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長州より発信


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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清流錦川に架かる五連のアーチが美しい日本三名橋

錦帯橋を守る「橋守」の後継者がいなくなる

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清流錦川に架かる五連のアーチが美しい日本三名橋_d0061579_07500792.jpg


1673年、岩国第三代藩主の吉川広嘉が錦帯橋を架けましたが、残念ながらすぐに流失しました。
しかし改良を加えて翌年再建された錦帯橋は、1950年9月にキジア台風による洪水で流失するまで276年の間、架替えを繰り返しながら威容を保ちました。流失後、鉄筋コンクリートで再建という意見もありましたが、市民の強い要望により、1953年に再度、木造の錦帯橋として再建されました。
平成13年度(2001)から平成15年度(2004)にかけて、劣化した木造部分を架け替える「平成の架替事業」を行い2004年3月、装いを新たに完成し、訪れる人を魅了し続けています。

今年で創建350年となる岩国市の錦帯橋は、歴代の「橋守(橋を守る大工)」により敷板の修繕が進められている。
創建以来、受け継がれてきた架橋・加工技術ですが、それは大工の個人的な経験によるところが大きくあります。昔から大工の世界では図面や文章に書き表せないことを、言葉で伝える「口伝」という方法が採られています。江戸時代はもちろん、現在においても変わりはありません。
材木への墨付けの作業や、加工に際しての細工の一つ一つに、「木を観る」技術が不可欠なのです。しかし、これを習得するのは容易ではありません。先輩から教えを受け、多くの経験を積んで得ることのできる「口伝」による技なのです。錦帯橋の架替がこれまで定期的に行われてきた背景には、このような大工技術の伝承がありました。
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# by kfujiken2 | 2023-09-14 09:06 | 未分類 | Comments(0)

下松に存在する天王森古墳と宮原古墳

宮原古墳は弥生時代(2300年前〜1700年前)天王森古墳は古墳時代(1500年前)と時代が違いがあります。

《弥生時代》
日本列島に本格的な農耕文化が根付いた時代を「弥生時代」と言います。縄文時代に主流だった狩猟や木の実採集から、稲作を始めとする農耕へと食料調達法が変化したことで、集落単位での大規模な共同生活が定着しました。
弥生時代後期には戦乱の時代へと突入し、「邪馬台国」(やまたいこく)において女王「卑弥呼」(ひみこ)が登場。やがて日本は、統一国家へと至る道を歩み始めました。

《古墳時代》
「邪馬台国」を治めた「卑弥呼」が没した頃から、権力者の多くは「古墳」と呼ばれる大型墳墓を築くようになりました。3世紀半ばになると古墳の築造はさらに活発化。日本列島各地に巨大な「前方後円墳」が次々と築造され、いわゆる「古墳時代」が到来しました。しかし、当時の日本の国力を考えれば、巨大古墳の造営は国を挙げての一大事業です。国力の多くを注いでまで古墳と言う名のシンボルを造り続けた背景には、いったいどのような理由が隠されていたのでしょうか。

【宮原古墳】
末武川右岸の和田丘陵台地にある円形墳で、昭和四十七年に調査された宮原遺跡の南にある。
巨石で築造された羨道(せんどう)、玄室(げんしつ)などをもつ古墳時代後期の片袖(かたそで)横穴式石室墳で、
大正年間調査され石棺、馬具類、須恵器(すえき)が出しました。
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◆ 羨道(せんどう)・・・古墳の横穴式石室(墳丘側面から出入りする構造の石室)や横穴墓など横穴系埋葬施設において、
棺を納めて遺体を安置する主室ともいうべき玄室(げんしつ)と外部とを結ぶトンネル状の墓道的部分をさし、
入口は一般に羨門と呼ばれる。
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◆ 玄室(げんしつ)・・・、横穴式石室や横穴の死者を埋葬する墓室をいう。
◆ 宮原遺跡は弥生時代前期後半・後期後半、古墳時代後期の複合遺跡です。2つの環濠集落からなり、
木葉文のない弥生土器が数多く出土しました。
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田布施の後井(ごい)古墳・国森古墳や柳井市の茶臼山古墳・平生の神花山古墳は女帝の墓と言われていますが、下松市洲鼻にあった宮の洲古墳や宮原古墳は、豪族の首長墓とあるが被葬者は誰?皇帝だったか女帝だったか分からない・・・ 
つまり埋葬者が男だったか女だったか分からないということです。

【天王森古墳】
瀬戸内海に臨み天然の良港に恵まれた下松、海を見下ろす小高い丘にある「天王森(てんのうもり)古墳」の周囲から “山口県初”のものを含む数多くの形象埴輪(はにわ)などが出土したことが発表されました。その形象埴輪とは、大刀形(たちがた)埴輪や、巫女(みこ)、力士をかたどったものなど。特に大刀形埴輪は、西日本では東日本に比べて出土例が少なく、しかも非常に良い状態で出土。さらにヤマト王権との極めて強い結び付きも浮上したことから、大きな注目を集めています。
天王森古墳は前方後円墳で、前方後円墳とは、ヤマト王権との強い結び付きがあった地方の首長らに特有の古墳の形です。従来、天王森古墳についてはその形態などから6世紀前半に造られた、この地域の首長墓の一つと考えられてきました。埴輪は古墳を飾り、荘厳に見せるもの。埴輪も時代によって変遷することから、天王森古墳は今回出土の埴輪の特徴などからも、6世紀前半に造られたことが確かめられました。
天王森古墳の特徴として、武器・武具を模した形象埴輪が多いことがあります。中でも大刀形(たちがた)埴輪1体は、復元した全長が約120センチメートルにもなる大型品。しかも、細部から全体まで、継体(けいたい)大王(天皇)の陵墓と推定されている「今城塚古墳(大阪府高槻市)」の大刀形埴輪とよく似ていることが分かりました。そのことから天王森古墳に眠る人物は「当時の王権に埴輪づくりの工人を派遣してもらえるほどの実力をもった有力人物」だった可能性が浮かび上ってきたのです。同時に、武器・武具の埴輪が多いことは「被葬者の生前の軍功」を反映した可能性もあるとも示されました。
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# by kfujiken2 | 2023-09-06 13:34 | 歴史 | Comments(0)

