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※ 平安時代の宴会の作法
日本の古い習慣では、宴会は非常に厳格な作法があり、酒宴でも客が席に着いたところでただちに酒が出るのではなく、はじめに高坏にもてなしの料理を載せ全員に運び終わると、次に酌人が上席から酒をついでまわり、これを「一献」という。次に第二台の料理である。そして同じように酒をつぐと「二献」が終わる。ついで「三献」が始まって座を閉じ、正式の宴は終わる。この三日間は、殿中の燈篭、灯台の明かりは消さないのが吉例で、宮廷民間ともにそうであった。 4 鎌倉・室町時代 上代(奈良時代ごろを指す)以来の一夫多妻の慣習は中世でも行なわれた。鎌倉時代には三妻まで持つことが許されていた。婚姻年齢については規定がなかったが、上流の間では、早婚が行なわれていた。婚姻には、許婚(婚約)と嫁取りの2段の形式を踏んだ。公家の間では上代以来の婿取り婚が行なわれていたが、平安時代の半ば以来、武士の間で女が男の家に入る嫁迎え婚が行なわれるようになった。元来武士の生活は素朴・質素を信条として武士は同格の相手を求めるのであるが、結婚したからといって自分の土地を離れる訳にはいかないので、自然と女が男の家に入るようになった。しかし公家では伝統的に婿取り婚であるので、公家と武士の間での結婚では問題が生じたが、武家が力を占めるようになると、公武からなる嫁入りが行われるようになった。 婚姻は家の問題で、血縁関係と姻戚関係が重要な結束の紐帯だと考えられ、幕府が介入したり、大名が介入したりした事例はごく少数だった。 政略結婚が戦国時代から顕著になり、家臣掌握の手段として家臣の婚姻を規制した。家の存続にプラスとなるかどうかを検討し、慎重に相手選びをしていた。近世の農村女性の結婚は中世から引き続き、家と家の結びつきを主な目的にし、後継者づくりを結婚に期待した。 武士の結婚と違って、幕府や領主の許可は必要でなかったが、領主の異なる村や町の間の農民の結婚の場合は、相手の領主や村名主に届け出ることが必要だった。上層農女性の場合、正式な結婚は仲人が必要であり、親族による縁談相手の家格や経済力、その他の調査をし、本人はその決定に従った。 農村では同じ村で顔なじみなので、自由な恋愛がしやすかった。 婚姻は家が同格なのが基本だが、家格が合わないと反対されたとき、若者組が嫁盗みをして応援した。夜這いを重ねていたからこそではないでしょうか。
by kfujiken2
| 2019-10-12 07:22
| 未分類
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