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長州より発信


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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幕末 下松に天才の医者がいた !

大阪・適塾の5代目塾頭になった男
飯 田 柔 平 (いいだ じゅうへい)

◆ 飯田柔平の横顔

 飯田家は、下松市元町山口銀行前のおおたや衣料店の所に家があり、代々医者であった。
天保末に西豊井の蘭医・飯田元敬の長男として生まれた。17歳のころ。弟秀輔と当時蘭学・医学で一世を風靡した、大阪の緒方洪庵が創設した適塾に入門し、若くして塾頭(5代目)に抜擢され、全塾生を統括すると共に教授にも当っていた。
 その後更に、学術の奥義を極めんとして江戸遊学を志したが実現に至らず、郷里下松に帰り医学のかたわら蘭学の研鑽(けんさん)に専念した。
帰郷後間もなく病床に伏する身となり、33歳の若さで他界した。1867年(慶応三)に開業した飯田柔平塾は、初代柔平の妹サダに迎えた養子が柔平と改名して医業を継ぎ、あわせて寺子屋を開いたものである。下松市西教寺の過去帳によると、飯田杏仙に始まっているが杏仙の時に下松に来往したものと思われる。


◆ 飯田柔平のエピソード

① 適塾破門事件

 適塾生の中には、色々な人間がいる。福沢諭吉のように緒方洪庵や洪庵の妻・八重を両親のように慕い、深く愛された弟子もいれば、逆に塾則に違反し不始末をしでかして、洪庵の怒りをかい破門された弟子もいる。
 塾生名簿である『姓名録』にも「故あって破門」との書き込みが見られるのは、塾頭・飯田柔平である。女色放蕩が原因で緒方洪庵から破門を命じられている、つまり酒や女に溺れて不良行為を重ね、塾生の本分である学業を放棄することであった。
 その破門の背景には、洪庵の妻・八重の強い意向が働いたケースであった。八重はいくら優秀な塾生であっても、女遊びにウツツをぬかすことだけはあってはならない行為として許さなかった。学問の世界で一人前になるには、正しい性道徳を身に付け自らを律する人間にならなければならないと、八重は信じていたようです。
 けれども柔平の才能を惜しんだ洪庵は、嘉永2年(1849)に破門を解き塾頭に復帰させた。以後不良行為はなくなったようだが、八重は洪庵の寛大な処遇に反対で、柔平を嫌ったままであった。

② 飯田柔平が福井行きを計画
 八重との軋轢(あつれき)で塾に居づらくなった柔平は、越前国福井藩に就職口を求めようと、嘉永3年に入門した橋本左内に内々に斡旋を頼んだ。橋本左内が福井藩の蘭学振興のための緒方塾塾頭であった飯田柔平を推挙しようと努力していたが、飯田柔平の弟秀輔が売婦家で性病にかかり、さらに咽頭部痛、骨痛をも併発し、全身衰弱も著しくなったため、緒方洪庵は秀輔に退塾して保養するように命じたが、そのような経済的余裕はなく柔平も兄として病気の弟を一人で帰国させることは出来なかった。こうして飯田柔平は弟を連れて帰国する羽目になった。つまり柔平は福井に赴くことを断念せざるを得なかったということです。

◆ 幕末・維新期における飯田家の人々

 飯田杏仙(天保3年[1832]10月16日死去)のあと、飯田家を継いだのは玄敬(もと元敬 嘉永5年[1852]3月12日死去)である。玄敬はもと西岡姓で、杏仙の娘と結婚した。
玄敬には3人の男子と2人の女子がいた。長男は柔平(三江・節堂)で、文久元年(1861)8月19日に死去した。次男は秀輔で、安政2年(1855)10月2日に死去。三男は碩造で、慶応3年(1867)に死去。
二人の娘のうち、長女は龍といい、文久元年6月12日に死去。次女はサダで、大正2年(1913)12月21日に死去しているが、飯田家を継ぐ男子がいなくなったため、ただ一人残された次女サダに婿養子を迎える、婿養子として飯田家に入ったのは、前田精造の次男・精研である。後に柔平と改名。墓碑には、「後代柔平」と記されている。後代柔平は明治20年10月5日に死去した。精研が柔平と名乗ったことにより、後世、初代柔平(三江・節堂)と後代柔平(精研)が混同される。後代柔平には子がいなかったので、片野政熊を養子に迎えた。
政熊は医師として活躍したが、中原南天棒に弟子入りして禅宗に帰依し、欓隠(とういん)の居士号を与えられた。この飯田政熊の子が飯田無二氏(元大阪大学医学部産婦人科講師・徳島大学医学部産婦人科教授、のち同大学名誉教授)である。

(注) 画像をクリックすると大きい画像になります。
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飯田柔平の名が記載されている書籍を2点ご紹介しましょう!

