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【21世紀フラワーファーム】

春葉のブログ~心の声を墨にこめて~



萩往還の宿場町佐々並市を探訪 Part3

オレンジ色の道路が萩往還で、(緑の円で囲んだ部分)が中ノ町です。Part 1で説明しました【御客屋】跡地(萩往還ふれあい塾」のコーナーから、佐々並川の間を中ノ町といいます。

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◆【中ノ町の町並み】の成り立ち


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中ノ町では造酒屋,油屋,酢醤油屋,肴豆腐屋,穀物屋,薬種商等の各種の商売を営まれており、商業の機能を担っていた。


それでは主な各町家をご案内致します。


◆【はやしや旅館】

幕末には吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允たかよし、坂本龍馬など、維新の志士達が萩往還を通り、佐々並市で休泊しました。
萩藩主などが「ささなみとうふ」を好んで食べたことから、佐々並宿の豆腐の味として有名になりました「はやし屋」のとうふ料理は、伝統のある手づくりのささなみ豆腐を使った、素朴な味で皆様に喜ばれています。



はやしや旅館の新館と主屋

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「1階が食堂」でささなみ豆腐の料理が名物で、「2階が大広間」

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◆【旧小林家住宅】<(萩往還おもてなし茶屋)


江戸時代に人馬や駕篭の調達を行った「目代所」があり、現在は佐々並のご案内処になっている。明治40年に隣地から移築された主屋と、大正期に建てられた土蔵、昭和10年代に増築された離れからなります。かつては旅館を営んでいたことから、主屋の一階の主座敷に加え、二階には萩往還を望む表座敷、佐々並川や周囲の田園を望む奥座敷など、佐々並の魅力を十分に楽しめる建物です。


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※ 目代所 : 古代においては国守の代理として留守所に派遣された私設の代官を指した。近世以降、目代はもっぱら駅逓の事をつかさどる地下役として宰判内各駅に目代各一人が置かれ(目代所を設る場合もあった)、人馬駕篭などの準備や用達をなし、その賃銭の徴収するなどの任にあたった。

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主屋の一階の主座敷と当時の大福帳

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※ 大福帳とは江戸時代・明治時代の商家で使われていた帳簿の一種。
当時の商業取引の前提として「掛売り」が基本であったらしく、盆・正月の支払いだったらしい・・・


【旧小林家住宅】の見取り図

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◆ 【旧椿家住宅】 

江戸期から住み、米・砂糖・塩などを扱い、薬種商を経て、その他雑貨等も扱うようになった。

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# by kfujiken2 | 2018-10-15 10:29 | 歴史 | Comments(3)

萩往還の宿場町佐々並市を探訪  Part 2



萩往還の宿場町佐々並市を探訪 Part 1に於いて、【上ノ町の町並みの様子】のコンテンツで【御茶屋】と【御客屋】を説明致しましたので、Part 2・Part 3では【上ノ町の町並み】【中ノ町の町並み】の各町家を紹介致します。


◆ 【上ノ町の町並み】の成り立ち

上ノ町は江戸時代には各町家が商業や農業を営みながら,御茶屋及びその予備的施設(木村家・井本家)である御客屋を有していた。

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オレンジ色の道路が萩往還で、(赤の楕円で囲んだ部分)が上ノ町です。
上ノ町は多少傾斜のある道で、上ノ町を北に進み(左から右方向に)突き当たりに御茶屋が角にあり、ここから急カーブして萩往還のアイストップとなる象徴的なところに位置しておる。(イラスト画像のブルー楕円で囲んだ部分)


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※ 萩往還の説明を少々・・・


萩往還は、慶長9年(1604)萩城築城後、殿様の「お成り道」として開かれました。城下町萩(萩市)と瀬戸内の港三田尻(防府市)をほぼ直線で結んでおり全長はおよそ53Kmです。
もとは殿様の参勤交代道として整備された道でしたが、江戸時代の庶民にとっても山陰と山陽を結び陰陽連絡道として重要な交通路となりました。
また、幕末には、維新の志士たちが往来しており、歴史の上で重要な役割を果たしました。


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それでは説明できる各町家をご案内致します。


◆  佐々木家

江戸時代から代々「鍛冶屋」として馬の蹄鉄製造業を営んでいた佐々木家。

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◆  石田理髪店


江戸時代、「御客家の井本家」が屋敷を構えた敷地の一角にあたり、理髪店「浅川家」を経て現在に至っている。

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◆  大野家 

佐々並の戦の火災後、江戸時代末期に建築と推定されている大野家、二代前までは、畳屋だった。

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◆ 三浦家


「土山酒造」と号して明治34年の創業以来酒造業を営んできた土山家から、大正2年に「三浦酒造」が譲り受け現在に至っている。

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【中ノ町の町並み】は後日にご案内致します。

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# by kfujiken2 | 2018-10-12 10:39 | 歴史 | Comments(0)

萩往還の宿場町佐々並市を探訪 Part 1



平成23年6月20日重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

佐々並市・重要伝統的建造物群保存地区をご案内致します。

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◆ 【佐々並市の概要】

佐々並市は、萩市の南部を占める旧旭村の南縁に位置する農村集落で、かつての萩城下町と三田尻(防府市)を結ぶ萩往還の中間点に位置することから、参勤交替の際などに藩主が休息する御茶屋を中心とした、宿駅機能を有する集落として栄えました。  佐々並市の町並みは、江戸初期に農業を基盤としつつ、萩往還の整備に伴って宿駅機能を備えた町並みとして成立し、近年に至るまで町並みの地割に大きな変化はなく、かつこの町並みの特徴を示す建築物や工作物、環境物件が現在まで数多く残っています。

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佐々並市は,「御茶屋」から萩方面に向かって,上ノ町,中ノ町,久年という3つの町で構成され,江戸時代に各町家は農業を営みながらも,上ノ町は御茶屋及びその予備的施設である御客屋を有し,中ノ町では造酒屋,油屋,酢醤油屋,肴豆腐屋,穀物屋,鋳物屋,鍛冶屋等の商工業を担い,久年は,人馬を提供する駅の役目を果たしてきました。
当時のこの集落は、総家62軒からなる町並みだったようで、そのうちの15軒が商人、47軒が宿人夫馬持ちで農業をしながら暮らしていた。


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◆ 【上ノ町の町並みの様子】

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慶応元年(1865)の1月、長州藩政府軍と高杉晋作が率いる緒隊が現在の美祢市にある大田・絵堂で10日間の戦いをやり、ここはその脇戦の地になり(佐々並の戦)、12軒が焼失していて、その時に建て替えられたそうです。

◆ 【御茶屋】

御茶屋の図面、「旧小林家住宅(目代所跡)休憩所に展示」
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萩往還沿いの最も大きい施設の一つとして御茶屋(藩主の旧泊施設)があった。慶長9年、毛利輝元が山口から萩城へ移るとき、旧佐々並使用学校(現佐々並農協木材部)の敷地内にあった長松寺の前身である長松庵で休息したといわれる。それにちなんでこの地に御茶屋が建てられたと伝えられている。670㎡の敷地に本館、長屋門、御蔵、御共中腰掛、馬建、番所があった。

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【御茶屋】の跡地

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◆ 【御客屋】

後年、往来の通行がひんぱんになると、上級武士が休息・宿泊施設 として御客屋が設けられ、にあった木村作兵衛宅、井本弥八宅があてられた。
広々とした土地に1917(大6)年に佐々並村役場がこの地に置かれ、現在は「萩往還ふれあい塾」になっております。


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【上ノ町の町並み】は後日に・・・ ご期待あれ!!!
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# by kfujiken2 | 2018-10-10 12:13 | 歴史 | Comments(2)

一筆たしなんでみました


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金子みすゞのふるさと長門市仙崎に新しい道の駅「センザキッチン」がオープンし、観光の目玉が増えました。
長門市初の道の駅として4月20日(金)に、グランドオープンした「センザキッチン」は仙崎の海辺にあります。長門の豊かな食材と、長門の楽しい情報と、長門との充実した遊びを調理し、ゲストに振る舞う所です。

交流拠点施設として山口県内最大級の広大な敷地に広がる「センザキッチン」は、周遊性のあるひとつの“まち”。おいしい味覚との出会い、ここでしか体験できない遊び、そして、さまざまな人々とのふれあいで訪れる人々を温かくもてなすとともに、この地の魅力と価値を発信・再発見できる、地域住民の方々の新たなコミュニティスペースとしての役割も果たしています。


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私の是非お勧めは長門市仙崎のみすゞ通り中ほどにある、旧JA倉庫に展示されている「プロジェクトM20000」で、蒲鉾板20,000枚を組み合わせて、金子みすゞの詩「大漁」の世界を表現しています。
この「プロジェクトM20000」には仕掛けがあり、部屋の中にあるスイッチを押すとブラックライトに照らされた大羽鰮の大群が浮かび上がります。

スイッチをON

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スイッチをOFF


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また、入口正面の壁面には、イラストレーター尾崎眞吾氏が描いた金子みすゞの肖像画がプリントされ、駐車場側の壁面には12万枚の写真による巨大モザイクアートの縮小版がプリントされています。


イラストレーター尾崎眞吾氏が描いた金子みすゞの肖像画


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12万枚の写真による巨大モザイクアートの縮小版


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# by kfujiken2 | 2018-10-05 12:22 | 未分類 | Comments(0)

美しい時代劇・【散り椿】



久々に時代劇らしい時代劇を観ました。
オールロケによる美しい自然風景が印象的で、
封建時代における内に秘めた愛とそれぞれの想い・・・
亡き妻の心はどこにあったのか。不安な気持ちを封じ込め、妻の願いに応えようと、命を懸けて闘う武士としての生き様。ラブストーリーと時代劇が見事に融合し、夫婦の永遠の愛を奏で上げる。


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映画では普通「オープニング」と「エンディング」にBGMを流しますが、【散り椿】では各シーンごとに、ゴッドファーザーに似た
BGMを優しく流し、音楽を演出に使っているのが憎いですね!!!


