九州の聖地が無くなる!!!

深耶馬の景勝地「一目八景」が熊本・大分地震、大雨が相次ぎ崖崩れが起こった。

中津市耶馬渓町深耶馬の景勝地「一目八景」で6月30日未明に崖崩れが発生した。
一帯は国定公園の一画で、奇岩・奇峰が立ち並ぶ市内随一の観光名所。
同規模の崖崩れは100年以上にわたって起きていなかったという。

現場は店舗や家屋のある県道沿いの山移川対岸で、一目八景の一つ。
西側にトビの形に似た大きな岩があることから「鳶(とび)ノ巣山」と呼ばれる。
崖崩れは高さ50メートル、幅30メートル。山腹の石柱岩(横約20メートル、
縦約25メートル)が樹木を巻き込みながらはがれ落ちた。


10年前の画像で申し訳ありませんが、錦もみじの紅葉期の「鳶(とび)ノ巣山」です
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上の画像と同じ位置から撮影されていますので、崖崩れの「鳶(とび)ノ巣山」(耶馬溪観光協会)の様子がよく分かるでしょう
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崖が崩れているので以前の姿に戻すのは無理でしょう!!!
樹木は植え替えれば如何にかなるでしょうが、自然の以前の景色に戻るには、
かなりの期間が掛かると思われます。


紅葉の時季には深耶馬溪の中心地(玖珠郡玖珠町)は、画像の様に混雑しております
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# by kfujiken2 | 2016-09-12 16:39 | 風景 | Comments(0)

「豊井を知る教室」

昨日豊井公民館に於いて、公民館活動の一環として行われる「豊井を知る教室」を、
【とよい今昔探訪クラブ】」の1回目の講演・我がふるさと豊井というテーマで講演をしました。
講演というより発表と表現した方が的確かも知れません!

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【とよい今昔探訪クラブ】とは、豊井公民館内に発足したクラブで、会則に目的がサークル活動を
通じて、会員相互の親睦を図るとともに、地域の歴史・文化・産業に触れ地域社会に貢献する
学習活動を行うことを目的とすると硬い言葉で定義されていますが・・・
分かり易く言いますと豊井地区の今と昔とを思い比べ、昔のさまを現場に行ってさぐり歩こう
というクラブなんです。現在メンバー15名が毎月第3火曜日午後1時30分より月例会を開催して、
頑張っております。


さて講演(発表)の話に入りましょう・・・
一部「豊井風土記」・二部大谷渓谷の自然と歴史的意義 ~ 下松近代化の礎-大谷農工遺産 ~の二部構成で発表しました。
清木会長の挨拶に始まり、豊井今昔探訪マップを基に、プロジェクターを使いスクリーンに画像を映しながら、
一部・武居悟氏が豊井風土記と題し、歴史・大谷ダムの文化遺産・神社仏閣・自然・産業・施設等諸々を
説明しました。

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休憩を入れ、二部・戸取征二郎氏が約300年前のとよい絵図「地下上申絵図」や、70年前の米軍が撮影したとよいの航空写真や、大谷渓谷を甦らせようというポスターを使い説明しました。
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過去郷土史の色んな発表会を聴講に行きましだが、勝るとも劣らない発表会でした。
第2回目が何時になるか分かりませんが、現在桂木山や磯部家や大谷円筒分水工などを
研究・模索していますので、近い内に発表できるのではないでしょうか?


看板を立てたいが予算がない、写真をブリント拡大したいが費用が掛かる、
大谷円筒分水工の周辺を整備したいが金がない、下松市や教育委員会の支援というか
援助が欲しいもんです。

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# by kfujiken2 | 2016-09-05 10:25 | コラム | Comments(0)

墨泉会書展

スターピア2Fで開催されている墨泉会書展に行って来ました。

スターピアの階段を二階に上がると、立て看板と花籠が迎えてくれました。


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「字は人を表す」と言うように、キレイな字を書く女性は心もキレイと言います。
何時も春葉(しゅんよう)さんのブログを拝見すると、優しい字だなぁ~ と素人ながら思っていました。
その上、文章というのか書かれて言葉が優しく癒されます。


写真では写真台紙枠のことをマットといいますが・・・
書道では何と言うのか知りませんが、春葉さんのマットには特徴があるのです。
金粉が振り掛けてあったり、着物の布を使ったり、墨アートのプロだから当然かも知れないが、
薄墨を上手に使う所です。


春葉さんの出品作品
◆ 豊穣(ほうじょう)


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◆ 藝(げい) 
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余計なお世話ですが、 春葉さんのブログとHPをご紹介します。

★ 春葉のブログ~春葉心の声を墨にこめて~
★ 墨アーティスト・春葉(しゅんよう)公式サイト


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# by kfujiken2 | 2016-09-01 17:00 | 未分類 | Comments(3)

「天皇陛下のおことば」に対し、あなたは如何に思われますか?

