ブログトップ

長州より発信

下関を漫遊 パート②

忌宮神社を後にして、下関市立長府図書館や長府第一保育園を右に、横枕小路を左に見ながら
乃木神社・乃木旧邸へ行きました。


◆ 乃木神社
明治天皇の崩御の際に殉死した軍人・乃木希典(のぎまれすけ)を、文武両道の神として祀る
神社。1920年1月30日に創建され、学問の神様としても知られています。1859年に長府に
転居した彼は、西郷隆盛による西南の役で官軍として参戦するなど、多くの武功をあげました。
境内には、彼が幼少時代に育った家が復元されているほか、夫婦の銅像も建てられています。


d0061579_9293822.jpg
d0061579_9303913.jpg



































乃木大将ご夫妻の銅像

d0061579_9384089.jpg
d0061579_9385386.jpg



































乃木旧邸
乃木希典は、嘉永2年(1849)11月、長府藩士乃木希次の子として、江戸麻布の長府毛利藩邸に
生まれたが、安政5年(1858)、10歳のとき父とともに長府の地に帰り、16歳で萩に従学する
まで、私塾集堂場において学ぶなど、長府城下で過す。
現在保存されている乃木旧邸は大正3年(1914)、乃木記念会がそのゆかりの地に、忠実に復元
したもので、家屋の造りは、六畳と三畳の二間、押入れ、それに二坪の土間という極めて質素な
生活をしのばれせている。 また調度品等も当時を再現したもので、風呂敷包が天井につりあげて
あるなど、生活の工夫もみられて興味深い。
なお、六畳の間に相対して置かれている父、母、そして少年からなる三体の等身大木彫坐像は、
乃木大将の甥にあたり、明治から大正にかけて活躍した著名な彫刻家長谷川栄作の製作による
もので、乃木少年が、父親から訓話を受けている場面が、見事に表現されている。(掲示版より)


d0061579_951458.jpg


◆ 長府毛利邸
1903年に、長府毛利家の第14代当主・毛利元敏公によって建てられた邸宅。明治天皇もご宿泊
され、一部の部屋は当時のまま残されています。
武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園が魅力で、新緑や紅葉の季節になると一段
と見ごたえを増します。

d0061579_9584653.jpg
d0061579_959052.jpg




































毛利元就の孫で長府藩の初代藩主・毛利 秀元

d0061579_1075175.jpg
d0061579_1082825.jpg





















































母屋・川端玉章作の杉戸絵

d0061579_10263696.jpg


明治天皇御宿泊の間

d0061579_10273683.jpg


書院庭園

d0061579_10283721.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-04-20 10:30 | 歴史 | Comments(0)

下関を漫遊

去る14・15日にかけて小雨降る中を下関・長府・小月をぶらり旅して来ました。小雨が降ると足元がうっとうしいので行動範囲が鈍ったが、6ヶ所を散策したから
ネタは十分!!!
画像も30枚以上あるので3~4回に分けてアップを予定しています。
では歩いた順にアップすることに致します・・・


◆ 忌宮神社(いりのみやじんじゃ)
西暦193年、長門国二の宮で、仲哀天皇・神宮皇后が九州の豪族熊襲を鎮圧し西国平定の折り、ここに仮皇居として豊浦宮を建て西暦200年までの7年間滞在したと言われています。

d0061579_10425842.jpg
d0061579_1043184.jpg






























「蚕種渡来之地」記念碑

西暦195年には、渡来人が蚕種を献上したという蚕種渡来地の碑が境内の一角にあります(シルクロード日本上陸の地)。

d0061579_10474199.jpg
d0061579_10475763.jpg
























































横枕小路(よこまくらしょうじ)
城下町長府の乃木神社の横をまっすぐ走っている細道で、両側には薄茶色の淡い色の練塀がまっすぐに伸びています。

d0061579_10533289.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-04-18 10:55 | 歴史 | Comments(0)

先日、【弾正糸桜】の説明を致しましたが、
その際「江良弾正」や【江良氏居館跡】に少し触れましたことを覚えておられますか?


今日は「江良弾正」という人物や【江良氏居館跡】のことをお話しましょう!
これは「江良弾正」という人物や【江良氏居館跡】のことが知りたく、周南市鹿野町鹿野
総合支所の産業土木課を訪ね、色々記載のある資料を調べて頂きコピー等を頂きました。


先ず【江良氏居館跡】の特長・遺構を説明をしましょう。
d0061579_7135834.jpg


現存しているのが、一部の土塁と一部の石垣です。

現存している土塁
d0061579_1654434.jpg

















現存している石垣
d0061579_16562949.jpg

















江良氏居館跡推定復元図を見ながら、画像と比べながら推測して下さい。

※ 土塁(どるい)とは: 敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた土製の堤防状の壁である。

※ 空堀とは: 水の張られていない堀のことを空堀(からぼり)という。
        掘った結果生じる土は、多くの場合、堀の脇に積み上げて土塁としている。
        近世の平地の城には水堀があるが、中世の城の堀はほとんどが空堀である。

※ 虎口(こぐち): 中世以降の城郭における出入り口のこと

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-04-13 17:05 | 歴史 | Comments(0)

去る9日、プレーを止めた何でも幹事のゴルフコンペの受付のため、早朝周南市の
北部・須々万に出向き、受付を済ませメンバーのスタートを見送った後、恐らく
今月の初旬に満開を向えたであろう鹿野町の『彈正糸桜』
葉桜になっているだろうと想定していたが、江良弾正居館跡の土塁に植わっている
ことを知り、「江良弾正」という人物のことが知りたく、鹿野に行って来ました。


水と緑の癒しスポット【清流通り】で、水車小屋や池が設置してあり、
とても風情のある通りになっておりリラックスできました。


d0061579_11444482.jpg
d0061579_11451147.jpg






























さて清流通りを東に歩き、周南市鹿野町の鹿野総合支所横にある目的の【彈正糸桜】にやって来ました。・・・案の定葉桜になっています!!! 樹齢 約350年 樹高8m 幹回り約2,7mの見事なシダレザクラです。陶晴賢の重臣(江良弾正)居館跡の土塁に立っている事から、2009年に命名されたそうです。

d0061579_11592478.jpg

d0061579_1264564.jpg

d0061579_11595181.jpg





























残存している土塁です
d0061579_125954.jpg


それでは江良氏の遺跡跡に建てられた【龍雲寺】について、少し説明しましょう。

応永15年(1408)に創建された臨済宗の古刹であり、数十年間大内氏の末家である江良氏の屋敷として使用されている。現在の石垣はその頃造られたものとなっている。その後再興し、毛利藩時代は給領地を与えられ、再度本陣(殿様の宿)に仰付けられるなど由緒ある寺院である。
d0061579_1218868.jpg















現存している石垣です
d0061579_121952100.jpg
















龍雲寺の境内に【龍頭苑】があります。
渦巻状に重なる苔の上に、樹齢500年余と言われる唐ケヤキが龍の頭で龍のまさに昇天せんとする勢を表現し、これから延びる長い苔の山は龍の胴部である。

d0061579_12302615.jpg


糸桜(しだれ桜)を観ることが出来なかったから、がっかりして帰途に着いていたら、
瓢箪から駒ではないが、【金松(きんしょう)桜】の看板が目に入った・・・
周南市鹿野下の金松地区の杉林の中にある巨大なヤマザクラで、県内最大級らしい!!! 
樹齢 100~120年、樹高30m、幹回り約3mの巨木が山の中に一本だけあります。 遠目にですが、国道からもその姿を見ることができます。近年、山の持ち主の了解が得られて手前の杉・檜を伐採して日の目を見ることになったらしい。
d0061579_14161749.jpg

d0061579_14163924.jpg
d0061579_1417061.jpg


































江良弾正という人物・江良氏居館跡の説明は、後日お話致します。

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-04-11 12:33 | 風景 | Comments(0)

徳佐八幡宮のしだれ桜

ソメイヨシノは7~8分咲き・しだれ桜は3~4分咲きではないかと思います。
この天気でこの気温ならば満開まであと3日!!!


d0061579_9111318.jpg


満開時には見事なトンネルを造りあげるしだれ桜です。
徳佐八幡宮のしだれ桜は西日本隋一のしだれ桜と知られています。
鳥居から社堂まで370mもの両参道に130本咲き誇り、
案内板にも「満開時の景観は、筆舌に尽し難いものがある」と記されている。


※ 筆舌に尽し難いものとは:文章や言葉で十分に表現しきれないという意味

徳佐八幡宮の桜は文政8年(1825年)に大阪より「ひがん系シダレザクラ」として取り寄せ、氏子有志によって植栽されたと伝えられています。昭和9年には名勝徳佐桜として国の指定をうけるものの、老木となりその木の多くは枯死する。そのため昭和31年に指定を解除されてしまいます。

現在は地元の有志によって従来の種だけでなくソメイヨシノなどを補植し、また老木から接木によって増殖することで徳佐桜となるよう努力を重ねる。そして昭和47年に阿東町指定となる。
つまり1度は死ぬ寸前までいったものの、地元の方の手入れにより復活したということです。


しだれ桜の垂れている枝の先から上に向かって撮影すると遠近感が出てきます。

d0061579_9555195.jpg
d0061579_956916.jpg






























可愛い赤い花のしだれ桜です。

d0061579_105185.jpg
d0061579_105372.jpg












































徳佐八幡宮の拝殿

d0061579_1014214.jpg


徳佐八幡宮の神木・つが(栂)
マツ科の常緑高木。山地に自生し幹は直立し,30メートルに達する。
松ぼっくりのような小さな実をつけるようです。
秋篠宮文仁親王の印が栂です。

d0061579_10183791.jpg

d0061579_10185517.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-04-01 10:19 | | Comments(0)

1631年~1648年までの17年間の短期間しか存在しなかった【短命の下松藩】や跡地の
痕跡が全くない【幻の下松藩邸】と題して色々調べて着ましたが、資料がなく真実や明らかな
部分が全く分からず苦慮していましたが、徳山毛利藩初代藩主・毛利就隆が清安院という乳母に
育てられたことは確かであり、且つ下松市大谷墓地に法名が(清安院殿光誉栄信大姉)という
立派なお墓が残っており、その乳母が徳山毛利家の家老の息女だったとのことのようです。
ではその家老が誰だったか? その息女が誰だったか、又名前は何と言われたかと言う事が
詳しく分かっていなかったが、色々調べておりましたらやっと見つけました。


徳山毛利藩初代藩主・毛利就隆の乳母が開基のお寺・妙法寺

d0061579_14251719.jpg
d0061579_14253598.jpg


































徳山毛利藩初代藩主・毛利就隆の乳母・清安院のお墓

d0061579_14315516.jpg
d0061579_14462076.jpg






























下松藩から徳山藩に移行した経緯を説明しましょう!!!

