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説明がその①と重複している所があるかも知れませんが、その点はお含みおきながらお読み下さい。 ◆ 毛利秀就公出生の秘話と二の丸様の苦悩と悲哀 通説では秀就は文禄4年(1595年)に広島で生まれたとされているが、異説として天正19年(1591年)に長門厚東郡四ケ小野村(現在の宇部市小野地区)で出生したとの説がある。これは、宇部市小野地区に残る古文書に「秀就は小野村で生まれた」との記述があることから小野郷土史懇話会の会員が調査したもので、厚東郡小野村の領主であった財満家の文書や伝承から、財満忠久・就久父子の屋敷が出生地であると結論づけた。この説によると、輝元の正室・南の方を非常に恐れていた側室の二の丸殿は、懐妊が発覚すると秘密裏に財満家に匿われて、そのまま密かに出産したとされる。 輝元が二の丸様を要害の地として小野村を選び領主財満就久に身辺保全を頼んだのは、嫉妬深い正室の南の方や長門長府藩主・秀元を取り巻く家来から殺害されることを懸念したとおもわれる。 数多家臣のいる中において、側室二の丸の隠棲と嫡子の出産問題で、頼りにして白羽の矢を当てたのが財満就久は、領民の自主性を重んじ官民が一体となって政を行い、領民からも慕われていた。特に領内にあった数多の宗派を浄土真宗一派に統一して、宗教活動を通して領民のわだかまりやもめごとの無い、和やかで平和の村を建設していた。 また、出生後の処置について小早川隆景に相談した記録も発見された(財満家文書)。財満屋敷跡がある同地には、秀就の誕生時に使われたという「産湯の池」や暗殺を逃れるための「穴蔵」などが残るほか、村人たちが秀就の成長を高良神社で祈願したとの伝承も残っている。 毛利秀就公出生の地の案内板と説明石碑 毛利秀就の誕生に縁起する財満家と毛利輝元側室の二の丸様の苦悩と悲哀について書かれた説明看板です。 二の丸様の顕彰碑 二の丸様の戒名 快楽院栄誉周慶大姉 慶長九年八月一日没 行年 三十二歳 二の丸様の石造 子供の頃から美人の誉れ高かったそうですが、何をモデルに造られたのでしょうか? 二の丸様の心情を詠まれた 【二の丸悲愁 中尾岳奨作】 馬乗り石 幼い頃の秀就は、この台石の上から馬の鞍に乗せてもらい、乗馬を楽しんでいたと考えられる。その後、この石は縄や草履などを作る時の「藁打ち台」に利用したとか。 「産湯の池」 この池は出産に用いられた「産湯の池」とされている。 若宮神社 敷地内に秀就の御胞衣を祀るとされる若宮神社がある。
by kfujiken2
| 2019-05-25 10:48
| 歴史
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Comments(1)
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