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大人のうんち学


う~ん? これって大丈夫?  うんちの色と形でわかる健康状態。

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◆ 赤いうんち・黒いうんち

肛門に近い部位からの出血は赤く、胃・十二指腸といった口に近い部位からの出血は血液中の鉄分が変色し黒いうんちになります。出血の原因として、潰瘍やポリープ、痔、癌が見つかることもあります。他に、貧血のために~鉄剤を内服している方も黒くなります。血尿や性器出血と間違えている場合もあります。

※ 排便のときに、りきみすぎて、肛門管の内壁に小さな亀裂ができている可能性。
あるいは小さじ半分以下の血液があり、下腹部に痛みや違和感を伴うなら、出血は内痔核が原因かもしれず、この場合は医師に診てもらう必要がある。


◆ 緑色のうんち

うんちの茶色の主成分は胆汁という分泌物の色です。緑色のうんちは胆汁中のビリルビンという成分の酸化によるもので、赤ちゃんに多く見られます。大抵が母乳の変化であり、多くの場合で異常ではありません。

※ 多くのほ乳類の糞の茶色っていう色は、ビリルビン(胆赤素)と呼ばれる物質から来ていて、そのビリルビンっていうのは、肝臓が、死んでぼろぼろに使い古された赤血球を処理して排泄する準備をするときに作られるものなんです。ビリルビンは実際には、ヘモグロビンから作られるんです。赤血球が体中に酸素を運ぶために使うタンパク質のことです。でもみんなの赤血球が赤いにもかかわらず、ビリルビンそのものは黄色だ。あ
それは肝臓に吸収され、胆液として分泌されるんだけど、それにはビリルビンが入っているから黄色がかった緑なんです。

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◆ 白いうんち

米のとぎ汁のような白い下痢の場合、ロタウイルスによる胃腸炎が考えられます。その他、白いうんちが長く続く場合、前に述べた胆汁が体の中で上手く排出できていない可能性があります。胆汁が体内に貯まると黄疸といって、体が黄色になる変化が現れます。最近皮膚や目の白い部分が黄色くなっていませんか?心当たりのある方は病院で血液検査をしましょう。

◆ 硬いうんち

便に水分が足りない状態で、硬いままだと今後腸が詰まったり、腸を傷つけたりする可能性があります。うんちを軟らかくするお薬が必要かもしれません。
※ 身体が脱水気味で、体内からすべてを排出するのに十分な繊維が不足していると、お腹のなかに通常よりも長く便が留まってしまいます。そうすると結腸が便から水分を吸収してしまい、いくつもの固い便になってしまうのです」

◆ 形のないうんち

いわゆる下痢です。消化不良や腸の動きの異常によることもありますが、症状が軽い場合はまずは食生活を見直してみてはどうでしょうか。

◆ 水のようなうんち

ノロウイルスなどによる胃腸炎の可能性があります。長く続く場合は脱水症に至る可能性があります。


# by kfujiken2 | 2019-09-18 16:12 | 未分類 | Comments(0)

参ったな(;´Д`)

先日(8日夕) コールタール色の血便が出、驚いて翌日周南記念病院に駆け込み、
内視鏡検査をしてもらった結果、「出血性胃潰瘍」と判明し直ぐさま
「内視鏡的消化管止血術」の手術を行いました。
お蔭さまで即日退院で済みました。
ところが、1400ccの下血をしているので貧血を起こし、
身体がフラフラ~~~~ 結果 「急性失血性貧血」で入院することになりました。

# by kfujiken2 | 2019-09-13 10:34 | 未分類 | Comments(0)

北浦の奇岩・ホルンフェルスと萩市の文化史跡・遺跡 その④


◆ 天樹院墓所

中国地方の雄・毛利元就の孫で長州藩祖である毛利輝元の墓所である。ここは輝元生前時には輝元の隠居所・四本松邸のあった場所で、その死後天樹院(輝元の法号)が菩提寺として建てられた。しかし、明治2年(1869)に廃寺となり墓所のみが残った。

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入口に唐門があり、長さ64mの参道が続く

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毛利輝元公と夫人の墓

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長男: 毛利秀就(1595-1651) - 長州藩初代藩主
長女: 竹姫(1600-1644) - 吉川広正室
次男: 毛利就隆(1602-1679) - 徳山藩初代藩主


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# by kfujiken2 | 2019-09-10 09:26 | 歴史 | Comments(0)

北浦の奇岩・ホルンフェルスと萩市の文化史跡・遺跡 その③



◆ 長州藩の牢獄は「野山獄」と「岩倉獄」

野山獄は、長州藩の士分(武士関連)の者を収容する上牢。
野山獄は、6房が中庭を挟んで向かい合っており、12室の独居房となっていた。
独居は3畳ほどの大きさで、食器などの生活用品・寝具、小さい机や筆記用具なども置けた。野山獄は部屋の出入りや差し入れも自由であったが、毎日何もやる事が無く、獄中生活は退屈であったと言う。



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◇ 野山獄と岩倉獄の概要


野山獄は、正保2年(1645)9月17日、酒に酔った大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛が、道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士禄高200石・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという事件が起こった。藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処したが、喧嘩両成敗ということで両家は取り潰し、屋敷は没収された。後に藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄とした。

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岩倉獄は、士分以外の者(長州藩内の町民・農民といった藩籍を持たない庶民)を収容する下牢ということもあり、 野山獄ように個室ではなく、3つある大部屋に収監され入牢した者への扱いもひどく、 萩への移送の途中で体調を崩した金子重之輔も十分な手当ても受けられず獄死している。 重之輔の死に松陰はひどく悲しんだという。

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◇ 「野山獄」に関わるエピソード



野山獄に、安政元年(1854)海外密航に失敗した吉田松陰が投じられ、岩倉獄には従者だった金子重之助が投じられました。松陰は、そこで仲間の囚人たちに孟子の講義をするとともに自らも俳諧や書を学びました。また獄吏でさえも廊下で松陰の講義に耳を傾けたといわれており、前例のない教育活動を行いました。
松陰が入牢した時、野山獄には十一人(うち女性一人)の獄囚がいたが、明らかな罪人としての入牢は二人、他はさまざまな理由で世に入れられず、「借牢」という形で、軟禁状態に置かれた人々であった。彼らは罪人ではありませんが、刑期はなく、親族の許可がなければ出獄することはできませんでした。11人の中にはすでに49年も獄中生活を送っている者さえいました。そのため、野山獄に入ると一生出ることはできないという噂がたっていたのです。



大深虎之允   76歳 在獄49年
弘中勝之進   48歳 在獄19年  
岡田一廸    43歳 在獄16年
井上喜左衛門 38歳 在獄9年
河野数馬     44歳 在獄9年
粟屋與七     不明  在獄8年 
吉村善作     49歳 在獄7年
志道又三郎   52歳 在獄6年
高須久子    39歳 在獄4年  ※吉田松陰、生涯一度の獄中の恋
冨永弥兵衛   36歳 在獄4年 ※富永 有隣 松下村塾の教育を支え、鋭武隊を指揮した
平川梅太郎   44歳 入獄3次・通算3年



牢獄の役人が松陰に好感を抱くようになり、牢獄内の勉強会が行いやすくなるよう、ろうそくを用意するなどの便宜を図ってくれました。
松陰はこの役人に頼んで書物を揃えてもらい、「孟子」の購読会を開催します。
このことが、松陰の思想を大きく発展させることにつながっていきました。