憲法改正がとやかく言われている中、先日発表された「天皇陛下のおことば」の中で、
年をとるに従い象徴の務めを果たすことが難しくなるとする一方で、大きく公務を減らしたり
代役を立てたりすることには否定的な考えを示されました。
そのうえで、象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことを願われた。
この「天皇陛下のおことば」は、「生前退位」には直接言及されないものの、
天皇陛下の生前退位の意向が強くにじむものものではないか?


生前退位の世論調査で「生前退位を認めてよい」が94.3%という結果が発表されました。
つまり、国民の多くが理解を示しているということです。




◆ 【皇室典範】とはなにか? この皇室典範がややこしい・・・
憲法ではないが、 大日本帝国憲法とともに1889年2月 11日に制定された法律で、
改正には国民や帝国議会は一切関与できないものとされた。
新「皇室典範」は第二次世界大戦後、旧皇室典範は廃止され日本国憲法と同時に施行され
普通の法律と同じになった。現在は改正は国会が行う。
日本国憲法第2条及び第5条に基づき、皇位継承及び摂政に関する事項を
中心に規律した皇室に関する法律である。


一番の問題となるのが皇位継承でしょう!!!
現皇室典範 第一条:皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する。
現在の皇族において、若い男性皇族がおらず、敬宮愛子内親王誕生後、
皇室典範の改正が議論されるようになったが、平成18年(2006年)9月に、
悠仁親王が誕生し、「典範改正」の議論は沈静化している。
皇族男子の誕生は41年ぶりであった。


さて、天皇陛下の生前退位の問題ですが、皇室典範は恒久法であり、現在の皇室典範では
天皇が崩御した時のみ、皇太子が世襲で即位することが定められており、それ以外の方法で
退位や譲位が行われることは想定されていない。
皇室典範とて法治国家日本においては法律の一つに過ぎない。国会の承認があれば、その改正は可能だ。
ところが、問題はそれほど簡単ではない。そもそも皇室典範に生前退位の定めがないのは、
政府にできればそのような事態を避けたい理由があったからだった。
一般には生前譲位が可能になると、天皇が退位後も上皇や法皇などの地位から政治的な
影響力を持つことになる恐れや、逆に本人の意思に反して強制的に天皇が退位させられる
ことも可能になる恐れがあることなどが、指摘されている。
大正天皇のように退位はせず、のちの昭和天皇が「摂政宮」となってすべての政務を代行すると
いう方法はありますが、生前譲位が行われない限り天皇は天皇で、摂政宮は天皇ではない。


※ 男系の男子とはどういう意味ですか?詳しくは分かりませんが、
現在までは男系で引き継がれております。しかし、これは、必ずしも天皇の子である男子とは限りません。
直系に男子がいなければ、分家から出しています。昔のように何人もの側室をはべらしていた時代とは
違うんです。一夫一婦制となった現在では産まれなければ仕方ないではないですか。
ここでハテナ?と思ったことが、これも絶対想定外とは言えないと思います。
明治時代までの一夫多妻だったら、後妻・再婚を考える必要はなかつたでしょうが、
一夫一婦制となった現在では、天皇の再婚ってあるのでしょうか?


◆ 『女性天皇』と『女系天皇』は全く違います。
『女性天皇』とは読んで字のごとく、女性の天皇のことです。
『女系天皇』とは女性天皇と民間男性との間にできた子が天皇になった場合のことを言います。
今上天皇は125代目ですが、過去一度も男系を外れたことはありません。歴史上では天皇の娘が
一時的に天皇に即位したことがありましたが、いずれも緊急避難的な措置であって、必ず男系男子の継承者に
即位させています。この『女性天皇』は歴史上10代・8名が存在したと聞いています。


もはや理由などどうでもよいではないですか? 男子の跡継ぎがいなければ女子でも
いいではないですか。皇室典範改正をしないで、憲法改正を強行しようとするは間違っている!!!

