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西国の山城: 鞍掛山城 標高240mの鞍掛山の尾根に築かれた実戦的な山城である。築城年代は不明。大内氏の家臣・杉氏の居城。近隣には、すぐ北に椙杜氏の蓮華山城、南側には小方氏の瀬田城がある。弘治元年(1555年)に、陶晴賢が厳島の戦いで討死し、同年より毛利氏が周防・長門国への侵攻を開始した(防長経略)。その際に城主であった杉隆泰は、毛利元就の勧告に従い降伏。しかし、蓮華山城の椙杜隆康が、大内氏と杉隆泰の内通を元就に訴えたため、毛利軍は鞍掛山城を攻めた。 【鞍掛山城跡(鞍掛山山頂)】『ウィキペディアより』 父の杉宗珊とともに籠城した隆泰がよく抗戦したため、毛利軍主力は山口方面に侵攻すると見せかけて蓮華山城へ兵を入れ、早朝に城の背後から奇襲を仕掛けた。 不意を突かれた鞍掛城籠城軍は、混乱に陥って壊滅。毛利氏に降って城攻めに加わっていた瀬田城城主・小方元康の手で隆泰も討ち取られ、鞍掛山城は落城した(鞍掛合戦)。 その後、鞍掛山城は廃城となった。 毎年11月には「鞍掛城まつり」が催されている。また城下には討死した者を弔った千人塚があり、そこには宇野千代の句碑が立っている。 【鞍掛山城跡の場所】 史跡鞍掛合戦千人塚 今から約450年前、弘治元(1555)年11月14日守護大名大内氏の家臣杉隆泰・公宗珊一族郎党2600人は、戦国大名毛利元就・吉川元春・小早川隆景一族郎党7000人を迎え撃ち戦いました。しかし、多勢の無勢、杉氏一族は奮戦むなしく無念にも討ち死にし、鞍掛山城は落城しました。城主父子の墓は祥雲寺にあり、部下将兵 一同はここに千人塚として合葬されている。 当時、領主杉隆泰は、玖珂盆地周辺に3万石を有していました。この谷津の地には、合戦の後、戦死者を弔うための積み石塚がいくつか造営されました。昭和8(1933)年3月14日、玖珂町が残存状態の比較的よい積み石塚の3基を改修して、花崗岩製の墓柱を建立しています。昭和63(1988)年、南端の1基について、玖珂ライオンズクラブが積み石塚を覆う基壇を設置する改修工事を実施しています。 【史跡 鞍掛戦死者之碑(鞍掛合戦千人塚)】 【鞍掛合戦千人塚の説明板】 【宇野千代女史の「史蹟 千人塚に想ふ」と題した追悼碑】 【千人塚背後の積石塚】
by kfujiken2
| 2019-06-29 06:56
| 歴史
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Comments(1)
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