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徳山大学内松下村塾(模築)


徳山大学は昭和46年に高村坂彦(当時徳山市長)により設立され、平成2年に開学20周年と吉田松陰生誕160年にあたることから、創立者が尊敬していた松陰教学精神を継承しようと徳山大学に松下村塾(模築)が建てられました。
「知・徳・体」一体の人間教育を行う大学精神を表しています。創立者は、「村塾小なりと雖いえども誓って日本の幹とならん」の言葉をもじり「徳山大学小なりといえども、誓って日本の大学のモデルとならん」とおっしゃっていたそうです。
正門から北側に位置する構内の高台にあり、一般公開されています。この場所につながる遊歩道も人気スポットです。


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全国に六つもの「松下村塾」の模築があるそうです。

1、東京 世田谷 松陰神社の境内にある
2、東京 町田市 玉川大学構内
3、山口県 徳山大学
4、山口県立・奈古高校
5、秋田県立大舘鳳鳴高校
6、山口県周南市の山口放送の前庭


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# by kfujiken2 | 2019-04-13 16:06 | 未分類 | Comments(0)

新元号・令和に関して


出典は日本最古の歌集「万葉集」で、巻五に収録された梅花の歌の「序」。この梅花の歌は32首あり、大伴旅人を中心とするグループが詠んだとされる。
1200年余り前に編さんされた日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。


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「梅花の歌三十二首」の序文
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」

(初春の令月にして、気淑(きよ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす)

【注釈】 令月:めでたい月   珮後:身に帯びているような 

【現代語訳】
春の初めの めでたい月に、風は和らいで気持ちよく吹いている、梅は鏡の前でお粉(おしろい)をはたく女性のように白く美しく咲き、蘭の花は身にまとった装飾品の香り袋のように薫っている

令和とは「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育ち、希望に満ち溢れた新しい時代を切り開いていく」という祈り・願いが込められていると安倍総理からの説明があったが、忖度ありきの政治を排除し、忖度のない文化にしてもらいたいものです。


◆ 令和のミステリー


1.一つに絞れない文字

ゴシック体・明朝体「人・一・刀」と教科書体・楷書体「人・丶・マ」と書きますが、常用漢字表の字体・字形で一つに絞れない文字を選んだか?
いずれも正しいというのが文化庁の言い分らしいが・・・


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2.「改元の呪い」・・・改元後の内閣は半年ももたない!?

令和が内閣制度ができて以降、明治から大正、大正から昭和、昭和から平成、平成から令和へと4度の改元がありましたが、過去の3度改元後内閣の総辞職が起こってる。

● 明治から大正に改元したのが1912年7月30日。その改元時に政権を担っていたのが西園寺公望首相だった。第2次西園寺内閣は、行財政改革を進めており、陸軍の増強を拒んだことから上原勇作陸軍大臣が辞任した。後任の陸軍大臣の推薦を陸軍に求めたが、後任の推薦を拒否。当時は軍部大臣現役武官制があって後任の陸軍大臣を充てられず内閣総辞職に追い込まれた。大正になってから144日。

● 大正から昭和に改元したのが1926年12月25日。その改元時に政権を担っていたのが若槻礼次郎首相だった。第1次若槻内閣は、1927年3月に起きた昭和金融恐慌によって経営危機に直面した台湾銀行を救済する緊急勅令案を枢密院に諮ったが否決されたため、内閣総辞職に追い込まれた。昭和になってから116日。

● 昭和から平成に改元したのが1989年1月8日。その改元時に政権を担っていたのが竹下登首相だった。リクルート事件とと消費税の導入に対する世論の反発を受けて追い込まれた。平成になってから146日。


このように、改元した時の内閣は、新元号の時代に入って長くは政権を担えなかった。改元したことと内閣が総辞職したこととは直接関係ない。だから、改元が首相の辞任の引き金になるわけではない。あくまでも歴史の偶然なのかもしれない。平成の次の元号では、どうなるだろうか。
# by kfujiken2 | 2019-04-11 09:59 | 未分類 | Comments(0)

山陰の小京都(史跡と鯉の町)津和野町  Part4


津和野町に着いたら先ず太皷谷稲成神社というのが常識ですよね!従って太皷谷稲成神社の参拝を済ませ見学を近場からと思い、南側から北側へと散策したのが順序が逆でした。最後に「津和野町 日本遺産センター」に行くなんて・・・ (° ㅂ ° )マイッタナー。
津和野町を観光で訪れるなら、最初に「津和野町 日本遺産センター」に立ち寄ることがお薦めらしいです。
帰途の時間が近づいており充分な見学の時間がなく、更にコンシェルジュの清水徳秀さんと長州藩と津和野藩との比較対照話が盛り上がり、予定の1時間が過ぎ、撮影するのもを忘れておりまして画像を、観光協会様よりお借りしました。


● 津和野町日本遺産センター

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葛飾北斎美術館の跡地に出来た「津和野町 日本遺産センター」で、文化庁により認定された「津和野今昔~百景図を歩く~」のストーリーを、映像やパネル展示などで解説し、津和野町の旅をより興味深く楽しんでいただくためのガイダンスセンターです。又、常駐のコンシェルジュ(案内人)さんがわかりやすく津和野の魅力、まち歩きの楽しみ方を紹介して頂きます。


◆ 観光協会様よりお借りしました「津和野百景図」の全体景図です。

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※ 津和野百景図

最後の第11代藩主亀井茲監(かめいこれみ)の業績をまとめた「以曽志乃屋文庫(いそしのや)」とともに亀井家に納められた文書の一つ。藩主の側に仕えた栗本格齋(くりもと かくさい)(本名 栗本 里治(さとはる))は御殿内の様子や藩内の随行先、お殿様の生活を真近で見ることができ亀井家からの信頼も厚く、第14代当主 亀井玆常(これつね)公から依頼を受け、明治の終わり頃から、書き溜めていたスケッチをもとに描きはじめ、3年8ヶ月の歳月をかけて100枚の絵を完成させたそうです。

※ 「以曽志乃屋(いそしのや)文庫」

最後の津和野藩主・亀井茲監(これみ)の業績を巻物81巻にまとめ、たんす二さおに収めたもの。


◆ お借りしました景図を3枚ばかり紹介します。

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● 古橋酒造

津和野町は清純な水と地元の酒米、そして気候に恵まれ、3軒の蔵元があります。
津和野のメインストリート本町通りにある明治初期の創業以来こだわりのお酒造りをつづけている古橋酒造もその一軒。
軒には酒林がかかり初陣(ういじん)の名の入った樽があり、横にはベルリンのアンペルマンの歩行者信号機が迎えてくれます。


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中に入るとテーブルで希望の物を試飲させてくれます。他にも津和野の姉妹都市であるベルリン中央区に因み、東ドイツの信号機キャラクター・アンペルマンのお酒やグッズが販売されていました。
森鴎外がかつて留学していたベルリンと津和野町は姉妹都市提携を結んでおり、その縁でドイツでの販売の話が持ち上がったそうです。 暗中模索の結果、ベルリンで輸入業者が見つかり、念願だったベルリンでの販売を開始することができました。現在は、ドイツだけでなく台湾へも同じように取り組み、輸出を進めているそうです。


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# by kfujiken2 | 2019-04-09 10:07 | 未分類 | Comments(0)

山陰の小京都(史跡と鯉の町)津和野町  Part3


津和野藩は幕末の長州征伐には中立的立場をとり、積極的に戦に関わりを持たなかったから、藩士の戦死者を出さなかった故、偉人たちが多く残ったいるのではないでしょうか?


● 「津和野大橋」の袂(たもと)には船着き場と思われる石組があります。


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● 殿町通り

なまこ壁や白い土塀など、江戸時代の風情を感じさせる建物が残っている殿町通り。殿町通りはかつての上級武家屋敷町で、白壁と格子窓が残る藩校跡や武家屋敷門が立ち並ぶ通りです。この通り沿いにある堀割(用水路)を泳ぐ鯉は、津和野の代名詞的な光景です。
江戸時代の初め、津和野藩初代藩主・坂崎直盛によって建設された堀割で、水路に発生する蚊の幼虫を駆除するために、疫病対策として鯉が泳がされたのだそうです。


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● 藩校養老館跡

城下町・津和野のメーンストリート、津和野町後田の殿町通りに白壁、格子窓の古式ゆかしい長屋門が威風堂々と構える。哲学者・西周(あまね)、文豪・森鴎外など数々の偉人を輩出した。津和野藩が4万3千石の小藩ながら、乱世を乗り切るため人材養成に力を注いだ証が刻まれている。
津和野藩校「養老館」は、津和野8代藩主亀井矩賢によって天明6年(1786)に創設され、嘉永6年(1853)の大火後の安政年間に殿町に現在みることのできる建物が移設新築されました。
現在残されている武術棟(槍術教場、剣術教場)と御書物蔵の2棟、そしてそれらが建つ敷地が、昭和44年(1969)に「津和野藩校養老館」として、県指定史跡になっています。
武術棟は平成28年末より保存修理中で、見学が出来ませんでした!!!


