長州より発信

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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします

一昨日は山口県旧県庁舎及び旧県会議事堂の概要を説明致しましたが、
今日は内部をかいつまんで説明致します。


山口県旧県庁舎及び旧県会議事堂の正面玄関の車寄せの列柱を見て下さい。
柱をよく見ると下の方は四角、途中は八角 、上の方はカーブを描いていますが、
これは船肘木といってインド様式だそうです 。独創的な意匠を持ち彫刻のような
美しさをたたえてます。


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旧県会議事堂の見所と言えば、正面玄関を入って直ぐの会議場でしょう。


〈議場・側面から〉
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〈議場・議長席から〉
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〈議場・2階の傍聴席から〉
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では旧県庁舎をご案内致しましょう。


<旧知事室>

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<正庁会議室>
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<歴代県知事写真展示>

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〈県庁舎の変遷〉
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大政奉還後の明治3年(1870年)2月、山口政事堂から山口藩庁に改称。
さらに、廃藩置県が行われた明治4年(1871年)には、城内に山口県庁が置かれ
大正5年(1916年)に山口県旧県庁舎(大正庁舎)が完成するまで、
山口県の県庁(文久庁舎)として使用していた。


〈山口城(山口御屋形)の実像〉

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山口城(藩庁)の構えは、「八稜城」といい函館の五稜郭とおなじ西洋式の城郭であったとされます。
山口城(山口御屋形)は政務と補給を主目的とした後方の策源地としての役割を担った。
周囲を水堀と石垣で囲み土塁と砲台を配置した小規模な単郭式の平城であるが、
北方と西方は丘陵地を背にしており、南方と東方は死角の無い八角稜堡式城郭となっていた。
砲撃戦を想定し天守閣や櫓などの高層建築物は配置されなかったが、西方の丘陵地にあるかつての
高嶺城を詰城としていた。城内の御殿は萩城の御殿や禁門の変の咎で没収された江戸桜田藩邸を
解体したものが移築され、幕府には「屋形の移設」として申請された。


〈山口城(山口御屋形)の玄関〉

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〈旧藩庁玄関軒飾・懸 魚 (げぎょ)〉
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# by kfujiken2 | 2016-10-24 10:18 | 歴史 | Comments(0)
山口県旧県会議事堂が復原工事を終了し、公開されているので見学に行きました。

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「山口県旧県庁舎及び県会議事堂」は、大正2(1913)年から大正5(1916)年にかけて建造され、
旧県会議事堂は昭和49(1974)年、旧県庁舎は昭和59(1984)年まで利用されていました。
西洋の近代的な建築様式と伝統的な和様式が融合した大正建築の粋を集めた貴重な建築物として、
国の重要文化財に指定され、保存・活用されています。
いずれの建物もれんが造りで内装は漆喰、外壁はモルタル仕上げ。玄関を中心に左右対称に建物が張り出したデザインは共通しており、シンプルで優美な西洋の後期ルネサンス様式を基調としながら、随所に斬新さが感じられる、大正時代の代表的な建築物です。


山口県に生まれ育って、「山口県旧県庁舎及び県会議事堂」について知らなかったこと!!!

① 旧県会議事堂は旧県庁舎の東南面して並置され、当初は木造平屋建の廊下で結ばれていた。
② 旧県庁舎及び県会議事堂の建物は、中央シンメトリー(左右対称)の美しい意匠を採用している。
③ 上から見ると旧県会議事堂は「山」、旧県庁舎は「口」という文字を形成し、合わせて「山口」となるのも非常に興味深いポイントです。
④ 現在こんなふうに県庁舎と議事堂、両方の建物を一体的に保存しているのは山口県と山形県の2県だけだそうです。
⑤ レトロでゴージャスな雰囲気から、映画のロケに活用されることもあり、知事室では平成26(2014)年に映画「黒執事」のロケも行われました。(山口県フィルム・コミッション)

②について説明しましょう・・・
この図面をご覧になるとお分かりと思います。 確かに左右対称ですよね
旧県庁舎の1階図面です。
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旧県会議事堂の2階平面図です。
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③について説明しましょう・・・
旧県会議事堂模型ですが、「山」の字に見えませんか?
 

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旧県庁舎模型ですが、こちらは「口」の字が!

