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玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ②


杉氏 改 柳井氏先祖由来


杉隆泰長男・鎮頼(専千代丸)の生涯に二説あるようです。杉隆泰の長男・鎮頼(専千代丸)と嶋寿丸伊房が同一人物か別人かという部分が分かりません。その上、鎮頼(専千代丸)の生涯に二説あるのに思いあぐねます。一説は帰農して岡氏と名乗り、二説は大友宗麟の家臣として仕えたと記述があります。もし二説が真実ならば、惣庄屋の岡氏は誰の後裔なのかと言う疑問が湧いてきます。


一説は、嶋寿丸伊房(これふさ)は鞍掛合戦時に、母と共に山口杉屋敷在6歳、後に杉助三郎と改姓する。嫡男嶋寿丸は山口で百ケ日法要をいとなんだ後、元就山口攻めの風聞に接し、近習三十余人とともに豊前松山城主(現・福岡県京都郡苅田町)杉重吉(母方の叔父)を頼ったが、ここも大友氏との関係が緊迫していたため、母と女中を預け置き、伊予に渡り三ケ年浪々と過ごしている。永禄元年秋安芸厳島に参詣したが、座主は杉家に由緒ある者で、近習十三人のうち二名を留めおき残り十一人は金銀を配分して浪人となし離散させた。嶋寿丸は座主の思召しを以って毛利七郎兵衛を頼み、元就へ相談した。元就は、その請をいれ玖珂の荘官末岡土佐に預けられた後、瀬田丸山の領主小方元康の言によって杉助三郎と改称し、後柳井清左衛門の養子となり、その家にて死んだと言われる。四代目故あって岡姓と称する。(岡氏 京都市在)
 二説は、鞍掛合戦後、豊後国の戦国大名・大友宗麟の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼(すぎ しげより)と名乗り、天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。



【丈六寺跡と岡家墓地の場所】


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【丈六寺跡の石組みと思われる】

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【岡家の墓地】

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(注)杉鎮頼(専千代丸)は嶋寿丸伊房とは別人で、のちに大友義統から豊前国田川郡の内、仲元寺の地を知行、島津氏と耳川の戦いに於いて死し終末をとげている鎮頼(専千代丸)の方が正統と思われる。



次男・亀若丸は柳井家と改姓しているので、次回の説明とします。
# by kfujiken2 | 2019-06-18 08:18 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ①

大内氏の重臣杉隆泰

杉治部大輔隆泰(すぎじぶたいゆうたかやす)は、戦国時代の武将で周防国鞍掛山城主。大内義隆に仕え天文19年(1550年)、従五位下に叙し、以後治部大夫と称する。父は杉貞泰(法名は土佐入道宋珊・とさにゅうどうそうさん)、子に杉鎮頼(すぎしげより)と称す。
鞍掛杉氏は応永6年(1399年)に足利将軍家と大内氏から、周防国玖珂郡を拝領した一族であった。杉隆泰は、平時は山口に出仕して大内氏の領国統治に従事し、所領の玖珂郡は影響下の国人衆に統治を委任していた。なお、諱の「隆」の字は主君の大内義隆から偏諱を賜ったものである。
晴賢の謀叛により大内氏31代義隆が自刃した後は、晴賢が大内氏の当主としてたてた大内義長(大友宗麟の異母弟)に仕えました。天文24年(1555年、弘治元年)の厳島の戦いの後、毛利元就が周防国東部へ進出し、玖珂郡への侵攻を開始すると、隆泰はその矢面に立たされた。最初は毛利氏に臣従したものの、近隣の蓮華山城主椙杜隆康(すぎもり たかやす)との関係もあり、毛利氏の攻撃を受けた。
 隆泰は居城の鞍掛山城に籠っていた際に奇襲に遭い、防戦に努めるも、ついに鞍掛山城は落城。隆泰は父の宗珊と共に討死した(鞍掛合戦)。
享年31。法名は鐵真院殿享安元樹大居士。墓所は鞍掛山城の麓にある祥雲寺。
嫡子の専千代丸は、豊後国の戦国大名・大友義鎮(宗麟、大内義長の実兄)の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼(すぎ しげより)と名乗り、
天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。
※ 耳川(みみかわ)の戦い : 九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。


※ 杉隆泰家の略系図

[重運]――[第一代 杉重明]――[第二代 杉重茂]――[第三代 杉頼明]――[第四代 杉弘依]――[第五代 杉興頼]――「第六代 杉隆泰]――[第七代 杉鎭頼]――[某 専千代]



鞍掛山城跡


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古戦場のまち 「玖 く が 珂」のマップ

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# by kfujiken2 | 2019-06-14 10:39 | 歴史 | Comments(0)

周防大内氏第16代当主・大内義隆を支えた、3人の家老の一人・玖珂の鞍懸城主・杉隆泰


縁あってこの杉隆泰と鞍掛城のことを知り、調べてみる経緯となった次第です。
先週玖珂町の図書館・教育委員会に行き資料を調べて来ましたが、史跡の撮影をする時間がありませんでしたので、近日中に史跡の撮影に行って来ます。


山口の基礎を築いた大内氏は、南北朝〜戦国時代に中国地方に勢力をふるった豪族。百済聖明(くだらせいめい)王の第3子琳聖太子の子孫と称し,聖徳太子より多々良の姓を与えられたと伝える。弘世(ひろよ)の時,足利氏に従って戦功を立て,山口を本拠として勢力を拡大した。その子義弘は6ヵ国の守護を兼ねた。応永の乱で一時衰えたが再興し,日明貿易の独占で富強を誇る。最後の当主・義隆の時,家臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭って(大寧寺の変)で滅ぼされた。
大内政権は、主君を中心に周防守護代・陶氏、豊前守護代・杉氏、長門守護代・内藤氏の重臣(大内氏奉行三家老家)が、いわば内閣として中枢部を構成していたが、陶氏が筆頭の地位にあった。

陶氏は富田若山城、内藤氏は長府勝山城、杉氏は玖珂鞍掛城と居城を持ち活躍した。
陶氏は(大寧寺の変)後、毛利元就と戦った(厳島の戦い)で破れ、毛利元就は大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦の防長経略(ぼうちょうけいりゃく)を行い、杉治部大輔隆泰が鞍掛城主の周防国に攻め込んできた最初の合戦が鞍掛合戦であった。



鞍掛城まつり実行委員会より、昨年のポスターをお借りしました。

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◆ 大内氏の重臣杉隆泰

杉治部大輔隆泰(すぎじぶたいゆうたかやす)は、戦国時代の武将で周防国鞍掛山城主。大内義隆に仕え天文19年(1550)、従五位下に叙し、以後治部大夫と称する。父は杉貞泰(法名は土佐入道宋珊・とさにゅうどうそうさん)、子に杉鎮頼(すぎしげより)。
鞍掛杉氏は応永6年(1399年)に足利将軍家と大内氏から、周防国玖珂郡3万石を拝領した一族であった。杉隆泰は、平時は山口に出仕して大内氏の領国統治に従事し、所領の玖珂郡は影響下の国人衆に統治を委任していた。
なお、諱の「隆」の字は主君の大内義隆から偏諱を賜ったものである。

晴賢の謀叛により大内氏31代義隆が自刃した後は、晴賢が大内氏の当主としてたてた大内義長(大友宗麟の異母弟)に仕えました。
天文24年(1555年、弘治元年)の厳島の戦いの後、毛利元就が周防国東部へ進出し、玖珂郡への侵攻を開始すると、隆泰はその矢面に立たされた。最初は毛利氏に臣従したものの、近隣の蓮華山城主椙杜隆康(すぎもり たかやす)との関係もあり、毛利氏の攻撃を受けた。
隆泰は居城の鞍掛山城に籠っていた際に奇襲に遭い、防戦に努めるも、ついに鞍掛山城は落城。隆泰は父の宗珊と共に討死した(鞍掛合戦)。
享年31。法名は鐵真院殿享安元樹大居士。墓所は鞍掛山城の麓にある祥雲寺。

嫡子の専千代丸は、豊後国の戦国大名・大友義鎮(宗麟、大内義長の実兄)の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼と名乗り、天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。


※ 耳川(みみかわ)の戦い : 九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。


「鞍掛城まつり(11月)」の マスコットキャラクター「鞍隆くん」

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# by kfujiken2 | 2019-06-09 13:41 | 歴史 | Comments(0)