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● 津和野藩家老多胡家表門

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● 津和野カトリック教会

レトロな津和野の町並みに佇む、ゴシック様式の「津和野カトリック教会」。
礼拝堂は国内でも珍しい畳敷きで、ステンドグラスから美しい光が降り注ぎます。厳粛な雰囲気の中、祈りを捧げていると気持ちが自然と落ち着きます。
明治維新直後、津和野には隠れキリシタン153人が配流され、過酷な拷問が繰り返されたという悲しい歴史が伝えられています。

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# by kfujiken2 | 2019-04-07 09:22 | 未分類 | Comments(0)

山陰の小京都(史跡と鯉の町)津和野町  Part2


● 津和野町 郷土館

大正10年、当時としては島根県内唯一の郷土歴史博物館として設立され、創設当時は藩校養老館の御書物蔵を利用していましたが、昭和15年に現在の建物が建設され、独立した郷土館として整備されました。
その後、戦時下の一時休館や、終戦直後には役場庁舎に利用されるなどの変遷をたどりますが、昭和29年に再び今日の姿で開館され、現在に至っています。
津和野周辺の歴史資料、津和野藩の資料、美術工芸品などを展示しています。吉見、坂崎、 亀井の三氏にわたる津和野藩政の歴史を今に伝える豊富な史料に加え、人材育成の源泉となった「養老館」に関する資料、西周をはじめとする多くの先哲の遺品、乙女峠のキリシタン殉教関係資料などなど、島根県指定文化財を含む数千点を収蔵、展示しています。


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「郷土館」は2階建てとなっており、1階には土器や津和野の歴史に関する資料や文化遺産のフロアと津和野出身の先哲・文人たちを紹介するフロアの二つに分かれています。


◆ フロアの中央部分には大砲が、どどーん!と展示されています。ガラスケースに入っていないので、間近で詳細を確認しながら楽しめます。こちらは「仏狼機砲(ふらんきほう)」と呼ばれる16世紀末から17世紀初頭の青銅製の大砲。

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◆ “三本松城”とも呼ばれた津和野城の復元模型。1/200の縮尺で、1967年(昭和42年)に製作されたものです。

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◆ “哲学”や“心理学”という言葉を生んだ哲学者・西周や軍医・文豪の森鷗外、“日本地質学の父”と称される小藤文次郎、東洋紡績の初代社長・山辺丈夫、初代札幌市長・高岡熊雄などなど。小さな藩であったにも関わらず、津和野藩は藩政時代から明治期に掛けて、多くの偉人たちを輩出してきました。


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◆ 2階にあがる階段の踊場のに、津和野町出身「先哲画像」の展示があります。

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◆ 2階の壁一面に津和野城下絵図(大正3年 栗本格斎 作)があります。

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# by kfujiken2 | 2019-04-04 11:18 | 未分類 | Comments(0)

山陰の小京都(史跡と鯉の町)津和野町  Part1


1295年に吉見氏の城下となり,以後坂崎氏,亀井氏の城下町として発展。中心市街地には武家屋敷の遺構やコイのすむ掘割など風情のある景色が多く残され,「山陰の小京都」と呼ばれる山紫水明の地。主産業は観光だが,ワサビやシイタケ,クリ栽培のほか,酪農も行なわれる。特産品として,コウゾやミツマタを原料とする石州半紙がある。津和野城(三本松城)跡,森鴎外旧宅,西周旧居はいずれも国指定史跡。
平成25年 7 月28日、島根県津和野町が集中豪雨により土砂災害が原因で、太皷谷稲成神社の参拝者は変わりないかもしれないが、観光客は減ったと話しておられました。


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● 杜塾美術館

日本家屋の木のぬくもりと、陰影に富む空間。 津和野藩の筆頭庄屋屋敷を往時のままに復元し、中尾彰、吉浦摩耶画伯の心和む絵画を展示しています。故 中尾彰氏は、1904年津和野生まれ独立美術協会員。1年の半分を蓼科高原に住み、創作活動を続けていました。また展示さている版画 「闘牛技」はスペインの国民的画家ゴヤの作品。特に「闘牛シリーズ」最終版は、原盤は現在ではマドリッドにある聖フェルナンド国立アカデミー美術館に収納されており、今後新たに増刷されることのない貴重なものとなっています。


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土間の天井には、黒光する太い梁や大黒柱があり、2人のなつかしさを感じる絵画とマッチして、心落ち着く空間となっています。

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スペインの宮廷画家「ゴヤ」の版画「闘牛士」シリーズや茶器の展示もあります。


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2階に津和野藩主・亀井家八代矩賢公書があります。


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# by kfujiken2 | 2019-04-01 12:45 | 未分類 | Comments(0)

周防國三之宮という由緒正しき古社・仁壁神社


仁壁神社(にかべじんじゃ)は、山口県山口市三の宮にある神社。
式内社、周防国三宮で、旧社格は県社。
宮野という駅名は、たぶんこのお社に由来するものなのでしょう。


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◆ 概 史

仁壁神社の創建年月は不明であるが、文徳実録・三代実録 などの正史や延喜式神名帳にその名が見える古社である。 長治元年(一一〇四年)宮の前の旧地から現地へ遷座したという。 古くから周防三の宮と呼ばれている。
明応六年(一四九七年)大内義與は九州の戦陣から帰り、五社 参拝をした。五社とは、防府右田の玉祖神社・徳地の出雲 神社・この仁壁神社・さらに吉敷の赤田神社・大歳の朝田 神社をいう。この参拝の順に一の宮、二の宮……というふうに呼んでいる。
永徳一二年(一五六九年)大内輝弘の乱の時焼失したが、程なく 毛利輝元によって再興された。その後正徳二年(一七一二年)に また焼失したので、享保五年(一七二〇年)重建された。現在の 社殿がそれである。
なお、当神社には「慶長十三年二月吉日新見作」という刻名の 獅子頭がある。慶長十三年は江戸時代初期(一六〇八年)に あたり、山口市の有形文化財に指定されている。


◆ 参道入口の社号碑式内仁壁社とあります。

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◆ 参道の石橋

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◆ 拝殿&拝殿内部


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◆ 社殿全景 拝殿・幣殿・本殿


平成9年不審火により本殿、幣殿、拝殿を焼失しましたが、平成12年再建されました。

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◆ 裏側から見た本殿

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◆ 平成22年(2010年)に再建された神楽殿

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◆ 火災の拡大を防ぐ為に伐採された輪切りの神木

神楽殿の中にありました。

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◆ 伐採された神木の切り株


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# by kfujiken2 | 2019-03-28 09:52 | 風景 | Comments(0)

散りぎわの美・ 五色八重散椿(ごしきやえちりつばき)


秋の紅葉で名所になっている山口市鋳銭司・両足寺に、今年も ”五色八重散椿” が綺麗に咲いている。1株に白、桃、紅、桃色に紅絞り、白地に紅絞りと咲き分ける花は、首から落ちずに花弁が1枚1枚散るのが特徴とされる。樹齢は300年といわれるが、現在も元気です。


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名樹とうたわれ、珍重された五色八重散椿の縁起は、安土桃山時代朝鮮に出兵した加藤清正が蔚山城(うるさんじょう)から持ち帰った椿を豊臣秀吉に献上し、それを北野大茶湯の際に秀吉が地蔵院に寄進しました。

五色八重散椿は、他の椿と比べて2点変わったところがあります。
1点目は、1本の木にピンク色、白色、赤色、絞りが入ったものなど、いろいろな花を咲かせることです。
2点目は、通常、椿は、花が丸ごと地面に落ちるのですが、五色八重散り椿の場合は、桜のように花弁が1枚ずつ散っていきます。


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# by kfujiken2 | 2019-03-25 11:29 | | Comments(0)

あなたも新元号の予想をしてみませんか?


新元号の公表まであと2週間、施行まで45日となりました。
平成31年(2019年)4月1日に公表され、4月30日をもって幕を閉じ、2019年5月1日に新元号が施行されます。


◆ 新元号はいったいなんだ?

元号は世界で唯一日本だけで使われていて、4月1日から新元号になると思っている方もいるかもしれませんが、天皇陛下の御退位の日は平成31年4月30日。つまり、新元号に変わるのは、皇太子さまが即位される5月1日、元号を改める「改元」を行う5月1日からです。

「日本最初の元号『大化(645年)』から『平成(1989年~)』まで247もの元号がありました。しかし、じつはこれまでに元号に使われた漢字は72にすぎません。同じ文字が何度も使われているのです。


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◆ 新元号の名前に条件

・漢字2文字であること
・書きやすく、読みやすいこと
・これまで元号やおくり名として使用されていないこと
・俗用されているものでないこと
・国民の理想としてふさわしい意味をもつこと

さらに略称で書く際に紛らわしくならないように、アルファベットの頭文字が重要な要素となったことが知られています。つまり、「修文」や「正化」は、アルファベットにしたときの頭文字が「S」で、元号をアルファベットの頭文字を使って表す際に「昭和」の「S」と重なってしまい、不都合が起きてしまうと指摘されたのです。
今回の改元でも、こうした考えを踏襲するのであれば、アルファベットの頭文字が「明治」の「M」、「大正」の「T」、「昭和」の「S」、「平成」の「H」と重なってしまう元号は選ばれません。つまり「サ行」「タ行」「ハ行」「マ行」ではなく、「ア行」「カ行」「ナ行」「ヤ行」「ラ行」「ワ行」のいずれかから始まる新元号が採用される可能性が高いと言えます。


Aが頭文字の元号は江戸時代の『安政』以来ない。平和が持続するように「安久(あんきゅう)」がいいのではないでしょうか?
「安久」は安泰(平和)な時間が長く続くような願いを込めて!!!



