・山田耕筰・島村抱月・松井須磨子・小山内薫・倉田百三・久保田万太郎・室生犀星・萩原朔太郎・芥川龍之介・武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎・菊池寛・直木三十五・谷崎潤一郎・中里介山・阿部次郎・吉野作造・長谷川如是閑・宮武外骨・大杉栄・伊藤野枝・平塚らいてう・島崎藤村等

# by kfujiken2 | 2020-10-27 09:48 | 歴史 | Comments(0)

危機は海からやってきた 蒙古襲来とペリー来航



海に囲まれた国・日本 外国からの危機は、常に海の向こうからやってきた。鎌倉時代の「蒙古襲来」で、日本は本格的な侵略を受け、危機におちいった。さらに江戸時代の終わりには、アメリカの「ペリー」が黒船艦隊の強大な軍事力を背景に日本に開国を迫った。外国の圧倒的な脅威に直面した時、その時代の日本人たちは、それにどのように対じたのか。危機に立ち向かった人々の志の話です。


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教科書に載っていない、黒船来航のペリーと対等に交渉し日本の立場を守った、実はすごい人物・儒学者「林復斎 (はやし ふくさい)」がいたことについてお話をしましょう。

◆ 「開国」とは

江戸最末期、日本が鎖国から開国へと大きく舵を切ったのは確かである。しかし、ペリーの来航では「開国していない」のである。そもそも、「開国」とはどういう状態か?
国と国が「交易」を開始することである。ペリーとの交渉では、幕府は「交易」を求められながらも断固として拒否している。

◆ ペリー来航の目的と要求

1853年7月アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる4隻の蒸気船が、アメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀にやって来ます。親書とは名ばかりで早い話しが、アメリカが幕府に要求を突きつけたと言ってもいいでしょう。


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※ アメリカの要求とは次の3つ
1 .  アメリカの船が難破した時のアメリカ人漂流民の保護
2 . 日本近海にいるアメリカ捕鯨船が燃料や水を補給できる港の確保
3 . 日本との直接の交易

アメリカの要求のうち1と2についてはこれまでにも長崎で行って来たことで、交渉の席でそう伝えることは出来ますが問題は3の交易です。なぜ国の命運を賭けた交渉に学者が?当時もそんな意見が多かったそうですがこれには幕閣の保身に絡んだ事情がありました。つまり失敗しても学者がやったことだからと、平たく言えばナアナアで済まそうと考えていたわけです。
これは実質的な開国の要求に他なりませんが、アメリカとしては捕鯨に必要な大量の燃料や食料の補給のための寄港地が必要だったんです。ペリーは幕府に対し回答の期限を翌年5月とし一旦引き上げます。
翌年ペリーは予定より3ヶ月も早く再度日本を訪れます。前年4隻だった船は9隻に増やし並々ならぬ気合いで、交渉に入る前幕閣に対して決意を披露しプレッシャーを掛けて来ます。


◆ 「林大学頭復斎 (だいがくのかみ)」の交渉力

幕末ペリーの来航で初めて黒船を目の当たりにした幕府はビックリして大混乱、その挙句開国を迫られた。
幕府の弱腰外交と今でも揶揄されている事件ですが、それを救ったのが林羅山から数えて11代目にあたる儒学者昌平坂学問所の塾頭である「林大学頭復斎」だった。
彼の冷静沈着にしてタフなネゴシエーション(交渉)が幕末日本を救った。
林復斎は家督を継いで間もない慌ただしい時期であったが、以前からの有能ぶりや異国との交渉史への通暁が買われて、町奉行井戸覚弘とともに応接掛として老中阿部正弘から任命され、横浜村で交渉にあたった。実際の交渉は漢文の応酬で行われたため、復斎はその漢文力を買われ、主な交渉はすべて任されることとなる。
ペリーは生粋の軍人であり、林復斎は外交の達人である。当然、両者の情報量にも雲泥の差があった。林復斎は鎖国された日本にありながらも、オランダなどから豊富な国際情勢の知識を仕入れており、世界の実情を手に取るように心得ていた。


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◆ 林復斎の対応

薪水、食料、石炭の供与および難破船と漂流民救助の件は了承するが、通商の件は承諾できないと回答した。
ペリーは日本に「開港地」を求める。最低でも7~8ヵ所を要求してきた。しかし、林復斎は捕鯨の寄港地ならばそれほどの数は必要ないとして、「下田」と「函館」の2港の開港しか認めなかった。
ペリーは開港地における外国人の行動範囲を「10里」まで要求した。しかし、またしても復斎は異を唱え、「7里」に限定した。なぜなら、下田港から7里の範囲には天城山脈あり、外国人が無闇に行動するのを防げると考えたからである(函館は5里)。
しかも、この地での「交易」を断固認めず、あくまでも「薪と水」の補給のみに限定した。

こうして、日米交渉は復斎のシナリオ通りに進んだ。
一貫してペリーが主導権を握ることはできず、ペリーは譲歩に次ぐ譲歩を強いられたのである。結局、大目標であった「日本の開国」すら果たせなかったのである。
林復斎という人物はよほど腹の座った人物であったのだろう。





# by kfujiken2 | 2020-10-24 09:49 | 歴史 | Comments(0)


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