明治維新の柳井市阿月地区の志士たち その②

代表される志士たちを紹介しましょう・・・

● 浦 靱負(うら ゆきえ)

長州藩寄組・国司氏の当主で長州藩家老の一人として重用されていた国司
就孝(国司信濃)の次男として生まれる。成長後、同じく長州藩寄組で阿月
領主浦氏の家督を継ぎ、秋良敦之助を登用し家政を改革した。天保13年
(1842年)に領内に学問所である克己堂を創立した。弘化四年家老職に
任ぜられて江戸当役となった。嘉永六年米使の来航に藩兵を率いて
大森羽田を警備した。安政五年当職に転じ、万延元年辞職、文久二年命を
受けて兵庫警備の兵を督した。同年四月に上京して皇居護衛の任に当たり、
八月世子定広の奉勅東下に従い、これを補佐して江戸に行った。同三年
加判役となったが、その冬一切の職を辞して領地阿月に帰郷した。元治元年の
禁門の変後も革新派の黒幕として藩論回復に尽くした。


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● 秋良敦之助貞温 (あきら あつのすけさだあつ)

文化8年9月4日生まれ。萩藩寄組家老浦家の家臣。藩校明倫館でまなぶ。
天保6年藩の加判役公用人を辞して浦家の財政改革にたずさわる。幕末には
尊攘運動にかかわり,海防策を講じた。維新後は教部省にはいり鎌倉宮や
大和神社の宮司をつとめた。製塩事業家の秋良貞臣は嫡男にあたり、同所で
生まれている。


※ 秋良貞臣( あきら さだおみ)は、下松市の笠戸島の藩有林内で石灰石を最初に発見したので知られています。
維新後は塩業をはじめ諸産業の発展に努めて、父秋良敦之助と
共に諸国の志士と交わって国事に奔走しながら、同時に物産会所を
創設し、晩年は製塩・塩経営に専念し、明治12年防長塩田社長。
大日本塩業同盟会委員長などをつとめた。


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● 白井小助(しらい こすけ)

儒学者の長男として文政9年(1826)萩市に生まれました。26歳の頃、柳井市阿月に移住し、浦靭負の家臣となりました。江戸に行き、佐久間象山に砲術を学びましたが、このとき吉田松陰と起居をともにし、二人は親友となりました。
後に浦家の学塾「克己堂」の学頭となりました。第二奇兵隊の創設に尽力し、
四境の役大島口戦で総督として活躍、また戊辰戦争では討幕軍参謀として活躍しました。維新後は、明治維新のポストを断り、平生町田布路木に私塾「飯山塾」を開いて子弟の教育に務めました。


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● 芥川義天(あくたがわ ぎてん)

円覚寺の門前に明治維新第二奇兵隊総書記芥川義天出生之寺の石碑が建てられている。円覚寺の住職芥川義天は克己堂で学んだ後、第二奇兵隊総書記として活躍した。秋良敦之助の妹の子として円覚寺に生まれた。

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貝塚伊吹の壁で囲まれた駐車場は圧巻です。



赤祢武人・世良修蔵は、後日紹介します。
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# by kfujiken2 | 2018-02-22 17:03 | 歴史 | Comments(0)

明治維新の柳井市阿月地区の志士たち

明治改元から150年を迎えるに当たり、陽の目を見ることが少なかった山口県東部・維新胎動の地 柳井阿月における、長州藩執政 浦靭負(うら ゆきえ)が創立した、学問所である郷校・克己堂(こっきどう)が注目され始めだした。不思議なのは南北2Km足らずの小さい部落に、郷校があったから優秀な人を多く輩出したのは納得できます。

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● 克己堂 (こっきどう)
阿月の領主であった浦靭負(うらゆきえ)が、家老秋良敦之助の発案により、
天保13年(1842)に家臣の子弟教育のために創建した学塾が「克己堂」です。克己堂からは、アメリカ軍艦が浦賀に来航したのを機に、家臣以外でも入学が許されるようになり、白井小助、赤祢武人、世良修蔵など多くの維新の志士が輩出しました。浦氏居館旧表門(通称 克己堂の門)は、そのままの姿で今も残され、市指定文化財の史跡となっています。 元阿月小学校に残る藤棚の樹齢は300年以上といわれる巨木で、浦氏の庭にあったものといわれ、5月上旬に淡い紫色の長い房をつけて満開となります。

浦氏居館旧表門(通称 克己堂の門

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阿月維新志士の碑

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碑文

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浦 靱負像(うら ゆきえ)