※ 1989年の平成への改元で、採用されなかった20超の元号案が分かった。新元号案の考案者の一人、目加田(めかだ)誠・九州大名誉教授(中国文学)が推敲(すいこう)に使った手書きのメモが見つかった。
平成改元の際、政府は学者から集めた元号案から、最終的に「平成」は山本達郎・東大名誉教授(東洋史)、「修文」は目加田誠・九州大名誉教授(中国文学)、「正化」は宇野精一・東大名誉教授(中国哲学)の3案から選ばれたそうです。

見つかった目加田誠氏の推敲(すいこう)メモで、「平成」以外にどんな新元号候補があったのかを示す初めての史料です。


「普徳(ふとく)」
「靖之(せいし)」
「靖和(せいわ)」
「天昌(てんしょう)」
「修文(しゅうぶん)」
「大猷(たいゆう)」
「允徳(いんとく)」
「修和(しゅうわ)」
「恭明(きょうめい)」
「敬治(けいじ)」
「大有(たいゆう)」
「大成(たいせい)」
「和平(わへい)」
「成孚(せいふ)」
「純煕(じゅんき)」
「長道(ちょうどう)」
「天休(てんきゅう)」
「永孚(えいふ)」
「大明(たいめい)」
「成文(せいぶん)」

# by kfujiken2 | 2019-03-17 11:55 | 未分類 | Comments(0)

古墳時代の『後井古墳(ごいこふん)』

後井古墳は山陽本線田布施駅から西北西約2㎞・ 山口県熊毛郡田布施町宿井 の、標高約62mの丘陵にある。6世紀末から7世紀初頭に造られたとみられる、円墳の1号墳とほぼ同時期に造られたとみられる前方後円墳の2号墳の他、少し離れた場所に3号墳があり、どれも片袖型横穴式石室を持っており、山口県下最大規模で当時の首長墓とされています。見学は保存状態の良い1号墳のみ可能となっており、玄室内にある社は火の神様である秋葉様が祀られています。秋葉古墳とも呼ばれることがあり、山口県の史跡に指定されています。

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◆ 後井古墳は誰の墓か?


かつて田布施町には「王国」があった。このあたりは熊毛王国と呼ばれていました。熊毛地方(田布施を含む近隣地域のこと)は、かつて瀬戸内海の要所であり、人や文化の集積地点として栄えました。3世紀末から7世紀にかけて山口県熊毛郡の古柳井水道(古熊毛水道)付近に熊毛王と呼ばれる複数の豪族の治める熊毛王国と呼ばれる連合国家があった。
大和朝廷が完成するまで、人口が集中する地域は独自の小国家をつくった。町内に古墳が多いことも田布施の特徴だ。現在、確認されている古墳の数は85基あるそうです。


※ 古柳井水道(古熊毛水道) : 山口県の室津半島と本州は分離しており、間に古柳井水道(古熊毛水道)と呼ばれた海峡があった。

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古墳なのに石鳥居がある

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途中の石段ですが、長年の風雨で石の周りの土が削られ流されたのだろうか? 一段の石が50cmくらいあり石段を登って行くのが大変なので、両サイドの溝を登って行きました。

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やっと古墳の入り口が見えてきました。

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◆ 後井古墳の概要

入口の幅はあるが天井の低い羨道(羨道長5.9m、幅1.6m、高さ1.8m)の先に玄室(玄室長6m、幅3.5m、高さ3.55m)で県内最大クラスの石室、奥壁鏡石と天井石が特に巨大です。よほどこの地に縁深い有力者のものなのでしょう。社などが建てられるでもなく墳墓そのものが御神体となっている珍しいものでした。

後井古墳の入口です。

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羨道と玄室です

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巨大な天井石です。 どこから運んできたのか、どの様に石組みをしたのか不思議です。

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# by kfujiken2 | 2019-03-12 10:50 | 歴史 | Comments(0)

大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 その②



本堂の左手に「高杉晋作 遊撃隊(遊撃軍)激励の詩石碑」と岩国市教育委員会の解説版があり、その後方に「遊撃軍陣営遺跡保存基金芳名」の寄進者芳名柱があります。更にその後方が遊撃隊総督邸跡地だったようです。


上記の記載の順に沿って画像をアップします。

◆  「高杉晋作 遊撃隊(遊撃軍)激励の詩石碑」 

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殱賊興正非我功   幸隋驥尾全斯躬
豊公事業君無怪   一片機心今古同
訪遊撃軍諸君即吟
              
                東洋一狂生東行



◆ 岩国市教育委員会の解説版


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訳:賊を打ち破り、正道を興すは我が功績に非ず
幸いにも先達を見習って行動したことで、成し遂げただけである
豊臣秀吉公も偉大な事業を成し遂げたが、何も不思議な事はない
昔も今も成し遂げようとする人の心は同じである
遊撃軍諸君を訪問してこの詩を即興で吟じる




◆ 「遊撃軍陣営遺跡保存基金芳名」の寄進者芳名柱

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「毛利家」、「子爵 河瀬 眞」、「吉川家」、「江木千之」の芳名が刻まれている
建立年月日が刻まれていないが、通化寺本堂背後の「遊撃軍記念碑」篆額に大正10年書、 「遊撃軍招魂碑」陰刻に大正15年建立とあるので、この頃の寄進と思われる。



★「金參百圓 毛利家」 :遊撃隊総督の吉敷毛利氏世嗣幾之進の吉敷毛利氏と思ったが、「毛利家」とあるので右代表として、毛利本家ではなかろうか。
★ 「金參百圓 子爵 河瀬 眞」 :再建遊撃隊総督河瀬安四郎(石川小五郎 ・真孝:まさたか)の三男「眞(まこと)」。
★ 「金貮百圓 吉川家」 :岩国吉川氏。
★ 「金壹百圓 江木千之(かずゆき)」 :岩国藩士江木俊敬(としたか)の長男で、大正13年文部大臣に就任。晩年は枢密顧問官を務めた。



◆ 遊撃隊総督邸跡地


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入り口の看板に「檀家が24軒で、維持して行くのが大変厳しい。来られた方のご寄付をぜひお願いしたい」旨の記事が大きく書かれています。そのせいかどうか、本堂の屋根はシートで覆われたまま。
本堂内部の柱の金箔も剥げ、傷みが酷いのが一目で分かりますが、岩国市が本格的に力入れ、檀家の寄付では修復は無理だと思います。
弘法大師が創建し幕末から明治維新にかけ、長州藩の遊撃隊の本陣がおかれたという歴史ある名刹を放置するのは残念ですよね~


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寺の背後の庭は、巨石を配置した「雪舟」の作とのこと。
案内柱があるので雪舟庭園には違いないのだろうが、残念なことに荒れ放題で、何処までが庭園なのか分かりません!!!

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# by kfujiken2 | 2019-03-08 13:03 | 歴史 | Comments(0)

大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 その①



弘法大師が唐から帰朝の際に大黒山麓大梅の地に立ち寄り、大同二年(807)創建という古いお寺ですが一度途絶えたそうです。それをこの地に住んでいた「吉川元春」の次男、毛利元氏が自ら京都宇治に「隠元禅師」を訪ね、禅師が開いた禅宗の一派「黄檗宗(おうばくしゅう)」の分院として再興したのです。
隠元禅師は、いんげん豆の他、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚などを日本に持ち込んだ中国の僧だそうです。


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時代は下がって、明治維新のころ、第二次長州征伐「四境の役」で幕府軍と戦った時、幕軍による征長に備え東境の守りの要として遊撃隊の本陣が通化寺におかれました。遊撃隊は来島又兵衛が創設しましたが、1865年(慶応元)3月、250人の遊撃軍がここに来た時の総督は高杉晋作でした。禁門の変では総督の来島又兵衛は戦死するほどの奮戦を見せています。来島又兵衛の戦死後は、石川小五郎が指揮をとって功山寺挙兵にも参加。大田絵堂の戦いの後に高杉晋作が総督となっています。・・とはいっても正式に藩から任命されたわけではなく、 事実上の総督であったのだと思います。

※ 来島又兵衛 : 剣術や槍術、馬術にも長けており、戦国時代の武将のような風貌であったと言います。「血気盛ん」「気性が激しい」性格は若い頃からであったと言います。多くの長州藩士が禁門の変で命を落としますが、もともと戦うことが目的ではなく、朝廷に対して陳情するのが目的でした。しかし、この時期の長州藩に対する幕府、朝廷、世間の目は厳しく、兵と一緒に京に行けば戦いと捉えられて、陳情どころではなくなるのは明白でした。
桂小五郎をはじめ、軍を率いて京に行くことに反対しました。 藩の意向に来島又兵衛は納得しませんでした。 脱藩してでも行くと言って聞きません。説得役として藩に命じられた高杉晋作は3日かけて来島又兵衛を説得しますが、来島は断固として納得しません。急先鋒はもちろん来島又兵衛で、 遊撃隊600を率いて進軍しますが、幕府軍の圧倒的な兵力で敗れることになります。


【来島又兵衛】
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※ 石川小五郎 : 周防国吉敷郡佐山に、長州藩士の子弟として生まれる。萩の明倫 館に学ぶ。文久2年(1862年)、先鋒隊に入隊 。
元治元年(1864年)、御楯隊に入隊。禁門の変では、戦死した来島又兵衛の指揮権を引き継いで遊撃隊の指揮を執り、のちに遊撃隊総督となる。慶応元年(1865年)、高杉晋作による功山寺挙兵では、遊撃隊を率いて参加した。第二次長州征伐では芸州口を攻撃するなど活躍した。


【石川小五郎】
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大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 その②に続く
# by kfujiken2 | 2019-03-06 16:26 | 歴史 | Comments(0)

江戸城の歴史と皇居の謎

【江戸城の歴史】


現在の皇居は、江戸時代に徳川将軍の居城であった江戸城が前身であることは、何方もご存知だと思いますが、では皇居・江戸城の歴史や変遷を詳しくご存知の方は少ないんではないでしょうか?