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# by kfujiken2 | 2016-08-26 09:35 | コラム | Comments(2)

12年振りに城下町萩を散策・・・その2

◆ 有備館 (旧萩藩校明倫館)

藩士の練武のほか、他国からの修行者の試合場ともなった剣術場と槍術場です。
すなわち「他国修業者引請剣槍術場」でもありました。
土佐の坂本龍馬も来萩しここで試合をしたといわれています。
余談ですが、坂本竜馬は北辰一刀流免許皆伝だったそうですから、強かったんですかね?
剣豪ゆえか生涯自ら刀を振るって、人を斬った事は無いと聞いております。


さて本題に戻ります。木造平屋建入母屋造桟瓦葺、桁行37.8m、梁間10.8mの南北に長い建物です。
内部の北側半分は板の間で39畳の剣術場、南側半分は土間で54畳の槍術場、
各その西側を藩主の上覧場とし、中間に藩主臨場などの場合に使う控室があります。

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南北に長い建物
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右側が剣術場で、左側が藩主の上覧場
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またまた余談になりますが、ボランティアの女性に色々説明して頂きました。
その女性が歴女で話が盛り上がり、松陰が熊本藩士宮部鼎蔵と南部盛岡藩士江端五郎と三人で旅をした「東北脱藩の旅」を追っ掛け、福島・青森に旅行に行った話とか、松陰達は雪の多い八甲田山を超えたのか等の関係ない話にずれてしまいました。
又、私が文さんが楫取素彦と流縁するとは 思いもよらなかったと言うと、
彼女曰く、いえいえ文さんは身持ちが固く、【貞女二夫に見えず】ですよと解説してくれました。
楽しい一時でした。


◆ 吉田松陰誕生地
吉田松陰は、天保元年(1830)に家禄26石萩藩士杉百合之助の次男として
松本村(現在の椿東椎原)で生まれました。誕生地は護国山の麓の萩城下を一望できる
「団子岩」と呼ばれる高台で、風光明媚な所にあり、松陰のほか文などの兄弟もこの地で
生まれました。
現在ここには、後に住んでいた人の記憶により、当時の間取りを示す敷石が復元されています。
それをみると、3畳の玄関と6畳2間、3畳2間と台所、それと別棟の納屋と厩という
簡素なものだったことが分かります。


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この石碑は松下村塾の門下生であり、第3・9代の内閣総理大臣にもなった山県有朋が揮毫。
肩書は「内閣総理大臣」ではなく、「門下生・山県有朋」となっているので、
師に対する謙譲の気持ちが表れている。

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吉田松陰産湯の井戸
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◆ 吉田松陰の墓


吉田松陰の墓は、松陰誕生地に隣接し、団子岩とよばれる小高い風光明媚な場所に建っています。
松陰の没後100ヵ日にあたる万延元年(1860)2月7日、生家の杉家では百ヵ忌を営み、
護国山団子岩の吉田家墓地に家族や親戚、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人のほとんどが出席し、
故人の霊を弔い遺髪を埋葬しました。そして同月15日に松陰の墓碑を建立しました。
表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、
享年三十歳」と刻まれています。

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# by kfujiken2 | 2016-08-24 11:24 | 歴史 | Comments(0)

12年振りに城下町萩を散策

萩には過去5~6回訪れていますが、今回は時間の関係上定番は外し、
穴場的要素のある場所に行って見ました。訪ねた順にご紹介致します。


◆ 大照院

毛利家の墓所は大照院と東光寺がありますが、大照院は偶数代藩主(初代・2・4・6・8・10・12代)が
祀られており、東光寺は奇数代藩主(3・5・7・9・11代)が祀られている。
何故初代がこの大照院に祀られているかと言えば、萩藩初代藩主の毛利秀就の菩提を弔うために、
2代綱広に建立した臨済宗の寺院だからです。

※ 本堂・経堂の保存修理工事(平成29年10月まで予定)を行っています。そのため、工事期間中は、
本堂・経堂の見学ができません。墓所・書院へは鐘楼門に向って左手に迂回路がございます。


山陰本線を横切って直ぐの参道です
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お殿様しか通れない鐘楼門
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毛利家の墓所
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整列された石灯篭
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◆ 北の総門


