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明智光秀は産婦人科医!? だった - 転換期の医術と戦国武将 ー
先日テレビで 歴史秘話ヒストリア「あらためて知りたい 明智光秀」を観て、明智光秀とは、京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件(本能寺の変)くらいの知識しかありませんでしたが、明智光秀の前半生が謎に包まれてることが多いことに興味を持ち調べてみました。

明智光秀は清和源氏の末裔土岐氏支流である明智氏に生まれとあるが、父母の名前も分からない、生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず不詳である。
明智光秀が表舞台に登場するのは織田信長に仕える頃からなので全てが不明瞭なのです。
主君を斎藤道三の家臣から35歳の時朝倉家に仕え、41歳で足利義昭に仕え44歳の時織田信長に仕える。


【明智光秀】


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明智光秀の青年期は、斎藤道三とその嫡男・斎藤義龍との間で美濃国(岐阜県)の長良川にて行われた合戦(長良川の戦い)で、光秀は斎藤道三方であったために斎藤義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えたとも言われ、越前国(福井県坂井市の長崎)にある「称念寺」の門前に、10年くらい住んでいたとされています。
日本医学り中興の祖で、光秀のことも治療した「医聖」曲直瀬道三(まなせ・どうざん)は、丹波攻めで疲弊、退却し病を患った明智光秀を治療しています。その治療は二ヶ月におよび、曲直瀬道三は針を打ち続けたとも伝わります。光秀が師事したのは曲直瀬道三でしょう。



※ 曲直瀬道三は永正13年(1516年)、五山文学の中心である京都の相国寺に入って喝食となり、詩文や書を学ぶ。この頃、姓を曲直瀬とする。享禄元年(1528年)、関東へ下って足利学校に学ぶ。ここで医学に興味を抱いたと言われる。名医として知られた田代三喜斎と出会い医学を志す。入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修める。なお李朱医学とは便宜的造語で、当流医学が実情に則した実際の学派名である。当流は道三が創り出したとする説があるが、これは明らかな誤りで田代三喜から相伝されたものである。天文15年(1546年)、再び京都へ上ると、還俗して医業に専念。将軍・足利義藤(後の足利義輝)を診察し、その後の京都政界を左右した細川晴元、三好長慶などの武将にも診療を行い、松永久秀には性技指南書である『黄素妙論(こうそみょうろん)』を伝授するなどして、名声を高め京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を創建した。
それまでの観念的な治療方法を改め、道三流医道を完成させ、実証的な臨床医学の端緒を開き、四知(神・聖・功・巧)の方を生み出した。
天文15年、将軍足利義輝に謁見している。以後、皇室や幕府へ出仕している事実から察すると、侍医として招聘されたものと考えられる。


【曲直瀬道三】

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明智光秀に関するもっとも古い史料「米田文書」が発見されています。
その「米田文書」の中に光秀が近江・高嶋田中城に籠城していた際、沼田勘解由左衛門尉(ぬまたかげゆざえもん)に口伝され、米田貞能が近江坂本(大津市)で写した『針薬方(しんやくほう)』という江戸時代の医学書に、明智光秀が医学の知識を持っていたことをうかがわせる記述があります。
「針薬方」は熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能(こめださだかず)の子孫の自宅で発見されました。その後、調査が進められた結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田がまとめたものだとみられることが分かり、光秀の活動を示す、最も古い史料とされています。、6年前に発見された医学書です。この古文書には、産婦人科に関する記述が多くあり、光秀が産婦人科医として活動していたことを伺わせるのです。



【針薬方】

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(原文)
右一部明智十兵衛尉高嶋田中
籠城之時口伝也      本ノ奥書如此
此一部より沼田勘解由左衛門尉殿大事
相伝於江州坂本写之
  永禄九 拾 廿日   貞能(花押)
  ニキリクタシ     留度時
 一、ハヅ 一、イワウ       水ニテ手ヲヒヤシ
 一、カンキャウ 一、カンセウ   カンセウヲセン
                  ジテ手ヲアラ
                  ウ也

(書き下し文)
右一部、明智十兵衛尉、高嶋田中
籠城の時口伝なり、      本の奥書かくのごとし、
この一部より、沼田勘解由左衛門尉殿大事に
相伝し、江州坂本においてこれを写す、
  永禄九 拾 廿日   貞能(花押)
  ニギリ下しとめたき時
 一、ハヅ 一、硫黄       
 一、カンキャウ 一、甘草   
 水にて手を冷やし、甘草を煎じて手を洗うなり

# by kfujiken2 | 2020-04-02 08:33 | 歴史 | Comments(0)
コロナ「緊急事態宣言」は使い物にならない!
今の特別措置法では東京の“ロックダウン”は無理

新型インフルエンザ等対策特別措置法(2012年可決成立)改正案が、3月13日国会で可決成立、「緊急事態宣言」を宣言することができる。同法に基づき首相が緊急事態宣言をすれば、宣言に特定された区域の都道府県知事はさまざまな要請・指示ができます。


安倍晋三首相が「瀬戸際の状況」と表現した緊急事態宣言の発令を巡り、出すかどうかギリギリの状態なら出すべきだ。宣言の発令の脅しをちらつかせないで、感染者総数が何人になったからとか、クラスターの数がこの位になったからとか、防ぎようが困難な感染経路が不明な人が何人ぐらいになったから、発令するというような明文化するというか具体的に説明すべきだ。同時に政府が自営業者に補償内容を明示しなければ、自粛要請・指示の厳守は無理だろうと思います。



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今は東京都で感染者数が急増しているので、ニューヨークやロンドンなどと同じように東京でも“ロックダウン”(都市封鎖)が発令されるのではないかと騒がれています。しかしこの法律を読む限り、そんなことは無理です。第45条を読めば明らかなように、住民の外出規制について都知事が取れるアクションは“要請”だけです。興行の中止と違って、“指示”もできません。かつ、武漢で起きたような交通機関の遮断については、法律上何も規定がありませんから、それをやるのは不可能です。
 つまりこの法律は、欧米のような強制力を伴ったものでは全くなく、何事もあくまで“要請”がベースであり、日本人の協調性や規律の正しさに大きく依存した法律なのです。
自粛要請に法的拘束力がなく、かつ政府は中止に伴う損害を補償できる法的な根拠もない。

1)不要不急の外出の自粛(要請)
2)学校や保育所などの使用の停止も含む制限(要請)。応じない場合は指示も可能
3)大勢の人が集まる催しものの開催制限(要請)。応じなければ指示も可能
 もっとも指示を出すには単に「応じない」だけでなく「正当な理由がない」などの条件が必要です。



◆ “要請”というのは行政のアクションとしては非常に弱いものです。罰則や補償の規定がない“指示”も拘束力が弱いと言わざるを得ません。やはり、緊急事態宣言を出すような非常事態に向けては、法的拘束力が強い罰則や補償付きの“命令”を出せるようにすべきなのに、その規定がまったくないというのも、緊急事態対応を意図する法律としてはダメと言わざるを得ないのです。
「小池知事が「ロックダウン(都市封鎖)を招く」と発言しましたが、字義通りの「都市封鎖」をする権限は誰にもありません。指示に違反したとしても刑事罰が科されるのは限定的だ。特措法で刑事罰が規定されているのは、必要な物資を確保するための都道府県知事からの命令に従わず、必要物資を隠匿、損壊、廃棄したケースなどに限られる。外出自粛や使用制限について特措法は罰則規定を置いていない。ただし、民事上の損害賠償の対象になる恐れがある。
上記のように、法的な罰則規定を設けた完全な都市封鎖は日本では不可能だ。


※ 「ロックダウン」となる場合には、前提として政府が緊急事態宣言を出すと予想されます。
都市封鎖(ロックダウン)とは、対象とするエリアの人の移動を制限したり企業活動を禁じることを指します。つまり、順序として緊急事態宣言の発令がなければ、ロックダウン出来ないということです。



★ 「緊急事態宣言」という法令が大日本帝国憲法下に 「戒厳令」というものがありました。
「戒厳令」も国家の非常事態に発令され、市民の行動を制限するものですが、「緊急事態宣言」と異なるのは国の統治権(立法、司法、行政)の全部、または、一部が一時的に軍に移される点です。つまり、「緊急事態宣言」とは、「国民の行動を一時的に制限する措置」のこと。 「戒厳令」とは、「国の統治権を一時的に軍に移す措置」のこと。
大日本帝国憲法下では天皇が宣言した。住民の憲法上の自由・権利は制限され、戒厳の要件及効力は兵力で警備する。なお、日本の現行法には、戒厳に関する規定、戒厳令に相当する法令は存在しない。
1947年(昭和22)に廃止。
日本で戒厳令が出されたのは、日比谷焼き討ち事件、関東大震災、二・二六事件


# by kfujiken2 | 2020-03-31 07:58 | 未分類 | Comments(0)
夢の時速500km「超電導リニア」
JR東海が2027年に開業を予定するリニア中央新幹線のL0(エルゼロ)系改良型車両が3月25日、日立製作所笠戸事業所(山口県下松市)で報道関係者に公開された。


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東京と大阪の間を時速500kmで走り、1時間7分で結ぶ中央新幹線の超電導リニア改良型試験車が25日、下松市の日立製作所笠戸事業所で報道機関に公開された。同事業所で製作、5月末ごろから山梨県の山梨リニア実験線で走行試験に使われる。最先端技術を凝縮した下松市生まれの車両で、公開には新聞、テレビ、雑誌など30数社が集まった。

超電導リニアが出る中央新幹線はJR東海が建設中で、東京から山梨、長野、岐阜、愛知県を経由して大阪まで伸びる。実験線はその一部を利用し、距離は42.8km。この日の公開もJR東海が主催した。

改良型試験車は長さが28mで、そのうち15mが空気抵抗を減らすため長く突き出した先頭部。現在、走行試験に使われているL0(エルゼロ)系の先頭車両に比べ、先頭部の形状を変えて左右へ空気の流れを分け、先端部の最適化で空気抵抗を13%下げた。
 
L0系は客室の照明や空調など車両で使用する電力を得るためガスタービン発電装置を搭載しているが改良型はこれがなく、誘導集電方式で、地上ループに電流を流して磁界を発生させ、車両の集電コイルで電力を得る。この結果、発電装置の燃料を積む必要がなく、排気ガスがなくなり、軽量化もできた。

# by kfujiken2 | 2020-03-30 10:45 | 未分類 | Comments(0)
日本語でいいのに… 
河野太郎防衛相もツイッターで嘆く「コロナの説明はカタカナ語ばかり」!!!

新型コロナウイルスの感染拡大で、各局ともニュースやワイドショーには連日のように専門家が招かれ、様々な説明や見解が論じられている。そこで連発されるのが難解なカタカナ用語だ。「日本語で何という意味だろう」と感じてしまう人も多いのではないだろうか。
医学に通じた人々にとっては難解でもないのだろうが、一般人にはおよそ縁のなかった用語ばかりだ。


日本語でいいのに… _d0061579_8104615.jpg



 エアロゾル : ウイルスなどが霧のように空気中に漂うこと
 
 リンク : 感染源・感染経路

 トリアージ : 各患者を緊急度や重症度で評価し、治療の順番を決めること

 スーパースプレッダー : 10人以上に感染拡大させた感染源となる患者

 アウトブレイク : 集団発生

 クラスター : 小規模な感染集団

 オーバーシュート : 爆発的感染拡大
  
 エピデミック  : 国は超えない大規模伝染

 パンデミック : 世界的大感染

 ロックダウン : 都市閉鎖


コロナウイルス関連ではないが、カタカナ言葉を「大和言葉」に置き換えるとこうなる!