現在の皇居がある場所(東京都千代田区)に、江戸城は15世紀半ばに建てられました。江戸時代には「江城」、「千代田城」とも呼ばれていたそうです。
家康入府時には、応急修理がなされた程度で、その後二代秀忠、三代家光の時代に拡大整備され、東西5.5㎞、南北4㎞、周囲14㎞と大城郭が完成したのは寛永13年(1636)、家光の治世であるといわれています。


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平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、江戸城の中心部分だった本丸のあたりにあったそうです。
当時関東地方に勢力があったのが扇谷(おうぎがやつ)上杉氏でした。
と言っても、この扇谷上杉氏はよく知られている戦国武将・上杉謙信とは近い関係ではなく、分家のような存在です。その扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌(おおたどうかん)こそ、江戸城を造った人です。
そして城は扇谷上杉氏のものになりましたが、新しい勢力が出てきて、城は彼らの手を離れます。次の主は、北条早雲を筆頭とした北条氏でした。


本丸跡の北西部には天守台石垣(天守閣の台座)が現在も残る。家光時代に完成し、明暦の大火で焼失した。復興に着手し天守台を築いたものの、天守閣は日常的な使い道はこれといってない「天守はもはや無用の長物」だという保科正之の提言で、江戸城に天守が再建されることはありませんでした。

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【皇居の謎】

明治維新後1868年に明治天皇が入城したことにはじまり、それ以前は、平安遷都以来1000年あまりにわたって京都御所が皇居であった。
東京遷都後、江戸城は「東京城」、「皇城」と改称され、明治宮殿完成後に「宮城」を公称と定め、第2次大戦後は「宮城」という名称が廃止され、以来一般に「皇居」と称される。


皇居は115万平方メートルの広さを誇り、8つの門があります。
現在「皇居」と呼ばれているエリアは、「吹上御苑~西の丸」「皇居東御苑」「皇居外苑」からなる。
西側に位置する「吹上御苑」には、天皇・皇后の住まいである吹上御所、宮中三殿、生物学御研究所などがあり、
江戸城時代は西の丸御殿があったエリア「西の丸」には、現在、宮殿や宮内庁庁舎などがある。
「東御苑」は、かつて江戸城の中心、幕府の中枢であった本丸や二の丸、三の丸があったエリアである。大奥は、本丸御殿、二の丸御殿の北側に存在していた。

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# by kfujiken2 | 2019-03-03 14:58 | 歴史 | Comments(0)

天皇とは何か?・・・不謹慎なことを物申す!

ほとんどの日本人にとって、天皇や皇室について考える機会はそれほど多くないのが現実だろう。これまで天皇や皇室を語ること自体がタブー視されてきた。
今上天皇が生前退位(譲位)されるにあたり、天皇は現人神(あらひとかみ) つまり、国土を創造した神々の直系の子孫とイメージされていたが、昭和天皇は一個の人間にすぎないと宣言されました。



天皇を知るに当たっては、必ずと言っていいほど、「太陽神の子孫」といったような抽象的で、信じるしかない神話の話に直面し、どう解釈すればいいのかという問題と向き合うことになります。
『古事記』のなかでも、非常に抽象的な神話の世界が描かれた前半部分を「神代(かみよ)」と呼び、やや話が具体的になる後半部分を「人代(ひとよ)」と呼びます。その境目で誕生するのが、初代天皇の神武天皇ということになります。つまり、天皇が登場するところから「人の世」になるというわけです。

江戸時代以前の天皇を中心とする朝廷は、祭祀を主に執り行っているだけの存在で、政治の実権は握っていませんでした。江戸以前の武士の世の中(鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代)で実権を握っていたのは、一部の例外を除いて幕府のトップである征夷大将軍でした。
つまり、天皇という存在は非常に微妙な地位であり、これらの政治権力者が武力を持って天皇を攻め滅ぼすことも十分可能だったにもかかわらず、誰もそうしなかったのです。



◇ 日本帝国憲法

1889年にドイツの憲法を参考にして作った大日本帝国憲法は、今までの幕藩体制を否定して、天皇中心とした君主制に基づいた政治を行うほうがより近代国家へ近づくと考えていましたため、立憲君主制で権力者のトップは君主(天皇)であり、軍隊の統帥権や統治権、立法権などの天皇大権が与えられていたのです。


憲法発布略図
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※ 天皇大権とは : 大日本帝国憲法(明治憲法)によって君主である天皇に認められた政治上の権限のことです。役人として任命したり免職する権利、軍を統帥する権利、宣戦布告したり講和を結ぶ権利、他国と条約を結ぶ権利、立法大権、議会を解散する権利、緊急勅令大権、戒厳大権、非常大権、恩赦大権、栄誉大権、憲法改正の権利、皇室全般について取り仕切る権利などがあったようです。


◇ 日本国憲法


第2次世界大戦後、占領軍総司令部の強力な指示,示唆のもとに,1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に新しい日本国憲法が施行された。象徴天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され、内閣の助言と承認を必要とする。国政に関する権能を全く有さない。 ということは、内閣の意思に基づいて行われるとの趣旨であるとみられる。行政には全く触れることができず、政府の承認と助言がなければ国事行為できないとは、国のお飾りではないかと思わざるを得ないです。お気の毒な話ですよねぇ~


連合国軍最高司令官 D.マッカーサー元帥が起草
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◆ 第三条 : 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

◆ 第四条 : 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。




次は皇居の謎と前身の江戸城の歴史を投稿します。

# by kfujiken2 | 2019-02-27 11:48 | 未分類 | Comments(0)

一足早く春の訪れを知らせてくれる河津桜


2年続けて河津桜が180本植えられているらしい、上関の城山歴史公園に河津桜を観に行きましたので、今年は久し振りに笠戸島に行って見ました。昨日「笠戸島 河津桜まつり」が開催されたそうですが、私は一足先に混雑を避けて21日(木曜日)に笠戸島に行ってみました。

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笠戸島には資料では約500本と書いてありますが、そんなにあるかなぁ~ !!!
県道笠戸島線沿いに何ヶ所とある小さい駐車場に、まばらに植えているもので、一貫性がないというか、全体的にまとまりがない気がして、見応えがありません。


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上関の城山歴史公園 (在庫より)


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先日テレビのニュースで萩市出身の「厚東 満」氏が、自分の育った萩市への恩返しとしてこの河津桜を寄付された、道の駅萩しーまーと横(親水公園)の約120本の河津桜を紹介していましたが、上関の城山歴史公園の河津桜同様、一ヶ所に纏めて植えているので、見応えがしますよね・・・ (萩市観光協会より)

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# by kfujiken2 | 2019-02-24 09:57 | | Comments(0)

ノーベル賞レベルの線虫によるガン検査「N-NOSE」が開発された


線虫によるガン検査「N-NOSE」を開発したのは、広津崇亮(ひろつたかあき)氏です。

プロフィールを簡単にご紹介します。
山口県生まれとあるが、どこの町の生まれか分からない。
灘高校・開成高校に続く偏差値 78の第3位東大寺学園高校[私立/男子/奈良]を卒業し、東京大学理学部生物学科卒業だそうです。九州大学大学院理学研究院生物科学部門の助教を経て現在、株式会社HIROTSUバイオサイエンスを設立し、代表取締役に就任され、研究を重ねておられます。



現在、がん検査は、5大がん検査、CT、MRI、エコー、PET‐CTなどが存在しますが、「安価」「全身網羅的」「簡便」「高精度」「早期発見が可能」「苦痛がない」という利点を併せ持つ〝1次スクリーニングがん検査〟はありません。
線虫がん検査『N‐NOSE』は、上記の利点をすべて満たす、これまでにない全く新しい検査です。全身網羅的にがんの有無が調べられるので、陽性だった場合のみ次のステップ(精密検査)へ進み、陰性なら他の様々な検査は受けずに済むという利点もあります。

※陰性の場合は、その後も定期的にN-NOSE検査を受けることで、万が一がんになっても早期発見することができ、治療や医療費の負担を劇的に減らすことができます。


◆ 線虫がん検査「N-NOSE」の説明をしましょう・・・

現状では、専門の研究者がいないと線虫による検査はできない。世界中でこの手法を活用できるようにするには、自動解析装置の開発が不可欠だった。そこで広津社長は医療機器の開発に強みを持つ日立製作所と手を組んだ。