宇部市小野に歴史上新事実が見つかる その③・・・財満家の館跡


◆ 財満家関係者の墓が集められ建立されている財満苑です。二の丸様の顕彰碑の横で今も守っているように感じました。


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◆ 毛利輝元の重鎮、山本市左衛門は二の丸様が財満家に預けられた時にお目付け役として広島から派遣されました。毛利秀就が生まれた後には献身的な功をなしたとされています。輝元から広島に帰るように勧められるも辞退し、亡くなるまで当地で庄屋などを務めたとされます。


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◆ 大内氏の家臣であった財満家であるが財満宗因軍は毛利元就に攻められ全滅する。津室弥左衛門に連れだされて養育された財満宗因の子忠久は毛利元就に見出され初代小野村領主となった。


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◆ 毛利秀就公誕生に関わる数々の史跡を総合して、この地を「史跡の杜」と命名した。


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『郷土を伝える』
私たちの先祖は      
 喜びの時も 苦難の時も   
天を仰ぎ 神を敬い         
 仏に感謝し     
見えない存在に
  神仏を感じてきた
大きな災害や 危機の時も
自らの努力で 
乗り越えてきた
先人たちは
その心を土台にして
この郷土を継承している

この喜びを後世に伝えたい
伝えることの大切さを
この「史跡の杜」に
伝えてほしい

# by kfujiken2 | 2019-05-29 17:31 | 歴史 | Comments(0)

宇部市小野に歴史上新事実が見つかる その②・・・財満家の館跡


説明がその①と重複している所があるかも知れませんが、その点はお含みおきながらお読み下さい。


◆ 毛利秀就公出生の秘話と二の丸様の苦悩と悲哀



通説では秀就は文禄4年(1595年)に広島で生まれたとされているが、異説として天正19年(1591年)に長門厚東郡四ケ小野村(現在の宇部市小野地区)で出生したとの説がある。これは、宇部市小野地区に残る古文書に「秀就は小野村で生まれた」との記述があることから小野郷土史懇話会の会員が調査したもので、厚東郡小野村の領主であった財満家の文書や伝承から、財満忠久・就久父子の屋敷が出生地であると結論づけた。この説によると、輝元の正室・南の方を非常に恐れていた側室の二の丸殿は、懐妊が発覚すると秘密裏に財満家に匿われて、そのまま密かに出産したとされる。

輝元が二の丸様を要害の地として小野村を選び領主財満就久に身辺保全を頼んだのは、嫉妬深い正室の南の方や長門長府藩主・秀元を取り巻く家来から殺害されることを懸念したとおもわれる。 数多家臣のいる中において、側室二の丸の隠棲と嫡子の出産問題で、頼りにして白羽の矢を当てたのが財満就久は、領民の自主性を重んじ官民が一体となって政を行い、領民からも慕われていた。特に領内にあった数多の宗派を浄土真宗一派に統一して、宗教活動を通して領民のわだかまりやもめごとの無い、和やかで平和の村を建設していた。

また、出生後の処置について小早川隆景に相談した記録も発見された(財満家文書)。財満屋敷跡がある同地には、秀就の誕生時に使われたという「産湯の池」や暗殺を逃れるための「穴蔵」などが残るほか、村人たちが秀就の成長を高良神社で祈願したとの伝承も残っている。


毛利秀就公出生の地の案内板と説明石碑

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毛利秀就の誕生に縁起する財満家と毛利輝元側室の二の丸様の苦悩と悲哀について書かれた説明看板です。


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二の丸様の顕彰碑

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二の丸様の戒名

快楽院栄誉周慶大姉
慶長九年八月一日没
行年 三十二歳





二の丸様の石造

子供の頃から美人の誉れ高かったそうですが、何をモデルに造られたのでしょうか?

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二の丸様の心情を詠まれた 【二の丸悲愁 中尾岳奨作】


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馬乗り石

幼い頃の秀就は、この台石の上から馬の鞍に乗せてもらい、乗馬を楽しんでいたと考えられる。その後、この石は縄や草履などを作る時の「藁打ち台」に利用したとか。


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「産湯の池」


この池は出産に用いられた「産湯の池」とされている。

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若宮神社

敷地内に秀就の御胞衣を祀るとされる若宮神社がある。


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# by kfujiken2 | 2019-05-25 10:48 | 歴史 | Comments(0)

宇部市小野に歴史上新事実が見つかる その①・・・財満家の館跡

長州藩初代藩主・毛利秀就( ひでなり)誕生の真実
毛利秀就誕生地は広島ではなく山口県宇部市であった!




財満家館の跡の石碑

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所在地: 山口県宇部市小野2707(宇部市小野東阿武瀬) 

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長州藩初代藩主・毛利秀就誕生地が山口県宇部市であったという真実を、
宇部市や宇部市近郊の人は多少はご存知かと思いますが、果たして山口県の
県民がどの位ご存知でしょうか? いや通説では秀就は広島で生まれたとされているが、この異説を信じるでしょうか!!!

歴史教科書に載ったことが真実か、学校の歴史教育が年々劣化している気がします。作家や学者が歴史を変える、歴史を捏造しているのではないでしょうか!武家時代に生活していた人が、現在生きている証人はいない。確かに古文書に書かれた資料はあったでしょう、しかしそれは紙に書かれた物で紛失した物もあるでしょう又、焼失した物もあるのではないか・・・ 誰かの手によって書き換えらたものは多々あるでしょう。
ある歴史研究家が話していましたが、皆の前で挙手して自説を述べるとそれが定説となると、つまり、歴史が語るのではなく歴史を語るということです。



長州藩初代藩主・毛利秀就誕生を語る前に、父親・毛利輝元と母親・側室二の丸様の関わりをご理解頂かないと、毛利秀就誕生の経緯を説明しても流れが分からないと思いますので、関わりを先に説明します。


◆ 毛利輝元と周姫(かねひめ:のち輝元側室二の丸)の関わり

毛利輝元は毛利氏家臣児玉元良の娘周姫(かねひめ:のち輝元側室二の丸)を一目惚れするが元良はこれを断り、許婚の野上庄(徳山)の杉本元宣に嫁がす。天正16年(1588)秋、夫の元宣が小早川隆景の家来として筑前の戦いで不在のとき、輝元は重臣佐世石見守の手配で杉山土佐元澄に命じ周姫を広島に拉致。このとき船を出したのが毛利水軍の相嶋仁右衛門兄弟。周姫は側室になることを拒否し続けたため、輝元は実家である児玉氏の安芸賀茂郡福富竹仁の阿良井城の領地を没収し、家族は離散の制裁をうけることになる。一方、小早川隆景は天正17年正月夫の元宣にこれを伝え許すよう伝えるが、元宣は妻を奪還するため数名の部下を連れ戦場を離脱し、天正17年3月6日野上の館から広島へ向かおうとして船出するが、海が荒れ航行できず徳山湾先の船隠しという所で隆景家来の追手に9名の部下とともに海に切り捨てられる。
その元宣と家来の墓は徳山の万徳山興元寺の墓地に、父親元相の墓とともにある。
これらを知った周姫が輝元の側室となることを認めるのは天正17年春のころであるが、これにより輝元は周姫の長兄児玉元兼に安芸佐西郡己斐・草津一帯3000石を与え、さらには輝元直属の五奉行に加えられる。周姫は新たに築城された広島城二の丸に住むことになり「二の丸様」と呼ばれることになった。また、この天正17年7月2日に、輝元は三番目の兄児玉景唯に、長門厚東郡小野村の直ぐ北隣の美祢郡綾木村3000石の領地を与え、そこに住まわせている。
不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受け、長男:秀就を出産後、長女: 竹姫・次男: 就隆(徳山藩初代藩主)を出産。



二の丸様顕彰碑正面・華表と玉垣


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二の丸様の功績

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毛利秀就の実父・毛利輝元像

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# by kfujiken2 | 2019-05-23 09:45 | 歴史 | Comments(0)

角島散策・赤間神宮参拝の旅 その④ ・・・ 赤間神宮


今回の旅の最後の訪問地・赤間神宮です。
赤間神宮の「先帝祭」は、見物客で大変混雑するし、交通規制や駐車場の確保等が嫌で避けて来ました。しかし一度は「上臈道中」を見てみたいものです。