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# by kfujiken2 | 2020-03-26 08:12 | 未分類 | Comments(0)
東京オリンピック中止と延期の主導権はどこ???
開催地の建設とインフラの改善に多額の投資を行っておる東京に、イニシアティブ(主導権)がないのは不条理だ!!!

東京オリンピックに携わっている組織として、次の4組織がありますが主張に統一性がないと言いますか、各々都合のいい勝手な事を言っています。


◆ 新型コロナウイルスの感染拡大で懸念されている東京五輪の開催判断について、各組織の主張です。

① 国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長は、「もちろん異なるシナリオは複数検討している」と発言した。同時に、「中止は議題にない」とも語り、初めて延期を示唆した。

② 東京2020大会組織委員会の森喜朗会長は、「安全で安心な五輪をきちんと進めていくというのが我々の基本的なスタンスで、今計画を変えることは全く考えていない」と、従来通りの姿勢を強調した。

③ 政府の代表・橋本聖子五輪担当者相は、「アスリートの視点から言っても4年に1度という時期に合わせて調整している。中止や延期はありえない」と強調した。

④ 東京都・小池都知事は、「東京都とすれば、中止という選択肢は全くない」と改めて強調した。



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五輪は予定通り実施されるのか。開催可否の判断をいつ、誰が下すのか。いくつかの選択肢を検証してみましょう。


◆ 過去に中止になった五輪はあるのか?
  
1896年のアテネ大会から始まった近代五輪で、中止になったのはこれまでに5回。1916年のベルリン大会、1940年の札幌大会(冬季)と東京大会(夏季)、1944年のイタリア・コルティナダンペッツォ大会(冬季)とロンドン大会(夏季)で、理由はすべて世界大戦だった。
その他には、1976年のモントリオール大会、1980年のモスクワ大会、1984年のロサンゼルス大会で大規模なボイコットがあったが、中止には至っていない。


※ 2004年のアテネ大会は、2002年から2003年にかけての重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行の翌年だったが影響はなく、2016年のリオデジャネイロ大会は、蚊が媒介するジカ熱が不安視されたが、大会前には騒ぎも収まった。

◆ 2020年東京五輪の中止の可能性は?
  
国際オリンピック委員会(IOC)が五輪を中止する、もしくは開催地を変更する権限を持っている。しかしIOCは「大会組織委員会と連携しながら大会の成功を目指しており、成功に自信を持っている。日本の公的機関や世界保健機関(WHO)とも定期的に連絡を取り合っている」と話しており、中止や代替開催を視野に入れているようにはみえない。トーマス・バッハ(Thomas Bach)会長も、4日の理事会で「中止や延期は話題に出なかった」と話している。
しかし、これから危機が深刻化する恐れもある状況なだけに、中止の可能性を完全に除外することはできない。


◆ 開催可否の判断を下すのは誰か?
  
正式な権限はIOCにある。IOCと大会組織委員会が交わした契約には、「参加者の安全に重大な危機が生じた場合」、開催権をIOCが取り消すことができると記されている。しかしバッハ会長は「その件については議題に上がっておらず、検討すらされていない」とかたくなに否定している。

◆ 延期の可能性は?
  
大会組織委員会は特定の年に五輪を開催する使命を担っており、東京の場合は2020年となる。その論理に従えば、2021年以降に延期となった場合、東京は開催権そのものを失う。しかし、IOC委員の3分の2の投票があればその点は考慮される可能性があり、それをもってIOCが延期を決めるケースも考えられる。
 ただしそれ以上に、現実問題として日程の変更は難しい。世界のスポーツカレンダーはすでに過密状態で、マイナー競技であれば直前の延期決定でも対応できる余地があるが、サッカーやバスケットボール、テニスなどの人気競技はおそらく日程の調整が難しい。
 報道各社も延期には強く反発するとみられる。多額の放映権料を支払い、9億7000万ドル(約1030億円)を投じて広告を打っている米テレビ局NBCなどは、プロバスケットボール(NBA)のような高収益の見込める人気競技と五輪とのバッティングを嫌がる可能性が高い。


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# by kfujiken2 | 2020-03-22 13:19 | 未分類 | Comments(0)
センバツ出場校中止「救済措置」
センバツ出場校(第92回選抜高等学校野球大会)中止「救済措置」5案を提言!

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3月11日、高野連(日本高校野球連盟)は19日に開幕予定だった春のセンバツを中止すると発表した。1924年(大正13年)に始まった同大会は、1942(昭和17)~46(同21)年に戦争の影響による中断はあったものの、開催が決定していたなかでの中止は史上初めてとなった。

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◆ 救済案(1):夏の甲子園開会式への参加
夏の甲子園に出場する49校とは別に、センバツ出場を決めながら地方大会で敗れた高校も開会式に参加、選手の入場行進を行う

◆ 救済案(2):夏の甲子園に「センバツ出場枠」を設置
49校+地方大会で敗れたセンバツ出場校で夏の甲子園を戦う。

◆ 救済案(3):センバツ出場校のエキシビジョンゲームを甲子園で開催
春と夏の甲子園を明確に分け、なおかつセンバツ出場校に「甲子園でのプレー機会を与える」ことを考える。開幕前日や休養日、準決勝、決勝戦の直前などの「空き」を活用。

◆ 救済案(4):センバツ特別大会の実施   
今回の「中止」を、事実上の「延期」としてしまう案だ。出場予定だった32校を甲子園に集め、センバツと同じようにトーナメントで優勝を争う。


◆ 救済案(5):夏の甲子園の出場枠増

# by kfujiken2 | 2020-03-20 07:09 | 未分類 | Comments(0)
コロナ恐慌・・・日銀の債務超過
新型コロナウイルスによる感染拡大が、ついにニューヨーク株式市場の史上最大の下げ幅という形で表れた。アメリカにも感染拡大の可能性が広がり、そこに原油価格の暴落がダブルでやってきたためだが、もともとアメリカの株式市場はバブルに陥っており、コロナウイルスの感染拡大が重なったと考えたほうがいいかもしれない。 
世界の株式市場の時価総額の半分はアメリカ市場にあり、アメリカの株式市場の動向は世界の金融マーケットに大きな影響を与える。アメリカ市場の動向次第で、世界の金融市場が大きく変動する。


ニューヨーク株式市場では、価格が一定程度変動した際に取引を強制的に停止させるサーキットブレーカーがこの1週間の間に2度も作動するなど株価は大暴落し、実体経済にも大きな影響が出始めている。リーマンショック時の金融不安、東日本大震災のときのようなリアル経済のパニックが同時に襲い掛かっている。
このままいけば、最悪の事態も想定しておく必要があるのかもしれない。例えば、1929年の世界大恐慌や日本を襲った昭和恐慌に匹敵するような景気後退が起こらないとも限らない。


株安は経済の根幹を担う日本銀行も直撃する。株を大量に買っていた日銀は、このままでは多額の損失を抱え、財務の健全性が揺さぶられてしまう。新型コロナウイルスの感染拡大で日本経済が非常時モードに突入しているのに、政府も日銀も打つ手がない。財政や金融政策をすでに極限まで実行してしまっているからです。このままでは、日銀が債務超過になるリスクも出てきます。
つまり、大袈裟だけどデフォルト(国家債務不履行)状態になりかねない!!!


【日銀本店】
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極論だけど、政府が過去第二次世界大戦の敗戦に伴い、物資不足に伴う物価高及び戦時中の金融統制の歯止めが外れたことから現金確保の為の預金引き出し集中の発生、また一方で政府も軍発注物資の代金精算を強行して実施したことなどから、市中の金融流通量が膨れ上がり、ハイパーインフレーションが発生した対策として金融緊急措置令を始めとする新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策。
つまり、デノミネーションが実施された。
政府には国債を発行して、その国債を日銀が引き受け日銀が債務超過になったら、かつて戦後の日本がやったデノミネーションを実施するという「伝家の宝刀」がある。



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※ デノミネーションとは、通貨単位を表す言葉である。日本語においては、それを切り下げる、もしくは切り上げることとして使われることもある。
# by kfujiken2 | 2020-03-17 08:48 | 未分類 | Comments(0)
自粛超えるインパクト「緊急事態宣言」
「緊急事態宣言」を可能にする法案(新型インフルエンザ等対策特別措置法)が成立。
しかし、安倍総理は「現時点で緊急事態を宣言する状況ではないと判断している」と述べた。


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「緊急事態宣言」が発令されると、なんかやたらと制限が出てくるような感じがしますが、実際のところ仕事や普段の生活はどうなってしまうのか?
発令がされていない現在はイベントや休校の自粛要請に留まっているものの、こちらが宣言されたらと指示も可能になります。一見違う様にも思えますが、指示になるとお願いではなく命令になるため、指示された側は自粛を受け入れるしかなくなる状態になります。


国民の行動を制限することも可能になるため、人権を制約しないようにすることが必要とされる。これまでも安倍首相はイベント自粛要請や、全国の小中高校の休校要請をしていたが、法律に基づくものではなかった。法律に基づく緊急事態宣言が出ると、都道府県知事が強制力が強い要請を出すことができるようになり、生活に大きく影響が出そうだ。

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1.外出自粛の要請
都道府県知事は、「生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないこと」を期間と区域を決めて住民に要請できる。(第45条)

2.学校、社会福祉施設、イベント会場の使用制限
都道府県知事は学校、社会福祉施設、興行場(映画、演劇、音楽、スポーツ、演芸などの施設)の管理者に対し、施設の使用制限もしくは停止を要請できる。また、イベントの主催者にイベント開催の制限もしくは停止を要請できる。(第45条)


3.臨時医療施設のための土地使用
都道府県知事は、臨時の医療施設を開設するため、土地、家屋または物資を使用する必要があると認めるときは、当該土地等の所有者および占有者の同意を得て、当該土地等を使用することができる。(第49条)


4.医薬品や食品など物資の売渡しの要請
都道府県知事は、緊急事態措置の実施に必要な物資(医薬品、食品その他の政令で定める物資に限る)であって生産、集荷、販売、配給、保管または輸送を業とする者が取り扱うものについて、その所有者に対し特定物資の売渡しを要請することができる。正当な理由がないのに要請に応じないときは、特定物資を収用することができる。(第55条)