下松藩(徳山藩)は、「毛利輝元」の次男「毛利就隆」(萩藩初代藩主「毛利秀就」の弟)が、
元和3年(1617年)に3万石を分与されたことから立藩しました。寛永2年(1625年)の藩内
検地では、実質的な石高は4万石余りであったといわれています。実際に幕府より藩として
正式に認められたのは、寛永11年(1634年)で藩主の「毛利就隆」は、江戸に滞在することが
ほとんどで、実際に下松に入ったのは寛永15年(1638年)でした。
藩政は、長州藩とほとんど同じで、家臣団の多くは「関ヶ原の戦い」後に浪人した者や本家の
藩士における三男などの取立てにより編成されました。
慶安3年(1650年)に就隆は、下松は交通に適していないという理由から藩庁を徳山に移しま
した。「徳山」は「野上」と呼ばれていましたが、就隆が徳山と改称しました。


さて本題の家老と乳母の名前ですが・・・

奈古屋 元忠(なごや もとただ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物で
下松藩家老。
慶長7年(1602年)に毛利輝元の次男・毛利就隆が生まれると奈古屋 元忠の
妹・清安院(実名・あつ。吉見氏家臣・後藤勘左衛門の妻)が就隆の乳母を務め
たが、元忠も慶長9年(1604年)11月に就隆が萩城に移った際に福間元道や
榎本五郎左衛門と共に御抱守(養育係)を命じられた。

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-03-29 15:02 | 歴史 | Comments(0)

周南市慶万町にある周南市長公舎は、大正15年に海軍燃料廠の廠長官舎
として建てられ、昭和20年の終戦を迎えるまで歴代の廠長が住まわれて
いました。二度にわたる徳山大空襲を免れたこの木造住宅は、戦後、徳山市
が払下げを受け、市長公舎として使用してきました。
平成19年度、市長公舎が本市の歴史を語る上で欠かせない建物であること
から、市民の貴重な財産として後世に引き継ぐとともに、優れた建造物の積極的かつ有効利用を目的に、建物が建てられて以来、初めての大掛かりな改修工事を実施いたしました。
市長公舎は、洋館部分と和館部分を併せ持つ、大正時代を代表する和洋折衷の木造住宅であり、建物のいたるところに様々な特徴や工夫が施され、当時の暮らしや時代の面影、趣きを見ることができます。


d0061579_15565045.jpg


敷地の正面に洋風の門とロータリー(車寄せ)が設けられ、表側に洋館、その後方に和館が続いています。

d0061579_165656.jpg
d0061579_165481.jpg
d0061579_16115539.jpg


上の平面図をご覧になれば分かると思いますが、洋館は、応接間、玄関、便所などによって構成されています。
外観の切妻屋根の妻壁に見られるイギリスのチューダー様式のハーフテンバーと玄関ポーチの円柱が特徴的です。ポーチの屋根を支えるトスカーナ式の円柱には、徳山産の御影石が使用されており、当時としては廠長官舎にふさわしい玄関構えとなっています。


切妻屋根の妻壁に見られるイギリスのチューダー様式のハーフテンバー
d0061579_1619589.jpg

※ チューダー様式: 15世紀終わりから17世紀初めにかけてのイギリスで、ゴシックデザインを少しずつ変化させて生まれたスタイル

※ ハーフティンバー: ゴシック様式は主に教会やお城などで使われたデザインで、柱や梁、筋交いなど木の構造材を外側にむき出しにし、その間を漆喰やレンガで埋めた、特徴のある外観でよく知られ、半分は材木で半分は漆喰やレンガが見えることから、この名で呼ばれているようです。


玄関ポーチの屋根を支えるトスカーナ式の円柱には、徳山産の御影石が使用されております。
d0061579_16301577.jpg


※ トスカーナ式: エトルリア建築に由来したもので、柱は太くて短く、溝彫りはなく、礎盤の上に立つ。ルネサンス以降にも多く用いられた。  


応接間の特徴

高い天井は、格式の高い折上げ格天井で、内壁は木摺下地の白漆喰壁です。
天井板、腰板、ドアなどにはベニヤ(薄板)が用いられています。
正面と南側には、二連の上げ下げまどが設けられています。

d0061579_16384698.jpg
d0061579_16391886.jpg





























和館部分の特徴


洋館と最後部にある寄棟屋根の棟との中間にある繋ぎ屋の棟です。
繋ぎ屋の部分は洋館とともに、廠長官舎として使われていた当時、公的空間であり、床の間のある10畳と次室10畳からなる二間続きの座敷があり、つまりこの和館は生活の場ではなく、お客様をもてなした部屋です。廠長官の家族の生活の場は、最後部にある寄棟屋根の棟です。
d0061579_16551271.jpg


南側廊下の特徴


縁側の長い丸太二本をそのまま使った軒桁は、現在は大変貴重なものとなっています。
d0061579_16592048.jpg


水がない瓢箪型の池があるお庭とお庭の一角にあった防空壕を埋めた跡地とのことです。

d0061579_1753320.jpg
d0061579_1755894.jpg
[PR]
# by kfujiken2 | 2018-03-21 17:11 | 歴史 | Comments(0)

3月も中旬に入り、本格的に春の足音が聞こえ始めました。
山口県内の名所の一つ、防府市の向島小学校内にある山口県指定天然
記念物「蓬莱寒桜(ほうらい かんざくら)」が満開を迎えたとの情報を聞き
17日の土曜日に見てきました。
早咲きの桜として有名で、通常の桜は入学式時期に満開になりますが、
この寒桜は卒業式時期に満開になります。 満開の寒桜に見送られて
卒業するというのも素敵な思い出になりますね。


d0061579_1705118.jpg



寒桜の名称である「蓬莱桜」(2009年命名)の由来は、
向島は以前、瀬戸内海を往来する船舶から蓬莱島と言われていたことからだそうです。


防府市立向島小学校が位置する向島は、山口県の瀬戸内海側のほぼ中央にある、防府市の南岸に、架橋により接する東西5㎞、周囲17㎞、面積7.9㎢の島で、その中央部に標高354mの錦山がそびえています。海に山にと大変環境に恵まれた場所です。
d0061579_1775799.jpg


防府市の向島小学校の校庭で満開の時を迎えた寒桜は、花の姿のかれんさと、高さ約9メートル、根元の幹回り4.4メートルという雄大さを備え、県の天然記念物に指定されている。約百年前に当時の卒業生が植えたという話が伝わっていて、樹齢は約100年とみられている。

d0061579_17194918.jpg


つぼみは紅紫色、開くと淡紅紫色で後にやや濃くなり、3月初旬から中旬に開花します。品種は、寒桜(カンザクラ)とみられます。寒桜は、山桜(ヤマザクラ)と寒緋桜(カンヒザクラ)の種間雑種であるサクラの園芸種で、他のサクラと比べて開花時期が早いのが特徴です。
県内には寒桜の記録はなく、幹囲りは県内の桜では10位以内には入ると思われます。この樹に関する詳細な記録・沿革は不明ですが、約100年前に当時の卒業生が植樹したという話もあります。

d0061579_17225411.jpg


ヒヨドリが蜜を吸いにきていました。
d0061579_17274260.jpg


寒桜とは反対の校庭隅には蓬莱桜二世が移植されています。
二世の移植は台風の被害を避けるためのもので、 募金活動を経て平成21年
1月に移植。

d0061579_1729640.jpg
d0061579_17293013.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-03-18 17:34 | | Comments(0)

白壁の町並みを散策

先日海防僧・月性さんが創設した「清狂草堂」を訪ねた帰りに、
柳井市の白壁の町並みを散策しました。


d0061579_16235425.jpg

d0061579_16243036.jpg


白壁の町並みは、江戸時代の商家の家並みがそのまま今日も生きており、
妻入形式、本瓦葺、入母屋型の屋根、白漆喰・土蔵作りの商家の家並が続き、
藩政時代には岩国藩のお納戸(押入れ・倉庫という意味でしょうか?)と
呼ばれ、産物を満載した大八車が往来してにぎわった町筋だそうです。
往時の面影をしのばせる町並みで、心安らぐひとときを味わいました。

d0061579_16321427.jpg


「国森家住宅」は、18世紀後半に建てられた商家で、細部まで往時のままに
保存されており、江戸時代の典型的な商家建築として国の重要文化財指定を受けています。

d0061579_16392530.jpg
d0061579_1640166.jpg






























甘露醤油資料館「佐川醤油蔵」は、二重仕込み(再仕込み)という独特の製造法を持つ甘露醤油は、柳井を代表する特産品です。
d0061579_16472142.jpg
d0061579_1647469.jpg
[PR]
# by kfujiken2 | 2018-03-14 16:48 | 風景 | Comments(0)

参院の予算委員会では、晋三さんの最重要法案である「働き方改革」が、官邸と厚労省の壮絶バトルの結果、「営業職」や「管理職」の一部に裁量労働制の適用拡大を法案から全面削除することを決めたという時点で、財務省の森友学園との国有地取引に関わる決裁文書の書き換え疑惑問題に話がすり替わりました!!!