山本琴谷と津和野藩の絵師たち

本展では山本琹谷の没後150年を記念し、琹谷の初期から晩年までの幅広い画業を約70点の作品と資料により紹介します。あわせて、江戸時代の津和野をいろどった11名にのぼる多彩な絵師たちの作品も展示します。
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山本琹谷(やまもときんこく)は、幕末から明治初めにかけて活躍した、津和野出身の文人画家です。渡辺崋山(わたなべかざん)に学んだ後、江戸を拠点に諸国をめぐって各地の文化人と交流し、数々の作品を遺した一方、津和野藩の絵師として藩の御殿を飾る障壁画の制作にも携わりました。最晩年の明治6年(1873)には、ウィーン万国博覧会にも出品しました。中国の故事に基づいた人物画を得意としたほか、華麗な花鳥画、壮大な山水画、交際した文化人の肖像画なども描きました。
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⚫ 山本琹谷(やまもときんこく)

⚫ 多胡逸斎(たご いっさい)

⚫ 岡野洞山美高(おかのとうざん よしたか)

⚫ 岡野洞淵益清(おかのとうえんますきよ)

⚫ 岡野洞山陳盖(おかのとうざんちんがい)

⚫ 大島松溪(おおしま しょうけい)

⚫ 三浦紫畹(みうら しえん)

⚫ 三浦楚畹(みうらそえん)

⚫ 斎川芳畹(さいがわほうえん)

⚫ 亀井茲親(かめいこれちか)

⚫ 亀井矩貞(かめいのりさだ)

⚫ 亀井矩賢(かめいのりかた)

# by kfujiken2 | 2023-08-30 09:35 | 歴史 | Comments(0)

木津川口の戦い

第一次・第二次と戦った「木津川口の戦い」は
織田水軍VS毛利水軍の珍しい海上戦です

「第一次木津川口の戦い」は、織田水軍VS毛利水軍の本願寺への援助物資を食い止めるための戦いで、両者が海上で激突します。本願寺顕如は、天正4年(1576年)5月に信長との天王寺砦の戦いに敗れて、石山本願寺を信長軍に包囲されます。
しかし顕如はまだまだ諦めず、毛利輝元へ兵糧や武器などの援助を求める。援助を求められた毛利輝元は、堂々と信長の正面から援助物資を木津川口から毛利水軍、小早川水軍、村上水軍を合わせた毛利連合水軍は約800隻もの大船団を送り込む。信長水軍300隻と毛利水軍800隻の戦いだった。織田軍は撤退するしかなく、毛利水軍は本願寺への兵糧・武器・弾薬の補給は成功となりました。
村上水軍は「焙烙(ほうろく)」と呼ばれる火薬を詰めた爆弾を投げ込み、「火矢(火を付けた矢)」を巧みに使い信長の船団を焼き払い、海戦を有利に進めます。
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「第二次木津川口の戦い」は、織田信長は第一次木津川口の戦いで毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗したため、志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍した九鬼水軍を率いた九鬼 嘉隆に命じ、大筒・大鉄砲を装備し、焙烙が効かない鉄甲船6隻を伊勢国で建造させた。そのサイズは縦22メートル・横12メートルあったとされ、当時としては空前絶後の巨大さと防御力を持っていた。織田軍の6隻の鉄甲船に搭載された大筒・大鉄砲の火力の前に毛利水軍・村上水軍600隻は惨敗した。この海戦の結果、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、石山本願寺の士気も低下した。この戦いから2年の後に顕如は織田信長に降伏し、石山本願寺は織田信長に明け渡されることとなる。
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# by kfujiken2 | 2023-08-19 12:52 | 歴史 | Comments(0)

坂本龍馬と函館の関係

坂本龍馬と函館の関係

なぜ函館に??? 亀山社中(後の海援隊)の創設、船中八策の策定、大政奉還の実現などを成し遂げた坂本龍馬は、生涯蝦夷地への夢を持ち続けていました。「蝦夷地に新国を開くこと。これはたとえ一人でもやり遂げる覚悟だ。」と手紙に書き残し、死の直前にも蝦夷のことを気にかける様子を手紙に残しています。暗殺によってその夢は叶いませんでしたが、遺志を引き継いだ養子である姉の子供の高松太郎(後の坂本直)が明治新政府の役人として五稜郭の箱館奉行所赴任し、その子孫たちも北海道に代々住み続けているそうです。
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★ 以下は養子縁組や同じような名前があり非常に複雑です。そこで簡単に名前と関係性を列挙しておきます。

① 坂本直(1842-1898)・・・龍馬の姉・千鶴の息子の高松太郎だが、後に龍馬の養嗣子となる。
② 坂本直寛(1853-1911)・・・坂本直の弟で龍馬の甥。坂本家5代目当主で北光社創設メンバー。
③ 坂本直衛・・・坂本直の息子。独身で若くして死去。
④ 坂本直行(1906-1982)・・・坂本直寛の孫で坂本家8代目当主。山岳画家。
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# by kfujiken2 | 2023-08-12 17:36 | 歴史 | Comments(0)


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