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明日は内部をご紹介しましょう・・・

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# by kfujiken2 | 2016-10-22 13:11 | 歴史 | Comments(0)
お寺で演奏会・展示会・懇談会が開催されました。

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住職曰く、お寺は寺小屋と呼ばれた学校であったように、昔は地域の公民館であったのではないかと
思います。それが今のお寺の役割は、法要儀式や、法座行事等の宗教活動に限定されるようになりました。(宗教)法人として、社会に開かれていなければならないはずなのに、実際は、一般人にとっては
近寄りがたい存在になっています。それを何とかして、本来の姿にしたいと思い、思いついたのが
今回の「お寺deアート&カフェ」でした。


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第1部 演奏会

琴と尺八の和の合奏です。

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オカリナとギターの演奏です。
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オカリナとリコーダーの木管楽器の協奏です。
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潮音民謡同好会の三味線の演奏です。
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最後がギター&ボーカルで演奏会を〆ました。
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第2部は本堂から門徒会館に場所を移し、展示作品の解説と鑑賞です。

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最後に門徒会館の大広間でコーヒーとケーキで懇親会をやり、本堂で恩徳讃(おんどくさん)斉唱して閉会となりました。

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# by kfujiken2 | 2016-10-18 10:44 | 未分類 | Comments(2)
さきおととい(10月9日)の深夜大雨が降っていたが、朝になったらすっかり晴れ渡り好天気。
以前から気になっていた田布施の田んぼアートを見に行きました。
【田布施町商工会議所サリジェ横】【西田布施小学校横】【真殿交差点側】
【瀬戸の観音橋近く】と4か所の田んぼアートがあるようですが、
【西田布施小学校横】【真殿交差点側】は場所がよく分からず、
又、【瀬戸の観音橋近く】は雨に打たれて文字が崩れていたので、
【田布施町商工会議所サリジェ横】のみ撮影しました。


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手前が田布施地域交流館新マスコットキャラクター・ 「たっちー君」
後方が「山合いから昇るかがやく朝日」のテーマ


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1ヶ所しか撮影しなかったので家路に着くには早過ぎ、何処かで時間を潰そうと思い、
田布施に行く途中見掛けた「富永有隣碑」の案内版を思い出し寄って見ることにしました。


富永有隣
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富永有隣が田布施町と関わりがあったことは知っていましたが、
田布施町宿井瓜迫に住居跡があったとは初めて知りました。
妹の嫁ぎ先を頼って熊毛郡城南村(現 田布施町)へ行き、「帰来塾」を開いて
青年の教育に力を尽くしたことは聞いていました。
国木田独歩の『富岡先生』は有隣をモデルにしたものです。



富永有隣と吉田松陰の関わりについて・・・


野山獄の最後の住人として入獄した松陰が、先輩囚人である11人と、
学問・芸・そして風雅の道を通じて交流を深め、いわゆる『野山獄の奇跡』と
呼ばれた獄中教育を演出することになるのですが、その中で松陰と共に獄中教育の
中心的役割を演じたのが藩校明倫館で秀才と呼ばれた富永有隣でした。
『藩内の逸材』とまで呼ばれた富永有隣は、何故厄介者の烙印を押され、
獄に下されるような事態に陥ったのかといいますと、性格が極めて了見が狭く人と調和できず、
しかも自信過剰により、不遜な振る舞いが多く、親戚や同僚とのトラブルが絶えなかった為と
聞いています。分かり易く言えば、相当なひねくれ者で嫌われ者な人物ということです。
野山獄から釈放されても行場のない富永有隣は、松陰の招きにより、杉家の居候となり、
運営が軌道に乗り始めていた松下村塾の講師として塾の運営に携わることになったのです。


【富永有隣顕彰碑】

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# by kfujiken2 | 2016-10-12 15:25 | 風景 | Comments(0)
「ロストシングル」という言葉をご存知ですか?

私がこの言葉を知ったのは、つい最近のこと。

夫や妻、パートナーと死別して、ひとりぼっちになってしまい、
立ち直れないまま精神的にボロボロになって暮らしている人を
「ロストシングル」というそうです。
そういう人が増えていることが、深刻な社会問題になっているらしい。


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パートナーの死後の悩みで、「話相手がいない」は、女40%に対して男は100%。
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「一緒に行動する人がいない」は、女20%に対して男は80%という数字がある。
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男の方が立ち直りに時間がかかり、死亡率も高まるという。
朝日新聞の調査によれば、配偶者に先立たれてからの平均余命は、
女性の場合22年、男性の場合は5年なのだそうだ。
(ただし、調査対象は65歳以上の夫婦である)


問題の多くは、食事・飲酒・家事・孤立など様々なものがあるようですが、
話し相手がいないというのが最も大きいようです。
趣味を持ちカルチャーセンターなんかに行き、グループに入るなどしなければ、
コミュニケーションがなく孤独感にさいなまれる結果になってしまいます。

