ノーベル賞レベルの線虫によるガン検査「N-NOSE」が開発された


線虫によるガン検査「N-NOSE」を開発したのは、広津崇亮(ひろつたかあき)氏です。

プロフィールを簡単にご紹介します。
山口県生まれとあるが、どこの町の生まれか分からない。
灘高校・開成高校に続く偏差値 78の第3位東大寺学園高校[私立/男子/奈良]を卒業し、東京大学理学部生物学科卒業だそうです。九州大学大学院理学研究院生物科学部門の助教を経て現在、株式会社HIROTSUバイオサイエンスを設立し、代表取締役に就任され、研究を重ねておられます。



現在、がん検査は、5大がん検査、CT、MRI、エコー、PET‐CTなどが存在しますが、「安価」「全身網羅的」「簡便」「高精度」「早期発見が可能」「苦痛がない」という利点を併せ持つ〝1次スクリーニングがん検査〟はありません。
線虫がん検査『N‐NOSE』は、上記の利点をすべて満たす、これまでにない全く新しい検査です。全身網羅的にがんの有無が調べられるので、陽性だった場合のみ次のステップ(精密検査)へ進み、陰性なら他の様々な検査は受けずに済むという利点もあります。

※陰性の場合は、その後も定期的にN-NOSE検査を受けることで、万が一がんになっても早期発見することができ、治療や医療費の負担を劇的に減らすことができます。


◆ 線虫がん検査「N-NOSE」の説明をしましょう・・・

現状では、専門の研究者がいないと線虫による検査はできない。世界中でこの手法を活用できるようにするには、自動解析装置の開発が不可欠だった。そこで広津社長は医療機器の開発に強みを持つ日立製作所と手を組んだ。

日立製作所は今年4月、新しい仕組みのがん検査装置を試作したと発表した。日立の試作機で核となるのは「自動撮像・画像解析システム」だ。強い光を当ててシャーレを撮影し、反射の度合いで線虫の分布を計測する。人間の尿をシャーレに載せると、その人ががんに罹患しているか、高い確率で判断できるようになる。
この装置で尿を分析しているのはセンサーなどの機械類ではない。「シー・エレガンス」と呼ばれる体長1mm程度の「線虫」だ。取り扱いが容易で大量培養できることから、科学実験などに幅広く使われてきた。この線虫の特徴は、人間の100万倍ともいわれる犬と同等か、それ以上に優れた「嗅覚」を持つこと。目がない代わり、鋭敏な嗅覚で餌を判別して近づいていく習性がある。



体長1mm程度の線虫「シー・エレガンス」をシャーレの中心に配置し、人間の尿を垂らして検査開始


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がん患者の尿の場合、これに含まれる何らかの成分にひかれて線虫が近づいていく

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健常者の尿からは離れていく。がん患者の尿を餌、健常者の尿を外敵と判断している可能性がある

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※ 線虫がん検査 N-NOSEのメリット


線虫ガン検査「N-NOSE」は、1滴の尿を使って嗅覚が優れている線虫が、がんがあるかどうかを、スクリーニングするというものです。
線虫は健常者の尿からは離れるのですが、がん患者の尿には寄っていくのだそうです。尿を採取するだけなので、痛みが伴わないので、簡単で負担も少ないのが特徴です。また、尿の採取にあたり、前日の食事制限等も不要。
検査結果がわかるのが約1時間後と早い。
PET-CT等の医療機器と比べ、断然安く、発展途上国での導入も可能。


※ 線虫が反応することが分かっているがんは

胃がん、大腸がん、膵臓がん、食道がん、胆嚢がん、
胆管がん、前立腺がん、乳がん、肺がん、盲腸がん



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株式会社HIROTSUバイオサイエンス
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# by kfujiken2 | 2019-02-20 14:11 | 未分類 | Comments(0)

天皇の神格化



今年4月30日に天皇陛下が退位され、5月1日に皇太子殿下が新天皇に即位され、元号が改元されるに辺り、天皇とは日本国民統合の象徴たる地位で、天下人で雲の上の人という意識位しかなく、天皇の称号の由来と歴史を知らず、余りにも無知だったことに気付き少し調べてみました。


◆ 歴代天皇の確定

歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、歴代天皇は初代神武天皇から今上天皇まで125代・123人という現在の歴代天皇の形が確定している。
この125代のうち、第37代斉明天皇は第35代皇極天皇、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇、それぞれ重祚(ちょうそ)(一度退位した天皇が再び位に就くこと)であるため、総数は123人となっている。
ところが実在だったのか伝説もしくは架空の天皇なのかがたびたび議論されています。 単純に神武天皇と欠史八代を抜かしてもそれ以降の天皇にどれだけ実在性があるのかどうかわかりません。系譜の明確性や在位期間の明確性などの考証を天皇の実在性含めるとさらにややこしい事になります。
初代神武天皇~9代開化天皇までは、「実在の可能性は低い」と言われています。歴史学的に実在した可能性の高い最古の天皇陛下は、10代崇神天皇です。15代応神天皇以降は、実在の可能性が高いとされています。


※ 欠史八代 (けっしはちだい)とは:『古事記』・『日本書紀』において系譜は存在するがその事績が記されない、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと。

※ 古代天皇の寿命が100歳越えと異常に長いのは : 1年を収穫時期でカウントしていたので、
2倍年歴としていたので今の1年が2年に該当する。
10代:崇神天皇 119歳  11代:垂仁天皇 139歳  12代:景行天皇 143歳
16代:仁徳天皇 143歳


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◆ 天皇の称号の由来と歴史


古代日本では、ヤマト王権の首長をオオキミ(大王)といったが、天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった。
奈良時代~平安時代には政治・祭祀の頂点だったが、摂関政治・院政・武家の台頭により政治的実権を失っていった。
室町時代には多くの宮中祭祀の廃絶もあり劣位となったが、「江戸時代末に尊王論が盛んとなり、王政復古、明治憲法における天皇制へとつながった」という。
大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には元首の規定はなく、
そのため元首について様々な見解がある。象徴天皇を元首とする説、実質的機能を重視し内閣(または首相)を元首とする説、元首は不在とする説等がある。
学説の多くは、条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣を元首とするか、行政権の首長としての内閣代表の内閣総理大臣を元首としている。

日本の歴史においても天皇の祖先の記載ははっきりしない。初代の神武天皇は天照大御神の子孫で、紀元前660年に即位したとされているが、
実際に文献が登場するのは第10代の崇神天皇からである。日本の初期の歴史に空白があることから、日本や海外の歴史家の間では天皇の祖先は現地人ではなく、中国人あるいは朝鮮人だとする見方が有力だ。中国にも、「神武天皇は秦の始皇帝が派遣した徐福だ」とする説が存在する。

日本という国は神々がこの地に降り立った「天孫降臨」から始まりますね。
天照大御神が瓊瓊杵尊を遣わして国造りを命じた。
神々が紆余曲折乗り越えてようやく国を造り、初代天皇が即位した。
神武天皇が即位した日が日本の始まり、つまり建国の日となり現在の「建国記念日」になりました。
日本神話において、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。
邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。
途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をし、邇邇藝命は筑紫の日向(ひむか)の高千穂に降り立ったという、『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。


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◆ 天皇の雑学

皇室の歴史を見てみると神武天皇が実在しているか?という議論もありますね。日本の天皇家は世界で最も長い歴史を持つ王室ですが、私たち日本人のほとんどが皇族に日本以外の血が入っているって考えたことはないと思います。
ですが以前、陛下が会見の席で歴代の中に朝鮮の血を引く女性を生母持つ人がいたと語ったことで、日本以外の国をルーツに持つということが表面化したのが始まりで物議が起きたのです。
それは第50代桓武天皇のことなんですが、実のお母さんが百済の武寧王の子孫だそうです。そんなことが露呈すると日本の皇室のルーツが韓国にある!という話が浮上したということなんですが、実際にはこれは事実ということで続日本紀に記されていると。このお母さんというのは渡来系氏族の和氏の出身で高野新笠というそう。
737年(天平9年)生れの 「桓武天皇」の母君 高野新笠(たかの の にいがさ)様は百済系渡来人の家のご出身です。


◆ 天皇に舐めた事言ってんじゃないよ
韓国の文喜相国会議長が慰安婦問題をめぐり、天皇陛下が謝罪すれば解消されるなどと述べたことに際し、謝罪することではない。私がした話は持論であり、根本的な解決方法だと今でも考えていると述べ、日本政府が求める謝罪と撤回を拒否しているのは、特に理由があるのか?

天皇陛下について「戦争犯罪の主犯の息子ではないか」とも述べた。
日本国および日本国民統合の象徴でいらした昭和天皇と天皇陛下への誹謗は、日本の国と国民を中傷することでもある。それが分かっているのか?