5.生活関連物資等の価格の安定
指定行政機関の長らは、国民生活との関連性が高い物資などが価格の高騰や供給不足が生じたり、生じる恐れがあるときは、法令の規定に基づく措置などを講じなければならない。(第59条)

# by kfujiken2 | 2020-03-15 09:57 | 未分類 | Comments(0)
幕末の志士を撮影した日本で初めての写真家・・・上野竜馬
上野竜馬は、日本における幕末期から明治時代にかけて活動した写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。

天保9年(1838年)、長崎銀屋町で蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)の次男として生まれる。広瀬淡窓(ひろせたんそう)の私塾、咸宜園(かんぎえん)で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。
文久2年(1862年)に故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。ちなみにこれは日本における最初期の写真館であり、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。


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上野竜馬が上野撮影局で撮影したといわれている坂本龍馬

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◆ 写真機の発明・伝来


※ 写真機の発明ということで、世界的に見てみると、感光材を使った写真機を最初に作ったのは、フランス人のニエプスという人。
およそ1800年頃であるといわれ、アスファルトの感光性を利用したものであったといいます。
しかし、この時の写真は、撮影(露光)に8時間を要し、また、映りも鮮明ではなく、その後も改良が進められていきます。そして、その後、主流となっていったのが、フランス人のダゲールという人が開発した写真技術。銀メッキをした銅板を感光材として用いたもので、露光時間は、当初のもので20分程度、その後、改良が加えられて、1~2分で撮影できるようになり、いよいよ、写真が実用的なものになっていきます。
この写真機は、開発者ダゲールの名前から「ダゲレオタイプ」と呼ばれ、
これが、やがて、日本にも伝えられて、日本では「銀板写真」と呼ばれることになります。


※ 写真機の日本への伝来は、1848年(嘉永元年)であったといわれ、これを輸入したのが、長崎の貿易商・上野俊之丞という人でした。この人、坂本龍馬の写真を撮ったことでも知られている上野彦馬のお父さんですね。そして、この俊之丞が輸入した写真機(ダゲレオタイプ)は、やがて、薩摩藩の手へとわたっていくことになります。
さて、この頃の薩摩藩は、英明の誉れが高い名君・島津斉彬のもとで、積極的に西欧の近代科学の研究に取り組んでいました。斉彬はかねてから、この銀板写真についても興味を持っていたようで、斉彬は、福岡の黒田や水戸徳川など、親しい大名にもこの最先端技術である写真について話をし、やがて、いくつかの藩において、銀板写真の実験・研究が進められていきます。



◆ 長崎歴史文化博物館の歴史文化展示ゾーンに、“近代化の魁・長崎~長崎発、西洋の知と技”のコーナーがあり、上野彦馬が開設した「上野撮影局」があります。

"上野彦馬使用 写真機

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上野彦馬の写真スタジオ

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# by kfujiken2 | 2020-03-12 10:18 | 歴史 | Comments(0)
鎖国状態になったらどうする
米国が新型コロナウイルス対策として、感染が広がる日本に対し出入国制限すると、日本は鎖国状態
になる懸念もある。


新型コロナウイルス対策として、感染が広がる日本からの入国を制限する動きが海外で目立ってきた。2020年3月4日未明、衝撃的なニュースが飛び込んできた。トランプ米大統領が記者団に、新型コロナウイルスの感染拡大を受けた渡航規制強化について、すでに強化したイタリアや韓国などと同様に「日本の状況も非常に注視している」と述べ、具体的な名前をあげて日本が検討対象だと明言した。

何を今さらという感じで、未だに対象に入っていなかったのが不思議なくらいだ。日本はきちんと検査もしていないし、もうどこに感染者がいるかわからない状況。すでに日本で陰性だと判断された人が本国に帰って発症した人がたくさん出ている。アメリカが自国を守るとなれば入国制限をするのは妥当だ。反対になぜ未だに日本が中国や韓国の一部の地域しか入国制限していないのかのほうが不思議なくらいだ。
大国のアメリカが入国制限すると、小国が間違いなく賛同してくる。つまり、日本は鎖国状態になる。


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こうした他国からの日本および日本人の出入国規制は、事実上、日本サイドがコントロールできない、それぞれの国が実施することを止めようのない状況ですから、かなり深刻です。
古い話ですが、国内における鎖国は江戸時代1639年に江戸幕府から海外渡航禁止令が出され、1853年に黒船が来航して現象的に禁止を解除せざるを得なくなったのはご存知の通り。今回は、またしても海外諸国の判断で日本と日本国民が、実に167年ぶりに鎖国の危機に直面することになりそうで、非常にリスキーな状況が近づいています。
こうしたいわゆる鎖国状態というのは、戦後の近代国家になってから日本が1度も経験したことのないものです。そのため、経済的な損失がどのくらい出ることになるのか、はっきりしません。

日本政府のクルーズ船の対応のミスで、自国内に新型コロナが蔓延してしまったと諸外国から厳しい目で見られているということだ。特に『一斉休校』にしたことも外国からすれば深刻な状況だとみられたと思う。クルーズ船は、外国からは培養船と呼ばれて、そこに外国人を長期間閉じ込めたことが怒りを買った。また、PCR検査をいろいろと理由を付けて熱心にやらずに、感染者数を少なくしていることも、オリンピックを開催したいがための隠蔽工作ととられている


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江戸時代の鎖国は、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止し、対外貿易を長崎でのオランダ商館と中国船との貿易だけに制限した状態をいい、完全な国際的孤立状態を意味していない。

日本は資源小国であっても貿易立国とあぐらをかいていたが、国内の内需では舞えない日本の行政はどう対応するのだろう?
# by kfujiken2 | 2020-03-08 08:44 | 未分類 | Comments(0)
男根崇拝と思いきや、悲しい伝説がある「麻羅観音」

麻羅観音(まらかんのん)は、山口県長門市俵山温泉下安田にある寺院で子孫繁栄、精力増強、良縁、恋愛成就、夫婦円満などにご利益があるとされている。
卑猥な目で見がちな麻羅観音だが、大内義隆の家臣であった陶晴賢の謀反よって攻められた大寧寺の変に知られざる歴史があります。
しかし、歴史を探るために見学とは聞こえがいいが、歴史的な痕跡がまるで無く、男根のオブジェばかりだとやはり興味本位で見ますよね~


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駐車場からの全景 思っていたより規模が小さい!!!

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何が「日本一」なんでしょう?

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麻羅観音の由来の石碑

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天文二十年(一五五一年)九月一日
 中国地方の太守 大内義隆公は家臣の陶晴賢に攻められ、湯本温泉大寧寺で自刃した、翌二日長氏義尊公はこの奥で捕えられ惨殺された、墓は近習のものと共に上安田にある、末子の歓寿丸は女装して山中にかくまわれていたが、翌年春捕えられて、ここで殺され男児の証拠に男根を切られて持ち去られた。これを里人はあわれんで、この社をたてて霊を慰めた、ここは子宝に恵まれない人や健康増強への願を託す参詣者で賑わう



階段を上がると本堂があり、その周囲にここのメインというべき形も大きさも様々なオブジェが林立している。材質もいろいろで石製や木製の他、ステンレス製で銀色に光っているものもある。これらはすべて奉納品らしく、裏に名前と年月日が記載されている。

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白御影石でしょうか? ひときわ立派な一組です。
一物を切断された哀れな歓寿丸さんに哀悼の意を示しつつ、なんとなく阿部定事件を思い出す。

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麻羅観音は地元の人々にも大切にされており、本堂は清掃や整備が行き届いている。

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男根像と女陰像

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本堂横に祠があり陶器製男根像が、数多く奉納されており陳列されている。

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# by kfujiken2 | 2020-03-03 13:42 | 歴史 | Comments(0)
新型コロナウイルスの感染拡大の不手際に警鐘

新型コロナウイルスの感染者拡大に対し右往左往する政府!!!

国や自治体、あるいは組織でもさまざまな対策を打ち出し、その対策一つ一つに疑問や不安の声があがっている。クルーズ船で3700人の対応に苦慮していた自民党政権に比べて、数十万人単位の被災者が出た東日本大震災では、市町村、都道府県にある程度の権限を委譲して、対応できたことを考えると、現在の自民党の姿は国民不在の姿勢が目立つ。自民党政権が目指すような中央集権型の危機管理には限界があると言っていいだろう。新型コロナウイルスによる経済への影響の深刻さだ。リーマンショック級とも、東日本大震災級とも言われる景気後退リスクに対して、日本政府は対応できるのか?

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大規模イベントの開催については、主催者判断に委ねるとのあいまいな政府の発表により、同じ地域内でもイベントを開催したり、しなかったり対応が異なり、主催者や参加者からは戸惑いの声も聞こえる。 日本は、ガバメントや権力に対して極めて慎重になる傾向がある。
多くの場合そのリーダーがガバメントにおけるトップにもなることから、リーダーは平時と有事の切り替えをしっかりと心得て組織の舵取りに当たらなくてはいけない。



※ ガバメントとは:政府が上の立場から行なう、法的拘束力のある統治システムである。



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東京五輪が中止となれば、どの程度の経済的損失が発生するか。
東京五輪の経済効果は、東京都の発表で「32兆円」という途方もない数字が発表されているが、この数字には交通インフラの整備やバリアフリー促進といった間接的な経済活動も入っている。いわゆる「レガシー(遺産)」効果だ。



◆ 消費は半減? 東日本大震災級の景気落ち込み! 能天気な「緩やかな景気回復」の化けの皮が剥がれる?


厚生労働省が、新型コロナウイルスのPCR検査の保険適応をいまだに認めていない現状を考えると、医療システムの崩壊を招くような感染爆発が起こる可能性もある。
そうなると、日本への飛行機の渡航が世界中から止められ、世界からの物資なども供給されなくなる。株価は大きく下落し、円が売られ、金利が上昇(債券価格の下落)することになる可能性が高い。
日本は世界から莫大な量の食料品や石油などのエネルギーを輸入しているが、これらが円安の影響で急騰することになる。本来であれば、こういうときこそ日銀が金融緩和をすべきなのだが、現在の日銀にはその余力がない。安倍政権の対応が遅れて、日本に感染爆発が起こり、医療システムが崩壊。日本のあちこちが中国・武漢と同じような状況になってしまうというシナリオだ。サプライチェーンの停滞で海外からの物流は途絶え、食糧不足などの物資不足に陥ることになる。
それどころか、日本中で企業活動が滞り、観光や娯楽といったサービス業も壊滅的なダメージを受けることになりかねない。海外からのヒト、モノ、マネーも遮断され、日本の輸出入もストップしてしまう。日本経済にとっては、まさに正念場となり、株価は底なしで下落する可能性がある

# by kfujiken2 | 2020-02-29 11:09 | 未分類 | Comments(0)
第33回冠梅園の梅まつり

昭和59年・3月に開設された、山口県光市にある菅原道真公ゆかりの冠天満宮に隣接する冠山総合公園「梅の里(冠梅園)」は、丘陵の東側は冠山総合公園の前景に日本庭園が広がり、西側には背景に100種の紅梅・白梅・蝋梅が咲き誇る。約2000本ということで山口県内でも最大級の規模である。2月~3月にはイベント「梅まつり」が開催され、特産品の販売、フリーマーケット、野点(屋外で茶または抹茶をいれて楽しむ茶会)、芸能発表会、演奏会、舞踏など多彩な催しで賑わいます。
期間中は複数の駐車場が解放されるが、基本的に丘陵(なだらかな起伏や小山)に沿って遊歩道を歩くことになる。なだらかな丘といってもそれなりの坂道、歳を取って来ると段々きつくなります。


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今年は暖冬のせいで1月初旬に開花が始まり、梅まつり開催日(2月15日)にはほぼ満開を迎えるとは、例年より二週間位早いのではないでしょうか?

