赤禰(赤根)武人・奇兵隊総督から失墜した男の哀しい最期!!

【概 要】

 松下村塾のメンバーは、尊王攘夷を掲げて時代の渦に果敢に挑みますが、明治という新しい世を見る前に命を落としてしまう者も大勢いました。赤禰武人(あかねたけと)もその一人です。
 赤禰武人は高杉晋作と仲が良かったとされ、晋作が作った奇兵隊の3代目の総督も務めています。しかし、仲間たちとの信頼関係が上手く構築できなかったためか、やがては長州藩を去り、哀れな最期を迎えることになります。

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【赤禰武人の容貌と経歴】

 すっきりとした顔立ちが印象的な肖像画があります。しかしそれは、容貌が似ていたという実弟の写真を元に、近年描かれたもの。武人の晩年に会った人物は、「白皙(はくせき)長身、眉目清秀(びもくせいしゅう)ノ偉丈夫(いじょうふ)ナリ」と書き残しており、実際に色白で背が高い、美青年だったようです。
 1838(天保9)年、柱島(現 岩国市)の医師・松崎家に生まれました。遠崎村(現 柳井市)の僧・月性や萩藩重臣浦氏の郷校・克己堂に学び、1856(安政3)年には吉田松陰の松下村塾門下生に。翌年、浦氏家臣・赤禰家の養子となります。実際に赤禰武人が塾に在籍した期間は2か月程度とされていますが、その間に高杉晋作らと深い親交を結んだようです。
 やがて、京都に上り吉田松陰とも交流があった小浜藩の梅田雲浜が開いていた南望塾に入門。松陰と雲浜という、2人の師の下で学んでいます。安政の大獄で梅田雲浜が捕えられた時には一緒に投獄されてしまいますが、武人だけは釈放されています。松陰が亡くなってから、晋作が御楯組を結成するとそれに加盟し、英国公使館の焼き討ちには斬り捨て役として参加しています。


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【奇兵隊総督時代】

 高杉晋作が作った奇兵隊に参加して、高杉晋作が総督の座を辞めた後には、3代目の総督の座についています。しかし、赤禰武人は奇兵隊の総督として戦った下関での四国連合艦隊との戦いで、日本と外国の軍事力の差を痛感し、攘夷に対する無謀さを思い知り総督を辞任。総督の座を山縣狂介(有朋)に譲っています。攘夷の無謀さを痛感してからの赤禰武人は、ただ声高に外国を打ち払ったり、むやみに戦争をするという事をしないように、争いの調停役に回る事が多くなります。長州藩内の幕府恭順派(俗論派)を攻め滅ぼそうとする高杉晋作と、藩内で争っている場合ではないと赤禰武人は考える。戦を回避しするために長州藩内を動き回る赤禰武人ですが、いつしかその行動がスパイと勘違いされるようになっていきます。赤禰武人は高杉晋作達を裏切った訳ではなかったようですが、考え方の違いから高杉晋作との間に溝ができ、やがて居場所を無くして長州を去ってしまいます。
 赤禰武人の歴史的役割は、のちに明治政府の重鎮となった山県有朋らにより故意に抹殺されてきたらしいが、戦闘に当たっては極めて勇敢であったと云う。奇兵隊にあたって重要な存在であったことは残された史料に証されている。藩論の統一を巡り、高杉晋作らと赤禰武人の間に立場の違いから意見が合わなかったのは確かだろうが、赤禰武人は赤禰武人なりのやり方で藩を救おうと必死だったのではないだろうか?敢えて縛についたのも、どうどうと申し開きをして自分の正義を理解してもらおうとしたのではないか?