【裁量労働制】とは何ぞや??? を調べていると、労基法改正案には、「高度プロフェッショナル制度」だけではなく、「裁量労働制の拡大」も盛り込まれる予定でしたと記載されている。

労務管理のスペシャリストでなければ、【裁量労働制】とか【高度プロフェッショナル制度】等は知り得ない・・・

d0061579_16263440.jpg


労働基準法とは、労働者が人たるに値する生活を営むために、最低限の労働条件の基準を定めた法律であることは大抵の人が知っていると思います。

労働時間には大きく分けて「法定労働時間」と「所定労働時間」の2種類があります。
『法定労働時間』: 雇用者は労働者に休憩時間を除き1週間について40時間を超えて、労働させてはならない。
雇用者は1週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き1日について8時間を超えて労働させてはならない。
『所定労働時間』: 労働基準法で上限として決まっている週5日・1日8時間の基準内で、企業側が自由に設定できる時間のことです。


裁量労働制は労基法の適用範囲内で労働時間にだけ自身の裁量で決める事ができる働き方であり、高度プロフェッショナル制度は、労基法の適用除外にする制度です。



d0061579_164253100.jpg


※ 【裁量労働制】は、実際に働いた時間でなく、あらかじめ決められた労働時間に基づいて、残業代込みの賃金を払う制度。それ以上働いても追加の残業代は出ない。仕事の進め方や時間配分をある程度自分で決められる働き手に限って適用できる。研究開発職など専門性の高い仕事か、企業の中枢で企画・立案などの仕事に就く人が対象。

※ 【高度プロフェッショナル制度】は、「残業代ゼロ法案」とも「脱時間給制度」や「ホワイトカラー・エグゼンプション(頭脳労働者脱時間給制度)」とも呼ばれている制度で、年収1075万円以上の金融ディーラーなどを労基法による労働時間、休日、深夜の割増賃金等の規制の対象から外す(残業代の支払いが不要になる)制度です。

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-03-08 16:50 | 未分類 | Comments(0)

忘れられがちな山口県東部で維新を推進するために重要な役割を果たした、明治維新胎動の地の一つ、柳井市遠崎の妙円寺に月性さんを訪ねました。

d0061579_9354649.jpg

d0061579_10404495.jpg


柳井市遠崎にある浄土真宗の「妙円寺」に生まれた僧月性は、天保2年、
15歳を迎えた月性は4年余り、九州の豊前の恒遠醒窓(つねとお せいそう)
のもとで詩文を学び、優れた詩人としての基礎をつくりました。天保14年、
京阪遊学に出郷するに際して作った「男児立志の詩」は有名で、他にも
多くの傑作を残し生涯に作った漢詩は千篇をこえるといわれています。
遊学中に海防の必要を感じ、帰郷後は私塾「清狂草堂」を開塾。
「西の松下村塾、東の清狂草堂」と並び称されました。海防の急を
いち早く唱えたことから、月性は「海防僧」と呼ばれるようになり、
吉田松陰とも交流をあったとされています。

d0061579_94577.jpg


「清狂草堂」は六畳、四畳半二間の茅葺の建物である。 門下生に
奥州鎮撫使参謀となった世良修蔵や3代目奇兵隊総督となった赤祢武人、
本願寺の重鎮となった大州鉄然、諸隊の脱隊騒動の首謀者とされる
大楽源太郎ら多数の人材がいた。
阿月の「克己堂」や萩の「松下村塾」の弟子との交流も行われていました。
月性が萩を訪れたとき、吉田松陰は松下村塾を休講にして塾生を聴講
させたとも言われています。


【清狂草堂の六畳と四畳半の部屋】
d0061579_9454262.jpg
d0061579_9461215.jpg





























【月性展示館】

幕末の海防僧「月性」に関する貴重な資料が収められた資料館です。
久坂玄瑞の兄の久坂玄機と月性は莫逆の友ともいえる仲だった。
月性は剣舞がお得意で、酔いが回り、興に乗ると、月性は剣舞を舞う
こともあった。その絵が妙円寺に残っている。玄機の刀を借りたのだそうです。


d0061579_9554336.jpg


月性展示館の内部
d0061579_10343538.jpg


三条実美の揮毫による扁額と田能村直入が清狂草堂の全景を描いた扁額
d0061579_10321637.jpg
d0061579_1033810.jpg











































月性の肖像画として有名な 「月性剣舞の図」は、 清狂草堂を訪れた福岡の林道一が離別の際に書いて贈ったものです。
d0061579_1010167.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-03-02 10:38 | 歴史 | Comments(0)

ソメイヨシノよりも約1か月早く咲く「河津桜」が、山口県で何処に
多いか詳しいことは知りませんが、上関城山歴史公園に約160本
まとまって咲いており楽しめます。2月寒い日が続いたため、
開花が遅れているだろうとは想定していたものの、2月24日(土)
から「城山歴史公園桜まつり」が始まり、暖かさに誘われて出掛けました。


d0061579_10492177.jpg

d0061579_116586.jpg


南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内水軍の海城であり、
現愛媛県今治市宮窪を本拠とした能島水軍・村上義顕が
この地に海関を設け、代々居城したと言われている上関城跡は
平成10年に発掘調査が行われ、平成15年から19年にかけて
電源立地地域対策交付金でつくられた「上関城山歴史公園」として整備。


d0061579_10572789.jpg

丸に上の字は「村上水軍」の家紋
d0061579_10585031.jpg


想定通り10日早い いや1週間早かったです。諦めて明治維新を取り上げる際、忘れられがちな山口県東部ですが、維新を推進するために重要な役割を果たした明治維新胎動の地の一つ、柳井市遠崎の妙円寺に月性さんを訪ねました。

d0061579_11135812.jpg

d0061579_1173417.jpg


月性さんは後日ご案内致します。
[PR]
# by kfujiken2 | 2018-02-27 11:20 | | Comments(0)

代表される志士たちを紹介しましょう・・・

● 浦 靱負(うら ゆきえ)

長州藩寄組・国司氏の当主で長州藩家老の一人として重用されていた国司
就孝(国司信濃)の次男として生まれる。成長後、同じく長州藩寄組で阿月
領主浦氏の家督を継ぎ、秋良敦之助を登用し家政を改革した。天保13年
(1842年)に領内に学問所である克己堂を創立した。弘化四年家老職に
任ぜられて江戸当役となった。嘉永六年米使の来航に藩兵を率いて
大森羽田を警備した。安政五年当職に転じ、万延元年辞職、文久二年命を
受けて兵庫警備の兵を督した。同年四月に上京して皇居護衛の任に当たり、
八月世子定広の奉勅東下に従い、これを補佐して江戸に行った。同三年
加判役となったが、その冬一切の職を辞して領地阿月に帰郷した。元治元年の
禁門の変後も革新派の黒幕として藩論回復に尽くした。


d0061579_16163120.jpg


● 秋良敦之助貞温 (あきら あつのすけさだあつ)

文化8年9月4日生まれ。萩藩寄組家老浦家の家臣。藩校明倫館でまなぶ。
天保6年藩の加判役公用人を辞して浦家の財政改革にたずさわる。幕末には
尊攘運動にかかわり,海防策を講じた。維新後は教部省にはいり鎌倉宮や
大和神社の宮司をつとめた。製塩事業家の秋良貞臣は嫡男にあたり、同所で
生まれている。


※ 秋良貞臣( あきら さだおみ)は、下松市の笠戸島の藩有林内で石灰石を最初に発見したので知られています。
維新後は塩業をはじめ諸産業の発展に努めて、父秋良敦之助と
共に諸国の志士と交わって国事に奔走しながら、同時に物産会所を
創設し、晩年は製塩・塩経営に専念し、明治12年防長塩田社長。
大日本塩業同盟会委員長などをつとめた。


d0061579_16314993.jpg


● 白井小助(しらい こすけ)

儒学者の長男として文政9年(1826)萩市に生まれました。26歳の頃、柳井市阿月に移住し、浦靭負の家臣となりました。江戸に行き、佐久間象山に砲術を学びましたが、このとき吉田松陰と起居をともにし、二人は親友となりました。
後に浦家の学塾「克己堂」の学頭となりました。第二奇兵隊の創設に尽力し、
四境の役大島口戦で総督として活躍、また戊辰戦争では討幕軍参謀として活躍しました。維新後は、明治維新のポストを断り、平生町田布路木に私塾「飯山塾」を開いて子弟の教育に務めました。


d0061579_16441864.jpg


● 芥川義天(あくたがわ ぎてん)

円覚寺の門前に明治維新第二奇兵隊総書記芥川義天出生之寺の石碑が建てられている。円覚寺の住職芥川義天は克己堂で学んだ後、第二奇兵隊総書記として活躍した。秋良敦之助の妹の子として円覚寺に生まれた。

d0061579_1657757.jpg
d0061579_16573094.jpg
d0061579_16575551.jpg

貝塚伊吹の壁で囲まれた駐車場は圧巻です。



赤祢武人・世良修蔵は、後日紹介します。
[PR]
# by kfujiken2 | 2018-02-22 17:03 | 歴史 | Comments(0)

明治改元から150年を迎えるに当たり、陽の目を見ることが少なかった山口県東部・維新胎動の地 柳井阿月における、長州藩執政 浦靭負(うら ゆきえ)が創立した、学問所である郷校・克己堂(こっきどう)が注目され始めだした。不思議なのは南北2Km足らずの小さい部落に、郷校があったから優秀な人を多く輩出したのは納得できます。

d0061579_11195175.jpg
d0061579_11203567.jpg

d0061579_112257.jpg


● 克己堂 (こっきどう)
阿月の領主であった浦靭負(うらゆきえ)が、家老秋良敦之助の発案により、
天保13年(1842)に家臣の子弟教育のために創建した学塾が「克己堂」です。克己堂からは、アメリカ軍艦が浦賀に来航したのを機に、家臣以外でも入学が許されるようになり、白井小助、赤祢武人、世良修蔵など多くの維新の志士が輩出しました。浦氏居館旧表門(通称 克己堂の門)は、そのままの姿で今も残され、市指定文化財の史跡となっています。 元阿月小学校に残る藤棚の樹齢は300年以上といわれる巨木で、浦氏の庭にあったものといわれ、5月上旬に淡い紫色の長い房をつけて満開となります。

浦氏居館旧表門(通称 克己堂の門

d0061579_1131417.jpg
d0061579_1131275.jpg





























阿月維新志士の碑

d0061579_1144151.jpg















碑文

d0061579_1150356.jpg



































浦 靱負像(うら ゆきえ)


d0061579_115719100.jpg


画像が多くなりましたので、明日に続く・・・

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-02-20 12:19 | 歴史 | Comments(0)