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画像が多くなりましたので、明日に続く・・・

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# by kfujiken2 | 2018-02-20 12:19 | 歴史 | Comments(0)

サラリーマン川柳

第一生命保険が例年開催している「サラリーマン川柳コンクール」の第31回の全国優秀100選を発表した。2017年11月に発足した第4次安倍内閣では、「生産性革命」の鍵となる施策として「IoT・ビッグデータ・人工知能による産業
構造・就業構造変革の検討」を掲げており、その影響を受けてか、今年は“AI”や“IoT”など、テクノロジーの進化を詠んだ句が多い。

高齢化社会での「夫婦(男女)編」での女性上位や流行語・話題を詠み込んだ句を採り上げてみました。

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○ 『定年後 妻のトリセツ 子に習い』(クサツマンポ)
○ 『妻いない この日は朝から プレミアム』(ゆずいろ)
○ 『「言っただろ!」 聞いてないけど 「すみません」』(中っ端)
○ 『減る記憶 それでも増える パスワード』(脳活)
○ 『何事も 妻ファーストで うまくいく』(よみ人知らず)
○ 『記憶にない 夫のどこに ほれたのか』(まるこ)
○ 『「ちがうだろ!」 妻が言うなら そうだろう』(そら)
○ 『胃袋へ 証拠隠滅 パパの分』(ずみ嫁ともぞー)
○ 『お腹出た? 「内部留保」だ 気にするな』(一粒子)
○ 『年ごとに スーツと妻が キツクなる』(島根のぽん太


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# by kfujiken2 | 2018-02-16 12:52 | 未分類 | Comments(0)

悲運の三代目奇兵隊総督 赤禰武人(あかね たけと)

幕末の志士の中には、高杉晋作のように有名な人物がいる一方で、
赤禰武人のように光の当たらない人物もおります。


※ 赤禰武人(あかね たけと)の容貌と経歴

すっきりとした顔立ちが印象的な肖像画があります。しかしそれは、容貌が似ていたという実弟の写真を元に、近年描かれたもの。武人の晩年に会った人物は、「白皙(はくせき)長身、眉目清秀(びもくせいしゅう)ノ偉丈夫(いじょうふ)ナリ」と書き残しており、実際に色白で背が高い、美青年だったようです。

周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。
妙円寺の海防僧月性、吉田松陰、梅田雲浜に学んだ。月性の紹介で浦靱負(うら ゆきえ)の郷校である克己堂(こっきどう)で学ぶ。
文久二年江戸に出て英国公使館焼打事件に加わり、同三年奇兵隊に参加。十月奇兵隊総督となって元治元年四国連合艦隊と下関で戦った。長州藩の政務役も兼任したが、眼病にかかり辞職して帰郷。
ついで高杉の下関挙兵には調和論を唱えて意見が合わず、慶応元年筑前に脱走した。その後上京して再び幕吏に捕えられたが、幕長間の和平交渉のため釈放され帰郷した。同時主戦論に固まった長州藩から幕府内通の嫌疑を受けて逮捕され、山口に護送されて鰐石河原で斬首された。
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※ 高杉晋作に振り回されての対立、その悲劇の真相とは?

高杉晋作と第三代奇兵隊総督赤禰武人の歯車が狂いだしたのが、高杉晋作が功山寺挙兵した大田・絵堂の戦いからである。動と静の性格の違いから始まったと言えます。

高杉晋作の功山寺挙兵は、凡人からすれば一か八かの賭けだったわけで、周囲から暴挙と言われてもしかたがありません。成功したから良かったのですが、失敗すれは諸隊は解散、主だったものは死罪となります。
組織のトップというものは、組織の存続させることが最重要であり、 一か八かの賭けで組織を潰すことはできません。対外交渉にしてもしかりで、交渉、交渉の末、落としどころを探し、それでもダメな場合は武力に訴えるというのが常。赤禰武人は組織のトップとして、諸隊を存続させようと奔走したわけです。
これはトップとして至極真っ当な行動でした。


赤禰武人の不在の時、俗論派に命を狙われ九州へ逃亡していた高杉晋作が駐屯地にふらりと顔を出し、長州藩の正義派が俗論派を倒すしかないと、高杉晋作は武力突破を主張する。
「ここで兵を挙げて俗論党を討たねば我が藩は滅びる」
この言葉に軍監の山縣有朋が赤禰武人が戻るまで待つようにといさめた。
また赤禰武人も「萩政府を攻めるのは、藩主に弓を引くも同じだ」と、
奇兵隊の決起に反対するが、高杉晋作は更に奇兵隊の同志を前に言ったと云う。