◆ 赤間神宮由来

寿永4年(1185年)3月24日、権勢を誇った平家一門は壇ノ浦に滅亡し、幼帝・安徳天皇は祖母の二位の尼に抱きかかえられ入水する。その御霊を慰めるために建久2年(1191年)に創建されたのが御影堂(阿弥陀寺)である。その後、明治となってから神仏分離令によって阿弥陀寺は廃され、安徳天皇を祭神とする天皇社ができる。そしてその社が改称され赤間神宮となる。

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◆ 赤間神宮を象徴する「水天門」

赤間神宮の神門は“水天門”と呼ばれ、竜宮城を模して作られている。これは二位の尼が安徳天皇と共に入水する際に「浪の下にも都の候ぞ(波の下にも都がございます)」言ったことに由来する。

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水天門の楼門より覗き見た拝殿(大安殿)

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拝殿と外拝殿から見えるの内拝殿の舞楽舞台

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水天供養塔

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芳一堂

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平家一門の墓(七盛塚)

壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓(供養塔)。14名の供養塔が並び、名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する。

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安徳天皇阿弥陀寺陵

800年前の源平壇之浦合戦で御入水された人皇第81代安徳天皇の御尊体を奉じて御廟所が造営された。その後明治維新の後現在の御陵となった。

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# by kfujiken2 | 2019-05-20 13:06 | 風景 | Comments(0)

角島散策・赤間神宮参拝の旅 その③ ・・・ 海峡ゆめタワー


海峡メッセ下関は3つの建物から構成される。10階建ての「国際貿易ビル」は船をイメージした建物で、国際会議場、青島・瀋陽・慶尚南道などの海外事務所、パスポートセンター等が入居。島をイメージした「アリーナ」は見本市会場とイベントホールから成る。そして「海峡ゆめタワー」のイメージは灯台。
駐車場からイベントホール・展示見本市会場「アリーナ」まで、一旦4階までエレベーターで昇り、そこから海峡ゆめタワーのエレベーターに乗り換え、最上階30階展望室へ!!!


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海峡の街、下関の灯台をイメージしたシンボルタワーは高さ153m。展望室の高さは地上143m、最上階の展望室へはシースルーエレベーターで70秒!目の前に広がる眺めは、関門海峡、武蔵と小次郎が決闘した巌流島、北九州の連山、響灘、そして日本海と360度のパノラマが楽しめます。



早朝で朝靄がかかり画像が白っぽくなったのが残念です。
関門海峡を望む東側の風景。対岸は北九州市門司区で、左には関門橋が見えます。


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西側の風景で、手前の小さい島が武蔵と小次郎が決闘した巌流島で、後方が彦島です。

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北側の風景で、下関駅の一帯です。


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恋人の聖地プロジェクトから山口県初の認定を受けた縁結び神社が、
展望室にありおみくじが人気だそうです。


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# by kfujiken2 | 2019-05-18 17:13 | 風景 | Comments(0)

角島散策・赤間神宮参拝の旅 その② ・・・ 道の駅北浦街道豊北


角島を後にし国道191号線を南下して下関を目指す!
途中「行ってよかった!道の駅ランキング2016」で全国1位に選ばれた、道の駅「北浦街道豊北」に寄ってみることにしました。
道の駅「北浦街道ほうほく」は、北長門海岸国定公園に指定された美しい景観の国道191号線沿い、眼下には和久漁港を、水平線には角島大橋を遠望する丘の上にあります。


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確かに土曜日で物凄い人混みでしたが、何を評して全国1位というのか、
「角島大橋が見える最高のロケーション」!!! 角島大橋まで少し距離があり過ぎてよく見えない、又、眼下の和久漁港は雑然としている・・・ 
それ故展望テラスに出て景観を眺めている人が少ない、評判倒れの気がしました。


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道の駅北浦街道豊北を後に一路次の目的地・下関に走り、夕方5時を過ぎていたので予約していたビジネスホテルにチェックインし、明日の英気を養う為に命の水を求めて居酒屋へと急ぎました。
さぁ~ 明日は海峡ゆめタワー・赤間神宮を見学し、カモンワーフで昼食をとり帰路に着こうと予定しております。

# by kfujiken2 | 2019-05-16 09:59 | 風景 | Comments(0)

角島散策・赤間神宮参拝の旅 その① ・・・ 角島はこんな島です!


角島は山口県の北西、日本海にぽっかりと浮かぶ、つつみの形をした、人口900人あまりの島です。2000(平成12)年、全長1,780mの角島大橋完成にともない、一気に山口県を代表する人気観光スポットになりました。角島の魅力は、なんといっても白い砂浜とエメラルドグリーンの海です!日本海とは思えない、南国の海と錯覚してしまいそうな光景が広がります。


中国自動車道を美祢ICで降り国道435号を西に進み、豊北町特牛交差点を右折し国道191号線を北上し、海士ヶ瀬ロードに入り目的地の角島大橋に着き、取り合えず「海士ヶ瀬(あまがせ)公園」に駐車し、橋を渡る前に、「海士ヶ瀬公園」より大橋と角島を望む。
自然と見事に調和した橋の造形美もさることながら、目を奪われるのは海の色!
橋のたもとから海岸に沿って、見事なまでのエメラルドグリーンの海が広がります!


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危険ですからマネをしてはいけません!!! 
車の往来の隙間に、道路の中央に出て撮影しました。


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公園からの眺望の素晴らしさはもちろん、道路を挟んだ反対側(南側)には展望台も設けられています。

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角島大橋の中間点に位置する鳩島です。


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「しおかぜの里 角島」で昼食をとり、イングリッシュガーデン風の「夢崎波の公園」へと足を延ばしました。さまざまな不思議なオブジェが設置されています。


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日本の橋ランキング1位の角島大橋を渡って上陸する角島。島内にも見所は目白押しですが、中でも一際強い存在感を放つのが空に高く突き立つ角島灯台です。
総御影石造りで白さが際立つ美しい灯台は、日本海側初の洋式灯台。明治9年に初点灯し、以後130年以上経った現在でも毎日点灯している現役の灯台です。その高さ約29メートル、上部は展望台として一般に開放され(有料)、角島の風光明媚な景観を一望にすることができます。


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# by kfujiken2 | 2019-05-14 08:45 | 風景 | Comments(0)

佐波川こいのぼりの川流し



三日前(5月5日)仁保一貫野の藤を見てから、防府市の道の駅「潮彩市場」に行こうと佐波川沿いを南下していると、防府市の佐波川で、120匹の色鮮やかなこいのぼりが水中を泳ぐ「こいのぼりの川流し」に遭遇しました

話に聞くと、2008年からゴールデンウィーク(3日~5日)の恒例行事として行われている「佐波川こいのぼりの川流し」、通称「こいながし」は、山口県防府市の小野地域の有志や子どもたちが地域活性化を目的に行っているイベントで、開催期間中は多くの観光客が見物に訪れています。


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空中にたくさんのこいのぼりを泳がせるニュースはよく見ますが、大量のこいのぼりが優雅に川中を泳ぐ姿は圧巻!!!
当初は空中にロープを張ってこいのぼりを泳がそうと思ったそうですが、川幅が広すぎて難しいので川の中に泳がしたようです。


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水の流れ、風の強さのタイミングが合えば、こいのぼりの胴体が少し浮かびあがり、口から風が入り込み、頭を水面から出している姿も見れます。
この日は川下つまり南風が吹き、こいのぼりの口から風が入らず全体沈んで見えました。 


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# by kfujiken2 | 2019-05-08 06:37 | 未分類 | Comments(0)

遅かりし由良之助・・・仁保一貫野の藤


今年は温暖で花の開花が早く、仁保一貫野の藤は例年GW明けが見頃なんですが、藤の花は如何かなと不安に思っていました。
5月3日の仁保自治会Webサイトの開花状況に、昨年と比べて房が少ないようだが、花の開花が進んでるとの情報でしたので、そろそろ見頃になったかなと昨日(5月5日)期待し出掛けました。花の咲き具合に表年と裏年があるそうですが、近年最低の状態でした。


今年の藤の花

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同じシチュエーションで撮影した一昨年の藤の花・・・藤の花が少なく房が短いのが分かるでしょう!!!