日本軍は占領地域において,軍規の維持や兵士による性犯罪の抑止のため,慰安所を利用した。慰安所は中国各地に百数十~二百数十,フィリピン,ビルマ,インドネシアなど東南アジアにも 100以上が設けられたとされる。慰安所の建設,経営,監督,衛生管理,そこで将兵の相手をする慰安婦の募集・渡航などに日本軍が関与したと指摘され,問題となった。
慰安婦は当時合法とされた公娼であり民間業者により報酬が支払われていたこと、斡旋業者が新聞広告などで広く募集をし内地の日本人女性をも慰安婦として採用していたことなどから国家責任はないとの主張がある。
日本における慰安婦とは軍と契約した慰安所のプロの売春婦であることである。 当時は公娼制度があり、法律で認められた管理売春が合法的に存在した。

慰安婦募集広告には「月収300円以上」と書かれています。当時、一般日本兵の月給は15円~20円、陸軍大将の月給は550円。いかに高額だったかが分かります。

日韓条約と共に1965年に締結された「請求権の解決並びに経済協力に関する協定」により5億ドル(無償3億=1千80億円、有償2億=720億円)の経済協力資金が韓国に供与されたが、従軍慰安婦の補償には一銭も宛がわれなかった。
その理由の一つは、日韓国交交渉で従軍慰安婦問題が議題に上がらなかったことにある。
日本政府は韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団(「和解・癒やし財団」)に10億円拠出することを約束し、2016年8月31日に履行した。「和解・癒やし財団」は日本からの拠出金をもとに、慰安婦への現金支給を行った。2016年10月時点で、存命中の慰安婦46人中36人が支給済または支給の手続き中で、既に死去した慰安婦に対しては、35人の遺族が引き取りを表明した。

# by kfujiken2 | 2019-02-15 12:46 | コラム | Comments(0)

ホテルのバイキングランチ



【ホテルサンルート徳山】のブッフェ形式のランチに行って来ました。

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店内奥のライブキッチンでは、目の前でシェフが調理した料理を、出来立てで食べることが出来ます。

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メニューもおよそ80種類ほどあり、和洋中とバラエティー豊か!
魚から肉、野菜もたっぷりでどれを食べようかと迷います。
家庭の食卓にはなかなか並ぶものではないので、レストランならではのメニューです。


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一組の夫婦連れがおられましたが、殆んどがママ友やおばさんグループの
女性達です。男には場違いな違和感を覚えます。


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# by kfujiken2 | 2019-02-10 09:35 | 未分類 | Comments(0)

亥年は荒れる・・・



亥年は大地震・火山噴火など大災害が多いと言われていますが、今年はごった返す1年になりそうです。


猪は一見獰猛(どうもう)そうに見えるが、実はその性格はいたって臆病です。
そのため、人のいない夜間に活動をする。一夫多妻で繁殖力も旺盛であり、
春に4~5頭ほどを出産し、そのうち半数が育つという。
また、ご存知のとおり、走るスピードは早く、突進した時の破壊力はもの凄いものがある。時速50キロで走るというから、体当たりでもされたら大怪我は必至です。“猪突猛進”の言い伝えどおり、走り出したら止まらない。
過去を振り返ってみると、亥年は、この動物の特徴が現れている年のようなのです。戦後の亥年は、1947年(昭和22年)に始まり、今年で6回目を迎える。


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今年は既に自然災害ではないが国事や国際情勢において、「TPP11」が2018年12月30日発効、日本と欧州連合(EU)の経済連携協定(EPA)が2月1日に発効、英国のEU離脱、天皇陛下の退位、皇太子が新天皇に即位、元号を平成から新元号に改元、消費税率引き上げ等が決定しています。

過去を顧みますと、明治以降の亥年の出来事で・・・

1923年(大正12年) 関東大震災
1947年 昭和22年 カスリーン台風  (関東地方や東北地方に大きな災害をもたらした台風9号)
1959年 昭和34年  伊勢湾台風
1971年 昭和46年 ニクソンショック  (ニクソン大統領が金とドルの交換停止を含む一連の経済政策を発表した出来事です)
1983年 昭和58年 秋田県沖地震
1995年(平成7年)  阪神淡路大震災  地 下鉄サリン事件
2007年 平成19年 能登半島地震 新潟県中越沖地震



◆ 日欧EPA発効でこう変わる(2019年1月)


日本と欧州連合(EU)の経済連携協定(EPA)が2月1日に発効し、世界貿易の約4割を占める巨大な自由貿易圏が誕生する。相互に貿易品目の9割超の関税を撤廃し、通関手続きなどを簡素化。知的財産権の保護を厳格化する共通ルールなども導入される。小売業界では早くも関税削減による仕入れコストの減少を見込み、欧州産ワインの値下げを始めており、消費者が価格低下の恩恵を感じる機会も増えそうだ。

※ EPA(経済連携協定)  : 物流のみならず、人の移動、知的財産権の保護、投資、競争政策など様々な協力や幅広い分野での連携で、両国または地域間での親密な関係強化を目指す協定。

※ 欧州連合 : 欧州連合の前身である欧州共同体は当初、6か国が加盟して発足したが、2013年7月にクロアチアが加盟したことにより以下の28か国が欧州連合に加わっている。
フランス・ ベルギー・ デンマーク・スウェーデン・ チェコ・エストニア・マルタ
・ドイツ・ルクセンブルク・ギリシャ・フィンランド・スロバキア・ラトビア・ルーマニア・イタリア・イギリス・スペイン・オーストリア・ハンガリー・リトアニア・ ブルガリア・オランダ・アイルランド・ポルトガル・ポーランド・スロベニア・キプロス ・クロアチア


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◆ TPP(環太平洋パートナーシップ協定)


2006年5月に環太平洋地域における経済連携協定として シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4カ国加盟でスタートした。
アメリカ、オーストラリア、ベトナム、ペルーが参加を表明し、 次いで、マレーシア、コロンビア、カナダも参加の意向を明らかにした。
物流のみならず、人の移動、知的財産権の保護、投資、競争政策など様々な協力や幅広い分野での連携であるが貿易関税などに例外を認めないで関税の撤廃を目指す協定である。

米国を除く11カ国の環太平洋経済連携協定「TPP11」が2018年12月30日発効した。2019年2月1日には欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)も発効する。貿易戦争を繰り広げる米中を横目に、域内の工業製品や農産品の関税は段階的に引き下げられ、投資や知的財産権保護など高水準のルールを定めた。世界の国内総生産(GDP)の約13%を占め、総人口で約5億人を抱える巨大な自由貿易圏が、アジア太平洋地域に誕生する。
TPPにより将来的に日本の関税撤廃率は約95%、他の10カ国は99~100%。食品の値下がりは家計にプラスとなり、輸出にも追い風となる。政府の試算によれば日本のGDPが年7兆8千億円押し上げられ雇用は約46万人増える。ただ、安い農産物の流入は国内農業には試練となる。



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中国が参加していないのは偶然ではありません。ある意味では、TPPは中国をけん制するための道具であるとも言えます。
つまりそれぞれ勝手な思惑や利害を抱いているTPP参加国をひとつにまとめているのは、中国に対する抑止力という、いささか政治的な動機なのです。

# by kfujiken2 | 2019-02-05 09:46 | 未分類 | Comments(0)

”西のお伊勢さま” 山口大神宮



以前から気になっていた伊勢神宮と同様の神明造りの社殿は風格があり、格式の高さを感じる山口大神宮に、遅ればせながら先週参拝に行きました。
一つ難を言えば、山口大神宮自体の駐車場が小さいということです。県庁外来駐車場が開放されており、駐車することが出来るようですが、一寸離れていますよね~
それにしても凄い人混みで、その上少林寺拳法の鏡開きでしょうか? 社務所や通夜堂あたりは少年拳士と親御さんで ごった返していました。


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山口大神宮の由緒

永正17年(1520年)、大内氏30代目の大内義興が伊勢神宮の神霊を勧請して創建したものである。伊勢神宮から直接ご分霊を受けて皇太神宮社が創建されたのは明治以前には山口大神宮以外にはありませんでした。
そのため、江戸時代には西の伊勢参りとして九州や中国地方から多くの参拝者が訪れたそうです。境内の中ほどにある神楽殿(拝殿)から階段を上がった所に内宮と外宮があり、伊勢神社と同じく式年遷宮がここでも行われています。



山口大神宮の社号標

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第一鳥居・長州藩主毛利氏寄進の古い鳥居


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主祭神がいらっしゃる内宮と外宮へ。
そこへと向かう参道は、これまで進んできた参道とはまた違う神聖な空気が漂っています。
第二鳥居を抜けてこの石段を登ると右手に神楽殿(拝殿)があり、更に階段を上がった所に内宮と外宮があります。なんというか独特なレイアウトで、とにかく広さを感じます。