日立製作所は今年4月、新しい仕組みのがん検査装置を試作したと発表した。日立の試作機で核となるのは「自動撮像・画像解析システム」だ。強い光を当ててシャーレを撮影し、反射の度合いで線虫の分布を計測する。人間の尿をシャーレに載せると、その人ががんに罹患しているか、高い確率で判断できるようになる。
この装置で尿を分析しているのはセンサーなどの機械類ではない。「シー・エレガンス」と呼ばれる体長1mm程度の「線虫」だ。取り扱いが容易で大量培養できることから、科学実験などに幅広く使われてきた。この線虫の特徴は、人間の100万倍ともいわれる犬と同等か、それ以上に優れた「嗅覚」を持つこと。目がない代わり、鋭敏な嗅覚で餌を判別して近づいていく習性がある。



体長1mm程度の線虫「シー・エレガンス」をシャーレの中心に配置し、人間の尿を垂らして検査開始


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がん患者の尿の場合、これに含まれる何らかの成分にひかれて線虫が近づいていく

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健常者の尿からは離れていく。がん患者の尿を餌、健常者の尿を外敵と判断している可能性がある

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※ 線虫がん検査 N-NOSEのメリット


線虫ガン検査「N-NOSE」は、1滴の尿を使って嗅覚が優れている線虫が、がんがあるかどうかを、スクリーニングするというものです。
線虫は健常者の尿からは離れるのですが、がん患者の尿には寄っていくのだそうです。尿を採取するだけなので、痛みが伴わないので、簡単で負担も少ないのが特徴です。また、尿の採取にあたり、前日の食事制限等も不要。
検査結果がわかるのが約1時間後と早い。
PET-CT等の医療機器と比べ、断然安く、発展途上国での導入も可能。


※ 線虫が反応することが分かっているがんは

胃がん、大腸がん、膵臓がん、食道がん、胆嚢がん、
胆管がん、前立腺がん、乳がん、肺がん、盲腸がん



「広津グループへようこそ」
  をクリックすれば広津グループのHPに飛べます


株式会社HIROTSUバイオサイエンス
   広津崇亮氏の会社に飛べます
# by kfujiken2 | 2019-02-20 14:11 | 未分類 | Comments(0)

天皇の神格化



今年4月30日に天皇陛下が退位され、5月1日に皇太子殿下が新天皇に即位され、元号が改元されるに辺り、天皇とは日本国民統合の象徴たる地位で、天下人で雲の上の人という意識位しかなく、天皇の称号の由来と歴史を知らず、余りにも無知だったことに気付き少し調べてみました。


◆ 歴代天皇の確定

歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、歴代天皇は初代神武天皇から今上天皇まで125代・123人という現在の歴代天皇の形が確定している。
この125代のうち、第37代斉明天皇は第35代皇極天皇、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇、それぞれ重祚(ちょうそ)(一度退位した天皇が再び位に就くこと)であるため、総数は123人となっている。
ところが実在だったのか伝説もしくは架空の天皇なのかがたびたび議論されています。 単純に神武天皇と欠史八代を抜かしてもそれ以降の天皇にどれだけ実在性があるのかどうかわかりません。系譜の明確性や在位期間の明確性などの考証を天皇の実在性含めるとさらにややこしい事になります。
初代神武天皇~9代開化天皇までは、「実在の可能性は低い」と言われています。歴史学的に実在した可能性の高い最古の天皇陛下は、10代崇神天皇です。15代応神天皇以降は、実在の可能性が高いとされています。


※ 欠史八代 (けっしはちだい)とは:『古事記』・『日本書紀』において系譜は存在するがその事績が記されない、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと。

※ 古代天皇の寿命が100歳越えと異常に長いのは : 1年を収穫時期でカウントしていたので、
2倍年歴としていたので今の1年が2年に該当する。
10代:崇神天皇 119歳  11代:垂仁天皇 139歳  12代:景行天皇 143歳
16代:仁徳天皇 143歳


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◆ 天皇の称号の由来と歴史


古代日本では、ヤマト王権の首長をオオキミ(大王)といったが、天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった。
奈良時代~平安時代には政治・祭祀の頂点だったが、摂関政治・院政・武家の台頭により政治的実権を失っていった。
室町時代には多くの宮中祭祀の廃絶もあり劣位となったが、「江戸時代末に尊王論が盛んとなり、王政復古、明治憲法における天皇制へとつながった」という。
大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には元首の規定はなく、
そのため元首について様々な見解がある。象徴天皇を元首とする説、実質的機能を重視し内閣(または首相)を元首とする説、元首は不在とする説等がある。
学説の多くは、条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣を元首とするか、行政権の首長としての内閣代表の内閣総理大臣を元首としている。

日本の歴史においても天皇の祖先の記載ははっきりしない。初代の神武天皇は天照大御神の子孫で、紀元前660年に即位したとされているが、
実際に文献が登場するのは第10代の崇神天皇からである。日本の初期の歴史に空白があることから、日本や海外の歴史家の間では天皇の祖先は現地人ではなく、中国人あるいは朝鮮人だとする見方が有力だ。中国にも、「神武天皇は秦の始皇帝が派遣した徐福だ」とする説が存在する。

日本という国は神々がこの地に降り立った「天孫降臨」から始まりますね。
天照大御神が瓊瓊杵尊を遣わして国造りを命じた。
神々が紆余曲折乗り越えてようやく国を造り、初代天皇が即位した。
神武天皇が即位した日が日本の始まり、つまり建国の日となり現在の「建国記念日」になりました。
日本神話において、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。
邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。
途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をし、邇邇藝命は筑紫の日向(ひむか)の高千穂に降り立ったという、『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。


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◆ 天皇の雑学

皇室の歴史を見てみると神武天皇が実在しているか?という議論もありますね。日本の天皇家は世界で最も長い歴史を持つ王室ですが、私たち日本人のほとんどが皇族に日本以外の血が入っているって考えたことはないと思います。
ですが以前、陛下が会見の席で歴代の中に朝鮮の血を引く女性を生母持つ人がいたと語ったことで、日本以外の国をルーツに持つということが表面化したのが始まりで物議が起きたのです。
それは第50代桓武天皇のことなんですが、実のお母さんが百済の武寧王の子孫だそうです。そんなことが露呈すると日本の皇室のルーツが韓国にある!という話が浮上したということなんですが、実際にはこれは事実ということで続日本紀に記されていると。このお母さんというのは渡来系氏族の和氏の出身で高野新笠というそう。
737年(天平9年)生れの 「桓武天皇」の母君 高野新笠(たかの の にいがさ)様は百済系渡来人の家のご出身です。


◆ 天皇に舐めた事言ってんじゃないよ
韓国の文喜相国会議長が慰安婦問題をめぐり、天皇陛下が謝罪すれば解消されるなどと述べたことに際し、謝罪することではない。私がした話は持論であり、根本的な解決方法だと今でも考えていると述べ、日本政府が求める謝罪と撤回を拒否しているのは、特に理由があるのか?

天皇陛下について「戦争犯罪の主犯の息子ではないか」とも述べた。
日本国および日本国民統合の象徴でいらした昭和天皇と天皇陛下への誹謗は、日本の国と国民を中傷することでもある。それが分かっているのか?

日本軍は占領地域において,軍規の維持や兵士による性犯罪の抑止のため,慰安所を利用した。慰安所は中国各地に百数十~二百数十,フィリピン,ビルマ,インドネシアなど東南アジアにも 100以上が設けられたとされる。慰安所の建設,経営,監督,衛生管理,そこで将兵の相手をする慰安婦の募集・渡航などに日本軍が関与したと指摘され,問題となった。
慰安婦は当時合法とされた公娼であり民間業者により報酬が支払われていたこと、斡旋業者が新聞広告などで広く募集をし内地の日本人女性をも慰安婦として採用していたことなどから国家責任はないとの主張がある。
日本における慰安婦とは軍と契約した慰安所のプロの売春婦であることである。 当時は公娼制度があり、法律で認められた管理売春が合法的に存在した。

慰安婦募集広告には「月収300円以上」と書かれています。当時、一般日本兵の月給は15円~20円、陸軍大将の月給は550円。いかに高額だったかが分かります。

日韓条約と共に1965年に締結された「請求権の解決並びに経済協力に関する協定」により5億ドル(無償3億=1千80億円、有償2億=720億円)の経済協力資金が韓国に供与されたが、従軍慰安婦の補償には一銭も宛がわれなかった。
その理由の一つは、日韓国交交渉で従軍慰安婦問題が議題に上がらなかったことにある。
日本政府は韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団(「和解・癒やし財団」)に10億円拠出することを約束し、2016年8月31日に履行した。「和解・癒やし財団」は日本からの拠出金をもとに、慰安婦への現金支給を行った。2016年10月時点で、存命中の慰安婦46人中36人が支給済または支給の手続き中で、既に死去した慰安婦に対しては、35人の遺族が引き取りを表明した。

# by kfujiken2 | 2019-02-15 12:46 | コラム | Comments(0)

ホテルのバイキングランチ



【ホテルサンルート徳山】のブッフェ形式のランチに行って来ました。

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店内奥のライブキッチンでは、目の前でシェフが調理した料理を、出来立てで食べることが出来ます。

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メニューもおよそ80種類ほどあり、和洋中とバラエティー豊か!
魚から肉、野菜もたっぷりでどれを食べようかと迷います。
家庭の食卓にはなかなか並ぶものではないので、レストランならではのメニューです。