サラリーマン川柳

第一生命保険が例年開催している「サラリーマン川柳コンクール」の第31回の全国優秀100選を発表した。2017年11月に発足した第4次安倍内閣では、「生産性革命」の鍵となる施策として「IoT・ビッグデータ・人工知能による産業
構造・就業構造変革の検討」を掲げており、その影響を受けてか、今年は“AI”や“IoT”など、テクノロジーの進化を詠んだ句が多い。

高齢化社会での「夫婦(男女)編」での女性上位や流行語・話題を詠み込んだ句を採り上げてみました。

d0061579_12494734.jpg


○ 『定年後 妻のトリセツ 子に習い』(クサツマンポ)
○ 『妻いない この日は朝から プレミアム』(ゆずいろ)
○ 『「言っただろ!」 聞いてないけど 「すみません」』(中っ端)
○ 『減る記憶 それでも増える パスワード』(脳活)
○ 『何事も 妻ファーストで うまくいく』(よみ人知らず)
○ 『記憶にない 夫のどこに ほれたのか』(まるこ)
○ 『「ちがうだろ!」 妻が言うなら そうだろう』(そら)
○ 『胃袋へ 証拠隠滅 パパの分』(ずみ嫁ともぞー)
○ 『お腹出た? 「内部留保」だ 気にするな』(一粒子)
○ 『年ごとに スーツと妻が キツクなる』(島根のぽん太


d0061579_12512236.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-02-16 12:52 | 未分類 | Comments(0)

幕末の志士の中には、高杉晋作のように有名な人物がいる一方で、
赤禰武人のように光の当たらない人物もおります。


※ 赤禰武人(あかね たけと)の容貌と経歴

すっきりとした顔立ちが印象的な肖像画があります。しかしそれは、容貌が似ていたという実弟の写真を元に、近年描かれたもの。武人の晩年に会った人物は、「白皙(はくせき)長身、眉目清秀(びもくせいしゅう)ノ偉丈夫(いじょうふ)ナリ」と書き残しており、実際に色白で背が高い、美青年だったようです。

周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。
妙円寺の海防僧月性、吉田松陰、梅田雲浜に学んだ。月性の紹介で浦靱負(うら ゆきえ)の郷校である克己堂(こっきどう)で学ぶ。
文久二年江戸に出て英国公使館焼打事件に加わり、同三年奇兵隊に参加。十月奇兵隊総督となって元治元年四国連合艦隊と下関で戦った。長州藩の政務役も兼任したが、眼病にかかり辞職して帰郷。
ついで高杉の下関挙兵には調和論を唱えて意見が合わず、慶応元年筑前に脱走した。その後上京して再び幕吏に捕えられたが、幕長間の和平交渉のため釈放され帰郷した。同時主戦論に固まった長州藩から幕府内通の嫌疑を受けて逮捕され、山口に護送されて鰐石河原で斬首された。
d0061579_10364016.jpg

※ 高杉晋作に振り回されての対立、その悲劇の真相とは?

高杉晋作と第三代奇兵隊総督赤禰武人の歯車が狂いだしたのが、高杉晋作が功山寺挙兵した大田・絵堂の戦いからである。動と静の性格の違いから始まったと言えます。

高杉晋作の功山寺挙兵は、凡人からすれば一か八かの賭けだったわけで、周囲から暴挙と言われてもしかたがありません。成功したから良かったのですが、失敗すれは諸隊は解散、主だったものは死罪となります。
組織のトップというものは、組織の存続させることが最重要であり、 一か八かの賭けで組織を潰すことはできません。対外交渉にしてもしかりで、交渉、交渉の末、落としどころを探し、それでもダメな場合は武力に訴えるというのが常。赤禰武人は組織のトップとして、諸隊を存続させようと奔走したわけです。
これはトップとして至極真っ当な行動でした。


赤禰武人の不在の時、俗論派に命を狙われ九州へ逃亡していた高杉晋作が駐屯地にふらりと顔を出し、長州藩の正義派が俗論派を倒すしかないと、高杉晋作は武力突破を主張する。
「ここで兵を挙げて俗論党を討たねば我が藩は滅びる」
この言葉に軍監の山縣有朋が赤禰武人が戻るまで待つようにといさめた。
また赤禰武人も「萩政府を攻めるのは、藩主に弓を引くも同じだ」と、
奇兵隊の決起に反対するが、高杉晋作は更に奇兵隊の同志を前に言ったと云う。


「君らは赤禰武人に欺瞞(ぎまん)せられたる者か
そもそも武人は大島郡の一土民の身
何ぞ国家の大事、両君公(藩主父子)の危急を知る者ならんや
君らは予を何と思うや
予は毛利家三百年来の世臣なり
あに武人がごとき一土民の比ならんや」


身分や階級にとらわれない奇兵隊を創設した高杉晋作の言葉とは思えない暴言です!
高杉晋作におごりがあり、身分や階級にとらわれないとは人数を集めるための口実で、本音が出たのではないでしょうか?感情的にも激しく演説したが、諸隊の幹部の殆どが平民だった為ひんしゅくを買った部分が多く、諸隊は直ぐには動かなかったと云われている 。
高杉晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士が暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。晋作の言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。
しかし高杉は伊藤俊輔(博文)の元へ行くと、伊藤は迷うことなく高杉に賛同し力士隊20名を差し出し、そこへ遊撃隊60名を加えた総勢約80名が高杉に同調し、俗論政府を相手に藩内革命を起こした功山寺挙兵であり、これが大田・絵堂の戦いを引き起こす原因になったのである。

攘夷の無謀さを痛感してからの赤禰武人は、ただ声高に外国を打ち払ったり、むやみに戦争をするという事をしないように、争いの調停役に回る事が多くなります。
長州藩内の幕府恭順派(俗論派)を攻め滅ぼそうとする高杉晋作と、藩内で争っている場合ではないと考える赤禰武人。戦を回避しするために長州藩内を動き回る赤禰武人ですが、いつしかその行動がスパイと勘違いされるようになっていきます。
高杉晋作らの正義派が実権を握った事で、藩政はここから討幕へと舵を切っていくことになる。
高杉晋作がクーデターを起こした事で、赤禰武人の居場所は無くなっていた。
和平実現のために動いていた事で二重スパイ疑惑をかけられたのだった。
仲間たちとの信頼関係が上手く構築できなかったためか、やがては長州藩を去り哀れな最期を迎えることになります。赤禰武人は戦を避けようとしただけで、正義派を裏切ったつもりではなく、しかし高杉晋作たちからは、自分たちを裏切り幕府に寝返った人間として誤解され、追われる身になってしまう。
潜伏中のところを長州藩士槇村半九郎に捕縛される。

一切の申し開きすら許されなかった武人は、悔しさをにじませ、処刑前夜に着ていた衣服の背中に『真は誠に偽に似,偽は以て真に似たり』という辞世を残しています。
『真実は偽りに似ていて、偽りは真実に似ている』自分の真意は、長州に対しての裏切りではなく、長州のためを思っての事。それを偽りと判断されてしまった武人の無念がうかがえます。

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-02-08 11:21 | 歴史 | Comments(0)

節分って何???

あなたは節分に豆まきをする理由や、「鬼は外! 福は内!」の意味についてご存知ですか?
知っているようで意外と知らない、大人も子ども気になる節分のあれこれ。


節分とは、「季節を分ける」という意味があります。言いかえると、季節の変わり目ということです。
日本には四季(春、夏、秋、冬)がありますので、季節の変わり目というのは年に4回あります。
各季節の始まりは、立春、立夏、立秋、立冬が季節の始まりです。それぞれの前日が節分と呼ばれています。
ということは、節分も年に4回あることになりますが、現在の節分は2月3日の1回ですよね。
その理由は、旧暦では、立春が一年の始まりとされており、その前日の節分が一番メジャーになったと
考えられています。現在で言うところの、節分=大晦日、立春=元日だった訳ですね。
これから始まる新しい1年の前に鬼を払い、不幸や災いのない一年になるようにの願いを込めてこの時期に
節分が行われるのです。節分は大晦日にあたることから、節分の日に邪気を祓い、新年を幸多き年として
迎えられるようにという意味を込めて「追儺(ついな)」の行事が行われます。
追儺とは悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う儀式のことで、新年を迎える行事として中国で行われていたものが、
文武天皇の頃に日本に伝わり、宮中行事として行われるようになったそうです。
それが次第に庶民にも伝わり、節分行事が行われるようになりました。


d0061579_10423946.jpg



【節分の日の慣わし】


■ 豆まき
豆を撒く風習は、鬼の目を打ち、「魔を滅する」に通じるからという説があります。炒った豆を、年男や一家の主人、
厄年の人が「鬼は外、福は内」と大声で叫びながら豆を撒き、邪気や災厄を祓います。
炒った豆を使うのは、生豆を使って拾い忘れたものから芽が出ると再び悪鬼が芽を出してやってくるので良くないと
いわれているからです。豆撒き後は、自分の年の数、または自分の年の数+1の豆を食べ、一年の無病息災を願い
ます。


■ 鰯の頭と柊木(ひいらぎ)
鰯を焼いた時の煙と臭いが厄を祓うといわれ、節分の日には家の入口に鰯の頭を柊の枝にさしておく風習があります。
鬼の嫌がる鰯の臭いと、柊の葉の棘に痛がって、鬼が近寄らないので鬼門封じや厄除けになると昔から言い伝えられています。地域によっては、にんにくやとべらなどの臭いのあるものをそえるところもあるようです。


d0061579_10495462.jpg

d0061579_10502243.jpg

d0061579_10503724.jpg


■ くじら料理を食べる風習もあります。

これは主に山口県での風習の様で、大きいものを食べるということが縁起が良いと
されていることからと言われています。古く鯨は大きいものの代表であり、

・志を大きく
・心を大きく(広く)

などと大きな幸福を願う意味で食べられています。

d0061579_111485.jpg


■ 巻き寿司のまるかじり

関西を中心に、その年の恵方(年神様のいらっしゃる吉の方角)に向かって無言で太巻き寿司を丸かぶりし、
新しい年が良い年でありますようにと願いながら食べるという風習があります。
巻き寿司を使うのは「福を巻き込む」からで、切らないのは「縁を切らないために」といわれています。

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-02-02 11:00 | 未分類 | Comments(0)