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◆ 「冠梅広場」では、うどんやおみやげ物の販売

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# by kfujiken2 | 2020-02-27 09:16 | | Comments(0)
下松笠戸島の河津桜

最高の行楽日和の一昨日に笠戸島に行きました。河津桜まつりが終了しているから、見物客は少なくなっているだろうとたかをくくって笠戸島家族旅行村に行ってみると、駐車場に近づくことができない!!! 何か事故??? と思い車から降りて少し歩いてみると、駐車場の空きを待っている車が登りの坂道に、20台ばかり並んでいる。これではどの位時間が掛かるか分からないと思い、Uターンして大城入口の駐車場前の植え込みに一目散・・・

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2007年2月に、下松の笠戸島にきれいな珍しい花が植えられていると情報で知り、
行ってみました。梅ではないし桜には早い!!! この時期に見たことのないきれいな花です。不思議に思い市の緑地課にTELで聞いてみました。
笠戸島と河津町の環境がよく似ており、2006年に「国民宿舎大城」の駐車場横に、試験的に河津桜を7~8本植えてみました。もしついたならば徐々に増やしていく予定です。という返事がありました。現在、約500本の河津桜が大きく育ち、笠戸島の春の風物詩となっています。。


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河津桜と菜の花競演

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◆ 河津桜命名の由来

1955年に飯田勝美という人物が静岡県賀茂郡河津町田中で原木を偶然発見したことが由来である。現在も原木はこの地に存在し、2006年現在で樹齢50~60年である。
その後、1968年頃からこのサクラが増殖されるようになった。
1974年にこのサクラがカワヅザクラ(河津桜)と命名され、1975年に河津町の木に指定された。寒緋桜と早咲き大島桜の自然交配種と言われており、樹形は広卵状で樹皮は紫褐色で光沢がある。花形は平開形で一重のやや下向きであり、花弁は5枚の円形で無毛である。
色は蕾の時は濃紅色だが、満開時は淡紅色になる。



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この桜は染井吉野のようにパーっと咲いてパーっと散るって感じの桜ではありません。
伊豆の温暖な気候と早咲きの特色を生かし毎年2月上旬から開花しはじめ約1ヶ月を経て満開になるそうです。


花蜜を求めてメジロが飛来

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# by kfujiken2 | 2020-02-25 11:36 | | Comments(0)
新型コロナウイルスに対し二つの疑問  

① 【新型コロナウイルスに対し、理解できない日本政府の対応】

もともとクルーズ船ではノロウイルスの感染が頻繁に起きており「海に浮かぶ培養皿」と呼ばれるほど感染症には脆弱(ぜいじゃく)だ。しかし船内では世界保健機関(WHO)が1月30日に緊急事態宣言を出してからもパーティーが開かれていた。
日本は新型コロナウイルスに対する水際対策に失敗しただけでなく、日本政府が主権を行使する水域でのクルーズ船に対する対処もずさん振りをさらけ出した。日本のこうした対応により、日米共同作戦が想定されるような有事における日本政府の危機管理能力と被害管理能力が極めて低いことが白日の下にさらされ、「頼りにならない同盟国、日本」というイメージがさらに増幅されたことは間違いない。


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感染拡大を防げなかった日本政府のお粗末は、森友学園・加計学園・「桜を見る会」問題で繰り返されてきた安倍政権の隠蔽(いんぺい)体質がクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」で新型コロナウイルスの感染を拡大させてしまったようだ。
新型コロナウイルスの集団感染が起こっているクルーズ船で業務していた厚生労働省の職員の多くが、ウイルスの検査を受けずに職場に復帰していたことが分かりました。濃厚接触者なのに何故PCR検査をなぜしないか?厚労省は今のところ、こうした職員らに検査を受けさせない方向だそうです。



② 【新型コロナウイルスの拡大による日本経済危機】


新型コロナウイルスによる感染者数は2月22日現在、
▽日本で感染した人や中国からの旅行者などが99人 ▽クルーズ船の乗客・乗員が634人 ▽チャーター機で帰国した人が14人の合わせて747人に達した。感染経路が特定できないケースも発生し、国内での感染拡大が深刻化している。
新型コロナウイルスによる肺炎の感染拡大が中国のサプライチェーンに大きな影響を与え、国内でも工場の稼働を一時的に停止する企業が出てきた。日本企業は今後どのような影響を受けるのか。そして今回の問題は日本企業にどのような課題を突きつけたのか。


※ 「サプライチェーン」: 製品を作る最初の段階から作った製品が消費者に届くまでの一連の流れ

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感染リスクを配慮し、人出が見込まれる催事やイベントの中止も相次いでいる。
令和初の天皇誕生日(2月23日)に皇居で予定されていた一般参賀を中止すると発表。3月1日開催の「東京マラソン」は、一般参加者枠を全面的に取りやめる。東京オリンピックの延期・中止もリスクシナリオとして想定される段階にある。新型肺炎の拡大が深刻化すれば、2020年の日本経済はマイナス成長に転じる可能性がある。
現在、中国政府は海外への団体旅行を禁止していますが、これが仮に1年程度伸びると中国人観光客は約400万人減少することが想定されます。業種で言えばホテルなどの宿泊施設や飲食店、デパート、小売店などは収益が悪化する可能性が高いです。地域別でみると中国人観光客の割合が高い静岡、奈良、山梨、千葉、三重、岐阜では大きな影響があると想定されます。

# by kfujiken2 | 2020-02-22 15:06 | 未分類 | Comments(0)
一夫多妻制をあなたはどう思いますか ?
「不倫は文化だ」という言葉さえ生まれる日本。今年もゲス不倫等たくさんの不倫騒動がありました。しかしこの不倫という考え方は、いって見れば「一夫一妻制」であるからこそ生まれる考え方ともいえますよね。いまでこそ日本は「一夫一妻制」が当たり前の世の中になってます・・・・が、しかし!日本は「一夫一妻制」より「一夫多妻制」の方が圧倒的に長い歴史を持っているんです。

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結婚に対する価値観が今、変わりはじめています。
生涯未婚率が男女ともに過去最高になる一方で、離婚する人も増加。「結婚は25歳までにするべき」「結婚した人とは一生添い遂げるべき」など、私たちのまわりにあった「当たり前」も少しずつ崩れつつあります。


日本で複数の配偶者を持つことは禁止されています。具体的には、民法732条は配偶者のある者が重ねて婚姻することができないと定め、万が一重婚に気づかず届け出がなされてしまう場合には、民法744条により取り消すことができるとされています。
江戸時代には、男性が配偶者以外の女性を妾とすることがあり、主に上流階級の男性では当たり前のことであったようです。これは男系の跡取り息子が重宝された時代背景が重なっていたと評されています。
既婚男性の浮気率は日本では25%~40%、既婚女性の浮気率は、14%~23%という調査結果がでています。
明治3年(1870年)に制定された明治国家最初の刑法典『新律綱領』は、妻と妾を二親等と認めることで、一夫多妻制の法整備をした。これに変化が生じたのは、福沢諭吉らをはじめとする脱亜入欧の考えの浸透です。近代キリスト教国的な重婚の禁止を規定した民法の施行により一夫多妻制は制度的にはなくなったが、近代において地位ある男性が妻と別に愛人をもつ風潮は広くみられた。


※ 脱亜入欧:アジアから脱して、欧米諸国の仲間入りをすること。

パートナーが浮気をした場合、怒りの感情が先走り、浮気の原因を探ろうとしない人が多いです。
浮気をする原因や、浮気をされる側にも原因があるかも知れません。
それぞれのカップル、夫婦によって関係性や浮気の状況は異なりますが、ある程度共通する部分はあるものです。


日本では、江戸時代までは上流社会において男子の家督跡取を生むという名目の元で「側室制度」があった。男子の家督跡取を生むという名目は聞こえはいいが、身の回りの雑用をするのは侍女・腰元がおり、ならば5人も10人も側室は要らない・・・
夜伽(よとぎ)つまり、性欲を満たすためのみが目的であったと思われます。
一夫多妻制度は好き者には都合のいい制度だな!!!


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参考までに・・・徳川家康→正室1人/側室20人 第11代将軍・徳川家斉→正室1人/側室16人 豊臣秀吉→正室1人/側室13人 水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭→正室1人/側室9人 織田信長→正室1人/側室5人


しかし、戦国時代でも、一般庶民やそれほど有力ではない武士は一夫一妻が普通だったので、出身階級の低い武将は、有力になってももともとの習慣に従って正室が亡くなるまでは側室を置かないこともかなりあったようです。


明智光秀・・愛妻家として有名
島津義弘・・愛妻家と言われている
細川忠興・・妻のガラシャを愛した無類の愛妻家として有名
蒲生氏郷・・キリシタン大名(一夫一婦を守る)
黒田如水・・キリシタン大名(一夫一婦を守る)
大村純忠・・キリシタン大名(一夫一婦を守る)
毛利元就・・愛妻家、側室は正妻の死後に持った
徳川秀忠・・正妻の死後も側室を持たず
山内一豊・・側室を持たず
直江兼続・・側室を持たず
宇喜多秀家・側室を持たず

# by kfujiken2 | 2020-02-13 07:28 | コラム | Comments(0)
山口県旧県庁舎の前身・・・山口御屋形(おやかた)・山口城

幕末の長州藩主・毛利敬親が文久3年(1863年)藩庁を萩から山口に移した際につくられた山口御屋形(おやかた)・山口城。元治元年(1864年)10月に完成したものの、第一次長州征伐によって12月には破却を命じられた。しかしながら、藩の方針が武備恭順に転換したため、慶応2年(1866年) 5月山口屋形改築竣工。同年の第二次長州征伐では、政治・軍事の拠点として機能した。


◆ 山口御屋形(山口城)の歴史

元治元年(1864年)10月に完成 ───→ 12月 山口新御屋形(山口城)および諸関門を破却 ───→ 慶応2年(1866年) 5月山口屋形( 政事堂)改築竣工 ───→ 大政奉還後の明治3年(1870年)2月、政事堂から藩庁に改称  ───→ 廃藩置県を受けて、明治4年(1871年)城内に山口県庁を置く ───→ 明治6年(1873年)の廃城令によって廃城し、大正初期まで藩庁・県庁として使用 ───→ 山口県旧県庁舎および旧県会議事堂を大正2年に起工し、大正5年に竣工