第二鳥居

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神楽殿(拝殿)

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内宮と外宮の全景

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外宮は天照御大神のお食事を任されている豊受大御神(とようけのおおかみ)が祀られています。

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内宮は天照御大神(あまてらすおおみかみ)が祀られております。


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# by kfujiken2 | 2019-01-25 10:56 | 未分類 | Comments(0)

飛鳥時代(7世紀)の代表的な遺跡【大日古墳】


防府市高井大日の佐波川右岸、西目山山麓の標高約25mの丘陵上にある古墳時代の前方後円墳。全長約45m、前方部の幅約20m、後円部の径約19m。後円部に横穴式石室がある。
石室は花崗岩の割石で作られ、棺を納めておく玄室と、玄室と外部をつなぐ通路に当たる長さ約9.3mの羨道(せんどう)とからなる。玄室は奥行き3.6m、幅2.1m、高さ2.5mで、玄室のほぼ中央に凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式屋形石棺が据えられている。その形状から、7世紀中葉の終末期古墳の一つと考えられている。山口県で出土した家形石棺は例が少なく、考古学上も貴重である。
1948年(昭和23)に国の史跡に指定された。江戸時代に発掘されたが、すでに副葬品は残っていなかったという。被葬者については、大内氏の祖とされる琳聖太子(りんしょうたいし)の墓とする伝承や、当地の県主(あがたぬし)であった土師連猪手(はじのむらじいて)とする説があるが、定かではない。


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所在地・・・防府市高井大日の佐波川右岸

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公道から古墳までの通路

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古墳の入口


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玄室(棺を納めておく室)と外部をつなぐ通路(約9.3mの羨道(せんどう))


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県内で唯一の刳抜(くりぬき)式家形石棺


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◆ 琳聖太子 : 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は周防で最有力の実力者となり、大内介と名乗り以降歴代の当主もこれを世襲した。しかし 琳聖太子という人物名が 、当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く 、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した 大内家の自作自演との説もあり 真偽は謎である。
『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には 琳聖王子の 『降星伝説』が残っている 。



◆ 土師連猪手 : 飛鳥時代の人物。埴輪の製作や陵墓の造営に従事し,また,大王の喪葬儀礼に関与した古代の氏族。周防国府の役人の中にも名前が見られ、松崎天神をつくったのも土師氏です。
# by kfujiken2 | 2019-01-22 09:24 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮 その3


石段を登り切ると正面に防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門があり、下を潜ると拝殿が目の前に現れます。拝殿に参拝し左手に進むと、たくさんの絵馬が飾られてある奉納所があります。ひとつひとつ見てみると、多くが志望校への合格祈願です。これから受験シーズンにかけて、多くの受験生が学問の神さま・道真公のもとに合格祈願にやってきます。
さらに左に「春風楼」がある。一見能楽堂か展望台のように見えますが、神事をする際の待合所というか、参拝客が休憩する場所のようなもので、古くは「通夜堂」といい、「参籠所」「お籠堂」とも呼ばれた。
客殿背後の園に7代藩主毛利重就(しげたか)公像と野村望東尼の碑があります。


◆ 防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門

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◆ 合格祈願の絵馬
1年間に奉納された絵馬は約4万枚位あるらしいです。12月25日の「絵馬焼納神事」で焼かれるそうです。

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◆ 春風楼

十代藩主毛利斎煕が社頭に五重塔の建立を思い立ち文政五年(一八二二)六月大専坊に於いて地鎮供養の祈祷をし釿始の儀を行ったが、資金調達中、天保二年(一八三一)不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った。
その後、塔の設計を現在の重層の楼閣様式へ変更して明治六年(一八七三)に完工した。この楼の床下の木組は文政年間着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組物を使用したもので、当時の面影を偲ぶに充分である。


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春風楼足元・・・五重塔の基礎部分
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◆ 7代藩主毛利重就(しげたか)公像
萩藩の歴代藩主の中で、最も防府と結びつきが大きいのが、7代藩主の毛利重就です。又、輝元・第13代藩主の敬親と同様に名君と言われた一人でもありました。
ふくれあがった財政赤字を立て直すために、まず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させた。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。


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◆ 野村望東尼(ぼうとうに)の碑
野村望東尼は、福岡藩士の三女として生まれ勤王活動に身を投じる。福岡の平尾山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。
高杉晋作をはじめ勇猛果敢な英才たちが、性差を超え人として崇めていたのが望東尼である。高杉晋作の末期の水を取った人とも言われています。


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# by kfujiken2 | 2019-01-20 09:43 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮 その2

長い石段を上っていく途中、左手にあるのが大専坊(だいせんぼう)跡といって毛利の時代には本陣になった所です。右手に茶室芳松庵と暁天楼があります。たかが57段の石段が、運動不足の我々にはされど57段の石段でキツいです。


◆ 毛利元就の参謀本部だった ~大専坊跡~

運良く特別公開される日に巡りあい、大専坊を観ることが出来ました。
明治元年(1868)まで大専坊・円楽坊(えんらくぼう)など9つの社坊(しゃぼう)が参道をはさんで並んでおり、酒垂山満福寺(さかたりさんまんぷくじ)と総称されていた。その中でも大専坊は、9社坊を支配する別当坊であった。また、防府天満宮の神事を主宰するなど神社経営にも大きな役割を果たしてきた。
しかし、明治元年の神仏分離令によってすべての社坊が廃され、民間に払い下げられた。この坊は弘治3年(1557)毛利元就が大内義長を山口に攻め、これを長府で自刃せしめて防長両国を平定するまで元就の参謀本部となりました。また尊皇攘夷で激動した幕末にはこの地方を警固する諸隊の屯所となりました。昭和63年(1988)に県指定の史跡となりました。


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先ずは入門から見て頂きましょう

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門から見た建物の玄関

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玄関を上がり左側の間取りです

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東側にガラス戸があり、昔は廊下だったのであろう??? 
幅が一間あります


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廊下の欄間になるのでしょうか? 大内氏の家紋の菊大内菱が彫刻されています


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一番奥の間です

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◆ 維新の志士たちの息づかいが感じられる場所 ~暁天楼(ぎょうてんろう)~


二階建ての古めかしい建物を「暁天楼」といいます。もとは天満宮門前宮市にあった宿「藤村屋」の離れだったもので、藤村屋の廃業にあたり天満宮に寄贈され、のち老朽化に伴い解体されましたが、昭和59年(1984)に藤村屋の子孫のかたにより現在の場所に絵図面にしたがって復元されました。
当主は勤皇の志が篤く、また宿のもてなしがよかったためか、坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら、維新の志士たちもしばしば利用したそうです。
建物の1階は漬物小屋として使われていたため土間で、2階(通常は閉鎖)は6畳間が2間あり、板張りの広縁が2間を囲む形で2方向に巡らされています。この2階に上がる階段は実は隠し階段になっており、維新の志士たちが、いざという場合には息をひそめて隠れていることのできるこの場所で密談をしたのだろうという想像が現実味を帯びてきます。
復元前の2階の床柱には刀傷がついていたそうですし、戸袋には墨で勢いよく書かれた落書きがあり、これは坂本龍馬の手によると言われています。また、「暁天楼」の名前は、旧来「適義楼」と呼ばれていたものを、訪れた山県有朋らが改めたといいます。

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「暁天楼」の全景です

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隠し階段が見える東側からの光景です

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◆ 毛利の戦いや幕末の志士達を目撃した証人 ~防府天満宮御神木~

巨木とは地上から約130㎝の幹周が3m以上の樹木(環境省)とされています。しかしそれだけでは木霊の宿った御神木とは言えません。
樹齢が推定800年、幹周が5.6m 高さ27.5m 葉張36mの巨木です。
境内にはほぼ等間隔に並んでクスの巨木が三本ありますが、その中心をなすこの楠は防府天満宮の御神木です。
見上げれば亭々として天にそびえ四方に広げる太枝は大地を覆い、根張りは太く堂々たる威風を備えて樹勢・樹形とも美しい周防一の美楠の巨樹です。
人の世を超えて千年の後の世まで私たちを見守る天満宮の生命力溢れる木霊を宿しています。


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話が長くなるので「今日は、ここらで、よかろかい」・・・
次回は防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門をくぐり、拝殿に参拝を済ませ左手にある「春風楼」から説明します。

# by kfujiken2 | 2019-01-17 11:16 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮

防府天満宮の暁天楼(ぎょうてんろう)と大専坊跡(だいせんぼうあと)が見たく、初詣を兼ねて参拝に行って来ました。何度も訪れている防府天満宮ですが、何時もは神社の裏側の駐車場を利用するので、表参道の石段を登って参拝したことがありませんでした。今回は初詣の時期が少しずれているので、多少空いていると思い表参道から参拝しました。