萩開府400年の記念日である平成16年11月11日に萩博物館が開館し、
併せて北の総門も平成16年11月に復元竣工しました。
北の総門は、藩政時代に城下から三の丸(堀内地区)に入るために設けられた総門の一つであり、
他に中の総門、南の総門(平安古の総門)がありました。
かつては門番が常駐して人の出入りを監視しており、門は暮れ六ツ(夕方六時)から明け六ツ(朝六時)までは
閉じられ、鑑札を持った者以外の通行を禁止していたそうです。


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12年前はこんなに白く綺麗だったです。
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萩城跡外堀と北の総門周辺
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外堀は、萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける堀で、高麗門として全国最大級の北の総門や、
外堀に架かるものとしては全国唯一という土塀付き土橋も整備。 


◆ 旧萩藩校明倫館

旧萩藩校明倫館は、享保3年(1718)に5代藩主吉元が毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸に
建てた藩校です。それから約130年後、嘉永2年(1849)に城下の中心地(現在地)へと移転、
規模を拡大しました。
敷地内には、旧明倫小学校本館(昭和10年に建てられた木造2階建ての校舎)があり、
平成8年に国登録有形文化財に登録されています。
また、剣槍術場である有備館、水泳や水中騎馬の練習が行われた水練池、観徳門などが
残っており、自由に見学することが出来ます。

※ 旧明倫小学校校舎(本館・2棟)の保存整備工事のため、敷地内の一部は入場できません。


南門入口です。
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南門です 扁額がはっきり分かります。
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旧萩藩校明倫館案内図です。

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画像が多くなりますので、続きは2~3日後にアップします 【有備館 (旧萩藩校明倫館)・吉田松陰誕生地・
 吉田松陰の墓】
 ご期待下さい。

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# by kfujiken2 | 2016-08-22 16:09 | 歴史 | Comments(0)

下松の塩田王・磯部家の系譜と塩田との関わり

先ずお断り致しますが、資料が余り無いので編集半ばと言う事で申し訳ありません。

磯部家のルーツをかいま見ましょう!!!

磯部家の始祖・上総介(かずさのすけ)宗安は日向国の土持家家臣であったが、
争乱を逃れて子の常安を伴い、天正6年(1578)下松の地に身を寄せた。
そして、その故地にちなんで屋号を磯部屋と称し、下松を根拠地として海運業を営んできた。
宗安は出家して操庵と号し、常安も後に出家して是頓と号し浄西寺の開基となった。
「磯部屋」・「宮洲屋」については元町・浄西寺墓地の石碑に「磯部家縁起」と題して
次のように記されている。


「磯部家縁起」
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【浄西寺境内にある磯部家の墓】
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徳山毛利藩が財政改革の一環として、推奨した三白政策の一つが塩田事業です。
海運業・酒造業などを家業としていた磯部家が、どう言う経緯で塩田業に関わりを
持ったかは分かりませんが、磯部屋・五代目磯部好助が東豊井村の地の開作に着手し
宮洲開作を築立した。また塩問屋設立も許可されたとあります。
宝永6年(1709)磯部好助は宮洲浜に別荘を建立した。
徳山毛利第3代藩主・元次が磯部浜邸を訪問し「覧海軒」と名付け、自筆の覧海軒額を下賜した。
現在東洋鋼鈑の東の一角に石碑が建っています。また笠戸島入口県道366号線(旧国道188号線)の
交差点から南に下る所(洲鼻から笠戸島に向かう)に石垣の名残りが残っています。


【覧海軒図】  山口県立教育博物館収蔵

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ここから磯部家が分立し、長者に大成して行き没落していく様子を記しております。

正徳5年(1715)には、従来からの屋号「磯部屋」を「下松屋」と改称し、
開作の屋敷の家名を「宮洲屋」とするよう命ぜられ、蓄積した資本をもとにして
開作事業を拡大していった。
磯部好助は下松町居宅(現在の本町)を長男・栄之に譲り、次男・増寿を伴って
東豊井村の開作屋敷へ移り別家「宮洲屋」を分立し、「宮洲屋」の初代となる。
享保12年(1727)宮洲屋・二代目好兵衛が帯刀御免となり、徳山藩御蔵本付役人を拝命する。
宝暦2年(1752)三代目好太郎が徳山藩御世帯方用達、永代郷士、中小姓格を拝命する。