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山口市の仁保一貫野地区で見られる藤、一貫野集落を流れる坂本川の御坊淵と呼ばれるところに自生しています。人工的に造られた藤棚ではなく、まさしく自然の藤と藤の下を流れる滝とまでは言えませんが渓流のコラボが、藤の美しさと自然の優雅さが感じられる所が、人気のある所以ではないでしょうか・・・


※ あまり晴天だと藤の葉や花にハレーションを起し紫がクッキリと写りません。
なので撮影日を狙うなら太陽が出ていない曇りの時が良いかも知れません。

# by kfujiken2 | 2019-05-06 10:21 | | Comments(0)

浩宮さま(現 皇太子)が即位したら「皇太子」がいなくなる


皇族の身分を規定する『皇室典範』には、代替わりについての大きな穴があった。
今上天皇が代替わりし、現皇太子の浩宮徳仁親王が皇位に就いたとき、皇室には「次の天皇(皇嗣)」たる権利を持つ「皇太子」がいなくなってしまうのだ。皇位継承権を持つ皇族男子(秋篠宮文仁親王も悠仁親王)は存在する。
けれども、お二人は「皇太子」にはなれない。『皇室典範』が定めている皇太子の条件に合致しないからだ。


※ 『皇室典範』: 〈第八条 皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という〉


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「皇子」とは、天皇の息子を意味する。だから現在、皇太子の地位には、今上天皇の長子である浩宮様がついている。
皇室典範第一条には〈皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する〉とあるので、息子がいない以上、「男系男子」の孫(皇太孫)も当然いない。皇位第一継承者は弟宮の秋篠宮文仁親王は『皇嗣たる皇子』ではないから、皇太子にはなりません。歴史上の表記でいえば、〝皇太弟〟ということになる。悠仁親王は皇太孫ではなく、天皇の甥なので、やはり皇太子にはなりません。



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皇太子がいなくなれば、宮内庁法第六条によって〈皇太子に関する事務をつかさどる〉とされる『東宮職』がなくなります。皇太子殿下が即位されれば、皇位継承順位第一位の秋篠宮殿下が、今の皇太子殿下の職務を引き継がれるでしょう。そうすると、宮家皇族としてこれまで秋篠宮殿下がやってこられた公務はどうなるのかという問題が出てきます。
東宮家と宮家では、公的な活動の内容も大きく違ってくる。宮家皇族は公益法人など各種団体の名誉職に就いて活動できるが、皇太子・皇太子妃は、天皇・皇后と一緒で、原則的には団体の名誉総裁には就かない。宮家皇族としての公務と皇太子の公務を兼任するというのは難しいだろう。


歴代の天皇家において、皇太子が空位だったことは決して珍しいことではありません。愛子内親王を皇太子とすれば、これらの問題は回避できる。しかし、『女系・女帝』を容認するということで、この方法は無理だろう。
現行の第八条の条文を、『皇位継承順位第一位の皇族を皇太子という』に改正する方法があります。そうすれば、皇太子殿下が即位された時点で秋篠宮殿下は皇太子となります。


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# by kfujiken2 | 2019-04-30 09:04 | コラム | Comments(0)

地域文化講座


周南市では東ソー株式会社「地域文化講座」や株式会社ニッシンイクス主催の文化講演会が企業の好意により開催されます。
周南市は我が町と違い、徳山藩が藩校を設立し幾多の秀逸な人材を育てました。
我が町に著名人が少ないのは、周南市は藩校で我が町は寺小屋の差でしょう?
周南市は教育に対し力を入れ、地域・企業も協調していると言えるのではないでしょうか!!!


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◎ 東ソー株式会社 寄付講座 「地域文化講座」
     開催日:4月19 日(金)~7月19 日(金)
     時間:13:10~14:40
     会場:徳山大学 3号館 301教室


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◆ 地域文化講座の経緯

本講座は平成17年度より、東ソー株式会社のご好意により、「ふるさとの偉人たち」として隔年開講している科目です。山口県は、明治維新を成し遂げた多くの偉人たちを輩出しましたが、政治家だけでなく、文化や体育、芸術、産業などの各方面で活躍した多くの先輩たちを育てたところでもあります。地域に残された多くの文化的資産(人・文化・産業・歴史)の中で、特に、人を中心にとりあげ、彼らがどのように育ち、さまざまな困難にどう向き合っていったのか、当時の時代背景をもとに、生き方や考え方などを学生のみなさんに紹介するとともに、地域のことをもっと知りたいと考える市民の皆さんに学習の機会を提供します。

# by kfujiken2 | 2019-04-27 09:56 | コラム | Comments(0)

光・冠山総合公園で「第12回ぼたん祭」


冠山総合公園内、日本庭園の一角にある東屋周辺の広場にボタンが植えられ、毎年見頃を迎える4月中旬から下旬にかけて「ぼたん祭」が開催されています。

昨年も観に出掛けましたが、今年の方がさみしい気がしました。
20種と言ったって赤・白・紫と色が限られ、数えたわけではありませんが、全体を見渡しても約400株は無い気がしました。
期間中どの位の人が観に訪れるでしょうか??? 光市も入場料を取るでもなく、市の予算内で管理・栽培するのでしょうから、費用が掛かるでしょうね!!!


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「百花の王」と言われるボタンは「立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿はユリの花」などと美人を形容する言葉としても使われてきた牡丹の花ですが、日本では古くから人気のある花でした。
日本への伝来は、奈良時代の遣唐使とも、空海が持ち帰ったとも言われ、「枕草子」や「蜻蛉日記」などに記述されていることなどから、平安時代には牡丹の花を観賞していたと言われています。


日本庭園の一角にある東屋周辺の広場です。


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名前の分かる花を紹介しましょう。

① 写楽

丈が伸びず、どっしりと座ったように、大きく絢爛豪華に咲く、”牡丹の中の牡丹”です。

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② 島根白雁

千重咲きの中輪品種です。純白の花びらが白雁の翼を連想させます。 赤と黄色のしべが美しく、派手すぎない咲き姿が愛好家から好まれています。

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③ 天衣

白色系の八重咲です。花びらが如何にも天上人が来ている着物のようです。晴れた日には光っているように見えて素敵です。花唇が淡い黄色であることも白い花びらを引き立てます。大輪の花が見事で美しい品種です。

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④ 鎌田藤

咲き出しは紫に近く、満開後は赤味を増す。

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名前は分かりませんが、1本の木に2色の花が咲くボタンがありました。

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見事なオオデマリが咲いていました。

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# by kfujiken2 | 2019-04-23 12:54 | | Comments(0)

徳山大学内松下村塾(模築)


徳山大学は昭和46年に高村坂彦(当時徳山市長)により設立され、平成2年に開学20周年と吉田松陰生誕160年にあたることから、創立者が尊敬していた松陰教学精神を継承しようと徳山大学に松下村塾(模築)が建てられました。
「知・徳・体」一体の人間教育を行う大学精神を表しています。創立者は、「村塾小なりと雖いえども誓って日本の幹とならん」の言葉をもじり「徳山大学小なりといえども、誓って日本の大学のモデルとならん」とおっしゃっていたそうです。
正門から北側に位置する構内の高台にあり、一般公開されています。この場所につながる遊歩道も人気スポットです。


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全国に六つもの「松下村塾」の模築があるそうです。

1、東京 世田谷 松陰神社の境内にある
2、東京 町田市 玉川大学構内
3、山口県 徳山大学
4、山口県立・奈古高校
5、秋田県立大舘鳳鳴高校
6、山口県周南市の山口放送の前庭


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# by kfujiken2 | 2019-04-13 16:06 | 未分類 | Comments(0)

新元号・令和に関して


出典は日本最古の歌集「万葉集」で、巻五に収録された梅花の歌の「序」。この梅花の歌は32首あり、大伴旅人を中心とするグループが詠んだとされる。
1200年余り前に編さんされた日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。


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「梅花の歌三十二首」の序文
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」

(初春の令月にして、気淑(きよ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす)

【注釈】 令月:めでたい月   珮後:身に帯びているような 

【現代語訳】
春の初めの めでたい月に、風は和らいで気持ちよく吹いている、梅は鏡の前でお粉(おしろい)をはたく女性のように白く美しく咲き、蘭の花は身にまとった装飾品の香り袋のように薫っている

令和とは「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育ち、希望に満ち溢れた新しい時代を切り開いていく」という祈り・願いが込められていると安倍総理からの説明があったが、忖度ありきの政治を排除し、忖度のない文化にしてもらいたいものです。


◆ 令和のミステリー


1.一つに絞れない文字

ゴシック体・明朝体「人・一・刀」と教科書体・楷書体「人・丶・マ」と書きますが、常用漢字表の字体・字形で一つに絞れない文字を選んだか?
いずれも正しいというのが文化庁の言い分らしいが・・・


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2.「改元の呪い」・・・改元後の内閣は半年ももたない!?