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まちの駅「うめてらす」を左に見ながら、表参道の石鳥居をくぐり萩狛犬さまの横を通り過ぎると、表参道の中段でチェーンソーアートのえと「亥(い)」にちなんだ「干支の御柱(おんばしら)」が迎えてくれました。

表参道の石鳥居

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寛永六年(一六二九)に初代藩主毛利秀就の寄進により建立したもので、奉納年が刻まれたものでは県下最古の鳥居。柱は太く、転びが少なく円柱状で、上部においてややすぼんでいる。形式としては明神鳥居であるが、柱脚には礎盤がなく、堀立て柱形式をとる。

豪華な台座に座している萩狛犬といわれる萩で造られた狛犬

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チェーンソーアート
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えと「亥(い)」にちなんだ「干支の御柱(おんばしら)」

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「今宵は、ここらで、よかろかい」・・・
次回は今回の探訪の本命「暁天楼と大専坊跡」を説明します。

# by kfujiken2 | 2019-01-15 14:16 | 歴史 | Comments(0)

降松神社と鷲頭寺の関連・・・下松の地名のルーツ



降松神社と鷲頭寺の説明に入る前に、下松に立ち寄られ下松の地名のルーツになり、鷲頭寺を開かれたとされといわれている琳聖太子について、少し説明しましょう。。。

◆ 下松の地名のルーツ

下松は昔、青柳浦と呼ばれていました。
「大内氏実録」の下松妙見縁起によると・・・
「推古天皇(女帝)の3年(595)9月18日、都濃郡鷲頭庄青柳浦の老松に大きな星が降りかかり、7日7夜の間、目もくらむばかりに光り輝いた。里の人は、これはただごとではない」と恐れていた。その時、占いをする人に神がかりしてお告げがあり、 「われは北辰の精である。今より3年の後、異国の太子が来朝される、その守護の為、ここに天降ったのである」と告げた。里の人々は、急いで社を建てて、その星を北辰尊星王大菩薩として祭り、里の役人はこれを時の天皇に伝えたという。
北辰の精が松の木に降ったというので、それまでの青柳浦を「降松」と改め、その後、今の「下松」と書くようになったといわれている。この異国の太子とは百済王聖名の第三子、琳聖太子といい、大内氏はその子孫と伝えられている。
下松駅の北口、北斗町の町の中に立っている一本の松を、「かなえの松」という。下松地名の起源となった七星降臨の松といわれ、その木の下に、降臨の星を祀ったという金輪社がある。


◆ 降松神社と鷲頭寺の関連


大内氏の祖、琳聖太子によって開かれたとされる古刹が妙見宮鷲頭寺(みょうけんぐうじゅとうじ)です。 大内氏の氏神として栄えるとともに妙見信仰発祥の宮寺といわれています。


595年(推古3年)、青柳浦の松に大星が降臨し、七日七夜輝き続けて琳聖太子の来朝の守護を託宣した。597年(推古5年)、百済国王子の琳聖太子が来朝し、神霊を桂木山に祀った。603年(推古11年)、高鹿垣山(現在の茶臼山)に遷座した。さらに609年(推古17年)、遷座して鷲頭山(下松市河内)に上宮と中宮を建立した。琳聖太子の後裔である大内氏の庇護を受けた。のち大内弘世が下宮を建立し、七坊を置いた。大内氏の滅亡後は毛利家の崇敬を受けた。1608年(慶長13年)、火災により、上宮と中宮が中宮本殿を残して焼失。明治12年維新政府の神仏分離が行われ、別当七坊が廃絶となり唯一別当閼伽井坊が転出して鷲頭寺となった。鷲頭寺は、元は、『降松神社』の別当閼伽井坊だった。明治12年にあの維新政府の神仏分離令の際に、降松神社(下松市吉原)から現在地(下松市中市)に移転した。ただ、興味深いのは妙見宮鷲頭寺のような、現在もなお神仏混淆(しんぶつこんこう)形態を維持している寺社があることで、これは全国的にもきわめて稀なケースである。もちろん、移転後は僧侶と宮司と両方がいるのではなく、住職が僧侶役と宮司役の一人二役を務め、すでに近世の形態そのままではない。
日本の節分祭発祥の地ともいわれている。降松神社は妙見信仰の発祥の地とも言われている。


お寺なのですが、鳥居があり民家にのめり込んでいる!  摩訶 不思議???
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仁王門に通じる参道
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「わらじ」への願い
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【わらじの功徳】
仁王様に威徳公大にして息災延命
を授け、足の弱い方、悪い方、亦腰の悪い
方は、年令と姓名を記入の上お供へ下さ
い。御利益を受けられます。

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妙見宮鷲頭寺の由来


妙見宮の略縁起

 当山妙見宮は百済国、王子琳聖太子(大内家の大祖)御建立の御社であり
本尊妙見菩薩(北辰菩薩)も亦太子御持来の尊像にして、三国(印度、支那、
朝鮮)伝承と云い伝う。実に本朝最古の霊像であります。
其の由来は、推古天皇の御代三年九月十八日周防国都濃郡鷲頭庄、青柳浦の松の木に大星天降る。時に神童現われ、村の長に向かい「我れは北辰(北斗七星)にして、日本国土の美を愛し、天降って国家を擁護せんとする。今から三年後百済国、王子琳聖太子来朝す、永く国に留めよ。王法を伝え、治国の道を
修む可し、その由を国王に告げ朝廷に奏せよ。」云々
後、聖徳太子に迎えられ、推古天皇御宇五年丁己春三月二日百司百官を倶に
して周防佐波郡鞠生の浜に着船。其の秋、太子は都濃郡青柳の浦桂木山(宮
州山)に宮殿を御建立になり、北辰尊星、即ち御持来の尊像を納め星祭供養
を奉修された。これが日本に於ける星祭の濫觴であります。
星霜千有余年を経、其の間幾多の難に遇い、亦大檀那も大内家、毛利家と変
り明治十二年十二月朔日。大星降臨の古蹟、現在の地 中市に尊像妙見菩薩
をはじめ多くの仏像を奉戴して遷し祀り、北辰降臨の日、十八日を縁日とし
て今日に至ったのであります。


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お寺なのですが、狛犬「阿像」と狛犬「吽像」
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種田 山頭火の句碑


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# by kfujiken2 | 2019-01-10 13:28 | 歴史 | Comments(0)

素朴な疑問 ~ 清水寺の謎



元旦にNHKで ” 日本人のおなまえっ!「京都お名前修学旅行 清水寺の謎」” というユニークな番組をやっていました。

浅学の私は今まであまり気にした事はないが、寺の読み方は音読みが多くて、神社は訓読みが多いという事です。

清水寺(きよみずでら)」はあだ名(通称名)だった!?

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もともと「北観音寺」が正式名称だったのに「清水寺(きよみずでら)」と呼ばれるようになったのはどうしてでしょうか?
その名前の由来は「音羽の滝」にありました。この水を浴びると汚れを落とすことが出来ると言われており、お参りする時にはここで現世の汚れを落としてから仏様の世界へお参りに行ったのです。
「しみず」と読まないのは、「しみず」にあたる言葉は「澄んだ水」のことであり、「清める水」が由来となった「清水寺」は「きよみずでら」と呼ばれるようになったのです。


寺の名前が音読みとなるのは、仏教と漢字が中国伝来であることと関係が深いようで、神社の名前は祭っている神の名前に由来するのが多いそうです。
各地のお寺の読み方だが、京都の金閣寺、奈良の興福寺、東京の増上寺などのように一般には音読みです。ところが舞台で有名な清水寺は「きよみずでら」と訓読みです。他にも京都の「鞍馬寺(くらまでら)」など著名な訓読みの寺もある。音読み、訓読みが混在するのはなぜか?