【高杉晋作との対立】

 高杉晋作の功山寺挙兵は、凡人からすれば一か八かの賭けだったわけで、周囲から暴挙と言われてもしかたがありません。成功したから良かったのですが、失敗すれは諸隊は解散、主だったものは死罪となります。組織のトップというものは、組織の存続させることが最重要であり、 一か八かの賭けで組織を潰すことはできません。対外交渉にしてもしかりで交渉の末、落としどころを探し、それでもダメな場合は武力に訴えるというのが常。赤禰武人は組織のトップとして、諸隊を存続させようと奔走したわけです。これはトップとして至極真っ当な行動でした。赤禰武人の不在の時、俗論派に命を狙われ九州へ逃亡していた高杉晋作が駐屯地にふらりと顔を出し、長州藩の正義派(改革派)が俗論派(保守派)を倒すしかないと、高杉晋作は武力突破を主張する。
「ここで兵を挙げて俗論党を討たねば我が藩は滅びる」
この言葉に軍監の山縣有朋が赤禰武人が戻るまで待つようにといさめた。また赤禰武人は「萩政府を攻めるのは、藩主に弓を引くも同じだ」と、 奇兵隊の決起に反対するが、高杉晋作は更に奇兵隊の同志を前に言ったと云う。


◆ 高杉晋作が奇兵隊の同志を前にして放った暴言

「君らは赤禰武人に欺瞞(ぎまん)せられたる者か
そもそも武人は大島郡の一土民の身
何ぞ国家の大事、両君公(藩主父子)の危急を知る者ならんや
君らは予を何と思うや
予は毛利家三百年来の世臣なり
あに武人がごとき一土民の比ならんや」


 身分や階級にとらわれない奇兵隊を創設した高杉晋作の言葉とは思えない暴言です! 高杉晋作におごりがあり、身分や階級にとらわれないとは人数を集めるための口実で、本音が出たのではないでしょうか?感情的にも激しく演説したが、諸隊の幹部の殆どが平民だった為ひんしゅくを買った部分が多く、諸隊は直ぐには動かなかったと云われている 。
 高杉晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士が暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。晋作の言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。しかし高杉は伊藤俊輔(博文)の元へ行くと、伊藤は迷うことなく高杉に賛同し力士隊20名を差し出し、そこへ遊撃隊60名を加えた総勢約80名が高杉に同調し、俗論政府を相手に藩内革命を起こした功山寺挙兵であり、これが大田・絵堂の戦いを引き起こす原因になったのである。


【赤禰武人の最期】

 幕府に捕らわれの身となった赤禰武人は、第2次長州征伐の報を聞くと、長州藩を滅亡させないために説得の使者として、新撰組の近藤勇らと共に萩へ向かいます。しかし、この時も赤禰武人は幕府のスパイだと信頼してもらえず、結局萩に入ることはできず、故郷に潜伏しているところを捕縛され、長州藩に対して不義を働いたとして処刑されます。
 この時、一切の申し開きすら許されなかった武人は、悔しさをにじませ、処刑前夜に着ていた衣服の背中に『真は誠に偽に似,偽は以て真に似たり』という辞世を残しています。『真実は偽りに似ていて、偽りは真実に似ている』自分の真意は、長州に対しての裏切りではなく、長州のためを思っての事。
それを偽りと判断されてしまった武人の無念がうかがえます。


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赤禰武人が反逆者だったとは言い難く、結果的に袂を分かった高杉晋作も、「武人の心中を洞察することができず、生命を全うさせることができなかったのは残念であった」と、病床にてその死を惜しんでいた云われている。山口に送られた赤禰武人は、一回の審問もなく、一言も弁明も許されぬまま、斬刑に処せられている。処刑後、胴体から引き出された腸は、竹に渡して鳥の餌食にされ、首は鰐石河原に晒された。
この時の長州人の武人に対する憎しみは計り知れないほど大きかったようです。たった1つのボタンの掛け違えで、英雄にも反逆者にもなってしまうのがこの時代です。幕末に散った悲運のひとりの武士の真実を、唯一、鰐石が見てきているようで何かもの悲しい。


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by kfujiken2 | 2018-06-07 09:34 | 歴史 | Comments(0)


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