# by kfujiken2 | 2019-09-05 11:45 | 歴史 | Comments(0)

北浦の奇岩・ホルンフェルスと萩市の文化史跡・遺跡 その②


◆ 恵美須ヶ鼻造船所跡

【世界遺産登録】 洋式軍艦の建造に先駆的な役割をはたした造船所


恵美須ヶ鼻造船所跡 見取り図

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嘉永6年(1853)、幕府は各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、のちに萩藩に対しても大船の建造を要請しました。安政3年(1856)、萩藩は洋式造船技術と運転技術習得のため、幕府が西洋式帆船の君沢型(スクーナー船)を製造した伊豆戸田村に船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣します。尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった高崎伝蔵らとともに萩に帰り、近海を視察、萩市小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設することを決定しました。同年12月には萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」(全長25m、排水量47t、スクーナー船)が、また万延元年(1860)には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」(全長43m)が進水します。現在も当時の規模の大きな防波堤が残っています。


「今浦波戸」: 現存する石造防波堤

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2隻の洋式軍艦の建造に関わったのは、楫取素彦の兄・松島 剛蔵です。
長崎に赴き勝海舟らと共に長崎海軍伝習所でオランダ人に航海術を3年間学び、帰藩して洋学所・軍艦教授所を創立する。軍艦教授所の門下生には高杉晋作らがいた。長州藩初の西洋式軍艦製造にともない、初代長州藩海軍総督となり、丙辰丸艦長に就任する。



■ 丙辰丸【へいしんまる】
長州藩が初めて建造した洋式軍艦。安政3年(1856)起工。
木製帆船で、全長約25メートル。
万延元年(1860)、艦長・松島剛蔵のもと、江戸への遠洋航海が行われる。
高杉晋作も乗船しており、数か月日記に記している。
江戸では長州藩士と水戸藩士の交流があり、丙辰丸の船内で「成破の盟約(丙辰丸盟約)」が交わされた。
その後は、第二次長州征伐や戊辰戦争に参加。維新後の明治3年(1870)、商人に貸し渡された。


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■ 庚申丸【こうしんまる】
長州藩が丙辰丸の次に建造した洋式軍艦。万延元年(1860)進水。
木製帆船で、全長約25メートル(あるいは35メートル)、30斤砲6門を備えていた。 文久3年(1863)、関門海峡にて攘夷戦を始めるが、アメリカ軍艦に砲撃され沈没。その後引き揚げて修復され、第二次長州征伐で幕府軍と戦った。


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# by kfujiken2 | 2019-08-31 17:31 | 歴史 | Comments(0)

北浦の奇岩・ホルンフェルスと萩市の文化史跡・遺跡 その①


1.須佐ホルンフェルス

須佐ホルンフェルスを含む「萩ジオパーク」が、2018年に日本ジオパークに認定されました!

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◆ いわれ、特徴、エピソード等

国指定の名勝及び天然記念物「須佐湾」に位置する自然造形美(高さ12m)で、灰白色と黒色の縞模様が美しいものです。
灰白色部分は砂岩層、黒色部分は泥岩層からなる須佐層群に火成岩体が貫入し変成岩に変化したものです。
黒雲母と呼ばれる鉱物に変わっているのが本来のホルンフェルスとのことです。 遊歩道で下まで降り、岩肌を見ることができます。


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◆ 地形・地質の概要

須佐ホルンフェルスは日本の地質百選にも選ばれている。
ホルンフェルス(hornfels)はドイツ語で「角の岩」という意味。
国指定の名勝及び天然記念物「須佐湾」に位置する自然造形美(高さ15m)で、灰白色と黒色の縞模様が美しいものです。
灰白色部分は砂岩層、黒色部分は泥岩層からなる須佐層群に火成岩体が貫入し変成岩に変化したものです。


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# by kfujiken2 | 2019-08-27 09:06 | 風景 | Comments(0)

下松スポーツ公園のヒマワリ


キク科の一年草で原産地は北アメリカと言われています。高さ3mくらいまで生長し、夏から秋にかなり大きな黄色の花を咲かせます。 学名はHelianthus annuus(ヘリアンサス・アナス)、和名(向日葵)の由来は、太陽の動きにつれてその方向を追うように花が回るといわれていますが、この動きは生長に伴うものであるため、実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな若い時期だけとなります。完全に開いた花は基本的に東を向いたままほとんど動きません


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太陽のような元気の象徴「ひまわり」の花言葉は、「憧れ」「あなただけを見つめる」だそうです。


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# by kfujiken2 | 2019-08-19 07:40 | | Comments(0)

ぱしふぃっく びいなす (PACIFIC VENUS)



市制施行80周年記念事業 クルーズ客船「ぱしふぃっくびいなす」が下松第二埠頭に初寄港。
「動くホテル」とも呼ばれるクルーズ旅行。
一流ホテルさながらの空間が、上質の船旅を演出。


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総トン数 26,594トン 全長183.4m 全幅25.00m 航海速力18ノット
乗客定員620名 乗組員204人 客室数238室
就航(改装年)1998年4月



船首からみた「ぱしふぃっくびいなす」

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船尾からみた「ぱしふぃっくびいなす」


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# by kfujiken2 | 2019-08-11 08:52 | 未分類 | Comments(0)

第27回 「サンドアートin光」


光市の夏の風物詩!長く愛される伝統のイベント!

サンドアートとは、干潮時に2時間程度出現する干潟を利用し、
砂の像を造り、その出来栄えを競うものです。


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◆  受 付:14時00分より       
◆  開会式:15時00分       
◆  競 技:15時20分~16時50分
◆  閉会式:17時00分 


西日本一の海水浴場がある虹ヶ浜海岸で、干潮時の干潟で家族や友達と砂の像を築きあげます。限られた時間、一生懸命に造った作品も満ち潮とともに跡形もなく消えていきますが、これまた自然の摂理。

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アトラクションで(アロハ・ラニ・スタジオ)のフラダンス


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# by kfujiken2 | 2019-08-05 07:36 | 未分類 | Comments(0)

残暑見舞い


残暑お見舞い申し上げます

今年は冷夏といわれておりましたが、梅雨明け以来意外にも、
連日猛暑が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
まだまだ暑さも続きます折、なにとぞ御身を大切にお祈り申し上げます。



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# by kfujiken2 | 2019-08-04 08:05 | 未分類 | Comments(0)

「世襲王国ニッポン」・・・ 世襲議員が日本を滅ぼす


世襲議員が多いことのデメリットは、政治を志すさまざまな人間が議員となる機会を奪い、参入障壁を高くする点や、議員にふさわしい能力と意欲を持たないにもかかわらず、世襲によって議員となってしまう点などが議論されている。

世襲を支える仕組みとして真っ先に頭に浮かんだのは、後援会の役割です。利権を壊さないという共通の目標があるので、後援会が世襲を求め、世襲が後援会を必要とする、という構図があります。既得権益を守ろうとするこうした動きは、新しい人材にとっては強い参入障壁になるだろう、と予想しています。
世襲における最大の問題点は、親子同士で、政治資金管理団体を事実上、無税で相続してきたということだ。この問題の根は深い。市井の人々が、資金繰りに悩む中小零細企業の経営者が、代々継がれてきた自営業の店主が、相続税に頭を悩ませ、苦しんできたのに、政治家だけが「特権」的にその苦しみから逃れてきたのだ。



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「議員の世襲」が行われるのは、「三バン」・地盤(後援会)、カバン(政治資金)、看板(知名度)により新人候補よりも圧倒的に有利になるからです。後援会には「跡取り」を育ててきたという意識があります。したがって当選すれば、親と同じように地元への便宜を図ることが期待され、議員もそれに拘束されてしまうのが現実です。
憲法は、国会議員を「全国民の代表」と定めています。国会議員の役割は、国防、外交、経済といった各政策について日本の意思を決めること。選挙区や後援団体など「地元の代表」ではなく、「全国民の代表」として行動することが求められるのです。