時代劇といえば殺陣シーンが見所ですが、今までの時代劇とはひと味違う殺陣を堪能できます。

① 雪の中で刺客に襲われ手首の筋を切って刀を持てなくする、殺陣シーンは華麗なる殺陣

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② 森の中で襲われた時は、跳んだり回転したりパワフルな殺陣

③ 新兵衛と采女の決闘は、平山道場の四天王と言われた二人の研ぎ澄まされた殺陣
美しい椿の前で戦う二人は見ごたえがありました。
緊張感みなぎる殺陣は対話しているようでもあり、やむを得ず刀を交えねばならない2人の複雑な心境が伝わってきた。

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④ 上意討ちに向かう家老・石田玄蕃が集結している神社へ、新兵衛(岡田准一)と采女(西島秀俊)が自ら乗り込んでいくクライマックスの殺陣シーンは、怒りの殺陣


※ あらすじを簡単に!


藩の勘定上で不祥事の訴えが認められなかった瓜生新兵衛は、愛する妻・篠と故郷・扇野藩をおわれ地蔵院に身を寄せていた。
病を患っていた篠は、庭先の散り椿を眺めては、故郷・扇野藩の散り椿を見たいといっていたが、その願いも虚しく帰らぬ人となってしまう。篠は亡くなる直前、新兵衛に「榊原采女さまを助けて欲しい」と遺言を遺した。
榊原采女と新兵衛は、平山道場の四天王のひとりで、新兵衛とは親友ではあったが、新兵衛の離郷とも因縁があったのだ。
それでも、新兵衛は妻の願いの真意と、かつての不祥事の真相を突き止めるため故郷・扇野藩に戻る。そして散り椿が咲く春の日。ある確証を得た新兵衛は、榊原采女と対峙することになるが、そこでかつての不祥事の真相と、溢れんばかりの妻の愛を知ることになる。

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# by kfujiken2 | 2018-09-30 09:51 | 未分類 | Comments(0)

山上の要害・岩国城 



周防大島へドライブ遊覧のフィナーレとして、以前から歴史的に興味のあった岩国城に行きました。脊椎管狭窄症の手術の後、リハビリを兼ねウオーキングをしてまいりましたが、今まではコルセットの装着をしての歩行でしたが、果たしてコルセットを外してどの位歩けるか、坂道が歩けるか不安でしたが、頑張ってみることにしました。

【岩国城の歴史】

岩国城は、初代岩国領主吉川広家によって慶長13(1608)年に横山山頂に築かれた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200メートルの城山に位置していました。
初代の岩国城は複合式望楼型4重6階の立派な天守も備えていおり「横山城」と呼ばれていたが、築城後7年で幕府の一国一城制により取り壊されました。
山陽道の動静も山上からひと目で分かるように、江戸時代に築城された城郭の多くは平城で、山頂に城郭を築き、防衛を主体とした空堀を築造したものは全国でも珍しいそうです。現在の天守は、三層四階の桃山風南蛮造りで昭和37(1962)年に再建されたものです。


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長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領を支藩とする届けを出しておらず、 吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず(大名ではない)と主張していた。
その一方で幕府からは6万石の外様大名格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。



【不思議な形の岩国城】

岩国城の変わっているところは、建物の上部と下部の作りが異なっていて、下の階より上の階が張りだしていることで、これは「南蛮造」や「唐造」と呼ばれています。上階をその下階より大きく造り、その間の屋根を省略した様式です。
張り出している部分が目立つ「白」のカラーリングであることからより目立ち、さらに不思議な形に思えてくるのです。


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【旧天守台】

発掘復元された旧天守台は、現在の天守の裏手にあります。
下1/4ほどが地中に埋まって残っていたことから復元できたという。どこまでが遺構でどこからが復元かは、石を見た目では分からない。


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【岩国城展望台から見た錦帯橋と周囲に広がる城下町】

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【からくり時計】

ロープウェイ乗り場前の広場にあり、さりげなく吉川家の家紋「九曜紋(くようもん)」が描いてある。数字板も漢数字だ。

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# by kfujiken2 | 2018-09-27 10:18 | 歴史 | Comments(0)

「陸奥記念館」は恒久平和の殿堂



子供心をくすぐる「なぎさ水族館」から向きを変え、
厳粛な気持ちになる「陸奥記念館」へ足を向けました。


◆ ピースシンボルタワー
陸奥とともに命をともにした1121人全員の氏名が記されています。
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全長200メートル超、全幅約29メートル。1921年に完成したが、第2次大戦中は温存され前線への出陣はほぼなかったという。当時では世界最大規模の戦艦だった。
大正10(1921)年、長門型戦艦2番艦として完成。当時、ワシントン軍縮会議開催中で、米英に廃棄を迫られる中で誕生した。「長門」とともに世界初の40センチ砲を搭載し、両艦は連合艦隊の旗艦を務めた。戦前の教科書にも掲載されるなど知名度抜群で、日本海軍の象徴でもあった。
1943年6月、山口県岩国市の沖合に停泊していたところ、突然爆発、艦体は海中深くに沈んだ。乗組員約1400人のうち1121人が死亡した。爆発の原因はいまも分かっていない。原因は現在も分かっていないが、3番砲塔付近から煙が上がり爆発、一瞬で船体が真っ二つに折れ、死者のほとんどが溺死ではなく爆死だったほどの大惨事だった。



◆ 戦艦陸奥模型

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◆ 館内の様子・・・
館内には引き揚げられた遺品が展示されています。
艦長の軍服や破損した士官の短剣など多くの遺品を見ると、爆発による人の死が実感され、遺品を撮影する気にはなれなかった。


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当初陸奥の爆発要因は米潜水艦の雷撃によるものだとされたようですがその後撤回されています。原因は諸説あり未だわからないままになっています。ちょうど山本五十六元帥の戦死やアッツ島玉砕など、暗いニュースが続いていた時期と重なり陸奥爆沈のニュースには緘口令が敷かれたために多くの国民がその事実を知ったのは終戦後のことだったといわれています。

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# by kfujiken2 | 2018-09-24 16:28 | 歴史 | Comments(0)

周防大島へドライブ遊覧

明月上人誕生地・願行寺を後に次の目的地・陸奥記念館へ・・・
「陸奥記念館」と「なぎさ水族館」の駐車場が共有されているので、先ずは、日本一小さい水族館・「なぎさ水族館」を覗いて観ることにしました。


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この水族館はアイデア勝負?の水族館です。
瀬戸内海の生きものを中心に飼育・展示しています。
とにかく面白いのが飼育員が手書きで作成された解説文です。「なぎさ水族館」の人気スポットは、日本最大級の広さを誇る(屋内の)「タッチングプール」で、海の生き物にじかに触れることができ子供たちの歓声でいっぱい。



「ニホンアワサンゴ」
周防大島に世界最大級の群生地がある海の花束
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「ゴンズイ」

ゴンズイという名は、漢字で「権瑞」と書くことが多い。
ナマズ科で目が小さく口ヒゲがあり、愛嬌のある顔をしているが背びれと胸びれに毒があり厄介な魚でもあります。
ゴンズイは頭が牛に似ていて毒ビレをもつため、悪魚的な意味から付いた名だという。

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「ミズクラゲ」
ゆったりとした動きでふわふわと漂う姿に、眺めていると癒されます。
傘の真ん中にあるクローバーのような模様は胃だそうです。
タコクラゲ タコのように8本ある足や傘にある水玉模様がとてもチャーミングで印象的ですよね。

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# by kfujiken2 | 2018-09-21 09:23 | 未分類 | Comments(0)