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寺の名前は音読みが基本だ。だが、寺によってはそこに参詣する人々がどう呼ぶかで地名に引っ張られたり、和名である訓読みに変わってきたりすることもあるようだ。
又、通称名で呼ばれているお寺の例が、京都市の西芳寺(さいほうじ)を苔寺、長崎市の興福寺(こうふくじ)を赤寺等です。

# by kfujiken2 | 2019-01-04 10:00 | 未分類 | Comments(0)

昨年はお世話になりました



謹んで新春のお慶びを申し上げます
ブロッガーの皆さん 昨年はお世話になりありがとうございました
拙いブログでありますが、今後とも変わらぬお付き合いをお願い申し上げます


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# by kfujiken2 | 2018-12-31 21:25 | 未分類 | Comments(0)

平成の30年間の主な出来事・社会ニュース



あと3日で今年も終わり、又、平成時代から新しい時代【2019年(平成31年)4月30日】へと変わります。人類の歴史がまた1つ刻まれていくわけですが、平成を振り返るとあなたにはどんな時代だったのでしょうか?良いことも悪いこともあったことでしょう。懐かしさや、知らなかったことなど、私達が生きてきた平成時代を改めて心に刻んでいければと思います。
1989年に昭和天皇が崩御され平成の時代が幕を開け、2018年は、実質的に平成最後の年になります。出来事ランキングではなく、私の独断と偏見で年度別出来事を選んでみました。


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平成1年(1989年) 消費税導入
平成2年(1990年)  バブル経済が崩壊
平成3年(1991年)  雲仙普賢岳噴火
平成4年(1992年)  東京佐川急便事件
平成5年(1993年)  自民党が初の野党転落
平成6年(1994年)  松本サリン事件
平成7年(1995年)  阪神淡路大震災が発生
平成9年(1997年)  山一証券破綻
平成10年(1998年) 冬季長野オリンピックが開催
平成13年(2001年) アメリカ同時多発テロ事件が発生
平成14年(2002年) 拉致被害者の一部帰国実現
平成17年(2005年) 郵政民営化
平成20年(2008年) リーマン・ショック
平成21年(2009年) 政権交代、鳩山政権発足
平成23年(2011年) 東日本大震災
平成24年(2012年) 山中伸弥教授がノーベル賞を受賞
平成25年(2013年) 第2次安倍内閣・アベノミクス
平成26年(2014年) 御嶽山噴火事故
平成29年(2017年) 森友・加計問題
平成30年(2018年) 米朝首脳会談


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# by kfujiken2 | 2018-12-28 10:35 | コラム | Comments(0)

天皇陛下最後の誕生日会見

天皇陛下は23日の誕生日を前に、皇居・石橋の間で記者会見に臨まれた。85歳になられた天皇陛下にとって、平成最後の誕生日会見です。即位から30年の日々を振り返られ、皇后様や国民に対する思いを語られる際には、時折声を詰まらせながらお言葉を述べられたのに感銘を受けました。

今回の会見には個人的見解ですが、三つの要点があるのではないかと思います。

① 日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方
② 「皇后様へ、心から労いたい」と最良の伴侶に感謝
③ 私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝


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天皇が苦慮されたという「象徴」という言葉は、抽象的な概念をより具体的な物事や形によって表現することと記されていますが、漠然とした日本語・翻訳語で意味がはっきり理解出来ないと思います。

◆ 日本国憲法における象徴天皇について


小泉信三が明仁皇太子の教育参与として携わり、「象徴天皇」のあるべき姿を説いたと聞いています。
自分の良心に忠実で、他人のことを思いやる精神『忠恕(ちゅうじょ)』という言葉に結実し、新時代の皇室のあり方に大きな影響を与えた。日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる。天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され、内閣の助言と承認を必要とする。国政に関する権能を全く有さない。


◆ 「象徴」の由来

吉田茂の側近として白洲次郎は、GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった。日本国憲法の「象徴」がどのように生まれた言葉であるのかを次のように述べている。 白洲次郎はGHQ草案の英語をGHQの一室内で外務省の翻訳を担当する官僚と一緒に缶詰になっており大急ぎで和訳をしていた。
原文に天皇は国家のシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人が「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私が彼のそばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」と字が使っている所以であるそうです。

# by kfujiken2 | 2018-12-25 09:58 | コラム | Comments(0)

『奈のは』のランチに行きました



女性をターゲットとした店舗だそうですが、何処を女性向きに作ったのだろう???
確かに絶対数女性が多い!!! ランチ? 昼食・・・ 男は定食屋かうどん・ラーメン店で済ませてしまうものね~
ビュッフェスタイルのレストランでしかも地元食材をふんだんに使い、約80種類ある料理は季節ごとに変わるそうです。
それになんといっても時間無制限ってとこが魅力ですよね!


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# by kfujiken2 | 2018-12-20 10:02 | 未分類 | Comments(0)

お寺deアート&カフェ

「お寺はコミュニティの中心だった」と言われることが多いが、実際は、本当の意味でコミュニティの中心的存在だったわけではない。お寺が地域の潤滑油的な役割を果たしていたのは事実であるが、コミュニティを運営する立場ではなく、どちらかと言うとお寺のほうがコミュニティに依存した存在であった。
人が集ったら、その人たちとの関係性を深めるため、繰り返し繰り返しの地道なコミュニケーションが必要である。人が集まるからコミュニティが生まれるのではなく、コミュニケーションを重ねるからコミュニティが生まれるのである。これは檀家に対しても同様だ。お寺と檀家との間も、これまで以上にコミュニケーションが必要な時代になっている。そうした意味合いから、「お寺deアート&カフェ」は始められたのであろうと理解しております。


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本堂にて第1部 演奏会

琴と尺八の和の合奏 故郷のうた

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紙芝居 きつねのでんわボックス

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オカリナ・リコーダー・ギター ロンドンデリーの歌
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ギター 吾亦紅(われもこう) 
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第2部は本堂から門徒会館に場所を移し、展示作品の解説と鑑賞です。

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# by kfujiken2 | 2018-12-17 13:17 | 未分類 | Comments(0)

漁師軍団の女性リーダーが描く地方創生の妙手


昨日、NHK「シリーズ平成」のコンテンツで、漁業に飛び込んだ女性社長を紹介しました。

山陰の古都・萩に、荒くれ者の漁師軍団を率いる若手女性リーダーがいる。水揚げした魚の加工・流通販売など6次産業化を進めて地元漁業の経営を立て直してきた彼女が、新たに進めようとしている。

女性リーダーの名は坪内知佳さん。山口県萩市の日本海沖に浮かぶ大島(同市)を拠点に、漁業を営むGHIBLI(ギブリ)の社長だ。日経ビジネスでは2016年12月19日号の特集「次代を創る100人」の1人として坪内氏を紹介した。一風変わったプロフィールと、起業家としての柔軟な発想力に注目されている。


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「萩大島船団丸」様からお借りしました


坪内氏は1986年生まれ、福井県出身。名古屋外国語大学を中退。結婚を機に萩市に移り住んだ。翻訳と経営コンサルティングの事務所を開いていたところ、経営に苦しむ地元の漁師から相談を受けた。それをきっかけに、漁業に関わるようになった。2011年、地元の漁師ら60人を束ねて、まき網漁の「萩大島船団丸」を設立。2012年に代表に就き、2014年からGHIBLIとして法人化した。


「萩大島船団丸」
  クリックすると「萩大島船団丸」のHPがご覧いただけます。


鮮魚を船上で箱詰めし、飲食店などに直接販売する「鮮魚BOX」、漁師のまかないから生まれた高級干物「船上一夜干し」「寒風一夜干し」の製造販売は、事業資金などの補助を受けられる6次産業化法の総合化事業計画に認定された。水揚げした魚を取引先に直接出荷するスタイルは、今や他の多くの企業が参考にしている。
# by kfujiken2 | 2018-12-12 15:54 | 未分類 | Comments(0)

明治維新に於ける歴史の変遷

大河ドラマ【西郷どん(せごどん)】も最終回の放送日が12/16(日)だそうですが、いよいよ西郷隆盛が立ち上がり『西南戦争』に突入と佳境に入って来ました。

時代区分が切り替わる時こそが歴史的転換点で、決定的な変革や戦いが行われています。都を移すという大変革で始まった奈良や平安時代、奥州合戦を経て全国統治を開始した鎌倉時代、桶狭間の戦いを経て政権を確立した安土桃山時代、関ヶ原の戦いを経て全国統治を開始した江戸時代など歴史的転換点は下剋上で成される。
歴史的転換点とは、歴史が大きく変わるターニングポイントとなる時期や出来事を指します。



【序論】

大政奉還が成立し王政復古が実行され、廃藩置県が断行され版籍奉還の実施が行われて、明治中央官制の改革は明治18年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定した政治の流れの中で、西郷隆盛と大久保利通の対立が明治初期の明暗を分けた。
明治初期の政治に大きく影響を及ぼしたのが征韓論であり、征韓論をめぐって明治政府内で賛成派と反対派の遣韓論との論争が沸き起こったのが、大久保利通の強い反対にあって西郷隆盛の朝鮮派遣が中止になり、征韓論派・西郷隆盛と遣韓論(内治優先派)・大久保利通の軋轢(あつれき)が生じ始めた。


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「二条城での大政奉還図 邨田丹陵」



【明治維新に於ける歴史の詳細】


右大臣・岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、木戸孝允、
伊藤博文、山口尚芳を副使とした総勢107名の岩倉使節団は、条約改正と海外視察を目的に1871(明治4)年、横浜港を出港。これはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、ロシア、イタリア、ドイツの各国を訪問するという地球をぐるりと一周する大規模な渡航です。帰国するのは1年10カ月後になります。

