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撫育方(ぶいくがた)とは・・・
長州藩においては、中興の祖といわれる第7代藩主毛利重就による 宝暦の改革が行われ、藩の経済的自立及び貨幣経済の発展をもたらした。 宝暦11年(1761年)、長州藩は検地を執り行い、4万石の増収を得た。 しかし、この増収分は負債返済には充てず、特別会計に回して 撫育方(ぶいくがた)と呼ばれる裏金作りの機関を発足させた。 撫育方は米、紙、塩、?(ろう)の増産に励み、港湾整備も行って増収と 蓄財に務めた。撫育方が必死に溜めた資金は負債には回されず、 非常時のために取り置かれた。長州藩のこの隠し財産の積み重ねは、 幕末までには莫大なものとなり、それが倒幕用の武器購入資金となるのである。 しかし、それは一般会計の負債や、藩士や領民の窮乏を無視してのものであった。 ◆ 長州藩撫育方室積会所跡 瀬戸内海側の室積・中関(防府)・伊崎(下関)の三つの商業港を整備して、 会所(役所)を置き、北前船などと商取引を行わせた。 室積の会所の設置は明和六年(一七六九)といわれる。 安永二年(一七七三)からこの地を藩が買い上げて役所とし、 藩内各地の米蔵を移築して、主に藩の年貢米をここに集めて 売り捌く仕事を行っていたので、「御蔵会所」とか「お米売捌き会所」 とも呼ばれ、この附属小中学校の敷地一帯に、役所と多くの米蔵や 銀子蔵が次第に増改築され、荷揚げ用の波止(現在の海に張り出した施設部分) も築かれた。 さらに、藩の資金やこの蔵を使って越荷方(こしにかた)を設置し、 ここを通る藩外の船を対象に倉庫業や金融業を地元商人に行わせたので、 港や町は多くの廻船や商人が出入りし、近隣から多くの商人が住み着いて賑わった。 明治時代にはこの会所跡地に熊毛郡役所が置かれ(明治十二年)、 役所移転後(明治三十六年)は山口県立工業学校、さらには師範学校(大正三年開校) から女子師範学校、山口大学教育学部と、次々に学校が置かれ、現在に至っている。 この画像は、「光ふるさと郷土館」に展示してあったものを、 了解を得まして撮影させて頂いたのですが・・・ 写真に写っているのは、付属中学の生徒さんではないかと想像します。 撫育方室積会所跡地に付属の学校を建てた言われていますが、 蔵の一部はかなり後世まで残っていたと思われます。
by kfujiken2
| 2015-05-14 13:25
| 歴史
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Comments(1)
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