※ 第一次長州征伐

周防国岩国領の第12代領主のち岩国藩初代藩主・吉川経幹(きっかわ つねまさ)は、第一次長州征伐では幕府との間で仲介役として奔走する。
征長軍の規模はおよそ15万これに対して、長州藩は外国との戦いなどで疲弊し、武備もまだ旧式で勝ち目はなかった。そこで、長州藩主・毛利敬親は、朝廷、幕府との交渉を岩国の経幹(当時35歳)に依頼した。長州藩は、正義派・俗論派の二つの派閥間で元治の内乱(功山寺挙兵)や大田絵堂の戦いなど、紆余曲折あり揺れ動いていた。
吉川経幹は極秘に岩国を訪れた西郷隆盛らと対面。敬親の謝罪状の提出や長州藩三家老(国司親相・益田親施・福原元僴)の切腹と三条実美らの追放、山口城の破却などを条件に、長州への攻撃を延期することを請い戦わずして敗北したこととなってしまったのです。

山口城内表御殿の正面玄関

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◆ 封建時代の城ではない、戦いを見据えた西洋式城郭だった

山口城(藩庁)の構えは、「八稜城」といい函館の五稜郭とおなじ西洋式の城郭であったとされます。山口城(山口屋形)は政務と補給を主目的とした後方の策源地としての役割を担った。
周囲を水堀と石垣で囲み土塁と砲台を配置した小規模な単郭式の平城であるが、北方と西方は丘陵地を背にしており、南方と東方は死角の無い八角稜堡式城郭となっていた。砲撃戦を想定し天守閣や櫓などの高層建築物は配置されなかったが、西方の丘陵地にあるかつての高嶺城を詰城としていた。城内の御殿は萩城の御殿や禁門の変の咎で没収された江戸桜田藩邸を解体したものが移築され、幕府には「屋形の移設」として申請された。
一部二階建ての御屋形は、明治から大正初期まで藩庁・県庁として使用されました。



山口御屋形差図 

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山口御屋形内部図面

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山口新御屋形表御門桝形地形之図

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※ 八角稜堡式城郭(りょうほしきじょうかく)


城のフォルムを星形やダイヤモンド形のように〝トゲトゲ〟にすることで、守備側から見たときの死角を一切なくしました。このトゲトゲの部分は「稜堡」と呼ばれ、星形要塞は「稜堡式要塞(稜堡式城郭)」とも呼ばれます。

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計画では函館の五稜郭に似た「八稜城」という西洋式の星型要塞にする予定であったが、情勢が緊迫化する中で建設時間の余裕がなく、堀を前面(東方と南方)のみに設けられたとありますが、山口御屋形の防御圏として北方と西方は丘陵地(茶臼山・長山・春日山・一露山など内ケ輪、障子ケ嶽・姫山・長者山・周慶寺山・江良山などを外ケ輪防御圏)を背にしておるので堀や土塁を造らなかったという説もあります。

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# by kfujiken2 | 2020-02-10 10:00 | 歴史 | Comments(0)
防府・山口のぶらり旅 ・・・ 山口県政資料館(山口県 旧県庁舎および旧県会議事堂) その②

【旧県会議事堂 】

建物は大正2年に起工し、大正5年に完成しました。
建築様式は その①【 旧県庁舎】で説明したように、れんが造りで内装は漆喰、外壁はモルタル仕上げ。玄関を中心に左右対称に建物が張り出したデザインは共通しており、シンプルで優美な西洋の後期ルネサンス様式を基調としながら、随所に斬新さが感じられる、大正時代の代表的な建築物です。



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〈旧県会議事堂1Fの平面図〉

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〈旧県会議事堂2Fの平面図〉

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◆ 上空から見ると旧県会議事堂は「山」、旧県庁舎は「口」という文字を形成し、合わせて「山口」となるのも非常に興味深いポイントです。

〈旧県会議事堂模型ですが、「山」の字に見えませんか?〉


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〈旧県庁舎模型ですが、こちらは「口」の字が!〉

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◆ 旧県会議事堂議場は1階南側中央壇上に議長席と演壇を設け、左右に説明員席、その前方に扇形に議員席を配する。2階は周囲三方を新聞記者席、公衆傍聴席のギャラリーとし、中央は大きな吹抜けとなっている。開放的ながらも、議長席や演壇は荘厳な雰囲気も醸し出しています。


〈議壇と議員席〉

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〈2階の新聞記者席、公衆傍聴席のギャラリー〉

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防府・山口のぶらり旅 ・・・ 山口県政資料館(山口県 旧県庁舎および旧県会議事堂)  その②_d0061579_9251332.jpg






























◆ 設計は、当時国会議事堂の建設準備を進めていた大蔵省臨時建築部で妻木頼黄(つまき よりなか)の教えを受けた、武田五一と大熊喜邦(おおくま よしくに)が行いました。


※ 武田五一は、備後福山藩(現・広島県福山市)出身です。「関西建築界の父」とも言われる日本の建築家でもあります。彼はヨーロッパ留学で影響を受けたアール・ヌーボー、セセッションなど、新しいデザインを日本に紹介した建築家とも言われています。建築以外にも工芸や図案・テキスタイルデザインなども手掛けた。自身の作品のみならず、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科や京都帝国大学(現・京都大学)に工学部建築学科を創立し向井寛三郎など多くの後進を育成した。

※ 大熊喜邦は、元旗本の父を持ち、東京府麹町に生まれました。第一高等学校を経て、1903(明治36)年、東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)建築学科を卒業しました。
卒業後は大学院に籍を置き、横河民輔の横河工務所に入所し、帝国劇場などの設計に関与しています。
1907(明治40)年、大蔵省臨時建築部技師に就任し、各国の議事堂建築の調査や、議事堂建設予定地の敷地調査にあたりました。一貫して官庁営繕に従事していましたが、最大のものが1920(大正9)年に着工した国会議事堂です。

※ 妻木頼黄は、青山幸道の子であり妻木氏を継いだ幕臣旗本の妻木源三郎頼功の長男として、1859(安政6)年に江戸で生まれました。幼名は久之丞でした。
父の頼功は、1862(文久2)年に長崎表立合御用として赴任しましたが、その直後に現地で没した為、久之丞は3歳で12代当主となりました。
1876年(明治9)年、妻木は家屋敷を売却し渡米しましたが、日本で学ぶよう諭され帰国します。
そして1878(明治11)年、工部大学校造家学科(のちの東大建築学科)に入学し、アメリカに留学しジョサイア・コンドルに学びます。帰国後は東京府に勤務し、1886(明治19)年、議院(国会議事堂)建設のための組織である(内閣)臨時建築局に勤めました。
妻木は辰野金吾の後輩に当たります。

※ 辰野金吾 : (1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、日本の建築家である。 工部大学校(のちの帝国大学工科大学、現在の東京大学工学部)卒業。工学博士、帝国大学工科大学学長、建築学会会長。設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。

# by kfujiken2 | 2020-02-06 09:59 | 歴史 | Comments(0)
防府・山口のぶらり旅 ・・・ 山口県政資料館(山口県 旧県庁舎および旧県会議事堂) その①
【 旧県庁舎】

隣り合わせに並び立つ山口県政資料館(山口県 旧県庁舎および旧県会議事堂)は、大正2年に起工し、大正5年に完成しました。
建物は後期ルネッサンス様式を基調とし、細部意匠に日本及び東洋の手法を取り入れた独創的なデザインが見られ、大正時代を代表する洋風建築です。

近代建築への発展を示す〈歴史資産〉として・・・、
工芸品のような美しさを観賞することができる〈美術品〉として・・・、
大正デモクラシーや大正ロマン、そして明治以降の日本のモダニズムに想いをはせる〈モニュメント〉として・・・、
県政の歴史を伝える貴重な〈行政資料〉として・・・、
私たちに、多様で豊かな〈まなざし〉を誘いつづけてくれると思われます。
「山口県旧県庁舎及び県会議事堂」は、庁舎建築史上に類をみない歴史的価値及び学術的価値を有しているとして、昭和58年9月27日に県の有形文化財に、そして翌59年12月28日国の重要文化財に指定された。

県庁舎・議会棟の両棟が現存するのは全国でも2例しかないとされています。


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いずれの建物もレンガ造りで内装は漆喰、外壁はモルタル仕上げ。玄関を中心に左右対称に建物が張り出したデザインは共通しており、シンプルで優美な西洋の後期ルネサンス様式を基調としながら、随所に斬新さが感じられる、大正時代の代表的な建築物です。正面玄関の列柱の1本1本は四角形と八角形を組み合わせたような独創的な意匠を持ち、彫刻のような美しさをたたえてます。またそのモチーフは建物内部の各所に用いられ、建物全体の調和を高めるとともに設計者の強いこだわりを感じさせます。

1階には警察部長室、食堂、新聞記者室などの他、土木課、会計課などの一般執務室を置き、2階には正庁会議室、知事室、内務部長など主要室の他、学務諜、勧業課などの一般執務室を設ける。


<1階平面図>

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<2階平面図>

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◆ 正面玄関の車寄せの列柱

「日本式細部」は、旧県庁舎の正面車寄の独立石柱の柱頭に最も顕著に表れています。
社寺建築の斗栱(ときょう、軒の荷重を支える組み物、肘木)を彷彿とさせる柱頭飾りには、その中央に凹凸の少ない平明なロゼット(花の形をあしらった円形の装飾文様)が配されています。
柱をよく見ると下の方は四角、途中は八角 、上の方はカーブを描いていますが、これは船肘木といってインド様式だそうです 。独創的な意匠を持ち彫刻のような美しさをたたえてます。


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◆ 正庁会議室

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◆ 歴代県知事写真展示

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◆ 知事室

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# by kfujiken2 | 2020-02-03 16:33 | 歴史 | Comments(0)
防府・山口のぶらり旅 ・・・ 洞春寺(とうしゅんじ)

洞春寺は1404(応永11)年に大内氏第26代盛見(もりはる)が開基となって天下泰平、家内繁栄の祈願所として国清寺(こくしょうじ)を創建しました。1431(永享3)年、盛見が筑前で戦死をし、国清寺を菩提寺として葬られました。国指定重要文化財の山門が当初の姿を今に残しています。
毛利氏が防長に移ってからは、毛利隆元(元就の長男)の菩提寺だった常栄寺となり、後に毛利元就の菩提寺として洞春寺と改称されたややこしい歴史があります。現在の洞春寺本堂は、江戸時代に焼失して再建されたものですが、山門は国清寺創建当時のものと思われます。



◆ 現存する洞春寺の山門は、大内氏の国清寺時代の遺構で、禅風の特色を表わした室町期の四脚門で桧皮葺による山門で国の重要文化財。

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山門に掲げられた寺号扁額
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山門をくぐると右側にある森永杉洞句碑