「君らは赤禰武人に欺瞞(ぎまん)せられたる者か
そもそも武人は大島郡の一土民の身
何ぞ国家の大事、両君公(藩主父子)の危急を知る者ならんや
君らは予を何と思うや
予は毛利家三百年来の世臣なり
あに武人がごとき一土民の比ならんや」


身分や階級にとらわれない奇兵隊を創設した高杉晋作の言葉とは思えない暴言です!
高杉晋作におごりがあり、身分や階級にとらわれないとは人数を集めるための口実で、本音が出たのではないでしょうか?感情的にも激しく演説したが、諸隊の幹部の殆どが平民だった為ひんしゅくを買った部分が多く、諸隊は直ぐには動かなかったと云われている 。
高杉晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士が暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。晋作の言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。
しかし高杉は伊藤俊輔(博文)の元へ行くと、伊藤は迷うことなく高杉に賛同し力士隊20名を差し出し、そこへ遊撃隊60名を加えた総勢約80名が高杉に同調し、俗論政府を相手に藩内革命を起こした功山寺挙兵であり、これが大田・絵堂の戦いを引き起こす原因になったのである。

攘夷の無謀さを痛感してからの赤禰武人は、ただ声高に外国を打ち払ったり、むやみに戦争をするという事をしないように、争いの調停役に回る事が多くなります。
長州藩内の幕府恭順派(俗論派)を攻め滅ぼそうとする高杉晋作と、藩内で争っている場合ではないと考える赤禰武人。戦を回避しするために長州藩内を動き回る赤禰武人ですが、いつしかその行動がスパイと勘違いされるようになっていきます。
高杉晋作らの正義派が実権を握った事で、藩政はここから討幕へと舵を切っていくことになる。
高杉晋作がクーデターを起こした事で、赤禰武人の居場所は無くなっていた。
和平実現のために動いていた事で二重スパイ疑惑をかけられたのだった。
仲間たちとの信頼関係が上手く構築できなかったためか、やがては長州藩を去り哀れな最期を迎えることになります。赤禰武人は戦を避けようとしただけで、正義派を裏切ったつもりではなく、しかし高杉晋作たちからは、自分たちを裏切り幕府に寝返った人間として誤解され、追われる身になってしまう。
潜伏中のところを長州藩士槇村半九郎に捕縛される。

一切の申し開きすら許されなかった武人は、悔しさをにじませ、処刑前夜に着ていた衣服の背中に『真は誠に偽に似,偽は以て真に似たり』という辞世を残しています。
『真実は偽りに似ていて、偽りは真実に似ている』自分の真意は、長州に対しての裏切りではなく、長州のためを思っての事。それを偽りと判断されてしまった武人の無念がうかがえます。

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# by kfujiken2 | 2018-02-08 11:21 | 歴史 | Comments(0)

節分って何???

あなたは節分に豆まきをする理由や、「鬼は外! 福は内!」の意味についてご存知ですか?
知っているようで意外と知らない、大人も子ども気になる節分のあれこれ。


節分とは、「季節を分ける」という意味があります。言いかえると、季節の変わり目ということです。
日本には四季(春、夏、秋、冬)がありますので、季節の変わり目というのは年に4回あります。
各季節の始まりは、立春、立夏、立秋、立冬が季節の始まりです。それぞれの前日が節分と呼ばれています。
ということは、節分も年に4回あることになりますが、現在の節分は2月3日の1回ですよね。
その理由は、旧暦では、立春が一年の始まりとされており、その前日の節分が一番メジャーになったと
考えられています。現在で言うところの、節分=大晦日、立春=元日だった訳ですね。
これから始まる新しい1年の前に鬼を払い、不幸や災いのない一年になるようにの願いを込めてこの時期に
節分が行われるのです。節分は大晦日にあたることから、節分の日に邪気を祓い、新年を幸多き年として
迎えられるようにという意味を込めて「追儺(ついな)」の行事が行われます。
追儺とは悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う儀式のことで、新年を迎える行事として中国で行われていたものが、
文武天皇の頃に日本に伝わり、宮中行事として行われるようになったそうです。
それが次第に庶民にも伝わり、節分行事が行われるようになりました。


