長岡外史を語るとき・・・誕生の秘話
長岡外史は10才のとき、萩藩士・長岡南陽の養子となり、
明倫館を経て陸軍士官学校(旧2期)卒。明治18年(1885年)に陸軍大学校を一期生として卒業してから、陸軍軍人、政治家として活躍されたことは皆さんご存知と思います。

しかし、いずれの講演や書物に於いても、生い立ちが明らかにされていない???
何故、暗黙にされているのか図書館に行って調べてみました。
「航空とスキーの先駆者 人間 長岡外史」という冊子の中に、面白い記述を見付けました。

安政元年に起きた江戸の大地震は、ペリー来冦以上に衝撃を人々に与えた。世は騒然としていた。このような時代に長岡外史が19歳の娘・堀 時の胎内に宿った。父親は隣り村の栗屋村(周南市櫛浜町)の庄屋温品家の二男謙吉である。母の堀 時は都濃郡末武北村(下松市末武)の大庄屋堀三右衛門の妹である。
2人は相思相愛の仲であった。謙吉はのちに山口県上関町室津の小方家に養子に行き謙九郎と名を変え、第二奇兵隊の参謀として活躍する。明治維新後に上関町室津に戻り回漕業や汽船宿を営んで、現在は国の重要文化財に指定されている
四階楼(しかいろう)建てた人物である。
そんな相思相愛の仲であった堀 時と温品謙吉が結婚しなかった、いや結婚出来なかったのは、明治以前の婚姻の形態に理由があったようです。
①.嫁方の家で、婚姻生活のもたれる「婿入婚」の形式がとられていた。
②.2人の住まいは末武北村と栗屋村で隣り村の農村のコミュニティではあるが、部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。
当時の婚姻の形態を風俗的見解ではなく、歴史的見解で少し説明しましょう・・・
当時はほとんどが嫁方の家で、婚姻生活のもたれる「婿入婚」の形式がとられていた。一般的にいって婿入婚に終生的なものの二種があり、それらは婿が嫁方に住み込むものと、婿が妻問いする通い式の二つの形式に分かれる。
それは貴族社会に限らず、庶民の間でも支配的に行われた。日本では古くは男女が性的交渉をもってから共同生活を始めるまでの間に、相当の期間が存在し、その場合男が女の家に通うのが通例であった。

古典時代の結婚生活の形態は、女はただひたすら男の訪問を待つだけの受動的立場であり、授かった子種をこの世に産み落とすまでは自分の仕事だが、我が子を育てる役割は「乳母(めのと)」に委ねることが多かったし、最初の頃に通ってきてくれたきりで、以後すっかり御無沙汰になってしまう夫も、世の中には多かった・・・なにせ、「妻」は、彼女一人だけとは限らないのだから・・・古典的文物に「待つ身の女の辛さ」を嘆くものが多いのも、むべなるかな、である。
農村の婚姻の形態がこのようなものだったとすると、長岡外史の両親・温品謙吉と堀 時の間柄も同様であったと思われます。2人の家は同じような大庄屋の家柄であったし、距離的にいって末武川をまたいで2~3キロの距離にあった。当人同士は許し合い、それを当然のこととしていても、親と世間が認めなければ、正式の婚姻とはみなされなかった。
本来求婚することを『よばう』(呼ぶの意)といい、若者が夜ひそかに娘の家へ通うことを『よばい』といっている。これに『夜這い』などの字をあて、明治以降は封建的弊風のようにみられてきたが、この風習はほとんど全国の農村にわたっており、それを当然とした時代が久しかった。
当時にとっては、このようなことが唯一の娯楽であり、また恋愛の場でもあった。こうした場を通して相手を知り、意気投合すると、娘の家へ夜這いに通い、やがて結婚へと進むのが通例であった。そして、このような男女交際は若連組の承認の上でおこなわれ、親が反対しても、若連の力で推進することさえあった。昔はこうしたケースが多かったために村内結婚が主である。 部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。村の娘が他村へ嫁ぐ場合、若衆が嫁入の行列に向って石を投げたり、水をかけたりしてじゃまをする風習があった。若者組のきずなのきびしい村落共同体においては、若者頭の承認がなければ他の村へ嫁入することができない地方さえあった。
明倫館を経て陸軍士官学校(旧2期)卒。明治18年(1885年)に陸軍大学校を一期生として卒業してから、陸軍軍人、政治家として活躍されたことは皆さんご存知と思います。