【この門を 入れば 涼風 おのずから 杉洞】

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※ 森永杉洞(本名堪堂、1900~1975)僧侶、俳人。15歳で出家。南禅寺管長の資格を持ちながら、望んで伊万里市の円通寺の住職で生涯を送る。


◆ 本堂手前にある中門


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◆ 洞春寺観音堂

洞春寺の境内にある。桁行三間(7.97m)、梁間三間(7.51m)の一重裳階(もこし)付の建物で、入母屋造りで、もとはこけら葺きであったが現在銅板で葺いている。この堂は1430年(永享2)に大内持盛が開基となり山口市滝に建立した観音寺の本堂として建てられたものであり、観音寺は江戸時代に大通院となったが、幕末には衰退して本堂一宇だけが辛うじて残っていた。その後荒廃が甚だしくなったので、1915年(大正4)に現在地に移築された。建物の手法は禅宗様で、柱の上下に粽(ちまき)、窓が特殊な曲線をもつ花頭窓(かとうまど)、扉が桟唐戸(さんからど)、内部の床が土間など、従来の和様の寺とは違う手法が見られる。また下層の軒が板軒であること、上層の垂木が大まばら垂木であることなども特異である。内部の須弥壇(しゅみだん)および岩屋造りの厨子(ずし)も建物と同時代のものとされ貴重である。


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◆ 中門の右側にある鐘楼門


洞春寺鐘楼門は、下層は通り抜けの門、上層は鐘楼という「鐘楼門」とよばれる造りをしている。
製作者・製作年代ともに不明だが、蟇蛙の手法や材の摩耗・腐朽の状態から、江戸時代中期の建築と思われる。


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◆ 本堂の裏側に井上馨の墓所(分霊塔)があります


井上馨の墓所は東京・麻布の長谷寺にありますが、その分骨を分けてつくられたそうです。
ここは四境戦争(第二次長州征伐)時に、長州藩の諸隊である鴻城軍(井上馨が総督)の駐屯地にもなったそうです。


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◆ 日産コンツェルン創始者・鮎川義介墓所(分霊塔)


多磨霊園に鮎川義介の墓所があるそうですが、洞春寺に分霊塔があるのは井上馨が大叔父という関係でしょうか?

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# by kfujiken2 | 2020-01-30 11:41 | 歴史 | Comments(0)
防府・山口のぶらり旅 ・・・「弾除け神社」と呼ばれた三坂神社
◆ 三坂神社について

御創立の年月日は、大体千三百年前と推察される。927年にまとめられた「延喜式神名帳」によれば、「周防国十座、佐波郡六座御坂神社」と記述されている。


場所:山口県山口市徳地岸見字樋ノ口557

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参道入口の一の鳥居

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参道二の鳥居

現在は石が風化して刻まれた文字は読むことが出来ませんが、二ノ鳥居の銘に「延書式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(1698年)戊陽月」とあり、長州藩4代藩主毛利吉広の寄進であったことが分る。
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◆ 弾除け神社としての存在


戦時中「日清・日露戦争の際、三坂神社に祈願して出征した氏子の兵士全員が生還した」と報道され、武運長久祈願のみならず、弾除け神社として知られるようになった。出征軍人の家族らが奉納した写真の数は2万枚を超えたといいます。


◆ 拝殿と足利尊氏が敷いたという参道の石畳

三坂神社は大きな神社ではないが、『周防徳地誌』に万葉集に「千早振る神の三坂に幣奉り祝ふいのちはおも父がため」と詠まれており、、正一位を授かり、豊臣秀吉公が三坂神社に参り五色の吹貫等を献納し、参道の石畳は足利尊氏が敷いたと記述があるそうです。
由緒ある神社ですよ~~~


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# by kfujiken2 | 2020-01-27 16:03 | 未分類 | Comments(0)
奇祭と言われている~光市室積・早長(はやおさ)八幡宮祭り~
TV番組 ダイドードリンコ 日本の祭り
・・・ 神社 まちを駆ける ~光・早長八幡宮秋祭り~ ・・・ を観て恥ずかしながら隣町・光市のお祭りを初めて知りました。


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【早長八幡宮の歴史】

江戸時代に瀬戸内海の交通の要衝として栄えた室積地域の氏神である。
文安元年(1444年)、豊前(大分県)の宇佐八幡宮を勧請したと伝えられています。
その地を早長の浦と呼んでいたので、この名をつけたといいます。
初め祀られたのは、宮ノ崎で、その後、人家がふえて、宮の脇に遷座し、寛文元年(1661年)に現在地に遷されたものです。荘園時代に京都石清水八幡宮の社領内にあった関係から、お祭りは京都の葵祭に似て豪華です。
祭礼は10月の第2日曜日に行われています。祭に引く山車は文化財に指定されています。


大鳥居から見える拝殿

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どんないわれがあるのか分らないけれど、雌雄の岩が祀ってあります。

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【早長八幡宮の伝説】

神人(じにん)の内蔵(うくら)という者が、早長の瀬に夜々あやしく光る物体を発見して、不思議に思い西ノ浦の漁師に網を入れさせてみたところ、一体の神像がかかった。内蔵はもったいなく思いそれを浜辺に祀った。ところがある夜のこと、又も不思議な夢をみた。
早長の瀬の二つの岩の間から、真っ赤な太陽が昇り始めどこからともなく一羽の大鳥が舞い降りてきて、岩の上で羽を休めたかと思うと、一声大空に向って鳴いた。
その鳴声が内蔵の耳にはこう聞こえた。
「早長や跡垂そめし雌雄の岩のうこかぬ千代の栄をも見ん」
(大意:ここ早長に神がおいでになった。いつまでもこの神を大切に祀り早長の瀬の二つの雌雄の岩が動かぬ如く千代に栄えのあるように)
やがて夢から覚めた内蔵は、これはきっと宇佐の神のおつげに違いないと、早速村人達にはかり、心を合わせてお社を建て土地の鎮守として祭った。
明治初期まで代々宮司を務めた潮見家はこの神人の子孫だと言われています。



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【早長八幡宮秋まつり】


江戸前期に始まり「エンヤ!エンヤ!」の掛け声で、揃いの法被、白の腰巻姿の若衆が、郷土色豊かな「木遣り唄」を歌いながら山車と踊山を曳き回す山車巡行です。

神社一式が町をかけ巡り、氏子におめみえするのですから、神社の出前です。普通、祭りは神さまが本宮に降臨し、宮司が祝詞をあげ、神様をお出迎えし、神輿にお移りいただき、神輿が町内を巡り、氏子衆におめみえし、お旅所で神様がお休み間、神楽などを演じ、おしまいとなるのが定番です。
しかし、この早長八幡宮の場合は違うのです。神社一式(鳥居、燈籠、こま犬、右大臣左大臣、鏡、聖船)が全て山車の上に作られているのです。それを町内8つの自治会の人が引っぱって町内巡りをした後で、お旅所に行き、そこで神社を組み立てて再び祭礼を行い、その日のうちに還御するのです。
おそらく日本国内でもあまり見ない風景です。奇祭の中の奇祭でしょう。しかも別仕立ての踊山には100人以上の子供が乗って大人がひく。また山車の中には子供だけがひくものもあります。町の人500人以上、子供300人以上、見物200人以上、町中の人が一体となって祭りをしているのです。



鳥居神輿  画像は早長八幡宮・光市室積山車保存会からお借りしました

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石燈呂神輿  画像は早長八幡宮・光市室積山車保存会からお借りしました

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※ 宮ノ脇御旅所: 山車が御旅所に着くと、山車の鳥居や石燈籠、高麗犬、随神、神輿等を配置して神社が再現され、そこで宮司がお祓いをします。


宮ノ脇御旅所

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# by kfujiken2 | 2020-01-20 16:42 | 未分類 | Comments(0)
時代を先取りした男・・・橋本左内

幕末・福井に、あの吉田松陰より凄い男がいた!


あなたは橋本左内という人物を知っていますか?
学校の授業では、安政の大獄で吉田松陰とともに処刑されたという程度しか教わらなかったと思います。 若くしてこの世を去ってしまったため、実際に橋本左内の活躍はあまり知られてはいません。
しかし、西郷隆盛を始めとする幕末の志士たちに大きな影響を与えた人物であることは間違いありません。橋本左内と西郷隆盛の関わりは、将軍の後継者問題の時に一橋派として活動したことが一つの要因でした。西郷は彼のことを「我、先輩においては藤田東湖に服し、同輩においては橋本左内に服す」とベタ褒めしていたそう。さらには西南戦争で西郷が自害した時も左内からの手紙を持ち歩いていたんだそうです。



橋本左内 福井市立郷土歴史博物館蔵(島田墨仙作)

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1834年(天保5年)福井藩医 橋本長綱の長男として生まれ、福井藩藩士で景岳(けいがく)を号と称する。1849年、大阪で大村益次郎や福沢諭吉らを育てた近代医学の父・緒方洪庵(幕末最高の蘭方医)・適塾で西洋医学を学ぶ。嘉永5年(1852)父・長綱が病気となり、勉強を打ち切って帰藩した。その後、福井藩主 松平慶永(春嶽)から御書院番(藩主直属の親衛隊)に抜擢され藩校・明道館の御用掛り・学監同様となり、在任中は明道館内に洋書習学所(洋学所)と惣武芸稽古所等を設け、藩主の側近として藩の政治、国の政治に大きな関わりを持つようになった。一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また英明の将軍の下、雄藩連合での幕藩体制を取った上で、積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことを構想した。またロシアとの同盟を提唱し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。 1859年、安政の大獄〔井伊大老が反対派を処罰した事件〕で幕府を批判した罪で政治犯として処刑される。享年26歳。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。

松平 春嶽

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『啓発録』の口語訳と現代語訳

自己規範・自己鞭撻の書であり、彼の思想や行動の根幹を成す。
「稚心を去る」「気を振う」「志を立つ」「学に勉む」「交友を択ぶ」の五項目からなる。


一 、余稚心を去るを以て士の道に入る始めと存じ候なり。
「 稚 心 を 去 る 」: 自 分 と そ の 運 命 を 変 え よ う と 思 う な ら 、 結 局 、 自 分 の 手 で何と か す る 以外 に 方 法は な い 。 その 第 一 歩 は「 稚 心 」、 つ まり 「 子 供 っ ぽい心」を捨て去ることである。

二 、気とは、人に負けぬ心立てありて、恥辱のことを無念に思ふ処より起る意地張りの事なり。振ふとは、折角自分と心をとゞめて、振ひ立て振ひ起し、心のなまり油断せぬやうに致す義なり。
「 気 を 振 う 」: 負 け て た ま る か 、 く じ け て な る も の か と い う 負 け じ 魂 こ そ がふる人を変えるエネルギーになる。常にそうした心を持ち、緊張をゆるめず油断のないようにしなければいけない。