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【節分の日の慣わし】


■ 豆まき
豆を撒く風習は、鬼の目を打ち、「魔を滅する」に通じるからという説があります。炒った豆を、年男や一家の主人、
厄年の人が「鬼は外、福は内」と大声で叫びながら豆を撒き、邪気や災厄を祓います。
炒った豆を使うのは、生豆を使って拾い忘れたものから芽が出ると再び悪鬼が芽を出してやってくるので良くないと
いわれているからです。豆撒き後は、自分の年の数、または自分の年の数+1の豆を食べ、一年の無病息災を願い
ます。


■ 鰯の頭と柊木(ひいらぎ)
鰯を焼いた時の煙と臭いが厄を祓うといわれ、節分の日には家の入口に鰯の頭を柊の枝にさしておく風習があります。
鬼の嫌がる鰯の臭いと、柊の葉の棘に痛がって、鬼が近寄らないので鬼門封じや厄除けになると昔から言い伝えられています。地域によっては、にんにくやとべらなどの臭いのあるものをそえるところもあるようです。


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■ くじら料理を食べる風習もあります。

これは主に山口県での風習の様で、大きいものを食べるということが縁起が良いと
されていることからと言われています。古く鯨は大きいものの代表であり、

・志を大きく
・心を大きく(広く)

などと大きな幸福を願う意味で食べられています。

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■ 巻き寿司のまるかじり

関西を中心に、その年の恵方(年神様のいらっしゃる吉の方角)に向かって無言で太巻き寿司を丸かぶりし、
新しい年が良い年でありますようにと願いながら食べるという風習があります。
巻き寿司を使うのは「福を巻き込む」からで、切らないのは「縁を切らないために」といわれています。

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# by kfujiken2 | 2018-02-02 11:00 | 未分類 | Comments(0)

ものもう‐す

 平成30年(2018年)に明治改元から150年を迎えるに当たり、明治維新胎動の地である
郷土山口県への県民の誇りと愛着を一層深め、今後の地域活性化に向けた機運の醸成を図る
とともに、これを我が国全体の発展を目指す機運の高まりにもつなげていくため、全県的な取組の
推進を目的として明治150年記念事業山口県推進協議会設立された。
 県及び県内全市町の関係課等により構成される、イベント一覧に「萩・長門エリア」「山口・防府エリア」「下関・美祢・宇部エリア」「岩国・柳井・周南エリア」とあります。エリアに入ってない光市には
「伊藤博文生家・伊藤公資料館」があり、室積には第二奇兵隊創設の地・「専光寺や普賢寺」が
あり、北前船に関する資料などを展示している「光ふるさと郷土館」があり、長州藩撫育方室積会所跡と言って長州藩の金蔵・撫育方(ぶいくがた)と呼ばれる裏金作りの機関等が存在した。
山陽小野田市は、江戸時代の毛利氏の一門家老のひとつ・厚狭毛利家が存在し、居館跡や厚狭毛利家歴代墓所・洞玄寺などがあり歴史を巡るには事欠きません。


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 しかし、山口県の13市の一つであります下松市はどうでしょう!!!
下松市だけ蚊帳の外、下松市は明治150年記念事業に参画していないのでしょうか?下松市は門前宿場町として栄えた花岡・旧山陽道の散策ですか? 歩いてみて下さい・・・整備されていません。下松市の近隣の市町村には歴史博物館・歴史資料館・美術館等がありますが、無いのは下松市だけです。歴史上の史跡がない著名人が少ないということは言い訳にはなりません。私が考えるに行政の歴史観といいますか、郷土史に関心が低いのか?他の自治体と比べ、郷土史に対する学識が低いのではないでしょうか。

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下松市には徳山毛利藩が財政改革の一環として、推奨した三白政策の一つの塩田事業に関わりを持った磯部家を調べ顕彰しないと風化します。始祖は南北朝の時代ですが、磯部屋・五代目磯部好助が東豊井村の地の開作に着手し宮洲開作を築立した。磯部家の長者ぶりは、周防においてだけでなく広く西日本一帯に知れ渡っていたようで、徳山藩の財政再建に貢献し幕末には藩札発行や、その他の資金繰りに援助した。つまり、下松は磯部家の塩田事業の成功から維新後の歴史が始まったと言っても過言はないでしょう!又、明治維新よりさかのぼりますが、徳山毛利藩の前身の
下松藩(下松藩陣屋敷)に付いて詳しく調べるのは如何ですか?
又、大阪大学の文学部教授が調査に来られたという、大阪の適塾に於いて大村益次郎の先輩で適塾の塾頭を務めたという下松出身の天才医者“飯田柔平”についての調査は如何でしょう・・・