ものもう‐す

 平成30年(2018年)に明治改元から150年を迎えるに当たり、明治維新胎動の地である
郷土山口県への県民の誇りと愛着を一層深め、今後の地域活性化に向けた機運の醸成を図る
とともに、これを我が国全体の発展を目指す機運の高まりにもつなげていくため、全県的な取組の
推進を目的として明治150年記念事業山口県推進協議会設立された。
 県及び県内全市町の関係課等により構成される、イベント一覧に「萩・長門エリア」「山口・防府エリア」「下関・美祢・宇部エリア」「岩国・柳井・周南エリア」とあります。エリアに入ってない光市には
「伊藤博文生家・伊藤公資料館」があり、室積には第二奇兵隊創設の地・「専光寺や普賢寺」が
あり、北前船に関する資料などを展示している「光ふるさと郷土館」があり、長州藩撫育方室積会所跡と言って長州藩の金蔵・撫育方(ぶいくがた)と呼ばれる裏金作りの機関等が存在した。
山陽小野田市は、江戸時代の毛利氏の一門家老のひとつ・厚狭毛利家が存在し、居館跡や厚狭毛利家歴代墓所・洞玄寺などがあり歴史を巡るには事欠きません。


d0061579_11323369.jpg


 しかし、山口県の13市の一つであります下松市はどうでしょう!!!
下松市だけ蚊帳の外、下松市は明治150年記念事業に参画していないのでしょうか?下松市は門前宿場町として栄えた花岡・旧山陽道の散策ですか? 歩いてみて下さい・・・整備されていません。下松市の近隣の市町村には歴史博物館・歴史資料館・美術館等がありますが、無いのは下松市だけです。歴史上の史跡がない著名人が少ないということは言い訳にはなりません。私が考えるに行政の歴史観といいますか、郷土史に関心が低いのか?他の自治体と比べ、郷土史に対する学識が低いのではないでしょうか。

d0061579_11441299.jpg


下松市には徳山毛利藩が財政改革の一環として、推奨した三白政策の一つの塩田事業に関わりを持った磯部家を調べ顕彰しないと風化します。始祖は南北朝の時代ですが、磯部屋・五代目磯部好助が東豊井村の地の開作に着手し宮洲開作を築立した。磯部家の長者ぶりは、周防においてだけでなく広く西日本一帯に知れ渡っていたようで、徳山藩の財政再建に貢献し幕末には藩札発行や、その他の資金繰りに援助した。つまり、下松は磯部家の塩田事業の成功から維新後の歴史が始まったと言っても過言はないでしょう!又、明治維新よりさかのぼりますが、徳山毛利藩の前身の
下松藩(下松藩陣屋敷)に付いて詳しく調べるのは如何ですか?
又、大阪大学の文学部教授が調査に来られたという、大阪の適塾に於いて大村益次郎の先輩で適塾の塾頭を務めたという下松出身の天才医者“飯田柔平”についての調査は如何でしょう・・・

d0061579_120590.jpg


郷土史は掘り起こしたぐれば、色んなことが明らかになり、勉強にもなり面白いものです。
興味があるかヤル気があるか否かの問題だけでしょう!!!下松市(教育委員会)はもっと郷土史の調査・顕彰に力を入れて欲しいものです。私は単に歴史好きで、特に郷土史に興味をもっております。しかし、一人で幾らもがいても資料を捜すことが出来なく、市より御触書・委嘱状を貰っている訳でもないので、個人保護法という法律が立ちふさがり、中々立ち行きません。市が起ち上がらないのならばメディア様に協力して頂き、探索・調査・研究すればと考えており、又、仲間を捜しています。

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-01-22 12:03 | 未分類 | Comments(0)

84年にわたり所在が不明だった雪舟の水墨画「倣夏珪(ほうかけい)山水図」が、
発見され山口県立美術館にて特別展が開催され盛り上がりましたが・・・
光市に立野出身の難波覃庵(なんばたんあん)という異色の南画家がいた。


萩藩の寄組清水家に譜代の家臣として40数年仕え、幕末、明治維新には国事にも奔走する。
61才で隠居し、青年のような気宇をもって本格的に南画に取り組み、実に多くの秀作を残す。
京都その他の文人墨客との交友も多く、余技とはいえその画は格調高く、2度の天覧の栄に浴した。
七溪、楽如、更狂などと号す。光市三大日本画家と言われる画家の一人。
難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする
名家です。難波覃庵は地元に私塾養義場や慕義会などを設立し、郷土子弟の教育に努めた事で
知られている。


d0061579_13342110.jpg


光市文化センター・難波覃庵の作品
クリックすると光市文化センター・難波覃庵の作品ページに飛びます

【向山文庫跡は明治の私立図書館跡】
光市立野宮河内にある難波家屋敷の土蔵は、かつて向山文庫と呼ばれていました。
難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする名家です。
向山文庫は難波覃庵が1883年に開設した文庫で、その後1906年からは一般に開放して私立図書館と
なりました。山口県初の図書館として1976年に光市の史跡に指定されています。現在も残る土蔵の姿に、
当時の様子を見ることができます。文庫跡の近くには、難波覃庵の顕彰碑も建てられています。

d0061579_1327831.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-01-10 13:27 | 歴史 | Comments(0)

初詣と蝋梅

遅ればせながら3日に降松神社(くだまつじんじゃ)に初詣に行き、
暖かかったので冠梅園に蝋梅の開花状況を観に行って来ました。


拝殿の横にある駐車場に車を止め、先ずは拝殿に行き手を合わせました。
山門は確か昨年には改修をしていたが、綺麗に改修が終わっていました。


d0061579_13501995.jpg
d0061579_13503374.jpg


※ 降松神社は若宮(旧 下宮)、中宮、上宮の3つの施設からなり、鷲頭山(わしずやま)全域に広大な神域をもっています。普段、市民が参拝することが多いのは若宮です。

d0061579_1473230.jpg

神事の際、特殊な断ち方をして折った紙を縄に挟み込んだものを、
下松辺りでは御幣(ごへい)と言うけれど、正式には紙垂(しで)と呼ぶそうです!!!
神社も寄進された方を白いちょうちんに名前を書き、紙垂の変わりにコードつけて垂らすとは、
参拝者の目を引き演出が上手いなぁ~ 感心しました。

d0061579_14102392.jpg

d0061579_14103967.jpg

「北辰妙見社」から鷲頭山に上宮・中宮を、更に赤阪の地(現在の地)に若宮を遷移せた流れを
少し説明しましょう・・・


飛鳥時代の推古天皇3年(595)、都濃郡鷲頭庄青柳浦の一松樹に大星が降り、七日七夜輝き、
「吾は天之御中主尊なり。今より三年ならずして、百済国の王子来朝すべし。其の擁護のために天降りし」と
託宣があった。同5年(597)、大内氏の祖先、百済国璋明王の第三王子琳聖太子が来朝し、桂木山に大星の
御神霊を祀り、北辰妙見社と称へ、鷲頭の庄の氏神とした。以来、青柳浦は降松と改められる。推古天皇11年(603)、
高鹿垣(茶臼山)に社殿を遷し、同17年(609)、鷲頭山に上宮・中宮を建立する。大内広世公は、鷲頭山の麓赤阪の
地に若宮を建立した。大内義弘公は防長などの七国の守護となり、南北朝時代の明徳3年(1392)、中宮に五重の塔や仁王門を新たに建立する。また、七国の各地に北辰妙見社が勧請され、鷲頭山は、妙見本宮として広い信仰を集めた。江戸時代の慶長13年(1608)、火災にあい、中宮本殿のみ焼失を免れ、現今の本殿は戦国時代の大永3年(1523)、大内義興公の再建による。中宮楼門は、江戸時代の文化4年(1807)、氏子中の再建による。大内氏滅亡後、毛利氏の厚い信仰を受け、江戸時代の元和年中(1615〜)には、赤阪の若宮を今の地に遷し、現今の若宮は明和4年(1767)、毛利就馴公の再建による。明治3年(1870)、「降松神社」と改称し、昭和3年(1928)県社に列する。




ロウバイはまるでロウ細工のような黄色い花を咲かせる、中国原産の落葉低木です。
中国では、ウメ、スイセン、ツバキとともに、「雪中の四花」として尊ばれています。
江戸時代初期に日本へ渡来し、ほかの花木に先駆けて咲く香りのよい花が愛され、
生け花や茶花、庭木として利用されてきました。

d0061579_1426298.jpg

d0061579_14261489.jpg


ロウバイの香りは甘くフルーティで、微かに石鹸のような清潔感がある香りが特徴的です。

d0061579_1427929.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2018-01-04 14:33 | 未分類 | Comments(0)

謹んで新春のお慶びを申し上げます
ブロッガーの皆さん 昨年はお世話になりありがとうございました
拙いブログでありますが、今後とも変わらぬお付き合いをお願い申し上げます


d0061579_18551141.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-12-31 18:56 | 未分類 | Comments(0)

住み良い街に陰りが出る・・・遂に時期が来たかという気がします。

昔元首長さんと席を共にする機会があり、下松を住み良い街という根拠は何ですか? 
と訪ねると彼曰く大型店が多く出来ると、市民の皆さんは買い物がし易いのではないかと自慢されていました。
つまり、「利便度」が高いというカテゴリーのみ指摘されるが、私の見解は違っています!
大型店が増えるということは、既存の小売店は淘汰され、明日の生活を如何しようかと泣いています。
これが「住み良い街」といえるのでしょうか?
因みに、東洋経済が発表する「住みよさランキング」では、総合評価とともに、「安心度」「利便度」「快適度」
「富裕度」「住居水準充実度」の5つのカテゴリーにおいてランキングを行っている。


仲間内では、下松で中核店舗の西友ザ・モール周南店が傾くと下松の景気は悪く
なるだろうと話していましたが、イズミ・ゆめタウンが後を引き継ぐとのことなので
一安心していいのか???


d0061579_11161584.jpg


話が逸れましたが、本題に戻しましょう・・・

下松市のザ・モール周南がイズミ・ゆめタウン(山西泰明社長、本社・広島市東区)に売却され、
来年8月1日から“ゆめタウン”の店舗に衣替えすることが決まった。2月1日に西友とイズミが
売買契約に調印し、5月15日から改装のため全館休業する予定で、ザ・モール周南は1993年の
開店以来、25年で姿を消すことになる。