三 、学とは、ならふと申す事にて、総てよき人すぐれたる人の善き行ひ、善き事業を迹付して、習ひ参るをいふ。
「 志 を 立 て る 」: 夢 や 目 標 を 持 て 。 自 分 の 心 の 向 か う と こ ろ を し っ か り と 決め、一度決心したからには、その方向を目指して絶えず努力するべきである。

四 、勉と申すは、力を推し究め、打続き推し遂げ候処の気味これ有る字にて、何分久しきを積み思ひを詰め申さず候はでは、万事功は見え申さず候。
「 学 を 勉 め る 」: 学 問 を 学 ぶ こ と は 大 切 で あ る 。 そ し て 、 そ れ を 世 の 中 の ためつとめに正しく生かすこともまた大切である。

五 、世の中に益友ほど有り難く得難き者はなく候間、一人にてもこれ有らば、何分大切にすべし。
「 交 友 を 択 ぶ 」: 互 い に 切 磋 琢 磨 で き る 良 き 友 を 選 ぶ こ と 。 自 分 を 高 め て くえられ、心から尊敬でき、何かあった時に、真剣に心配してくれる友達こそ、何よりも大切にするべきである。
# by kfujiken2 | 2020-01-12 09:59 | 歴史 | Comments(0)
誤解されている明智光秀と徳川慶喜  その②
敵前逃亡したと言われている徳川慶喜

江戸幕府第14代将軍・徳川家茂が亡くなったあと、第15代将軍・徳川慶喜がすんなり将軍になったように思われていますが、実は慶喜は将軍職に就くことを拒み続け、その結果として将軍職が4ヶ月空位となった期間があります。
徳川慶喜は、倒幕を目ざす薩摩藩・長州藩との直接対決を避けるため、大政奉還によって政権を朝廷に返上しました。しかしその裏には、朝廷には政権を運営する力がなく、新たな体制のもと徳川家が主導権を握れるだろう、という読みがあったのです。


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※ 徳川慶喜が敵前逃亡した将軍と言われる理由は・・・

大政奉還後、幕府はこの王政復古の大号令というクーデターを前面否定し、『戊辰戦争』の局面のひとつ、鳥羽・伏見の戦いが始まったのです。その鳥羽・伏見の戦いで、徳川慶喜は朝廷に楯突くことを極端に恐れ、官軍と名乗る薩長軍を前に、少数の家臣を連れて大阪城から江戸城に逃げ帰ってしまいました。
江戸時代の価値観から抜け出せない旧幕府軍は、慶喜の挙兵に喜び、再び時を江戸時代へ戻そうと熱くなっていたのです。そんな武士たちの求心力を解くには、「この将軍、ついていく価値などない」とがっかりさせるしかないでしょう。事実、慶喜が「逃げた」と知った武士たちは戦意をなくし、軍は解散しています。多くの日本人の命が救われたのです。



旧幕府と新政府の全面戦争が起きれば、日本を我がものにしたい外国勢力が飛びついてくるでしょう。特に旧幕府はフランス、新政府の中心である薩摩藩はイギリスと協力していたので、旧幕府対新政府の戦いがフランス対イギリスの代理戦争になりかねません。徳川慶喜は新政府軍への恭順の意思を示すことを選択し、勝海舟と山岡鉄舟と高橋泥舟の三人に全権を託し「江戸無血開城」を後押しした。

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江戸城総攻撃が行われていたら、当時世界最大規模と言われた江戸の町は火の海となり、100マン人の江戸の住民の多くは焼け死に、家を失っていました。江戸城無血開城により、江戸の町と多くの江戸の住民を救いました。
江戸が無傷で新政府の手に入った結果、都市の生産性が維持され、日本の首都が江戸から東京となり、新国家建設に大きな役割を果たしました。



渋沢栄一は、徳川慶喜に「侮辱されても国のために命を持って顧みざる偉大なる精神の持ち主」と、最高の敬意を示されている。
# by kfujiken2 | 2020-01-08 09:52 | 歴史 | Comments(0)
誤解されている明智光秀と徳川慶喜  その①

本能寺で主君・織田信長を討った明智光秀

天下統一を目前にした織田信長が家臣の明智光秀に京都・本能寺で討たれた事件は、光秀の動機や黒幕の存在などこれまで諸説紛々さまざまな推論や検証が飛び交っています。
「『本能寺の変』なかりせば…」と言われるが、実はあってもなくても結果は同じだったと言われています。信長が強烈な個性の持ち主だけに強大な政権だったと誤解しがちだが、案外弱いところがある。信長の専制的な性格が災いし、家臣団はしばしば仲違いやクーデターを起こして政権は不安定。本能寺の変の直前には臨界点に達しており、光秀が突出して大きな事件を起こしたのではなく、そういう土壌があったとみるべきだ。


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明智光秀は、織田信長に重用されたのは武将としてだけでなく、外交官としての側面も大きかった。外交交渉で高い能力を発揮し、無血で四国を切り取っていった手腕が評価されたのだ。
明智光秀は決して信長への恨みを晴らすために謀反を起こしたわけでも、ノイローゼで錯乱した状態で本能寺に攻め込んだわけでも、天下を横取りするためにクーデターを起こしたわけでもなかった。純粋に土岐の再興と盟友である長曾我部元親を守るそのため、泣く泣く主信長を討ったのだ。


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※ 明智家は土岐明智とも称する土岐一族で、光秀が家紋として用いた上の桔梗も、土岐桔梗紋と呼ばれる土岐氏の家紋だ。土岐氏とは室町時代に美濃を中心にし隆盛を誇った名家で、土岐氏最後の守護職であった頼芸(よりのり)は、斎藤道三の下克上によって美濃から追放され、これにより200年続いた土岐氏による美濃守護は終焉を迎えてしまう。


本能寺の変の直前、長曾我部元親はそれまで友好的だった織田信長に対し、所領問題で抗戦的な態度を見せていた。しかし両家が戦えば長曾我部の軍勢など、織田の軍勢の前では子ども同然だ。それは元親自身わかっていたはずだ。それでも元親が信長に敵対したのは、光秀の存在があったからこそだった。光秀であれば何とか信長を説得してくれるはずだと踏んでいたのだ。だがその目論見は外れ、信長は遂に長曾我部征伐軍を四国へと送ってしまう。


明智光秀は土岐縁戚である長曾我部を見捨てることが出来ない!
土岐縁戚である長曾我部を守るならば信長を討つしかなく、主に従うならば長曾我部の滅亡を黙って見ているしかない。果たして誰がこの光秀の苦しい立場を責めることができよう。


# by kfujiken2 | 2020-01-06 13:38 | 歴史 | Comments(0)
下松市の発展の経緯(下松の近世・現代史)

下松市の発展は、磯部家の塩田事業に始まり、矢嶋家の後継に続き久原房之助が日立製作所笠戸事業所の礎を築き、笠戸島船渠株式会社・日本石油下松製油所・東洋鋼鈑下松事業所の誘致の成功から、今日があるのではないでしょうか?
もし、大正初期久原房之助が計画した【幻の世界的大工業都市・「下松計画」】が成功していたら、下松市はどんな大都市になっていたでしょう!!!


塩田事業などで巨額の富を築いた豪商宮洲屋(磯部家)だったのだが、磯部家は幕末に没落したことから、毛利元功公が屋敷や塩田事業等を一旦引き受けており、矢嶋作郎 はその全てを買い取り、塩田事業も復興させたのである。矢嶋作郎の後継者・娘婿専平は、1917 年(大正 6)に久原房之助が発表した「下松大工業都市建設計画」 に賛同し、土地を提供。用地買収にも尽力した。矢嶋家の屋敷や塩田があったところは、現在の 東洋鋼鈑(株)下松事業所、(株)日立製作所笠戸事業所となっている。

磯部家はその始祖を遠く南北朝時代以前の菅原氏にまで遡ることが出来る。天正6年、争乱を逃れて宗安はその子常安を伴い此地に身を寄せ、下松屋磯部の初代となる。常安は出家して是頓と号し浄西寺の開基となった。下松屋5代時増は元禄15年東豊井の地を開墾、塩業を興し、自ら宮の洲屋と名乗る。宮の洲屋はその後大豪商となり、藩主毛利公へ御用金を提供し、藩札を発行、阿部、矢田部と共に周防の三部として全国長者番付に載る程となった。
宮洲屋は播磨屋とともに下松屋からの分家で、主として下松屋は海運業、宮洲屋は塩業、播磨屋は材木業を営み、すでに述べたように、それぞれに豪邸を構え、なかでも最も繁栄したのは宮洲屋であった。明治20年代に至って磯部家の塩田が矢島家の経営となり、その他の下松地域の塩田も塩田地主の交替があった。


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【覧海軒図】磯部家の館

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※ 宮洲屋幸吉が塩田地主として、成長して行く過程

徳山藩の通達で宮洲屋幸吉は畠開作をすることが許されている。しかし、宮洲屋幸吉は松原を畠にするために願い出たのではなく、本当の目的は塩田を造成することにあった。なぜ最初から塩田開発を願い出なかったのであろうか。徳山藩の通達が開作のための無税期間は三か年間、畠地から塩田にする期間は一〇年間とし、その間は無税とする。つまり、徳山藩府に、宮洲屋幸吉が当初から塩田開発で願書を出せば、藩府は一〇年間は開発期間として税を取ることはできない。しかし、当初畠開発として願書を出せば、開発期間の三か年が過ぎれば、四年目から税を徴収することができる。このため、藩府は藩収入の増徴策として、まず畠開作を許可し、その後に塩田開発願を出させたのであろう。

宮洲屋は、1715年(正徳5)、下松屋五代時増が家督を長男に譲り、次男とともに分家して興した家で、これよりさき1703年(元禄16)に宮ノ洲に12町余の塩田を開いたのを皮切りに東豊井沿岸一帯につぎつぎに塩田を造成して一大塩田地主に成長していった。徳山藩がその財政再建を宮洲屋の財力に依存したのも当然で、徳山藩では、幕末における藩札発行やその他の資金ぐりを宮洲屋の融資に頼ることが多かった。そして、藩財政との関係に過剰に力を入れたことが、宮洲屋が維新直後に急速に経営不振に陥り、塩田を手放す最大の要因となったのであった。


1905年(明治38年)から塩は専売制となり、10年から11年にかけて生産性の低い塩田は第一次塩田整理の対象となり、その後1929年(昭和4年)から1930年にかけて第二次塩田整理が実施された。日清戦争後、安い外国塩が輸入されるようになると国内塩は打撃をうけ、過剰生産される国内塩業の体質改善が必要となった。1912年(大正1年)下松塩田は、漸次工場用地として埋め立てられ、生産性の低い塩田は塩田整理の対象となり、下松塩田の面積は東部から減少していった。