令和が内閣制度ができて以降、明治から大正、大正から昭和、昭和から平成、平成から令和へと4度の改元がありましたが、過去の3度改元後内閣の総辞職が起こってる。

● 明治から大正に改元したのが1912年7月30日。その改元時に政権を担っていたのが西園寺公望首相だった。第2次西園寺内閣は、行財政改革を進めており、陸軍の増強を拒んだことから上原勇作陸軍大臣が辞任した。後任の陸軍大臣の推薦を陸軍に求めたが、後任の推薦を拒否。当時は軍部大臣現役武官制があって後任の陸軍大臣を充てられず内閣総辞職に追い込まれた。大正になってから144日。

● 大正から昭和に改元したのが1926年12月25日。その改元時に政権を担っていたのが若槻礼次郎首相だった。第1次若槻内閣は、1927年3月に起きた昭和金融恐慌によって経営危機に直面した台湾銀行を救済する緊急勅令案を枢密院に諮ったが否決されたため、内閣総辞職に追い込まれた。昭和になってから116日。

● 昭和から平成に改元したのが1989年1月8日。その改元時に政権を担っていたのが竹下登首相だった。リクルート事件とと消費税の導入に対する世論の反発を受けて追い込まれた。平成になってから146日。


このように、改元した時の内閣は、新元号の時代に入って長くは政権を担えなかった。改元したことと内閣が総辞職したこととは直接関係ない。だから、改元が首相の辞任の引き金になるわけではない。あくまでも歴史の偶然なのかもしれない。平成の次の元号では、どうなるだろうか。
# by kfujiken2 | 2019-04-11 09:59 | 未分類 | Comments(0)

山陰の小京都(史跡と鯉の町)津和野町  Part4


津和野町に着いたら先ず太皷谷稲成神社というのが常識ですよね!従って太皷谷稲成神社の参拝を済ませ見学を近場からと思い、南側から北側へと散策したのが順序が逆でした。最後に「津和野町 日本遺産センター」に行くなんて・・・ (° ㅂ ° )マイッタナー。
津和野町を観光で訪れるなら、最初に「津和野町 日本遺産センター」に立ち寄ることがお薦めらしいです。
帰途の時間が近づいており充分な見学の時間がなく、更にコンシェルジュの清水徳秀さんと長州藩と津和野藩との比較対照話が盛り上がり、予定の1時間が過ぎ、撮影するのもを忘れておりまして画像を、観光協会様よりお借りしました。


● 津和野町日本遺産センター

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葛飾北斎美術館の跡地に出来た「津和野町 日本遺産センター」で、文化庁により認定された「津和野今昔~百景図を歩く~」のストーリーを、映像やパネル展示などで解説し、津和野町の旅をより興味深く楽しんでいただくためのガイダンスセンターです。又、常駐のコンシェルジュ(案内人)さんがわかりやすく津和野の魅力、まち歩きの楽しみ方を紹介して頂きます。


◆ 観光協会様よりお借りしました「津和野百景図」の全体景図です。

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※ 津和野百景図

最後の第11代藩主亀井茲監(かめいこれみ)の業績をまとめた「以曽志乃屋文庫(いそしのや)」とともに亀井家に納められた文書の一つ。藩主の側に仕えた栗本格齋(くりもと かくさい)(本名 栗本 里治(さとはる))は御殿内の様子や藩内の随行先、お殿様の生活を真近で見ることができ亀井家からの信頼も厚く、第14代当主 亀井玆常(これつね)公から依頼を受け、明治の終わり頃から、書き溜めていたスケッチをもとに描きはじめ、3年8ヶ月の歳月をかけて100枚の絵を完成させたそうです。

※ 「以曽志乃屋(いそしのや)文庫」

最後の津和野藩主・亀井茲監(これみ)の業績を巻物81巻にまとめ、たんす二さおに収めたもの。


◆ お借りしました景図を3枚ばかり紹介します。

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● 古橋酒造

津和野町は清純な水と地元の酒米、そして気候に恵まれ、3軒の蔵元があります。
津和野のメインストリート本町通りにある明治初期の創業以来こだわりのお酒造りをつづけている古橋酒造もその一軒。
軒には酒林がかかり初陣(ういじん)の名の入った樽があり、横にはベルリンのアンペルマンの歩行者信号機が迎えてくれます。


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中に入るとテーブルで希望の物を試飲させてくれます。他にも津和野の姉妹都市であるベルリン中央区に因み、東ドイツの信号機キャラクター・アンペルマンのお酒やグッズが販売されていました。
森鴎外がかつて留学していたベルリンと津和野町は姉妹都市提携を結んでおり、その縁でドイツでの販売の話が持ち上がったそうです。 暗中模索の結果、ベルリンで輸入業者が見つかり、念願だったベルリンでの販売を開始することができました。現在は、ドイツだけでなく台湾へも同じように取り組み、輸出を進めているそうです。


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# by kfujiken2 | 2019-04-09 10:07 | 未分類 | Comments(0)

山陰の小京都(史跡と鯉の町)津和野町  Part3


津和野藩は幕末の長州征伐には中立的立場をとり、積極的に戦に関わりを持たなかったから、藩士の戦死者を出さなかった故、偉人たちが多く残ったいるのではないでしょうか?


● 「津和野大橋」の袂(たもと)には船着き場と思われる石組があります。


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● 殿町通り

なまこ壁や白い土塀など、江戸時代の風情を感じさせる建物が残っている殿町通り。殿町通りはかつての上級武家屋敷町で、白壁と格子窓が残る藩校跡や武家屋敷門が立ち並ぶ通りです。この通り沿いにある堀割(用水路)を泳ぐ鯉は、津和野の代名詞的な光景です。
江戸時代の初め、津和野藩初代藩主・坂崎直盛によって建設された堀割で、水路に発生する蚊の幼虫を駆除するために、疫病対策として鯉が泳がされたのだそうです。


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● 藩校養老館跡

城下町・津和野のメーンストリート、津和野町後田の殿町通りに白壁、格子窓の古式ゆかしい長屋門が威風堂々と構える。哲学者・西周(あまね)、文豪・森鴎外など数々の偉人を輩出した。津和野藩が4万3千石の小藩ながら、乱世を乗り切るため人材養成に力を注いだ証が刻まれている。
津和野藩校「養老館」は、津和野8代藩主亀井矩賢によって天明6年(1786)に創設され、嘉永6年(1853)の大火後の安政年間に殿町に現在みることのできる建物が移設新築されました。
現在残されている武術棟(槍術教場、剣術教場)と御書物蔵の2棟、そしてそれらが建つ敷地が、昭和44年(1969)に「津和野藩校養老館」として、県指定史跡になっています。
武術棟は平成28年末より保存修理中で、見学が出来ませんでした!!!


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● 津和野藩家老多胡家表門

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● 津和野カトリック教会

レトロな津和野の町並みに佇む、ゴシック様式の「津和野カトリック教会」。
礼拝堂は国内でも珍しい畳敷きで、ステンドグラスから美しい光が降り注ぎます。厳粛な雰囲気の中、祈りを捧げていると気持ちが自然と落ち着きます。
明治維新直後、津和野には隠れキリシタン153人が配流され、過酷な拷問が繰り返されたという悲しい歴史が伝えられています。

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# by kfujiken2 | 2019-04-07 09:22 | 未分類 | Comments(0)

山陰の小京都(史跡と鯉の町)津和野町  Part2


● 津和野町 郷土館

大正10年、当時としては島根県内唯一の郷土歴史博物館として設立され、創設当時は藩校養老館の御書物蔵を利用していましたが、昭和15年に現在の建物が建設され、独立した郷土館として整備されました。
その後、戦時下の一時休館や、終戦直後には役場庁舎に利用されるなどの変遷をたどりますが、昭和29年に再び今日の姿で開館され、現在に至っています。
津和野周辺の歴史資料、津和野藩の資料、美術工芸品などを展示しています。吉見、坂崎、 亀井の三氏にわたる津和野藩政の歴史を今に伝える豊富な史料に加え、人材育成の源泉となった「養老館」に関する資料、西周をはじめとする多くの先哲の遺品、乙女峠のキリシタン殉教関係資料などなど、島根県指定文化財を含む数千点を収蔵、展示しています。


