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【21世紀フラワーファーム】

春葉のブログ~心の声を墨にこめて~



長州藩と会津藩の真実

【下松地方史研究会:秋季特別歴史講演会】 “長州藩と会津藩 ~長州藩に正義あり~”
山口県文書館副館長や毛利博物館館長を歴任された小山良昌先生の講演を拝聴して、
私なりに調べてみました。


【長州藩と会津藩の関わり】


会津藩は八月十八日の政変や禁門の変(蛤御門の変)、更に第1次・第2次長州征伐(四境戦争)と幕府方の
中核として尊皇攘夷派の排除を行った。明治維新を勝ち取る戦いとなった戊辰戦争は、1868年(明治元年)の鳥羽・伏見の戦いから、翌年の1869年(明治2年)の五稜郭(現在の函館市に)の戦いまで、旧幕府側と新政府側との一連の戦いである。最後は東北や北海道にまで向かう戦いだった。
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した松平容保は、新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、受け入れられなかった。
会津藩が一時期幕末の政局のリーダーシップを握りながらも、最終的に戊辰戦争に突入せざるを得なくなったのには、「悲劇」という二文字だけでは片付けられない、必ずやその理由や藩の命運を左右した分岐点、すなわち歴史上のターニングポイントがあったはずなのです。


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① 会津藩がなぜあのような運命を辿ってしまったのか?


将軍慶喜の命で会津藩主松平容保は鳥羽伏見で薩長と対戦しますが、戦い半ばにして容保は慶喜に連れられ
江戸に逃げ帰りました。薩長にとって会津藩は分かりやすいスケープゴート(身代わり)になってしまったのです。その後の戊辰戦争では、恭順して難を逃れた慶喜の身代わりに血祭りにあげられたという感じでしょうか。
会津では藩校などで子供の頃から儒学を徹底して教え込むなど、じつに生真面目な忠君愛国的精神風土がありました。そのまじめさがゆえに柔軟さを欠き、世の中の動きに柔軟に対応できなかったのではないかと思います。かつては攘夷を唱えながら、英国に敗れたとたん手のひらを返すように英国と手を結んだ薩長のような変わり身の早さなどありませんでした。
愚直なまでに謹厳実直な会津藩に同情したり賞賛する人は多いに違いありません。
幕府に裏切られたというより、勤王の意味のちがいでしょう。
慶喜は、とにかく天皇に逆らうのは逆賊だから、という形式的大義名分で、抵抗をやめた。
それにたいして、会津は、薩長こそ国賊だという認識があったから、最後まで抵抗したのでしょう。
会津は単に幕府に忠誠を誓っていただけでなく、第一の勤王家だったんです。

薩長は、幕末には既に、経済市場の確立や財政改革や西洋式軍制、市民平等・国民皆兵の思想が出来上がっていた。しかし、会津などの佐幕藩は、幕末ぎりぎりの時点でもまだ旧態依然とした時代の中に眠っており、先見の明がある優秀な人材もおらず、藩主以下が固陋な思想と行動に縛られていたのです。


★ 会津藩は愚直なまでに謹厳実直で、机上の武士道や道場での武芸盛んだったが、戦争経験が皆無だった。

② 会津藩の歴史上のターニングポイントがどこにあるのか?


尊皇攘夷派の急先鋒であり、朝廷を陰から操ることによって政局をリードしていた長州藩は、「八月十八日の政変」により、一気に朝廷内での勢力や実権を失い、京の都を追われることになります。この「八月十八日の政変」という大きなクーデターで、当時隆盛を極めていた長州藩が京都から追い落とされることになったのは、当時京都守護職を務めていた会津藩と薩摩藩という二大雄藩が提携(同盟)したことが大きな原因となっています。会津と薩摩、この両藩が提携しなければ、「八月十八日の政変」という一大クーデターは成功しなかったどころか、発生することも無かったであろうと考えられます。

明治維新において、薩摩藩があれだけの活躍と存在感を示すことが出来たのは、島津久光の統制主義の元に、西郷や大久保といった有能なリーダー達がよく実務をこなしたからであると思います。島津久光の統制主義と西郷や大久保の突出したリーダーシップや政治力との間の歯車が上手く合わさった結果、薩摩藩が明治維新における大きな原動力を生み出したと考えられます。
当時の会津藩主・松平容保は京都守護職を務め、孝明天皇の覚えも目出度く、京都では非常に大きな勢力を持っていましたから、まず「手を組むなら会津藩」という前提の元で、島津久光自身から「情勢を見届けた上で、会津藩と提携せよ」という具体的な指示が出ていたのではないかと推察しています。 


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長くなりますので今日はここまでと致します。
【長州藩と会津藩の軋轢】 【会津藩の圧政と会津藩士の実態】 【英国公使館の医師・ウィリアム=ウィリスの証言】 ★「遺体埋葬禁止令」の事実 等は明日にでもアップします。

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by kfujiken2 | 2016-11-28 10:23 | 歴史 | Comments(0)
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山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
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