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郷土史は掘り起こしたぐれば、色んなことが明らかになり、勉強にもなり面白いものです。
興味があるかヤル気があるか否かの問題だけでしょう!!!下松市(教育委員会)はもっと郷土史の調査・顕彰に力を入れて欲しいものです。私は単に歴史好きで、特に郷土史に興味をもっております。しかし、一人で幾らもがいても資料を捜すことが出来なく、市より御触書・委嘱状を貰っている訳でもないので、個人保護法という法律が立ちふさがり、中々立ち行きません。市が起ち上がらないのならばメディア様に協力して頂き、探索・調査・研究すればと考えており、又、仲間を捜しています。

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# by kfujiken2 | 2018-01-22 12:03 | 未分類 | Comments(0)

光市に素晴らしい南画家がいた

84年にわたり所在が不明だった雪舟の水墨画「倣夏珪(ほうかけい)山水図」が、
発見され山口県立美術館にて特別展が開催され盛り上がりましたが・・・
光市に立野出身の難波覃庵(なんばたんあん)という異色の南画家がいた。


萩藩の寄組清水家に譜代の家臣として40数年仕え、幕末、明治維新には国事にも奔走する。
61才で隠居し、青年のような気宇をもって本格的に南画に取り組み、実に多くの秀作を残す。
京都その他の文人墨客との交友も多く、余技とはいえその画は格調高く、2度の天覧の栄に浴した。
七溪、楽如、更狂などと号す。光市三大日本画家と言われる画家の一人。
難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする
名家です。難波覃庵は地元に私塾養義場や慕義会などを設立し、郷土子弟の教育に努めた事で
知られている。


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光市文化センター・難波覃庵の作品
クリックすると光市文化センター・難波覃庵の作品ページに飛びます

【向山文庫跡は明治の私立図書館跡】
光市立野宮河内にある難波家屋敷の土蔵は、かつて向山文庫と呼ばれていました。
難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする名家です。
向山文庫は難波覃庵が1883年に開設した文庫で、その後1906年からは一般に開放して私立図書館と
なりました。山口県初の図書館として1976年に光市の史跡に指定されています。現在も残る土蔵の姿に、
当時の様子を見ることができます。文庫跡の近くには、難波覃庵の顕彰碑も建てられています。

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# by kfujiken2 | 2018-01-10 13:27 | 歴史 | Comments(0)

初詣と蝋梅

遅ればせながら3日に降松神社(くだまつじんじゃ)に初詣に行き、
暖かかったので冠梅園に蝋梅の開花状況を観に行って来ました。


拝殿の横にある駐車場に車を止め、先ずは拝殿に行き手を合わせました。
山門は確か昨年には改修をしていたが、綺麗に改修が終わっていました。


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※ 降松神社は若宮(旧 下宮)、中宮、上宮の3つの施設からなり、鷲頭山(わしずやま)全域に広大な神域をもっています。普段、市民が参拝することが多いのは若宮です。

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神事の際、特殊な断ち方をして折った紙を縄に挟み込んだものを、
下松辺りでは御幣(ごへい)と言うけれど、正式には紙垂(しで)と呼ぶそうです!!!
神社も寄進された方を白いちょうちんに名前を書き、紙垂の変わりにコードつけて垂らすとは、
参拝者の目を引き演出が上手いなぁ~ 感心しました。

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「北辰妙見社」から鷲頭山に上宮・中宮を、更に赤阪の地(現在の地)に若宮を遷移せた流れを
少し説明しましょう・・・


飛鳥時代の推古天皇3年(595)、都濃郡鷲頭庄青柳浦の一松樹に大星が降り、七日七夜輝き、
「吾は天之御中主尊なり。今より三年ならずして、百済国の王子来朝すべし。其の擁護のために天降りし」と
託宣があった。同5年(597)、大内氏の祖先、百済国璋明王の第三王子琳聖太子が来朝し、桂木山に大星の
御神霊を祀り、北辰妙見社と称へ、鷲頭の庄の氏神とした。以来、青柳浦は降松と改められる。推古天皇11年(603)、
高鹿垣(茶臼山)に社殿を遷し、同17年(609)、鷲頭山に上宮・中宮を建立する。大内広世公は、鷲頭山の麓赤阪の
地に若宮を建立した。大内義弘公は防長などの七国の守護となり、南北朝時代の明徳3年(1392)、中宮に五重の塔や仁王門を新たに建立する。また、七国の各地に北辰妙見社が勧請され、鷲頭山は、妙見本宮として広い信仰を集めた。江戸時代の慶長13年(1608)、火災にあい、中宮本殿のみ焼失を免れ、現今の本殿は戦国時代の大永3年(1523)、大内義興公の再建による。中宮楼門は、江戸時代の文化4年(1807)、氏子中の再建による。大内氏滅亡後、毛利氏の厚い信仰を受け、江戸時代の元和年中(1615〜)には、赤阪の若宮を今の地に遷し、現今の若宮は明和4年(1767)、毛利就馴公の再建による。明治3年(1870)、「降松神社」と改称し、昭和3年(1928)県社に列する。