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日本が「世襲政治王国」と呼ばれたのは最近の話ではない。大名の子は大名、百姓の子は百姓だった世襲制度の江戸時代に戻ってしまったようだ。明治維新が成功したのは、挑戦精神に富んだ、優秀な下級武士が改革の先頭に立ったからです。彼らは世襲制度を崩し、野にあった優れた人材を積極的に登用しました。それでも最近再び話題になっている理由は世襲政治を制限しようとする自民党の改革の試みがまた失敗に終わったためだ。これまで政治世襲をめぐり、息子を秘書に採用して選挙区を譲る政治手法は決まった家から代々議員が出る江戸時代の藩と同じで、世襲が固定化すれば、優秀で多様な人材を政治に取り込む道が狭まる、という批判が続いてきた。


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小選挙区比例代表並立制という選挙制度に問題があるから、今の若手は偏差値が高く、知識は豊富でも、常識や人間力に欠ける政治家ばかりになってしまった。選挙制度が中選挙区から小選挙区に変わったことで、政治家が「庶民に選ばれるもの」から、「党幹部に選ばれるもの」になってしまったからです。
候補者が有権者である庶民に目を向けず、党幹部の顔ばかり見て、公認を貰おうとする。


努力が報われる社会を創るのか、既得権益に配慮するのか。世襲議員に対する態度は日本の方向性を示す重要な一歩です。だれもが平等に実力を発揮でき努力が報われる社会、その方向性を示す一歩を、政治に強く期待しています。

# by kfujiken2 | 2019-07-28 15:31 | コラム | Comments(0)

「竹久夢二展~憧れの欧米への旅~」



美人画で一世を風靡した「大正ロマン」を代表する画家・「竹久夢二展~憧れの欧米への旅~」が周南市美術博物館で行われています。


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艶福家であった夢二は『波乱万丈の恋人生』を送ってきた。夢二の絵のモデルはすべて恋人(岸たまき、笠井彦乃、お葉)。その恋のフェロモンが絵から発散し、没後84年たつ今も見る人を魅了させ続けているのではないか。絵だけではなく、グラフィックデザイナーの先駆者でもあった夢二。


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彼の絵は、心の中の詩を描いたものであり、単なる美人画と違い、見る者の心に訴えてくるものがある。竹久夢二の「夢二式美人」とは、美しい容貌だけでなく、女性を感じさせる動き、曲線、しなやかさを持った人のことだ。
美人画とは元々、浮世絵から始まったジャンルである。
その後、明治に入り西洋の絵画の技法が日本にも伝わり独自の絵画を生みだした。
美人画は浮世絵で確立されたジャンルであるが、浮世絵が廃れたのちも日本美術にその絵画は引き継がれた。
夢二は独自の美人画を描き、大正の浮世絵とも言われた。

# by kfujiken2 | 2019-07-23 15:13 | 未分類 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ⑥(last)


歴史と文化の町 玖珂

玖珂町は山に囲まれた小さい町だが、歴史は古く縄文時代には、既に原始人が住み始めており、町の中心部を東西に横切る旧山陽道は、古代から近世にかけて都と九州を結ぶ陸路の幹線として栄えた。
戦国時代には毛利元就の鞍掛城攻めや豊臣秀吉の九州征伐、江戸時代には参勤交代に伴う大名行列がこの山陽道を往来した。町内には往時を偲ぶ史跡が随所に残されている。



【玖珂町の旧山陽道沿いの寺社】

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※ 杉家の祥雲寺


戦国時代において谷津ケ浴にあって杉家(領主、杉治郎大輔隆康)菩提寺として敷地二千坪 末寺二十四坊を有する大きな寺院であった。弘治元年(1555年)鞍掛合戦により毛利一族に敗れ 杉隆父子は壮烈な討ち死にを果たした。祥雲寺もこの時消失したが、毛利氏一族の岩国吉川家に よって慶安年間に野口に城泉寺として再建され、元禄14年(1701年)現在地に移し、元文4年(1739年) 寺号祥雲寺が復活した。


【薬師堂までの参道】


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【祥雲寺の説明板】


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【鞍懸城主杉隆泰・父宗珊墓碑】

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※ 児玉家の大福寺


鞍掛城主・杉隆泰の家老児玉筑前守(戦死)の嫡男児玉佐渡守が出家して、亦了(えきりょう)と改名し、建立したとされる。
境内にある自然石碑境内は江戸時代中期本町下の狂歌人「柳門四世栗陰軒貞六翁之塚」がある。嘉永四年(1851)に九十四才で没したが門人たちによって建立されたものである。碑の右脇には彼の辞世の歌が刻まれている。「花にくらし 月にあかして  楽しみに  こころのこらずきゆる  雪の世」



【大福寺の参道】

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【大福寺の山門】

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【柳門四世栗陰軒貞六翁之塚】


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※ 岡家の浄光寺


養老五年(717)野口の里より玖の玉、珂の玉出現し、これを当山の霊泉で磨いたという故事にちなんで山号を清玖山、院号を宝珠院という。「玖珂町史」に「辞書に玖は黒岩の玉をいい、珂とは瑪瑠潔白にして雪の如しとあり、『清玖山上古記』に玖を以って南浦般若寺(平生町)に収め、珂を以って二井寺に納むとあり、さらに玖珂地名の起源となったと書いている。」とあり、玖西では二井寺(後述)に次ぐ歴史を有する。前述のとおり浄光寺と杉隆泰末裔岡氏とは菩提寺と檀家の関係にある。


【浄光寺の参道】


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【浄光寺の本堂】

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※ 宇野家の萬久寺

鞍懸合戦の後、杉氏の家老宇野筑後守正常の次子・西念の開基した寺で、境内に自然石の宇野築後墓があるが、名をはばかり「守」の字が無い。
境内には明治時代子弟の教育に尽くした前住職第十一世・宇野泰信上人の頌徳碑があります。


【萬久寺の山門】

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【宇野泰信上人の頌徳碑】

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【宇野築後の墓】


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※ 菅原神社 (玖珂天満宮)

杉氏の末裔でもある岡氏が、天災や疫病が続くのは弘治元年(1555年)の鞍掛合戦で非業の死を遂げた、杉隆泰父子一族郎党の祟りではないかと思い、岡家邸内に防府天満宮から分霊を勧請して天満宮を祀ったという。

【旧山陽道から見た菅原神社】

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【鳥居から拝殿までの参道】

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【菅原道真の家紋「梅鉢紋」】


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# by kfujiken2 | 2019-07-19 09:14 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ⑤

厳島合戦後の鞍掛合戦

安芸国の戦国大名毛利元就の大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦の防長経略(ぼうちょうけいりゃく)が弘治元年(1555年)10月12日から弘治3年(1557年)4月3日まで行われた。戦国時代末期、大内氏三家老の一人である杉治部大輔隆泰は鞍掛城主として周防国東部を固めていた。
厳島の戦いで陶晴賢に大勝利した毛利元就 は、その勢いで岩国に進出し、周防東部を治める大内家の武将杉氏の鞍掛城(現岩国市玖珂町)や土豪の椙杜(すぎもり)の蓮華山城・小方に降伏するように書状を送りつけた。
これに対し椙杜・小方両氏は、毛利方に味方したが、鞍掛城の杉隆泰は毛利元就の防長進出はどうしてもくい止める必要がある為、毛利には人質を送り一方では大内義長に忠誠を尽くす考えでいた。弘治元年(1555年)11月10日~14日(10月27日説もある)毛利が7千の軍勢をもって 周防国に攻め込んできた最初の合戦が鞍掛合戦であった。 杉方は2千6百の兵をもって鞍掛城と旧山陽道の南北に布陣し、毛利軍を迎え討つ。毛利の軍勢が、椙杜・小方の在郷武士の手引きにて午前2時頃出陣し4時頃鞍掛へ到着し、午前5時~7時頃にかけて一度におし寄せ杉隆泰陣の寝込みを襲撃した。不意をつかれた鞍掛方は、城主・杉隆泰をはじめ、家老 柳井若狭守、宇野築後、児玉筑前、有永備中、侍大将 三浦助衛門など、鞍掛側の戦死者370名が谷津ヶ原にて戦死。侍大将や足軽大将など多くの家臣が水無川に沿って南西の方面の二井寺に逃れ最後迄戦を行ったが敢え無く敗れた。