鉄筋コンクリート5階建てで、1~3階の売り場面積は28,620平方メートル。中核店舗の西友
ザ・モール周南店、ザ・モール周南専門店街、食遊館、市出資の第3セクターの下松商業開発が
運営する地元の商業者ゾーンの星プラザで構成。隣接の周南市に流出していた買い物客を
回帰させてきた。

市文化施設のスターピアくだまつや市保健センターとは建物が一体化しており、99年に映画館の
MOVIX周南、2000年にヤマダ電機テックランドザ・モール周南店も開店した。
店舗前の中央広場はくだまつ総踊りや花と緑の祭典など市や民間の多くのイベントが開かれ、
周南地域全域から集客してきた。

ザ・モール周南の商業施設部分はもともと下松タウンセンター開発の所有だったが、現在は西友が
所有。売却の方針は25日にスターピア会議室で開かれた下松商業開発の取締役会で説明された。
売却額は不明。専門店街や星プラザのテナントには今後、説明していくという。
星プラザゾーンは廃止されて全店舗一体の形になる可能性が大きく、下松商業開発の存続も注目
される。同社を基盤に活動してきたくだまつ観光・産業交流センターや下松フィルムコミッションの
今後も未知数だ。一方、同じ建物のスターピアくだまつも3月1日から8月31日まで大規模改修工事の
ため休館する。


d0061579_113521100.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-12-29 11:31 | 未分類 | Comments(0)

大正・昭和の俳人。季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を
重んじる「自由律俳句」を詠んだ種田山頭火。


d0061579_9301637.jpg


◆ 種田山頭火の生涯

本名は正一。山口県防府の大地主の家に生まれる。父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、
これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げた。
現・防府高校を首席で卒業した後、早稲田に入学。しかし22歳で神経症の為に中退して帰郷する。
この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、
彼は父と酒造業を開始する(24歳)。27歳で結婚子を持つ。
1906年(明治39年、24歳)12月 父竹治郎が吉敷郡大道村(現・防府市大道)にあった古くからの酒造場を買収。
一家で移り住む。そして、その翌年頃から種田酒造場を開業したとみられる。
1908年(明治41年、26歳) 酒造に失敗し、防府に残っていた家屋敷を全て売却している。
山頭火は熊本市で額縁店を開くが、家業に身が入らず妻子と別れ上京。しかし、定職を得ず、熊本に帰る。
酒におぼれ生活が乱れた。1924年(大正13)市内の報恩寺で出家。法名耕畝(こうほ)。
熊本市北部の植木町味取(うえきまちみとり)の味取観音の堂守となった。1926年、行乞(ぎょうこつ)の旅を始め、
山口県小郡(現山口市)の其中庵(ごちゅうあん)に住したが、行乞漂泊すること多く、諸国を巡り、
1940年(昭和15)松山市の一草庵(いっそうあん)で没した。


◆ 其中庵(ごちゅうあん)


其中庵の場所

d0061579_10115477.jpg

其中庵は、山頭火が昭和7年9月から昭和13年10月まで暮らした庵である。
作句と行乞(ぎょうこつ)の旅に生きながらも安住の地を探していた山頭火は、小郡に住む俳友、国森樹明、
伊東敬治らのすすめによってこの地に庵を結んで、多くの俳友と交流を深めた。
山頭火は、近郊を行乞しながら、この其中庵で、『三八九』(さんぱく)第四、五、六集、句集『草木塔』、『山行水行』、
『雑草風景』、『柿の葉』などを発行し、最も充実した文学生活を過ごしたが、庵の老朽化に耐えず、
山口市に居を移した。現在の其中庵は、平成四年三月に当時の建物を復元したものである。


d0061579_10144391.jpg
d0061579_10151682.jpg
d0061579_10161610.jpg
d0061579_10163016.jpg

d0061579_1019565.jpg

d0061579_10193949.jpg


◆ 防府市 山頭火ふるさと館

山頭火ふるさと館の場所
d0061579_10352030.jpg

防府天満宮の石段下にある、観光交流・観光回遊を目的とした拠点施設まちの駅「うめてらす」から
歩いて西側へ約100mの所にあります。

d0061579_1038188.jpg
d0061579_10385570.jpg























防府市出身の種田山頭火を顕彰する「山頭火ふるさと館」が、平成29年10月7日(土曜日)に開館しました。

★ 館内の撮影は禁止なので、残念ですが紹介することが出来ません!!!

唯一撮影許可をされました、和紙人形作家・長沼隆代さんの作品展示があります。
2~3展紹介させて頂きます。

d0061579_10504963.jpg

d0061579_10513100.jpg


※ 「山頭火ふるさと館」ホームページ


※ 種田山頭火を紹介している私のホームページ 【けんじの館】をご覧下さい。

アンダーラインが引いてある所をクリックして頂ければ、そのページに飛べます・・・

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-12-25 11:17 | 歴史 | Comments(0)

室町時代の水墨画家・雪舟が描き、所在不明になっていた水墨画が84年ぶりに見つかったと、
山口県立美術館が東京都内で発表した。同館は10月31日から開かれた「雪舟発見!展」で公開した。
専門家は雪舟の代表作への道筋を示す、重要な作品と位置付けている。


d0061579_1328272.jpg


見つかったのは、軸装された約30センチ四方の団扇(だんせん)形の作品で、藍や緑などで
彩色を施した「倣夏珪山水図」。水辺に岩や木々が、奥には、なだらかな山脈が描かれている。
同美術館によると、雪舟が中国の名画家に倣って描いた「倣古図(ほうこず)シリーズ」の
うちの1点で、南宋(12~13世紀)の著名な画家夏珪の様式を模した。


◆ 雪舟の生涯

応永27年(1420年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。
幼い頃近くの宝福寺に入り当時文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・
文芸の分野を担っていた。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、天章周文に
絵を学んだ。

d0061579_14485760.jpg


享徳3年(1454年)頃、周防国に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市天花【てんげ】)を構える。寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。

応仁元年(1467)遣明船で中国に渡り、四明天童山(しめいてんどうざん)で前堂首座(ぜんどうしゅそ)に列せられ、また彩色や破墨(はぼく)の画法を学び帰国しました。

※ 楚石梵琦  : 中国,元末・明初の禅者
   四明天童山: 雪舟の称号
   前堂首座  : 江戸期の大僧堂では前堂首座と後堂首座の二人制を取るところもあった。
          首座(しゅそ)は禅宗の修行僧のリーダーをさす役職名

帰国後も、雪舟は雲谷庵に定住し作画活動と弟子の養成に努めましたが、永正3年(1506)87歳のとき山口で没したといわれています。  明治の廃藩後、雲谷庵は無くなりその跡も忘れられるようになったので有志等が図り、明治17年(1884)に古い社寺等の古材により庵を復興しました。


d0061579_14514289.jpg

d0061579_14521613.jpg


◆ 雪舟庭


雪舟は作庭家しても有名です。
日本水墨画の頂点を極めたは雪舟、彼の美の原点は中国だった。修行のために、当時の明へと渡った雪舟は、
そこで墨の黒を描くことで広がる白の世界と出会う。空白とのバランスで引き立つ美しさ、それは黒味を帯び石と
白砂だけで表現された石庭の美と相通じるものだった。実は、当時雪舟は、庭師としても名を知られていた。
枯山水の庭の心は、水墨画とも共通しており、それと同時に庭造りにも心を傾けていたのだという。
築いたものと伝えられる庭園は各地にあり、医光寺(島根県益田市)、萬福寺(島根県益田市)、
常栄寺(山口県山口市宮野下)、旧亀石坊庭園(福岡県田川郡添田町)の雪舟庭は雪舟四大庭園と呼ばれる。


常栄寺雪舟庭
d0061579_152548.jpg

d0061579_154111.jpg


◆ 雲谷庵跡(うんこくあん)

雲谷庵の場所


d0061579_1551540.jpg


雪舟が明(中国)から帰国した後、永正3年(1506)に没するまで創作活動を行ったと言われる山口県山口市天花(てんげ)にあるアトリエです。

d0061579_1585660.jpg

d0061579_1591576.jpg


雪舟は大内氏の招きにより、40歳頃に山口に来て、48歳の応仁元年(1467)に遣明船に乗り中国に渡りました。帰国後も雲谷庵に住み作画活動を行い、87歳のときにここ雲谷庵で没したといわれています。代表作「山水長巻」もここで描かれたと言われています。 現在の建物は明治17年に建てられたものですが、建物の部材は、一部室町時代のものだそうです。

雲谷庵の勝手口として造られたのか? 大内時代の古材を集めたから一宇を再建したのか?

d0061579_15223397.jpg

d0061579_1532510.jpg


雲谷庵の内部に囲炉裏のある部屋と和室の二部屋がありますが、荒廃してスリッパを履かなければ
上がることが出来ません!!!


d0061579_15403978.jpg

d0061579_1540527.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-12-20 15:45 | 歴史 | Comments(0)

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その④

3.内藤氏系図

山口大内氏家臣団で陶氏・内藤氏・杉氏が奉行三家老家に列せられた。
内藤氏は系図によると、平安中期に左大臣として政権を掌握した公卿・藤原道長の五代目の
後裔盛遠を始祖とする。旧内藤家庭園の概要説明に、天正10年(1582)に帰農して瀬戸後山に居住したとありますので、毛利元就の防長経略の時、追っ手から逃走中に立ち寄り帰農したのではないでしょうか?時代背景から想像すれば22代当主・内藤元珍か23代当主・内藤元宣の世代ではないでしょうかと推察いたします。

※ 防長経略: 天文24年10月12日(1555年)から弘治3年4月3日(1557年)まで行われた、
安芸の戦国大名毛利元就の大内氏領周防・長門侵攻作戦のことである。


d0061579_1131953.jpg




【内藤氏の歴史】


公卿・藤原道長から数えて五代目の後裔を始祖とした内藤盛遠から、23代当主・内藤元宣までの系譜を簡単に順次紹介致します。

初代当主・内藤盛遠(ないとう もりとお)は内供奉(注1)祐寛と末武の豪族福井検校大中臣光忠の女の間に生まれた第二子で、鳥羽天皇のとき内藤氏を賜わったとされるが、一説には盛遠の兄内舎人(注2)盛重が内藤氏を賜わったとも伝える。盛遠は筑前守に補せられ(注3)、従五位下を叙せられた。