ロウバイはまるでロウ細工のような黄色い花を咲かせる、中国原産の落葉低木です。
中国では、ウメ、スイセン、ツバキとともに、「雪中の四花」として尊ばれています。
江戸時代初期に日本へ渡来し、ほかの花木に先駆けて咲く香りのよい花が愛され、
生け花や茶花、庭木として利用されてきました。

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ロウバイの香りは甘くフルーティで、微かに石鹸のような清潔感がある香りが特徴的です。

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# by kfujiken2 | 2018-01-04 14:33 | 未分類 | Comments(0)

あけましておめでとうございます

謹んで新春のお慶びを申し上げます
ブロッガーの皆さん 昨年はお世話になりありがとうございました
拙いブログでありますが、今後とも変わらぬお付き合いをお願い申し上げます


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# by kfujiken2 | 2017-12-31 18:56 | 未分類 | Comments(0)

ザ・モール周南がイズミに売却

住み良い街に陰りが出る・・・遂に時期が来たかという気がします。

昔元首長さんと席を共にする機会があり、下松を住み良い街という根拠は何ですか? 
と訪ねると彼曰く大型店が多く出来ると、市民の皆さんは買い物がし易いのではないかと自慢されていました。
つまり、「利便度」が高いというカテゴリーのみ指摘されるが、私の見解は違っています!
大型店が増えるということは、既存の小売店は淘汰され、明日の生活を如何しようかと泣いています。
これが「住み良い街」といえるのでしょうか?
因みに、東洋経済が発表する「住みよさランキング」では、総合評価とともに、「安心度」「利便度」「快適度」
「富裕度」「住居水準充実度」の5つのカテゴリーにおいてランキングを行っている。


仲間内では、下松で中核店舗の西友ザ・モール周南店が傾くと下松の景気は悪く
なるだろうと話していましたが、イズミ・ゆめタウンが後を引き継ぐとのことなので
一安心していいのか???


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話が逸れましたが、本題に戻しましょう・・・

下松市のザ・モール周南がイズミ・ゆめタウン(山西泰明社長、本社・広島市東区)に売却され、
来年8月1日から“ゆめタウン”の店舗に衣替えすることが決まった。2月1日に西友とイズミが
売買契約に調印し、5月15日から改装のため全館休業する予定で、ザ・モール周南は1993年の
開店以来、25年で姿を消すことになる。

鉄筋コンクリート5階建てで、1~3階の売り場面積は28,620平方メートル。中核店舗の西友
ザ・モール周南店、ザ・モール周南専門店街、食遊館、市出資の第3セクターの下松商業開発が
運営する地元の商業者ゾーンの星プラザで構成。隣接の周南市に流出していた買い物客を
回帰させてきた。

市文化施設のスターピアくだまつや市保健センターとは建物が一体化しており、99年に映画館の
MOVIX周南、2000年にヤマダ電機テックランドザ・モール周南店も開店した。
店舗前の中央広場はくだまつ総踊りや花と緑の祭典など市や民間の多くのイベントが開かれ、
周南地域全域から集客してきた。

ザ・モール周南の商業施設部分はもともと下松タウンセンター開発の所有だったが、現在は西友が
所有。売却の方針は25日にスターピア会議室で開かれた下松商業開発の取締役会で説明された。
売却額は不明。専門店街や星プラザのテナントには今後、説明していくという。
星プラザゾーンは廃止されて全店舗一体の形になる可能性が大きく、下松商業開発の存続も注目
される。同社を基盤に活動してきたくだまつ観光・産業交流センターや下松フィルムコミッションの
今後も未知数だ。一方、同じ建物のスターピアくだまつも3月1日から8月31日まで大規模改修工事の
ため休館する。


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# by kfujiken2 | 2017-12-29 11:31 | 未分類 | Comments(0)


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