あざやかな奇襲!!「厳島の戦い」   クリックしてみて下さい。youtube 動画が観られます。


※ 防長経略 : 安芸国の戦国大名・毛利元就の大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦です。毛利元就が陶晴賢の残党や杉氏を玖珂から長門まで侵略を行った。陶晴賢と不和であった大内氏三家老の杉氏と内藤氏は「厳島の戦い」に参戦しなかったのに、防長経略のターゲットになったのは、この混乱に乗じ周防に勢力を広げていく防長経略の煽りをくい、攻撃を受けることになる。元就はまず調略で、大内陣営内部に揺さぶりをかけた。毛利元就の勧告に従い降伏。しかし、蓮華山城の椙杜隆康が、大内氏と杉隆泰の内通を元就に訴えたため、毛利軍は鞍掛山城を攻めた。杉氏は「鞍掛合戦」で討たれたが、内藤氏はどうしたんだろうという疑問が出て来ます。内藤氏(内藤隆世)は戦わずして長門に逃亡した。毛利軍も長門に進軍したが内藤隆世の切腹で決着した。家臣まで制裁をしなかったのは、内藤隆世の叔母尾崎局が毛利隆元の正室であった外戚関係だったから徹底的に制裁しなかったのでしょう・・・


例年11月の第3日曜日に行われるお祭りです 昨年のポスターです「鞍掛城まつり」

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# by kfujiken2 | 2019-07-12 09:01 | 歴史 | Comments(0)

映画 「ある町の高い煙突」を観て来ました


今だからこそ、知っていただきたい"実話"がある。
「八甲田山」や「劔岳 点の記」で知られる文豪・新田次郎の小説を映画化した「ある町の高い煙突」は、後世に語り継がれるべき渾身の「真実のドラマ」です。


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この物語の中心となる「日立鉱山の大煙突」は、1914年当時世界最高の155.7メートルを誇った、約3万7000人もの人々が、9カ月以上にわたって建造に従事し作り上げた、まさに努力の結晶。
大煙突ができるまで、村は鉱山の煙で甚大な被害を被っていた。作物は枯れ、人体にも影響を及ぼし、住民と企業は対立……。だが、入四間村青年同志会の男たちの決してあきらめない姿勢が、両者の関係を徐々に氷解させていく。環境問題が深刻化した今だからこそ、見るべき解決へのヒントが詰まっている。


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建設中の大煙突の足場


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久原房之助は藤田組を退社して、茨城県の赤沢銅山を買収、日立鉱山と改称しました。
秋田県小坂鉱山の経営の仕組みを流用して、日立鉱山の開発を進めます。
赤沢銅山は、重金属が含まれた鉱毒水による汚染、大量の樹木伐採による洪水など数多くの問題を抱えており、うまく操業できていませんでした。鉱山買収直後の1907年の段階で、近隣地区の8割で田植えができない状態でしたが、久原は土地の買収や鉱毒除去施設の拡充で対応しました。
日立鉱山は、あの大企業につながっていた! 現在のJXTGグループ、日立製作所、日産自動車等、日本の発展に不可欠な会社たちは、日立鉱山を源流として生まれた存在。それらの始まりの物語としても、重要な意味を持つ一作なのだ!



日立製作所の創業を語るには、久原房之助と小平浪平の2人の人物について触れる必要があります。


久原房之助は酒造業を営む萩市唐樋町の久原家に生まれ、叔父藤田伝三郎が興した藤田組に入社。その後、独立。久原鉱業(現 JX日鉱日石金属株式会社)を創業して茨城県の日立鉱山を世界屈指の銅山に育て上げたほか、国内外で事業を成功させます。
造船業に乗り出し日本汽船株式会社を立ち上げ、1917(大正6)年には下松に日本汽船笠戸造船所の操業を開始し、船渠及び製鉄工場の世界的大工業都市建設を計画します。しかし、アメリカの鉄鋼の輸出禁止策によって翌年計画を断念する。
その後、政治家となり政財界を縦横無尽に闊歩しました。


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久原房之助にヘッドハンティングされた小平浪平は、日立鉱山で発電所の建設を次々に成功させ、その後、工作課長として、機械の修繕を担当します。日立鉱山の発展は、先端技術の積極的な導入や機械化の影響が大きかったのですが、機械の電化という重要な部分を小平が担っていきます。
「日立精神」は、数々の失敗のなかからうまれた。一貫して模倣を嫌い、オリジナリティーにこだわった「創業精神」。丸太小屋を「世界の日立」にまで築き上げたのが日立製作所の創業者である小平浪平です。
じつは「世界の日立」は、この通称「日立製作所創業小屋」から始まったのである。「日立」にまつわる経済人といえば、【鉱山王】久原房之助や久原から事業を引き継いだ日産コンチェルン総帥・鮎川義介の名がおもい浮ぶが、日産コンツェルン傘下の日立製作所を、技術一筋でゼロから築き上げ、今日の「日立グループ」の中心的存在にした小平浪平という人物も忘れてはならない。


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# by kfujiken2 | 2019-07-05 10:12 | 未分類 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ④


西国の山城: 鞍掛山城

標高240mの鞍掛山の尾根に築かれた実戦的な山城である。築城年代は不明。大内氏の家臣・杉氏の居城。近隣には、すぐ北に椙杜氏の蓮華山城、南側には小方氏の瀬田城がある。弘治元年(1555年)に、陶晴賢が厳島の戦いで討死し、同年より毛利氏が周防・長門国への侵攻を開始した(防長経略)。その際に城主であった杉隆泰は、毛利元就の勧告に従い降伏。しかし、蓮華山城の椙杜隆康が、大内氏と杉隆泰の内通を元就に訴えたため、毛利軍は鞍掛山城を攻めた。


【鞍掛山城跡(鞍掛山山頂)】『ウィキペディアより』

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父の杉宗珊とともに籠城した隆泰がよく抗戦したため、毛利軍主力は山口方面に侵攻すると見せかけて蓮華山城へ兵を入れ、早朝に城の背後から奇襲を仕掛けた。 不意を突かれた鞍掛城籠城軍は、混乱に陥って壊滅。毛利氏に降って城攻めに加わっていた瀬田城城主・小方元康の手で隆泰も討ち取られ、鞍掛山城は落城した(鞍掛合戦)。 その後、鞍掛山城は廃城となった。 毎年11月には「鞍掛城まつり」が催されている。また城下には討死した者を弔った千人塚があり、そこには宇野千代の句碑が立っている。


【鞍掛山城跡の場所】

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史跡鞍掛合戦千人塚 


今から約450年前、弘治元(1555)年11月14日守護大名大内氏の家臣杉隆泰・公宗珊一族郎党2600人は、戦国大名毛利元就・吉川元春・小早川隆景一族郎党7000人を迎え撃ち戦いました。しかし、多勢の無勢、杉氏一族は奮戦むなしく無念にも討ち死にし、鞍掛山城は落城しました。城主父子の墓は祥雲寺にあり、部下将兵 一同はここに千人塚として合葬されている。
当時、領主杉隆泰は、玖珂盆地周辺に3万石を有していました。この谷津の地には、合戦の後、戦死者を弔うための積み石塚がいくつか造営されました。昭和8(1933)年3月14日、玖珂町が残存状態の比較的よい積み石塚の3基を改修して、花崗岩製の墓柱を建立しています。昭和63(1988)年、南端の1基について、玖珂ライオンズクラブが積み石塚を覆う基壇を設置する改修工事を実施しています。