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一組の夫婦連れがおられましたが、殆んどがママ友やおばさんグループの
女性達です。男には場違いな違和感を覚えます。


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# by kfujiken2 | 2019-02-10 09:35 | 未分類 | Comments(0)

亥年は荒れる・・・



亥年は大地震・火山噴火など大災害が多いと言われていますが、今年はごった返す1年になりそうです。


猪は一見獰猛(どうもう)そうに見えるが、実はその性格はいたって臆病です。
そのため、人のいない夜間に活動をする。一夫多妻で繁殖力も旺盛であり、
春に4~5頭ほどを出産し、そのうち半数が育つという。
また、ご存知のとおり、走るスピードは早く、突進した時の破壊力はもの凄いものがある。時速50キロで走るというから、体当たりでもされたら大怪我は必至です。“猪突猛進”の言い伝えどおり、走り出したら止まらない。
過去を振り返ってみると、亥年は、この動物の特徴が現れている年のようなのです。戦後の亥年は、1947年(昭和22年)に始まり、今年で6回目を迎える。


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今年は既に自然災害ではないが国事や国際情勢において、「TPP11」が2018年12月30日発効、日本と欧州連合(EU)の経済連携協定(EPA)が2月1日に発効、英国のEU離脱、天皇陛下の退位、皇太子が新天皇に即位、元号を平成から新元号に改元、消費税率引き上げ等が決定しています。

過去を顧みますと、明治以降の亥年の出来事で・・・

1923年(大正12年) 関東大震災
1947年 昭和22年 カスリーン台風  (関東地方や東北地方に大きな災害をもたらした台風9号)
1959年 昭和34年  伊勢湾台風
1971年 昭和46年 ニクソンショック  (ニクソン大統領が金とドルの交換停止を含む一連の経済政策を発表した出来事です)
1983年 昭和58年 秋田県沖地震
1995年(平成7年)  阪神淡路大震災  地 下鉄サリン事件
2007年 平成19年 能登半島地震 新潟県中越沖地震



◆ 日欧EPA発効でこう変わる(2019年1月)


日本と欧州連合(EU)の経済連携協定(EPA)が2月1日に発効し、世界貿易の約4割を占める巨大な自由貿易圏が誕生する。相互に貿易品目の9割超の関税を撤廃し、通関手続きなどを簡素化。知的財産権の保護を厳格化する共通ルールなども導入される。小売業界では早くも関税削減による仕入れコストの減少を見込み、欧州産ワインの値下げを始めており、消費者が価格低下の恩恵を感じる機会も増えそうだ。

※ EPA(経済連携協定)  : 物流のみならず、人の移動、知的財産権の保護、投資、競争政策など様々な協力や幅広い分野での連携で、両国または地域間での親密な関係強化を目指す協定。

※ 欧州連合 : 欧州連合の前身である欧州共同体は当初、6か国が加盟して発足したが、2013年7月にクロアチアが加盟したことにより以下の28か国が欧州連合に加わっている。
フランス・ ベルギー・ デンマーク・スウェーデン・ チェコ・エストニア・マルタ
・ドイツ・ルクセンブルク・ギリシャ・フィンランド・スロバキア・ラトビア・ルーマニア・イタリア・イギリス・スペイン・オーストリア・ハンガリー・リトアニア・ ブルガリア・オランダ・アイルランド・ポルトガル・ポーランド・スロベニア・キプロス ・クロアチア


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◆ TPP(環太平洋パートナーシップ協定)


2006年5月に環太平洋地域における経済連携協定として シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4カ国加盟でスタートした。
アメリカ、オーストラリア、ベトナム、ペルーが参加を表明し、 次いで、マレーシア、コロンビア、カナダも参加の意向を明らかにした。
物流のみならず、人の移動、知的財産権の保護、投資、競争政策など様々な協力や幅広い分野での連携であるが貿易関税などに例外を認めないで関税の撤廃を目指す協定である。

米国を除く11カ国の環太平洋経済連携協定「TPP11」が2018年12月30日発効した。2019年2月1日には欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)も発効する。貿易戦争を繰り広げる米中を横目に、域内の工業製品や農産品の関税は段階的に引き下げられ、投資や知的財産権保護など高水準のルールを定めた。世界の国内総生産(GDP)の約13%を占め、総人口で約5億人を抱える巨大な自由貿易圏が、アジア太平洋地域に誕生する。
TPPにより将来的に日本の関税撤廃率は約95%、他の10カ国は99~100%。食品の値下がりは家計にプラスとなり、輸出にも追い風となる。政府の試算によれば日本のGDPが年7兆8千億円押し上げられ雇用は約46万人増える。ただ、安い農産物の流入は国内農業には試練となる。



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中国が参加していないのは偶然ではありません。ある意味では、TPPは中国をけん制するための道具であるとも言えます。
つまりそれぞれ勝手な思惑や利害を抱いているTPP参加国をひとつにまとめているのは、中国に対する抑止力という、いささか政治的な動機なのです。

# by kfujiken2 | 2019-02-05 09:46 | 未分類 | Comments(0)

”西のお伊勢さま” 山口大神宮



以前から気になっていた伊勢神宮と同様の神明造りの社殿は風格があり、格式の高さを感じる山口大神宮に、遅ればせながら先週参拝に行きました。
一つ難を言えば、山口大神宮自体の駐車場が小さいということです。県庁外来駐車場が開放されており、駐車することが出来るようですが、一寸離れていますよね~
それにしても凄い人混みで、その上少林寺拳法の鏡開きでしょうか? 社務所や通夜堂あたりは少年拳士と親御さんで ごった返していました。


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山口大神宮の由緒

永正17年(1520年)、大内氏30代目の大内義興が伊勢神宮の神霊を勧請して創建したものである。伊勢神宮から直接ご分霊を受けて皇太神宮社が創建されたのは明治以前には山口大神宮以外にはありませんでした。
そのため、江戸時代には西の伊勢参りとして九州や中国地方から多くの参拝者が訪れたそうです。境内の中ほどにある神楽殿(拝殿)から階段を上がった所に内宮と外宮があり、伊勢神社と同じく式年遷宮がここでも行われています。



山口大神宮の社号標

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第一鳥居・長州藩主毛利氏寄進の古い鳥居


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主祭神がいらっしゃる内宮と外宮へ。
そこへと向かう参道は、これまで進んできた参道とはまた違う神聖な空気が漂っています。
第二鳥居を抜けてこの石段を登ると右手に神楽殿(拝殿)があり、更に階段を上がった所に内宮と外宮があります。なんというか独特なレイアウトで、とにかく広さを感じます。


第二鳥居

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神楽殿(拝殿)

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内宮と外宮の全景

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外宮は天照御大神のお食事を任されている豊受大御神(とようけのおおかみ)が祀られています。

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内宮は天照御大神(あまてらすおおみかみ)が祀られております。


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# by kfujiken2 | 2019-01-25 10:56 | 未分類 | Comments(0)

飛鳥時代(7世紀)の代表的な遺跡【大日古墳】


防府市高井大日の佐波川右岸、西目山山麓の標高約25mの丘陵上にある古墳時代の前方後円墳。全長約45m、前方部の幅約20m、後円部の径約19m。後円部に横穴式石室がある。
石室は花崗岩の割石で作られ、棺を納めておく玄室と、玄室と外部をつなぐ通路に当たる長さ約9.3mの羨道(せんどう)とからなる。玄室は奥行き3.6m、幅2.1m、高さ2.5mで、玄室のほぼ中央に凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式屋形石棺が据えられている。その形状から、7世紀中葉の終末期古墳の一つと考えられている。山口県で出土した家形石棺は例が少なく、考古学上も貴重である。
1948年(昭和23)に国の史跡に指定された。江戸時代に発掘されたが、すでに副葬品は残っていなかったという。被葬者については、大内氏の祖とされる琳聖太子(りんしょうたいし)の墓とする伝承や、当地の県主(あがたぬし)であった土師連猪手(はじのむらじいて)とする説があるが、定かではない。


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所在地・・・防府市高井大日の佐波川右岸

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公道から古墳までの通路

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古墳の入口


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玄室(棺を納めておく室)と外部をつなぐ通路(約9.3mの羨道(せんどう))


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県内で唯一の刳抜(くりぬき)式家形石棺


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◆ 琳聖太子 : 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は周防で最有力の実力者となり、大内介と名乗り以降歴代の当主もこれを世襲した。しかし 琳聖太子という人物名が 、当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く 、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した 大内家の自作自演との説もあり 真偽は謎である。
『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には 琳聖王子の 『降星伝説』が残っている 。



◆ 土師連猪手 : 飛鳥時代の人物。埴輪の製作や陵墓の造営に従事し,また,大王の喪葬儀礼に関与した古代の氏族。周防国府の役人の中にも名前が見られ、松崎天神をつくったのも土師氏です。
# by kfujiken2 | 2019-01-22 09:24 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮 その3