しかし、いずれの講演や書物に於いても、生い立ちが明らかにされていない???
何故、暗黙にされているのか図書館に行って調べてみました。
「航空とスキーの先駆者 人間 長岡外史」という冊子の中に、面白い記述を見付けました。

安政元年に起きた江戸の大地震は、ペリー来冦以上に衝撃を人々に与えた。世は騒然としていた。このような時代に長岡外史が19歳の娘・堀 時の胎内に宿った。父親は隣り村の栗屋村(周南市櫛浜町)の庄屋温品家の二男謙吉である。母の堀 時は都濃郡末武北村(下松市末武)の大庄屋堀三右衛門の妹である。
2人は相思相愛の仲であった。謙吉はのちに山口県上関町室津の小方家に養子に行き謙九郎と名を変え、第二奇兵隊の参謀として活躍する。明治維新後に上関町室津に戻り回漕業や汽船宿を営んで、現在は国の重要文化財に指定されている
四階楼(しかいろう)建てた人物である。
そんな相思相愛の仲であった堀 時と温品謙吉が結婚しなかった、いや結婚出来なかったのは、明治以前の婚姻の形態に理由があったようです。
①.嫁方の家で、婚姻生活のもたれる「婿入婚」の形式がとられていた。
②.2人の住まいは末武北村と栗屋村で隣り村の農村のコミュニティではあるが、部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。
当時の婚姻の形態を風俗的見解ではなく、歴史的見解で少し説明しましょう・・・
当時はほとんどが嫁方の家で、婚姻生活のもたれる「婿入婚」の形式がとられていた。一般的にいって婿入婚に終生的なものの二種があり、それらは婿が嫁方に住み込むものと、婿が妻問いする通い式の二つの形式に分かれる。
それは貴族社会に限らず、庶民の間でも支配的に行われた。日本では古くは男女が性的交渉をもってから共同生活を始めるまでの間に、相当の期間が存在し、その場合男が女の家に通うのが通例であった。

古典時代の結婚生活の形態は、女はただひたすら男の訪問を待つだけの受動的立場であり、授かった子種をこの世に産み落とすまでは自分の仕事だが、我が子を育てる役割は「乳母(めのと)」に委ねることが多かったし、最初の頃に通ってきてくれたきりで、以後すっかり御無沙汰になってしまう夫も、世の中には多かった・・・なにせ、「妻」は、彼女一人だけとは限らないのだから・・・古典的文物に「待つ身の女の辛さ」を嘆くものが多いのも、むべなるかな、である。
農村の婚姻の形態がこのようなものだったとすると、長岡外史の両親・温品謙吉と堀 時の間柄も同様であったと思われます。2人の家は同じような大庄屋の家柄であったし、距離的にいって末武川をまたいで2~3キロの距離にあった。当人同士は許し合い、それを当然のこととしていても、親と世間が認めなければ、正式の婚姻とはみなされなかった。
本来求婚することを『よばう』(呼ぶの意)といい、若者が夜ひそかに娘の家へ通うことを『よばい』といっている。これに『夜這い』などの字をあて、明治以降は封建的弊風のようにみられてきたが、この風習はほとんど全国の農村にわたっており、それを当然とした時代が久しかった。
当時にとっては、このようなことが唯一の娯楽であり、また恋愛の場でもあった。こうした場を通して相手を知り、意気投合すると、娘の家へ夜這いに通い、やがて結婚へと進むのが通例であった。そして、このような男女交際は若連組の承認の上でおこなわれ、親が反対しても、若連の力で推進することさえあった。昔はこうしたケースが多かったために村内結婚が主である。 部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。村の娘が他村へ嫁ぐ場合、若衆が嫁入の行列に向って石を投げたり、水をかけたりしてじゃまをする風習があった。若者組のきずなのきびしい村落共同体においては、若者頭の承認がなければ他の村へ嫁入することができない地方さえあった。
by kfujiken2
| 2018-09-03 09:04
| 歴史
|
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