【史跡 鞍掛戦死者之碑(鞍掛合戦千人塚)】

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【鞍掛合戦千人塚の説明板】


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【宇野千代女史の「史蹟 千人塚に想ふ」と題した追悼碑】


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【千人塚背後の積石塚】


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# by kfujiken2 | 2019-06-29 06:56 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ③


杉氏 改 柳井氏先祖由来の中で、前回は杉隆泰長男・鎮頼(専千代丸)を紹介しましたので、今回は次男・亀若丸を説明致します。



次男・亀若丸・5歳(後裔の柳井氏 宇部市在)は鞍掛合戦前、野口の緒方源内に預けれ、緒方源内の妻が乳母となり養育されて成人します。
(緒方源内は豊後国木付之城主緒方惟栄(おがた これよし)之末子で杉家と親族関係でもあり、天文13年(1544)鞍掛合戦11年前に杉家をたよって玖珂の野口村に移住する)、源内の娘を嫁としたが死別、杉隆泰の家老・柳井若狭守の娘を嫁とし柳井源治郎と称する。大日如来の信仰厚く、合戦27年後の天正12年(1584)に大日堂(寺)を創建し、杉家以来柳井家の霊を弔う。現在も野口上の中央病院の国道2号線沿いの丘に連綿としてその堂宇が残っている。この大日寺の裏山には亀若丸の墓も苔むしている。



【柳井氏関係の地図】

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【一之迫の柳井氏屋敷跡】

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次男亀若丸(のちに柳井源次郎と称す)創建の大日堂(寺)は今は荒れ、小さな堂と土塀の一部を残すのみだが、大日寺領域は広く、国道二号線や県道(欽明路道路)によって分断されている。大日堂の西側には杉氏末裔服部氏一族の墓、東側には寺域内に点在していたとおもわれる八十八か所観世音菩薩像を一箇所にまとめている。


【小さな堂】


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【当時に建てられた堂宇かどうか分かりません】


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【八十八か所観世音菩薩像】

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※ 柳井家家系の起源


柳井家は、起源を人皇(神武天皇以後の天皇)第五十一代・平城天皇の第一皇子・阿保(あぼ)親王の第一子・大枝本主(おおえ もとたか)に始まり、大枝本主の嫡男大江音人(おおえ おとんど)の時、姓を大枝を改め大江と為す。
大江氏といえば鎌倉幕府政所別当を務めた大江広元が存在しましたが、大江広元は安芸毛利氏の始祖と言われています。(大江氏の本家筋ではないが、元就・輝元に繋がっています)
つまり、柳井家と毛利家は遠戚関係にあるのですが、戦国時代は群雄割拠して天下をうかがう戦国の世で、豪族間も領土の拡張百姓の確保懐柔に、外交上は遠交近攻、武力にて弱肉強食、女性を犠牲にして政略結婚など秘術を尽くし、下剋上、近親相剋、昨日の友も今日は敵となる浅ましい世相であった。

# by kfujiken2 | 2019-06-24 10:45 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ②


杉氏 改 柳井氏先祖由来


杉隆泰長男・鎮頼(専千代丸)の生涯に二説あるようです。杉隆泰の長男・鎮頼(専千代丸)と嶋寿丸伊房が同一人物か別人かという部分が分かりません。その上、鎮頼(専千代丸)の生涯に二説あるのに思いあぐねます。一説は帰農して岡氏と名乗り、二説は大友宗麟の家臣として仕えたと記述があります。もし二説が真実ならば、惣庄屋の岡氏は誰の後裔なのかと言う疑問が湧いてきます。


一説は、嶋寿丸伊房(これふさ)は鞍掛合戦時に、母と共に山口杉屋敷在6歳、後に杉助三郎と改姓する。嫡男嶋寿丸は山口で百ケ日法要をいとなんだ後、元就山口攻めの風聞に接し、近習三十余人とともに豊前松山城主(現・福岡県京都郡苅田町)杉重吉(母方の叔父)を頼ったが、ここも大友氏との関係が緊迫していたため、母と女中を預け置き、伊予に渡り三ケ年浪々と過ごしている。永禄元年秋安芸厳島に参詣したが、座主は杉家に由緒ある者で、近習十三人のうち二名を留めおき残り十一人は金銀を配分して浪人となし離散させた。嶋寿丸は座主の思召しを以って毛利七郎兵衛を頼み、元就へ相談した。元就は、その請をいれ玖珂の荘官末岡土佐に預けられた後、瀬田丸山の領主小方元康の言によって杉助三郎と改称し、後柳井清左衛門の養子となり、その家にて死んだと言われる。四代目故あって岡姓と称する。(岡氏 京都市在)
 二説は、鞍掛合戦後、豊後国の戦国大名・大友宗麟の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼(すぎ しげより)と名乗り、天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。



【丈六寺跡と岡家墓地の場所】


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【丈六寺跡の石組みと思われる】

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【岡家の墓地】

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(注)杉鎮頼(専千代丸)は嶋寿丸伊房とは別人で、のちに大友義統から豊前国田川郡の内、仲元寺の地を知行、島津氏と耳川の戦いに於いて死し終末をとげている鎮頼(専千代丸)の方が正統と思われる。



次男・亀若丸は柳井家と改姓しているので、次回の説明とします。
# by kfujiken2 | 2019-06-18 08:18 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ①

大内氏の重臣杉隆泰

杉治部大輔隆泰(すぎじぶたいゆうたかやす)は、戦国時代の武将で周防国鞍掛山城主。大内義隆に仕え天文19年(1550年)、従五位下に叙し、以後治部大夫と称する。父は杉貞泰(法名は土佐入道宋珊・とさにゅうどうそうさん)、子に杉鎮頼(すぎしげより)と称す。
鞍掛杉氏は応永6年(1399年)に足利将軍家と大内氏から、周防国玖珂郡を拝領した一族であった。杉隆泰は、平時は山口に出仕して大内氏の領国統治に従事し、所領の玖珂郡は影響下の国人衆に統治を委任していた。なお、諱の「隆」の字は主君の大内義隆から偏諱を賜ったものである。
晴賢の謀叛により大内氏31代義隆が自刃した後は、晴賢が大内氏の当主としてたてた大内義長(大友宗麟の異母弟)に仕えました。天文24年(1555年、弘治元年)の厳島の戦いの後、毛利元就が周防国東部へ進出し、玖珂郡への侵攻を開始すると、隆泰はその矢面に立たされた。最初は毛利氏に臣従したものの、近隣の蓮華山城主椙杜隆康(すぎもり たかやす)との関係もあり、毛利氏の攻撃を受けた。
 隆泰は居城の鞍掛山城に籠っていた際に奇襲に遭い、防戦に努めるも、ついに鞍掛山城は落城。隆泰は父の宗珊と共に討死した(鞍掛合戦)。
享年31。法名は鐵真院殿享安元樹大居士。墓所は鞍掛山城の麓にある祥雲寺。
嫡子の専千代丸は、豊後国の戦国大名・大友義鎮(宗麟、大内義長の実兄)の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼(すぎ しげより)と名乗り、
天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。
※ 耳川(みみかわ)の戦い : 九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。


※ 杉隆泰家の略系図

[重運]――[第一代 杉重明]――[第二代 杉重茂]――[第三代 杉頼明]――[第四代 杉弘依]――[第五代 杉興頼]――「第六代 杉隆泰]――[第七代 杉鎭頼]――[某 専千代]



【杉治部大輔隆泰と父の杉土佐守貞泰の墓】


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古戦場のまち 「玖 く が 珂」のマップ

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# by kfujiken2 | 2019-06-14 10:39 | 歴史 | Comments(0)