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「郷土館」は2階建てとなっており、1階には土器や津和野の歴史に関する資料や文化遺産のフロアと津和野出身の先哲・文人たちを紹介するフロアの二つに分かれています。


◆ フロアの中央部分には大砲が、どどーん!と展示されています。ガラスケースに入っていないので、間近で詳細を確認しながら楽しめます。こちらは「仏狼機砲(ふらんきほう)」と呼ばれる16世紀末から17世紀初頭の青銅製の大砲。

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◆ “三本松城”とも呼ばれた津和野城の復元模型。1/200の縮尺で、1967年(昭和42年)に製作されたものです。

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◆ “哲学”や“心理学”という言葉を生んだ哲学者・西周や軍医・文豪の森鷗外、“日本地質学の父”と称される小藤文次郎、東洋紡績の初代社長・山辺丈夫、初代札幌市長・高岡熊雄などなど。小さな藩であったにも関わらず、津和野藩は藩政時代から明治期に掛けて、多くの偉人たちを輩出してきました。


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◆ 2階にあがる階段の踊場のに、津和野町出身「先哲画像」の展示があります。

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◆ 2階の壁一面に津和野城下絵図(大正3年 栗本格斎 作)があります。

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# by kfujiken2 | 2019-04-04 11:18 | 未分類 | Comments(0)

山陰の小京都(史跡と鯉の町)津和野町  Part1


1295年に吉見氏の城下となり,以後坂崎氏,亀井氏の城下町として発展。中心市街地には武家屋敷の遺構やコイのすむ掘割など風情のある景色が多く残され,「山陰の小京都」と呼ばれる山紫水明の地。主産業は観光だが,ワサビやシイタケ,クリ栽培のほか,酪農も行なわれる。特産品として,コウゾやミツマタを原料とする石州半紙がある。津和野城(三本松城)跡,森鴎外旧宅,西周旧居はいずれも国指定史跡。
平成25年 7 月28日、島根県津和野町が集中豪雨により土砂災害が原因で、太皷谷稲成神社の参拝者は変わりないかもしれないが、観光客は減ったと話しておられました。


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● 杜塾美術館

日本家屋の木のぬくもりと、陰影に富む空間。 津和野藩の筆頭庄屋屋敷を往時のままに復元し、中尾彰、吉浦摩耶画伯の心和む絵画を展示しています。故 中尾彰氏は、1904年津和野生まれ独立美術協会員。1年の半分を蓼科高原に住み、創作活動を続けていました。また展示さている版画 「闘牛技」はスペインの国民的画家ゴヤの作品。特に「闘牛シリーズ」最終版は、原盤は現在ではマドリッドにある聖フェルナンド国立アカデミー美術館に収納されており、今後新たに増刷されることのない貴重なものとなっています。


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土間の天井には、黒光する太い梁や大黒柱があり、2人のなつかしさを感じる絵画とマッチして、心落ち着く空間となっています。

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スペインの宮廷画家「ゴヤ」の版画「闘牛士」シリーズや茶器の展示もあります。


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2階に津和野藩主・亀井家八代矩賢公書があります。


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# by kfujiken2 | 2019-04-01 12:45 | 未分類 | Comments(0)

周防國三之宮という由緒正しき古社・仁壁神社


仁壁神社(にかべじんじゃ)は、山口県山口市三の宮にある神社。
式内社、周防国三宮で、旧社格は県社。
宮野という駅名は、たぶんこのお社に由来するものなのでしょう。


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◆ 概 史

仁壁神社の創建年月は不明であるが、文徳実録・三代実録 などの正史や延喜式神名帳にその名が見える古社である。 長治元年(一一〇四年)宮の前の旧地から現地へ遷座したという。 古くから周防三の宮と呼ばれている。
明応六年(一四九七年)大内義與は九州の戦陣から帰り、五社 参拝をした。五社とは、防府右田の玉祖神社・徳地の出雲 神社・この仁壁神社・さらに吉敷の赤田神社・大歳の朝田 神社をいう。この参拝の順に一の宮、二の宮……というふうに呼んでいる。
永徳一二年(一五六九年)大内輝弘の乱の時焼失したが、程なく 毛利輝元によって再興された。その後正徳二年(一七一二年)に また焼失したので、享保五年(一七二〇年)重建された。現在の 社殿がそれである。
なお、当神社には「慶長十三年二月吉日新見作」という刻名の 獅子頭がある。慶長十三年は江戸時代初期(一六〇八年)に あたり、山口市の有形文化財に指定されている。


◆ 参道入口の社号碑式内仁壁社とあります。

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◆ 参道の石橋

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◆ 拝殿&拝殿内部


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◆ 社殿全景 拝殿・幣殿・本殿


平成9年不審火により本殿、幣殿、拝殿を焼失しましたが、平成12年再建されました。

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◆ 裏側から見た本殿

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◆ 平成22年(2010年)に再建された神楽殿

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◆ 火災の拡大を防ぐ為に伐採された輪切りの神木

神楽殿の中にありました。

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◆ 伐採された神木の切り株


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# by kfujiken2 | 2019-03-28 09:52 | 風景 | Comments(0)

散りぎわの美・ 五色八重散椿(ごしきやえちりつばき)


秋の紅葉で名所になっている山口市鋳銭司・両足寺に、今年も ”五色八重散椿” が綺麗に咲いている。1株に白、桃、紅、桃色に紅絞り、白地に紅絞りと咲き分ける花は、首から落ちずに花弁が1枚1枚散るのが特徴とされる。樹齢は300年といわれるが、現在も元気です。


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名樹とうたわれ、珍重された五色八重散椿の縁起は、安土桃山時代朝鮮に出兵した加藤清正が蔚山城(うるさんじょう)から持ち帰った椿を豊臣秀吉に献上し、それを北野大茶湯の際に秀吉が地蔵院に寄進しました。

五色八重散椿は、他の椿と比べて2点変わったところがあります。
1点目は、1本の木にピンク色、白色、赤色、絞りが入ったものなど、いろいろな花を咲かせることです。
2点目は、通常、椿は、花が丸ごと地面に落ちるのですが、五色八重散り椿の場合は、桜のように花弁が1枚ずつ散っていきます。


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# by kfujiken2 | 2019-03-25 11:29 | | Comments(0)

あなたも新元号の予想をしてみませんか?


新元号の公表まであと2週間、施行まで45日となりました。
平成31年(2019年)4月1日に公表され、4月30日をもって幕を閉じ、2019年5月1日に新元号が施行されます。


◆ 新元号はいったいなんだ?

元号は世界で唯一日本だけで使われていて、4月1日から新元号になると思っている方もいるかもしれませんが、天皇陛下の御退位の日は平成31年4月30日。つまり、新元号に変わるのは、皇太子さまが即位される5月1日、元号を改める「改元」を行う5月1日からです。

「日本最初の元号『大化(645年)』から『平成(1989年~)』まで247もの元号がありました。しかし、じつはこれまでに元号に使われた漢字は72にすぎません。同じ文字が何度も使われているのです。


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◆ 新元号の名前に条件

・漢字2文字であること
・書きやすく、読みやすいこと
・これまで元号やおくり名として使用されていないこと
・俗用されているものでないこと
・国民の理想としてふさわしい意味をもつこと

さらに略称で書く際に紛らわしくならないように、アルファベットの頭文字が重要な要素となったことが知られています。つまり、「修文」や「正化」は、アルファベットにしたときの頭文字が「S」で、元号をアルファベットの頭文字を使って表す際に「昭和」の「S」と重なってしまい、不都合が起きてしまうと指摘されたのです。
今回の改元でも、こうした考えを踏襲するのであれば、アルファベットの頭文字が「明治」の「M」、「大正」の「T」、「昭和」の「S」、「平成」の「H」と重なってしまう元号は選ばれません。つまり「サ行」「タ行」「ハ行」「マ行」ではなく、「ア行」「カ行」「ナ行」「ヤ行」「ラ行」「ワ行」のいずれかから始まる新元号が採用される可能性が高いと言えます。


Aが頭文字の元号は江戸時代の『安政』以来ない。平和が持続するように「安久(あんきゅう)」がいいのではないでしょうか?
「安久」は安泰(平和)な時間が長く続くような願いを込めて!!!