【日立製作所笠戸工場】

第一次世界大戦中、世界的な船舶不足が深刻化しつつあり、そのような国際情勢のなかで、1917年(大正6年)春、久原房之助は神戸市の日本汽船株式会社内で鉄鋼造船地域の設立準備を進めていた。その過程で堀正一や矢島専平らと相談の結果、その地域を下松町に決定した。
計画内容は「防長新聞」によるとつぎのとおりである。
① 工業用地は下松町から太華村粟屋川に至る鉄道以南約90万坪とする。
② 前記の地域のほか、末武北村と久保村にわたった地域を職工とその家族その他18万人の居住地域とする。
③ 四か町村にわたる新市街に上水・下水・電車・劇場・公園等を設ける。
④ 第一期事業は恋ケ浜から九軒屋の鉄道以南の地とし、一年後から造船事業を開始して職工3000人の規模とする。
⑤ 三~四年以内に残りの土地と対岸に鉄工場を建設して事業を開始し、職工17000人の規模とする。
⑥ 土地の買収は強制的にしない。

このような大規模な計画が進められている途中、第一次世界大戦の軍需品生産のため、米国は1917年(大正6年)9月鉄鋼を全面輸出禁止とした。当時、日本では鉄鋼生産は軍部に握られ、国内調達は不可能であり、久原工場のような大規模な民間造船工場は大打撃をうけ、計画を変更せざるをえなくなった。
翌年10月の久原工場は土地買収から登記作業へ移り第一期工事が進行中であったが、計画を変更して小規模の造船工場建設とし、社名を日本汽船株式会社笠戸造船所と改めて、川崎車両株式会社車両課長古山石之助が所長に就任した。12月22日には大阪事務所と下松事務所を工場内に移して事務を開始し、職員職工の一部が就労した。本格的事業は、翌年1月から開始した。
1917年10月久原工場は名称を「日本汽船株式会社笠戸造船所」と改めた。日本汽船株式会社は久原鉱業株式会社が株式の大部分を持つ会社で、造船部門が別会社となった会社である。1918年(大正7年)4月ごろ、笠戸造船所は鉄道院から八六二〇型機関車の製造図面を借り、その製造に着手し、同年末に試作車が完成した。当時国内では手薄な機関車製造へ転換することになった。
日本汽船株式会社の経営不振から笠戸造船所は買収され、1921年(大正10年)2月4日日立製作所の付属工場となり、5月1日、日立製作所笠戸工場として登記された。工場長古山石之助は留任した。
日立製作所は、茨城県多賀郡日立町の久原鉱業所日立製作所であり、大戦景気とともに電気機械製作所として進展し、1920年2月に久原鉱業所から独立して株式会社日立製作所となった会社である。第一次世界大戦後の国内電力普及から、さらに発展して笠戸造船所を買収し、日立、亀戸、笠戸の三工場を持つことになった(同)。大正末年から昭和初年にかけての不況期のなかで経営は楽ではなく、深刻な労働争議が起こった。この間、国産で最初の電気機関車を製造し、1929年(昭和4年)からは客車の製造を開始した。


久原房之助
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創業当時の日立笠戸工場


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【笠戸島船渠株式会社】

1917年からの島谷汽船の島谷徳三郎や小野造船鉄工所の小野清吉らが笠戸島江の浦、東繁昌、松ケ浦の三字にわたり、山林八町九反、田畑五町五反の払下げと買収に着手し、同年12月、地鎮祭を行い、大阪鉄工所笠戸島工場を設立した。第一次世界大戦で一時事業が中止されたが、1918年(大正7年)12月から笠戸島船渠株式会社として経営された。

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【日本石油下松製油所】

1928年(昭和3年)10月、東京に本社を置く業界第一の日本石油株式会社は、関西や九州方面の需要に応じるため、新しい製油所を下松町宮ノ洲に「東洋一」と称された下松製油所が誕生した。

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【東洋鋼鈑下松工場】


1934年1月、大阪に本社を置く東洋製缶株式会社は、原材料のブリキの製造を目的とする東洋鋼鈑工場を八幡製鉄所に近いこと、海陸の交通の便がよいこと、良質の水が得られること、の三条件にあった尾道・下松・若松の三カ所に限定して、さらに綿密な調査を続け、最終的に下松に設立した。

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高碕達之助


※ 高碕達之助(たかさき たつのすけ)は、1917(大正6)年6 月25 日に東洋製罐株式会社を設立し後に、東洋鋼鈑下松工場を設立した。高碕達之助ははブリキの自給について本格的に検討し始め、国産ブリキの第一号は1923 年に日本製鉄が生産したものであったが、缶詰に使えるような高品質なものではなく、大正から昭和初期のころは大半を輸入に頼っていた。
大阪で創業した東洋製罐株式会社の原材料のブリキ製造のため、下松に1934(昭和9)年資本金500万円で東洋鋼鈑株式会社を設立ときも鮎川義介の斡旋によるものでした。つまり鮎川義介は、久原房之助が下松計画を実行する為に買収した莫大な土地を保有していた久原鉱業の経営を、ゆだねられ管理していたのです。


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# by kfujiken2 | 2019-12-26 17:35 | 歴史 | Comments(0)
新1万円札の顔 渋沢栄一
2024年に20年ぶりに刷新されることになった紙幣のデザイン。
一万円札の肖像画には、「近代日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一が決まった。渋沢栄一は社会に利益を還元する信念のもと、生涯で約500の企業の設立、
約600の社会公共事業に関わっていたが、実は証券市場の誕生にも関わりが深い。

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渋沢栄一は1840年2月13日、埼玉県深谷市に農家の息子として生まれた。
幼い頃から父や従兄弟から学問を学び、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣、平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟、徳川昭武(後の水戸徳川家11代当主)の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。その間、日本では大政奉還となり、約260年続いた江戸時代が幕を閉じる。帰国後、明治維新を迎えた日本で、渋沢は静岡に「商法会所」(銀行と商社の業務を行う合本組織)を設立し、養蚕業の普及や地域における農業の振興にも尽力した。
その後は明治政府に仕え、大蔵省(現・財務省)で新たな国づくりに奔走する。


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渋沢栄一は「日本資本主義の父」と言われ、500近い会社の設立に尽力。第一国立銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)や東京株式取引所(現:日本取引所グループの東京証券取引所)、王子製紙,大阪紡績、東京ガス、東京海上火災(現:東京海上日動火災保険)、帝国ホテル、開拓使麦酒醸造所(現:サッポロビール)など、今も歴史を積み上げている大企業も多い。
会社のあるべき姿として「合本主義」(がっぽんしゅぎ)を提唱しました。つまり、一人の出資者が会社の持ち主として支配するのではなく、多くが出資者として企業の設立に参加して、事業から生じる利益を分け合うという考え方です。また、民間企業である以上、利潤の追求は当然ですが、私益のみを追求するのではなく、社会の発展を実現するために必要な人材と資本を合わせて、事業を推進するという考え方です。「合本主義」の内容は、株式会社とほぼ同じとされてきましたが、どうも違うようです。

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当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。
学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。

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              一橋大学兼松講堂

# by kfujiken2 | 2019-12-21 09:04 | 未分類 | Comments(0)
年賀欠礼状
喪中のため年末年始のご挨拶は失礼させていただきます

五月に 義弟 が永眠いたしました
本年中に賜りましたご厚情に深謝いたしますと共に

明年も変わらぬご交誼のほどお願い申し上げます
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# by kfujiken2 | 2019-12-20 14:20 | 未分類 | Comments(0)
歴史と史跡と紅葉を求めて・・・宇部を探訪 パート3
◆ 宗隣寺 龍心庭(そうりんじ りゅしんてい)


宗隣寺は奈良時代に唐僧の為光和尚が開き、江戸中期に長州藩永代家老・宇部領主の福原氏15代福原広俊が福原氏の菩提寺として再興した臨済禅の名刹です。


山門をくぐると正面に本堂が見え、山門の側に宗隣寺庭園の石碑があり説明板が立っています。スピーカーから流れてくる説明を聞きながらしばらく見とれていました。池の形は心という字になっている。小石を敷き詰めた干潟様式の古庭園は岩手県の毛越寺と当寺だけだそうです。庭に下りることが出来なかったので池の全容を撮影出来なかったのが残念です。


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本堂の北側(裏側)にある「龍心庭」は、山口県最古の庭園(南北朝時代に築庭 約650年前)池泉式庭園で全国唯二つしかないという山畔を利用した池庭で、特に奇岩巨岩を用いず池の中に二列直線八石夜泊石を配しただけで、護岸石組みも枯滝や出島の主なものにとどめた閑寂な趣きで、禅の真髄を説いているといわれている須弥山式禅宗庭園で、国の名勝庭園に指定。
紅葉に彩られた華やかな景観には誰もが息を飲み、格別の趣があります。



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宗隣寺の屋根瓦には、2種類の紋が刻まれています。
藩主を支える福原家の家紋は、毛利家になぞらえた「二に三ツ星紋」ですが、藩主と似通った紋を使うのは畏れ多いことから、生命力が強く子孫繁栄を意味する「カタバミ紋」を裏紋として使用していました。


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◆ 福原史跡公園


宇部の領主福原家は毛利藩の永代家老として萩堀内の屋敷に暮らし、宇部の邸は「敷地面積9,600㎡(約2,900坪)」で 御田屋(おたや:遠方の田地を経営するために設けられた建物)と呼ばれており、維新当時の領主福原越後公の邸跡です。邸内の遺構等は不明であるが、平屋建て二棟と土蔵一棟があったようである。現在は祠、井戸、巨樹などをとどめているにすぎないものの、屋敷全体はよく保存されており、江戸時代の宇部の歴史を理解する上で貴重な遺跡である。1976年(昭和51年)、市の史跡公園として開放された園内には、井戸の跡、屋敷神、樹木が残存しています。


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入り口の楼門は萩屋敷の正門(県有形文化財)を3分の2に縮小模造したもので、階段は神原公園にあった福原越後公銅像の台座が使われています。


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# by kfujiken2 | 2019-12-01 17:49 | 未分類 | Comments(0)
歴史と史跡と紅葉を求めて・・・宇部を探訪 パート2

◆ 世界を旅する植物館

「世界を旅し、感動する植物館」をコンセプトに、原産地の植生を再現した8つのゾーンに推定樹齢1000年超のオリーブやバオバブ、パラボラッチョ、ボトルツリーなど、特徴的なシンボルツリーを植栽。世界を旅するように珍しい植物や花、果実に出会うことができます。また、ときわ公園で作出された美しい花を咲かせるオリジナルサボテンは、他では見ることができない貴重なサボテン。このほかにランやカトレア、食虫植物なども展示しています。

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珍しい植物や花、果実を抜粋してご覧頂きます。

① ヒカゲヘゴ

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② バンダ セルレア

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③ バンダ オーランティアカ

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④ カブダチビンロウジュ


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⑤ タコノキ 

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⑥ タッカ インテグリフォリア


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⑦ パキスタキス ルテア 

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⑧ ポンド アップル


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⑨ 武倫柱(ブリンチュウ)

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⑩ 金鯱(キンシャチ)


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# by kfujiken2 | 2019-11-29 10:28 | 未分類 | Comments(0)
  

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