そんな使節団の留守を守ったのは参議の西郷隆盛(薩摩)、大隈重信(肥前)、板垣退助(土佐)です。使節団は日本を出発する際、西郷隆盛を中心とする留守政府との間で「使節団が帰国するまでは極力、新しい政策は行わない」という取り決めをしていました。


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全権大使・岩倉具視と副使・大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳の 「岩倉使節団」の主要メンバー


【征韓論政変】

留守政府はそうした約束をあっさり破り、制度改革の面では四民平等を原則とした身分制度の改革、税制度を抜本的に改革する地租改正、義務教育を原則とした学制の公布、太陽暦の採用、徴兵令の制定など外遊組との約束とは完全に真逆のことをしました。外交面においても留守政府は朝鮮王国に開国要求のために外交を持ちかけることを計画します。日本はたびたび朝鮮政府に対し、外交を求めます。しかし、朝鮮王国はこの要求を拒絶します。日本政府は、言う事を聞かない朝鮮を武力で懲らしめ、力ずくで開国させようとする意見が出ます。幕末から新政府樹立に大きく貢献した大久保利通と西郷隆盛が対立する要因となったのが征韓論です。そしてその亀裂は修復されることなく、結果としては西南戦争が起きることにつながります。

元来日本と朝鮮は、徳川幕府の時代から親しく交際を続けていた間柄でしたが、幕府がペリーの来航を始めとする諸外国の外圧に屈し、和親条約や通商条約を結んだことにより、日本と朝鮮の関係は悪化し、事実上国交が無くなりました。その頃の朝鮮は、以前の日本がそうであったように外国との交際を一切断ち切り、鎖国政策を取っていたからです。


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征韓議論図 鈴木年基作。西郷隆盛は中央に着席


【結論】

明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、そんな中、外遊組がぞくぞくと帰国。岩倉具視や大久保利通、木戸孝允は「今は他国と戦争をしている場合ではない。富国強兵や殖産興業など内治を優先するべきだ」と建前論を主張するが、本音は留守政府が取り決めを破ったことに対し、大久保利通は切れたのではないかと解釈しています。強い反対にあって挫折し、西郷隆盛は政府を飛び出し帰郷します。
西郷に近い征韓論派の板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任らが続いて下野した。この事件が俗にいう「明治六年の政変」です。
 不平士族の明治政府に対する不満は爆発し、佐賀の乱を発端に神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き、士族反乱の最大で最後の西南戦争を勃発し、国会開設運動,自由民権運動にいたる明治前期政治を左右する出来事の発端となり、大久保利通が自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握り政権が確立する結果となった。



※ 佐賀の乱 : 1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。
佐賀の七賢人、維新の十傑と称される江藤新平は、近代日本の司法を整備した第一人者であり、その考え方や行動は正義に溢れ、尊敬の念を抱きます。

※ 神風連の乱 : 1876年(明治9年)に熊本市で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら約170名によって廃刀令に反対して起こされた反乱。

※ 秋月の乱 : 明治9年(1876)10月、旧秋月藩士、宮崎車之助らが起こした不平士族の反乱。

※ 萩の乱 : 熊本県で起こった神風連の乱と、福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、前原一誠らが1876年(明治9年)に山口県萩で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。

※ 西南戦争 : 1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱で、明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦である。



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# by kfujiken2 | 2018-12-06 10:38 | 歴史 | Comments(2)

紅葉と歴史を求めて山口を散策・・・十朋亭維新館



「十朋亭」とは、徳川時代の1800年ごろ(亨和年間)に、 醤油の商いをしていた萬代家の3代目ご当主である利兵衛英備さん(1775-1838年)が、 「裏の離れ座敷」として建てた建築物です。

山口移鎮 (幕末の長州藩が、藩庁となる居城を萩から山口へ移転した)に伴い多くの家臣の家屋敷が必要となりましたが、急に用意もできないため、 藩として山口の民家の中から家臣の宿泊所を選んだのです。「十朋亭(じっぽうてい)」はその中の一つです。 当時の藩の重役であった「周布政之助」が最初の宿泊人であったと伝わっているそうです。

2016(平成28)年秋から整備が進められていた、幕末維新期の長州藩と山口市の歴史について学べる観光施設「十朋亭維新館」(山口市下竪小路)が、今年9月29日(土)正午にオープンした。本館の新築および十朋亭・杉私塾・萬代家主屋・収蔵庫(蔵)の維持補修が行われ、総敷地面積は1696・61平方メートル、総事業費は約5億6700万円。


【十朋亭維新館】


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【十朋亭】










【敷地全体図】
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十朋亭維新館は、明治維新への扉を開いた「明治維新策源の地 山口」の歴史にふれるミュージアムです。当地で醤油の商いを営んだ豪商・萬代家の史跡・十朋亭をはじめとする土地と建物を、歴史的にも貴重な伝来資料とともに山口市が譲り受け、整備しました。本館内では、幕末・明治維新期の長州藩と山口地域の歴史を、資料、映像、グラフィックパネルでご紹介しています。
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【十朋亭維新館内イメージ】

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十朋亭の後ろ側に回り、縁側越しに見た部屋の中の様子

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吉田松陰の兄・杉民治(梅太郎)が、明治の初めごろに滞在し、近所の少年たちに学問を教えていたとされる「杉私塾」で、「十朋亭」に隣接した建物です。

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今回リニューアルされ公開された萬代家主屋

【萬代家主屋の玄関】
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【裏の庭から見た萬代家主屋】










【来局用茶室として造られている部屋の内部から見える庭】
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# by kfujiken2 | 2018-12-03 09:57 | 未分類 | Comments(0)

紅葉と歴史を求めて山口を散策・・・「没後400年 雲谷等顔展」





山口県立美術館(山口県山口市)で12月9日(日)まで、「没後400年 雲谷等顔展」が開催されています。

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墨を極め、その魅力を知り尽くした雲谷等顔が繰り出す表現は幅広く、特に山水画のジャンルにおいて到達した境地は、桃山時代随一といっても過言ではない。

忠実に雪舟を勉強しており、山口の地にあって桃山画壇に独自の流派を形成した。画は雪舟の雄勁(ゆうけい)な水墨法を受け継ぎながらも、整然たる構図のなかに端正で高雅な様式をもったものが多い。


【雪舟と雲谷等顔のついて】

雪舟(1420~1506年)雲谷(1547~1618年)と生きた時代背景が違い、師弟関係ではありません!
雪舟の作品が何百年も“美の規範”とされ、その存在が神格化するほどの絵師は、現代に至るまで雪舟ただひとりです。
雪舟の後継者として位置付けられるのが、同じ山口で活躍した雲谷等顔です。
雲谷等顔は毛利輝元から雪舟筆の『山水長巻』と雪舟の旧宅『雲谷庵』を拝領しており、雪舟の後継者としていわば「お墨付き」といえます。


雪舟の旧宅『雲谷庵』


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雪舟は禅僧で、宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。
雲谷等顔は武家出身で、茶の湯や連歌などの素養を身に付けていた。絵師だけではなく、毛利輝元の御伽衆(おとぎしゅう)、すなわち文化面を補佐するアドバイザーでもありました。

雪舟の山水は手に取って見る巻物、等顔の山水はいわゆる家具として大画面を見る屏風。同じ図様の絵でも視覚的な効果と機能が全く異なる。

# by kfujiken2 | 2018-11-29 10:53 | 未分類 | Comments(0)

紅葉と歴史を求めて山口を散策・・・松田屋ホテル庭園




山口市は10度くらい訪れていますが、松田屋ホテルの庭園に幕末の色んな歴史があるのは知っていました。しかし、余りにも高級すぎて敷居が高く覗いてみた事もありませんでした。 中原中也記念館 の職員さんから、歴史が好きならば松田屋ホテルに宿泊しなくても、受付でお庭を見せて下さいと一声掛けると見せて頂けると聞き、行って見ることにしました。
ホテルには庭園だけでなく、明治維新の志士たちの色んな品々が展示されている明治維新資料室や徳川幕府末期1860年につくられたもので、当時長州、薩摩、土佐の勤皇の志士 高杉晋作・木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通・伊藤博文・大村益次郎・山県有朋・井上馨・坂本竜馬らや七卿落の公卿三条実美らが入浴使用したと云われる維新の湯等があるのですが、宿泊費・拝観料を払ってる訳ではないので歩き回るのが心苦しく遠慮しました。