※ 1989年の平成への改元で、採用されなかった20超の元号案が分かった。新元号案の考案者の一人、目加田(めかだ)誠・九州大名誉教授(中国文学)が推敲(すいこう)に使った手書きのメモが見つかった。
平成改元の際、政府は学者から集めた元号案から、最終的に「平成」は山本達郎・東大名誉教授(東洋史)、「修文」は目加田誠・九州大名誉教授(中国文学)、「正化」は宇野精一・東大名誉教授(中国哲学)の3案から選ばれたそうです。

見つかった目加田誠氏の推敲(すいこう)メモで、「平成」以外にどんな新元号候補があったのかを示す初めての史料です。


「普徳(ふとく)」
「靖之(せいし)」
「靖和(せいわ)」
「天昌(てんしょう)」
「修文(しゅうぶん)」
「大猷(たいゆう)」
「允徳(いんとく)」
「修和(しゅうわ)」
「恭明(きょうめい)」
「敬治(けいじ)」
「大有(たいゆう)」
「大成(たいせい)」
「和平(わへい)」
「成孚(せいふ)」
「純煕(じゅんき)」
「長道(ちょうどう)」
「天休(てんきゅう)」
「永孚(えいふ)」
「大明(たいめい)」
「成文(せいぶん)」

# by kfujiken2 | 2019-03-17 11:55 | 未分類 | Comments(0)

古墳時代の『後井古墳(ごいこふん)』

後井古墳は山陽本線田布施駅から西北西約2㎞・ 山口県熊毛郡田布施町宿井 の、標高約62mの丘陵にある。6世紀末から7世紀初頭に造られたとみられる、円墳の1号墳とほぼ同時期に造られたとみられる前方後円墳の2号墳の他、少し離れた場所に3号墳があり、どれも片袖型横穴式石室を持っており、山口県下最大規模で当時の首長墓とされています。見学は保存状態の良い1号墳のみ可能となっており、玄室内にある社は火の神様である秋葉様が祀られています。秋葉古墳とも呼ばれることがあり、山口県の史跡に指定されています。

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◆ 後井古墳は誰の墓か?


かつて田布施町には「王国」があった。このあたりは熊毛王国と呼ばれていました。熊毛地方(田布施を含む近隣地域のこと)は、かつて瀬戸内海の要所であり、人や文化の集積地点として栄えました。3世紀末から7世紀にかけて山口県熊毛郡の古柳井水道(古熊毛水道)付近に熊毛王と呼ばれる複数の豪族の治める熊毛王国と呼ばれる連合国家があった。
大和朝廷が完成するまで、人口が集中する地域は独自の小国家をつくった。町内に古墳が多いことも田布施の特徴だ。現在、確認されている古墳の数は85基あるそうです。


※ 古柳井水道(古熊毛水道) : 山口県の室津半島と本州は分離しており、間に古柳井水道(古熊毛水道)と呼ばれた海峡があった。

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古墳なのに石鳥居がある

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途中の石段ですが、長年の風雨で石の周りの土が削られ流されたのだろうか? 一段の石が50cmくらいあり石段を登って行くのが大変なので、両サイドの溝を登って行きました。

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やっと古墳の入り口が見えてきました。

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◆ 後井古墳の概要

入口の幅はあるが天井の低い羨道(羨道長5.9m、幅1.6m、高さ1.8m)の先に玄室(玄室長6m、幅3.5m、高さ3.55m)で県内最大クラスの石室、奥壁鏡石と天井石が特に巨大です。よほどこの地に縁深い有力者のものなのでしょう。社などが建てられるでもなく墳墓そのものが御神体となっている珍しいものでした。

後井古墳の入口です。

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羨道と玄室です

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巨大な天井石です。 どこから運んできたのか、どの様に石組みをしたのか不思議です。

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# by kfujiken2 | 2019-03-12 10:50 | 歴史 | Comments(0)

大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 その②



本堂の左手に「高杉晋作 遊撃隊(遊撃軍)激励の詩石碑」と岩国市教育委員会の解説版があり、その後方に「遊撃軍陣営遺跡保存基金芳名」の寄進者芳名柱があります。更にその後方が遊撃隊総督邸跡地だったようです。


上記の記載の順に沿って画像をアップします。

◆  「高杉晋作 遊撃隊(遊撃軍)激励の詩石碑」 

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殱賊興正非我功   幸隋驥尾全斯躬
豊公事業君無怪   一片機心今古同
訪遊撃軍諸君即吟
              
                東洋一狂生東行



◆ 岩国市教育委員会の解説版


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訳:賊を打ち破り、正道を興すは我が功績に非ず
幸いにも先達を見習って行動したことで、成し遂げただけである
豊臣秀吉公も偉大な事業を成し遂げたが、何も不思議な事はない
昔も今も成し遂げようとする人の心は同じである
遊撃軍諸君を訪問してこの詩を即興で吟じる




◆ 「遊撃軍陣営遺跡保存基金芳名」の寄進者芳名柱

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「毛利家」、「子爵 河瀬 眞」、「吉川家」、「江木千之」の芳名が刻まれている
建立年月日が刻まれていないが、通化寺本堂背後の「遊撃軍記念碑」篆額に大正10年書、 「遊撃軍招魂碑」陰刻に大正15年建立とあるので、この頃の寄進と思われる。



★「金參百圓 毛利家」 :遊撃隊総督の吉敷毛利氏世嗣幾之進の吉敷毛利氏と思ったが、「毛利家」とあるので右代表として、毛利本家ではなかろうか。
★ 「金參百圓 子爵 河瀬 眞」 :再建遊撃隊総督河瀬安四郎(石川小五郎 ・真孝:まさたか)の三男「眞(まこと)」。
★ 「金貮百圓 吉川家」 :岩国吉川氏。
★ 「金壹百圓 江木千之(かずゆき)」 :岩国藩士江木俊敬(としたか)の長男で、大正13年文部大臣に就任。晩年は枢密顧問官を務めた。



◆ 遊撃隊総督邸跡地


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入り口の看板に「檀家が24軒で、維持して行くのが大変厳しい。来られた方のご寄付をぜひお願いしたい」旨の記事が大きく書かれています。そのせいかどうか、本堂の屋根はシートで覆われたまま。
本堂内部の柱の金箔も剥げ、傷みが酷いのが一目で分かりますが、岩国市が本格的に力入れ、檀家の寄付では修復は無理だと思います。
弘法大師が創建し幕末から明治維新にかけ、長州藩の遊撃隊の本陣がおかれたという歴史ある名刹を放置するのは残念ですよね~


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寺の背後の庭は、巨石を配置した「雪舟」の作とのこと。
案内柱があるので雪舟庭園には違いないのだろうが、残念なことに荒れ放題で、何処までが庭園なのか分かりません!!!

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# by kfujiken2 | 2019-03-08 13:03 | 歴史 | Comments(0)

大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 その①



弘法大師が唐から帰朝の際に大黒山麓大梅の地に立ち寄り、大同二年(807)創建という古いお寺ですが一度途絶えたそうです。それをこの地に住んでいた「吉川元春」の次男、毛利元氏が自ら京都宇治に「隠元禅師」を訪ね、禅師が開いた禅宗の一派「黄檗宗(おうばくしゅう)」の分院として再興したのです。
隠元禅師は、いんげん豆の他、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚などを日本に持ち込んだ中国の僧だそうです。


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時代は下がって、明治維新のころ、第二次長州征伐「四境の役」で幕府軍と戦った時、幕軍による征長に備え東境の守りの要として遊撃隊の本陣が通化寺におかれました。遊撃隊は来島又兵衛が創設しましたが、1865年(慶応元)3月、250人の遊撃軍がここに来た時の総督は高杉晋作でした。禁門の変では総督の来島又兵衛は戦死するほどの奮戦を見せています。来島又兵衛の戦死後は、石川小五郎が指揮をとって功山寺挙兵にも参加。大田絵堂の戦いの後に高杉晋作が総督となっています。・・とはいっても正式に藩から任命されたわけではなく、 事実上の総督であったのだと思います。