内藤盛遠の子2代当主・内藤盛定(ないとう もりさだ)、孫の3代当主・内藤盛家(ないとう もりいえ)の時代は源平争乱期に当たる。内藤盛定の子内藤盛家は保延4年(1138)生まれで、寿永4年(1185)源氏に味方し、御家人となる。建久元年ごろから地頭をつとめる周防遠石)荘内の東大寺領,石清水八幡宮領を押領したため、停止命令をうけた。
盛家のあとは第七子4代当主・内藤盛時(ないとう もりとき)がついだ。母は摂津守師茂の女で、源実朝の乳母因幡局と伝えられる。建久元年(1190)生まれで内藤盛家の次男で幕府御家人。若年より幕府につかえ,京都への使者をつとめた。肥後守に補せられ、後五位上に叙された。1254年(建長6)1月19日、65歳で死没した。

つぎの5代当主内藤有盛は盛時の第二子で、童名を徳正丸、のち岩国小次郎ともいい、法名を覚阿と称した。有盛は父盛時から尾張国の牧野・浅井両郷と相模国の北畑之庄を伝領したが、このうち浅井郷を長男時信に、牧野庄と北畑之庄を二男時澄に譲渡した。有盛の妻は法名を仏心といい、前夫は弘中権正兼綱(法名白蓮)である。

有盛と仏心との間にできた第一子が6代当主・内藤時信で、法名を生西といい、肥後に補せられた。妻は母仏心の先夫弘中兼綱の女である。母仏心は小周防(周防本郡)の地頭職を前夫兼綱から相伝していたが、のちこの遺領をめぐって、仏心の子宗像孫次郎宗氏(法名宗通)と内藤時信の子7代当主・内藤盛兼との間で紛争が生じた。

盛兼の子8代当主・内藤盛秀は夭死(ようし)して嗣子がなかったので、時信の二男で盛兼の弟9代当主・内藤盛信が宗家を継いだ。盛信は初め勝間田備前守忠保の婿養子に入り、忠盛と称していた。この盛信の第一子が10代当主・内藤盛世で、童名を徳益丸、のち肥後太郎、法名を智陽と称した。1391年(明徳2)2月8日に死没しているから、盛世の活動時期はまさに南北朝の動乱期にあたる。
同年12月直冬は南朝方に帰順したが、大内弘世もまた翌年南朝方に帰順して周防守護職(注4)に任ぜられたから、周防には南北両朝に分かれて二人の守護が対立し、都濃郡を舞台に激戦が展開されることになった。内藤氏は宗家の盛世・盛貞親子は大内宗家に、庶家の藤時・盛清兄弟は鷲頭氏に属して相争った。藤時は有盛の第二子時澄の孫にあたる。父は時清で、肥後次郎と称し、尾張国の牧野庄、相模国の北畑庄および美濃国船木庄の地頭職を領していた。

鷲頭庄をめぐる攻防戦が大内弘世の勝利で終わると、内藤氏は宗家11代当主内藤盛貞のとき初めて大内盛見に仕え、長門国守護代(注5)に任ぜられ、盛貞の弟勝間田盛実はこれを補佐する小守護代を勤めた。以来、内藤氏は宗家が長門守護代、庶家の勝間田氏が小守護代に任ぜられることが多かった。内藤氏の所領は盛貞のとき周防国の本郷・小周防・勝間村および伊予国成吉別府村であったが、のちには長門・筑前・豊前の各地にも散在した。盛貞が長門守護に補せられて以後、拠点は長門部に移り、都濃郡との関係は希薄になった。長門守護代は盛貞のあと、12代当主・内藤有貞、13代当主・内藤盛世、14代当主・内藤武盛らに伝えられた。大内義興没後、興盛は義隆に仕えて軍評定衆となり、大内氏の被官の中でも陶・杉両氏と並んでその重責をになった。

※ (注1) 内供奉(ないくぶ): 宮中の内道場で供奉し読師の役などをつとめる僧
※ (注2) 内舎人(うどねり): 宮内庁職員のうち、天皇のそばに控え、身支度を整え  
                  るなど私的な世話や雑用を担当し、日常生活を支える
※ (注3) 補せられ     : 役人として役職に任じられる
※ (注4) 守護職      : 国単位で設置された軍事指揮官・行政官である
※ (注5) 守護代      : 鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職



d0061579_11563461.jpg


5代当主・内藤弘矩(ないとう ひろのり)は大内氏重臣として権勢をふるったが、讒言に
より謀反の疑いがかけられ、その子弘和と共に大内氏の第30代当主・大内義興に誅殺された。冤罪と分かり、義興の意向で内藤弘矩の弟で内藤興盛の父16代当主・内藤弘春(ないとう ひろはる)が家督を継承することになり、その後17代当主・内藤興盛(ないとう おきもり)は弘矩の娘を娶り(めとり)、内藤氏の当主となる。
19代当主・内藤隆世(ないとう たかよ)は父18代当主・内藤隆時(ないとう たかとき)が早世していたため、天文20年(1551年)陶晴賢が大内義隆に謀反(大寧寺の変)した直後に隠居した祖父興盛の跡を継ぎ家督を相続した。変の後に大友氏から迎えられた大内義長の元で、実権を握る義兄の陶晴賢と共に大内家重臣となった。

20代当主・内藤隆春(ないとう たかはる)は大内家臣・陶晴賢の主君・大内義隆に対する謀叛(大寧寺の変)が起こると、父・内藤興盛と共に静観の態度を取るが、甥の内藤隆世の積極姿勢に反発して家内が紛争となる。天文23年(1554年)に父が死去し、弘治元年(1555年)の厳島の戦い後に毛利氏に内通し、弘治3年(1557年)の元就の防長経略の時には、内藤氏当主となっていた隆世と袂を分かち毛利氏に降り、元就らに従って転戦する。

21代当主・内藤元盛(ないとう もともり)は永禄9年(1566年)、毛利氏の家臣・宍戸元秀(毛利元就外孫)の次男として誕生。母は内藤興盛の娘。母方の伯父・内藤隆春の婿養子となり家督を継ぐ。毛利輝元の密命を受け、大坂の陣で豊臣方として参戦し豊臣方は敗北し滅亡。内藤元盛も毛利氏一門であることが露見してしまう。江戸幕府の厳命を受けた毛利氏の厳しい捜索により逃亡中に京都で捕縛され切腹させられた。

22代当主・内藤元珍(ないとう もとよし)は毛利氏の家臣である内藤元盛(佐野道可)の長男として生まれた。大坂夏の陣後、内藤元珍は帰国して早々、吉川広家や福原広俊らの進言を受けた毛利輝元に切腹を命じられ、元和元年(1615年)富海の龍谷寺で自害した。

23代当主・内藤元宣(ないとう もともり)は元珍の長男で母方の志道姓を称し、毛利家に帰参するものの隠忍の日々を過ごすが、孫の内藤隆昌の代に内藤姓に復し、船木村・末益村8370石を与えられた。以後、子孫は 厚狭毛利家に仕えて明治維新に至った。

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-12-11 12:01 | 歴史 | Comments(0)

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その③

2.旧内藤家屋敷跡と庭園の場所

 米泉湖沿いに県道41号下松鹿野線を北に進み、下松市下谷より県道139号三瀬川下松線を直進。
米川部落を過ぎ「滝の口親水公園」バス停を過ぎると、次に「大将軍山登山口」バス停がある。右手に
末武川の上流に架かっている後山橋を渡たると、旧内藤家屋敷跡と大将軍山登山口案内板がある。
車で900mの案内が書いてある。瀬戸後山に登る途中に三叉路に分かれた所に看板があります。
そこを右折すると右側に大将軍山登山口と左側に旧内藤家屋敷跡があります。


【下松市米川周辺の地図】
d0061579_168320.jpg


【末武川の上流に架かっている後山橋】
d0061579_1610163.jpg


【後山橋を渡った三叉路】
d0061579_1612492.jpg


【後山の林道に行く道案内】

d0061579_16145735.jpg


【瀬戸後山に登る途中の三叉路を右折】
d0061579_1617599.jpg


【旧内藤家屋敷跡と大将軍登山口】
d0061579_16201850.jpg


の看板を南に20m坂道を登ると、旧内藤家屋敷跡に着きます。
d0061579_16385671.jpg


次回は内藤氏の歴史と題して、内藤家系図をご覧頂きながら調べることが
出来た範囲でございますが、始祖内藤盛遠から23代当主・内藤元宣まで
簡単に系譜を紹介致します。

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-12-05 16:49 | 歴史 | Comments(0)

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その②

下松市に雪舟の弟子によって造られた、名庭・池泉観賞式庭園があるということを、その①で
ご紹介しましたが、その名庭が存在する旧内藤家屋敷跡が下松市にあるということです!!!
この旧内藤家とは、後にご紹介しますが山口大内氏家臣団で陶氏・内藤氏・杉氏が
奉行三家老家に列せられており、始祖が平安中期に左大臣として政権を掌握した公卿・藤原道長の
五代目にあたる名家なのです。
何故下松市がもっと深く、調査・研究しないのか私には分かりません・・・


【旧内藤家屋敷跡の全体風景】 
d0061579_16161654.jpg

下方に写っている石切が入門の痕跡ではないかと推測しますが、池泉観賞式庭園は写真の
左側、方向的に言えば西側になりきす。

【屋敷跡に設置されている案内板】

d0061579_16363081.jpg



案内板の絵図に示されている【旧内藤家庭園説明図】の拡大です

d0061579_1631822.jpg
 

それでは旧内藤家屋敷跡にある、名庭・池泉観賞式庭園をご紹介しましょう。

「雪舟の弟子による作庭」と伝えられる本庭は、中央に奥行のある池泉(現在は涸れ)を大きく
穿ち(うがち)奥部に枯滝を構え、向かって右側奥に鶴・亀両島を配置した、池泉観賞式庭園である。
北に位置する座敷からの座視を旨とするものであるが、母屋から池辺拝石までは定石通りに飛石が
打たれ、泉池中央及び東部泉池に舟石を配し、池の周囲にわずかな盛土と石組をする等、随所に
優れた造庭技術を認めることができる。
現在庭にはやや雑草が茂り、中嶋や護岸一部に損傷の憾みもあるが、地方に於ける庄屋庭としては
県内最古に属し、地方に於ける造園史の上で重要な様相を有するものである。