男の場合、仕事にかまけて地域との“ご近所づきあい”をおろそかにしている人が多い。
そのため、子どもが独立し、妻に先立たれてしまうと、誰とも口をきかなくなってしまい、
うつ状態に陥ってしまうことが多い。
配偶者に先立たれると、「希死念慮(きしねんりょ)」を抱く人が多いという。
「希死念慮」というのは、「早く死にたい」、「早く逝きたい」という想いのことだ。
俳優の仲代達矢さんも、奥様を癌で亡くされたあと、「後追いもあるかな…」と考えたそうだ。

配偶者が健全な人には、「ロストシングル」に陥る人の精神状態は理解出来ないと思う。
いずれは誰もが一人になることは考えておかねばならないことで、
少しでも自分で出来る様になっておかねばならないのは必須でしょうね。

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# by kfujiken2 | 2016-10-06 09:06 | コラム | Comments(0)
一昨日豊井ふれあいウォーキングが開催されました。
私はサポートスタッフとして参加しました。
サポートスタッフとは何ぞやと申しますと、所謂お手伝いです。
受付・史跡の説明・道案内・先頭と最後尾の補助等ですが、
私は車隊(2人)と言って医療用具を車に載せ、ウォーキングに並走して脱落者を介護する!!!
格好良く言いましたが、歩くのが苦手だから車で付いて回るといういい加減な係りです。
でも言い訳になりますが、ウォーキングをする人はなるべく身軽な洋装なので、
ゲームの道具とか賞品等を持って、先回りをしてゲームの設定する者も必要なんですよ~

しかし、1週間前に大谷ダムへの登山道の道作り・草刈は大変でした。

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豊井小学校体育館前にAM8:45集合、受付開始し間もなく続々参加者が集まって来ました。
参加者24人・サポートスタッフ10人の計34人が二組に分かれて9時ジャストにスタートしました。
参加者24人の内、男性は3人で21人が女性とは驚きした。
しかも60歳以上の高齢者が殆どなんです。
車隊は、車が通れない様な場所が多く、途中の皆さんの様子を伺うことは出来ませんでした。

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4番目の予定地・大谷円筒分水です。
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B班の人が大谷ダムの登山道を登り始めました。
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A班が大谷ダムの登山道を降りて来ました。
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日立総務部の磯部市議のお世話で、1962年に笠戸工場で造られた日本で最初の
アルミニウム合金のモノレールと資料館を見学することが出来ました。
モノレールは撮影許可を頂きました。

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日立製作所を後にし、恋ケ浜緑地公園で昼食をとりゲームのグランドゴルフを楽しみ、
記念撮影です。

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予定の午後2時少し前に、誰一人の脱落者もなくけが人を出す事も無く全員完歩しました。
サポート隊を含め男性は草臥れて顎を上げていましたが、女性にはそんな姿が見られなかった
のには驚いたと言うより感服しました。
まぁ~ 歩く事・ウォーキングの好きな健脚者が集まっているのには違いはないのですが、
女性の方が忍耐強くて、且つ遊び上手なんだなとつくづく思いました。

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# by kfujiken2 | 2016-10-04 11:32 | 未分類 | Comments(0)
光市塩田の石城山にプラ~と行って見ました。
県道162号石城山光線は、道路の側面が少し崩れ枯れ木が散乱し少し荒れていますね~


閉館になっている三国志城の側を通ると館長・ 谷千寿子さんを思い出しました。
何度も訪れお話をさせて頂きましたが、彼女ほどの歴女にお目に掛かったことはありません!
88歳の高齢にもかかわらず数字に強く、年代とか人名の記憶力の良さには感服するほどでした。
谷さんから玉響(たまゆら)の話を聞いたことを思い出しました。
玉響(たまゆら)とは、人間の目には見えない精霊だそうですが、
石城山で出会うことがあるそうです。
神様の歓迎?喜びの現象?とでも言いますか 、肉眼ではまず見えることはないが、
カメラには映る事があるそうです。
霊と言っても死んだ人が成仏出来なくてさまよう霊とは違うようです。


話が余談になりましたが、本題に入ります。

県道162号石城山光線を登り駐車場に車を置いて、先ずは仁王門をくぐって
重要文化財の石城神社本殿へ向かいました。
一人で行くと心細いというよりも気持ちが悪い気がします。



◆ 仁王門(随身門)