石段を登り切ると正面に防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門があり、下を潜ると拝殿が目の前に現れます。拝殿に参拝し左手に進むと、たくさんの絵馬が飾られてある奉納所があります。ひとつひとつ見てみると、多くが志望校への合格祈願です。これから受験シーズンにかけて、多くの受験生が学問の神さま・道真公のもとに合格祈願にやってきます。
さらに左に「春風楼」がある。一見能楽堂か展望台のように見えますが、神事をする際の待合所というか、参拝客が休憩する場所のようなもので、古くは「通夜堂」といい、「参籠所」「お籠堂」とも呼ばれた。
客殿背後の園に7代藩主毛利重就(しげたか)公像と野村望東尼の碑があります。


◆ 防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門

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◆ 合格祈願の絵馬
1年間に奉納された絵馬は約4万枚位あるらしいです。12月25日の「絵馬焼納神事」で焼かれるそうです。

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◆ 春風楼

十代藩主毛利斎煕が社頭に五重塔の建立を思い立ち文政五年(一八二二)六月大専坊に於いて地鎮供養の祈祷をし釿始の儀を行ったが、資金調達中、天保二年(一八三一)不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った。
その後、塔の設計を現在の重層の楼閣様式へ変更して明治六年(一八七三)に完工した。この楼の床下の木組は文政年間着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組物を使用したもので、当時の面影を偲ぶに充分である。


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春風楼足元・・・五重塔の基礎部分
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◆ 7代藩主毛利重就(しげたか)公像
萩藩の歴代藩主の中で、最も防府と結びつきが大きいのが、7代藩主の毛利重就です。又、輝元・第13代藩主の敬親と同様に名君と言われた一人でもありました。
ふくれあがった財政赤字を立て直すために、まず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させた。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。


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◆ 野村望東尼(ぼうとうに)の碑
野村望東尼は、福岡藩士の三女として生まれ勤王活動に身を投じる。福岡の平尾山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。
高杉晋作をはじめ勇猛果敢な英才たちが、性差を超え人として崇めていたのが望東尼である。高杉晋作の末期の水を取った人とも言われています。


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# by kfujiken2 | 2019-01-20 09:43 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮 その2

長い石段を上っていく途中、左手にあるのが大専坊(だいせんぼう)跡といって毛利の時代には本陣になった所です。右手に茶室芳松庵と暁天楼があります。たかが57段の石段が、運動不足の我々にはされど57段の石段でキツいです。


◆ 毛利元就の参謀本部だった ~大専坊跡~

運良く特別公開される日に巡りあい、大専坊を観ることが出来ました。
明治元年(1868)まで大専坊・円楽坊(えんらくぼう)など9つの社坊(しゃぼう)が参道をはさんで並んでおり、酒垂山満福寺(さかたりさんまんぷくじ)と総称されていた。その中でも大専坊は、9社坊を支配する別当坊であった。また、防府天満宮の神事を主宰するなど神社経営にも大きな役割を果たしてきた。
しかし、明治元年の神仏分離令によってすべての社坊が廃され、民間に払い下げられた。この坊は弘治3年(1557)毛利元就が大内義長を山口に攻め、これを長府で自刃せしめて防長両国を平定するまで元就の参謀本部となりました。また尊皇攘夷で激動した幕末にはこの地方を警固する諸隊の屯所となりました。昭和63年(1988)に県指定の史跡となりました。


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先ずは入門から見て頂きましょう

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門から見た建物の玄関

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玄関を上がり左側の間取りです

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東側にガラス戸があり、昔は廊下だったのであろう??? 
幅が一間あります


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廊下の欄間になるのでしょうか? 大内氏の家紋の菊大内菱が彫刻されています


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一番奥の間です

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◆ 維新の志士たちの息づかいが感じられる場所 ~暁天楼(ぎょうてんろう)~


二階建ての古めかしい建物を「暁天楼」といいます。もとは天満宮門前宮市にあった宿「藤村屋」の離れだったもので、藤村屋の廃業にあたり天満宮に寄贈され、のち老朽化に伴い解体されましたが、昭和59年(1984)に藤村屋の子孫のかたにより現在の場所に絵図面にしたがって復元されました。
当主は勤皇の志が篤く、また宿のもてなしがよかったためか、坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら、維新の志士たちもしばしば利用したそうです。
建物の1階は漬物小屋として使われていたため土間で、2階(通常は閉鎖)は6畳間が2間あり、板張りの広縁が2間を囲む形で2方向に巡らされています。この2階に上がる階段は実は隠し階段になっており、維新の志士たちが、いざという場合には息をひそめて隠れていることのできるこの場所で密談をしたのだろうという想像が現実味を帯びてきます。
復元前の2階の床柱には刀傷がついていたそうですし、戸袋には墨で勢いよく書かれた落書きがあり、これは坂本龍馬の手によると言われています。また、「暁天楼」の名前は、旧来「適義楼」と呼ばれていたものを、訪れた山県有朋らが改めたといいます。

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「暁天楼」の全景です

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隠し階段が見える東側からの光景です

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◆ 毛利の戦いや幕末の志士達を目撃した証人 ~防府天満宮御神木~

巨木とは地上から約130㎝の幹周が3m以上の樹木(環境省)とされています。しかしそれだけでは木霊の宿った御神木とは言えません。
樹齢が推定800年、幹周が5.6m 高さ27.5m 葉張36mの巨木です。
境内にはほぼ等間隔に並んでクスの巨木が三本ありますが、その中心をなすこの楠は防府天満宮の御神木です。
見上げれば亭々として天にそびえ四方に広げる太枝は大地を覆い、根張りは太く堂々たる威風を備えて樹勢・樹形とも美しい周防一の美楠の巨樹です。
人の世を超えて千年の後の世まで私たちを見守る天満宮の生命力溢れる木霊を宿しています。


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話が長くなるので「今日は、ここらで、よかろかい」・・・
次回は防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門をくぐり、拝殿に参拝を済ませ左手にある「春風楼」から説明します。

# by kfujiken2 | 2019-01-17 11:16 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮

防府天満宮の暁天楼(ぎょうてんろう)と大専坊跡(だいせんぼうあと)が見たく、初詣を兼ねて参拝に行って来ました。何度も訪れている防府天満宮ですが、何時もは神社の裏側の駐車場を利用するので、表参道の石段を登って参拝したことがありませんでした。今回は初詣の時期が少しずれているので、多少空いていると思い表参道から参拝しました。

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まちの駅「うめてらす」を左に見ながら、表参道の石鳥居をくぐり萩狛犬さまの横を通り過ぎると、表参道の中段でチェーンソーアートのえと「亥(い)」にちなんだ「干支の御柱(おんばしら)」が迎えてくれました。

表参道の石鳥居

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寛永六年(一六二九)に初代藩主毛利秀就の寄進により建立したもので、奉納年が刻まれたものでは県下最古の鳥居。柱は太く、転びが少なく円柱状で、上部においてややすぼんでいる。形式としては明神鳥居であるが、柱脚には礎盤がなく、堀立て柱形式をとる。

豪華な台座に座している萩狛犬といわれる萩で造られた狛犬

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チェーンソーアート
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えと「亥(い)」にちなんだ「干支の御柱(おんばしら)」

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「今宵は、ここらで、よかろかい」・・・
次回は今回の探訪の本命「暁天楼と大専坊跡」を説明します。

# by kfujiken2 | 2019-01-15 14:16 | 歴史 | Comments(0)

降松神社と鷲頭寺の関連・・・下松の地名のルーツ



降松神社と鷲頭寺の説明に入る前に、下松に立ち寄られ下松の地名のルーツになり、鷲頭寺を開かれたとされといわれている琳聖太子について、少し説明しましょう。。。

◆ 下松の地名のルーツ

下松は昔、青柳浦と呼ばれていました。
「大内氏実録」の下松妙見縁起によると・・・
「推古天皇(女帝)の3年(595)9月18日、都濃郡鷲頭庄青柳浦の老松に大きな星が降りかかり、7日7夜の間、目もくらむばかりに光り輝いた。里の人は、これはただごとではない」と恐れていた。その時、占いをする人に神がかりしてお告げがあり、 「われは北辰の精である。今より3年の後、異国の太子が来朝される、その守護の為、ここに天降ったのである」と告げた。里の人々は、急いで社を建てて、その星を北辰尊星王大菩薩として祭り、里の役人はこれを時の天皇に伝えたという。
北辰の精が松の木に降ったというので、それまでの青柳浦を「降松」と改め、その後、今の「下松」と書くようになったといわれている。この異国の太子とは百済王聖名の第三子、琳聖太子といい、大内氏はその子孫と伝えられている。
下松駅の北口、北斗町の町の中に立っている一本の松を、「かなえの松」という。下松地名の起源となった七星降臨の松といわれ、その木の下に、降臨の星を祀ったという金輪社がある。


◆ 降松神社と鷲頭寺の関連


大内氏の祖、琳聖太子によって開かれたとされる古刹が妙見宮鷲頭寺(みょうけんぐうじゅとうじ)です。 大内氏の氏神として栄えるとともに妙見信仰発祥の宮寺といわれています。