明月上人誕生地・願行寺の彼岸花

明月上人誕生地である願行寺(周防大島町日前)の石碑横の花壇に、お彼岸を向えてタイミング良く、植えられたものであろう色違いの彼岸花が咲いておりました。

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※ 彼岸花の知識のイ・ロ・ハ

イ: お彼岸の季節には、田んぼのあぜ道や土手で見かけることがありますよね。
これは、野ネズミなどが穴をあけるのを花の球根にある毒で防ぐために植えられていたんです。

ロ: 珍しい黄色の彼岸花は、正確には彼岸花そのものではありません。その正体が鍾馗水仙(しょうきずいせん)と呼ばれている花なのです。

ハ:白い彼岸花は、 赤い彼岸花と黄色いの鍾馗水仙の雑種とのことです。


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# by kfujiken2 | 2018-09-19 08:56 | | Comments(0)

近世の名筆:明月上人

明月上人は享保12年(1727)周防大島屋代島願行寺生まれ、法名・明逸、字は曇寧、中秋の名月の夜に生まれたので明月のほか解脱隠居・化物園主人などと号したという。15歳のとき来松(四国松山)して円光寺義空に師事、のち京・大坂・江戸に遊学して、服部南郭らとの交友を通じて古文辞学(徂徠学)を学んだあと帰郷して宇佐美淡斎・杉山熊台などを指導、松山におけるけん園学派の先駆者となった。また泉州堺の佐太郎(名は宜周、号南山人)に寄寓して書を習い、南山人から王義之・顔真卿など唐の書風を学び、特に草書に巧みで、越後の良寛、備中の寂巌(じゃくごん)とともに三緇(さんし)と称えられた。34歳、帰松して円光寺住職就任。翌年、藩の反対を押し切って同寺に唐風の楼門(普照楼)を建てた。また、詩文にも秀で、著作に『扶桑樹伝』『通機図解』『西遊記』『明月什』などがあり、ことに扶桑樹伝は光格天皇乙夜の覧に供され、のち唐人町茶屋吉蔵によって開板されると明月の名が高くなった。漢詩に「道後温泉詩」八首などがある。寛政9年(1797)、同寺で没。

※ 佐太郎 : 参勤途上の紀州侯の家臣たちを冷や飯でもてなした堺の豪家
※ けん園学派:荻生徂徠の門に学んだ人たちによって形成された儒学上の一学派
※ 三緇 : 三人の僧
※ 乙夜(いつや): およそ今の午後9時ないし10時から2時間をいう
※ 乙夜の覧 : 中国で、天子は昼間政務で忙しいので乙夜になってから読書をした
※ 開板(かいはん): 書物を新しく出版すること

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冬さびぬ蔵沢の竹明月の書   正岡子規
ふゆさびぬぞうたくのたけめいげつのしょ

前書きに「草庵」とあり、子規庵の室内を詠んだもの。
「蔵沢」は吉田蔵沢のことで、松山生まれの南画家、晩年は画材を竹に絞り、竹の蔵沢として知られていた。「明月」とは円光寺の7代前の住職明月上人。
2人とも名筆で、子規庵に書があり、 明月の書は、虚子の結婚記念に虚子に贈ったとされている。蔵沢の竹の画は子規が晩年に「私の宝物」といい床の間の正面に飾っていた。


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風呂吹を喰ひに浮世へ百年目    子規
ふろふきをくひにうきよへひゃくねんめ

「風呂吹」とは圓光寺伝統の精進料理「ふろふき大根」のことである。


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# by kfujiken2 | 2018-09-17 11:24 | 歴史 | Comments(0)

映画:岡田准一の「散り椿」

「散り椿」の正式名は五色八重散椿(ごしきやえちりつばき)といい、珍しい椿です。

安土桃山時代、朝鮮に出兵した加藤清正が蔚山城(うるさんじょう)から持ち帰った椿を豊臣秀吉に献上し、それを北野大茶湯の際に秀吉が京都市北区大将軍の地蔵院に寄進しました。
1本の木にピンク色、白色、赤色、絞りが入ったものなど、いろいろな花を咲かせます。通常、椿は、花が丸ごと地面に落ちるのですが、五色八重散り椿の場合は、桜のように花弁が1枚ずつ散っていきます。


椿の話はこれ位にして、本題の映画についてお話しましょう・・・

最近はコメディ時代劇が多いですが、久々に岡田准一主演の本格的時代劇・「散り椿」が公開されます。V6というボーカルユニット出身だけど、存在感のある演技ができる理由に目力にありますと思います。

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武士の瓜生新兵衛(岡田准一)は、妻である篠(麻生久美子)と地蔵院に身を寄せていた。病気を患う篠は前庭に咲いている散り椿を眺めながら、故郷の散り椿がもう一度見たいと呟くがその願いは叶う事は無かった。
朴訥で不器用だが、清廉に生きようとする侍たちの“凛とした生き様”、そして愛する女性のために命を懸けて闘う、“切なくも美しい愛の物語” 親友で恋敵だったライバルの剣豪たちのその後の物語です。


※ 紅葉の名所として有名な山口市鋳銭司・両足寺に、本堂脇に立つ2本の五色八重散椿が有名です。菩提供養のために植えられたもので、樹齢は推定350年。
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7年前に撮影した画像です
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紅葉がご覧になりたい人は、一昨年の撮影ですが・・・
「紅葉巡りの見納めに両足寺」をご覧下さい、 リンクしていますのでクリックするとページに飛びます。
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# by kfujiken2 | 2018-09-08 09:10 | 未分類 | Comments(0)

長岡外史を語るとき・・・誕生の秘話

長岡外史は10才のとき、萩藩士・長岡南陽の養子となり、
明倫館を経て陸軍士官学校(旧2期)卒。明治18年(1885年)に陸軍大学校を一期生として卒業してから、陸軍軍人、政治家として活躍されたことは皆さんご存知と思います。


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しかし、いずれの講演や書物に於いても、生い立ちが明らかにされていない???
何故、暗黙にされているのか図書館に行って調べてみました。
「航空とスキーの先駆者 人間 長岡外史」という冊子の中に、面白い記述を見付けました。


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安政元年に起きた江戸の大地震は、ペリー来冦以上に衝撃を人々に与えた。世は騒然としていた。このような時代に長岡外史が19歳の娘・堀 時の胎内に宿った。父親は隣り村の栗屋村(周南市櫛浜町)の庄屋温品家の二男謙吉である。母の堀 時は都濃郡末武北村(下松市末武)の大庄屋堀三右衛門の妹である。
2人は相思相愛の仲であった。謙吉はのちに山口県上関町室津の小方家に養子に行き謙九郎と名を変え、第二奇兵隊の参謀として活躍する。明治維新後に上関町室津に戻り回漕業や汽船宿を営んで、現在は国の重要文化財に指定されている
四階楼(しかいろう)建てた人物である。


そんな相思相愛の仲であった堀 時と温品謙吉が結婚しなかった、いや結婚出来なかったのは、明治以前の婚姻の形態に理由があったようです。

①.嫁方の家で、婚姻生活のもたれる「婿入婚」の形式がとられていた。
  
②.2人の住まいは末武北村と栗屋村で隣り村の農村のコミュニティではあるが、部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。


当時の婚姻の形態を風俗的見解ではなく、歴史的見解で少し説明しましょう・・・

当時はほとんどが嫁方の家で、婚姻生活のもたれる「婿入婚」の形式がとられていた。一般的にいって婿入婚に終生的なものの二種があり、それらは婿が嫁方に住み込むものと、婿が妻問いする通い式の二つの形式に分かれる。
それは貴族社会に限らず、庶民の間でも支配的に行われた。日本では古くは男女が性的交渉をもってから共同生活を始めるまでの間に、相当の期間が存在し、その場合男が女の家に通うのが通例であった。

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古典時代の結婚生活の形態は、女はただひたすら男の訪問を待つだけの受動的立場であり、授かった子種をこの世に産み落とすまでは自分の仕事だが、我が子を育てる役割は「乳母(めのと)」に委ねることが多かったし、最初の頃に通ってきてくれたきりで、以後すっかり御無沙汰になってしまう夫も、世の中には多かった・・・なにせ、「妻」は、彼女一人だけとは限らないのだから・・・古典的文物に「待つ身の女の辛さ」を嘆くものが多いのも、むべなるかな、である。

農村の婚姻の形態がこのようなものだったとすると、長岡外史の両親・温品謙吉と堀 時の間柄も同様であったと思われます。2人の家は同じような大庄屋の家柄であったし、距離的にいって末武川をまたいで2~3キロの距離にあった。当人同士は許し合い、それを当然のこととしていても、親と世間が認めなければ、正式の婚姻とはみなされなかった。