※ 中小姓格:中級藩士で馬廻り格の藩士の家の分家などから構成されている家柄。
   幕末期には、中士と呼ばれる。

安永10年(1782)四代際右衛門が浮米七五石を下賜される。
享和2年(1802)六代目幸吉が宮ノ洲古墳を発見。
明治2年(1869)七代目廉右衛門が士族昇格を辞退したことに対し、
改めて永代大庄屋格となり、後に格中の筆頭を命じられる。
宮洲屋が徳山藩の財政維持に非常に大きくかかわっていたことが理解できる。
宮洲屋の長者ぶりは、周防においてだけでなく、広く西日本一帯に知れ渡っていたようで、
文化14年(1817)に刊行された長者番付にも、周防でただ一人磯部義助が
西方前頭18枚目に名を連ねている。
これほどの長者であれば、徳山藩がその財政再建を宮洲屋の財力に依存したのも当然で、
徳山藩では幕末における藩札発行や、その他の資金繰りを宮洲屋の融資に頼ることが多かった。
そして藩財政との関係に過剰に力を入れたことが、宮洲屋が維新直後に急速に経営不振に陥り、
塩田を手放す最大の要因となったのである。
下松宮ノ洲塩田は明治15年には、全て磯部敏祐の所有になっていたが、
その後明治18年に旧徳山藩主の所有となり、明治21年に矢島作郎の所有に替わった。


さて、下記の赤印しで囲んだ家が磯部家の本家で、中市に居たことはご理解頂けると思いますが、
上記にも記しているように「磯部屋」「下松屋」と称した頃は、中市が本宅で「覧海軒」は
別荘でしたが、磯部屋・五代目磯部好助が下松町居宅を長男・栄之に譲り、
「覧海軒」へ移り別家「宮洲屋」を分立した。つまり宮洲浜に建てられていた「覧海軒」は、
別荘であったが後に磯部好助の居宅に替わったということです。
始祖宗安・2代目の常安もこの地に居を構えていたかは不明ですが・・・
浄西寺の開基となったということは、中市(現在の本町)に居を構えていたと確信しても
いいでしょう???

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※ 旧藩時代の中市図の説明
下松藩創設の『慶長検地帳』(1617)には、切戸川の東側、現在の樋の上から大小路
(相生町から高砂町と旭町の交差点までを大小路という)までが中市であった。
しかし、現在は切戸川の東側から下松大手線(陸橋)までが中市です。
それから東側は荒神小路(浄西寺の西側の道路を指す)までを本町。
荒神小路から東側から移転前の西教寺、つまり駅南通りまでを東町と言っていた。
現在は通称元町と言っているが、町境ははっきりと確認していない。

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# by kfujiken2 | 2016-08-17 14:05 | 歴史 | Comments(0)

花火の撮影は難しい ((“o(>ω<)o”))クヤシイー!!

夜暗くなると晩酌が優先するので夜景を始め、花火・蛍・ライトアップ等の撮影は
経験が無いんです。朝早いのは苦になりませんが、夜遅いのは苦手です。
夜の街は別ですが あはっ♪(^∇^*)*^∇^) あはっ♪


久し振りに花火大会を見に行って来ました。
昔は現在「くだまつスポーツセンター」の場所でやっていました。当時はまだ塩浜でしたが・・・
下が砂地でしたので、ゴザ(現在のレジャーシート)を敷き寝転がって見たのを覚えています。
車の少ない時代だったので、大人は宴会でしたよ!!!
あの場所で相撲の地方巡業・サーカス・お化け屋敷等が、行われた事を知ってる人も少なくなったでしょうね~


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イベント会場の笠戸島家族旅行村では、沖永優子さん(おっきー)が司会をやり
よさこい・じゃんけん大会・ライブ等があり、打ち上げカウントダウン等の放送があったようだけど、
麓の彼方此方と散らばっている駐車場には、マイクの音など全然聞こえない・・・
25分足らずで終わった花火打ち上げの終了が分からない状態でした。
三々五々に駐車場を後にしましたが、早めに来て駐車場の前方に駐車していたら出るに出られない!
笠戸島も道路が狭い一本道のため、帰りの混みようと言えば想像以上でした。
私はハイツと大城の中間地点の駐車場に居たのですが、旧188号線の笠戸島に入る交差点に出るまで、
40分掛かりました。 (_ _,)/~~ まいったよ~