現在は石城神社の門となっているが、もとは神護寺の仁王門であった。
神護寺の仁王門として、立派な仁王像が一対存在していた。
山門のあった神護寺は石城神社の奥にあったそうですが、第二奇兵隊本陣跡地として
残っています。
明治3年の廃寺騒動の時、現地へ移設されているようであります。
現在の随神門には、随神像が祀られております。
第二奇兵隊が、石城山の神護寺を本陣にしていた時に、
南表門番所として仁王を撤去し、昼夜を通し交代で隊員が立ち番をしていて、
石城山の在住者が農作業の為、毎日数回通過するのでその度に住所・氏名を言わされて
不便だったらしい!!!
昭和25年頃まで仁王門に向かって左側に「皇族下乗」の高札が立ててあり、
皇族の方々でも馬や籠に乗ったままでは、石城神社に参詣で出来ず仁王門内は徒歩で
参詣されていたそうです。

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仁王門(随身門)から100m程度歩くと右手に石城神社が見えます。
この案内図を見ると大体の距離が見当つくと思います。

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◆ 石城神社

石城神社は延喜式内社で、由緒ある神社である。
祭神は大山砥神(おおやまつみのかみ)(本地釈迦如来)・雷神(いかづちのかみ)(本地普賢菩薩)・
高おみの神(たかおみのかみ)(本地文殊菩薩)で、武事・鉱山・農林の神をお祀りしている。 

旧号を三社権現といっていたが、明治元年石城神社と改称した。
石城神社の創建は明らかでないが、社伝によると、敏達天皇三年(574) 
の鎮座と言われ、天皇の勅額と伝えられる「石城宮」(いわきぐう) 
も保存されている。

本殿は、文明元年(1469)大内政弘が再建したものと伝えられている。 
桁行5.54m、梁間(はりま)2.85m、正面入母屋造り、背面切妻造 
り妻入り、こけら葺、四囲に緑をめぐらせた春日造りである。
柱面のとり方、勾欄(こうらん)のそり方、斗棋(とくみ)、 
蟇股(かえるまた)等に室町時代の特色を残している。 

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石城神社を参拝・見学を終えると、直ぐ前にある「第二奇兵隊志士を懐う」碑や北側には
第二奇兵隊本陣跡があり、近くまで行って見ようかと思いましたが、草が茂り近寄るのが
怖くなり怪我をしたらと思い止めました。
ここに石城山神護寺があったそうです。


◆ 「第二奇兵隊志士を懐う」碑は岸信介が詠んだ七言絶句

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◆ 第二奇兵隊本陣跡
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# by kfujiken2 | 2016-09-28 17:26 | 歴史 | Comments(0)
下松市で存在が確認される円筒分水工

① 東光寺分水工

東光寺円筒分水工は直径10m位で花岡円筒分水工より取水して市内の工業用水、
上水用水に使用されている。設置年は花岡円筒分水工と同じ昭和32年である。


アクセス地図
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全景と拡大写真
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② 花岡分水工

花岡円筒分水工は直径15m位の大きさで東光寺円筒分水に供給している。
周囲フェンスが張られ上部異物混入防止対策の網が設置してある。


アクセス地図
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全景と拡大写真
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# by kfujiken2 | 2016-09-25 08:34 | 歴史 | Comments(0)
◆ 円筒分水下流の調査の続きです

先日最後に少し説明致しましたが、下の画像をご覧になると分かると思いますが、周辺に12か所の
分水穴があり、東側と南側への二ヶ所に水路があることが分かります。主流の水路は東側で南側への
水路は余分の水を流す水路だと憶測します。つまり南側への水路は、大谷川に出ています。
では主流の東側の水路はどこに流れているか??? 途中が暗渠になっている為はっきりした水路は
確認出来ませんが、妙法寺の側を流れている水路に合流していることは確かです。

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東側の水路です、何処かがせき止められている

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妙法寺の側を流れている水路です

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南側の水路に東側への余剰分を大谷川に流しています
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◆ 円筒分水の構造


サイフォンの原理などを利用して円筒中心部に水を導き、円筒状の中心部に用水を湧き出させ、
その水が円筒外縁部を越流する際に外縁部に設けた仕切りで分配するものや、外縁部に設けた穴の
数によって分配するものです。


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赤印で囲んだ所に用水が、湧き出しているのがお分かりでしょう。
下部に取水口から直径300mmのは取水口の水位で調整するするような仕組みになっています。