本来求婚することを『よばう』(呼ぶの意)といい、若者が夜ひそかに娘の家へ通うことを『よばい』といっている。これに『夜這い』などの字をあて、明治以降は封建的弊風のようにみられてきたが、この風習はほとんど全国の農村にわたっており、それを当然とした時代が久しかった。
当時にとっては、このようなことが唯一の娯楽であり、また恋愛の場でもあった。こうした場を通して相手を知り、意気投合すると、娘の家へ夜這いに通い、やがて結婚へと進むのが通例であった。そして、このような男女交際は若連組の承認の上でおこなわれ、親が反対しても、若連の力で推進することさえあった。昔はこうしたケースが多かったために村内結婚が主である。 部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。村の娘が他村へ嫁ぐ場合、若衆が嫁入の行列に向って石を投げたり、水をかけたりしてじゃまをする風習があった。若者組のきずなのきびしい村落共同体においては、若者頭の承認がなければ他の村へ嫁入することができない地方さえあった。

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# by kfujiken2 | 2018-09-03 09:04 | 歴史 | Comments(0)

袖解橋(そでときばし)のいわれ

今から六百年ばかり前、山口で大内氏が栄えていたころ、秋穂街道は秋穂の港から山口に通じる主要街道でした。この道は別名御上使道(ごじょうしみち)とも呼ばれ、秋穂渡瀬(あいわたせ)をわたって此処から山口の町に入りました。全国各地から山口に登城した侍たちは、ここまでくると狩衣(かりぎぬ)、直垂(したたれ)の袖をくくっていた旅装を解いて身づくろいをして山口に入りました。そこでこの橋の名を袖解橋(そでときばし)というようになりました。

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碑の歌は、明治時代の歌人田辺玄齢のものです。
「旅日地の橋の名におう袖ときて 水に姿をうつしてやみし」 (現地の説明板による)


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大内時代の山口の道路網が、どんなになっていたか詳しく知りませんが、橋といっても見受けられるモノは無く、川にかかっていたものだとは思うが!!!

※ 御上使道とは : 江戸幕府の巡見上使が通った道
※ 秋穂街道とは : 大内氏時代には舟で秋穂に着いた旅人は、秋穂浦にあった橋「髪解橋」でまず髪を解き(整え)、服装はまだ旅姿のままでこの秋穂街道を歩き始め、約5時間ほどの歩き旅で山口の入口である袖解橋に着くと、狩衣や直垂の袖をくくっていた旅装を解いて身づくろいをし、愈々山口の大内氏館へ向かったということらしい。

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# by kfujiken2 | 2018-08-30 08:26 | 歴史 | Comments(0)

「袖解橋(そでときばし)の変」

井上馨遭難の地

元治元年(1864)9月25日、中河原の山口政事堂で開かれた御前会議で、井上馨は、幕府に謝罪しようとする保守派に対し、武力を備えて幕府に対抗する方針を主張。その後、湯田の自宅への帰路、袖解橋で保守派の壮士数名によって襲撃され、重傷を負いましたが、医師・所郁太郎の治療によって一命をとりとめました。


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※ 世外とは井上馨の号で、世俗を脱した境遇を意味する。



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井上馨を助けた・所郁太郎


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# by kfujiken2 | 2018-08-26 12:23 | 歴史 | Comments(0)

山口県立美術館で開催『毛利 敬親展』

“ 明治150年記念特別展 激動の幕末 長州藩主 毛利 敬親展 ”に行って来ました。

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18歳で長州藩主を継いだ毛利敬親は、「俗論党」に配慮しつつ「正義派」の村田清風を後押しし藩政改革・財政再建に成功し長州藩は「雄藩」となった。21歳の毛利敬親は10歳の吉田松陰の御前講義に感服し弟子の礼をとったといい、脱藩事件で家名断絶に処された松蔭に10年間の諸国遊学を許し、ペリー来航後先鋭化する攘夷論に耳を傾け、密航を企てた松蔭が幕府に捕まり萩の野山獄へ投獄されると病気保養の名目で出獄させ「松下村塾」を黙認、遊学奨励や軍制改革などの諸献策を採用し、門人の木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作らを取立て中央政界へ送り出した。
その生涯を追いながら、長州藩の歩みをたどる展覧会。
混乱の時代にリーダーとはどうあるべきか…。
現代にも通じる発見がありそうです。


毛利敬親の真の藩主たる姿

① 敬親の口癖『そうせい』
家臣から何か進言された時、敬親はいつもこの言葉を口にしていたと言います。つまり、『あなたの思う通りにやってみなさい』という事です。一見すると、すべて家臣に丸投げしているように思える敬親の『そうせい』。幕末を代表する多くの人材を輩出した一つの要因が『そうせい』なんです。
敬親は、立場に関わらず人材の登用を積極的に行ったと伝わっています。そんな若者たちの進言に対し、敬親は『そうせい』と彼らの意思に任せていました。つまり敬親の『そうせい』は、家臣たちが自由に考え、そして自らの意思で行動することを促しているんです。

※ 現代社会に置き換えてみましょう。
部下の仕事に手を出す上司は、一見すると優しく頼りがいのある人物に見えてしまいます。ですがそれは、部下が自分で考え行動する機会を奪っているに過ぎません。
あくまで長州藩士たちの裏方に回り、彼ら自身に行動させる。
その結果、成功すればそれは藩士たちの手柄。
一方、失敗すれば責任は藩主たる自分が背負い、進むべき道を示す!そうせい侯 毛利敬親の振る舞いは、現代社会にも通ずる上に立つ者の心得を示しているのではないでしょうか?


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② 名君 敬親の姿…責任は背負い、道を示す
幕府軍が長州に迫ってきた第一次長州征伐。
このような事態になったのは、自分の意思で行動していた藩士たちの行動が原因です。幕府軍に対抗するため、長州では会議が開かれました。が、意見を出し合う長州藩士でしたが、結論は出ず日が暮れてしまいました。完全に煮詰まった会議の場。
すると、これまで黙り込んでいた藩主 敬親が口を開きます。
「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」
基本的には『そうせい』と藩士の自由意志に任せている敬親も、最後はきっちりと進むべき道を示しました。


③ 立場や年齢を気にしない藩主

立場や年齢に関わらず、有能な人物から学べることを学び吸収しようとする姿勢。吉田松陰の門下になり教えを受けた。吉田松陰は下級武士の家柄、一方の敬親は長州藩の殿様です。まして松陰先生は、敬親より11歳も年下です。
普通だったら殿様としてのプライドが邪魔して、下級武士に教えを乞うことなど出来ないはずです。

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# by kfujiken2 | 2018-08-23 10:35 | 歴史 | Comments(0)

歴史の闇に埋もれた真実

強制慰安婦どころではない!終戦時蛮行の限りを尽くし凄まじかったソ連軍兵士の強姦・残虐行為・・・

第二次世界大戦敗戦とともに崩壊した「満州国」では、地獄絵図としか表現しようのないほど、飢えと暴力、そして絶望が蔓延した。孤立無援の満洲開拓団は次々と、集団自決に追い込まれていった。
そのとき、ある開拓団の男たちは、ひとつの決断を下した。現地の暴民による襲撃、ソ連兵による強姦や略奪から集団を守り、食料を分け与えてもらう代わりに、ソ連軍将校らに結婚前の乙女たちを「性接待役」として差し出したのだ。
犠牲となった「彼女たち」は、日本への引き揚げ後もこの忌まわしい記憶をずっと胸の内にとどめていたが、70年が経ち、その重い口を開いた。


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※ 「満州国」とは
満州事変の結果,大陸進出の前進基地,さらに中国革命の波及を阻止する拠点として,日本が中国東北三省および熱河省につくった傀儡国家(かいらいこっか)、中国から見れば、表向きは中華民国から独立した独立国であったが、実際には関東軍の謀略により作られた国で、つまり形式的には独立しているが、実質的には他国によって操られている政権であった。



第二次世界大戦敗北とともに、「満州国」はもろくも崩れ去る。1945年8月9日ソ連の満洲侵攻、6日後の日本の無条件降伏――。約27万人の開拓移民らは、突如、異国となった荒野に取り残された。満州国より「強制退去」を命じられる。
福岡市の博多港に139万人の日本人が命からがら引き揚げてきた。そのなかに、満州でソ連兵らから性暴力の被害に遭い、妊娠した女性たちが多く含まれていたことはあまり知られていない。引き揚げ船から海に身を投げた女性も少なくなかったという。
また、「二日市保養所」という中絶のための施設も国が関わり、秘密裏に作られた。治療の際に、医師や看護師が泣き声をあげた赤ん坊の命を奪うこともあったという。当事者の女性たちもずっと口を閉ざしてきた。

二日市保養所

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# by kfujiken2 | 2018-08-14 08:26 | コラム | Comments(0)

