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洞春寺は1404(応永11)年に大内氏第26代盛見(もりはる)が開基となって天下泰平、家内繁栄の祈願所として国清寺(こくしょうじ)を創建しました。1431(永享3)年、盛見が筑前で戦死をし、国清寺を菩提寺として葬られました。国指定重要文化財の山門が当初の姿を今に残しています。 毛利氏が防長に移ってからは、毛利隆元(元就の長男)の菩提寺だった常栄寺となり、後に毛利元就の菩提寺として洞春寺と改称されたややこしい歴史があります。現在の洞春寺本堂は、江戸時代に焼失して再建されたものですが、山門は国清寺創建当時のものと思われます。 ◆ 現存する洞春寺の山門は、大内氏の国清寺時代の遺構で、禅風の特色を表わした室町期の四脚門で桧皮葺による山門で国の重要文化財。 山門に掲げられた寺号扁額 山門をくぐると右側にある森永杉洞句碑 【この門を 入れば 涼風 おのずから 杉洞】 ※ 森永杉洞(本名堪堂、1900~1975)僧侶、俳人。15歳で出家。南禅寺管長の資格を持ちながら、望んで伊万里市の円通寺の住職で生涯を送る。 ◆ 本堂手前にある中門 ◆ 洞春寺観音堂 洞春寺の境内にある。桁行三間(7.97m)、梁間三間(7.51m)の一重裳階(もこし)付の建物で、入母屋造りで、もとはこけら葺きであったが現在銅板で葺いている。この堂は1430年(永享2)に大内持盛が開基となり山口市滝に建立した観音寺の本堂として建てられたものであり、観音寺は江戸時代に大通院となったが、幕末には衰退して本堂一宇だけが辛うじて残っていた。その後荒廃が甚だしくなったので、1915年(大正4)に現在地に移築された。建物の手法は禅宗様で、柱の上下に粽(ちまき)、窓が特殊な曲線をもつ花頭窓(かとうまど)、扉が桟唐戸(さんからど)、内部の床が土間など、従来の和様の寺とは違う手法が見られる。また下層の軒が板軒であること、上層の垂木が大まばら垂木であることなども特異である。内部の須弥壇(しゅみだん)および岩屋造りの厨子(ずし)も建物と同時代のものとされ貴重である。 ◆ 中門の右側にある鐘楼門 洞春寺鐘楼門は、下層は通り抜けの門、上層は鐘楼という「鐘楼門」とよばれる造りをしている。 製作者・製作年代ともに不明だが、蟇蛙の手法や材の摩耗・腐朽の状態から、江戸時代中期の建築と思われる。 ◆ 本堂の裏側に井上馨の墓所(分霊塔)があります 井上馨の墓所は東京・麻布の長谷寺にありますが、その分骨を分けてつくられたそうです。 ここは四境戦争(第二次長州征伐)時に、長州藩の諸隊である鴻城軍(井上馨が総督)の駐屯地にもなったそうです。 ◆ 日産コンツェルン創始者・鮎川義介墓所(分霊塔) 多磨霊園に鮎川義介の墓所があるそうですが、洞春寺に分霊塔があるのは井上馨が大叔父という関係でしょうか?
by kfujiken2
| 2020-01-30 11:41
| 歴史
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