周防大内氏第16代当主・大内義隆を支えた、3人の家老の一人・玖珂の鞍懸城主・杉隆泰


縁あってこの杉隆泰と鞍掛城のことを知り、調べてみる経緯となった次第です。
先週玖珂町の図書館・教育委員会に行き資料を調べて来ましたが、史跡の撮影をする時間がありませんでしたので、近日中に史跡の撮影に行って来ます。


山口の基礎を築いた大内氏は、南北朝〜戦国時代に中国地方に勢力をふるった豪族。百済聖明(くだらせいめい)王の第3子琳聖太子の子孫と称し,聖徳太子より多々良の姓を与えられたと伝える。弘世(ひろよ)の時,足利氏に従って戦功を立て,山口を本拠として勢力を拡大した。その子義弘は6ヵ国の守護を兼ねた。応永の乱で一時衰えたが再興し,日明貿易の独占で富強を誇る。最後の当主・義隆の時,家臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭って(大寧寺の変)で滅ぼされた。
大内政権は、主君を中心に周防守護代・陶氏、豊前守護代・杉氏、長門守護代・内藤氏の重臣(大内氏奉行三家老家)が、いわば内閣として中枢部を構成していたが、陶氏が筆頭の地位にあった。

陶氏は富田若山城、内藤氏は長府勝山城、杉氏は玖珂鞍掛城と居城を持ち活躍した。
陶氏は(大寧寺の変)後、毛利元就と戦った(厳島の戦い)で破れ、毛利元就は大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦の防長経略(ぼうちょうけいりゃく)を行い、杉治部大輔隆泰が鞍掛城主の周防国に攻め込んできた最初の合戦が鞍掛合戦であった。



鞍掛城まつり実行委員会より、昨年のポスターをお借りしました。

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◆ 大内氏の重臣杉隆泰

杉治部大輔隆泰(すぎじぶたいゆうたかやす)は、戦国時代の武将で周防国鞍掛山城主。大内義隆に仕え天文19年(1550)、従五位下に叙し、以後治部大夫と称する。父は杉貞泰(法名は土佐入道宋珊・とさにゅうどうそうさん)、子に杉鎮頼(すぎしげより)。
鞍掛杉氏は応永6年(1399年)に足利将軍家と大内氏から、周防国玖珂郡3万石を拝領した一族であった。杉隆泰は、平時は山口に出仕して大内氏の領国統治に従事し、所領の玖珂郡は影響下の国人衆に統治を委任していた。
なお、諱の「隆」の字は主君の大内義隆から偏諱を賜ったものである。

晴賢の謀叛により大内氏31代義隆が自刃した後は、晴賢が大内氏の当主としてたてた大内義長(大友宗麟の異母弟)に仕えました。
天文24年(1555年、弘治元年)の厳島の戦いの後、毛利元就が周防国東部へ進出し、玖珂郡への侵攻を開始すると、隆泰はその矢面に立たされた。最初は毛利氏に臣従したものの、近隣の蓮華山城主椙杜隆康(すぎもり たかやす)との関係もあり、毛利氏の攻撃を受けた。
隆泰は居城の鞍掛山城に籠っていた際に奇襲に遭い、防戦に努めるも、ついに鞍掛山城は落城。隆泰は父の宗珊と共に討死した(鞍掛合戦)。
享年31。法名は鐵真院殿享安元樹大居士。墓所は鞍掛山城の麓にある祥雲寺。

嫡子の専千代丸は、豊後国の戦国大名・大友義鎮(宗麟、大内義長の実兄)の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼と名乗り、天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。


※ 耳川(みみかわ)の戦い : 九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。


「鞍掛城まつり(11月)」の マスコットキャラクター「鞍隆くん」

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# by kfujiken2 | 2019-06-09 13:41 | 歴史 | Comments(0)

宇部市小野に歴史上新事実が見つかる その③・・・財満家の館跡


◆ 財満家関係者の墓が集められ建立されている財満苑です。二の丸様の顕彰碑の横で今も守っているように感じました。


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◆ 毛利輝元の重鎮、山本市左衛門は二の丸様が財満家に預けられた時にお目付け役として広島から派遣されました。毛利秀就が生まれた後には献身的な功をなしたとされています。輝元から広島に帰るように勧められるも辞退し、亡くなるまで当地で庄屋などを務めたとされます。


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◆ 大内氏の家臣であった財満家であるが財満宗因軍は毛利元就に攻められ全滅する。津室弥左衛門に連れだされて養育された財満宗因の子忠久は毛利元就に見出され初代小野村領主となった。


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◆ 毛利秀就公誕生に関わる数々の史跡を総合して、この地を「史跡の杜」と命名した。


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『郷土を伝える』
私たちの先祖は      
 喜びの時も 苦難の時も   
天を仰ぎ 神を敬い         
 仏に感謝し     
見えない存在に
  神仏を感じてきた
大きな災害や 危機の時も
自らの努力で 
乗り越えてきた
先人たちは
その心を土台にして
この郷土を継承している

この喜びを後世に伝えたい
伝えることの大切さを
この「史跡の杜」に
伝えてほしい

# by kfujiken2 | 2019-05-29 17:31 | 歴史 | Comments(0)

宇部市小野に歴史上新事実が見つかる その②・・・財満家の館跡


説明がその①と重複している所があるかも知れませんが、その点はお含みおきながらお読み下さい。


◆ 毛利秀就公出生の秘話と二の丸様の苦悩と悲哀



通説では秀就は文禄4年(1595年)に広島で生まれたとされているが、異説として天正19年(1591年)に長門厚東郡四ケ小野村(現在の宇部市小野地区)で出生したとの説がある。これは、宇部市小野地区に残る古文書に「秀就は小野村で生まれた」との記述があることから小野郷土史懇話会の会員が調査したもので、厚東郡小野村の領主であった財満家の文書や伝承から、財満忠久・就久父子の屋敷が出生地であると結論づけた。この説によると、輝元の正室・南の方を非常に恐れていた側室の二の丸殿は、懐妊が発覚すると秘密裏に財満家に匿われて、そのまま密かに出産したとされる。

輝元が二の丸様を要害の地として小野村を選び領主財満就久に身辺保全を頼んだのは、嫉妬深い正室の南の方や長門長府藩主・秀元を取り巻く家来から殺害されることを懸念したとおもわれる。 数多家臣のいる中において、側室二の丸の隠棲と嫡子の出産問題で、頼りにして白羽の矢を当てたのが財満就久は、領民の自主性を重んじ官民が一体となって政を行い、領民からも慕われていた。特に領内にあった数多の宗派を浄土真宗一派に統一して、宗教活動を通して領民のわだかまりやもめごとの無い、和やかで平和の村を建設していた。

また、出生後の処置について小早川隆景に相談した記録も発見された(財満家文書)。財満屋敷跡がある同地には、秀就の誕生時に使われたという「産湯の池」や暗殺を逃れるための「穴蔵」などが残るほか、村人たちが秀就の成長を高良神社で祈願したとの伝承も残っている。


毛利秀就公出生の地の案内板と説明石碑

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毛利秀就の誕生に縁起する財満家と毛利輝元側室の二の丸様の苦悩と悲哀について書かれた説明看板です。


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二の丸様の顕彰碑

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二の丸様の戒名

快楽院栄誉周慶大姉
慶長九年八月一日没
行年 三十二歳





二の丸様の石造

子供の頃から美人の誉れ高かったそうですが、何をモデルに造られたのでしょうか?