① 【山口県教育史】上巻(山口県教育会 1925年)が最も古いものと思われます。
   同書には、「毛利氏藩政時代」の山口県の各郡における「手習場又は私塾の経営者」一覧が 
  載せられており、周防国都濃郡の項に「飯田柔平(医)」の記載がある。
②  田中助一【防長医学史】下巻(防長医学史刊行後援会 1953年)


表紙
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第二章 「毛利氏藩政時代」
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第二十九節 手習場又は私塾の経営者
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都濃郡の項に飯田柔平(医)の名前が記載されている

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防長医学史 主なる私塾と医家

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防長医学史 飯田柔平
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※ 蛍光ペンを塗っている所に飯田柔平の名前の記載があります。

飯田柔平が入門した大阪適塾の創設者・緒方洪庵や、大阪適塾のことについて少し説明しましょう・・・


◆ 大阪適塾の創設者・緒方洪庵
 (文化7年7月14日(1810年) - 文久3年6月10日(1863年)は江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
生まれつき体が弱く、病気がちであったということも遠因であったかもしれませんが、洪庵は怒りをあらわにしたり門下生を叱ったりなどということがほとんどない、穏やかな人柄であったようです。また、何事にも礼を尽くす人であり、自分の親や妻の両親、そして何よりも師匠に対して非常に真面目にかつ謙虚に接していたようです。
福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。
日本最初の病理学書『病学通論』を著し種痘を広め、天然痘の予防に尽力した。 


緒方洪庵

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◆ 適塾とは
 適塾(てきじゅく)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。また、適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来である。幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、現在の大阪大学医学部及び慶應義塾大学の源流の1つとされている。
 1838(天保9)年、大坂・瓦町に医院とともに開いた7年後、いまも建物が残る過書町(現中央区北浜3)に移転し、計24年にわたって種痘法やコレラ治療法の研究を進めました。1846年に設立された除痘館は、1858年には江戸幕府が公認した最初の種痘所となりました。


【大阪 適塾】
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◆ 適塾の特徴
第一は、政治に距離を置き、地道な学問に徹したこと。
第二は、塾の運営が塾生の自治によってなされ、個性的・創造的側面を備えていたこと。
 塾を統括する者として塾頭が設けられ、その下に塾監という役がありました。学級わけは7級~8級に分けられており、入学したての者が割り当てられる初級から、最高である最上級まで設けられていました。
各級は15人前後からなり、それぞれがほぼ5日~6日に一度の割合でテキストに書かれている
オランダ語の解読を行う、会読という問答試験のようなものがありました。会読をする際には塾頭や塾監、1級生などが会頭になって会読を受け持ち、会読の結果を見て会頭が各人を採点する、というものでした。この会読での採点結果で3ヶ月間連続で首席を取った者が上級へ進級できるという具合です。 現代の進学塾のような仕組みを江戸時代末期の適塾は採用していたわけです。


◆ 適塾の主な門下生

開塾24年間で、およそ3,000人の門下生いたと伝えられている。
池田謙斎- 東京帝国大学初代医学部綜理。日本では初となる医学博士号を受ける。
石阪惟寛(いしざか いかん)- 陸軍軍医総監。
石田英吉- 海援隊隊士。貴族院男爵議員。
大鳥圭介- 蝦夷共和国の陸軍奉行。明治後学習院院長。駐清公使。男爵。
大村益次郎- 村田良庵という名で入塾。日本近代陸軍を創設。靖国神社創建を献策。
久坂玄機- 塾頭を務めた。久坂玄瑞の兄。
佐野常民(さの つねたみ)-( 日本赤十字社初代総裁。伯爵。
杉亨二- 日本の統計学者、官僚、啓蒙思想家、法学博士。日本近代統計の祖。
高松凌雲- 箱館戦争の際の蝦夷政府軍の病院長。
高峰譲吉- 科学者、発明家、世界初のアドレナリンの発見。胃腸薬タカジアスターゼで巨万の富を築く。
武田斐三郎- 五稜郭の設計・建設者。
長与専斎(ながよせんさい)- 内務省初代衛生局長。衛生思想の普及に尽力する。
橋本左内- 若くして安政の大獄で処刑。
花房義質- 明治・大正期の外交官。宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長。男爵。
福沢諭吉- 慶應義塾の創立者。
箕作秋坪(みつくり しゅうへい)- 三叉学舎の創立者。
本野盛亨(もとの もりみち)- 日本の官僚、実業家、子安峻らとともに読売新聞社を創業。
柏原学而(かしわばら がくじ)(孝章)- 最後の塾頭。緒方洪庵病没後、徳川慶喜の侍医となる。

◆ 適塾の歴代塾頭 

初代 緒方洪庵2代 奥山静寂3代 久坂玄機4代 大村益次郎
5代 飯田柔平6代 伊藤慎蔵7代 渡辺卯三郎8代 栗原唯一
9代 松下元芳10代 福澤諭吉11代 長與專齋13代 柏原学而


久坂玄機が3代目、大村益次郎が4代目、飯田柔平が5代目と長州出身者の塾頭が3人続いてます。久坂玄機は1847年に客分の処遇で入門、大村益次郎は1846年に52番目の入門、飯田柔平は天保年間(1830~1843)に11番目の入門と記載があります。
では、飯田柔平の方が大村益次郎より入門が早いのに、塾頭に抜擢されるのが遅かったのかという疑問は、上記に記したように飯田柔平が一時破門され、再度破門が解かれたその間に大村益次郎に逆転されたのではないかと解釈します。


適 塾 門 下 生 一 覧

飯田柔平の名前が記載
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大村益次郎の名前が記載
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参 考 文 献
●【山口県教育史】上巻
● 田中助一著 防長医学史 下巻
● 中田雅博著 緒方洪庵 -幕末の医と教え-
● 梅渓 昇著 緒方洪庵 (人物叢書)
● 村田路人著 周防国都濃郡下松町飯田家文書七点の紹介
適塾生飯田柔平関係文書その他
● 宝城興仁編 下松地方史研究 第八輯 下松人物誌

by kfujiken2 | 2017-03-31 14:44 | 歴史 | Comments(0)
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