三脚・レリーズは当然用意して行きました。
設定を ISO100・ バルブモード・F11にしました。


撮影例をお見せいたしますが、 (/照\)恥ずかしっ
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失敗の原因として考えられるのは・・・
① 距離があるから広角にしないでズームの望遠にしてしまった。
② MF(マニュアルフォーカス)にしていなかったため、シャッターを押したときにピントがずれてしまった。
③ 花火が上がって行くのを見、とりあえずファインダーで追いかけるのが間に合わない・・・
  蛍のように動いてはいるが、花火は消えて無くなる!!!
  つまり、シャッターを切る(押す)、シャッターを閉じる(離す)タイミングが分からなかったです。


ズームでアップを狙わずに、広角を使って引きの写真に専念すればよかった~~~


失敗の影に出来た面白い画像


① 玉ボケ
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② 流れるような火の粉
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# by kfujiken2 | 2016-08-06 10:47 | 風景 | Comments(0)

黄色一色の「ひまわりロードフェスタ」

夏到来!ということで昨日「萩市むつみのひまわりロード」に行って来ました。
その数なんと10万本! この密集感が見ていて感動です。


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【むつみひまわりロード】は山口県内で屈指のひまわりの名所として有名です。
ひまわりの開花のシーズンには、萩市むつみの伏馬山の裾野に広がる水田を利用した
3ヘクタールの敷地に咲いたひまわりを見ることができます。ヒマワリの数は10万本にも及び、
見渡す限りの黄色い花が夏の空の下で揺れる光景は圧巻です。


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クローズアップで・・・

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みんな「前へならえ」をしています 011.gif050.gif
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すねた横顔はどうかな???
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あなたよりスタイルが良く、背が高いでしょう!!!
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# by kfujiken2 | 2016-08-01 10:28 | | Comments(0)

大田絵堂の戦いの顕彰

俗論党(萩政府軍)約2000名と諸隊(革新派)約500名と多勢に無勢で兵力の差があったのに、何故諸隊(革新派)が勝利したか? 藩庁軍は寄せ集めの諸隊の戦力を過小に評価して侮っていたと思われます。

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色んなご意見はあろうと思いますが、私の所見を申し上げますと・・・

① 作戦・・・内線作戦に徹し、敵兵力の削減と士気の崩壊を図った後に攻勢に転じる計画。

※ 内線作戦とは:軍の中心力を自国内に置き、どの方向にも速やかに大軍を繰り出して各個撃破を
ねらう戦略。


② 士気の差・・・長州藩の泰平の世で堕落した武士を中心に編成された萩政府軍(侍の隊)と
奇兵隊などの諸隊は下級武士や農民の混成部隊であるが、大村益次郎の下で西洋式兵法の訓練を
積んで組織された戦闘部隊であるから、やる気・士気が違っていたと思います。

※ 奇兵隊は高杉晋作が「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」と周布政之助に進言すると、
長州藩主・毛利敬親の許可が出て、下関防備を命じられた。
吉田松陰の草莽崛起(そうもうくっき)という考え方に基づき、志願制であり、武士だけでなく、
農民・町人・漁師・猟師・穢多・神官・力士・僧侶など身分を問わず、義勇軍的な組織となった。
農民との軍隊と言うイメージがあるが、実際には武士出身者が50%、農民出身者が40%と言う
構成になっている。
奇兵隊は「有志の者」の集まりだと言う。集まってきた武士といっても八割以上は足軽や中間、陪臣といった
下級武士であり、農民の七割は平百姓だった。晋作に近代的な平等意識があったのかと言うと、それは違う。
「奇兵隊に入れば武士になれる」との噂は流れたが、じっさいは農民が入隊しても、原則として身分は変わらない。  
高杉晋作の呼び掛けに信奉して入隊したのか、集まって来たのだろうか?
食い詰めた武家の二・三男、生活苦の農民・町人・漁師・猟師が論功行賞狙いではなかったか?
つまり、ハングリー精神があったから強かったのではないでしょうか!!!

③ 武器の差・・・数は兎も角、鉄砲の違いが指摘されます。


※ 萩政府軍は火縄銃とゲベール銃を使用。火縄銃は射程距離50mで飛距離500m、
又ゲベール銃は大量生産と構造の簡略化を優先としているため、命中精度は悪い。
諸隊が使用したミニエー銃は、椎実型の弾が螺旋状の施条によって回転して発射されるライフル銃である。
射程距離230mで飛距離900m。命中率は、火縄銃が約10% ミニエー銃は50%で火縄銃で1発撃つ間に、ミニエー銃は5発撃てたそうです。 

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# by kfujiken2 | 2016-07-29 11:05 | 歴史 | Comments(0)