※ 池泉観賞式庭園とは、どんなお庭なのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。

池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、   
川があり、池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。

観賞式とは  :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。


【北側から見た池泉観賞式庭園】

d0061579_16503736.jpg


【西側から見た池泉観賞式庭園】

d0061579_16514181.jpg


勿体ぶる訳ではありませんが、長くなるのと詳しく載せ見てもらいたくて、旧内藤家屋敷跡と庭園の場所や内藤氏の歴史は、後日に致します。
[PR]
# by kfujiken2 | 2017-11-27 17:01 | 歴史 | Comments(0)

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~

旧内藤家屋敷跡にある池泉観賞式庭園とは、どんなお庭をなのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。


池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、川があり、
           池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。
観賞式とは   :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。



1.旧内藤家屋敷跡と庭園の概要

内藤家は古くから大内氏に仕えていた武家の一族と伝え、毛利氏の中国地方統一の際し、
帰農して(天正10年・1582)現在の米川瀬戸を深く入り込んだ僻地(現在の下松市大字瀬戸
1088番地)に居住している。山村の多くがそうであるように、狭隘(きょうあい)な山裾の一部を
利用して屋敷としたものである。口伝では、この屋敷が瀬戸村に移住後、昭和初期に至るまで
一貫して居住した地であるという。404坪(明治20年土地台帳)の屋敷は、前方を石垣とし
山寄りにはモミの巨樹がそびえ、あたかも寺跡のような景観を呈している。石段を登ると門跡を
示す6基の簡素な礎石があり、池泉はこれを経て左側山裾まで約100坪の間に構成されている。
茅葺の母屋は、昭和初期解体し戦中に耕して畑地としていた。門は昭和37年に子供の火遊びの為、
焼失して建物は存在しないが、庭園は樹草の中に健在である。


【 ① 入 口 の 石 垣 】
d0061579_9515120.jpg


【 ② 旧 内 藤 家 屋 敷 跡 の 入門前の石段 】
d0061579_9532510.jpg



【③ 旧内藤家屋敷跡の全体風景】

d0061579_1043932.jpg


【④ 屋敷跡に設置されている案内板】
d0061579_1075178.jpg


※ ③は②の石段を登った所から見た旧内藤家屋敷の全体風景ですが、③で下方に写っている石切が入門の痕跡ではないでしょうか。


池泉観賞式庭園の説明・場所・内藤氏の歴史は、後日に致します。

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-11-22 10:24 | 歴史 | Comments(0)

幻の下松藩邸

先ずお断りしておきますが、この場所に下松藩邸が存在していたのは間違いない
のですが、何分資料が無くあくまでも想像の域を出ません!!!
虎口(入口)がここだったのでないか?下に記載しました画像がそうなんです。
他の部分は民家が立ち並び、写真を撮ることをはばかられます。


徳山藩と聞けば、大体の方が”周南市(旧徳山市)動物園周辺”に存在したことはご存知でしょう。
この徳山藩が立藩当初は、徳山に藩庁をおかず、下松に藩庁をおいていた。
このことをご存知の方は多いかと存じますが、この初期徳山藩庁であった下松城に関しては、
詳細な事柄は不明な点が多く、所在地もあまり知られていない。下松藩の創設の経緯を知る人は
多いが、下松城の所在地を明確に知る人は多くなく、史学的・考古学研究も検証も、調査も行われ
ておらず知名度は低い。下松に毛利就隆の居館が法蓮寺に建設されたのは、分地から14年後の
寛永8年(1631)のことである。現在、館邸の跡形もないのは、石垣を再度に亘って崩し去り、
慶安元年(1648)で徳山野上に居館建設中であったことから、これらの石垣はことごとく野上へ
移転せしめたのであろう。
下松に居館建設後17年たらずのことであるから石垣のみならず居館も同様移築したものと推測される。


【正保国絵図による下松付近概念】 (図1)

d0061579_11282216.jpg


【所 在 地】

広 域 地 図  (図2)
d0061579_113059100.jpg


拡 大 地 図  (図3)
d0061579_11311183.jpg


【下 松 藩 邸 付 近 の 想 定 図】  (図4)

d0061579_11403978.jpg



下松藩邸の想定の詳細


【縄張り】(注1)
下松藩邸(下松陣屋)については、「防長地下上申」・「旧記抜書」・「主圖合結記(主図合結記)」の三つの資料があるようです。
下松藩邸について『旧記抜書』に下記の様に記されている。
寛永八年就隆公下松御屋敷作事有之、小松山高サ十間余(注2)、切岸(注3)東西二壇(注4)へ竹を植、御門三ツ有之、御厩(注5)惣構(注6)之外ニ有之、或茅葺板葺被二仰付一候、初ハ外構石壁ニ被二仰付一候処、少し高く候而公儀御遠慮ニ思召候、其上へ土を持かけ竹を御植させ被成候、作事奉行佐久間清左衛門相勤候事


この古文書読み解きますと・・・
寛永八年に就隆公は下松御屋敷をここに建設した、小松山の高さが十間余(約20m)あり、お屋敷台の南側(正面)は切岸で東・西二壇に石垣を組むも抗議へのご遠慮のため、土を持ちかけ竹を植えている。二壇の石垣は必ずしも直線ではなく、かぎ型であって、門を入ると石段や踊場を登りながら右の三筆の地(約800坪)、即ち陣屋に向かったものと思われる。この間切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたことが明らかである。つまり、門が三ヶ所あったということから外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。就隆公の乗られる馬の馬屋は陣屋の外にある。
又、『防長地下上申』によると、豊井村地下図に「古御屋敷台」と記されて所が、旧居館所在地である。
東・西・北の三方を山で囲まれているので、屋敷台の地形は現在も余り変わっていないであろう。その屋敷台中央部には、明治20年の分間図・土地台帳によると、一枚(注7)で畑地一反七畝九歩(法蓮寺1725番地)の平坦地があり、その南側に接する二筆(法蓮寺1728番・1729番)も右と同じ高さの平坦地であったことが明らかである。右の登記簿は、明治20年にこの地に女学校創建(櫨蔭高等学校)にかかる造成以前のものであるから、右の三筆約800坪に主要建造物が在ったと考えられる。さて御長屋と廐(うまや)は、屋敷台地が狭隘(きょうあい)な為か惣構(そうがまえ)の外にあり、この馬屋は『地下上申』によると、豊井村地下図に「むまやのたん」と記されてその位置が法蓮寺1673番地・同1677番地付近とあり、現在の末光幼稚園の西側周辺である。

(注1) ※縄張り(なわばり)とは: 曲輪や堀、門、虎口等の配置をいう。つまり、城を造るためには設計が必要であり、この設計のことをいいます。
(注2) ※小松山高サ十間余とは: 河内村に接するお屋敷台の東側の小山で、現在は約半分が住宅と国道188号線に変貌している。現在の地図上の表示は、「光陽台」を指している。
(注3) ※切岸とは: 斜面を削って人工的に断崖とした構造。
(注4) ※壇とは: 他より一段高くこしらえた場所。
(注5) ※御厩(みやま)とは: 貴人が乗る馬の馬屋。
(注6) ※惣構とは:城や砦の外郭、またはその囲まれた内部のことで総曲輪(そうぐるわ)とも言う。
(注7) ※畑一枚とは: 畑一区画の意味です。
 

【図3の拡大地図で緑色で塗った切岸二壇の下部】 (図5) 

d0061579_1220789.jpg


【図5の道路に面した切岸】 

d0061579_1226014.jpg


【図5のコーナーから上部】

d0061579_12274882.jpg


◆ ここで枡形虎口(ますがたこぐち)について少し説明をしましょう。
戦国末期には西日本を中心に枡形(ますがた)と呼ばれる虎口が現れた。これは虎口の前面に桝形(方形)の空間を設け、そこに門や口を2重に構えることで、攻撃側は桝形内部に侵入しても2番目の門に城内への侵入を阻まれ、桝形内部で守備側からの攻撃を全面に浴びることとなる。
枡形には内枡形(うちますがた)と外枡形(そとますがた)がある。内枡形は、曲輪の虎口の内側に小さな方形空間を造り第二の門を築く。
ここに入り込むと寄せ手は3方向から囲まれる。外枡形は、主な曲輪の虎口の外に地続きの小さな方形空間を張り出させ、最前にもう1つの門を開いたものである。枡形の門は、最前の門とその後方の門の2つが開かれる。最前の門を高麗門、その後方の門を櫓門としたものが基本的な形状であると見られているが、後方の門のみで最前の門がないものや、最前の門のみのものもある。 近世城郭はその多くが枡形、あるいはそれに類する虎口を備え、侵入した攻撃側が容易に直進できないようにするため右折または左折構造を採る場合が多い。
下松藩邸の場合、切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたそうだから、外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。


d0061579_12333829.jpg



【外・内枡形を組合せた虎口】

d0061579_137858.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-11-08 13:07 | 歴史 | Comments(0)

陽気につられて紅葉狩り

今朝は放射冷却の為10度を下る気温だったが、昼前から温度がグングン上がり、
陽気につられてふらりドライブとシャレ込みました。
米泉湖に立ち寄り下松市末武川ダム(米泉湖)の上流に位置します、
せせらぎと紅葉の景観が素晴らしい滝ノ口河川公園に行って見ました。


市内より北に車を走らせ、トンネルを抜けるとそこはイチョウ並木のトンネルです
d0061579_15553913.jpg


モミジとイチョウが鮮やかな赤と黄色のコントラストをつけています
d0061579_1633829.jpg


滝ノ口河川公園のせせらぎです

d0061579_1693510.jpg
d0061579_1610655.jpg


































逆行をまともに受けて・・・
d0061579_1616438.jpg

[PR]
# by kfujiken2 | 2017-11-01 16:18 | 風景 | Comments(0)