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二の丸様の心情を詠まれた 【二の丸悲愁 中尾岳奨作】


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馬乗り石

幼い頃の秀就は、この台石の上から馬の鞍に乗せてもらい、乗馬を楽しんでいたと考えられる。その後、この石は縄や草履などを作る時の「藁打ち台」に利用したとか。


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「産湯の池」


この池は出産に用いられた「産湯の池」とされている。

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若宮神社

敷地内に秀就の御胞衣を祀るとされる若宮神社がある。


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# by kfujiken2 | 2019-05-25 10:48 | 歴史 | Comments(0)

宇部市小野に歴史上新事実が見つかる その①・・・財満家の館跡

長州藩初代藩主・毛利秀就( ひでなり)誕生の真実
毛利秀就誕生地は広島ではなく山口県宇部市であった!




財満家館の跡の石碑

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所在地: 山口県宇部市小野2707(宇部市小野東阿武瀬) 

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長州藩初代藩主・毛利秀就誕生地が山口県宇部市であったという真実を、
宇部市や宇部市近郊の人は多少はご存知かと思いますが、果たして山口県の
県民がどの位ご存知でしょうか? いや通説では秀就は広島で生まれたとされているが、この異説を信じるでしょうか!!!

歴史教科書に載ったことが真実か、学校の歴史教育が年々劣化している気がします。作家や学者が歴史を変える、歴史を捏造しているのではないでしょうか!武家時代に生活していた人が、現在生きている証人はいない。確かに古文書に書かれた資料はあったでしょう、しかしそれは紙に書かれた物で紛失した物もあるでしょう又、焼失した物もあるのではないか・・・ 誰かの手によって書き換えらたものは多々あるでしょう。
ある歴史研究家が話していましたが、皆の前で挙手して自説を述べるとそれが定説となると、つまり、歴史が語るのではなく歴史を語るということです。



長州藩初代藩主・毛利秀就誕生を語る前に、父親・毛利輝元と母親・側室二の丸様の関わりをご理解頂かないと、毛利秀就誕生の経緯を説明しても流れが分からないと思いますので、関わりを先に説明します。


◆ 毛利輝元と周姫(かねひめ:のち輝元側室二の丸)の関わり

毛利輝元は毛利氏家臣児玉元良の娘周姫(かねひめ:のち輝元側室二の丸)を一目惚れするが元良はこれを断り、許婚の野上庄(徳山)の杉本元宣に嫁がす。天正16年(1588)秋、夫の元宣が小早川隆景の家来として筑前の戦いで不在のとき、輝元は重臣佐世石見守の手配で杉山土佐元澄に命じ周姫を広島に拉致。このとき船を出したのが毛利水軍の相嶋仁右衛門兄弟。周姫は側室になることを拒否し続けたため、輝元は実家である児玉氏の安芸賀茂郡福富竹仁の阿良井城の領地を没収し、家族は離散の制裁をうけることになる。一方、小早川隆景は天正17年正月夫の元宣にこれを伝え許すよう伝えるが、元宣は妻を奪還するため数名の部下を連れ戦場を離脱し、天正17年3月6日野上の館から広島へ向かおうとして船出するが、海が荒れ航行できず徳山湾先の船隠しという所で隆景家来の追手に9名の部下とともに海に切り捨てられる。
その元宣と家来の墓は徳山の万徳山興元寺の墓地に、父親元相の墓とともにある。
これらを知った周姫が輝元の側室となることを認めるのは天正17年春のころであるが、これにより輝元は周姫の長兄児玉元兼に安芸佐西郡己斐・草津一帯3000石を与え、さらには輝元直属の五奉行に加えられる。周姫は新たに築城された広島城二の丸に住むことになり「二の丸様」と呼ばれることになった。また、この天正17年7月2日に、輝元は三番目の兄児玉景唯に、長門厚東郡小野村の直ぐ北隣の美祢郡綾木村3000石の領地を与え、そこに住まわせている。
不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受け、長男:秀就を出産後、長女: 竹姫・次男: 就隆(徳山藩初代藩主)を出産。



二の丸様顕彰碑正面・華表と玉垣


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二の丸様の功績

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毛利秀就の実父・毛利輝元像

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# by kfujiken2 | 2019-05-23 09:45 | 歴史 | Comments(0)

角島散策・赤間神宮参拝の旅 その④ ・・・ 赤間神宮


今回の旅の最後の訪問地・赤間神宮です。
赤間神宮の「先帝祭」は、見物客で大変混雑するし、交通規制や駐車場の確保等が嫌で避けて来ました。しかし一度は「上臈道中」を見てみたいものです。


◆ 赤間神宮由来

寿永4年(1185年)3月24日、権勢を誇った平家一門は壇ノ浦に滅亡し、幼帝・安徳天皇は祖母の二位の尼に抱きかかえられ入水する。その御霊を慰めるために建久2年(1191年)に創建されたのが御影堂(阿弥陀寺)である。その後、明治となってから神仏分離令によって阿弥陀寺は廃され、安徳天皇を祭神とする天皇社ができる。そしてその社が改称され赤間神宮となる。

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◆ 赤間神宮を象徴する「水天門」

赤間神宮の神門は“水天門”と呼ばれ、竜宮城を模して作られている。これは二位の尼が安徳天皇と共に入水する際に「浪の下にも都の候ぞ(波の下にも都がございます)」言ったことに由来する。

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水天門の楼門より覗き見た拝殿(大安殿)

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拝殿と外拝殿から見えるの内拝殿の舞楽舞台

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水天供養塔

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芳一堂

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平家一門の墓(七盛塚)

壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓(供養塔)。14名の供養塔が並び、名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する。

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安徳天皇阿弥陀寺陵

800年前の源平壇之浦合戦で御入水された人皇第81代安徳天皇の御尊体を奉じて御廟所が造営された。その後明治維新の後現在の御陵となった。

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# by kfujiken2 | 2019-05-20 13:06 | 風景 | Comments(0)

角島散策・赤間神宮参拝の旅 その③ ・・・ 海峡ゆめタワー


海峡メッセ下関は3つの建物から構成される。10階建ての「国際貿易ビル」は船をイメージした建物で、国際会議場、青島・瀋陽・慶尚南道などの海外事務所、パスポートセンター等が入居。島をイメージした「アリーナ」は見本市会場とイベントホールから成る。そして「海峡ゆめタワー」のイメージは灯台。
駐車場からイベントホール・展示見本市会場「アリーナ」まで、一旦4階までエレベーターで昇り、そこから海峡ゆめタワーのエレベーターに乗り換え、最上階30階展望室へ!!!


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海峡の街、下関の灯台をイメージしたシンボルタワーは高さ153m。展望室の高さは地上143m、最上階の展望室へはシースルーエレベーターで70秒!目の前に広がる眺めは、関門海峡、武蔵と小次郎が決闘した巌流島、北九州の連山、響灘、そして日本海と360度のパノラマが楽しめます。



早朝で朝靄がかかり画像が白っぽくなったのが残念です。
関門海峡を望む東側の風景。対岸は北九州市門司区で、左には関門橋が見えます。


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西側の風景で、手前の小さい島が武蔵と小次郎が決闘した巌流島で、後方が彦島です。

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北側の風景で、下関駅の一帯です。


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恋人の聖地プロジェクトから山口県初の認定を受けた縁結び神社が、
展望室にありおみくじが人気だそうです。


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# by kfujiken2 | 2019-05-18 17:13 | 風景 | Comments(0)

角島散策・赤間神宮参拝の旅 その② ・・・ 道の駅北浦街道豊北


角島を後にし国道191号線を南下して下関を目指す!
途中「行ってよかった!道の駅ランキング2016」で全国1位に選ばれた、道の駅「北浦街道豊北」に寄ってみることにしました。
道の駅「北浦街道ほうほく」は、北長門海岸国定公園に指定された美しい景観の国道191号線沿い、眼下には和久漁港を、水平線には角島大橋を遠望する丘の上にあります。


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確かに土曜日で物凄い人混みでしたが、何を評して全国1位というのか、
「角島大橋が見える最高のロケーション」!!! 角島大橋まで少し距離があり過ぎてよく見えない、又、眼下の和久漁港は雑然としている・・・ 
それ故展望テラスに出て景観を眺めている人が少ない、評判倒れの気がしました。


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道の駅北浦街道豊北を後に一路次の目的地・下関に走り、夕方5時を過ぎていたので予約していたビジネスホテルにチェックインし、明日の英気を養う為に命の水を求めて居酒屋へと急ぎました。
さぁ~ 明日は海峡ゆめタワー・赤間神宮を見学し、カモンワーフで昼食をとり帰路に着こうと予定しております。

# by kfujiken2 | 2019-05-16 09:59 | 風景 | Comments(0)

角島散策・赤間神宮参拝の旅 その① ・・・ 角島はこんな島です!