「毛利秀就公出生の謎を解く」

「小野郷土歴史懇話会」の平山智昭氏により長州藩初代藩主・毛利秀就公出生は広島城生まれが定説となっているが、小野地区の領主・財満家の館の一角の西御殿または西御前と呼ばれる場所で毛利秀就は生まれたと異説が紹介された。


長州藩初代藩主・毛利秀就
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◇ 毛利輝元と周姫(かねひめ:のち輝元側室二の丸)の関わり


毛利輝元は毛利氏家臣児玉元良の娘周姫(かねひめ:のち輝元側室二の丸)を一目惚れするが元良はこれを断り、許婚の野上庄(徳山)の杉元宣に嫁がす。輝元はその後も周姫のことが忘れられず、恋心を重臣の佐世石見守に打ち明ける。佐世石見守はそれを手下の杉山土佐元澄に命じ、周姫を拉致し広島に連れて来る。しかし、周姫は側室になることを拒否し続けたため、輝元は実家である児玉氏の安芸賀茂郡福富竹仁の阿良井城の領地を没収し、家族は離散の制裁をうけることになる。
更に、これに立腹した主人・杉元宣は、天正17年(1589年)の大坂の豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により徳山・野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。

児玉の実家がむごい制裁を受けていることや、夫の杉元宣の絶命を知らされた周姫は、不本意ながらも輝元の側室となることを認め広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受ける。その後、文禄4年10月18日(1595年11月19日)に毛利秀就、慶長4年(1599年)に竹姫、慶長7年9月3日(1602年10月17日)に就隆を出産。通説では秀就を広島城で生んだとされるが、正室・南の方を恐れていたことから、懐妊後に密かに長門国の小野村(現・山口県宇部市)の財満就久の屋敷に匿われ、密かに出産したとの説もある。


毛利秀就の実父であり、関ヶ原の戦いでの西軍の総大将の毛利輝元
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◇ 長州藩初代藩主・毛利秀就誕生の経緯


日本の歴史には、毛利輝元の側室二の丸は「文禄4年10月18日広島城で嫡男秀就を儲けた」とある。秀就は後に長州藩初代の藩主となった人物である。これが毛利家の正史として世に知らされていて、これを疑う人は殆どいないでしょう。
ところが、輝元が二の丸を要害の地として小野村を選び領主財満就久に身辺保全を頼んだのは、嫉妬深い正室の南の方や長門長府藩主・秀元を取り巻く家来から殺害されることを懸念したとおもわれる。
数多家臣のいる中において、側室二の丸の隠棲と嫡子の出産問題で、頼りにして白羽の矢を当てたのが財満就久は、領民の自主性を重んじ官民が一体となって政を行い、領民からも慕われていた。特に領内にあった数多の宗派を浄土真宗一派に統一して、宗教活動を通して領民のわだかまりやもめごとの無い、和やかで平和の村を建設していた。


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◇ 「毛利秀就公出生」が長門国の小野村が事実ならば、三つの疑問があります。
① 小野村って何処にあるのか
② 何故そんな所で産まれなければならなかったか
③ 秀就という大名は何と惨めな生い立ちだ


※ 虚構説ならば・・・
輝元という中国地方120数万石の大大名の人格や人間性までも非難されることになりかねない。
次の藩主の秀就についても、藩主としての威厳と権威を保たせるためには、藩主の秀就は広島城で産まれたということにして置かなければならなかったのだと思う。これが世に言う戦争の歴史は勝った方が理屈をつくり、封建時代の歴史は、権力者の都合に合わせて権勢を奮っているという証拠であろう。



※ 平山 智昭さんの紹介
~郷土史を足で歩いて後世に伝える郷土史研究家~

※ 平山 智昭さんの著書
◆ 山口県地方史研究第104号(2010年11月)の「毛利秀就公出生の謎を解く」
◆ 二の丸残照:毛利秀就公出生の謎解き・ 戦国歴史秘話

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# by kfujiken2 | 2018-08-08 15:22 | 歴史 | Comments(0)

何処の町・村にもある伝説や民話・・・「 姫山伝説」

山口盆地に優美な稜線をみせている姫山には、地元でも有名な姫山伝説があります。
2012年10月22日放送 関ジャニ∞村上信五とマツコ・デラックスがお送りする「月曜から夜ふかし」で、「山口呪われたブス問題」として紹介された「山口ブス伝説」が取り上げられたそうです。


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◆ 真偽は定かではないが、下記のような民間伝承が残っています。

その昔、殿様が山口城下の美女に恋慕をよせ、殿中に捕らえようとしたが、美女は殿様の邪意を受け入れなかったため、激怒した殿様は美女を縛って城の井戸に釣り下げ蛇責めにした。美女は自らの美しく生まれた身のつらさを、二度と後々の女性にさせぬため『この山の上から見えるかぎりの土地では、永久に容姿端麗の女性は生まれぬように』と悲しみ悶え死んだ。
それからは、この美女の呪詛がほんとうになったのか、山口には美女が生れぬことになったという。山口の女性には失礼な話です!!!

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この「 姫山伝説」のモデルが、毛利輝元と悲劇の美女は側室二の丸様のことだと言われていますから、興味が湧いてきますよね・・・



◆ 毛利輝元と二の丸様の経緯


毛利輝元は山陽山陰十ヶ国の太守として郡山城に住んでいた。
毛利氏家臣児玉元良の娘・周姫(後の二の丸殿)が自宅門前で遊んでいたところ、美少女故に通りがかった輝元の目に留まり、その後、輝元はしばしば元良の広島時代の自宅を訪問するようになる。輝元のこの行動を快く思わない元良は、天正12年(1584年)に13歳の周姫を杉元宣に嫁がせた。しかし、輝元は諦めることなく佐世元嘉らに命令し、強奪して側室とした。これに立腹した元宣は、天正17年(1589年)の大坂の豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。

不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受ける。なお、二の丸殿が未完成の広島城に早々に居住することとなったのは、輝元正室である南の方の嫉妬によるものとされる。その後、文禄4年10月18日(1595年11月19日)に毛利秀就、慶長4年(1599年)に竹姫、慶長7年9月3日(1602年10月17日)に就隆を出産。通説では秀就を広島城で生んだとされるが、南の方を恐れていたことから、懐妊後に密かに長門国の小野村(現・山口県宇部市)の財満就久の屋敷に匿われ、密かに出産したとの説もある。

毛利家の転封により広島城に戻ることができなくなると、萩城に入らずに周防国山口の覚皇寺に移った。慶長9年(1604年)8月1日に32歳で病死し、山口古熊の西方寺(現・山口市の善生寺)に葬られた。萩に入ることができなかったのは、前述の通り正室である南の方が許さなかったと言われている。


◆ 《歴史的史実》


実際の史実では、物語の中心地は姫山ではなくもっと東の岩国・周南から広島にかけてである。また、二の丸様は病気で亡くなられており、元宣の死後はあきらめたように輝元を受け入れ、3人の子をなしている。 このように物語と大きく異なる部分も多く、蛇攻めの話は輝元に加担した乳母が拷問死した話などほかの話と混ざったのではないかという説もある。
輝元の命により周姫(後の二の丸殿)を強奪させたという史実は、実際には城の大スキャンダルで、他言無用の極秘の話であったのだろう。


◆ 姫山伝説と毛利輝元と二の丸様の経緯の類似点


① 美しい姫の存在
② それを見た時の権力者からの求婚
③ 求婚の拒否(許婚の存在)
④ 権力者からの拷問(父親の鞭打ち、姫の井戸の中での蛇攻め)
⑤ 今際の呪い(姫山の麓で生まれる子どもに美人は生まれない)

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# by kfujiken2 | 2018-08-02 16:32 | 歴史 | Comments(0)

そ~だったのか戦国大名・毛利輝元が築いた「広島」 

広島市のシンボルといえば、やはり広島城・別名鯉城(りじょう)とも呼ばれています。長州藩の居城・萩城を築城した毛利輝元が築いた平城であるということに興味を引きますます。
原爆により歴史的建造物や資料は焼き尽くされても、干拓のよりつくられた土地は歴史的遺産として残っています。


広島に関しては、毛利輝元が広島城を築城し、関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって福島正則が城主なり、さらに浅野長晟が城主として繋げた位しか浅学で知識がありません!!!

