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私塾は、幕府や藩が設置した教育機関とは異なり、一定の枠にはまらず、塾主の個性と、
有志者の自発性を基盤として発展した教育機関である。特に、江戸時代後期に活発な活動が 見られ、多くの有能な人材を世に送り出している。 「私塾」には、咸宜園(大分・廣瀬淡窓)、鳴滝塾(長崎・シーボルト)、松下村塾(山口・吉田松陰)、 適塾(大阪・緒方洪庵)、洗心洞塾(大阪・大塩平八郎)、梅花塾(大阪・篠崎小竹)等があり、 世に知られている。 長州藩の代表的な【私塾】を紹介しましょう!!! ◆ 松下村塾 松下村塾は1842年(天保13年)に松陰の叔父、玉木文之進が自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けた。 継いで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、子弟の教育にあたり、 1857年(安政4年)に藩校明倫館の塾頭を務めた吉田松陰がこれを引き継ぎ、 1858年(安政5年)に勝因が野山語句に際投獄され廃止された。 ◆ 清狂草堂(別名:時習館) 柳井市遠崎妙円寺の境内にあり、幕末の勤皇僧、詩人。オランダ軍艦を見て衝撃を受け、 諸国を遍歴して勤王の志士らと交わり、海防の策を講じたので「海防僧」と称せられた僧月性が ひらいた私塾は、嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)頃までの約七年間。 吉田松陰とも交わりがあり、門下生に奥州鎮撫使参謀となった世良修蔵や3代目奇兵隊総督と なった赤祢武人、本願寺の重鎮となった大州鉄然、諸隊の脱隊騒動の首謀者とされる大楽源太郎ら 多数の人材がいた。 【清狂草堂】 ◆ 山口講堂[山口講習堂] 1813年(文化10年)長州藩は、上田鳳陽を儒役に任じ、中河原の御茶屋(公邸)の前に山口講堂を設置して山口在住諸士の教育を開始した。 45年(弘化2年)同所は山口講習堂と改称し、萩明倫館、三田尻越氏塾に次ぐ学問所となった。 60年(万延1年)山口講習堂は萩明倫館の直轄となり,翌年中河原から亀山の東麓に移転し, 重要な藩の人材養成機関となった。 山口講堂こそが山口大学の「基」なのである。 ◆ 越氏塾[三田尻講習堂] 儒医・河野養哲が自宅に三田尻御船手組の子弟を集めて開校した私塾で、 その時期は藩校明倫館以前に遡る。明倫館創設の際には、高弟の山根華陽らが同館の教師に 登用された。1767(明和4)年に明倫館の付属校となり越氏塾と公称の後、明倫館の支配を離れて 三田尻の郷学となっている時期もあった。 宝暦9年(1759年)、養哲の33回忌にあたって、門弟の山根華陽・小田村公望らが、 養哲の遺徳をしたい、碑を上ノ丁の越氏塾に建立した。 現在、その碑は華浦小学校の校庭に移転されている。
by kfujiken2
| 2012-12-27 09:06
| 歴史
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Comments(1)
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