595年(推古3年)、青柳浦の松に大星が降臨し、七日七夜輝き続けて琳聖太子の来朝の守護を託宣した。597年(推古5年)、百済国王子の琳聖太子が来朝し、神霊を桂木山に祀った。603年(推古11年)、高鹿垣山(現在の茶臼山)に遷座した。さらに609年(推古17年)、遷座して鷲頭山(下松市河内)に上宮と中宮を建立した。琳聖太子の後裔である大内氏の庇護を受けた。のち大内弘世が下宮を建立し、七坊を置いた。大内氏の滅亡後は毛利家の崇敬を受けた。1608年(慶長13年)、火災により、上宮と中宮が中宮本殿を残して焼失。明治12年維新政府の神仏分離が行われ、別当七坊が廃絶となり唯一別当閼伽井坊が転出して鷲頭寺となった。鷲頭寺は、元は、『降松神社』の別当閼伽井坊だった。明治12年にあの維新政府の神仏分離令の際に、降松神社(下松市吉原)から現在地(下松市中市)に移転した。ただ、興味深いのは妙見宮鷲頭寺のような、現在もなお神仏混淆(しんぶつこんこう)形態を維持している寺社があることで、これは全国的にもきわめて稀なケースである。もちろん、移転後は僧侶と宮司と両方がいるのではなく、住職が僧侶役と宮司役の一人二役を務め、すでに近世の形態そのままではない。
日本の節分祭発祥の地ともいわれている。降松神社は妙見信仰の発祥の地とも言われている。


お寺なのですが、鳥居があり民家にのめり込んでいる!  摩訶 不思議???
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仁王門に通じる参道
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「わらじ」への願い
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【わらじの功徳】
仁王様に威徳公大にして息災延命
を授け、足の弱い方、悪い方、亦腰の悪い
方は、年令と姓名を記入の上お供へ下さ
い。御利益を受けられます。

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妙見宮鷲頭寺の由来


妙見宮の略縁起

 当山妙見宮は百済国、王子琳聖太子(大内家の大祖)御建立の御社であり
本尊妙見菩薩(北辰菩薩)も亦太子御持来の尊像にして、三国(印度、支那、
朝鮮)伝承と云い伝う。実に本朝最古の霊像であります。
其の由来は、推古天皇の御代三年九月十八日周防国都濃郡鷲頭庄、青柳浦の松の木に大星天降る。時に神童現われ、村の長に向かい「我れは北辰(北斗七星)にして、日本国土の美を愛し、天降って国家を擁護せんとする。今から三年後百済国、王子琳聖太子来朝す、永く国に留めよ。王法を伝え、治国の道を
修む可し、その由を国王に告げ朝廷に奏せよ。」云々
後、聖徳太子に迎えられ、推古天皇御宇五年丁己春三月二日百司百官を倶に
して周防佐波郡鞠生の浜に着船。其の秋、太子は都濃郡青柳の浦桂木山(宮
州山)に宮殿を御建立になり、北辰尊星、即ち御持来の尊像を納め星祭供養
を奉修された。これが日本に於ける星祭の濫觴であります。
星霜千有余年を経、其の間幾多の難に遇い、亦大檀那も大内家、毛利家と変
り明治十二年十二月朔日。大星降臨の古蹟、現在の地 中市に尊像妙見菩薩
をはじめ多くの仏像を奉戴して遷し祀り、北辰降臨の日、十八日を縁日とし
て今日に至ったのであります。


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お寺なのですが、狛犬「阿像」と狛犬「吽像」
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種田 山頭火の句碑


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# by kfujiken2 | 2019-01-10 13:28 | 歴史 | Comments(0)

素朴な疑問 ~ 清水寺の謎



元旦にNHKで ” 日本人のおなまえっ!「京都お名前修学旅行 清水寺の謎」” というユニークな番組をやっていました。

浅学の私は今まであまり気にした事はないが、寺の読み方は音読みが多くて、神社は訓読みが多いという事です。

清水寺(きよみずでら)」はあだ名(通称名)だった!?

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もともと「北観音寺」が正式名称だったのに「清水寺(きよみずでら)」と呼ばれるようになったのはどうしてでしょうか?
その名前の由来は「音羽の滝」にありました。この水を浴びると汚れを落とすことが出来ると言われており、お参りする時にはここで現世の汚れを落としてから仏様の世界へお参りに行ったのです。
「しみず」と読まないのは、「しみず」にあたる言葉は「澄んだ水」のことであり、「清める水」が由来となった「清水寺」は「きよみずでら」と呼ばれるようになったのです。


寺の名前が音読みとなるのは、仏教と漢字が中国伝来であることと関係が深いようで、神社の名前は祭っている神の名前に由来するのが多いそうです。
各地のお寺の読み方だが、京都の金閣寺、奈良の興福寺、東京の増上寺などのように一般には音読みです。ところが舞台で有名な清水寺は「きよみずでら」と訓読みです。他にも京都の「鞍馬寺(くらまでら)」など著名な訓読みの寺もある。音読み、訓読みが混在するのはなぜか?


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寺の名前は音読みが基本だ。だが、寺によってはそこに参詣する人々がどう呼ぶかで地名に引っ張られたり、和名である訓読みに変わってきたりすることもあるようだ。
又、通称名で呼ばれているお寺の例が、京都市の西芳寺(さいほうじ)を苔寺、長崎市の興福寺(こうふくじ)を赤寺等です。

# by kfujiken2 | 2019-01-04 10:00 | 未分類 | Comments(0)

昨年はお世話になりました



謹んで新春のお慶びを申し上げます
ブロッガーの皆さん 昨年はお世話になりありがとうございました
拙いブログでありますが、今後とも変わらぬお付き合いをお願い申し上げます


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# by kfujiken2 | 2018-12-31 21:25 | 未分類 | Comments(0)

平成の30年間の主な出来事・社会ニュース



あと3日で今年も終わり、又、平成時代から新しい時代【2019年(平成31年)4月30日】へと変わります。人類の歴史がまた1つ刻まれていくわけですが、平成を振り返るとあなたにはどんな時代だったのでしょうか?良いことも悪いこともあったことでしょう。懐かしさや、知らなかったことなど、私達が生きてきた平成時代を改めて心に刻んでいければと思います。
1989年に昭和天皇が崩御され平成の時代が幕を開け、2018年は、実質的に平成最後の年になります。出来事ランキングではなく、私の独断と偏見で年度別出来事を選んでみました。


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平成1年(1989年) 消費税導入
平成2年(1990年)  バブル経済が崩壊
平成3年(1991年)  雲仙普賢岳噴火
平成4年(1992年)  東京佐川急便事件
平成5年(1993年)  自民党が初の野党転落
平成6年(1994年)  松本サリン事件
平成7年(1995年)  阪神淡路大震災が発生
平成9年(1997年)  山一証券破綻
平成10年(1998年) 冬季長野オリンピックが開催
平成13年(2001年) アメリカ同時多発テロ事件が発生
平成14年(2002年) 拉致被害者の一部帰国実現
平成17年(2005年) 郵政民営化
平成20年(2008年) リーマン・ショック
平成21年(2009年) 政権交代、鳩山政権発足
平成23年(2011年) 東日本大震災
平成24年(2012年) 山中伸弥教授がノーベル賞を受賞
平成25年(2013年) 第2次安倍内閣・アベノミクス
平成26年(2014年) 御嶽山噴火事故
平成29年(2017年) 森友・加計問題
平成30年(2018年) 米朝首脳会談


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# by kfujiken2 | 2018-12-28 10:35 | コラム | Comments(0)

天皇陛下最後の誕生日会見

天皇陛下は23日の誕生日を前に、皇居・石橋の間で記者会見に臨まれた。85歳になられた天皇陛下にとって、平成最後の誕生日会見です。即位から30年の日々を振り返られ、皇后様や国民に対する思いを語られる際には、時折声を詰まらせながらお言葉を述べられたのに感銘を受けました。

今回の会見には個人的見解ですが、三つの要点があるのではないかと思います。

① 日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方
② 「皇后様へ、心から労いたい」と最良の伴侶に感謝
③ 私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝


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天皇が苦慮されたという「象徴」という言葉は、抽象的な概念をより具体的な物事や形によって表現することと記されていますが、漠然とした日本語・翻訳語で意味がはっきり理解出来ないと思います。

◆ 日本国憲法における象徴天皇について


小泉信三が明仁皇太子の教育参与として携わり、「象徴天皇」のあるべき姿を説いたと聞いています。
自分の良心に忠実で、他人のことを思いやる精神『忠恕(ちゅうじょ)』という言葉に結実し、新時代の皇室のあり方に大きな影響を与えた。日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる。天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され、内閣の助言と承認を必要とする。国政に関する権能を全く有さない。


◆ 「象徴」の由来

吉田茂の側近として白洲次郎は、GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった。日本国憲法の「象徴」がどのように生まれた言葉であるのかを次のように述べている。 白洲次郎はGHQ草案の英語をGHQの一室内で外務省の翻訳を担当する官僚と一緒に缶詰になっており大急ぎで和訳をしていた。
原文に天皇は国家のシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人が「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私が彼のそばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」と字が使っている所以であるそうです。

# by kfujiken2 | 2018-12-25 09:58 | コラム | Comments(0)

『奈のは』のランチに行きました



女性をターゲットとした店舗だそうですが、何処を女性向きに作ったのだろう???
確かに絶対数女性が多い!!! ランチ? 昼食・・・ 男は定食屋かうどん・ラーメン店で済ませてしまうものね~
ビュッフェスタイルのレストランでしかも地元食材をふんだんに使い、約80種類ある料理は季節ごとに変わるそうです。
それになんといっても時間無制限ってとこが魅力ですよね!


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# by kfujiken2 | 2018-12-20 10:02 | 未分類 | Comments(0)


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