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◆ 広島市の地名の由来


現在の広い市域を誇る広島の歴史は、小さな島や砂洲が深い入り江に点在した太田川河口のデルタに、城と城下町を築くことから始まりました。
一説では1589年(天正17年)の毛利輝元の広島城築城の鍬入れの時に遡ります。城主の毛利氏の祖先である大江広元から「広」の字を取りました。そしてこの地の豪族で普請奉行をしていた福島元永が城地の選定に際し手助けをしてくれたことから彼の名前から「島」の文字をとり「広島」としたと言われています。
もう一説では先に想像したように、広島市が太田側の三角州に位置することから「広い島」という意味でこの地名となったとされています。


◆ 中世からの歴史

南北朝時代から郡山城(広島県安芸高田市吉田町)を居城とし、一領主に過ぎなかった毛利氏。元就の代からは、中国地方のほとんどを支配するほどの戦国大名になりました。元就の孫にあたる輝元は、広大な領地を治めるには山あいの居城では不便であると考え、天正17年(1589)、当時五ヶ村(広島市中区基町)と呼ばれていた太田川の三角州に築城を開始。同19年(1591)に完成し、入城しました。当時の広島は、現在の旧市内(平成の大合併前の広島市)のほとんどが海で、輝元は、この築城を「島普請(しまぶしん)」と呼び、城ではなく「島」を造って、そこに「街」を造るという考えで、大がかりな干拓工事を展開。現在の広島市の原形が、このときにでき上がりました。広島城一帯にある「基町」の町名は、広島城がこの街の「基」であったことから付いたといわれています。今も広島の歴史の象徴として存在感を示す広島城。そこを起点に、広島に息づくさまざまな文化に触れます。

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毛利輝元が発案した平城・広島城。当時の天下人・豊臣秀吉が建てた京都の聚楽第や大坂城に刺激を受け、城下町と一体化し、政治・経済の中心地として機能する城を造ろうと考えたのが、始まりでした。
広島城の城郭構成は、本丸、二の丸の周りを内堀、中堀、外堀の三重の堀が囲み、三の丸、大手廓、北の丸、北の廓、西の丸などが配されていました。城の西側は本川(現・太田川)を天然の要害として活用。要所には92もの櫓を設けるなど堅固な守りを誇っていました。当時の天守閣は五重の天守閣を中心に、東西に2つの小天守閣が連なる連結式を形成。毛利氏の象徴として威厳に満ちた勇姿を見せていました。現在の天守閣は昭和33年(1958)に復元されたものです。

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毛利輝元が関ヶ原の戦い(1600年)で敗れ、徳川家康の命により周防・長門の2国に封じられた後、福島正則が新たな城主として入城。その18年後、正則は勝手に城を改修したとの理由で国替えとなり、浅野長晟が入城。以降、広島は浅野家の統治となりました。

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# by kfujiken2 | 2018-07-30 10:31 | 歴史 | Comments(0)

退院し我が家に帰って来ました p(*^-^*)q 万歳♪

退院にあたりリハビリの理学療法士の先生より、帰宅後の退院療養計画の話を承った。

先ず体組成測定の測定:全身チェック・体脂肪率判定・筋肉総合評価・脂肪総合評価の測定をやり、
現在の評価の説明を受け、毎日最低限のストレッチの実施のデモステを受けました。


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リハビリの理学療法士の先生曰く、腰の手術を受けた人は歩行訓練だけでは十分なリハビリとはいえない!!!
歩行訓練に併行して「腹直筋」・「内腹斜筋、外腹斜筋」を総じて腹筋や「大殿筋」を鍛える必要があるとのアドバイス。


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しかしね~ 腹筋や大殿筋を鍛えるに必要な毎日のストレッチって地味なんだよね~ 

継続させることって何よりも一番難しい。

『継続こそが力なり』ですよ 分かってるんだよ d(@^∇゚)/ファイトッ♪

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# by kfujiken2 | 2018-07-26 09:38 | 未分類 | Comments(0)

退院します (*ゝω・)ノ♥

ご心配をお掛けしましたが、25日に退院します。

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今日は17日振りにたかが10分程度ですが、外の風に触れました。
病院の中は27度と快適ですが、外は報道通りムッとして暑かったです。(テレビを通してでしか知りませんで!!!)
実社会の模擬体験で外での歩行訓練です。

一人で淋しいが、 カ ン パ イ

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# by kfujiken2 | 2018-07-21 12:23 | 未分類 | Comments(0)

術後11日目……

入院も第三コーナーに差し掛かりました。

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高熱(手術熱)が続き、膝に水が溜まったりで少し手間取り、
リハビリの開始が遅れたものの、歩行器なしでの自立歩行を始めています。

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手術前は、脊柱間狭窄症の自覚症状の一環で間欠性跛行(かんけつせい はこう)の為、
30分しか歩けなかったが、私の今回の最大の目標は、痛みを感じないで連続1時間歩行なんです。
10分間の歩行ならば、病棟の中を歩いたので検証出来ますが、1時間となるとどうして検証するのだろう?

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# by kfujiken2 | 2018-07-16 15:30 | 未分類 | Comments(0)

膝に水(関節滑液)が溜まり痛い

膝関節は、太ももの骨とすねの骨をつないでいる箇所です。この膝関節を包んでいる袋(関節包)の中に存在している液体を関節滑液と言います。一般的に関節液と呼ばれているこの滑液は、関節をスムーズに動かす重要な役割を担っており、いわば潤滑油のようなもの。実は、この滑液こそが膝にたまった水の正体なのです。つまり、人間だれしも膝に水は存在しています。水がたまる、というのは、何らかの原因で滑液が増えすぎてしまった状態のことなんです。

[儀痛風]って 聞いたことありますか?

偽痛風とは、発作の症状が痛風の発作に似ていることから付けられた病名です。
痛風は尿酸結晶による関節炎ですが、尿酸以外の結晶誘発による関節炎を総称して偽痛風と言います。主にピロリン酸カルシウムの結晶が原因となることが多いようです。
 偽痛風の発作は何の前兆もなく、かなり突然に関節または関節周囲が赤く腫れ、関節をあまり動かせないほどの急性炎症を起こします。化膿性関節炎でも同じような症状を起こしますので注意が必要です。その点痛風は痛みが強くなる前に、何かモヤモヤとした前兆のようなものがあり、発作前兆時に内服すると抑えることとも可能な場合があります。放置しておくと徐々に痛みはすすんで激しくなります。
 発作の好発部位は、痛風が足の親指の付け根の関節に多いのに対して、偽痛風では全身のいろいろの関節にも起こり、急に首が回らなくなることが起きるようです。ただ発作は、同時に多発しないでどこか1箇所の関節に限定して起こることがほとんどです。従ってリウマチのように少しずつ、いろいろな関節に続けて出てくることはないようです。しかもあまり頻繁に繰り返さないので、2年か3年たって忘れたころに、別の関節に出てくることも多いようです。
 偽痛風の発作の期間は、個人と関節炎の程度により大変異なると思いますが、治療が早ければ2,3日で楽になる場合から、1週間ぐらいで落ち着く場合が多いと思います。従って痛みが出て2,3日我慢をしておさまったので、病院に行かないで自然に軽快している場合もかなりあるのではないかと思われます。
 痛風は男性に比較的多く発症しますが、偽痛風はやや女性に多く発症します。
痛風は遺伝とか、アルコール、食事が大変影響しますが、偽痛風はあまり血液検査などでも異常が出ないことが多く、従って特別に生活習慣に気をつけたり、予防する方法はないようです。ただ幸いなことにあまり重篤になったり、頻繁に繰り返さないので、炎症が治まればほとんど無症状となり安心です。
 偽痛風の検査診断としては、レントゲン検査で関節軟骨の石灰化が見られたり、関節穿刺液でピロリン酸の結晶の存在を確認すれば診断はほぼ確実です。
症状が化膿性関節炎や痛風や他のリウマチなどの関節炎と似ているために、血液検査で尿酸やリウマチの無いことや関節穿刺液の培養や結晶の有無を鑑別のために調べます。
 偽痛風の治療は、関節穿刺で排液し、化膿性炎症でないことを確認できればステロイドの関節注射をし、冷湿布と局所の安静をして、鎮痛消炎剤の内服治療をします。
関節炎による関節の痛みが起きたら、我慢をせずに、早めに病院に行き診察治療してもらいましょう。


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# by kfujiken2 | 2018-07-12 12:34 | 未分類 | Comments(0)

手術から5日目

何時もお越し頂きポチをありがとうございます。

あなたの山口ブログの設置画面のポイントタグに、
au-net.ne.jp のタグが表示されると思います。
これは[長州より発信]が病院のタブレットからあなた様のブログに
私がポチしています。今まで同様今後とも宜しくお願い致します。

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# by kfujiken2 | 2018-07-09 14:16 | Comments(0)

手術後3日目

広島の浜脇整形外科病院でMEL(内視鏡下腰椎椎弓切除術)の手術をして今日で3日目。
傷口は小さいので大人しくしていれば、そんなに痛みは感じませんが流石に動かすと痛いです。
広島も豪雨で大変なことなってなってるそうですが・・・
病院の中にいるとテレビしか様子がわかりません!!!
夜中にパトカーが町の中を行き交ってるのがサイレンの音で分かるくらいですかね~
手術した当日5日と昨日は熱(手術熱と言うらしい)が38,5~38,8度位出て難儀しています。
昨日から歩行訓練のリハビリを始めました。