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◆ 円筒分水の歴史


水田耕作が主体であった日本では、各地で農業用水の確保にまつわる喧騒が絶えず、
特に東北地方の水田地帯では「血を流す水争い」と呼ばれるほどの激しい騒動が頻発しており、
農業用水の正確な分水は長く懸案であった。そこで、大正年間より正確な配水が可能な分水樋が
考案され、各地で似た構造の施設が造られはじめた。
当初は高低差を利用して導水する方式のもの(背割分水)が造られたが、分水樋の中央に吹き
上げられた水が放射状に拡がる原理を利用したもので、流水量に偏りが生じるといった欠点もあった。
1934年(昭和9年)になると、円筒状に組んだコンクリート設備の中心にサイフォンの原理で導水し、
円筒を越流させて分水する方式が考案された。



明日は下松市で存在が確認されている円筒分水工を
紹介しましょう。

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# by kfujiken2 | 2016-09-21 17:18 | 歴史 | Comments(0)
謎の歴史的構造物(円筒分水)を、大谷渓谷懇談会が下松市豊井大谷で発見。

この遺跡物(円筒分水)を、大谷分水工と名付ける。

とりあえず大谷分水工が、どの様なものなのかご覧に入れましょう・・・
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大谷分水工の詳細は後にして、調査することになった経緯からお話しましょう。

この大谷分水工は小規模ではあるが、何時、誰が、何のために造ったのか市役所を尋ねた。
何課に行けばよいか見当も付かず、受付で相談したところ受付の人は円筒分水を見たこともなく、
勿論言葉すら聞いたことない!!!水に関する事なので水道局に行けば何かが分かるかも
知れないということになり、水道局の総務に連絡して頂いた。
水道局の職員に大谷分水工の画像を見せたところ、確かに円筒分水には違いないが、
大谷に円筒分水があるという話は聞いたことがない・・・
下松に存在が確認されている円筒分水は、① 東光寺分水工 ② 花岡分水工と2ヶ所です。
この2ヶ所は温見ダムからの上水道・生活用水(一部農業用水)を分水する為に下松が造った物で、
水道局は存在を確認しており管理している。
水道局の職員曰く、大谷分水工は農業用水の為の分水工で上水道・生活用水ではないので、
水道局が知る由もかったし、なおさら企業が保有しており、企業が独自で建設したのであろうから
知らないと話していました。
農業用水の供給路として造られたなら農林水産課が詳しいかもということになり、
農林水産課に飛んで行きましたが、やはり分かりません!!!
日立が資料・図面を管理しているかもと農林水産課では言っていますが???
このままではお手上げの状態です。


お待たせ致しました それでは【大谷分水工】の詳細を説明致します。

◆ 場 所 

中央線を東に行き半上線に突き当たり、更に100m位東に行った所を左折し大谷ダム向かって登る。
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◆ 概 要

円筒分水は農業用水などを一定の割合で正確に分配するために用いられる利水施設。
用水は米などの作物を育てるためのもの。水が無ければ米が作れず、水は生活の糧・源ですが、使いたいときに使いたい分だけ、いつも水があるとは限りません。より豊かな生活をするために水田を広げればそれだけ多くの水が必要になります。戦国・江戸時代以降、開墾奨励によって農地は広がりましたが水の確保が追いつかなかったようです。


※ 設置目的・設置年度
大谷ダムから分水する大谷分水工は、土地の人の話によると日立製作所が昭和13年に大谷ダムを建設する際、ダムの貯水池にする為に既存の田畑の所有者に金銭の授受を求めたが、所有者は豊井地区に代替を求めた為提供したらしい??? その田畑に水を引く用水路がないということで、日立製作所が補償としてこの円筒分水を建設し水を供給することで折り合った。
大谷分水工は農業用水の為の分水工で上水道・生活用水ではないので、水道局が知る由もなかったし、なおさら企業が保有しており、企業が独自で建設したのであろうから知らないと話していました。


平成28年9月13日 周囲の草刈をし掃除して、円筒分水本体の素晴らしい姿が現れた。

清掃前の様子
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清掃中の様子
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清掃完了の様子

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南側への水路と東側への水路がよく分かります
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◆ 円筒分水下流の調査
周辺に12か所の分水穴があり、東側と南側への二ヶ所に水路があることが分かります。
主流の水路は東側で南側への水路は余分の水を流す水路だと憶測します。つまり南側への水路は、
大谷川に出ています。
では主流の東側の水路はどこに流れているか??? 途中が暗渠になっている為はっきりした水路は確認出来ませんが、妙法寺の側を流れている水路に合流していることは確かです。



画像が多くなり過ぎますので、続きは明日アップします。 

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# by kfujiken2 | 2016-09-18 10:08 | 歴史 | Comments(0)
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