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◆ 松田屋ホテル庭園の由来


第9代総理大臣を務めた山縣有朋に支援を元に、植木職人7代目・小川治兵衛により作庭。小川治兵衛といえば、庭園に芝生を初めて用いた人物といわれている。芝生と白色と中心とした大振りの砂利により庭園中央部に美しい光景を演出している。その境目には巨石を添えることでアクセントとなり、単調な景とならないよう工夫されている。創業当時、宿には枯山水の素朴なお庭があったと言われています。現在は回遊式池泉庭園になっています。

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◆ この赤松は、司馬遼太郎著『街道をゆく長州路』に登場する松なんです。

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◆ 【南州亭】・「西郷・木戸・大久保会見所」

慶応3(1867)年に薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らが薩長同盟の確認と討幕出陣の具体的協議のため山口を訪れ、山口市にある「枕流邸(ちんりゅうてい)」に長期滞在していました。その際、長州藩の木戸孝允や伊藤博文らと湯田温泉の松田屋にも訪れたそうです。


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◆ 七卿落ち遺跡

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◆ 山縣有朋命名の客間・快活楼


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# by kfujiken2 | 2018-11-26 15:31 | 未分類 | Comments(0)

紅葉と歴史を求めて山口を散策・・・中原中也記念館



日本の近代文学史に大きな足跡を残し、今なお多くの人を魅了し続けている抒情詩人・中原中也は、1907年(明治40年)4月29日代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待され、小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟がかぜにより病死したことで文学に目覚めた。昭和12年(1937)、30歳という若さで生涯を閉じ、生涯で350篇以上の詩を残した。

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【中原中也記念館】は中也の生家跡へ平成6年に建設された。館内には、中也自筆の草稿や日記、愛用のオーバーや机などの遺品をはじめ、詩集「山羊の歌」の初版本など貴重な資料が公開されている。

中原中也の生家跡であることを示す碑と、中也が幼少の頃からあるカイヅカイブキの大木です。

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中原中也記念館の設計は、設計は全国公開設計競技により優秀賞に選ばれた宮崎浩氏の手によるもので、平成10年に公共建築百選に選ばれるなど、中也の詩の世界を堪能できるすばらしい空間を提供しています。外の風景や柔らかい光を取り入れ、吹き抜けを設けることで限られた空間に拡がりと奥行を与え、回遊性を持った館内構成によって繰り返し中也の作品に出会うように企図された設計は、来館者に中也の詩とともに過ごしたひと時を印象深いものにします。

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◆ 中原中也の詩に曲を付けた、昭和のスター俳優・石原裕次郎の歌う「骨」

(クリックして下さい YouTube の石原裕次郎の歌う「骨」に飛びます)
# by kfujiken2 | 2018-11-24 14:46 | 未分類 | Comments(0)

紅葉と歴史を求めて山口を散策・・・ 鋳銭司郷土館

両足寺を後にし近くに1度訪れたことがある、明治維新の先覚者・大村益次郎に関する資料を展示している【鋳銭司郷土館】に立ち寄ってみることにしました。
駐車場に着き長沢池の干潟に目を向けると、珍しいサンドアートがあるではないですか!!!


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鋳銭司の地名にゆかりのある和同開珎


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手前が大村益次郎の家紋「丸に桔梗紋」に、後方が大村益次郎の妻琴子の実家の家紋「梅鉢」が描かれたサンドアートです。



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表札の両脇に飾られたモニュメント

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大村益次郎が原書を翻訳して、書き残した数学のノートらしいですが、当時微分、積分なんて勉強していたんですかね?

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山口市歴史民族資料館職員の独断と偏見に基づき作られた、「幕末維新防長異才番付」という面白い番付表がありました。

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第二展示室に日本のお金の歴史コーナーがあり、 天正・天保大判はレプリカらしいが、享保小判等小判は本物のようです!

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# by kfujiken2 | 2018-11-22 10:59 | 未分類 | Comments(0)

紅葉と歴史を求めて山口を散策



紅葉と歴史を求めて両足寺から、山口へと足を延ばしてみました。両足寺・山口県立美術館・十朋亭維新館を基本予定として、その他は気の向くままに散策と洒落込みました。

とりあえず一番手前の両足寺へ・・・ 今回は紅葉にだけ目を向けるのではなく、少し目線を変え観察することにしました。
山口市鋳銭司(すぜんじ)にある両足寺は通称「もみじ寺」とも呼ばれ、シーズンには約150本の紅葉が観光客を楽しませてくれる。辿り着くまでの道が狭く大型バスでは難しい。普通車でも対向車とギリギリすれ違えるくらいです。
山口市と言っても、両足寺は防府と小郡の間くらいに位置し、2号線の大村交差点から、県道194号線を北上するかなり奥ばったところにあり、国道からの分岐点に看板が無く場所が分かりにくいかも知れません。両足寺は紅葉だけでなく、同じ時期には黄色い花を咲かせるツワブキも楽しめる。
又、岡田准一主演の「散り椿」で有名になった五色八重散椿(ごしきやえちりつばき)と呼ばれるめずらしい椿が、山口県では両足寺と下関市豊田町館ヶ浴の二ヶ所しか無いようです。


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紅葉に囲まれた灯篭と五輪塔
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まだ出番のない五色八重散椿

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山門は見どころの1つ。どことなく京都をイメージさせられる景観。下から見上げても上から見下ろしても素晴らしい紅葉が楽しめる。寺院と紅葉はよくある組み合わせだが、両足寺は数も多く、県内でもトップクラスの美しさだろう。

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参道脇を飾るツワブキとホトトギスの小さな花

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紅葉の赤に負けない南天の赤
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あなた色に染まりたい・・・
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樹齢何年でしょうか? 大木・クスノキ
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# by kfujiken2 | 2018-11-20 14:20 | 未分類 | Comments(0)

かかしコンテスト



下松市農園公園(下松市来巻)で11月14日、「かかしコンテスト」開かれた。


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防鳥ネットなどの普及により、田畑で見かけなくなってきた
【かかし】にスポットを当てることで、農業への関心を高める
ことを目的とする。


今回は市内外から9作品の応募があり、審査の結果・・・

最優秀賞
女子プロテニスプレーヤーの大坂なおみ選手とスーパーボランティアの尾畠春夫さんをイメージした「なおみとはるお」

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優秀賞
◆ プロペラのようなひげが特徴的な長岡外史をモチーフにした「我らの父、長岡外史」
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◆ 親子三代で畑仕事をする様子を表現した「和~なごみ~」

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◆ レモン狩りをする老夫婦

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◆ 孫と過ごすニンニク農家の様子

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◆ 下松市を旅する西遊記
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※ 周南経済新聞より・・・

入選作品は、11月18日に下松農業公園で開催する「秋まつり」で表彰する。

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# by kfujiken2 | 2018-11-16 09:12 | 未分類 | Comments(0)

やまぐちを知ろう 【やまぐちの歴史】



長州藩の財政改革・藩政改革をした2人の救世主・毛利重就と村田清風。
毛利重就は「撫育方(ぶいくかた)」という長州藩の別途会計担当部局を設け、
村田清風は撫育方資金の運用増殖を狙って「越荷方(こしにかた)」という、倉庫業・金融業を行う役所を下関に設置した。
つまり、この2人によって長州藩の莫大な隠し財産がつくられ、幕末の政治工作資金や軍資金になった。
もし、この2人が居なかったら、長州藩の倒幕は無かったか倒幕運動に加担していなかったでしょう!明治維新を見ることはなかったか、明治維新が遅れたのではないでしょうか?



※ 余り講演会等で語られなかった、撫育方と越荷方という長州藩で行われた財政改革・藩政改革を詳しく説明しましょう。


◆ 長州藩の設立から財政改革・藩政改革までの経緯


戦国時代に112万石(実高は200万石超)あった長州藩は、毛利輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将として責任を取らされ36万9千石に減封され、4分の1に減った総石高では家臣たちを養うことさえ困難でした。土地を失い国を離れる者、農民へと転身するものが続出します。おまけに幕府の手伝い普請が追い打ちをかけます。
伏見城の復旧、江戸城の普請・・・莫大な費用が必要でした。
さらに天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政難のどん底からスタートした藩でした。長年の疲弊生活を強いられていた民衆は、1831年には、10万人を超える農民が参加した「天保一揆」が勃発。各地で百姓一揆が起こるなか、1833年には「天保の大飢饉」も起こり、さらに困窮しました。民衆の間では女子供を奉公という形で売ってしまうこともあったそうです。
上述のような経緯もあり、長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。