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# by kfujiken2 | 2018-07-07 07:29 | 未分類 | Comments(0)

広島市の評判の高い整形外科病院に明日入院します。

4年前某総合病院で腰のMRI検査を受け、軽度と診察されました。
しかし、先生に腰がすごく痛く、足裏にすごく違和感があり、30分位しか歩くことが出来ないと訴えると、今の段階では何をするすべもないと言われ4年経過しました。症状は序々に酷くなり辛い毎日でした。
そんな折、知人2人に広島市浜脇整形外科リハビリセンターの評判・実績を聞き、騙されたと思って一度診察を受けてみてはと紹介され、5月16日に浜脇整形外科リハビリセンターに行きました。驚いたことに整形外科の個人病院なのに、診察室が8室あり待合席が100席位あるではないですか!
6月13日に手術のお願いに行き、7月4日入院・7月5日手術を決め、6月18日に手術前検査を受けに行って来ました。


この病院は浜脇整形外科病院・浜脇整形外科リハビリセンター・はまわきデイケアセンターとグループで活動しています。

浜脇整形外科リハビリセンター・7階建整形外科全般の一般外来および脊椎・脊髄疾患、関節疾患、リウマチ、スポーツ障害などの整形外科医(12名) ・外来、入院、手術を同一の専門医が担当します。疾患別機能回復訓練の他、患者さんへの負担を軽減するためリハビリテーションプールを活用した水中運動療法も行っています。

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浜脇整形外科病院・10階建地域医療のニーズに真に応えるべく、診療部門として脊椎・関節・外傷の3つの専門分野を柱とし、浜脇整形外科リハビリセンターで診療を受けた人の手術を行い、160床の入院設備を完備し、電子カルテによる情報の共有化や、MRIやCTなどの画像を電子化し、様々な医療機器を使い検査を行っています。

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はまわきデイケアセンター:病院やクリニックでの勤務経験を持つ理学療法士や作業療法士、介護職員が、本格的なリハビリで利用者様をサポートしています。


【腰部脊柱管狭窄症】とは
詳しく説明をすれば色々うんちくはあるのですが、医学用語タラタラなので簡単に説明すると・・・
脊柱管(背骨の中の空洞)が狭くなり、神経が強く圧迫され、足腰の痛みやしびれとなって現れる病気で、50代から増えはじめ、高齢になるほど多くなります。脊柱管の内部は、加齢とともに狭くなる宿命にあるので、年を取るほど症状が現れやすくなるのです。最近は70歳以上の2人に1人が脊柱管狭窄症になる可能性があり、50歳以上の腰痛の最大原因と考えられています。


【症状】
腰背部痛・下肢痛・「しびれ」が主な症状です。腰部脊柱管狭窄症
による下肢痛は、腰椎椎間板ヘルニアにおける下肢痛ほどは強くはありません。また、腰部脊柱管狭窄症における下肢痛や「しびれ」は、安静時には軽度もしくは無症状ですが、歩行や直立の姿勢を継続すると悪化してしまい、腰を前に曲げて休むと下肢症状が軽減・消失するという、いわゆる「間欠性跛行(かんけつせいはこう)」とよばれる症状です。この間欠性跛行が悪化すると、連続して歩ける距離が徐々に短くなり、安静時の下肢痛や「しびれ」も強くなります。加えて、排尿や排便に障害が認められる場合もあります。



【手術】
MEL(内視鏡下腰椎椎弓切除術)
MELは内視鏡を使用した手術です。全身麻酔後に、腹臥位(うつ伏せの姿勢)で行います。背部に18mm程の皮膚切開し、内視鏡の管を通します。内視鏡の映像はモニタに映しだされ、医師はモニタを確認しながら、椎弓を切除し、肥厚した黄色靭帯を切除することにより神経の圧迫を取り除きます。MEDと比べると、やや出血量が多く、手術時間は30分~1時間ほどだそうです。
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# by kfujiken2 | 2018-07-03 11:36 | 未分類 | Comments(2)

変わりつつある徳山大学・・・その一環として「地域文化講座」

徳山大学の紙矢健治教授が協力し、2016年から取材して来られたテーマの番組・「明治の運命を背負った男 児玉源太郎」が4月29日(日)山口放送で放映されその番組を観て、徳山大学に興味を持ち、徳山大学のHPを見て「地域文化講座」を知りました。

前期(4月~7月)は月に3~5回、金曜日の13:10~14:40に開催されています。皆さんもよくご存知の毛利博物館顧問の小山良昌先生や萩博物館特別学芸員の一坂太郎先生が講師です。本日は「与謝野鉄幹と徳山・鉄幹とその周辺の人々」の演題で、周南市美術博物館学芸員の森重祥子先生が講師です。是非拝聴したいのだが、線状降水帯が通過するとかで大雨警報・竜巻注意報が出ているので、行こうか行くまいか思案しています。

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◆ 「地域文化講座」開催中(東ソー株式会社寄付講座)

東ソー株式会社のご好意による寄付講座「地域文化講座」が開催されています。地域の魅力をもっと知りたい、学びたい市民の皆様に学習機会を提供されています。

◆ 講義の概要

「私たちの住む『周南』っていったい何だろう?」その解答を「歴史・文化・地理」的な側面から探っていくことを目的に講座が進められています。 中世戦国時代~明治維新の歴史的側面や、周南地域の地理的な側面、周南地域の文化遺産である詩人・作詞家などの文化人の生い立ち、考え方、作品の創作の背景などを、それぞれの専門家から講演していただきます。

◆ 変わりつつある徳山大学
大学は「高等教育」をそこで学ぶ学生に提供する教育機関と考えられる。研究や社会貢献も重要な使命であるが、「高等教育」は大学及び専門学校等の教育機関のみが行える活動であり、研究や社会貢献は広く他の機関でも十分行われている活動であると考えられていた。

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その大学が少子高齢化、グローバル化、国家財政の悪化などを背景に、社会の期待に豊かに応えることができる、存在意義のある、活力に富む大学づくりを目指した改革が必要です。大学という存在が社会の中で大きく変化していく過渡期にあるためと考えられ、学部等の新設の動きは新たな大学像を模索する動きの一つと考えられる。


日本経済が高度経済成長の波に乗って著しい発展を遂げた後、昭和44(1969)年の第二次総合開発計画において日本列島改造論が提案され、「地方の時代」という言葉が用いられるようになりました。徳山大学は、そのような時代の流れの中、昭和46(1971)年、地方の時代にふさわしい文化都市の建設という地域社会の願いを背景に、当時の徳山市長の要請に基づく地元自治体の協力によって設立され、地域の企業の財政支援を受けつつその歩みのスタートを切りました。公設民営型大学の先駆けとして開学した徳山大学は、"地域に貢献できる人材の育成"をめざして、地域のみなさまとともに地域問題の解決に取り組むべく、研究体制の充実と教育の改革を進めています。
主体的な学びの場を「地域課題」の中に見出し、地域で頑張る学生たちの姿を市民や企業など広く社会が実感・共有する状況を実現することによって、徳山大学の学びへの信頼感を高め、地域コミュニティの"拠点"としての大学づくりを進めています。


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# by kfujiken2 | 2018-06-29 10:41 | 未分類 | Comments(0)

長岡外史誕生の秘話&幼少期・青年期の曖昧な説明が多い!!!

 長岡外史は長州藩の藩校・明倫館に入り、明治11年(1878年)陸軍兵学寮入学・臨時士官生徒となり、陸軍士官学校に入学してから順風満帆の人生は公開されていますが、誕生・幼少期・青年期のことが余り説明されていない!!!