角島は山口県の北西、日本海にぽっかりと浮かぶ、つつみの形をした、人口900人あまりの島です。2000(平成12)年、全長1,780mの角島大橋完成にともない、一気に山口県を代表する人気観光スポットになりました。角島の魅力は、なんといっても白い砂浜とエメラルドグリーンの海です!日本海とは思えない、南国の海と錯覚してしまいそうな光景が広がります。


中国自動車道を美祢ICで降り国道435号を西に進み、豊北町特牛交差点を右折し国道191号線を北上し、海士ヶ瀬ロードに入り目的地の角島大橋に着き、取り合えず「海士ヶ瀬(あまがせ)公園」に駐車し、橋を渡る前に、「海士ヶ瀬公園」より大橋と角島を望む。
自然と見事に調和した橋の造形美もさることながら、目を奪われるのは海の色!
橋のたもとから海岸に沿って、見事なまでのエメラルドグリーンの海が広がります!


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危険ですからマネをしてはいけません!!! 
車の往来の隙間に、道路の中央に出て撮影しました。


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公園からの眺望の素晴らしさはもちろん、道路を挟んだ反対側(南側)には展望台も設けられています。

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角島大橋の中間点に位置する鳩島です。


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「しおかぜの里 角島」で昼食をとり、イングリッシュガーデン風の「夢崎波の公園」へと足を延ばしました。さまざまな不思議なオブジェが設置されています。


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日本の橋ランキング1位の角島大橋を渡って上陸する角島。島内にも見所は目白押しですが、中でも一際強い存在感を放つのが空に高く突き立つ角島灯台です。
総御影石造りで白さが際立つ美しい灯台は、日本海側初の洋式灯台。明治9年に初点灯し、以後130年以上経った現在でも毎日点灯している現役の灯台です。その高さ約29メートル、上部は展望台として一般に開放され(有料)、角島の風光明媚な景観を一望にすることができます。


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# by kfujiken2 | 2019-05-14 08:45 | 風景 | Comments(0)

佐波川こいのぼりの川流し



三日前(5月5日)仁保一貫野の藤を見てから、防府市の道の駅「潮彩市場」に行こうと佐波川沿いを南下していると、防府市の佐波川で、120匹の色鮮やかなこいのぼりが水中を泳ぐ「こいのぼりの川流し」に遭遇しました

話に聞くと、2008年からゴールデンウィーク(3日~5日)の恒例行事として行われている「佐波川こいのぼりの川流し」、通称「こいながし」は、山口県防府市の小野地域の有志や子どもたちが地域活性化を目的に行っているイベントで、開催期間中は多くの観光客が見物に訪れています。


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空中にたくさんのこいのぼりを泳がせるニュースはよく見ますが、大量のこいのぼりが優雅に川中を泳ぐ姿は圧巻!!!
当初は空中にロープを張ってこいのぼりを泳がそうと思ったそうですが、川幅が広すぎて難しいので川の中に泳がしたようです。


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水の流れ、風の強さのタイミングが合えば、こいのぼりの胴体が少し浮かびあがり、口から風が入り込み、頭を水面から出している姿も見れます。
この日は川下つまり南風が吹き、こいのぼりの口から風が入らず全体沈んで見えました。 


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# by kfujiken2 | 2019-05-08 06:37 | 未分類 | Comments(0)

遅かりし由良之助・・・仁保一貫野の藤


今年は温暖で花の開花が早く、仁保一貫野の藤は例年GW明けが見頃なんですが、藤の花は如何かなと不安に思っていました。
5月3日の仁保自治会Webサイトの開花状況に、昨年と比べて房が少ないようだが、花の開花が進んでるとの情報でしたので、そろそろ見頃になったかなと昨日(5月5日)期待し出掛けました。花の咲き具合に表年と裏年があるそうですが、近年最低の状態でした。


今年の藤の花

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同じシチュエーションで撮影した一昨年の藤の花・・・藤の花が少なく房が短いのが分かるでしょう!!!

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山口市の仁保一貫野地区で見られる藤、一貫野集落を流れる坂本川の御坊淵と呼ばれるところに自生しています。人工的に造られた藤棚ではなく、まさしく自然の藤と藤の下を流れる滝とまでは言えませんが渓流のコラボが、藤の美しさと自然の優雅さが感じられる所が、人気のある所以ではないでしょうか・・・


※ あまり晴天だと藤の葉や花にハレーションを起し紫がクッキリと写りません。
なので撮影日を狙うなら太陽が出ていない曇りの時が良いかも知れません。

# by kfujiken2 | 2019-05-06 10:21 | | Comments(0)

浩宮さま(現 皇太子)が即位したら「皇太子」がいなくなる


皇族の身分を規定する『皇室典範』には、代替わりについての大きな穴があった。
今上天皇が代替わりし、現皇太子の浩宮徳仁親王が皇位に就いたとき、皇室には「次の天皇(皇嗣)」たる権利を持つ「皇太子」がいなくなってしまうのだ。皇位継承権を持つ皇族男子(秋篠宮文仁親王も悠仁親王)は存在する。
けれども、お二人は「皇太子」にはなれない。『皇室典範』が定めている皇太子の条件に合致しないからだ。


※ 『皇室典範』: 〈第八条 皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という〉


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「皇子」とは、天皇の息子を意味する。だから現在、皇太子の地位には、今上天皇の長子である浩宮様がついている。
皇室典範第一条には〈皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する〉とあるので、息子がいない以上、「男系男子」の孫(皇太孫)も当然いない。皇位第一継承者は弟宮の秋篠宮文仁親王は『皇嗣たる皇子』ではないから、皇太子にはなりません。歴史上の表記でいえば、〝皇太弟〟ということになる。悠仁親王は皇太孫ではなく、天皇の甥なので、やはり皇太子にはなりません。



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皇太子がいなくなれば、宮内庁法第六条によって〈皇太子に関する事務をつかさどる〉とされる『東宮職』がなくなります。皇太子殿下が即位されれば、皇位継承順位第一位の秋篠宮殿下が、今の皇太子殿下の職務を引き継がれるでしょう。そうすると、宮家皇族としてこれまで秋篠宮殿下がやってこられた公務はどうなるのかという問題が出てきます。
東宮家と宮家では、公的な活動の内容も大きく違ってくる。宮家皇族は公益法人など各種団体の名誉職に就いて活動できるが、皇太子・皇太子妃は、天皇・皇后と一緒で、原則的には団体の名誉総裁には就かない。宮家皇族としての公務と皇太子の公務を兼任するというのは難しいだろう。


歴代の天皇家において、皇太子が空位だったことは決して珍しいことではありません。愛子内親王を皇太子とすれば、これらの問題は回避できる。しかし、『女系・女帝』を容認するということで、この方法は無理だろう。
現行の第八条の条文を、『皇位継承順位第一位の皇族を皇太子という』に改正する方法があります。そうすれば、皇太子殿下が即位された時点で秋篠宮殿下は皇太子となります。


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# by kfujiken2 | 2019-04-30 09:04 | コラム | Comments(0)


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


by fujiken

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