※ 来島又兵衛 : 剣術や槍術、馬術にも長けており、戦国時代の武将のような風貌であったと言います。「血気盛ん」「気性が激しい」性格は若い頃からであったと言います。多くの長州藩士が禁門の変で命を落としますが、もともと戦うことが目的ではなく、朝廷に対して陳情するのが目的でした。しかし、この時期の長州藩に対する幕府、朝廷、世間の目は厳しく、兵と一緒に京に行けば戦いと捉えられて、陳情どころではなくなるのは明白でした。
桂小五郎をはじめ、軍を率いて京に行くことに反対しました。 藩の意向に来島又兵衛は納得しませんでした。 脱藩してでも行くと言って聞きません。説得役として藩に命じられた高杉晋作は3日かけて来島又兵衛を説得しますが、来島は断固として納得しません。急先鋒はもちろん来島又兵衛で、 遊撃隊600を率いて進軍しますが、幕府軍の圧倒的な兵力で敗れることになります。


【来島又兵衛】
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※ 石川小五郎 : 周防国吉敷郡佐山に、長州藩士の子弟として生まれる。萩の明倫 館に学ぶ。文久2年(1862年)、先鋒隊に入隊 。
元治元年(1864年)、御楯隊に入隊。禁門の変では、戦死した来島又兵衛の指揮権を引き継いで遊撃隊の指揮を執り、のちに遊撃隊総督となる。慶応元年(1865年)、高杉晋作による功山寺挙兵では、遊撃隊を率いて参加した。第二次長州征伐では芸州口を攻撃するなど活躍した。


【石川小五郎】
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大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 その②に続く
# by kfujiken2 | 2019-03-06 16:26 | 歴史 | Comments(0)

江戸城の歴史と皇居の謎

【江戸城の歴史】


現在の皇居は、江戸時代に徳川将軍の居城であった江戸城が前身であることは、何方もご存知だと思いますが、では皇居・江戸城の歴史や変遷を詳しくご存知の方は少ないんではないでしょうか?

現在の皇居がある場所(東京都千代田区)に、江戸城は15世紀半ばに建てられました。江戸時代には「江城」、「千代田城」とも呼ばれていたそうです。
家康入府時には、応急修理がなされた程度で、その後二代秀忠、三代家光の時代に拡大整備され、東西5.5㎞、南北4㎞、周囲14㎞と大城郭が完成したのは寛永13年(1636)、家光の治世であるといわれています。


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平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、江戸城の中心部分だった本丸のあたりにあったそうです。
当時関東地方に勢力があったのが扇谷(おうぎがやつ)上杉氏でした。
と言っても、この扇谷上杉氏はよく知られている戦国武将・上杉謙信とは近い関係ではなく、分家のような存在です。その扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌(おおたどうかん)こそ、江戸城を造った人です。
そして城は扇谷上杉氏のものになりましたが、新しい勢力が出てきて、城は彼らの手を離れます。次の主は、北条早雲を筆頭とした北条氏でした。


本丸跡の北西部には天守台石垣(天守閣の台座)が現在も残る。家光時代に完成し、明暦の大火で焼失した。復興に着手し天守台を築いたものの、天守閣は日常的な使い道はこれといってない「天守はもはや無用の長物」だという保科正之の提言で、江戸城に天守が再建されることはありませんでした。

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【皇居の謎】

明治維新後1868年に明治天皇が入城したことにはじまり、それ以前は、平安遷都以来1000年あまりにわたって京都御所が皇居であった。
東京遷都後、江戸城は「東京城」、「皇城」と改称され、明治宮殿完成後に「宮城」を公称と定め、第2次大戦後は「宮城」という名称が廃止され、以来一般に「皇居」と称される。


皇居は115万平方メートルの広さを誇り、8つの門があります。
現在「皇居」と呼ばれているエリアは、「吹上御苑~西の丸」「皇居東御苑」「皇居外苑」からなる。
西側に位置する「吹上御苑」には、天皇・皇后の住まいである吹上御所、宮中三殿、生物学御研究所などがあり、
江戸城時代は西の丸御殿があったエリア「西の丸」には、現在、宮殿や宮内庁庁舎などがある。
「東御苑」は、かつて江戸城の中心、幕府の中枢であった本丸や二の丸、三の丸があったエリアである。大奥は、本丸御殿、二の丸御殿の北側に存在していた。

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# by kfujiken2 | 2019-03-03 14:58 | 歴史 | Comments(0)

天皇とは何か?・・・不謹慎なことを物申す!

ほとんどの日本人にとって、天皇や皇室について考える機会はそれほど多くないのが現実だろう。これまで天皇や皇室を語ること自体がタブー視されてきた。
今上天皇が生前退位(譲位)されるにあたり、天皇は現人神(あらひとかみ) つまり、国土を創造した神々の直系の子孫とイメージされていたが、昭和天皇は一個の人間にすぎないと宣言されました。



天皇を知るに当たっては、必ずと言っていいほど、「太陽神の子孫」といったような抽象的で、信じるしかない神話の話に直面し、どう解釈すればいいのかという問題と向き合うことになります。
『古事記』のなかでも、非常に抽象的な神話の世界が描かれた前半部分を「神代(かみよ)」と呼び、やや話が具体的になる後半部分を「人代(ひとよ)」と呼びます。その境目で誕生するのが、初代天皇の神武天皇ということになります。つまり、天皇が登場するところから「人の世」になるというわけです。

江戸時代以前の天皇を中心とする朝廷は、祭祀を主に執り行っているだけの存在で、政治の実権は握っていませんでした。江戸以前の武士の世の中(鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代)で実権を握っていたのは、一部の例外を除いて幕府のトップである征夷大将軍でした。
つまり、天皇という存在は非常に微妙な地位であり、これらの政治権力者が武力を持って天皇を攻め滅ぼすことも十分可能だったにもかかわらず、誰もそうしなかったのです。



◇ 日本帝国憲法

1889年にドイツの憲法を参考にして作った大日本帝国憲法は、今までの幕藩体制を否定して、天皇中心とした君主制に基づいた政治を行うほうがより近代国家へ近づくと考えていましたため、立憲君主制で権力者のトップは君主(天皇)であり、軍隊の統帥権や統治権、立法権などの天皇大権が与えられていたのです。


憲法発布略図
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※ 天皇大権とは : 大日本帝国憲法(明治憲法)によって君主である天皇に認められた政治上の権限のことです。役人として任命したり免職する権利、軍を統帥する権利、宣戦布告したり講和を結ぶ権利、他国と条約を結ぶ権利、立法大権、議会を解散する権利、緊急勅令大権、戒厳大権、非常大権、恩赦大権、栄誉大権、憲法改正の権利、皇室全般について取り仕切る権利などがあったようです。


◇ 日本国憲法


第2次世界大戦後、占領軍総司令部の強力な指示,示唆のもとに,1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に新しい日本国憲法が施行された。象徴天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され、内閣の助言と承認を必要とする。国政に関する権能を全く有さない。 ということは、内閣の意思に基づいて行われるとの趣旨であるとみられる。行政には全く触れることができず、政府の承認と助言がなければ国事行為できないとは、国のお飾りではないかと思わざるを得ないです。お気の毒な話ですよねぇ~


連合国軍最高司令官 D.マッカーサー元帥が起草
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◆ 第三条 : 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

◆ 第四条 : 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。




次は皇居の謎と前身の江戸城の歴史を投稿します。

# by kfujiken2 | 2019-02-27 11:48 | 未分類 | Comments(0)

一足早く春の訪れを知らせてくれる河津桜


2年続けて河津桜が180本植えられているらしい、上関の城山歴史公園に河津桜を観に行きましたので、今年は久し振りに笠戸島に行って見ました。昨日「笠戸島 河津桜まつり」が開催されたそうですが、私は一足先に混雑を避けて21日(木曜日)に笠戸島に行ってみました。

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笠戸島には資料では約500本と書いてありますが、そんなにあるかなぁ~ !!!
県道笠戸島線沿いに何ヶ所とある小さい駐車場に、まばらに植えているもので、一貫性がないというか、全体的にまとまりがない気がして、見応えがありません。


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上関の城山歴史公園 (在庫より)


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先日テレビのニュースで萩市出身の「厚東 満」氏が、自分の育った萩市への恩返しとしてこの河津桜を寄付された、道の駅萩しーまーと横(親水公園)の約120本の河津桜を紹介していましたが、上関の城山歴史公園の河津桜同様、一ヶ所に纏めて植えているので、見応えがしますよね・・・ (萩市観光協会より)

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# by kfujiken2 | 2019-02-24 09:57 | | Comments(0)


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


by fujiken

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引責ではありません、立派..
by なすび at 09:00