①生誕地と誕生  ②幼少期  ③青年期 3つの疑問を検証してみましょう

1.先ず生誕地と誕生の秘話を検証しましょう・・・

 昨年9月に下松地方史研究会は堀トキの生家跡地に、「長岡外史生誕之地」という記念碑を建てたけれど、 柳井市天神並木通りの野村家跡地に「日本航空界と スキー普及の恩人 長岡外史 ここに生まる」と刻まれた石碑が立っています。朝日新聞DIGITALでは、「航空の父」生誕地どちら? 下松と柳井に石碑 というタイトルで記事があります。

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日本の航空機とスキーの普及に尽力した長岡外史(がいし、1856~1933)を「ふるさとの偉人」として広めようと、下松地方史研究会(田村悌夫〈やすお〉会長、175人)が今月、下松市内に生誕碑を建立した。ただ、同様の生誕碑は40年ほど前から柳井市にもある。本当はどっちで生まれたのだろうか?
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柳井市天神並木通りの長岡外史の生誕の石碑
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 徳山市栗屋村の庄屋・温品良左衛門次男である温品謙吉(小方謙九郎)と、隣村末武村「堀家」の堀トキとの間に一子をもうけた。 その一子が長岡外史である。しかし、堀トキは外史を妊娠中に柳井の野村家に嫁ぐ。月足らずで忠蔵(外史)を誕生、産後すぐに離縁される。忠蔵は生まれるとすぐ母親・トキから引き離され、その上、父親の顔も知らないまま、トキの伯母 梅子が嫁いだ守田彦右衛門(光市)に預けられるという、数奇な運命を背負って生きなければならなかった。
分からないのは、何故愛し合っていた温品謙吉と堀トキは結婚をしなかったのか? お互い農民という身分ながら庄屋の地位だったので身分違いはなく、問題というか壁はなかったと思うのですが・・・

※ 長岡外史のウィキペディアでは、父は大庄屋・堀三右衛門と記載がされていますが、登記がどんなになっているか知りませんが、「ゲスのかんぐり」と思われても仕方ないのですが、母の堀トキさんが独身の身であるゆえ出生届をする際、母親を筆頭者とする戸籍を新たに作る必要があるので、面倒だし周りを気にするあまり、自分の父親・堀三右衛門の子供として出生届を提出したのではないでしょうか?

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2.次に幼少期時代です。

 物心のつく年頃ともなると、手の付けられないほどのガキ大将に育ち、近所の人から守田の悪童といわれて成長した。それがもとで、8歳になるとトキの実家である末武村の堀家へ帰され、花岡にある寺子屋(石田塾)で漢学と和算を学んだ。師の石田圭三先生の言うことは不思議と聞いていたようです。
 忠蔵の実家・下の堀家は大庄屋、花岡勘場の勘場役人を務めていたが、父なし子としての運命を背負っている忠蔵のここでの生活は、決して恵まれてはいなかった。いつも孤独のなかで堪え忍ぶ一匹狼として生きるほか無かった。
 1867年(慶応3年)11歳の時、堀トキの伯父 小川文右衛門の媒介で、萩藩士の長岡弥九郎(のちの南陽)の養子になり萩に移ります。長岡弥九郎は萩藩士寄組・井原主計の家臣で、主君井原主計から昱輔(長岡昱輔源護朝)という名をもらって武士となり、門田塾で書画や茶道を学ぶ。だが子供心に描いた武士は昱輔の考えと違い、元来は百姓の子、長岡家といっても身分の低い陪臣ということもあって、塾に通う友達からは仲間外れにされることがしばしばで、この口惜しさはじっと耐えざるしかなかった。長じて名をなしたが不遇ともいえる父母の愛を知らない幼少期であった。


3.青年期の動向です。

 世は明治となって時代は変わり、「士農工商」制度が廃止されて四民平等となった。1870年(明治3年)14歳になった昱輔は、山口明倫館の文学寮小学舎に寄宿して勉強。ある日「日本外史」を暗誦しているところを旧藩主・毛利元徳公に認められて外史という名をおくられ長岡外史と改める。
時代が外史に活動の場を与えた。
明治8年世は正に維新の風雲時代。19歳の多感な外史は郷党である長州人の活躍をよそ目に見て、功名心に燃えて断りもなく家を出た。偶然臨時陸軍士官生徒を募集中というのを知り応募し、陸軍士官学校に入学た。


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# by kfujiken2 | 2018-06-22 10:47 | 歴史 | Comments(0)

多種多様な形式の庭園が揃っている漢陽寺

漢陽寺の庭園は、本堂及び書院を中心として、その四面に作庭されています。作庭の設計・指導は、日本庭園の権威、故重森三玲氏で、のべ10年の歳月をかけて完成しました。本堂裏側にある、潮音洞とよばれる水を引き込むトンネルからの豊富な水を利用した、流水及び池泉形式と枯山水庭園の組み合わせで様々な時代形式の庭園が作庭されています。三玲氏の作で、一つの寺院にこれほど多種多様な形式の庭園が揃っているところは珍しく、日本庭園の歴史が一覧できる、貴重な庭園となっています。

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城壁を感じらす白塀です。

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漢陽寺の「山門」

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参道左側にある「鏡池」の元気のいい鯉達です。

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さて、ここからが本番の庭園の紹介です。参道右手にあります。

◆ 曹源一滴(そうげんいってき)の庭 (桃山時代様式の庭園)

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北宋画の代表的な画家、玉澗(ぎょくかん)が創作した山水画の画風を日本庭園の様式に取り入れたことから玉澗式と呼ばれています。中央部の枯滝上部に高く石橋を架け、その下に鶴亀式の石組みを設け、上部の立石を蓬莱山にみせた、北宋画を思わせる構成となっています。


◆ 九山八海(くせんはっかい)の庭(書院東部・鎌倉時代様式の庭園)

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九山八海とは、仏教における宇宙観のことで、この世の中心には宇宙空間をも超えるような孤高な山があり、これを須弥山と名付け、その山の周囲を八つの山と八つの海が囲んでいる様を言っています。山畔下に築山を造り、鎌倉時代にみられる立石を中央に組み須弥山に見たてた、力強い豪快な庭園です。


◆ 蓬莱山(ほうらいさん)の池園(書院裏・鎌倉時代様式の庭園)

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漢陽寺北部の山裾を利用し苔地の築山を造り、潮音洞の水を分流させた流水式の池庭となっています。 石組みは蓬莱山の手法を用い、鎌倉期を思わせる力強い構成となっています。


◆ 地蔵遊化(じぞうゆうげ)の庭(中庭・平安時代様式)


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中心から同心円が描かれているので石の配置がわかりやすいです。地蔵菩薩が子供と遊戯する様を平安様式の石組みによって表現したものです。枯山水の様式を用いながら、動的な表現を狙いとしています。また、四方のどこからでも眺めることが出来る珍しい庭園です。


潮音洞

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本堂裏山の潮音洞は、山口県指定文化財である。これは、1654年(承応3年)に、時の代官であった岩崎想左衛門重友が、鹿野村一帯の繁栄のために、錦川上流の水を引くために造った導水路です。本流からの水路200m、裏山90mのトンネルを経ての清らかな水が、300年以上もこの地を潤しています。


◆ 曲水の庭(本堂前庭・平安時代様式遣水形式の曲水庭園)

山門をバックに西側から東側の眺め


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法堂をバックに東川から西側の眺め

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◆ 本堂内部


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# by kfujiken2 | 2018-06-17 13:32 | 風景 | Comments(0)

森林セラピーを求め「重源の郷」へ

「重源の郷」とは

平安末期、東大寺再建に尽くした重源上人のテーマパークです。
1998年(平成10年)4月に開園した体験交流公園で、天然の地形を生かして、昔ながらの山村風景を再現しており四季の花に応じてイベントが開催されたり、工房では藍染・機織り・紙漉きなど伝統的な民芸細工を体験することができるのが魅力です。

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「重源の郷」の散策

重源上人の銅像が迎えてくれます。
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駐車場の側にある「歓迎館」は、郷の案内所とおみやげ処となっています。この建物の前がクラシックバス[ボンネット型バス]の発着所で、入口の「歓迎館」から郷の中心部「とくぢ浪漫」を結んでいます。

先ずは茅葺き屋根の「ふれあい工房」・藍染め工房を視察。
藍染めは名前のとおり藍色の染色を行うことで、色が褪せにくいという優れた特徴を持っています。
日本では奈良時代から続いていて、歴史江戸時代には最も多くの藍染めが行われていました。


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ふれあい工房の全景です。茅葺き屋根にコケが
生えています。

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江戸時代に庄屋さんが住んだ館を模して建てられた
「庄屋」です。

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庄屋の建物内にあるお食事処「花ひとえ」。
でっかいちょうちんスタイルの照明が風流です。

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郷に咲いている花を少しお見せしましょう。
咲き始めですが紫陽花ロードです

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ムラサキツユ草
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ナツツバキ(夏椿)

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「重源上人と徳地の深い関係」

平安時代末期(1180年)源氏と平家の戦いにおいて、平重衡(たいらのしげひら)の率いる軍勢により、東大寺が焼失しました。その後、朝廷の命で俊乗房重源上人は、再建のため大木を求めて徳地の山々を駆け巡りました。俊乗房重源上人((しゅんじょうぼう)は、61歳という高齢で『大勧進職』に任名され、東大寺再建の指揮にあたりました。
重源上人は、人々の協力のもと、この徳地地域一帯から東大寺再建のための用材を伐り出しました。伐採した木材は、陸路を人力で川岸まで運び、川の流れを利用して運びました。杣山の道づくり・橋架け、伐採や運搬は困難を極め、人夫の負傷の治療や疲労の保養など、その苦労は大変なものでした。

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# by kfujiken2 | 2018-06-12 10:20 | 風景 | Comments(0)




山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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