◆ 第7代藩主毛利重就の財政改革

長州藩の中興の祖といわれる第7代藩主毛利重就(しげたか)が、藩主に就き「宝暦の改革」を断行し藩政改革の足がかりをつくりました。
宝暦の検地を執り行い、4万石の税の増収を得ました。この収入を藩財政には組み込まず、「撫育方(ぶいくかた)」という別途会計担当部局を設け、こちらの資金として充て干拓や塩田の開発や中関の整備などを行いました。しかも撫育方の収入は、現在で言う一般会計ではなくて、特別会計でした。すなわち、藩の通常の予算、支出、あるいは、収入ということで財政処理するのではなくて、特別会計として藩の手元金として、使わずに手元に置いておきました。まさにいざというときに使うために、蓄積されたのです。長州藩のこの隠し財産の積み重ね「撫育金」は、次第に大きなものになっていきました。


第7代藩主毛利重就の肖像画と室積の撫育方跡地の石碑
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◆ 村田清風の藩政改革 


村田清風は第9代藩主毛利斉房(なりふさ)から第10代藩主斉熙(なりひろ)・第11代藩主斉元(なりもと)・第12代藩主斉広(なりとう)・第13代藩主敬親(たかちか)までの5代藩主に仕え、慢性的な借財に苦しんでいた第13代藩主毛利敬親の信任の下で長州藩の財政改革(天保の改革)に取り組んだ。
第7代藩主毛利重就が設け蓄積された撫育方資金の運用増殖を狙って、倉庫業・金融業を行う役所・「越荷方(こしにかた)」下関に設置した。下関という場所の重要性にも着目した。この頃、下関海峡は西国諸大名にとって商業・交通の要衝であった。そこで白石正一郎ら地元の豪商を登用して、越荷方を設置した。北前船の越荷(他国から入ってきた荷物)を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売をした。これらの政策が成功して銀8万5千貫(現在の価値でおよそ約1400億円)もあった赤字は解消し、長州藩の財政は再建されていった。村田清風は藩政改革の途中で中風に倒れ、その後、坪井九右衛門、周布政之助に引き継がれた。



村田清風の肖像画
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# by kfujiken2 | 2018-11-11 10:14 | 歴史 | Comments(0)

冬に咲く桜・冬桜

冬桜ってどんな桜? 初めて聞く花の名前なので・・・ 
よく話しに聞く気候に惚けて咲いてる桜なのか???
冬桜は、冬に咲く桜のことです。桜といえば、3~4月の入学式や卒業式、花見などのイベントに合わせて咲く植物というイメージを持っている方も多いのではないでしょうか?
興味津々で米泉湖公園に行って来ました。


彼方此方探し回った挙句、米泉湖公園の駐車場と北側の屋外音楽ステージ「ビックウィング」の中間に小山があり、その小山の南側にまだ二部咲きでしょうが2本の冬桜を見付けました。
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山桜(ヤマザクラ)と豆桜(マメザクラ)を交配して生まれた雑種のことを指します。ただ、最近では名前の通り、冬(10~1月頃)に咲く桜の総称としても使われるようになりました。
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花は中輪サイズで、白から淡いピンク色の小さな花びらを咲かせます。葉っぱが小さいことから、小葉桜(コバザクラ)、10~12月と4月の2回開花期があることから、四季桜(シキザクラ)と呼ばれることがあります。
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トンネルを抜けるとイチョウ並木だった!!!
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【湯原昌幸】の冬桜を聴いてみて下さい
# by kfujiken2 | 2018-11-03 09:55 | | Comments(0)

ニッシンイクス 加来耕三氏の文化講演会

2018年10月28日(日)ホテルサンルート徳山におきまして、株式会社ニッシンイクス主催の文化講演会を開催されました。
講師に 加来 耕三 氏 (歴史家・作家)をお招きし、維新150年によせて「毛利敬親と明治維新」をテーマに講演されました。


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◆ 加来耕三氏のプロフィール


歴史家・作家。昭和33年(1958)10月、大阪市内に生まれる。昭和56年(1981)3月、奈良大学文学部史学科を卒業。学究生活を経て、昭和59年(1984)3月より、奈良大学文学部研究員。 現在は大学・企業の講師をつとめながら、歴史家・作家として著作活動をおこなっている。

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加来耕三氏の文化講演会を拝聴しました。さすがプロ 話が上手い・・・
独断と偏見で意見を延べらせて頂くと、早口過ぎて聞き取り難くメモが取り難い。
過去の講演会と比べると先ずテキストが無い! テキストが無いから話(講演)のスタートは何処からでもいい・・・ つまり、加来耕三氏の話は先ず明治維新を説明し、さかのぼってから幕末に入り、毛利敬親に辿り着く話の流れだった。演題が「毛利敬親と明治維新」だから、毛利敬親の話からが順当ではないかと思う。歴史の講座・講演は歴史の流れの中で話を進めて行くのが順当ではないだろうか?
彼曰く、歴史をひもとけば、新しい事実が見えてくる。歴史学は単に過去をさかのぼる学問ではない。歴史は未来への選択肢の軌跡でもある。
歴史の転換期にメスを入れ、資料的裏付けにより、大胆に史実の新しい断面を解明すると説明いている。しかし、歴史の流れが分かっており、自分が原稿を作り自分が話すのだからそれでいいが、聴いてる方は歴史の流れが反対になり、早い喋りに着いて行くのが精一杯だった。


講演開始までは撮影OKということなので・・・
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さらに加来 耕三氏 は、自らを歴史研究者と自負されているようですし、講演活動され時代考証も数多くこなしているそうです。
“日本史「常識」はウソだらけ” や、“誰が、なぜ? 加来耕三のまさかの日本史” 等を出版され、ウソ&ホントの自論を述べておられるが、講演会での話としては面白いが、それでは我々が勉強して知った内容と実際?に差があり、どちらが本当なのか疑心暗鬼になります。
私の知っている地方史研究者が、以前面白いことを話されていました。
当時生きていた人が現在いるわけでもないし、残っている資料の古文書も誰が書いたかはっきりしない!
「はい」と手を挙げ自論をぶち挙げ言った人が勝ち、それが通論になってしまうと・・・ネ

# by kfujiken2 | 2018-10-30 11:41 | 未分類 | Comments(0)

アサギマダラが好む花



白と紫がかったフジバカマは、色違いかと勘違いしておりましたが、フジバカマ(藤袴)と ヒヨドリバナ(鵯花)は、<キク科 フジバカマ属>で花の色も白から紫がかったものまであり、花だけ見るとそっくりであるが、同属ではあるが別の花です。

フジバカマ(藤袴)
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フジバカマは「秋の七草」の一つで、生草のままでは無香ですが、乾燥するとその茎や葉に含有されている、クマリン配糖体が加水分解されて、クマリン酸が生じるため、桜餅の葉のような芳香を放つ。 平安時代の貴族たちは匂い袋にして、ほのかな香りを楽しんでいました。
万葉の時代から人々に親しまれてきた植物です。情緒豊な奈良や平安の貴族・歌人がこんな句を詠んでいます。


古今集の中で紀貫之が  「宿りせし 人の形見か フジバカマ 忘れがたき 香に匂いつつ」  と詠んで一夜を共にした人の匂い袋とフジバカマを重ね合わせている。



ヒヨドリバナ(鵯花)

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ヒヨドリバナを万葉集の中で山上憶良が「萩の花 尾花葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴 朝顔が花」と詠んでいます。

# by kfujiken2 | 2018-10-26 06:56 | | Comments(0)

1000Km以上を大移動するアサギマダラ


私にとっては長い間、ただの蝶でした。最近まで名前も知らなければ、識別も出来なかったのです。さわやかな秋日和に誘われ、話には聞いていた下松市スポーツ公園にアサギマダラに会いに行ってみました。
アサギマダラの好むフジバカマは何処に植わっているのか?駐車場に車を置きコスモス畑を歩き回っていると、一番北側の50坪くらいの広さに畑がありました~~~
カメラを持った常連さんによると、今年は管理が悪いのか塩害台風の影響か、フジバカマの生育が悪いと話していました。
蝶は一匹二匹と数えるのではなく、一頭二頭と数えるそうです。
まだ少し時期か早かったのか、三頭しかいませんでした!!!


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国境を越える唯一の蝶・アサギマダラの不思議は、まず、渡り鳥のように季節によって長距離を移動する習性を持つことです。しかも集団でそれを行う。何がこの「渡り現象」を誘引しているのかは研究でも特定されていないと聞く。

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アサギマダラを有名にしたのはその渡りのすごさです。春から夏にかけては本州等の標高1000メートルから2000メートルほどの涼しい高原地帯を繁殖地とし、秋、気温の低下と共に適温の生活地を求めて南方へ移動を開始し、遠く九州や沖縄、さらに八重山諸島や台湾にまで海を越えて飛んでいきます。海を渡って1000キロ以上の大移動です。台湾・陽明山まで飛んだのはこれまで5個体が確認されていますが、これなど2100キロの飛翔になります


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# by kfujiken2 | 2018-10-23 08:04 | 未分類 | Comments(0)


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


by fujiken

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